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「日本近代美術史論」を読む 15  藤島武二  外国人への差別的扱いに…

2024-05-19 02:00:25 | 日記
A.遅い絵画留学生
 明治時代に欧米に留学し、西洋の新知識を学んで日本に帰り、それぞれの分野で開拓者・指導者となった人は数多いというけれど、明治維新から10年ぐらいの時期に、20台で西洋を体験した人の多くは、新しい国家の輿望を担って頑張って勉強したのであろうけれど、明治も30年代後半になると、西欧留学の意味合いはだいぶ変わってきて、永井荷風のように半分は親の資産で遊び半分の遊学を楽しんだ人も出てくる。でも荷風は20台の若さだったが、ここでとりあげられている藤島武二の場合は、欧州留学は39歳という年齢で、すでに画家としては実績のある中堅の地位を得ていた。ヨーロッパで美術館をめぐっても、新たな発見や刺激を受けるというよりは、洋画家として自分がどういう立ち位置をとるか、じっくり考える機会にはなっただろうと思う。略歴を確認する。
 藤島武二(1867(慶応3)年~1943(昭和18)年)は、薩摩国鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)の薩摩藩士の家に生まれた。鹿児島造士館、東京仏語学校に学ぶ。はじめ四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶ。のち24歳の時、洋画に転向(日本画の作品は殆ど現存しない)。松岡寿・山本芳翠らに師事。1893年(明治26年)から3年間、三重県尋常中学校(のち県立第一中学校,津中学校,現・三重県立津高等学校)の助教諭。1896年(明治29年)、1歳年上の黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推され以後、没するまでの半世紀近くにわたり同校で後進の指導にあたった。本郷駒込曙町(現・本駒込1丁目)で画塾も開いていた。そして、1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ1月18日渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。ただし、パリからローマに移った直後の空き巣被害で、フランス時代の作品の大半を失っている。1910年1月21日帰国後、5月13日に美術学校教授に就任。 その後、川端画学校でも教授を務めた。黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。

「明治二十年代中葉から三十年代にかけて、すなわち、西暦で言えばちょうど1890年代という世紀末の時期に、きわめて「世紀末的」感受性を豊かに備えた藤島武二が画壇に登場して来たことは、藤島武二自身にとっても、わが国の近代美術にとっても、幸運なことであったと言わなければならない。周知のように、わが国の近代洋画史は、ちょうど藤島武二が「桜狩」の力作を発表した明治二十六年に帰国した黒田清輝が、ラファエル・コランに学んだ印象派アカデミズムを日本にもたらしたことによって新しいページがめくられることになるのであるが、藤島武二は、黒田清輝を先頭とするその日本外光派全盛の時期に、早くも「天平の面影」や「蝶」のような浪漫主義的抒情性の強い装飾的構成の作品を発表して、遠く西欧の象徴派やラファエロ前派の画家たちに呼応する活動を見せていたのである。
 むろん、だからと言って、藤島武二にとって、黒田清輝の外光主義が無用であったというのではない。明治三十年代において、作品傾向の上から藤島武二に最も近い存在であった青木繁の作品と比べて見て「天平の面影」や「蝶」がはるかに明るい色彩を見せているのは、やはり何と言っても黒田清輝の強い影響力の故であろうし、事実、明治美術会時代の「桜狩」と白馬会時代の「天平の面影」や「蝶」などとの画風の差異はしばしば指摘されるところであるが、しかしそれにもかからわず、惜しくも今日失われてしまった「無惨」以来「蝶」にいたるまでの彼の作品に一貫して認められる「世紀末的感受性」とでも呼ぶべきものを私は重要視したいと思う。明治美術会系の画家たちも外光派の画家たちも、つまり当時の呼称をそのまま借りれば、新派も旧派も旺盛な制作活動を続けていた明治三十年代が、日本洋画史の上でしばしば浪漫主義時代と呼ばれるのは、もっぱら藤島武二と青木繁の二人の活動の故であるが、今からふり返って見てきわめて新鮮な活躍ぶりを示したこのふたりが、黒田清輝などとは逆に、いずれも西欧世界を知らなかったということは、はなはだ暗示的である。というのは、アール・ヌーヴォーとか、ユーゲントシュティルとか、モダン・スタイルというような名称で呼ばれる世紀末芸術は、例えば印象主義のような絵画技法ではなく、かつてボードレールがロマン主義とは主題でも技法でもなくて感受性だと喝破したのと同じような意味でひとつの新しい感受性であり、次代の雰囲気であって、それだけにアトリエの技術のように手をとって教えるものではなく、自己のレーダーによって感応するものだからである。つまり、明治三十年代における青木繁や藤島武二の存在は、たとえ粗末な複製や写真版を通してにもせよ、西欧の新しい感受性に感応するだけの鋭敏なレーダーを備えた芸術家が日本にもいたということを、はっきりと証しているのである。そのかぎりでは、九年間もフランスに滞在してたっぷり西欧の空気を吸って来た黒田清輝よりも、日本にいた藤島武二や青木繁の方が、かえって西欧の新しい感受性に敏感に反応したとさえ言えるかもしれない。
 もちろん、それが時代の雰囲気でああったとすれば、西欧の世紀末の感受性は単に絵画の世界を通してのみ伝えられたわけではない。それどころか、より広い視野から見ればそれは絵画よりもむしろ文学を通して遠い極東の国まで伝えられて来た。もともと、西欧においても、絵画から文学を徹底的に追放しようとした印象派の画家たちとは逆に、世紀末の画家たちは文学との密接な結びつきを示した。わが国においても、例えば藤島武二は、ピュヴィス・ド・シャバンヌやルドンの複製を通じてと同時に、おそらくはそれ以上に、『明星』のグループとの交際を通じてこの西欧の新しい感受性を感じ取ったに違いない。そして何よりも、藤島武二自身が、ほんのわずかな電波でも敏感にキャッチするだけの鋭い感受性に恵まれていたのである。
 「天平の面影」や「蝶」のような明治三十年代の藤島武二の傑作を生みださせる契機となった西欧の世紀末芸術の影響については、これまでかならずしも十分に論じられてはいなかった。むしろその点は、『明星』グループとの関係において、文学の分野から注目されて来た。例えば、日夏耿之介は、『明治浪漫文学史』(中央公論社 昭和二十六年刊)において、藤島武二の描いた『みだれ髪』の表紙とフランスの世紀末芸術であるアール・ヌーヴォーとの関係をはっきりと次のように指摘している。

 「藤島武二は青年画家の雄で又明星派専属の画人の一人であつたが、彼の物したアアル・ヌウヴォ画風の太い線を使つたハアト形の中に女人のプロフィルをあらはして、赤い征矢の突きさされたる尖きから小さい花が三つ咲き出た図柄の表紙があたかもその頃のはやりの浪漫画風である。本もとアアル・ヌウヴォといふ画風はパリに発生したとする説と、巴里の影響でアメリカに発したとする説とがある。何れにしても、三十年代中盤数年間は悉有ゆる雑誌単行本のデザインがこのデコラティヴな太い線を効果的にかこんだ画風一色で塗りつぶされたのである。‥‥…」

 もうひとりの世紀末芸術家青木繁が大変な読書家であり、文学青年であったのに対し、藤島武二は、有島生馬氏の語っている通り、どちらかというと文学青年ではない。その彼が、この『みだれ髪』の表紙をはじめ、数多い『明星』の表紙や挿絵において、あれほどまで見事にアール・ヌーヴォ―を消化することができたのは、それだけアール・ヌーヴォーに対する親和力が強く働いたということであろう。それは、たとえもう十年長くフランスにいたとしても、おそらく黒田清輝には考えられないところである。ふたりの天性の資質の差異は、ここにもはっきりと現れていると言ってよい。
 だが、あまりに強烈な感受性の持主は、自己の感覚に溺れすぎる危険がある。「わたつみのいろこの宮」の画家の場合がそのいい例である。青木繁は、一面において忠実な現実の観察者であったが、いったん現実の歯止めを失った時には、自己の幻想に溺れて止まるところを知らなかった。同じようにロマン派的心情と鋭い感受性に恵まれていた藤島武二も、もしかしたら同じ運命を辿ったかもしれなかった。しかし藤島武二においては、青木繁の場合と違って、自己の感覚世界にかぎりなく溺れて行こうとする成功を抑制するいくつかの歯止めがあった。そのひとつは、若い頃六年間にわたって本格的に修業した日本画の素養であり、もうひとつは黒田清輝を通して学んだ自然観察であり、そして最後の、最も重要なものは、明治三十八年から四十三年にかけての満四ヵ年にわたるフランス、イタリア滞在である。
 明治三十年代の浪漫主義を絵画の分野において支えたのはもっぱら藤島武二と青木繁だったということはすでに述べたが、「天平時代」を描いた時、青木繁はようやく二十二歳であった。だがその同じ年に「蝶」を発表した藤島武二は、すでに四十歳に近い年齢に達していた。若々しい青春の情熱と結びついた浪漫主義という呼び名は、二十二歳の青年にこそふさわしいが、不惑を目の前にした官立学校の先生には似つかわしくない。しかしわれわれは、何となく「天平の面影」や「蝶」の作者に、初い初いしい若さを感じる。それは、これらの画面がどこか夢見るような新鮮な情熱に満ちているからに違いないが、それと同時に、当時早くも美術学校の洋画科の主任教授であり、白馬会の総帥として洋画壇の中心人物であった黒田清輝に比べて、藤島武二は画壇への――少くとも洋画家としての――出発が遅く、三十年代になってようやく人々に知られるようになった事実上の新進画家であったということも強く作用しているに相違ない。事実、当時の人々も、藤島武二と言えば、黒田清輝などよりずっと若い画家と受け取っていたようである。例えば、明治二十九年、白馬会の結成によって洋画界が大きくふたつに割れた時、『毎日新聞』は「新旧二派の対戦」と題して、次のような戯文調の一文を掲載している。
 「処は上野、時は十月、両者運動の第一挙を見るべし、熱誠の心血を四辺の秋錦に擬へて、白馬を展覧会の陣頭に繰出で、紫旗を金風に翻しつつ悠然と進むは白馬会なるべく、黒田清輝、久米桂一郎、合田清、小代為重、安藤仲太郎、佐野昭の面々を初め、青年画家には和田栄作、岡田三郎助、藤島武二、其他の諸俊才其勢凡数十人……」(匠秀夫著『近代日本洋画の展開』昭森社 昭和三十九年刊より引用)
 つまり、黒田清輝、久米桂一郎の両巨頭に対し、藤島武二は、和田栄作や岡田三郎助などとともに「青年画家」のなかに入れられている。黒田、久米はともに慶応二年生まれで、フランスから帰国した年も同じという仲であるから、白馬会結成に際してこのふたりが中心になったのは当然であり、和田、岡田はともに天心道場における黒田清輝のいわば子飼いの弟子であったから「青年画家」と言われるのも理解できるが、藤島武二は、黒田、久米とはたったひとつしか違わない慶応三年の生まれであり、白馬会結成と同じ年に東京美術学校の助教授になるまでは、黒田清輝とは多少知り合っていた友人という程度で直接の師弟関係はなかった。年齢的に見れば、藤島武二は他の「青年画家」たちより、ずっと黒田清輝に近いのである。しかも、画歴から言っても、彼の修業期間は黒田清輝よりずっと長い。その彼が、当時すでに画壇の中心であった黒田清輝に対して「青年画家」と見られたことは、洋画家としてのそれまでの実績が少いというもっともな理由はあるにせよ、やはり当時の画壇の錯覚であったと言うべきであろう。われわれは、そのような錯覚を返上して、黒田清輝と同世代の画家として、藤島武二を見なければならない。そのためには、ここで彼のそれまでの生活を振り返ってみる必要があるであろう。
 藤島武二は、慶応三年(1867年)黒田清輝と同じく鹿児島市に生まれた。父は薩摩藩士であったが、早世し、もっぱら母の手で育てられた。この母方の蓑田家の祖に狩野常信の門人としてその腕を知られていた絵師常僖がおり、島津家のお抱え絵師を勤めたという。その後も、この蓑田家に何代か画家が出ているようであるから、少年武二の天賦の画才は、母方の血統から受け継いだものであろう。事実、彼は早くから画才をあらわし、小学校時代には北斎漫画や長崎渡りの油彩画を模写したりした。時の文部卿田中不二麿が教育視察のため鹿児島を訪れた時、選ばれて席画をしたというくらいだから、彼の才能は早くから人々に認められていたわけである。
 彼の正式の絵画修業は、県立鹿児島中学校在学時代に、四条派の画家平山東岳の門に入った時から始まる。その後、明治十七年、黒田清輝が法律の勉強を志してフランスに渡った年に鹿児島から東京に出て、いったん帰郷した後、翌年再び上京して、円山派の画家川端玉章の弟子となった。早くから人並み優れた天賦の画才を示していたこともあり、体が弱かったという理由もあって、彼が画家になることには、何らの反対もなかったようである。彼は玉章から玉堂という雅号を与えられ、明治二十年には、東洋絵画協会主催の共進会に「説色美人図」を出品して一等褒状を受けるまでになった。さらに、二年後の明治二十二年の青年絵画共進会にも、時代風俗美人画を出品して褒状を与えられ、その上、当時の帝国博物館総長九鬼隆一の買い上げをも得たというのだから、画家としては、まずは順調な出発であった。
 ところが、明治二十三年、二十三歳の時に、彼は突如それまで学んでいた日本画を棄てて、洋画に転向するようになる。日本画家として、すでにきわめて幸先の良い出発をした藤島武二が、なぜ急にここで洋画に「転向」するようになったか、その理由については普通には、うつ向いて制作する日本画の遣り方が、病弱の藤島武二には辛かったからだと言われている。これは、上に触れた「思ひ出」のなかで、彼自身が、川端塾での修業時代のことを語った後、
 「そんな次第で暫く稽古を続けて居たが、絵の具を指で溶いたり、絹を張ったり、上に板を渡してうつむいて描いたりすることはどうも具合が悪るく、矢張り洋画をやって見たい気が止まらなかった」(前掲書より)
 と言っているのにもとづいているのだが、しかし、おそらく理由はそれだけではない。というよりも、もっとも重要な理由は、やはり彼が日本画の表現にあき足らなかったという点にあるに違いない。そのことは、洋画に「転向」して後、藤島武二がどのような作品を描いたか、つまり彼が洋画に何を求めたかを思い返してみれば明らかである。
 すでに本論の最初に述べたように、藤島武二は、特に初期においては、濃密な感覚的表現を好んだ。例えば花を描いては、単にその形状色彩のみならず、その柔らかい花弁の肌触りや、艶麗な香りをも表現しようと望んだ。このような生まなましい表現は、日本画のよくするところではない。日本画の花は、華麗な色彩に輝いているとしても、いわば抽象化され、様式化された架空の存在であって、現実の花の持つ冷たく湿った花片の感触や濃いむせかえるような香りなどを伝えてはくれない。わが国において、現実の花を素材とする華道という特殊な芸術ジャンルが発達したのは、絵画の世界で花があまりにも抽象化された存在となっていることとおそらく無縁ではないのだが、いかに装飾的に見事なものであっても、そのような抽象化された表現では、感覚派の藤島武二は満足することができなかったのである。とくに彼が上京して日本画を修業した明治十七年から二十三年にかけての時期は、いわゆる伝統絵画復興の時代で、工部美術学校は閉鎖され、新設の東京美術学校には日本画科はあっても洋画科はないというほど、洋画が振るわなかった時期である。もしどちらでもよいのなら、画家として世に立つ上で、日本画の方がはるかに容易でもあり、有利でもあったろう。それを敢えて何年間か学んだ日本画を棄てて分の悪い洋画に転向するというのは、よくよくのことである。画家藤島武二のなかに、日本画の表現ではどうしても満足しきれないものがあったと見るほうがはるかに自然な見方だともいえるであろう。
 しかしながら、六年間の日本画の修業は、彼にとって無駄ではなかった。それは、油絵具という極めて粘っこい、肉感的な素材を扱う場合にも、その肉感性に溺れ切ってしまわないだけの節度を彼に与えた。彼の画面が、つねに見事な装飾的構成を保っているのは、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌや象徴派の影響もさることながら、日本画家としての六年間の修業がものを言っているのである。もっとも、西欧の世紀末芸術には、よく知られている通り日本の浮世絵版画などの影響があるのだから、もともとそれは同根の果実だと言ってもよい。この点に関しては、藤島武二のデッサンの教え方について、次ぎのような興味深いエピソードがある。彼が美術学校で教えていた頃、生徒たちが石膏デッサンでうまく形がつかめずにいろいろな線をひいていると、藤島武二はそれを見て、一言も説明せず、ただ一本大切な線だけをぐいと画面に引いて、自ずから生徒に会得させたというのである。このように、本質的な輪郭線によって対象をはっきりと把握する遣り方は、期せずしてゴーガンの綜合主義の技法と同じであり、そのままナビ派の平面化された装飾性につながるものである。そしてそれがまた、黒田流の外光主義を通り抜けた後の「天平の面影」や「蝶」における藤島武二の様式でもあることは言うまでもない。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980年、pp.350-358.

 すでにみた横山大観や菱田春草など日本画家の道を歩んだ人たちの欧米歴訪とは違って、はじめ日本画家として出発し、途中で洋画に「転向」するという道を歩んだ藤島武二の作品は、若くしてフランスで画家になった黒田清輝とはずいぶん違ったのものだったのは、当然ともいえる。


B.外国人は「二級市民」?なの
 前回書いたように、このブログでは新聞に掲載された記事や意見を全文引用するのは、著作権侵害になるという惧れがあるので、これからは間接的言及か、短い部分引用で触れていくことにする。今回はその第一回なので、朝日新聞に載った小説家・李 琴峰さんの書かれた寄稿について触れたい。タイトルは「隣に暮らす外国人」となっていて、外国籍で日本で暮らす芥川賞作家の立場から、現在日本政府が法改正をすすめようとしている外国人の永住資格の取り消し策について反対意見を述べている。台湾出身で2013年に来日し、日本語で小説を書いている李さんは、自分のこれまでの生活体験などに触れ、外国人に冷たい排外的な日本といわれるが、社会制度と法制度だけを見るかぎり外国人と日本人の格差はあまりなく、かなり平等になっていると感じているという。日常生活でも外国人だということを意識せずに暮らせているのは、外見が日本人と変わらず、日本語も普通に話せるから、ということが大きいだろうが、日本人がとくに外国人に差別的だという印象はないという。
 問題は、それだけに政府が考えている法改正の理不尽に、批判を表明する。その箇所だけ引用すると…
「私が今の暮らしを送れるのは、差別撤廃のために闘った先人たちのおかげだ。日本でさえ、国民年金は1982年、国民健康保険は86年まで、外国人は原則入れなかった。先人が勝ち取ってきた平等と、穏やかな暮らしがずっと続くのだと、私は信じていた。
 そんな希望が、打ち壊されようとしている。政府は今、税金や社会保険料の未納や滞納を理由に、永住資格を取り消せるようにする法改正を検討している。外国人労働者を増やそうとする中で、外国人を「選別」しようという思惑が透けて見える。それを知った時、私は国からこう言われた気がした。「確かにお前を住まわせているが、日本人と同じ生活者だと認めたわけではない。お前はいつまでも日本人より格下だし、国が守るべき対象ではない」と。
 振り返れば、そういう不安は前からあった。コロナ禍で渡航制限が敷かれ、永住者を含む外国人の入国が認められない時期があった。もしあの時たまたま海外に行っていたら、私が自分の家に帰ってこられなかった可能性は十分にあった。今でも、万が一海外でテロや戦争、事故に巻き込まれても国が退避を手伝ってくれないだろうという諦念がある。
 とはいえ、コロナ禍やテロ、戦争は非常事態だ。ところが、今回の法改正は、非常時ではない、普段の日常生活を脅かそうとしている。私は、自分が努力して築いてきた生活基盤を根本から揺るがされていると感じた。
 あなたはこう思うのかもしれない――義務を果たさない人は、出て行って当然なのでは?と。
 私は税金なんて払わなくていいと言っているわけではない。未納や滞納者には法律に従って督促や差し押さえをしたり、行政罰などのペナルティ―を科したりすればいい。悪質な脱税には、刑事罰も用意されている。
 私は聞きたい。日本人だろうと外国人だろうと、同じ法で平等に裁けばいいのではないか? 外国人に対してだけ、生活基盤となる永住資格を剝奪する正当な理由はどこにあるのか? それは、永住者を「同じ生活者」として見ていない証左ではないだろうか? 自らの意思で移り住んだ大好きな国で、私はいつまで「二級市民」で「追い出していい存在」と見なされなければならないのだろうか?」朝日新聞2024年5月17日朝刊15面オピニオン欄。
 さらに続けて、外国籍でも日本で生まれ育った人もいれば、貧困で税金や社会保険料が重い負担になる人もいる。それは日本人と変わりないし、外国人だというだけで「選別」され日本にいられなくなるのは、理不尽だと述べる。これはまったく正当な考えだと思う。思い起こせば、かつて1980年代に労働力不足を補うため、外国人労働者を入れるかどうか議論になった時、反対した鎖国派の論客の主張は、外国人を大量に入れたら日本人の雇用が脅かされ、日本社会は大混乱に陥るというものだった。そして今、日本はたくさんの外国人が働き暮らす社会になった。鎖国派が心配した事態になっているか、といえばそんなことではないと思う。むしろ、外国人を差別せず平等に扱うことの社会的重要性は高まっていると思う。
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