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「日本近代美術史論」を読む 5  黒田清輝(続) 憲法集会

2024-05-04 17:23:12 | 日記
A.日本の「洋画」アカデミズム
 近代西洋の絵画および彫刻工芸なども含む美術教育の基礎になったのが、フランスで1648年にルイ14世のもとで作られた「王立絵画彫刻アカデミー」いわゆる「サロン」である。それまで職人ギルドの工房などで作られていた美術品が、国家の権威付けのもとに教育制度のかたちで取り込まれ、彫刻デッサンを典型とする技術教育と選抜による職業的画家の養成を行うようになる。これが、公募制で審査評価するシステムになって定着するのがフランス革命後の19世紀前半、アングルの新古典主義が君臨する。アカデミー「サロン・ド・パリ」の正会員になることが美術家の成功の印であり、ここからくる美の基準がアートを支配するようになる。
 日本人黒田清輝は、パリでこのサロンに出品し入選するだけの実力を示した。そして帰国して、東京美術学校の洋画科(油画科)創設に関与して日本版アカデミーの中心に座ることになった。フェノロサと岡倉天心が創設した美術学校は、西洋の美術アカデミーが規範とする新古典主義的な美学や写実主義に対して、東洋的絵画の復興を指向する日本画科から出発していたが、黒田の到来でいわゆる油絵の近代化を教育として打ち建てる道に進んだ。それは、端的に木炭鉛筆の石膏デッサンと色彩と形態の平面構成を、学生に習熟させる教育になる。
 ちなみに現在の東京芸大美術学部の学科試験後の2次の実技試験の内容(2023年度入試)をみてみよう。日本画専攻(定員25名)は鉛筆素描および着彩写生、油画専攻(定員55名)は素描、絵画(素描・油彩)、面接。彫刻科(定員20名)は素描と彫刻、工芸科(定員30名)は鉛筆写生、平面表現、立体表現。デザイン科(定員45名)は鉛筆写生にデザインⅠ(色彩)とデザインⅡ(形体)、建築科(定員15名)は空間構成と総合表現、先端芸術表現科(定員24名)は素描または小論文、総合実技。芸術学科(定員20名)は外国語、地理歴史、小論文および鉛筆素描。鉛筆素描というのはブルータスなど石膏像のデッサンまたは構成デッサン(平面構成)である。鉛筆素描の試験時間は、日本画が9:00~15:30、油画が10:00~15:00、デザインが9:00~16:00、これを通過した受験生の第2次試験は、2日から3日間かけて行われる。
 多くの大学入試が、一日で数科目の筆記試験なのに対して、実技を必須とする美術大学では、数日かけた実技試験を課している。これは音楽学部や音大でも似たような楽器や聴音の実技試験が中心である。

「東京美術学校の西洋画科の成立にあたっても、黒田の考えは一貫して同じである。基礎的な訓練として最初にまず石膏や人体をモデルとしたデッサンを学ばせるが、しかし次の段階ではそこから進んで明確な構想にもとづくコンポジションを勉強させる。その際、例えばひとつの手段として歴史画のようなものを課題として与えるが、もしできるなら、「愛」とか「智識」というような抽象的なテーマをいかに構想するかというところまで行けば望ましいと考える。この辺の黒田の口ぶりには、「仮令ば智識とか、愛とか云ふ様な無形的の画題を捉へて、充分の想像を筆端に走らす」ことこそが、まったく正反対の絵画観である。
 はっきりした骨格と明確な思想をそなえたコンポジションを作りあげること、別の言葉で言えば、絵画に思想を語らせるというこの理念こそ、黒田が西欧絵画の伝統に触れて学び取ったものであり、日本に移植しようと試みたものであった。すでにパリ滞在時代に、彼は西欧絵画の持つこの知的、思想的性格に惹かれて、父親に次のように書き送っている。
 「……当地にてハ人の体を以て何ニか一の考を示す事有之候 先づ私の教師の画を見ても春と云様なる題にて草花の咲き出て居る中ニ丸はだかの美人がねて居りながら何ニ心なく草葉を取りて口ニくわへたる様をかき又夏の図として数多の女が園中にて或ハ花を摘み或ハそれを頭ニかざしねたるもあれば立たるお有り又池中に遊び来る者もありといふ画をかき候 此等の図は余程気分高尚ニして且筆がよくきゝ候ハでハ出来難き者ニ御座候……(中略)……教師が美人を画て春と題したるを心得なき人ハ見て只草の上ニはだかの女がねころび居るかなと思ひ熱帯地方の野蛮人ハともかくも欧州などにて女が裸体にて芝原に臥すると云事ハなしなどゝ色々馬鹿な評を下す可候 併し教師ハ春の心地を画きたるにて今咲き初めたる花と云様な美人の体を画きたる也 即ち此の春ハ人の精神中ニのみ存する春にして教師と同じ感じを持ちたる人が此の図を見る時ハ云ニ云ハれぬ愉快を覚る事に御座候……」(明治23年4月17日付書簡)

 ラファエル・コランは、1880年代のヨーロッパに支配的であったやや感傷的な象徴主義に深く浸されていたとしても、「人の体を以て何ニか一の考を示す」という点においては、西欧絵画の伝統を受け継いでいた。そして、他の留学生仲間たちが(そしてさらには後に日本の画家仲間が)裸体表現そのものや、あるいは明るい外光の表現に幻惑されていたのに対し、黒田はその裸体や外光の奥にある西欧の伝統をはっきりと捉えていた。土方定一氏の指摘するように、画家としての天分から言えば黒田はコランよりもずっと恵まれており、そしておそらくは彼自身もそのことを自覚していなかったわけではなかったとも思われるのに、彼が飽くまでもコランを師と仰いでいたのは、彼がコランのなかに感じ取ったこの伝統的なものの手応えのためである。とすれば、黒田のコランとの出会いは、もはや西欧の三流画家との出会いではなく、西欧の伝統そのものとの触れ合いであったと言わねばならない。
 黒田がコランを通して西欧絵画の伝統的骨格にまで触れることができたのは、黒田の鋭い洞察力とその理知的性格をよく物語るものである。そして、例えばコランとピュヴィス・ド・シャバンヌを比較してみれば、シャヴァンヌの方がはるかに優れた芸術家であることを百も承知の上で、なおもずっとコランに師事し続けたのは、黒田の現実的感覚を示すものである。単に技術的な側面だけにかぎらず、西欧の伝統的な絵画理念そのものが問題となるかぎり、コランから学ぶべきものはまだいくらもあったからである。
 しかしこのようにして黒田が的確に捉えた西欧絵画の理念を日本に移植することは、決して容易なことではなかった。もともと西欧においては絵画の本道と見做されていた寓意画というジャンルが日本においてはついに発達しなかったことを想えば、「思想をもった絵画」を日本に根づかせることは、きわめて困難な事業であった。まして西欧においてすら、この種の絵画は、「余程気分高尚ニして且筆がよくきゝ候ハでハ出来難き」ものであったとすれば、なおのことそうである。黒田自身も、その難しさをよくわきまえていたに相違ない。それなればこそ、彼は、持ち前の現実的性格を発揮して、段階的に西欧絵画の理念を移し入れることを考えたのである。
 草原に横たわる裸体美人によって「春の心持」を表現しようと思えば、まず草原や裸体美人を適確に描き出す技法が要求される。天真道場における「聖像臨写活人臨写」の稽古は、まさしくそのためのものであった。すでにあの有名な「朝妝」の制作にあたって、「日本における裸体画に対する後進的な先入観念を打開したい」という啓蒙的な意図があったことは、隈元謙次郎氏の指摘する通りである(前掲書参照)。しかし、黒田のこのような現実的配慮は、必ずしも所期の効果を挙げることはできなかった。裸体画の導入はただちに社会的、風俗的問題を惹き起こしたし、「塑像臨写活人臨写」の技術的訓練は、ただちに新しいレアリスムとして受け取られて、「新派」と「旧派」の対立をもたらした。裸体画の風俗問題の方はある程度まで予期したことであったかもしれないが、色彩とかデッサンとかの技術的問題における新旧両派の対立は、黒田にとってはおそよ心外なことであったようである。新派旧派の対立が日本の美術界の大きな話題となって、当然彼もその渦中に立たされることになった時、彼は両派の技術的差異はいろいろな機会に解説しているが、そのどちらでなければならないということは慎重に断定を避けている。黒田にとっては、新派と言い旧派と言うも、所詮は技術上の問題であって、日本の洋画の根本理念にかかわるものではなかった。むしろ彼は、ひとびとがあまりにそのような技術的問題にかかずらわって、精神的骨格を無視しているかのように思われるのが何よりも不満であった。彼にして見れば、西欧絵画の最もオーソドックスな理念を日本に移植することが何よりの急務であって、そのためのほんの第一段階に過ぎない「写生」のあり方について議論を闘わすことなど、およそ見当違いもはなはだしいという気持ちだったのである。
 彼のこのような態度は、明治36年2月20日の『美術新報』紙(第1巻第22号)に掲載された『日本現今の油絵に就て』と題する彼の談話に、はっきりとうかがうことができる。
 「……わが洋画家が近来の作品を実見しかつ其の挙動を窺うのにイヤ紫がどうだとか、或は黒ッぽいの白ッぽいのとわけも無く騒ぎ廻って、その色の如何によって彼は新派なり 渠は旧派なりなどとの名称を下してゐるが(傍点原文)、僕などは斯んな解らない馬鹿げた話は無いと思ってゐる、否な思ってゐる所ではない、斯う云ふ頭脳の連中が沢山なのだから、いくら日本に於ける洋画の進歩発展を図るの促すのと云つたッて、却々大抵のことでは無い、余程しつかり遣ら無くッては駄目だ……(中略)‥…唯色のみに就て無暗に八ヶ間敷く云つてゐる連中が、今日洋画家の多数を占めてゐるのは、随分情け無い話ではないか、想ふに斯う云ふ人達は、単にその色の遣ひ方の如何は直ちに油絵の巧拙を分かつものと心得てゐるらしい、尤、色の遣ひ方の巧拙乃至使用する色の如何は、無論型式の美に大関係を及ぼすものには相違ないが、爾も之が油絵の目的では無い、然り、決して其精神とすべきものでは無いのである、畢竟新派と号づけられ、旧派と称せられるも或る物を捉へて或物を現はさんとする其手段方法の用具に基いて命名されたもの、即ち形式上の甲乙に過ぎないのである。新旧両派の名称もかゝる墓ない点から付けられる筈のもので無く考の着け所の上からこそ何派々々と云うふことも出来るのだ‥…(中略)……外形を装飾せんが為めの色の遣ひ方のみに気を揉んで、其画の根蒂たる精神と云ふ事に就て余り深く顧る者の多からぬのは、僕らの大いに憂ひとする所である(傍点高階)……」

 黒田がここで「画の根蒂たる精神」と言っているものが、とりも直さずわれわれが上に「思想的骨格」という言葉で呼んだものである。それは、主題や構図や意味内容を含めた広い意味での「コンポジション」と呼ばれるもので、黒田が正当に指摘する通り、わが国の近代洋画において最も欠けているものである。黒田は、理論の上ばかりでなく、実作の上においても、その欠如を埋めようとした。パリ滞在時代に描き上げた「朝妝」をはじめとして、帰国後制作された「昔語り」や「智感情」のような大構図が、西欧的な意味での「コンポジション」にあたるものであることは言うまでもない。そして、これらの諸作が黒田清輝の最も優れた作品であるかどうかは別として、少なくとも彼が最も力を注いだ作品であることは疑いない。(「昔語り」の感性に先立って、彼は明治31年1月から8月まで逗子に滞在したが、その逗子から友人の久米桂一郎に宛てた5月8日付の書簡のなかで「何か知らん拵へようと思って気計りあせつて居るが未だ何も思い付かない」と述べている。この逗子滞在中に黒田は、富士山や海辺を描いた見事な小品をいくつも残しているが、彼にとってはそれらはいわば単なるスケッチであって、ほんとうの作品は、何か「思ひ付」いて、「拵へ」上げるものであったのである)
 しかしながら、黒田のそのような努力にもかかわらず、彼の意図した西欧的構想画は、ついに日本には根づかなかった。それは、ひとつには黒田自身、人並み優れた理解力と描写力を持っていながら、構想力において欠けるところがあったという理由によるものでもあるが、しかしそれ以上に、日本の画壇にその種子を育てる精神的風土が、鷗外の言う「雰囲気」がなかったからである。黒田の試みの挫折と彼自身の作品の微妙な変質とは、この日本的風土がもたらしたものだったのである。
 林文雄氏は、「『舞姫』と『朝妝』」と題する興味深い論文(『美術とリアリズム』八雲書店刊に収載)において、鷗外と黒田清輝のこの代表的な二つの作品を、わが国近代の文学史上、美術史上の指標的作品として対応させ、その歴史的意味と限界とを分析している。「舞姫」が雑誌『国民の友』の附録に発表されたのは明治23年のことであり、「朝妝」が明治美術会の展覧会に出品されたのは明治27年のことである。いずれも、明治期における新しい「近代的リアリズム」の表現であったが、その表面的な新しさとは裏腹に、内容はおそろしく「非近代的」なものであった。「舞姫」は、題材においても描写のスタイルにおいても画期的に新しいものであり、その内容も、少なくとも前半は、貧しい踊子との自由な恋愛という「近代的・革新的」なものであったが、その結末において、主人公は自分の栄達の道を歩むために愛人とその胎内のわが子を棄てるという「ヒューマニズム蹂躙の物語」になってしまった。そのような結末をもたらしたものは、直接的にはドイツにおける鷗外自身の体験であったが、同時に、二葉亭の「浮雲」や透谷の「禁囚之詩」のような近代文学の萌芽を圧しつぶしてしまった「資本主義勢力」が鷗外のこのような態度を支持したからだと林氏は主張する。
 一方黒田の場合もほとんど同じようなことが起った。「朝妝」は、それ以前に描かれた「読書図」や「厨房図」に比べて、「無感動に写生された美しい職業モデルの姿」を示すものにすぎず、「有閑階級のサロンを飾るにのみふさわしい冷たい裸体画」である点で、「舞姫」の結末の非人間性に通ずるものがあるというのである。「言ってみれば、さきの『読書図』『厨房図』が小説『舞姫』の前半部に相当するとすれば、この『朝妝』はそのヒューマニズムの後退ないし欠如のゆえに、正しく『舞姫』の後半部に相当するものであった……」
 そして林氏は、このような「朝妝」が日本の画壇の圧倒的支持を受け、そのため高橋由一の「花魁」や「酒」に見られる近代的リアリズムの芽がおしつぶされてしまったと考えるのである。
 高橋由一の「花魁」や「酒」に後継者がなかったのは、必ずしも黒田の成功のためではない。前章で見たように、高橋由一の場合は、高橋由一自身の晩年の時期にすでに、あの緊張感に満ちた迫真的な美しさは失われてしまっていた。しかし、由一の場合はさておいて、鷗外の「舞姫」と黒田の「朝妝」のあいだに、ある種の対応関係があることだけはたしかである。ふたりともほぼ同世代に属しており、いずれも「定見なくして」西欧に渡り、西欧の雰囲気のなかにたっぷりと浸って青春時代を過ごした。そして、西欧の持っていた本格的な芸術形式を何とかして日本に移植しようと努力した点でも、あい通ずるものがあるからである。
 私は「舞姫」が「ヒューマニズム蹂躙の物語」であるとも思わないし、まして「朝妝」が林氏の言うような意味で反ヒューマニズム的であるとも思わない。しかし問題は実はそこにあるのではない。鷗外と黒田といういずれも豊かな天分に恵まれた芸術家がその力のかぎりを注いで試みた西欧の伝統的芸術理念の移植が、いずれの場合も結局は流産してしまったという、その点にこそある。しかもそれは、林氏の言葉を借りるならば、「舞姫」は「文壇の歓呼のうちに登場し」「朝妝」は「画壇の圧倒的な支持をうけた」にもかかわらずなのである。
 そのことは、一面では鷗外や黒田の才能の質とかかわり合いがあるのかもしれない。黒田と同じように、鷗外も鋭い理解力と適確な表現力を持っていながら、構想力においてはやや欠けるところがあった(彼が、翻訳や史伝においてあれほどまで優れた成果を挙げることができたのはそのためである)。しかし、「舞姫」や「うたかたの記」において、西欧の近代小説の移植を試みた鷗外が「洋学の盛衰を論ず」を発表した頃から、次第に身辺雑記的な私小説に近いものか、あるいは心境小説に向って行ったというのは、決して単に鷗外個人の才能の故のみとは思われない。黒田清輝の場合も、ほぼ同様な変貌が明瞭に指摘できるからである。「舞姫」と「朝妝」以後の鷗外と黒田の変貌の類似性の方が、私にとってははるかに興味深い。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980年、pp.86-98.

 このへんは、日本へ西欧先進文化を持ちこもうとした明治の優秀な帰朝者たちが、結局日本と西洋の文化的壁に引き裂かれて挫折に終るという一例に収まってしまうのかもしれないが、鷗外も黒田も最後は、東洋の伝統回帰で落ち着いたという話ではないと思う。


B.憲法記念日の新たな意味
 コロナ禍で憲法記念日の「護憲派」の集会が開けなかったが、今年は東京臨海防災公園で3万5000人(主催者発表)の大規模集会が開かれた。一方、改憲推進派の集会は、自民党、公明党、日本維新の会に国民民主党の幹部が並んで、緊急事態条項をめぐる改正原案の作成に賛同し、岸田首相がビデオメッセージを寄せて改憲の意欲を示した。世論調査などでは、改憲賛成派も30%程度になったが、9条改憲とくに自衛隊の明記には賛成しても9条2項自体の削除は、国民世論の過半数は難しいとみられるから、自民党はとりあえず緊急事態などの抵抗の少ない条項だけ一回改憲して、国民の抵抗感を摩耗させようと狙っているみたいだ。しかし、今のめろめろ自民党崩壊直前状態で、とても改憲発議と国民投票は無理だろう、というのが大手マスメディアの無難な日和見路線か。戦争体験者は年々減少するけれど、軍隊や空襲体験だけでなく、戦後の占領下での記憶と、新憲法の登場が当時の若い人たちにどんな気持ちで受け止められたか、という記憶も語ってほしい。

「「平和集会で77年前の「憲法冊子」掲げ 「9条は戦争で殺された人たちの魂」
  富山大空襲体験の奥田さん 母の形見と一緒に保管
 「中学3年の時に街を歩いていたら、もらいました」。4月下旬、東京都府中市の平和集会で富山大空襲の体験を語った奥田史郎さん(91)=同市=が、セピアに色あせた冊子を掲げた。憲法が施行された1947年5月3日に発行された「新しい憲法 新しい生活」だ。 (橋本誠)
 米軍が目標面積の99.5%を焼き尽くした45年8月2日の富山大空襲。奥田さんは集会で「熱い風が吹き、空は真っ赤」「妹たちが『お母さんが死んだ』と叫んでいた。ざくろみたいに頭が割れて血だらけに」「トラックで運ばれた死体を見つけ、石油で焼いた」と語った。同15日には、負けたことより戦争が終わった方にショックを受けたという。「子どもの頃から、天然現象のように未来永劫続くと思っていた。母が帰るわけでもなく、ちっともうれしくなかった」
 「新しい憲法―」は国会議員らでつくる「憲法普及会」編。家庭向けの解説書で、全国に2千万部も配られた。「もう戦争はしない」と武器をゴミバケツに捨てるイラストが描かれ、同年8月発行の中学生向け教材「あたらしい憲法の話」を思い起こさせる内容。富山県高岡市の路上で受け取った奥田さんは取材に「うれしかった。男の子だから戦争が続いていたら行く。二十歳まで生きられないと言われていたから」と振り返った。
 母親の形見の帯の生地などとともに77年、保管してきたという。 「憲法9条は戦争で殺された人たちの魂。世界中でどのくらいの人が死に周りに家族や縁者がいたか、思いをいたしてほしい。悼む心が憲法をつくらせたと思います」」東京新聞2024年5月2日朝刊17面特報欄、話題の発掘。

 戦争体験や敗戦後の記憶が、ただステレオタイプの悲劇や苦労としてだけ語られるのでは、歴史の真実として後世に伝わらない。現にいまもウクライナやガザで、起こっている殺戮と悲惨を生きている人とつながることができるとすれば、ぼくたち自身の過去にちゃんと向き合う記憶の再発見が必要だ。
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