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「日本近代美術史論」を読む 9 フェノロサ  Lookismの愚

2024-04-28 14:34:01 | 日記
A.日本に影響を残したアメリカ人
 明治維新で西洋近代文明を摂取する必要を感じた日本政府は、当時先進的学術文化を急いで輸入するために、まずは西洋の優秀な人材を教師として日本に呼び、若者にその思想と技芸を伝授してもらおうと雇ったのが「お抱え外国人」教師だった。彼らは当然日本語はできないから、授業は英語あるいは仏語・独語などで行った。学生はまず洋書を読み話す能力を要求された。
 アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853~1908年)もそのひとり。アメリカ合衆国、マサチューセッツ州セイラム生まれ。父親はスペインのマラガ生まれの音楽家でフリゲート艦の船上ピアニストとして渡米し、アーネストが生まれた。彼は地元の高校を卒業後、ハーバード大学で哲学、政治経済を学ぶ。先に来日していた動物学者エドワード・シルヴェスター・モースの紹介で1878(明治11)年、当時25歳で来日し、大学予備門(現東京大学)で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じた。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、嘉納治五郎、井上哲次郎、高田早苗、坪内逍遥、清沢満之らがいる。以上のようにフェノロサの専門は政治学や哲学であり、美術が専門ではなかったが、来日前にはボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はもっていた。
 やがて日本画に深相関心を寄せ、弟子の岡倉天心とともに美術学校の設立など、日本の美術行政、文化財保護行政にも深く関わることになった。

「フェノロサの「美術真説」については、今ここで改めて述べる必要はあるまい。それはこれまでにもしばしば解説されてきたし、原文(といってもむろん英語の原文ではなく、講演筆記による龍池会蔵版のもの)も全文『明治文化全集』に収録されている。
 そのなかの日本画洋画比較論は、一般的に絵画の鑑識、批評の基準となる十箇条の絵画成立条件を論じた後に出て来るもので、フェノロサは、次の五点にわたって、両者の優劣を論じているている。
 第一、油絵は日本画に比べるとはるかに写生的であるが、しかし写生は絵画の善美の基本ではない。むしろ写生を重視して絵画の本質である「妙想」(ides)を見失うのは、絵画の退歩であり、近年の欧州の画家や日本の応挙などはこの弊に陥っている。
 第二、油絵には陰影があるが日本画にはそれがない。物には本来陰影があり、物を描く以上陰を描くのは当然のようだが、しかし絵画では必ずしも陰影がなくても構わない。むしろあまり科学的に陰影を追求すれば、それに力をとられて、「妙想」を発揮し得なくなる。その点日本画はわずかの墨だけで「妙想」を現わし得る。
 第三、日本画は輪郭線を用いるが油絵にはそれがない。むろん現実の物にははっきりした輪郭線などないが、実物の写生的支配を受けない絵画においては、それは線の美しさを増し、「妙想」を精確に表現する長所がある。欧米の画家でも近年輪郭線を用いるようになった。
 第四、油絵は日本画に比べて色彩の豊麗濃厚を誇るが、色彩は絵画の全部ではない。あまり豊富な色彩に没頭して「妙想」を忘れてしまっては何にもならない。
 むろんこれは、講演の筆記をさらにここで要約したものであるから、これだけでフェノロサの美学を云々するのはいささか無理であろうが、しかしそれにしても、その議論の進め方が雑であるという印象は否定しきれない。少なくともそれは、公平な立場から日本画洋画の優劣特質を論するというよりも、すでにある一定の立場に立って無理に結論を導き出したという感じが強い。例えば、油絵の色彩について、色彩が絵画の全部ではないというのなら、同じことは、日本画の線についても言い得るはずで、線描は絵画の全部ではない。油絵に、豊富な色彩に没頭して「妙想」を忘れてしまう危険があるとすれば、日本画にも、線の遊びに没頭して「妙想」を忘れてしまう危険があるはずである。第二点の陰翳論にしても同じことで、彼は、陰翳を追求し過ぎて「妙想」をおろそかにする危険を責めているが、陰翳を巧みに用いて「妙想」を発揮し得る場合もあることは、奇麗さっぱりと忘れている。つまり、最初から日本画を賞揚して洋画を貶めようという意図があまりに明白である。久富氏が、「これは日本画と洋画の比較ではない、洋画の攻撃であり、日本画の弁護である」としてその党派性を指摘されたのはきわめて正当と言わねばならない。
 しかしながら、「東洋一般ト西洋ノ絵画」とを比較検討するというフェノロサ自身の歌い文句を無視してこの五点の比較論だけを注意して読めば、実はそれが「洋画攻撃論・日本画擁護論」ですらないことが明らかとなるであろう。事実、ここでフェノロサが「比較」しているのは、日本画洋画を問わず、絵画芸術全般に関するふたつの異なった見方、ふたつの異なった美学なのである。
 すなわち、上記の五項目の比較論のうち、最初の二項で論じられているのは、いわゆる写実主義の是非の問題である。フェノロサはここで、写生は絵画にとってかならずしも必要でないばかりか、あまりにその追求に没頭すれば、かえって「妙想」を損なうことがあるという理由で、写実主義に反対している。もちろん、ごく一般的には油絵は写生を重んじ、日本画はかならずしも写生を中心としないから、写実主義の是非の問題は、そのまま洋画日本画比較論とすっぽり重ね合わされるように見えるが、しかし、たとえ日本画においても写生を重んずる場合はあり得るわけで、そのような場合、例えば、現実には応挙の一派など、フェノロサによってはっきりと断罪されている。つまりフェノロサにとっては、絵画の最終目的は飽くまでも「妙想」―-すなわち精神的、思想的内容を持った構想―-の表現にあるので、その基本的目的を忘れて写実に没頭することは、洋画、日本画を問わず彼はこれを否定しているのである。
 第三、第四の論点である線描と色彩の問題にしてもまったく同じことで、フェノロサは、洋画を否定して日本画を擁護しているというよりも、色彩の美学を退けて線描の美学を押しているのである。むろんこの場合も、ごく一般的には油絵は色彩の美学で日本画は線描の美学だということが言い得るが、しかし油絵でも線描を重んずる場合があることは、フェノロサ自身「欧米ノ画家近年頻ニ鈎勒ヲ施スノ法ヲ用ヒントス」と言っている通りである。
 そして第五の「繁雑・簡潔」は画面構成の問題であるから、それも油絵、日本画に本質的なものではなく、大体においてそういう傾向が見られるというに過ぎない。フェノロサはただ、「繁雑」よりも「簡潔」を選ぶと言っているのである。
 とすると、この五項目の比較論は、
(1)  絵画の主題の問題(写実・妙想)
(2)  造詣要素の問題(線描・色彩)
(3)  画面構成の問題(繁雑・簡潔)
 という絵画美学一般の問題に還元されてしまうこととなる。これは、もはや洋画日本画の比較の問題ではなく、西欧絵画の歴史においてはすでにしばしば問題とされて来たところである。
 すなわち、この五項目の比較論でフェノロサが主張していることは、実は「色彩を重んじた繁雑な構成の写実主義絵画」よりも、「線描を主とした簡潔な構成の構想図」の方が優れているということで、そうとすれば、事の是非はともかく、一応筋の通った美学論だということになる。ただ、その美学上の区分をそのまま洋画と日本画に重ね合わせてしまったところに問題があり、混乱があったのである。
 つまりここでフェノロサが攻撃したのは、あらゆる流派を含めた洋画一般ではなく、単に「色彩を重んじた繁雑な構成の写実主義絵画」にほかならなかった。それは具体的に言えば、十九世紀中葉の近代写実主義絵画、特にバルビゾン系統の風景画やクールベにはじまる社会主義的風俗画のことであって、同じ洋画と言っても、例えば、ルネッサンス期の古典主義絵画についてはフェノロサはつねに高い評価を与えている。いや十九世紀の西欧がであっても、例えばダヴィッドを中心とする新古典派や、その影響を受けた理想主義的なナザレ派のように、線描表現を重視し、思想を造形化しようとした画派は彼の攻撃の対象になっていない(上記比較論の第三項で、近年欧米の画家でも輪郭線を用いるようになったと述べているのは、新古典派およびその流れを受けた人々のことを念頭に置いていたのであろう)。いやそれどころか、写実よりは思想を、色彩よりは線描を、多様さよりは統一を主張するフェノロサの美学は、新古典主義の理論を受け継いだ当時のサロン・アカデミズムの美学そのままといってもよいほどなのである。
 フェノロサのこのような考え方は、「美術真説」のみならず、それ以後の彼の講演や批評のなかでも随所に指摘することができる。例えば、第一回再興鑑画会の講評のなかで、

 「……絵画ハ三項ヲ以テ成ルモノト云フヘシ第一高尚ナル感情第二之ヲ画形ニナスヘキ思慮第三之ヲ実行スル事是ナリ言ヲ換テ之ヲ言ハゝ第一ニ意匠第二ニ智識第三ニ伎倆之ナリ此三項ノ中感情ハ絵画妙想ノ基礎タルヲ以テ之ヲ最モ重要トナス」

 と語っているのもそうであるし、第二回鑑画会の際も、次のように述べて写実主義を徹底的に否定している。

 「裸体の下等婦人の画を以て人心を感動せんと欲するも得べけんや平凡の児女猫犬其他即悪軽卒なる事物を描て以て精神を高尚にせんと欲するも得べけんや葡萄之盃を写して以て人心を鼓舞せんと欲するも得べけんや……現今泰西の画家は只実物を模写するを目的とす近世日耳曼の画家数名及現今一二の英国画家を除くの外は一般に概ね理学の事実に拘泥し美術の形状を有せず亦之を欲せざるなり」

 ここで彼が挙げている「近世日耳曼の画家」はおそらくラファエロ前派であろう。当時の西欧美術をリードしていたフランス絵画は、写実主義の風靡していた時代であった故に、フェノロサからあっさりと否定されてしまっているのである。
 もちろん、フェノロサがこのような古典主義的絵画美学の持ち主であったというそのこと自体は、別に驚くにはあたらない。それはむろん彼の独創ではないし、それどころか、1860年、70年代にニューイングランドの知的雰囲気のなかで育てられたアメリカの若者にとっては、きわめて自然なことであった。久富氏が指摘しているように、当時のアメリカは、「古典主義的なアメリカのアカデミーが未だ画壇を支配していて、コローやミレーすらも殆ど受け容れられなかった」ような状況だったからである。だがそれにしても、フェノロサがそのような古典主義的美学を滞日中もずっと保ち続けたということは、彼の日本画復興運動を理解する上で、重要な鍵を与えてくれるであろう。
 なおフェノロサの写実主義に対する態度については、彼が時にこれに反対し、時にその有用性を説くということで、当時から誤解されたところがあったようである。例えば、市島金治は、
「……先生(フェノロサ)の説は変幻極りなくして了解する能はず、例へば先年万千楼に於て演舌せられたる時分は、日本画は写生を為したる為大いに衰へたりとて、応挙容斎の輩を擯斥せられ,又文人画は写生もせず物の形に頓着せざる所のみ美術に協へりなど、盛んに主張せられしが、其後に至り、日本の画家は写生をせぬのが欠典なりと称し、頻に狩野家の諸氏に写生を勧められると聞く……」

 と述べているし、久富氏も、「美術真説」の写生排撃論から、普通学校教科用図画の調査報告における写生支持論への移行を、彼の「豹変」であり、「矛盾」であると指摘している。
 しかし、古典主義美学を奉ずる以上、写実主義を目的とすることには飽くまでも反対しながら、手段としての写生の有用性を説くのはむしろ当然のことであって、それを「矛盾」と見るのはかならずしもあたらない。それらははっきりと次元の違う問題だからである。少なくともこの点に関するかぎり、フェノロサは見事に首尾一貫している。ただ、その言い方に誤解を招くような危険があったことは、後に『国華』に発表された論文「美術ニ非ザルモノ」のなかで、彼自身認めている通りである。

 高橋由一との出会いから「美術真説」の講演にいたるまでのほぼ二年ほどのあいだに、いったい何ごとが起ったか、フェノロサ自身直接にはほとんど何も語っていない、と私は前に述べたが、『中国および日本美術の諸時代』のなかにきわめてわずかながら、、この時期に関する重要な叙述が見られる。それによると、明治十三年、フェノロサは、おそらく最初のかなり大がかりな奈良京都旅行を行なっているのである。もっとも、その旅行に関する記述というのは、次のような実にさりげないいくつかの断片的なものである。
 「日本におけるグレコ・ブディスト(ギリシャ的仏教)美術の最初の偉大な実験が行われたのは、おそらくは奈良平野の西部、積砂が堆積して丘陵を形成しているその直下、現在の郡山市のやや北方にあたる場所であった……。ここで、私は、1880年に、多くの仏像の破片や興味深い廃物のあいだに、グレコ・ブディストのオリジナル――にもとづく試み――と思われる等身大の像を一体発見した……」
 「(法隆寺)法堂の諸像は、多くは鍍金を施した三尊像で、等身大よりやや小さいものである……。(その最良のグループの)菩薩は、頭髪の一部と左腕が欠けているが、肩から流れ落ちる衣紋の美しい造形的戯れは、ローマ皇帝の彫像を思わせるものを持っている。1880年に私が最初にそれを発見した時から私はそれを親愛してずっと『シーザー』と呼んでいた……」

 以上のほか、同じ著書のなかに、やはり1880年(明治十三年)に正倉院と京都の東福寺を訪れたことが述べられている。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980年、pp.189-196.

 フェノロサのやった仕事は、日本政府が期待した西洋学術の明治日本への直輸入、ではなく、日本画の発見と復興という伝統文化に深く入り込んだ変革を、日本の若い才能を育てる基礎を作ったことにあるとされる。しかし、25歳で来日したフェノロサにその出会いを実りあるものにしたのは、彼の古代ギリシャ美術から19世紀古典主義までの西洋的美学の伝統を、日本の伝統美術の中に見出したことにあった、と高階先生は見ている。


B.ルッキズムになぜ傾いてしまうのか
 人の評価に外見、つまり見た目の美的形姿が確かに影響している、という感覚は誰しもぬぐいがたい。だが同時に、それを過剰に言い立てることは、人格の毀損または差別につながることも、現代では常識になっている。だから、表立っては否定されるけれども、社会のあちこちに、あるいはマスメディアのはしばしに、ルッキズムは根深く存在している。これはそれぞれが、努力して考え克服していく課題だと思う。そうしないと、自分は美しいか、つまり他者からみられた自分は美しい、とまではいかなくても、醜いと見られていないかという幻惑に囚われて愚かな装飾に精を出すようになってしまう。そんなことより、人生にはもっと大事なことがあるのだと、若い人には早く気づいてほしい。

「どこから差別 境界引けぬ  戸谷 洋志 さん 哲学者 
 人の外見について思うことや判断は誰しも持ちうることです。では、どこから差別になってしまうのか。
 「Lookism」の「ism」は主義や立場と理解されますが、判断の偏りを指すこともある。ルッキズムという言葉は多義的で、単に「誰かが美しい」と言っているだけか、それともその評価によって美しい人にだけ権利をあたえて美しくない人から権利を奪っているのか、吟味する必要があります。
 たとえば、友達の髪形について「いいね」と言うのはいいけれど、髪型がイケていないから友達のコミュニティーに入れないとしたら、それは外見で不当に排除されています。外見を不公正に重視し差別につながることが、批判されるべきルッキズムと考えます。
 企業の採用活動など、外見の評価が全て許されないわけではないでしょう。その場に合った身だしなみや振る舞いも含めるなら、ほぼ全ての面接担当者が就活生を外見で評価していると思います。ただ、客観的な根拠があればまだしも、「顔がかわいいから採用」など、権力をもつ側が恣意的に就活生を支配するような評価ならば、ルッキズムの暴力性の問題です。
 相手をコントロール可能な対象としてまなざすことの脅威、評価することの暴力が、ルッキズムの根底にあります。
 私自身、外見に囚われた経験があります。大学教員になって間もない頃、外見に対して思考を停止しようと心がけていたのに、長いネイルやラフな格好の学生に対しては不愛想に、まじめに見える学生には好意的に接していたと思います。誰に対しても同じように、話しかけやすい態度を取るべきだったと反省しています。今は学生を外見でみなさず、公平に接するよう心がけています。
 ルッキズムに陥らないような外見の評価を可能にするとすれば、みる側が事前に定める客観的な基準に従って、公正な評価がなされなければなりません。外見以外にも、それぞれの人がもつものが評価されるよう、指標が複数ある状態を作ることが大事だと思います。
 とはいえ、この基準さえクリアしていればルッキズムにならない」という境界は引けません。相手の外見に対して何かの評価を下そうとするなら、どのような場面であっても、ルッキズムになるかもしれない、という自制心をもって発言すべきだと思います。 (聞き手・佐藤美鈴)」朝日新聞2024年4月27日朝刊13面オピニオン欄。
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