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「日本近代美術史論」を読む 16 山本芳翠  iPSの新展開

2024-05-22 08:09:49 | 日記
A.早すぎたのか遅すぎたのか
 19世紀のなかばに日本は開国して、西洋への渡航が可能になり、明治維新で文明開化をめざした。鉄道や電信や機械や金融などの技術は、外国語を読めて意欲がある若者なら短期間の留学である程度使える水準に達し、帰国して期待に応え活躍する道を歩むことになった。だが、文化的背景がまったく異なる西欧社会で、思想や文学、そして芸術といったものは、単なる技術だけではないから、応用以前にそのエッセンスを理解するには、西欧社会の基礎にあるキリスト教やギリシャア・ローマ以来の人間観まで知る必要がある。かなり早い時期にフランスに留学し、当時もっとも権威ある美術教育を受け、十年も費やして画家としての技量と実績を養った人がいた。
 山本芳翠という名は、今のぼくらはほとんど知らない。この高階秀爾『日本近代美術史論』では、錚々たる明治の歴史に残る画家たちを、その作品と人物に即して独自の評価を与えているのだが、最後にとりあげた山本芳翠については、もともと『季刊芸術』に発表されたときは含まれておらず、文庫化に際して別に書かれたものを合わせていまの形になっている。山本芳翠の作品はあまり残っておらず、フランスで同時期に絵を学んだ黒田清輝に比べて、大きな評価の違いがある。それが、彼の能力の問題ではなく、ある意味で山本芳翠は、優秀で真剣にアカデミックなフランス絵画を学び取ったゆえに、次代に遅れてしまった。その不幸を、日本の近代化の悲劇としてどう考えるかの見本ともいえる。

「山本芳翠がフランスに留学したのは、明治十一年春から同二十年夏まで、ほぼ十年に及ぶ期間であった。年齢から言えば、数え年で二十九歳から三十九歳までのあいだのことである。
 この時期は、西暦で言えば、1878年から1887年までにあたる。つまり、パリでは、1874年に第一回の展覧会を催して大変な悪評を受けた印象派のグループが、次々と展覧会を重ねて行って、ようやく人々に認められようとする頃であった。印象派グループ展は、そのメンバーには若干の変更があったが、1874年以来、前後八回開かれている。その最後の第八回展は、芳翠の帰国の前年、1886年に開かれたから、芳翠のフランス留学は、ちょうど印象派の擡頭期と一致するわけである。
 しかしながら、だからといって芳翠が印象派の技法を学んだというのではない。今でこそ美術の歴史は、1870年代、80年代をもっぱら印象派の画家たちの活躍した時代としているが、現実には、当時は印象派というのは、ほんの一部のかぎられた愛好者を持つに過ぎなかった。少なくとも芳翠がパリに着いた1878年という時点においては、いわゆる官学派(アカデミー派)の勢力の方が支配的であった。芳翠がパリで国立美術学校の教授であったジャン・レオン・ジェロームノアトリエに学ぶようになったのも、当然と言えば当然のことであったろう。
 だがそのことが、日本の近代洋画史における芳翠の位置をやや曖昧なものにしたことは否定できない。現在では、川上冬崖や高橋由一らのいわゆる初期洋画家たちの歴史的役割りに対する高い評価と、黒田清輝に代表されるいわゆる新派の華やかな活動のちょうど中間にあって、芳翠の姿はいささか影が薄いように思われる。フランス滞在中、三百点もの作品を集めて個展を開いたというほど制作に熱中していながら、その作品がきわめてわずかしか残されていないという不幸な事情も、彼の評価に対してマイナスの作用を及ぼした。しかし、例えば、「臥裸婦」である。この作品は、フランス滞在中に描かれたものであるが、その後ずっと公開されず、数年前、隈元謙次郎氏によってはじめて『美術研究』(昭和四十年三月号)誌上に発表されたものである。
 芳翠の対仏時代と言えば、少くとも明治二十年以前である。このような見事な裸婦像が明治十年代に日本の画家によって描かれたということは、考えてみれば驚くべきことであろう(それはむろん、黒田清輝のあの「朝妝」が裸体画論争を惹き起こすよりはるかに前のことである)。私は何も、「裸婦」という主題のことだけを言っているのではない。もちろん、もし芳翠のこの作品が、描かれたというその時点において日本で公開されたとしたら、そのテーマだけでも大変な論議を呼んだであろうことは想像に難くない。黒田清輝の帰国する以前において、日本の洋画家たちの大同団結を図った明治美術会は、芳翠の帰国後、明治二十二年に結成されたが、洋画家たちばかりの集まりであるその明治美術会においてさえ、例えば明治二十四年に裸体美術問題の討論会を行なった時、浅井忠のような人が反対論を主張した時代である。芳翠の「臥裸婦」は、たとえ公開しようと思ってもどこの展覧会でも引き受けなかったに違いない。
 しかし、問題はテーマだけではない。この作品では、すでに西欧的な対象把握や空間構成がはっきりと実現されている。高橋由一のあの「鮭」の連作や「花魁」とは、明確に違った世界がそこにはある。しかも、「鮭」や「花魁」とこの「臥裸婦」よは、おそらく十年と隔たってはいないのである。
 私は先に、この「臥裸婦」のような作品が明治十年代の日本人画家の手によって描かれたというのは、驚くべきことだと言った。しかし、それは、1880年代にジェロームの弟子によって描かれたものとして見れば、少しも不思議ではない。このような喰い違いは、もはや芳翠個人の問題ではなく、歴史の問題である。あえて言えば、芳翠のこの「臥裸婦」のなかに、日本の近代が背負いこまなければならなかった歴史への負い目がこめられている。明治の先覚者たちは誰でも、多かれ少なかれそのような負い目を背負いこまなければならなかったが、芳翠の場合は、そのなかでも特に悪い籤を引きあてたように私は思われるのである。
 芳翠山本為之助は、嘉永三年(1850年)美濃国恵那郡明智村に生まれた。高橋由一(文政十一年生)より二十二歳ほど若く、黒田清輝(慶応二年生)よりは十六歳年長である。前後ほぼ四十年ほどを隔てたこの由一と清輝のちょうど中間の世代に生まれたということが、芳翠にとって、最初の負い目であったと言うことができるかもしれない。彼は、由一のように日本の洋画の先駆者となるにはいささか遅く生まれ過ぎ、清輝のように洋画の移植者となるにはいささか早く生まれ過ぎたのである。
 このような一種の「中途半端」な状況は、芳翠の生涯につきまとっていたように思われる。彼は早くから絵事を好んだが、明治元年十八歳の時にようやく京都に出て、小田海僊の門人久保田雪江について南宗画を学んだ。ところが、京都だけで学ぶのではもの足りず、南宗画の本家である中国に渡って勉強しようというので、明治四年つてを求めて横浜にやって来たが、たまたま住吉町に店を開いていた五姓田芳柳の洋風画を見て心機一転し、洋画に「転向」することとなる。
 そこで翌年、早速芳柳の画塾に入門し、またイギリス人の素人画家ワーグマンの技法に啓発されたりしたが、明治九年、政府が工部大学校附属美術学校を設立すると、早速その画学科にはいって、イタリアから招かれてやって来たフォンタネージの指導を受けた。そして二年後、明治十一年に、パリで開催された万国博覧会の日本事務局雇という資格でフランスに渡るわけである。
 つまり、芳翠がはじめてフォンタネージによって本格的な西欧絵画に触れたのが二十六歳、パリに渡ったのが満で言って二十八歳の時である。芳翠は、当時の日本人留学生としては随分早い方のひとりであったが、年齢的には、やはりきわめて中途半端な時期である。生涯ついにヨーロッパを訪れることがなかった高橋由一は、最初狩野派の筆法を学び、たまたま文久年間に舶載の洋製石版画に接したのは、すでに三十歳を越えてからのことである。しかも、その石版画が何であったかわからないが、いずれ二流か三流のものであったに相違なく、いずれにせよ版画であった以上、真正の西欧の油絵の表現を知るにはおよそ不適当なものであった。由一にとっては、舶載石版画に触れたこの体験は、洋画的表現の習得に情熱を傾けた彼のその後の努力のいわば起爆剤のような役割りを果たしたのであって、それによって生まれて来たあの「花魁」や「鮭」のような作品は、実は技術的には油彩画を取り入れたものであっても、その表現を支える感受性は、はっきりと日本的なものであった。それなればこそ、由一は、フォンタネージとの出合いによって真正の油絵に触れると、かつてのあの驚くべき緊張力を失って、平凡な風景画家に転身してしまったのである。
 一方、十八歳でフランスに渡った黒田清輝の方は、画家を志した時にはすでにパリの真只中にいたという幸運に恵まれた。それだけに、彼は、西欧の新しい美学を徹底的に学ぶことができた。むろん、清輝の場合にしても、特に帰国後は日本近代特有の精神的風土のなかでその美学を次第に変質させていかなければならなかったが、それにしても、西欧の新風を移植するには、最も理想的な境遇にあったと言ってよいのである。
 このふたりの、それぞれに徹底した探求に比べれば、芳翠の場合はまことに中途半端であったと言わねばならない。滞仏中に描かれたこの「臥裸婦」をしばらく措くとすれば、帰国後、明治二十五年の明治美術界春季展覧会に出品されて大変好評であった「十二支」連作にしても、明治二十八年の同会秋季展に出品した大作「浦島」にしても、不思議な魅力を持った力作には違いないが、様式的には、和洋折衷としか呼びようのないものである。そしてそれは、芳翠の置かれた歴史的位置から、必然的に生まれて来たものであった。
 芳翠のフランス滞在が1878年からの十年間であったということも、芳翠にとっては不運なことであった。この十年間は、フランス絵画において、いや西欧絵画全体の歴史において、ルネッサンス以来はじめての大きな変革が生まれかかっていた時期であった。つまり、新しいものが古いものにとって代わろうとしていた時期である。四百年間続いた古典主義的美学は、まさに崩れようとしていた。芳翠はまさにその崩壊しかかっていたアカデミズムの牙城である国立美術学校で学んだのである。
 しかし、だからといって、新しい時代の流れに対応していないといって芳翠を責めるのは、無理というものである。芳翠よりもほぼ十年も遅れてパリの画壇にはいりこんでいった清輝ですら、ラファエル・コランというアカデミズムの画家に学んでいる。ただ清輝にとって幸運だったことには、コランのアカデミズムは、すでに印象派によって変質させられていたのである。1880年代においては、官学派といえども印象派の新しい変革を無視することができなくなっていた。その意味でも、芳翠がパリにやって来た70年代というのは、中途半端な時期であった。それは、伝統的な古典主義絵画を学ぶにはすでに遅過ぎたが、といって新しい印象派の美学を学ぶにはまだ早すぎたからである。
 したがって、芳翠としては、ジェロームのアトリエででき得るかぎり伝統的な表現技法を学び取る以外に道はなかった。そして、芳翠が滞仏中に充分にその技法を学んだことは「臥裸婦」に見られる並みなみならぬ筆力を見ても明らかである。
 十年間にわたる芳翠の滞仏期間中の作品は、残念ながらそのほとんどは失われてしまっている。ただそのうちのいくつかは、パリで芳翠と親しかった白勢和一郎によって日本にもたらされている。白勢和一郎は、新潟県新発田近在の豪族の子息で、一時はヴェルサイユで芳翠と同宿していたというほど、親しい間柄であった。肖像画家としても優れた腕前を持っていた芳翠は、この白勢和一郎の騎馬像も描いている(これは現在、かなり破損したかたちで残っているという)。「臥裸婦」は、その白勢氏が郷里新潟に持ち帰った後、現在の所蔵者の手に移り、所蔵者とともに転々と各地を移動しながら、今日まで保存されて来た貴重なものである。その他、現在残っている芳翠の滞仏作品としては、テオフィル・ゴーティエの娘ジュディット・ゴーティエを描いた「西洋婦人像」(東京芸術大学所蔵)などがあるが、これも、「臥裸婦」と並んで芳翠の優れた才能を示す代表作である。
 事実、この「臥裸婦」は、正確に何年頃に描かれたか明らかではないが(隈元謙次郎氏は明治十五、六年頃と推定している)、いずれにしても渡仏数年でこれだけの大作を破綻なくまとめ上げるというのは、見事な才能と言わなければならない。緑や褐色を主とした水辺の岩は、クールベの描写を思わせるような充実した質感を示しており、その上に敷かれた白布の上に横たわる裸婦は、新古典主義の流麗なデッサンと冷たい官能性とを受け継いでいる。しかし芳翠は、このように見事にアカデミックな技法を身につけながら、当時のフランス画壇に胎動していた新しい動きに気がつかなかったわけではない。彼の滞仏時代の後半は、フランスの文芸界に新しい動きが次ぎつぎと生まれて来た時代である。印象派のグループは、最初のうちこそ激しい嘲笑を浴びせかけられたものの、1880年代にはいってからは、着実に歴史のなかにその地歩を堅めて行った。1884年には、アカデミーの主催するサロンに反対して、無審査を旗印とするサロン・デザンデパンダンが設立された。1886年には有名な『象徴派宣言』がフィガロ文芸紙上に発表された。すでにパリ滞在も長く、上に触れたジュディット・ゴーティエやヴィクトル・ユーゴーと親しく交際していたほどパリの芸術界にはいりこんでいた芳翠が、このような動きに気づかないはずはない。おそらく彼は、自分がこれこそ真の絵画と信じて、それまで十数年にわたって学んで来た西欧絵画そのものが未知のものにとって代わられようとしていることを敏感に感じ取っていたに相違ない。しかし彼自身は、自からその新しい動きに加わるには、すでにあまりにもはっきりと自己の道を選び取っていた。芳翠は、後輩の黒田清輝を大変高く買っていて、帰国後も「今に黒田が帰って来る、さうしたら日本の洋画も本当の発展をとげるだらう。この人の前には僕など結局変則画家さ」と人々に語っていたと伝えられるが、彼が黒田清輝にそれほどまでに大きな期待をかけていたのは、この後輩の優れた天分を見ぬいたという以上に、芳翠が自己の歴史的役割りの限界をはっきりと自覚していたからであったように私には思われるのである。
 もともと、法律を勉強するためにパリに渡った黒田清輝が画家に転向するについては、当時パリにいた画家の藤雅三や画商の林忠正とともに、芳翠の強い薦めがあったからである。しかし、芳翠自身は、黒田清輝の画業をそれほどよく知っていたわけではない。清輝がパリに渡ったのは明治十七年のことで、当時芳翠はすでにパリ滞在も長く、社交好きの性格とあい俟って、在留邦人の仲間では相当な顔であった。そのため、日本人で彼の家に集まる人も多く、清輝も最初はそのような関係で芳翠と知り合いになった。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社学術文庫、1980。pp.368-376.

 才能と意欲に溢れて海外に雄飛し、先進文明を身につけようとした明治の日本人は数あれど、みなが輝かしい成功をしたわけではない。いやむしろ、順調に留学の成果を成功につなげた人は多くなく、なかには挫折と絶望に陥った人もいただろう。芳翠は、帰国しても絵を描いていたけれど、自分の生き方を失敗と思っていたかどうか、なんともいえない。


B.iPSから生殖細胞 大量作製
 京大グループで研究が進むヒトiPS細胞の技術について、精子や卵子になる手前の細胞を大量に作る方法が開発されたというニュース。ヒトの体内では受精卵になってから2週間後に、その次世代の精子や卵子のもとになる「始原生殖細胞」ができ、6~10週間後に精子、卵子になる手前の細胞に分化するという。研究グループの発表では、生殖細胞の発生過程を試験管内で再現する研究の大きな第一歩だという。しかし、これがさらに生殖医学への応用がすすむと、どういうことが起きるか、考える議論が必要だろう。
 同性同士の受精卵ができたらどうなるか、問題点を述べるコメントの部分だけ引用させていただく。
「研究者らでつくる国際幹細胞学会の指針は、安全性を理由に生殖に使うことは容認していない。
 京都大の斉藤さんとともにこの分野の第一人者の林克彦・大阪大教授は「見た目がヒトの卵子のようなものなら、5年ほどでできるだろう。それが本当に体内でできる卵子と同じなのかというと多分違う」と釘を刺す。
「マウスでもiPS細胞からつくった卵子は、やはり体内でできる卵子と違うなと思う。改良は並大抵のことではない」
 さらに、この技術は従来の生命観も塗り替える可能性がある」
 林さんのグループは昨年、オスのマウスから卵子をつくることに成功。別のオスの精子と受精させ、子どもも生まれた。
 研究が発表されて間もない昨年4月、米ワシントンDCの米国科学・工学・医学アカデミーに生殖生物学の研究者らが集まり、今後起こりうることが議論された。
 ヒトの男性から卵子ができれば、男性同士で受精卵がつくれる。さらに、自身の精子と受精させれば、遺伝的にはたった1人の親になる。
 あるいは、知らないうちに体の細胞を誰かに採取され、勝手に卵子や精子がつくられるかもしれない――。
 基礎研究に関する文部科学省の指針は、現状ではiPS細胞から卵子や精子ができても、受精に使うことを禁じている。ただ、見た目は卵子や精子に似た細胞が、どれだけ本物に近いのかを科学的に検証するには、受精させて調べることが重要になる。このため、内閣府の専門調査会は、研究の目的によっては受精を認める方向で調整に入る。
 一方、医療応用に向けた法的ルールや規制は議論の対象外だ。
 生命倫理に詳しい東京大の神里彩子準教授は「社会的に一番の問題になるのは『その技術を生殖利用していいのか?』だ。そもそも、これまでの様々な生殖医療の技術についても、どう使われるべきかコンセンサス(合意形成)が定まっていない。すでにある技術を含めた全体像を示した根幹となる法律をつくることが理想的だ」と指摘している。 (野口憲太)」朝日新聞2024年5月21日朝刊2面。

 すでに記事には、アメリカなどでこの技術を生殖医療などに応用する医療ビジネスがはじまっているとある。かりに自分の細胞から精子と卵子ができるようになったら、今までは考えられなかったことが起こる。それが何であるにせよ、考えるべきことは大きい。
 
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