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J.M.KEYNES「雇用・利子・お金の一般理論」に挑戦・・・。

2014-01-10 18:06:04 | 日記
A.専門家という存在について
 専門家と称する者は、ある個別の領域で起きている現象や問題について、ある特別な視点と方法を長い時間をかけて訓練し、その問題について正確に測定し把握し考えぬいて、専門家でない人々に、Aという対策を施せばA´という結果が生じ、Bという対策を施せばB´という結果を生んで、AなりBなり、どの方法を取るべきか優先順位を説得的に示すのが役割だ、と考えられている。そして、その対策を決定し実行に移すのは、必ずしも専門家ではない、という立場と、いやそれも専門家が担当するのがベストだ、という立場があるだろう。
 音楽とか、映画とか、自動車とか、食品とかであれば、それを作るのが専門家だとしても、その成果は作品・製品となって提供されるから、われわれはそれを使ってみればよいか悪いか、とりあえず判断できる。専門家が提供するものに評価をあたえるのは消費者である。ときどき偽装したりインチキ商品もあったりするが、注意すれば見破ることは可能だ。しかし、そうはいかないものがあり、それは専門家にしかわからない、と思われている領域だろう。
 原子力発電の技術というような問題なら、専門家以外が関与できる部分は小さいので、われわれ門外漢は、専門家が提示する対策の有効性について、実は専門家の間で意見が分かれている、という状況には誠に困惑する。放射能の人体への影響、という問題では、これも専門家に答えを求めるのだが、専門家の判断はかなりの幅があってなんだか頼りにならないのではないか、と思ってしまう。一時に大量被ばくすればすぐに死にいたることはわかるが、すぐに目に見える被害が出ないと、どこまでが安全でどこからが危険かの線引きはどうもはっきりしない。
 軍事や兵器の技術については、これも専門家が独占しているうえに、情報は制限されていて一般の人々はそれが実際に使用されるまで判断ができない。しかし、その結果は多くの人々に甚大な被害をもたらす可能性が高い。外交や国際政治についても似たような状況があるように思える。専門家の意見は、多くの場合一致しておらず、それは専門家が間違った判断をしているというよりも、専門家が見ている視点や方法、扱っている範囲が専門という枠の中だけで考えているからではないか、と思える。
 民主主義という装置は、ある決定に合意を与える手続きが、専門家や一部の権力者に独占されないように、情報を公開し非専門家が自由に議論し多数意見にまとめていくことで、責任を共有するシステムだろう。それがじゅうぶん機能するためには、専門家はできるだけ正確な情報とその判断基準を、非専門家に提供することがぜひ必要になる。
 経済というものも、専門家が跋扈している世界だ。エコノミストと呼ばれる人々は、日々生動している経済について、さまざまな現象を特殊な角度から研究しているだけでなく、実際に経済政策を提案したりして、経済を動かす担い手でもある。
 ぼくは経済学というものをちゃんと専門的に勉強したことはない。ミクロ経済学もマクロ経済学も入門書程度しか読んでいない。マルクス経済学は「資本論」をはじめ昔いろいろ読んだ記憶があるが、この20年ほど読んでいない。現実の経済、話題のグローバル経済についてその時々の問題は注目しているが、今の経済が大過なくすすんでいるのかどうか、専門家ではないから判断しにくい。でも、経済というのはわれわれの生活そのものでもあるのだから、知らないよと言っていると、まずいんじゃないか、と思って、ケインズ『一般理論』の新訳を手に取ったら、帯にこんな文章があった。
「経済停滞は、経済繁栄の過剰に対する必然的な罰なのだという発想は根強い。経済がそもそもどうやって停滞するに至ったかではなく、どうやって停滞にとどまるかを分析することで、ケインズは経済の苦悶に何か懲罰的なものがあるという発想を葬り去った。つまり『一般理論』は、知識の豊かな規律あるラディカリズムの成果なんだ」P・クルーグマン



B.ケインズ先生を読んでみようか、な。
 山のようにある経済学の本の中で、非専門家がいま読むに値する本は、やっぱりアカデミックな世界でも決定的な影響を与え、実際の歴史でもかなりの影響を与えたとされる古典だろう。このブログで、この1年ぼくはおもに宗教と歴史について本を読んできたのだが、経済は視野の外にあった。でも、ケインズから何が出てくるのか、知りたくなったので、読んでみようか、な。まずは、冒頭に付されたクルーグマンの文章。

 「ケインズは、慢性インフレの未来を予想していなかった(ケインズに限らず当時だれもそんな予想はしていなかった)。つまりかれは、金融政策の将来について必要以上に悲観的だったということだ。そしてそれは同時に、慢性インフレがもたらす政策上の問題はまったく考慮しなかったということでもある。だがそれこそが一九七〇年代と一九八〇年代のマクロ経済学者の主要な悩みだったし、一部の人はそのために経済理論の危機を唱えるに至った(実は、失業のさなかでもインフレが消えないのを説明するためにぼくたちの多くが最近使う各種モデル、特に賃金交渉の不調和を強調する「重複契約」モデルは、賃金決定についてケインズが述べていることと本質部分はかなり似通っている)。でも一九三〇年代にだれも想像しなかった問題に答えていないからといって、ケインズの分析の欠陥だとはとても言えない。そしていまやインフレがおさまってみると、ケインズは再びすごく有意義に見えてきた。
 救世主としての経済学者
 知的な成果として、『一般理論』と並ぶ経済学の業績のほんの一握りしかない。ぼくが最も高い評価を与えるのは、世界の見方をまるっきり変えてしまい、いったんその理論を知ったらすべてについてちがった見方をするようになってしまうような理論だ。アダム・スミスは『国富論』でそれをやった。突然経済というものは、賭けて消費する人々の寄せ集めじゃなくなった。それはそれぞれの個人が「見えざる手によって導かれて、自分の意図とはまったく関係ない目的を推進する」自律的なシステムとなった。『一般理論』もそれと肩を並べるものだ。突然、大量失業は需要不足だという、これまではずっと周縁的な異端でしかなかった発想があっさり理解可能となったどころか、当然のことのように思えてしまったんだから。
 でも『一般理論』を真に独特なものにしているのは、それが圧倒的な知的成果を、世界的な経済危機に関わる直接的な現実的効力と組み合わせていたという点だ。ロバート・スキデルスキーによるケインズ伝第二巻は「救世主としての経済学者」と題されているけれど、これは誇張でもなんでもない。『一般理論』までは、まともな人々は大量失業というのが複雑な原因をもつ問題だと考えており、市場を政府の統制と置き換える以外には楽な解決方法はないと思っていた。ケインズは、実はその正反対なんだということを示した。大量失業は需要不足という単純な原因によるもので、財政拡張型政策という簡単な解決策があるのだ、ということを。
 『一般理論』が大恐慌からの出口を示してくれました、となればすてきだろう。でもお話的には残念ながら、実際に起きたのはそうじゃなかった。完全雇用を回復させた巨大公共事業、またの名を第二次世界大戦が始められたのは、マクロ経済理論とはまったくちがった理由からだった。でもケインズ理論は、なぜ戦争支出がそういう効果を挙げたか説明したし、戦後の世界が不況に陥らないように各国政府が手を尽くすのにも役立った。ケインズ経済学の導きがなければ、恐慌のような状態が復活しかねなかった状況がなかったとはだれが言えるだろうか。
 社会科学の歴史上で、ケインズの業績に匹敵するものは存在しない。存在しえないのかもしれない。ケインズは当時の問題については正しかった。当時の経済はマグネトーの問題を抱えていて、経済を再起動させるには、驚くほど限定的で小手先の修正ですんだ。でもほとんどの経済問題は、たぶん複雑な原因をもっていて、簡単には解決できないんだろう。今日の世界の経済問題は、ラテンアメリカの発展の遅れから、アメリカの格差の猛拡大にいたるまで、限定的で小手先の解決策があるのかもしれず、単に次のケインズがそれを発見するのをみんな待っているだけなのかもしれない。でも今のところ、そんなことは起こりそうもない。
 一つ確実なことがある。もし次のケインズが生まれているとしたら、その人物はケインズのもっとも重要な性質を持っているはずだ。ケインズは申し分ない知的インサイダーで、当時の主流経済思想について、誰にも負けないくらいよく理解していた。その知識ベースがなければ、そしてそれに伴う議論展開能力がなければ、あれほど徹底した経済正統教義の批判を展開することは不可能だっただろう。でもケインズは同時におそれ知らずの急進派であり、自分の教わった経済学の根本的な前提の一部がまちがっているという可能性を進んで検討しようという意思を持っていた。
 こうした性質が、ケインズに経済学者たちと世界を光へと導くことを可能にしてくれた――というのも『一般理論』はまさに、知的な闇からの壮大な脱出の旅なんだから。経済政策にとっての相変わらずの意義と並び、それこそがまさに本書を歴史に残る本にしているものだ。読んで、そして驚嘆されよ。」ポール・クルーグマン「イントロダクション」(John Maynard KEYNES『雇用、利子、お金の一般理論』山形浩生訳、講談社学術文庫版2012)pp.27-31.

 分厚い本なので、なんかてっとり早く解説してくれるのがあれば、それで済まそうという態度は、長い小説を読むのがめんどくさいから2時間くらいの映画で早わかり、というのと同じで、かえって誤解や偏見を助長するであろう。さて、どこまで読めるか?
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