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明治の女学生に「恋愛」を説いた男・巌本善治… 長期政権の腐敗?

2018-09-22 16:01:04 | 日記
A.翻訳ことば「恋愛」の成立
巌本善治(1863(文久3)-1942(昭和17)年)は、明治の女子教育をリードした『女学雑誌』の編集人・寄稿者として名が残る人だが、勝海舟の口述をまとめた『海舟座談』の編者でもある。足尾鉱毒事件にも内村鑑三などともにキリスト教の立場からかかわり、明治のリベラル派論客とみられたが、西洋のLoveの翻訳語として「恋愛」を称揚した人として、柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書1882)に登場している。

 「巌本(善治)のあの文章が出た翌月の1890年11月、『女学雑誌』に、愛山生と名乗るおそらく若い筆者の「恋愛の哲学」と題する文章が載っている。熱烈な調子で論じ続けたその結びに、
  嗚呼(ああ)人の心霊と身体とに革命を行ふ恋愛よ。趣味想像の新しき境域を開拓する恋愛よ。英雄を作り豪傑を作る恋愛よ。家を結び国を固むる恋愛よ。余は大(おおい)なる詩人出でゝ爾(なんじ)を書き誤(あやま)りし幾多の小家族を瞠若(どうじゃく)たらしめんことを望む。
と言うのである。肩ひじを張った生硬な文章で、「英雄を作り豪傑を作る恋愛よ。家を結び国を固むる恋愛よ」と叫んでいるのは、いかにも唐突で、滑稽でもあろう。論理はもちろん飛躍している。いったいこの人は「恋愛」を何のことと思っていたのだろうか。
 いや、この人に限らなかった。おそらく当時の日本人が、初めて、いわば堂々として肯定できるような「恋愛」を教えられたのである。それはまず、ことばとしてやってきた。とにかく大事なもの、立派なことである。その意味・内容については、まだよく分らない。が、とにかく大事である。
 もっとも、巌本の提言を受けて、loveの意味から日本語のこれに対応することばを考えようとする人もいた。たとえば、同じ頃、1891(明治24)年2月、『女学雑誌』に、「色情愛情辨」と題するこういう投稿が載っている。
 
 俗に之を男女の情愛と云ふ。この心情に二様あり。英語に一を「ラップ」と云ひ一を「ラスト」と云ふ。「ラップ」は高尚なる感情にして「ラスト」は劣等の情欲なり。邦語には確然たる区別なし。余は一を愛情と云ひ一を色情と名づけいさゝか其異同を辨ぜんとす。‥‥‥俗語に「色」「恋」などと云ふ言あり。古昔(こせき)は今日の如く卑しき意義なかりしとて、当時は「色このめ」或いは「恋せよ」などと勧むる好事家(こうずか)もありと聞きぬ。古代の意味はさて置き、今日は決して斯(かか)る好奇の用法をなし、人をして下卑(げび)たる連想を起こさしめざる様(よう)すること先進者の務なるべし。‥‥‥今日は「色」と云ひ「恋」と云ひ、或は「色恋」と云ふ熟語の如きは(少なくも俗語には)已(すで)に一定の意義あり。余は飽(あ)く迄(まで)是等の語と「愛情」と云ふ聖語を混同せざらんことを望む。
 
 基本的な論理は巌本と同じで、「『ラップ』は高尚なる感情」で、「色」「恋」などは「卑しき意義」、「下卑たる連想を起こさしめ」ることば、と言う。そこで、巌本は、「恋愛」という新しいことばを持出して「ラップ」にあてようとしたわけだが、この人は「愛情」をあてよう、と言っている。
 しかし、この新しく出現した「高尚な」ことがらを表わすことばは、新しいことばが結局ふさわしいと思われていたようである。「恋愛」は、以後、この雑誌を中心とする人々の間に急速に普及し、流行した。
 「恋愛」の流行は、まず「恋愛」ということばの流行であった。そして、このことばによって支持され、勇気づけられた若い人々の間に、やがて「恋愛」という行為の流行として広まっていった。「恋愛」を流行させた人々は、知識人やその子弟に多く、とくにプロテスタント系クリスチャンや、その周辺の人が多い。知識人に多いということは、翻訳語一般について言えることであるが。クリスチャンへの影響ということは、「恋愛」が、巌本善治たちの解釈で、その精神的側面が強調されて理解されていたことにもよるであろう。
 「恋愛」の流行は、他方、これに対する反感もひき起した。これも、一般に新しい翻訳語をめぐって起きる反応と共通である。「恋愛」は堂々と口にされ、行なわれている。「色」や「恋」ならば、日常ふつうのことではあったが、人目を避けるべきものだったのである。当然、保守的な人々から反撥されたが、そればかりでなく、維新以来、新しい時代を導いてきたエリートの主流たちも、この「恋愛」流行を、不愉快なこととして迎えた。
 1891年7月、当時の論壇の代表誌であった『国民の友』は、その中心人物である徳富蘇峰の「非恋愛」と題する論説を載せている。「恋愛何物ぞ、男女交際何物ぞ、自由結婚何物ぞ」と「恋愛」を弾劾し、「恋愛」にうつつを抜かしている青年男女について、世を憂えたのである。ただちにその翌月、『女学雑誌』上で、巌本善治は、「非恋愛を非とす」と題する論文を書き、「恋愛は神聖なるもの也」と反論した。
 このようなやりとりのうちに、その背景として、当時の若い知識人男女における「恋愛」熱の高まりをうかがうことができよう。
  北村透谷と「恋愛」の宿命
 北村透谷は、巌本善治に認められて『女学雑誌』へしきりに寄稿した。文学史上に残るほどの文章も、ここで発表していたのであった。
 1890(明治23)年1月、透谷の論壇への出世作である「当世文学の潮(うしお)模様(もよう)」で、「愛(あい)恋(れん)」ということばをめぐって論じているところを見てみよう。
  
 いでや彼等に吾(わ)が大知嚢(ちのう)より人情の道を教へん、愛恋の哲理を授(さずけ)ん、希臘(ギリシャ)の古哲学と欧米の新理想とを筆に任かせて示しやらん。公(こう)等(ら)の理想斯(かく)の如くにはあらずや。‥‥‥宇宙の大観は愛恋より大なる者なし、是を極むるは小説家の本領なる可きも、余は未だ小説家の本領悉(ことごと)くここに止まるを知らず。

 ここで使われている「愛恋」には、とくに翻訳語であるようなようすはない。「愛恋」という用語は、漢籍にも古く用例がある。男女間の愛情を指すことばである。ここで使われている「愛恋」ということばには、前に引用した文章におけるような、翻訳語に固有の文章上の「効果」は見受けられない。
 ところで、これから二か月後の三月、透谷は「時勢に感あり」という文章を書いている。ここで、「恋愛」ということばが使われている。

 嗚呼豈(あ)に然らんや、憤激して起(た)つ可き社界は汝が眼前に横(よこた)はらずや。区々(くく)恋愛の説明吾人是れに懶(う)める事久し、些々(ささ)たる一代の栄声を求めて咄々(とつとつ)何の狭隘(きょうあい)なる。
 
 しかし、これも前の「愛恋」と同じく、とくに翻訳語ではなく、翻訳語に固有の「効果」を伴った用法でもない。当時としては珍しい用例であるが、同じ文中のやや前の所には、「恋情」ということばもあり、ことばの調子でつい使ってみた、というようなものであろう。意味としても、「区々恋愛の説明吾人是れに懶める事久し」、つまり、「恋愛」についていちいち説明するのはもうたくさんだ、従って、「恋愛」とはつまらないものだ、ということで、この七か月後に発表されたあの巌本の「恋愛」論におけるのとまったく違っている。
  そして、1892年2月、北村透谷は、「厭世詩家と女性」と題する文章を、『女学雑誌』に書いた。その冒頭に、
 恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後(のち)人世あり、恋愛を抽(ぬ)き去りたらむには人生何の色味かあらむ。
と述べたのである。木下尚江は、これについて、「この一句はまさに大砲をぶちこまれた様なものであった。この様に真剣に恋愛に打込んだ言葉は我国最初のものと思ふ」と、後に語っている(「福沢諭吉と北村透谷――思想史上の二大恩人」1934年)。この文章はまた、後に『文学界』に集まる島崎藤村などの詩人たちにも激しい影響を与え、文学史上、明治ロマン主義の一時期を画する重要な論文として知られている。
 二年前、やはり透谷が、同じ雑誌に発表した前掲の「当世文学の潮模様」とは、論旨がまるで反対なほどに違っているように見える。あの時は、「宇宙の大観は愛恋より大なる者なし、是を極むるは小説家の本領なる可きも、余は未だ小説家の本領悉くこゝに止まるを知らず」と、「愛恋」の限界の指摘に重点があったのだが、今や、「恋愛ありて後人世あり」と言うのである。
 いや、私の見方によれば、これは違ってはいない。前の言は「愛恋」であったが、これは「恋愛」だからである。翻訳語「恋愛」だからである。
 透谷がここで語っていたのは、loveとしての「恋愛」であった。文中、ギヨエテ、バイロン、シエレイ、ミルトン、カーライル、エマルソン、スウイフト等々、西欧の詩人・文人の「恋愛」はしきりに論じられているが、東洋、日本の例では、「釈氏」(釈迦)「露伴子」(幸田露伴)が女性を軽蔑し、結局「恋愛」を否定したということが僅かに語られているだけである。若くして女学校で英語を教え、横文字に堪能であった透谷にとって、「恋愛」ということのすぐ向うの方には、loveということばがあった。Loveによって語られる絢爛たる世界が見えていたであろう。
 しかし、透谷の「恋愛」は、やはりloveと同じではなかった、と私は考える。同じ「厭世詩家と女性」で、透谷は言う。
  春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは古来似非(えせ)小説家の人生を卑しみて己の卑陋(ひろう)なる理想の中に縮少したる毒弊(どくへい)なり、恋愛豈(あに)単純なる思慕ならんや、想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立(たち)籠(こも)らしむる牙城(がじょう)となるは即ち恋愛なり。
 これはこの論文の中心主題を語っているところである。透谷のこの「恋愛」論における、「恋愛」の定義ともいうべき文句である。しかし、思うに、「春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは古来似非小説家の人生を卑しみて」ではなくて、これもやはりloveなのであろう。「春心の」「恋愛」を描いた西欧の多くの名作を否定はできない。「恋愛豈単純なる思慕ならんや」とは言うが、loveは「単純なる思慕」をも含んでいる。透谷はこれを切り捨て、「想世界の」「牙城」としてのloveのみを「恋愛」である、とした。
 言い換えるなら、透谷は、「恋愛」の意味を、「想世界の」「牙城」にしか見出すことができなかったのである。これは、私たちの国における翻訳語の特徴的な性格を暗示している。
 透谷はこの後、編集者、巌本善治や、若い読者たちに支持されつつ、次々とこの雑誌に文章を発表していった。主題はさまざまであるが、「恋愛」を論じたものが多い。その「恋愛」は、しだいに観念として純化されていく。「歌念仏を詠みて」という一文では、「抑々恋愛は凡ての愛情の初めなり」と言って。「親子」「朋友」「上天」への愛も、「恋愛」によって根拠づけようとするのである。これは、loveからさえも遠い観念である。翻訳語「恋愛」は、一方で伝来の日本語と異なっているとともに、他方、原語のloveとも、その意味や、機能の上で同じではないのである。
 こうして観念として純化された「恋愛」は、当然、日本の伝統や現実のうちに、その実現をとらえることが困難になっていく。したがって、「恋愛」は、現実に生きている意味ではなく、日本の現実を裁く規範になっていく。これは、私たちの国の翻訳語の宿命である。そしてこの宿命が、透谷じしんの短い生涯や、さらに、彼の「恋愛」観に感動した人々、明治ロマン主義の詩人たちの、熱烈でかつ短命な行く末までも、おそらく動かしていたであろう。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1882.pp.97-105.

  巌本は、明治のキリスト教信者として開明的な論説を展開したとされるが、他方でいろいろ悪評もある。Wikipediaを覗いてみたら、こんな記載があった。
 「巌本善治:但馬国出石藩(現・兵庫県豊岡市出石町)の儒臣・井上長忠の次男に生まれた。1868年(慶応4年)、母方の叔父で福本藩の家老格・巌本範治(琴城)の養子になった。1876(明治9)年、上京して中村正直の同人社で、英語・漢文・自由主義などを学んだ。ミル、スペンサーなどの影響を受けた。1880(明治13)年、津田仙の学農社農学校へ進み、翌年から同社の『農業雑誌』に小論文を書いた。二宮尊徳の『報徳記』を愛読した。
  1884(明治17)年、下谷教会(現、日本基督教団豊島岡教会)で同郷の牧師・木村熊二より受洗した。同年、学農社を了え、『農業雑誌』の編集に携わり、『基督教新聞』に寄稿した。修正社から、近藤賢三と『女学新誌』を発行した。『女学』は、「女性の地位向上・権利伸張・幸福増進のための学問」を意味した。1885(明治18)年、修正社と齟齬して『女学新誌』を離れ、近藤を編集人とする『女学雑誌』を創刊し、月の舎主人・月の舎しのぶ・是空氏・みどり・もみぢ・かすみ他の筆名で毎号のように書いた。同年秋、木村熊二が、九段下牛ヶ渕(現・東京都千代田区飯田橋)に開いた明治女学校の、発起人に名を連ね、また、『基督教新聞』の主筆になった。1886(明治19)年5月に近藤が急逝した後を受け『女学雑誌』の編集人となり、さらに8月に木村の妻で明治女学校取締役の鐙子が急逝した後を受けて1887(明治20)年3月に明治女学校の教頭となり、実務を執った。6月、東京基督教婦人矯風会の『東京婦人矯風雑誌』の編集名義人になった。10月に発行した『木村鐙子小伝』の序を、故人の旧知で40歳年長の勝海舟に依頼しに行ったのを縁に、勝邸に頻繁に出入りするようになった。フェリス女学院に講演に行って助教・若松賤子を知り、1889(明治22)年、横浜海岸教会で結婚した。
  1890(明治23)年、発足した東京廃娼会の委員となり、各地に遊説した。星野天知と女学雑誌社から『女学生』を創刊した。キリスト教系の18の女学校の生徒に投稿させる雑誌だった。1892年(明治25年)、明治女学校の校長になった。明治女学校で教え、『女学雑誌』に寄稿していた星野天知・北村透谷・島崎藤村・平田禿木ら浪漫主義者が、巌本の下では書き難くなり、1893(明治26)年、『文学界』を創刊した。教会や宣教師の経済的援助を受けなかったので、学校の経営は苦しかった。その上、1896(明治29)年2月の失火で校舎・寄宿舎・教員住宅の大半を失い、前から肺を病んでいた妻の若松賤子が、その直後に没した。1899(明治32)年、勝海舟の死没直後、かねて『女学雑誌』誌に連載した座談を、『海舟余話』に纏めて刊行した。学校再建の傍ら、宗教・政治の活動を続けたが、1903(明治36)年末『女学雑誌』の編集人をやめ、1904(明治37)年春、明治女学校の校主に退いた。
 1905(明治38)年、大日本海外教育会の構成員として押川方義と朝鮮へ渡った。ブラジル移民を扱う皇国移民会社に関わり、1907(明治40)年には、ペルー移民を扱う明治殖民会社の中心人物となった。翌年ペルーに渡った。明治殖民会社は1908年に違法配耕事件を起こし、1909年に同社が取り扱った移民の送金に関して延着や不着の問題が表面化し、業務停止処分となり解散した。1912年(大正元年)、皇国移民会社の水野龍が興したコーヒーの直輸入会社カフェーパウリスタの創立に関わり、取締役となる。1916(大正5)年、明治女学校の跡地に信託合資会社を設立した。1924(大正13)年、日活の取締役になった。
 プロテスタンティズムの警世家、女性啓蒙家として活動した巌本には、不名誉な噂が付いて回った。女癖が悪かった。若松賤子がそれを他言していた。明治女学校の生徒だった相馬黒光も巌本が教え子に手を出したことを非難し、自殺に追い込まれた犠牲者もいたことを実名を挙げて書いている。同じく卒業生の野上弥生子は晩年、自分の人生の腐植土になった三大出来事のひとつとして、巌本の失脚を挙げている。星野天知や平田禿木は詐欺的行為も犯したと書いている。失脚した巌本は「偽善の聖人」「偽善家」などと呼ばれた。こうした風説に対し巌本は沈黙を続けたが、島崎藤村は巌本をモデルにしたとされる短編『黄昏[1]』を発表し、巌本に憧憬を抱いていた羽仁もと子は、巌本の信仰生活を「本気に神に仕えようとはしていなかった」と非難し、明治女学校は巌本の「女性問題」が起因して「魔の国へさらわれ」、同校を廃校(1909年)へと追いやったと、その責任を問うた。1930(昭和5)年、『海舟座談』を編集出版し、さらに1937(昭和12)年、それを増補した。この年、林銑十郎の組閣に口を出した。自宅を「神政書院」と名付け、国家神道を説いた。『大日本は神国なり』との本に序文を書いた。1942(昭和17)年10月6日、豊島区西巣鴨の自宅で没した。墓は染井霊園にある。
  ヴァイオリニストの巌本真理は、米国大使館勤務の長男・荘民とアメリカ人女性(来日後東京女子大学英語講師)の娘である。」

 巌本が『女学雑誌』の編集人になったのが23歳(満年齢)で、明治女学校の校長になるのが29歳(同)である。現代の20代と明治20年代の20代は、同じ青年時代といってもだいぶ違うのだろうが、少なくとも教育界と言論界でプロテスタントの女性解放論を背景に、次々洋風の論説を発表する新進世代のリーダーと目された巌本は、女学生の憧れの存在だったのだろう。しかし、これがたぶん彼の過ちをもたらし、のちに馬脚を露す不祥事のもとになった。望ましい「恋愛」は神聖なもの、だという彼の論は、「女癖の悪さ」につながり、あやしげな移民会社や国家神道への関わりなど晩節を汚すことになったとすれば、罪深い人物である。



B.長いから腐敗したわけでもない?
 このままあと一期(自民党総裁=首相という前提の下で)安倍政権が続くと、日本の憲政史上でも最長の政権になるようだ。一人の人物が長期政権を維持する例は、歴史上珍しいことでもなく、立憲君主制を別にすれば、カリスマ的支配や個人崇拝が起り、スターリンやヒトラーのように独裁的権力者が死んだとき体制全体が危機に陥る。一応民主的な手続きで選出された指導者なら、いずれは退任するときがくるが、政治家や官僚をはじめ、トップに連なるお気に入りが固定する人事は、必然的に腐敗する。問題は、既存の権力構造からさまざまな利得を得ている人々にとっては、首相が代わっても自分の地位が変わらないのが望ましいから、反主流派の勝利によるみずからの没落を避けるには「禅譲」、つまり名目的にトップの人だけが交代するのがベストということになる。政治学的には、「禅譲」か「放伐」かというのは儒教的に古代以来の原問題だった。

 「かくも長き安倍時代 安倍晋三首相が自民党総裁選で3選を果たした。「1年ごとに首相が代わる」と揶揄された日本になぜこれほどの長期政権が出現したのか。長い「安倍時代」を考えてみた。
  不可解な‟禅譲″非民主的 小島 毅さん 東京大学教授
 日本の政治で、「禅譲」という言葉が普通に使われるのは不可解ですね。今回の自民党総裁選でも、岸田文雄さんが将来の禅譲を期待して出馬を断念したとか言われましたが、禅譲の本来の意味からすると違和感があります。
 禅譲はどちらの字も「ゆずる」という意味で、君主が自分の子ではなく、賢者に位を譲ることをいいます。「孟子」にある、尭が舜に位を譲ったという話などが典拠です。儒教では、これが理想的な王位継承の姿で、世襲より望ましいとされてきました。
 ただ、実際は単なる形式として使われました。最初の例は、1世紀の前漢から新への王朝交代。新を建国した王莽は王権を簒奪したのですが、尭・舜の禅譲伝承を利用してそれを正当化した。以後10世紀の宋まで、王朝交代はほとんど禅譲の形式をとります。
 禅譲という形式が使われた結果、流血の抗争はある程度抑制されます。前の王家の人々は殺される場合が多いものの、宮廷の高官たちはそのまま権力を温存したからです。
 儒教の定義では、禅譲と放伐、すなわち武力による政権奪取が対になっています。君主が暴虐であれば、殷の湯王や周の武王のような聖人が武力で取って代わるのは正当だとされました。
 日本に王朝交代はありませんでしたから、禅譲は儒教の教養として知られてはいたけれど、現実政治に影響したことはなかった。影響があったのは放伐で、それもその否定論です。17世紀の儒者の山崎闇斎は、殷や周の放伐ですら批判し、王朝交代のない日本の優越性を主張しました。
 日本の国体は天皇を君主にもつことだという見解は、明治維新の原動力でした。薩長は事実上の放伐を行なったわけですが、天皇の錦の御旗を掲げることで、賊軍討伐の形式で幕府を倒したわけです。
総裁選でも、2012年の石原伸晃さんのように幹事長が現任総裁の対抗馬になろうとすると、「君に弓を引く」的な言い方をされる。本質は権力闘争なのに、放伐を嫌い禅譲をよしとする風潮がある。
だから、安倍さんを力で倒すよりも、禅譲を待つといった話が正論として幅をきかせる。本来の禅譲とは全く違うわけですが、聞こえのいい言葉だから流通してしまう。
尭は舜に禅譲して政界から引退しました。その意味で、今の永田町で使われる禅譲は、むしろ中世の院政における譲位にあたります。前任者とその取巻きの権力温存を保障する仕組みだからです。
民主主義の理念では、政権の正統性は自由な選挙によって多数の支持を獲得することにもとづいています。現職に対抗する人物をつぶしにかかり、禅譲という美名での交代をはかるのは、自由・民主に反する行為にほかなりません。 (聞き手 編集委員・尾沢智史)」朝日新聞2018年9月21日朝刊15面、オピニオン欄、耕論

 山崎闇斎学派が提起した「湯武放伐否定論」は、日本の天皇「万世一系優位説」を導く。血統や男系相続という考え方は、過去の因習を大事にする「前近代」なので合理性を欠き、そもそも現行憲法下の総理大臣選出の方法としては、考慮の外にあって当たり前だと思う。民主主義を謳う政党のトップを選ぶ選挙ですら、「前近代」がまかり通っているのを見るのは、唖然とする。
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1 コメント

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Unknown (omachi)
2018-10-09 08:47:58
もう読まれましたか、
歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めます。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。 その1からラストまで無料です。夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、 既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレにも最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。平城京遷都を主導した聖武天皇の外祖父が登場します。古代の政治家の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。(奈良のはじまりの歴史は面白いです。日本史の要ですね。)

読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。

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