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江戸の「美人」はスマート カタルーニャは?

2017-11-24 04:50:06 | 日記
A.美人画浮世絵 清長・歌麿
 話をまた浮世絵に戻します。
 「美」に絶対の基準があるという考えは、数理的合理性をもちだして普遍的美学を構築する。しかし、人の感じる「美」はひとつではないことは誰でもわかる事実である。とくに「美人」という言葉が、現実の世界で具体的にいかなるものであるかを、証明できるかというと難しい。「美人」コンテストのようなものも、審査委員の印象に依存して、ある時代、ある人びとに共通に好まれるタイプのなかで恣意的に選ばれるにすぎない。「美人過ぎる女医」とか「美人過ぎる議員」とかの言い回しは、そもそも女医や議員に美女は稀だという前提で成り立つ軽薄な言辞である。
 「美人」は具体的には人の形姿、とくに顔の良し悪しであるから、「美人画」が流通する時代には、どういう顔が人々に好まれていたかが分かる。そしてそれは、数十年で転変することもまちがいないことが、江戸の浮世絵は示している。

「浮世の女性を、理想化し、「美人画」のジャンルを確立したのが鳥居清長(1752-1815)である。彼の世界は実際の遊里の女たちのそれではなく、絵画世界のなかの女性模様なのだ、という印象を与える。一七八三年(天明三年)頃の『浅草金竜山十境』のシリーズのような各品から清長の新しい傾向が生まれる。浅草近辺の江戸名所を背景に人物の営みが描かれ、そこには単に人物だけでなく、登場人物の関係を示す仕草があり、そこに絵画世界を感じさせるのだ。
 その身の丈の高いプロポーションを描く世界が生まれたのは、やはり『雛形若菜の初模様』(大判錦絵)や『当世遊里美人合』(大判錦絵)からであろう。前者は湖竜斎によって描かれたものであるが、ここではいかにも服装モード雑誌に登場するモデルのように、吉原の一流花魁(おいらん)が描かれる。その一点『丁子屋の若草』は、その若草があさのとみどりの二人の禿(かむろ)を引き連れて闊歩する姿が、颯爽としている。この動きが感じられるところが、湖竜斎などと異なる点である。背景を描かず、白く残しているのは、その豪華な衣装の中の牡丹、竹、鶴などの模様がすでに空間となって、周囲描写を避けさせたのであろう。後者はこのように花魁が歩く姿もあるが、周囲描写によって絵画の面白さを感じさせる。
 例えば『蚊帳の内外』は、遊女が男のいる蚊帳のなかに入ろうとしているが、ふと尋ねる男の顔と、蚊帳の外に立つ女性との会話があるのが面白い。色彩も蚊帳の緑と女の白い肌が対照的で優れた効果をもっている。『橘』は吉原と別の遊里であるが、清長の世界はそのような具体性とは別個である。身支度している芸者は鏡に向かっているが、その後姿がかえってしどけない。「春画」の分野にしてもそれまでの世紀そのものの表現から、清長のそれになってはじめて肉体の大きさを伴った絵画的なものになった。
 清長の絵画は二枚続き、三枚続きの大きな画面構成により、大きな空間構成を作りあげた。天明(1781-89)を後期の『化粧と張物、洗濯』(大判錦絵、三枚続き)では、右に鏡に向かって化粧をする女性と会話をする二人、中央に張物をする女性とキセルを持つ女性一人、左に洗濯する女性と水を汲むもの、張物をもつ一人を描き、その三画面を共通する赤い張物を描くことによって統一している。右の室内から、中央の庭、そして左の井戸端と、その空間の構成の中で、彼女らがお互いに会話を交わしていることがその動作から理解される。陰影法を欠くことにより、個々は平面的であるが、背景の遠近法が奥行きを作り出し、女性の動きと着物のヴォリューム感とあいまって、西洋画と同じ絵画の総合性を獲得していることがわかる。この遠近法はやはり三枚続き絵の『三囲の夕立』(大判錦絵)での、山門で雨宿りする人びとの区間表現にもよく示されており、その立体的な把握方法をよく体得していることがわかる。
 彼の役者絵では『出語り図』(大判錦絵)が構図的に興味深い。舞台上の役者のほかに背後に長唄、常磐津などの出語り連中を大きく描き、その唄い、奏している姿を適確にとらえている。彼は鳥居派の画家として、晩年は芝居絵の方に精力を傾け、版画から遠ざかる。自分の息子が、師の子を押しのけて継承者にならないために、その筆を折らせたという律儀な面があることをエピソードが伝えている。彼の画風を継いだものの中で、勝川春潮(生没年不詳)や窪俊満(1757-1820)らがいるが、いずれもその微妙な表情表現を欠いている。

 歌麿(1753-1806)はどこの生まれであるか不詳であるが、早くから江戸にやって来て、町絵師で花鳥画をよくした鳥山石燕のもとで学んだ。一七七五年(安永四年)北川豊章と称して『四十八手恋所訳』下巻の表紙を描いている。また忍岡歌麿の雅号で一七八一年(天明元年)に『身貌大通神略縁起』の挿絵を描いたが、線は明快であるもののまだ画風に特色はない。しかし後者を描いた頃、版元の蔦谷重三郎(1750-97)と知り合い、彼との協力により歌麿として新たな飛躍を遂げる。『四季遊花乃色化』(大判錦絵)には文字どおり色香が漂い、体のこなしと顔の微妙な表情表現法をすでに会得している。それは清長にはないものである。また狂歌絵本の挿絵も注目すべき作品で、とくに彩色摺りの『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥狂歌合』の三部作はその精細な動植物の表現で、伊藤若冲と並んで博物的な世界を展開する。その森羅万象の世界は、歌麿が単に女性表現だけではなく、自然の奥深さを知っていたことでもある。その動植物の表現にも単なる写生以上の「色気」があるのだ。
  曲亭馬琴によると《歌麿には妻も子もなし》(一八三五年〈天保六年〉)であるが、彼にはおりよという妻がおり、一七九〇年(寛政二年)に死去したという説がある。そしてその後に「美人画」と言われるジャンルを完成していったというのだ。一七九一年(同三年)から九五、九六年にかけて蔦屋から『婦女人相十品』『婦人相学十躰』『歌撰恋之部』などの雲母摺りの「大首絵」が出された。『十躰』の中では『ポッピンを吹く娘』(大判錦絵)が名高い。ビードロを吹く娘のコケテイッシュな顔が、そのふり返る姿に日本人らしく抑制した表情で描かれる。『十品』では『浮気の相』(大判錦絵)が湯上がりの手ぬぐいを手に、帯を無造作にしめて、媚態ともとれる目線をおくっている。『歌撰』では『物思恋』(大判錦絵)が、眉を剃り落として、一層目を細めた顔を手で支えた仕草はアンニュイそのものだ。『深く忍恋』(大判錦絵)もまた、下を見やるその忍ぶ感情が仄見える。いずれも題名がそれと推測させるのであるが、その表情だけでも何かを感じさせる。その感情表現は目と口でなされるようだ。この細い、小さな器官だけで感情を表す、その巧みなタッチこそ、彼が初めてのものである。それは近代的といってよい普遍的な個人の感情表現となっており、フランスの「印象派」の人物表現に影響を与えることになるのだ。
 『当時全盛似顔揃』とか『高名美人六歌撰』といった美人画を見ると、日本の浮世絵美人の典型がわかる。今日のような西洋型美人でなく、目は小さく細く、唇も厚くない。『寛政三美人図』(大判錦絵)ではそれぞれの女性が特定出来るが、美人のヴァリエーションが少ないのに驚かされる。「浮世絵」初期のより下ぶくれの顔と異なり、ほっそりした瓜ざね顔になっている。明治以降の西洋への過大な追随によって、今でこそこの型は不美人になってしまったが、美人の「うつくしさ」の型がこれで充分理解される。歌麿によってはじめて日本の美人像が完成されたのである。
 『青楼十二時』は吉原の一日を時刻の移り変わりとともに描いたもので、全身像が描かれ、その細身がすでに誇張され、「マニエリスム」の画風に変わっている。『娘日時計』も若い女性の一日の五つの姿を描いているが、顔の輪郭線を省いたり、さらに鼻の線まで省いた表現は、浮世絵がまさに着物表現によって成り立っていることを喚起させる。これは西洋画が、肉体そのものを基本にしているのと対照的である。
  一七九六年(寛政八年)の錦絵に遊女以外の芸者、茶屋女の名を入れことを禁じるお触れが出たときに、それとわかる衣裳の紋所を描いたり、名前を判じ絵の形で暗示させたりして抵抗した。また美人画への締め付けに対しては、母子像や山姥、金太郎といった主題を描き、そのあらたな女性像を開拓した。ゴンクールが西洋の聖母子像になぞらえた「母と子」の像は多くは乳房を吸う子どもであり、母性的な官能性の一部を語っている。山姥と金太郎の野性的な味は、『鮑とり』のような逞しい海女の世界を描くのと似て、洗練された「美人像」の反動かもしれない。しかしこれもまた女性的なものの一部であり、歌麿のあくなき女性への探求がなさしめたものであろう。とくに『海女と河童』は幻想的な春画として、出色の出来である。単に性交の場面ではなく、岩の上の海女の幻想として描かれ、海のなかでの想像の河童による犯行を見ているのだ。
 一七九七年、版元であった蔦谷重三郎がこの世を去ると、彼の人気を見て他の版元が殺到した。その数、四十数軒に及んだという。この時期の『音曲比翼の番組図』は主題そのものは浄瑠璃から取られたものだが、蚊帳を張る遊女と入る若者との場面に文字通りの「色」を描き、あまり筋には拘泥していない。『婦人相学十躰』『教訓親の目鑑』など、やや繰り返しが多くなってくる。やはりそれだけの数をこなすのは容易なことではなかったからであろう。そして一八〇四年(文化元年)五月、衝撃的な事件が起きた。歌麿が歌川豊国、勝川春英などとともに逮捕されたのである。それは武家を実名で扱うことを禁じた法令にふれたものであったが、実際はその風俗の伸長を取り締まるためであった。第一人者への見せしめもあってか、牢に入れられ手鎖五十日の刑を受けた。この鉄の枷を手首にかける刑は、手で仕事をする画家にとっていかに苦痛であっただろうか。五十二歳の歌麿が打撃を受けたのも想像に難いことではない。曲亭馬琴がのちに《歌麿も出牢せしが、其明年に没したり》(『井波伝毛乃記』、一八一九年〈文政二年〉)と書いているが、その二年後であったのを翌年としているところに、この逮捕がいかに画家の影を急激に薄くしていったかを物語っているようだ。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.466-474.

清長、歌麿は美人画浮世絵の巨匠として有名だが、ほかにも美人画を得意とする絵師はいた。清長の女性は背が高くてスマート美人だが、ぼくは個人的には、幕府のお納戸役旗本出身の鳥文斎栄之(1756‐1829)の美人画は、やはり長身ですっきりと洗練されていて、歌麿より好きだ。



B.カタルーニャ危機
 カタルーニャのスペインからの独立は、混迷を深めて簡単に片付きそうもないということは分かるのだが、要するに何が対立する問題になっているのか、日本人でわかっている人はどのくらいいるのだろうか?ピケティは、要するに税の取り分や比率をめぐって国と州が対立しているのだ、と説明する。

「カタルーニャ危機の病巣 所得税改革で乱された連帯:ピケティ・コラム
 今回のカタルーニャ危機の原因は、行き過ぎた中央集権化とスペイン中央政府の権力の横暴にあるのだろうか。それとも、むしろ地域や国家の間に競争を持ち込む論理が広がったためだろうか。この競争論理はこれまで、スペインでも欧州でも行き過ぎるほどに推し進められてきた。そのために、自分の身だけを守ればよいという風潮がますますエスカレートしている。
 時間をさかのぼろう。独立派の動きが激しくなってきたことを説明するにあたり、スペイン憲法裁判所の2010年の判決がよく引き合いに出される。国民党の下院議員による提訴を受けて、カタルーニャ州の新自治憲章(の一部)を無効とするものだった。特に司法権の移譲に関するものなど、判事が却下したいくつかの規定は、重大かつ根本的な問題を提起したにせよ、用いられた手法は反感を買うものだった。この自治憲章は06年に当時の社会労働党政権のもとで、国会とカタルーニャ住民投票によって承認されたため、なおさらだ。
 その一方で忘れられているのは、税の地方分権を進める新しい規定もまた、10年に承認されたということだ。カタルーニャ州および他の地域全体を対象にしている。ところが、11年に施行されたこの規定によって、税と予算ではより規模が大きく、連邦制をとる他の国と比べても、スペインは今や最も地方分権の進んだ国の一つになった。
 特に、所得税の課税基準は11年以降、中央政府と地方政府の間で半々に配分されている。具体的に言うと、17年に中央政府予算に組み入れられる所得税の税率は、9.5%(同6万ユーロ以上)だ。もしもある地方が、地方の取り分として課税基準に同じ税率を課すと、その地方の納税者はあわせて税率19~45%の所得税を払う。そして、その税収は中央政府と地方が半分ずつ分け合う。それぞれの地方は、独自の税率区分を適用先るし、また加算率を中央政府に収める税より高くも低くも設定できる。いずれにせよ、地方は各々の税率に従って税収を受け取り、他の地方と分け合う必要はなくなった。
 こうしたシステムには、数多くの問題がある。国内の連帯という概念さえ台無しにし、地方同士を対立させる。こうした事態は、所得税といった手段においては、ことに問題だ。というのも、所得税は地域もしくは職業のアイデンティティーとは関係なく、低所得者と高所得者との間の格差を縮小できるはずだと考えられているからだ。この国内の競争システムによって、11年以降、ダンピング競争が生まれ、裕福な個人世帯あるいは企業が、税制上架空の居住地を作ることにもつながった。このことはやがて、全体の累進性を危うくするかもしれない。
 これに比べ、スペインの7倍の人口があり、地方分権と州の権限に重きを置くことで知られる米国では、所得税はこれまでずっと、ほぼ例外なく連邦税である。特に、この連邦所得税こそが1913年に導入されて以来、税の累進性の働きを保証してきた。30~80年は、最高額の収入に対する課税率は平均して80%以上で定着した。80~90年代以降は、40%足らずで落ち着いている。
 州はそれぞれ、さらに加算率を議決することもできるが、現実には5~10%という低いものにすぎない。カリフォルニア州だけで、人口はほぼスペインと同じであり、カタルーニャ州の6倍にのぼる。カリフォルニア州の納税者も、できるものなら自分のため、子孫のために、連邦税の税収の半分を州に残したいだろう。ただ、決してそうはならないし、実を言えば、本当に残そうとしたことは一度もないのだ。
 よりスペインに近い例としては、ドイツ連邦共和国がある。ドイツでは、所得税はもっぱら連邦税である。バイエルン州の納税者がどう思おうが、州が加算率を議決することもできなければ、ほんのわずかな税収を手元に残すこともできない。
 地方や地域レベルで決める加算率という考え方自体が、悪いわけではないということは、はっきりさせておこう。ただし、節度あることが条件だ。フランスでは、住民税の代わりになる可能性もある。所得税の収入を地方と半分ずつ分かち合うというスペインの選択は、行き過ぎだった。その結果、カタルーニャ州の一部の人たちが、独立することで税収のすべてを手元に残そうとする事態に今日、至ったのである。
 この危機については、欧州の責任もまた大きい。特に、スペインを犠牲にしたユーロ圏の悲惨な危機管理に加え、ここ数十年、「何もかもを同時に手にすることができる」という考えに基づいた文明モデルを推し進めてきた。欧州規模、世界規模で大市場への統合を進める一方、連帯の義務も、公共財に出資する義務も、実質的にはない。こんな状況なら、いっそ試しにカタルーニャを、ルクセンブルク風のタックスヘイブンにしたらどうか。
 確かに、欧州全体の予算は存在するが、極端に少ない。当然、経済統合の恩恵をいちばん受けている人たちに依存しなければならないはずだ。というのも、欧州共通の税は、米国と同じように、法人利益と最高水準の収入に課されるからだ。
 よりうまくできるかもしれないが、道のりは遠い。連帯と、バランスの取れた発展を実践することでこそ、欧州は分離独立主義に対抗しうるだろう。(©Le Monde,2017)(仏ルモンド紙、2017年11月11‐13日付、抄訳)」朝日新聞2017年11月22日朝刊、13年オピニオン欄。
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