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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

閑話休題 花田清輝 新元号 エイプリルフール。

2019-04-02 02:33:34 | 日記
A.花田清輝のこと
 先月、岩波文庫の『日本近代短編小説選』を偶然本屋で手に取って買って、そのなかの円地文子さんの「ニ世の縁 拾遺」を興味深く読んで、そこから上田秋成「春雨物語」と「雨月物語」をこのブログでとりあげた。そしてまた、読んでなかった村上春樹の『騎士団長殺し』第1部を読んでいたら、地下から鈴の音が聞こえてくるという話が出てきて、これって『二世の縁』みたいじゃないか、と思ったらやっぱり「春雨物語」が小説中に出てきた。まだ読んでいる途中なのでそのことは措いておいて、『日本近代短編小説選』でもうひとつ、きわめて面白かったのが花田清輝の「群猿図」(1960年「群像」に発表)という歴史小説というか歴史評論というか、自由自在の文章だった。どんな感じかというと、こんな感じである。主人公は武田信玄の父、武田信虎である。

 「しかし、つまるところ、それは、単純な戦術であって、信虎のエポック・メーキングな戦略にくらべると問題にならないのだ。これは、猿の知恵が、人間のそれや鳥のそれにくらべると段ちがいにすぐれているためであることはいうまでもない。しかるに、信虎にとって、もどかしくてならないことに、どうしても信玄には、その自明の事実がのみこめないのだ。そして、父親の猿中心のものの見かたを、不肖の息子は、あくまで人間中心のそれに置き換えようとするのである。たとえば信玄が、城らしい城をつくらなかった理由を説明するさいに、しばしば、引用される「人は城人は石垣人は堀、なさけは味方あだは敵なり」というかれの和歌にしても、あるいは信虎の「猿は城猿は石垣猿は堀、なさけは仇あだは生き甲斐」といったような和歌からきているのかもしれないとわたしはおもう。なぜなら、あらためてくりかえすまでもなく、猿のむれの戦略・戦術にもとづいて豪族たちの反抗に終止符をうち、それ以来、甲斐の国に城らしい城をつくることを禁じた最初の人物は、息子のほうではなく、父親のほうであったからだ。そういえば、つつじケ崎館で、その屈服した豪族の一人である大井信達やその先生である冷泉為和に手ほどきをうけ、のちには菊亭晴季などにも教えをこうた信玄の和歌は、ついに模倣の域を脱しなかった。元亀三年(1572)、三方ヶ原のたたかいを前にしてつくった、かれの絶唱であるといわれている「ただ頼めたのむ八幡の神風に浜松が枝はたおれざらめや」にしても、『新古今集』のなかの「ただ頼めしめじが原のさしもぐさわれ世の中にあらんかぎりは」にならって、遠く及ばないものがある。いわんや永禄六年(1563)、かれが箕輪城をかこんださい、城中にあった雑兵のよんだ和歌としてつたえられている「水汲みに行くのが地獄の一の木戸行くとは見えて帰る人なし」などをおもいうかべると、かれの戦勝祈願歌など、まことにそらぞれしいかぎりであって、ここでは攻守ところをかえ、無名の雑兵の和歌が、すっかり、名将のそれを圧倒しているのだ。しかし、信虎には、信玄が為和や信達に影響されて、やたらに腰折れをつくりはじめたこと位い、かくべつ、とがむべきことだとはおもわなかった。それよりもかれの腹にすえかねたのは、かれの愛人の一人である小沢の方が、同様に信達に煽動されて、ひどく武芸にこりだしたことだ。もっとも、これは、かならずしも信達一人の責任ではなく、もしかすると、そのころ、おりおり、つつじケ崎館へやってきた盲法師たちの語る『平家』にかの女が感動していたからであって、信達の武辺咄は、かの女の昔からいだきつづけてきた空想を、実践に移するキッカケを提供しただけかもしれなかった。いや、なによりいけなかったのは、かの女が「色白く、髪長く容顔まことにすぐれた」女である上に――『菊隠録』は、「無垢世界龍女之後胤」などと誇張した表現をつかっているが――武田の家中で刀をとってはならぶものがないという評判のあった今井貞邦の妹だったことであろう。つまり、かの女は、かの女自身を、『平家』のなかに登場する木曽義仲の愛人で、今井兼平の妹だった巴のような女だとおもいこみたがっていたのである。しかし、盲法師たちの語るように、はたしてかの女が、「ありがたき強弓(つよゆみ)、精兵(せいびょう)、馬の上、歩(かち)立(たち)、打物(うちもの)持っては鬼にも神にも逢(あお)うという一人当千の兵(つわもの)」の名に値いするかどうかということになると、あんまりかの女には自信がなかった。だが、かの女は、いつも巴のように、荒馬にひらりとまたがり、一気に崖をかけおり、強弓をひき、大太刀をふるって、武田の騎馬隊の先頭に立っている、さっそうとしたかの女自身の姿を夢みていたのだ。かの女の巴気どりは、いつの間にか、ハレムのなかにも知れわたり、人々は多少の皮肉をこめて、かの女を、巴殿というようになった。
 かの女が巴殿なら、さしあたり、信虎は、義仲ということになり、いずれは泥田のなかで非業の最期をとげなければならないわけであるが――しかし、むろん、かれは、そんなことにすこしも腹をたてたのではない。『逍遥軒記』のなかに述べられているように、「兵法と申すは小事にして下輩の習うものなり、侍五人三人とも支配せん者は、左様の志はもってのほかのことなり、兵法にて人を斬りたるとも一人か二人より余は成間敷。我が兵法は、一度に千も二千も、また五千も一万も料理すべくと、つねづね心掛け候。」というのが信虎の持論である以上、べつだん、「下輩」の兵法修行に不満をいだいたのでもない。不満どころか、どうやらかれは、愛人としては、弱い女よりも強い女のほうが、手ごたえがあっていいとおもっていたらしいのである。にもかかわらず、かれが、しだいにいらいらしだしたのは、かれの予期に反して、昼間の過度の運動のために疲れきったかの女が、夜は健康な寝息をたてながら、ぐっすり眠ってしまい、ほとんどかれにたいしてはかばかしい手ごたえを示さなくなったばかりではなく、しばしば、かれの持論にたいして批評がましいくちさえきくようになったからである。前にも述べたように、猿のハレムには、一匹の指導者猿をめぐって、メス猿たちが、たくさんいる。信虎にもまた小沢の方のほかにも、信達の娘で、信玄たちの母親である御北様や、上杉憲房の寡婦だった小紋殿がいた。しかし、かの女たちは、信虎の子どもたちとともに、毒にも薬にもならない和歌の製作に没頭し、信虎にとっては、小沢の方以上に手ごたえのない感じだった。」花田清輝「群猿図」(『日本近代短編小説選 昭和編3』所収)岩波文庫、pp.209-213.

 武田信虎は、甲斐一国を統一し守護から戦国大名に脱皮して信濃にも勢力を伸ばした武将だが、やがて息子の晴信(のちの信玄)にクー・デタを起こされ追放されてしまう。しかし駿河で暮らし今川滅亡後は京に行って、ずっと怪しい動きをしつつ生き延びる。花田はこの信虎を、虚々実々の政治的陰謀に生きる猿軍団のボスとして描く。資料文献も駆使しているが、その文章は三浦つとむ同様、基本的にひらがなで、しかもやたら句点で区切る。なんといっても、政治的人間の行動や性格を皮肉と滑稽でしつこく塗り重ねていく粘着質の文章である。
 ぼくが花田清輝という名まえを知ったのは、学生の頃読んでいた吉本隆明が、さかんに花田のことを攻撃していたからだ。言語論、芸術論で花田は吉本の論的・強敵だった。それだけ花田の文章ははっちゃけたエネルギーに満ちていた。次は、小説ではなく評論というか随筆である「ロカビリーと諸葛孔明」。

 「したがって、わたしは、ロカビリーにたいするハイティーン族の陶酔を、現実逃避だとか、植民地化されているためだとか、満たされない欲望にたいする一種の代償行為だとかいって、憂い顔をしてみせる風潮にかならずしも賛成ではない。社会現象として受けとる前に。まず、それを、芸術プロパーの立場からながめてみる必要があるのではなかろうか。論者たちは、頭から陶酔することをいけないことだときめてかかっているらしいが――しかし、人びとを陶酔させることのできないような芸術が、はたして芸術の名に値いするであろうか。ジャズらしいジャズが、自由奔放な即興的演奏、乾いたはげしいリズム、無我夢中の状態における創造、等々によって、人びとを陶酔へ誘いこむことはあたりまえであって、それを、いまさら、どうのこうのといってみたところで、はじまらないではないか。むしろ、ロカビリーの流行ということで、この際、最も問題にしなければならない点は、今日のヤンガー・ゼネレーションが、音楽的にみればそれほどきわだった特色のない素朴なロカビリーのようなものに心をひかれないわけにはいかないほど、ジャズそのものが、技巧的になり、ハイブラウ化し、衰弱していることではなかろうか。とにかく、いまだにロカビリーには、ジャズにとって不可欠の要素である原始的なリズムが、まがりなりにも受けつがれているのである。三島由紀夫は、『スクリーン』(1958年5月号)に、エルヴィス・プレスリーの主演した、映画『監獄ロック』のアメリカにおける反応について、つぎのように書いている。「字幕は彼の名が出るだけでキャーキャーワーワー、大拍手喝采、最初の一曲の歌で又キャーキャーパチパチ、監獄に入ったエルヴィスが頭を丸坊主にされるところで、又ワーワーキャーキャー。そこまではわかるが、エルヴィスの役が出世して人気者になり天狗になって、親友から諫められナグリ倒されるところで、又拍手大喝采。そのとき咽喉を打って入院し、医者が沈痛な面持ちで、もう彼は一生歌えまい、と呟くところで、キャーキャーワーワー大拍手大喝采にはおどろいた。この話を私は、アメリカ人のパーティでたびたびしたが、いつも大受けで、意地悪なニューヨークのインテリは、その最後の拍手だけは俺も大賛成だ、と言うのであった」と。
 なかなか、ドライな大衆の反応ぶりでたのもしいかぎりである。わたしは、かえって、三島のいわゆる「意地悪なニューヨークのインテリ」のほうに、エネルギーの欠乏した、芸術家のスノッブ面をみないわけにはいかなかった。ロカビリーの流行が気にくわないならば、ロカビリー以上に強烈な音楽をつくりだしてみせればいいではないか。とりわけわれわれの周囲においては、現在、日本的なものをアメリカ的なものへ転換させるだけではなく、アメリカ的なものを日本的なものへ転換させることが、要請されているのではあるまいか。ドラムは素晴らしい。しかし、日本の太鼓だって、まんざら、すてたものではなかろう。「わずかに大太鼓を打叩きて、よく水声風声等を想像せしむるが如き簡単なる技巧は、とうてい、複雑なる西洋オペラの企て得ざるところにして、かくの如きはあえて芝居の鳴物のみならず、文学絵画一般の芸術を通じて、東洋的特徴の存するところならざるべからず」とは、『江戸芸術論』のなかの永井荷風の意見である。わたしには、ロカビリーに匹敵する程度の原始的リズムなら、手近なところにいくらでもころがっていそうな気がしてならないのだ。日本や中国の楽器をつかった、東洋的なロカビリーがあらわれないのは、いったい、どういうわけであろうか。たとえば中国の筑(ちく)などは、竹をもって弦をうつ琴に似た楽器らしいが、一度もみたことさえないにもかかわらず、『史記』の『刺客列伝』のなかに登場する高漸離という筑の名手の挿話などから想像すると、なんとなく東洋的なロカビリーにおいて、一役を演じてもさしつかえなさそうな感じがわたしにはする。高漸離はきわめて行動的であって、かれの演奏にききいって、うっとりとなっている秦の始皇帝を、鉛をいれた築をふりあげて撃ったのである。もっとも、この挿話は、築ではなく、高漸離がロカビリー的なものに適していることを物語っているだけかもしれない。
 ロカビリー大会へ行ったおかげで、まだ、『魏晋南北朝通史』を読了していないので、どうも自信をもって断言するわけにはいかないが、秦漢時代から隋唐時代への過渡期にあたる三国六朝時代の特色は、つまるところ、中国が、漢民族だけの国家から多民族国家へ転化しつつあった点に求められるであろう。したがって、それまでの漢民族の礼儀作法なども大いに乱れていたにちがいない。そこから、さっそく、その当時の音楽が、ジャズ音楽のように無礼な性格をもつにいたったという結論をひきだすことはできないにしても、折目正しいクラシック音楽が、昔の面影を徐々に失いつつあったことに疑問の余地はない。諸葛孔明なども、稀にみる知的な人物であったにもかかわらず、伝記によると、若年のころ、好んで「梁父吟」をなす、とある。この「梁父吟」は、いまでは、「歩みて斉の城門を出ず。遥かに望む蕩陰里」といったような文句で始まる一篇が残っているだけであるが、それは一種の流行歌のようなものであって、どうやらその時代の「ビーバップ・ルーラ」みたいなものだったらしいのだ。さらにまた、その後、かれが結婚するや否や、近所の人びとは、孔明婦をえらぶをなすなかれ、ただ阿承の醜女を得たり、といったような歌詞をつくってはやらせたということだ。この挿話は、『三国志』の本伝には載っていないが、張栻(ちょうしゃく)の『諸葛忠武侯伝』には出ている。要するに、かれの生涯は、流行歌の文句とともに始まっているわけであって、これでは、英雄、首を回らせば、神仙、どころか、英雄、首を回らせば、りゅこう歌手、ということになりかねない。もっとも、孔明の青春は、伝説の厚い幕につつまれているので、にわかに断定はくだしがたい。先日、寺田透に会ったとき、孔明をどうおもうかといってきいてみたら、この博学な人物が、落着きはらって、かれは、ハンセン氏病だったという説もあるネ、と答えたのにはびっくりした。そのため、劉備が再三訪問するまで、世間との交渉を絶っていたのだというのである。
 いかにもそういわれてみると、おもいあたるふしがないこともない。たとえばかれは、つねに車にのって戦場へあらわれるが――そして、それが、かれに、独特の風格をあたえていることは事実であるが――しかし、病人だったとすれば、車にのって陣頭指揮をするのも当然のことだ。阿承の醜女の一件にしても、かれが病人だったため、そういう仕儀にたちいたったのだとおもえば、おもえないこともない。しかし、おそらくそれは、信ずるに足りない一片の浮説であろう。『三国志演技』はかれの風貌を形容して、「面は冠玉の如く、頭に綸巾(りんきん)をいただき、身に鶴氅(かくしょう)をつく。眉は江山の秀をあつめ、胸に天地の機を蔵す。表飄然として当世の神仙なり。」といっている。これまた、絵に描いたような英雄であって、いっこう、説得力がない。しかし、わたしは、かれの現実逃避を、エネルギーの欠乏からくる逃避ではなく、エネルギーの過剰からくる逃避ではないかと考える。かれは、テスト氏のように、みずからを限定することを拒否していただけのことではなかろうか。たぶん、かれの頭のなかでは、儒教的なものと、老荘的なものとが――人民委員的なものと、行者的なものとが、たえず争っていたであろう。その結果、かれは、礼儀を尊重し、同時に無礼であった。そして、たえず「梁父吟」をうあたいながら、方々をうろつきまわっていた。ここで、わたしは、「東京新聞」にのった有吉佐和子のロカビリー歌手山下敬二郎訪問記をおもいだした。かの女はその冒頭でつぎのように書いている。「某日午後五時、山下敬二郎クンにはシネケレバイケナイコトガ二つカチ合ってしまった。第一は東京新聞から有吉佐和子という彼の聞いたこともない作家の訪問を受けることであり、第二は友人から新車のドライブに誘われたことである。折しも日劇春の踊り出演中、次の出番までたっぷり時間はある。敬ちゃんは逡巡なく第二を選んでいた。インタビューという面倒くさいことより、車の方がイカすことウケアイだからである。たいしたものだわね、ロカビリー歌手としちゃ正統派の方よ、きっと、とスッポカされた方が、こんなことを言って感心しているのだから世話がない」と。
 たぶん、かの女もまた、孔明を訪問してスッポカされた劉備のように、アッケラカンとした顔つきをしていたにちがいない。わたしは、山下敬二郎を、いきなり孔明とイコールで結びつけようとするつもりなど、さらさらないが――しかし、二人とも車の好きなところは似ていないこともないようだ。いや、単にそればかりではない。無礼なところも似ている。にもかかわらず、かれらは――すくなくとも山下敬二郎のほうは、大局的観点からみれば、それほど『礼記』の教えからはずれているわけではない。「詩はその志を言い、歌はその声をうたい、舞はそのかたちなり。三者は心に基づく。しかして後、楽器これに従う。」と『礼記』はいう。ここにロカビリーの神髄があるからである。」花田清輝「ロカビリーと諸葛孔明」(『花田清輝著作集Ⅳ 近代の超克・もう一つの修羅』、未來社、1964.pp.45-49.

 ロカビリーという若者受けの音楽が流行っていた頃の文章だが、これと諸葛孔明を対比して強引に論を結ぶ。
 花田清輝(はなだ きよてる:1909(明治42)年-1974(昭和)49)年、福岡市生まれ)は、評論家・作家。学費未納のため京都帝大英文科除籍。大学時代から学生運動に関与したが、その後、アジア主義的なナショナリスト中野正剛らの「東方会」に参加。1939年には正剛の弟中野秀人や詩人の岡本潤らと雑誌「分化組織」を刊行。戦後、マルクス主義の弁証法と唯物史観に立って奇抜なレトリックを駆使した評論集『復興期の精神』(1946)によって注目を集める。第一次戦後派の文学と共闘するかたわら、ジャンルを超えた前衛的芸術運動の総合化を提唱。代表作に「アヴァンギャルド芸術」「映画的思考」「近代の超克」など。60年代からは「俳優修業」「小説平家」など批評性豊かな小説を発表し、高い評価を得た。(岩波文庫『日本近代短編小説選』の解説より)
 最後に、花田流の芸術論。

 「われわれは、ワグナーのような「天才」ではない。また、そうであってはならない。したがって、さまざまな領域の芸術家たちが、共通の課題をめぐって、創造の面において、自主的に協力しあうことは当然のことではないかとわたしはおもう。そこに、綜合芸術運動の必要なもっとも素朴な理由がある。マス・コミ芸術の制作にあたっては、プロデューサーというものがあって、いろいろなスタッフを集めて、一時的な協力関係をつくりだす。そして、そのばあい、それぞれの芸術家たちは、あたえられた課題をとくだけのことであって、概して自主性を喪失しがちである。その結果、できあがった作品は、たとえすぐれたものであったにしても、要するに、第一級の規格品であるにとどまる。こういう停滞した状態に突破口をつくるためにも、われわれの綜合芸術運動がおこらなければならないのである。しかるに、戦後の文学者たちのなかには、個人的に、文学以外のジャンルに手をだす人物は多いが、どうもジャンルの綜合を目ざすといったような運動の意識に乏しいようだ。これは、ひとつには、かれらが、戦争中、職業奉公とかなんとかいって、職能的なもののなかに閉じこめられ、孤立化させられていた習慣が身についてしまったためかもしれない。わたしは、岡本太郎のような画家に、多くの文学者たちよりも、はるかにひろい視野と、ゆたかなコンモン・センスと、芸術の総合化にたいする熱意があるようにおもう。こんど『泥棒論語』で、はじめて安部真知と一緒に仕事をしたが、かの女が、『美術を担当して』というその芝居のパンフレットのなかの一文で、つぎのようにかいているのをみて、わたしは恐縮した。「とくに蝶々御前については最も苦労しました。作者の考えのなかでは永遠の女性として描かれているわけですが、そうなると、ますます形になりにくく、演出者も演技者も私も含めて、この創造に頭をなやました。しかし、芝居づくりに参加する人間は、作者自身が、常套的な説明ではすまされぬ、言葉をあたえられないほどのものを発見し、形づくるというむずかしい課題を、ぜひともしとげていかねばならないのだと、この分野での仕事のなみなみならぬ困難を痛感しました。」と。わたしは、その蝶々御前という白拍子を、ボリショイ・サーカスの司会者、イリーナ・ベルマンのイメージをおもいうかべながらかいた。したがって、かの女には、サーカスの口上をいう以外、ほとんどセリフをしゃべらせなかった。そして、ずうずうしくも、永遠に女性的なるものを表現してもらいたいという注文をだしたのだから、安部真知が困惑するのも無理はないのだ。本当のことをいうと、わたしはその白拍子のセリフや芝居が、歌や踊りに移っていく決定的瞬間に、すべての期待をかけていたのである。そうだ、ここらで、ちょっと、芸術の綜合化における大衆芸術の拆割についてふれておこう。『大衆のエネルギー』をかいて以来、たぶん、その題名だけをみて、中身を読まないせいであろうが、わたしもまた、無条件的に階級的エゴイズムの肯定の上に立っていると思いこんでいる連中がいるようだ。わたしは、大衆の自然発生的なうごきを大事だとおもうが、それを組織していく前衛党というものがなかったなら、大衆のエネルギーなど、たちまち雲散霧消していくものだという自明の事実から眼をそらそうとするものではない。大衆芸術のばあいも同様であって、わたしは前衛芸術との関連においてのみ大衆芸術を問題にしているのだ。
 たとえば『芸術的抵抗と挫折』(未来社刊)の『情勢論』で、吉本隆明は、つぎのようにかいている。「戦後、『政治と文学』の論争を提起して、政治の人間化を主張した『近代文学』系統の芸術家たちのうち、たとえば、花田清輝、佐々木基一、野間宏などは、現在、大衆娯楽の綜合的な芸術家という主張に転じている。」と。わたしは、政治の人間化などという甘ったれた主張をしたことは一度もない。わたしは、ヒューマニズムにたいしては、終始一貫、反対してきた。たとえば、わたしの『復興期の精神』は、戦争中、『アンチ・ルネッサンス論』という題名で発表されたのだ。わたしと佐々木基一と野間宏とを、十把ひとからげにしてとりあげる粗雑さもどうかとおもうが、いったい、「大衆娯楽の綜合的な芸術化」とはいかなる意味であろうか。芸術の綜合化という私の主張と、その綜合化にあたって、マンネリズムにおちいっている芸術を変革するために、いっぱんからは非芸術として受けとられている、大衆芸術を否定的媒介にしなければならないというわたしの主張とを、一緒くたにして混乱した頭で受けとめたためであろうが、なによりくだらないと感じるのは、芸術と娯楽とを区別するうじゃじゃけた精神である。つねに創造の場に立っている芸術家にとっては、娯楽などというものはない。芸術家の手によって創造されたものを、享受する側にだけ、芸術が娯楽としてうつるのだ。映画やミュージカルは娯楽で、詩は芸術だとおもいこんでいるような詩人こそ、典型的な職人である。芸術家の眼には、芸術と非芸術とがあるだけだ。そして晩年のトルストイにとっては、『アンナ・カレニナ』は非芸術で、『コーカサスの俘虜』は芸術だったのである。さて、最後に、埴谷雄高の批判をぜひやってもらいたいという編集部の注文を思い出したので、チャップリンの『ニューヨークの王様』のなかの少年と王様との対話を左にかかげておこう。
 少年――現代の人類は力を持ちすぎているのです。ローマ帝国がシーザーの暗殺で崩壊したのはなぜです。
 王様――それは……。
 少年――権力を持ちすぎたからです。封建制度がフランス革命とともにくずれ去ったのはなぜです。
 王様――それは……。
 少年――権力を持ちすぎたからです。そして、今、全世界が崩壊しようとしているのはなぜですか。
 王様と少年――権力を持ちすぎたからです。(笑う)」花田清輝「二つの絵」(『花田清輝著作集Ⅳ 近代の超克・もう一つの修羅』、未來社、1964.pp.107-110.



B.「令和」の開始
 今日のニュースは、新元号「令和」で埋まった。元号がどういう感じになろうが、なにが変わるわけでもあるまいと思いつつ、この不便な時間の命名は、日本人という呼称と同様、名前をつけることによってなんらかの意味付けはもってしまうだろう。「平成」が始まった時、たまたま偶然ではあるが中国では天安門事件が起き、ベルリンの壁が壊れて、まもなくソ連をはじめ東側社会主義国が崩壊した。個人的にも、ぼくはその年、当時の西ドイツにいて、日本の元号など意識したこともなかったが、昭和の世界とは違う現実を生きることになった。

「あれから五年、日本の何が変ったのであろうか?
 第一に、日本の人口構成が変化した。人口減と高齢化が加速し始めた。岩手、宮城、福島という被災三県の人口は、震災前の2010年に571万人だったが、2015年には19万人減って552万人となった。3.3%の減少であり、この間の全国の人口減95万人(0.7%)に比べても、人口減は顕著である。日本の人口は2008年に既にピークアウトしていたが、東日本大震災は人口減社会を一気に顕在化させ、とくに東北の人口減を決定づけた。この五年間での全国95万人の人口減とは和歌山県、もしくは香川県の総人口が消えたことを意味し、被災三県の19万人減は甲府や松江級の都市が消えたことを意味するのである。
 また、この五年間が人口構造の高齢化を加速させたことも視界に入れねばならない。戦後生まれの先頭世代たる「団塊の世代」が、五年ですべて高齢者ゾーンに入ったためである。2010年に23%だった65歳人口比重は2015年には27%となり、「人口の三分の一が高齢者によって占められる日本」の現実味を突き付けてきた。50年前の1966年、日本の人口が一億人を超した年、人口に占める65歳以上の人口の比重はわずか7%であった。それが三割を超す「超高齢化社会」に向けて、日本はその入口に入ったのである。
 第二に、復旧・復興の皮肉な現実としての被災三県の県内総生産の拡大とその歪んだ構造を指摘しておきたい。実は、不可解なことが進行している。全国の経済活動(生産、所得)が低迷する中で、被災三県の県内総生産や県民所得は、統計上驚くほど伸びているのである。県民所得は2010年度の被災三県の合計14.0兆円が13年度には15.6兆円にまで11%も伸びている。
 復興需要である。産業別の県内総生産の動きをみると、第二次産業だけが、3県とも突出した伸びとなっており、とりわけ建設業だけが2010年度比で2013年度が岩手県107%増、宮城県120%増、福島県113%増となっており、復興予算の投入というカンフル注射で、表面的には経済が活性化しているようにみえるが、長い目で見た産業創成は全く進まない歪んだ形の地域経済になってきているのである。
 国の復興予算をみると、2011年度から15年度の累計で実に32.0兆円が投入された。国民はその財源確保のため、復興特別税として2015年度までに累計1.9兆円を追加的に負担している。復興特別所得税として所得税額の2.1%が付加され、それは2037年度まで今後20年継続されるのである。復興特別法人税は15年3月で終了した。
 それほどまでの復興予算を注入して、復旧復興は進んだのかというと、前述のごとく表面統計を見ると、建設需要だけを拡大させて経済が伸びているようにみえる。
 しかし、踏み込んで凝視するならば、大きな問題に気付く。復興予算の投入で、県別・市町村別の復旧・復興計画は進んでいるかに見える。がれき処理、住宅の高台移転、堤防の嵩上げなどは順調に進捗しているという数字が確認できる。だが、視界を東北全域に広げると、いまだに広域東北をいかなる産業基盤で再建するかの構想・グランドデザインは描けていない。
 復興庁まで創設し、復興を束ねているかに見えるが後藤新平を持ち出すまでもなく、関東大震災に立ち向かった世代と対比しても我々の時代の構想力は劣弱である。国交省によって「国土形成計画」が2014年には策定され、私自身も作業に参画し、人口減社会を睨んだ「コンパクト・アンド・ネットワーク」を志向する国土形成という方向感が示され、東北ブロックの広域地方計画も策定された。
 国土政策という視界は的確だと思うが、人口減を加速させる広域東北を如何なる産業基盤をもった地域にするのか、もっといえばこの地域に生きる人たちはどうやってメシを食うのかについての、産業政策的戦略はまだ見えない。」寺島実郎「東日本大震災から五年――覚醒して本当に議論すべきこと」(能力のレッスン特別篇『世界』2016年7月号)岩波書店、pp.39-40.

 これは東日本大震災後5年の2016年夏の文章だが、それから3年たった今も、事態は基本的に変わっていないだけでなく、復興という名の公共工事は終了して、被災地から人の影は去っている。

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