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1950年代チャンバラ時代劇考 14 まとめその1

2019-07-07 22:00:23 | 日記
A.時代劇ヒーローの4類型・3要素 
 1950年代東映チャンバラ映画をテーマに、多くは橋本治氏の『完本チャンバラ時代劇講座』を手がかりに読んできたのですが、最後にぼくなりのまとめを書いておきたい。中心となる焦点は、1950年代から1964年までの時代劇映画ヒーローたちが、どのような人間像として造形され、それが当時の男の子、その後成長して青年、おじさん・オヤジ、そして爺さんになり果てるまでの人格にどのような影響を与えたか、ということです。いままであまり考えたことがなかったんですが、子ども時代にチャンバラごっこで覆面して棒をもって塀から飛び降りていた自分がいたことを思い出すと、やっぱりあそこで何かが刷り込まれていたのだと思います。端的にいえば、「男」とはどういうものか、「男らしく生きる」というのは具体的にどういうことなのか、という問題にチャンバラは繋がっていた。それを、ぼくなりに考えてみます。
「男」の問題にしぼるのは、当時の時代劇映画は女性も見ていたし、錦之助や橋蔵の女性ファンはたくさんいたのですが、それはいつの時代にもいたイケメン・ファンの女の子たちで、今のジャニーズ系や韓流追っかけと大して変わらないからです。彼女たちはそのうち大人になってファンを卒業し、時代劇ヒーローが精神的思想的意味を持って自分のなかに沈殿するようなことは起きません。とくに、昭和の時代劇がもつ特殊なメッセージは、明らかに女にではなく、男に向けて発せられていたのです。その源流は、明治の講談や大正期の大衆小説、そして新派や新国劇の描き出した世界にあり、戦後の大衆娯楽としての映画最盛期に、時代劇として花開いたわけです。
 東映以外の映画大手各社は、ときの流れを意識して時代劇も作ったけれど、現代劇に力を入れたので、女性観客を想定したホームドラマやサラリーマンもの、あるいは青春ラブストーリーや日活無国籍アクションのような作品が人気を得ていました。しかし、少なくとも1950年代に、日本映画で一番観客を集めた娯楽映画は東映時代劇だったことは疑いない。満員の映画館は男の子やオヤジたちで熱気に満ちていました。まもなく高度経済成長という忙しい時代がきて、誰もが生活に夢中でなにかを深く考える余裕をなくしたので、時代劇は役割を終えて消えてしまったし、映画自体がテレビに駆逐されて、テレビではやらないポルノやヤクザ映画に潜り込んでしまいます。テレビはといえば、軽薄な日常性のお手軽を追求しましたから、まさに人気タレントを並べた「トレンディ連続ドラマ」と、毎週同じような「2時間ミステリー」と、残り滓のような定番時代劇シリーズでお茶を濁しました。
橋本治の「チャンバラ時代劇は早く終わりすぎた」という言葉は、いまになって納得するものがあります。でも、あの最盛期の時代劇はなにを描き、(男子)観客はそこからなにを受け取ったのだろうか。それを見たこともない今の50代以下の人にとっては無意味な問いに思えるでしょうが、彼らにとってもお父さん、お爺ちゃんが何を考えていたのかのヒントぐらいにはなるだろうと思います。
今それを、時代劇ヒーローの4つの類型をつくって考えてみましょう。4つの類型というのは、図のような2つの軸の交点に分類されます。横軸を「私的自由―公的義理」とし、縦軸を「明朗快活(明)―陰鬱屈折(暗)」としてみると、
 A:明朗な自由人(代表として「旗本退屈男」早乙女主水之介)、B:快活な公的義人(代表として「忠臣蔵」大石内蔵助)、C:屈折した自由人(代表として「大菩薩峠」机龍之介)、D:陰鬱な公的義人(代表として国定忠治)ということになります。
 早乙女主水之介と机龍之介は小説中の架空の人物ですが、大石内蔵助と国定忠治は実在した人物です。ただし、歴史上実在した人物だからといって、時代劇映画のなかの大石や忠治はあくまで後世の作家が造形したヒーローと考えておきます。横軸の基準は、その人物ががっちりした身分社会である江戸時代に生きていながら、なんらかの意味で身分や制度の枠を免れて遊ぶ自由人か、それともその身分や立場ゆえに人の上に立つ役割を負って立派に義務を果たす人か、の判断です。‟退屈男”主水之介は、千二百石の旗本として生活の安定を得て妻子はなく、派手な着流しで退屈しのぎに悪人と戦う自由人。赤穂浅野家城代家老の大石内蔵助は、お家断絶で浪人になりますが手堅く同志をまとめて討ち入りを成功させる義士の頭目。観客にとっては初めから文句なしにポジティヴなヒーローです。一方、縦軸の基準は、悩んだり迷ったりする暗い男、机龍之介は剣術道場主の息子でしたがいろんないきさつで妻を斬り殺し、江戸から上方へ攘夷運動に加わって放浪する危険な精神病者。国定忠治は、上州の博徒ヤクザの親分で、司直に追われ捕らえられて磔になったアウトローです。こっちの方は、どうみてもネガティヴな闇の世界のヒーロー。
 こうした系列で、他の時代劇キャラクターも分類してみると、こんな連中です。

Aタイプ(明るい自由人)は、大川橋蔵の若さま侍とか葵新吾、中村錦之助の一心太助や弟とコンビの殿様弥次喜多、そして嵐寛寿郎の鞍馬天狗のおぢさん、などが並びます。実は将軍の御落胤とか、大名の世を忍ぶ姿とかになっている場合もありますが、軽く扱われていて、そういう殻を脱ぎ捨てた無頼の浪人や遊び人です。
Bタイプ(快活な公人)は、天下の副将軍水戸黄門の印籠に始まって、実は町奉行の幕府高官遠山金四郎や大岡越前守忠相、もっと下っ端は銭形平次など。極めつけの暴れん坊将軍はテレビの創作ですが、ヤクザの世界でも清水次郎長は天に代わって悪を懲らしめる正義の味方、勧善懲悪の見本みたいなヒーローは繰り返し描かれます。
Cタイプ(屈折した自由人)は、机龍之介をもっと通俗化した円月殺法の眠狂四郎をはじめ、「天保水滸伝」の用心棒平手造酒といった痩せ浪人や、ヤクザでは沓掛時次郎とか座頭市、木枯し紋次郎とか、自分は世の拗ね者とイジけつつあれこれ理屈をつぶやくクサレ一匹狼。これが前面に出てくるのは東映時代劇が終ったあとですが。
Dタイプ(陰鬱な公人)は、千姫を手放して滅ぶ豊臣秀頼、伊達家安泰のためすべてを引っかぶって死ぬ原田甲斐とか、幕府転覆を企んで自滅する由比正雪や、平田神道の理想を追って結局維新の中で狂人として死ぬ青山半蔵とか、函館で戦死する新選組の土方歳三あたりもここ。悲劇の色合いを帯びた反逆者や滅びゆく英雄です。
 ほかにもいろんな主人公がいますが、だいたいこの4類型のどれかになるだろうと思います。

 さてそれで、この人たちに明と暗、陰と陽の違いはあるとしても、(多くの男の)観客が惹かれる共通要素とはなんでしょうか?それが通常決まり文句になっている「男の生きざま」とか、「義理と人情の意気地」とか、「弱気を助け強きを挫く」とかいった言葉で喚起される「気分」が、チャンバラ時代劇から由来している可能性がかなり強い、というのが僕の仮説です。それは日本の明治以来の「近代化」という圧倒的な社会変動と、その中で消え去った江戸時代の人間生活を、西洋文明を価値とする国家エリートに対して、「なんとなく」近代文明についていくのはシンドいなと疑問を投げる時のネガ・フィルムとして作り出されたイメージでした。それは現実に存在した江戸時代とは別のものだったけれど、なんか俺たちが生きている世界に、男たちが疲労や抵抗を感じた時、チャンバラ時代劇のヒーローたちの姿は、別の選択肢を暗示していたのかもしれないのです。とくに、近代的武器暴力で組織された軍隊に取られ、世界を相手に戦った大戦争に、みじめというほど敗北して生き残った痛い体験を、1950年代に映画館に詰めかけてチャンバラを見ていた30歳以上の男たちにとって、大きな影響を与えないはずはなかったと思います。

 次に上記4類型にあげた時代劇ヒーローたちにほぼ共通する特徴をあげてみましょう。1950年代の明朗版を東映で代表させ、1960年代後半からの陰鬱版を大映で代表させてみますと、3点になります。
 1)自由人(フリーター)であること・・藩や組織に属さぬ浪人や無宿人で、したがって袴をはかない着流し姿、妻子はもちません。ときどき好きな所にふらっと旅をしたりします。公人類型の場合も、ただガチガチの組織人ではなく、どこか庶民的で親しみを感じさせる人物になります。ただ机龍之介系列は、孤独を好む奇人変人に傾きますが・・。【東映《陽》(旗本退屈男・金さん)/大映《陰》(眠狂四郎・座頭市)】
 自由人であることは東映の場合は、生活に困らず面倒にものを考えなくてすむお気楽な遊び人の条件です。だが大映の場合は、生まれついての無頼の徒であり世間に受け容れられない境遇を宿命づけられている人間になります。
 2)剣の達人であること・・チャンバラである以上、必ず剣をふるって相手を倒すクライマックスの立ち回りが用意されます。強力な敵ほど戦いは盛り上がる訳で、敵役は憎たらしく権力や組織力を駆使する悪人であればあるほどクライマックスが映える法則です。「音なしの構え」、「諸刃流正眼崩し」など、技に名前がついているのも特徴です。【東映《陽》(旗本退屈男・宮本武蔵)/大映《陰》(眠狂四郎・座頭市)】
 「剣の達人」という特殊能力をもつことが東映の場合は、邪悪な敵と対決して必ず勝つことで、すべてが正当化され浄化されますが、大映の場合は、人を切ることが本人にとっての正義の達成でもなくカタストロフでもなくむしろストレスだ、というあたりが屈折してる訳です。
 3)歪んだ女性観をもっていること・・時代劇は基本的に「男のドラマ」なんですが、映画だから美女がサポートで登場します。彼女はほぼ例外なく、男が期待する理想の美女です。するとヒーローはある種の無理な態度を貫きます。【東映《陽》(旗本退屈男・宮本武蔵)/大映《陰》(眠狂四郎・座頭市)】
 妻や恋人をもたず、女を寄せつけない独身男に設定されたヒーローは、なぜかその美女にどこまでも慕われ追いかけられる。これもほぼ共通したパターンですが、東映の場合は、退屈や求道という自分の追求に女は邪魔だと考えつつ、実は美女に慕われるのは内心嬉しい。でも手は出さない禁欲です。これはお子様も見る大衆娯楽映画として、恋愛や性はタブーだったということもあります。しかし、そうして拒否していたはずが、机龍之介系の大映眠狂四郎の場合は違いました。基本的には女を邪悪なものと聖女の二種類に分けておいて、悪に染まった女はどんどんレイプして捨てるくせに、聖女だけは大事にして手を触れないのです。これも女性というものへの歪んだ蔑視と考えられます。


 眠狂四郎については後回しにして、最後に先の4類型を東映時代劇では、新選組以外はあまり取り上げられなかった幕末維新ものにあてはめてみると、戦後時代小説の流行を改変したともいえる司馬遼太郎の作り出した主人公にも、適用できると気がつきました。つまり、Aタイプ(明るい自由人)は「竜馬がゆく」の坂本龍馬。これはあまり説明しなくてもいいかと思います。司馬遼太郎の竜馬は、きわめて明朗闊達な人物設定で最後は暗殺されますが、暗い悲劇には思えない。Bタイプ(快活な公人)は「飛ぶが如く」の西郷隆盛です。司馬が描く西郷は、茫洋として器が大きく、維新という大事を成し遂げて最後は鹿児島で倒れますが、基本的に強く明るい人物になっています。Cタイプ(屈折した自由人)は、「竜馬がゆく」などに登場する土佐藩足軽の人斬り岡田以蔵です。剣で人を殺すだけの暗い人間ですが、政治に巻き込まれて処刑されてしまう男です。そしてDタイプ(陰鬱な公人)はあえて言えば「王城の守護者」の会津藩主松平容保でしょうか。京都守護職という重い役を引き受けて、滅ぶ幕府のために働きながら会津は朝敵の汚名を着て落城するのです。悲劇の殿さまです。
 でも、坂本龍馬も西郷も東映時代劇ではちょっと出の脇役でしか登場していません。松平容保も岡田以蔵もほとんど出て来ません。それは1950年代の東映時代劇の頃はまだ司馬遼太郎は小説家ではなく、文化担当の新聞記者だったわけで、「竜馬がゆく」は登場していなかったからです。ということは、竜馬などの幕末ヒーローがテレビや映画で人気になったのは、1970年代からだということです。そして、「竜馬がゆく」以後の司馬遼太郎のヒーロー像は、チャンバラ時代劇とは別種の、つまりそれまでの戦前からの時代劇とは異なる「歴史の真相」的な「戦後的な」視線を含んでいたことにもなりますが、同時に、その司馬遼太郎も時代小説を書くにあたって、チャンバラ時代劇を意識してはじめは「剣豪小説」的なものを考えていたこともうかがわれます。
 司馬遼太郎にあるのは戦前からの「男のドラマ」としてのチャンバラ時代劇と、戦争の最前線で兵士として戦車に乗って死に損なった体験から、従来の時代劇ではないなにかを、つまり歴史の再解釈を踏んでおく必要があると思ったからでしょう。でも、それはぼくの4類型に収まってしまうような、やっぱり戦後的に新しい要素で組みなおしてあるけれども、「日本の男」はいかにあるべきかという大仰な構えを前提に、国民大衆(つまり男性に)にヒーローとはどういう人間かを提示しようとしたのだと思われます。
 21世紀に生きているぼくたちには、もうチャンバラ時代劇も司馬遼太郎も、なんだか遠い過去の幻影のようになってしまって、時代小説はただ江戸時代の話に借りて、現代に置いてけぼりを喰った中流幻想勤労者や、縮みゆく高齢者の懐古的相贋物になっているような気がします。でも、「男のロマン」などということを今も口にするオヤジがいて、なぜか平成生まれの若者のなかにすら、「日本男児の生きざま」とかなんとかに共鳴する子がいるらしい、というので、ぼくはこれをもう少し考えてみようかと思うのです。

B.草刈正雄のおかあさん、いやおふくろ。
 母を語る、という記事がときどき新聞に載るのですが、今日はこれに目が留まったので読みます。
 「時代劇好き 一緒に映画に :かあさんのせなか   俳優 草刈正雄さん
 北九州にいたころは怖い母でした。悪さをすると「あんた何しよんね!」と、バットを持って追いかけてきました。よそで「親か警察か先生、どれを呼ぶか」と聞かれて「おふくろだけはやめてください」と言ったくらいです。
 ぼくの父親はアメリカ兵で、僕が生まれる前に朝鮮戦争で戦死しました。母一人子一人なもんですから、おふくろはめちゃめちゃ厳しかった。僕は愛情をかけられてないなと思っていました。
 早く自立したくて、中学で新聞配達をして、欲しいものは自分で買いました。定時制高校に通いながら雑誌の訪問販売をしたり、スナックでスルメを焼いたり。そこのマスターにモデルを勧められ、おふくろに言うと、「あんたの好きにしていいよ」って。17歳で上京しました。
 ところが離れてみると、やっぱり、親なんです。母一人じゃかわいそうだとか、九州にいる時はひとつもなかった感情がわいた。2年くらいして呼び寄せました。おふくろは「今さら東京に行ってもね」とか言ってましたけど、うれしかったんじゃないかな。雑貨の卸会社を辞めて来てくれました。
 それから売れてきましてね、僕は。おふくろが来て運が向いた。少し離れた時期もあるけど、僕が結婚したころおふくろが大病をしたので、また一緒に住もうって、うちの子どもたちの誕生を喜び、かわいがってくれました。
 おふくろは9年前、自宅で突然亡くなりました。脳梗塞でした。すがりついて号泣しました。ごめんなさい、こめんなさいって。同居していたけど、もっと優しい言葉をかけてやればよかった。九州にいた方がおふくろは幸せだったんじゃないか、って。
 何も欲しがらない、どこにも行きたがらない人でした。ものすごく苦労したと思うんです。おふくろがきばって、父親の役をしてくれたのかもしれません。
 おふくろは時代劇が好きでね。昔、よく映画館に連れて行ってくれました。当時の俳優さんはすごくインパクトがあった。いま自分の演技を見て、ふと「中村錦之助のセリフ回しに似てねえか」「これは丹波(哲郎)さんだな」とか思ったりします。僕はモデル出身で演技の勉強をしたことがない。考えてみれば、おふくろのおかげで今がある。本当にありがたいことです。  (聞き手・渡辺純子)」朝日新聞2019年7月7日朝刊33面、教育欄。

 草刈正雄さんは、1952(昭和27)年、北九州市生まれ。70年に男性化粧品CMでデビュー。特異な風貌のイケメン俳優としてブームを呼び、TVや映画で活躍し現在もNHK朝ドラでヒロインの祖父役を演じていることは周知の人ですが、ぼくはこの記事を読むまで米兵として朝鮮で戦死した父をもつ人だったことは知りませんでした。朝鮮戦争は1953年7月に休戦協定が結ばれるまでの約3年続いたから、おそらく草刈さんは父の顔も見ていないか記憶にないでしょう。北九州は米軍の最前線補給基地だったから、こういう境遇の母子家庭は珍しくはなかったのかもしれませんが、若い母と幼い男の子のその後の生活が厳しいものだったことは想像できます。映画館で東映時代劇を見たおそらく最後の世代ではないでしょうか。
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