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日本史における真の革命家? 1 北条泰時  文化体験の格差

2024-05-25 14:18:28 | 日記
A.山本七平の示唆
 以前このブログでも触れたことがあるが、橋爪大三郎が『丸山眞男の憂鬱』(講談社選書メチエ・2017年)で山本七平(1921~91)の『現人神の創作者たち』1983から示唆を得て、丸山眞男の『日本政治思想史研究』1952を読み解くという作業をしていた。そこでの一番の問題は、江戸時代の山崎闇斎学派内で湯武放伐論をどう捉えるか、という儒者の思想的立場をめぐる論争だった。簡単にいえば、中国史では易姓革命が何度も起こり、王朝が倒されて新王朝ができた。この革命というものを肯定するのかどうか、という点で、朱子学をはじめ儒教の正統派は、革命は歴史的必然性にたつものとして肯定するのだが、日本の山崎闇斎や浅見絅斎はこれを主君への反逆として否定し、日本だけが万世一系の天皇を戴く正当な国家だと考えた。闇斎学派はやがて朱子学と神道を合体させて、幕末の尊王思想にまでつながっていく源流のひとつとなった。
 丸山眞男は、戦中に書いていた『日本政治思想史研究』で、江戸の政治思想のうち、荻生徂徠を近代的「作為」の合理性を導くものとして評価したが、闇斎学派には「憂鬱」なまま態度を決めなかった。そこで、山本七平は、幕末の尊王思想から明治の国家主義、そして昭和の天皇制ファシズムまで、いわば極端にイデオロギー化された神聖な天皇への忠義という観念は、もともとのオリジナル日本思想ではなく創作されたものだという視点を出したと考えられる。橋爪も述べていることだが、元禄時代に起こった赤穂事件について、闇斎学派では赤穂浪士の吉良討取りをめぐって、これを正義とみて幕府の処分を批判する浅見絅斎らと、それは朱子学でも幕府は正当だとする佐藤直方が対立し、佐藤は闇斎から破門されるという結果になった。ここで頼朝の鎌倉幕府以来、武家政治を敷いた歴代将軍は天皇に逆らう簒奪者であるという思想と、現実の政治過程の正当性が焦点になった。
 ということで、今回は橋爪とも近い大澤真幸の『日本史のなぞ』朝日新書2016を読み直してみる。はじめ読んだ時、日本史における革命はあるのか、そして日本史上で革命家的イメージのある信長や後醍醐天皇も、西洋の革命家や中国の易姓革命に該当する「革命」はできずに消えたとする。唯一、革命に値する事業をなしたのが、一般には影の薄い鎌倉幕府三代執権の北条泰時だという説に、興味を惹かれた。あわせて中世史の専門家、坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018を参考書にしてみたい。まずは「革命」をめぐって。

「こう考えると、日本社会の歴史の中には、革命家も、また革命もまったくなかったのではないか、と断じたくなる。日本は、革命なき社会ではないか、と。
 しかし、一人だけ、革命を成し遂げたと認定できる人物がいるのだ。信長以上の英雄はどこにいるのか。冒頭でも述べたように、その人物はあまり目立たない。その名は、北条泰時。北条泰時は、中学や高校の歴史の教科書にも登場するだろうから、日本の歴史にある程度詳しい人であれば、知っているはずだ。しかし、織田信長や後醍醐天皇や中臣鎌足などに比べれば、はるかに知名度は落ちる。泰時と名を聞いて、何者であり、何を為した人であるかをすぐに分かる人は、日本人の平均よりはかなり歴史に詳しい人だということにはなるだろう。
 北条家は代々、鎌倉幕府の執権であった。執権は宰相(総理大臣)のようなものである。ということは、執権の他に、いや執権の上には、将軍(征夷大将軍)がいる、ということである。だが、相当日本史に詳しい人でも、鎌倉幕府の将軍は、源姓の第三代しかいない、と思っている人すらいる。だが、もちろん、それはとんでもない間違いであり、鎌倉幕府が滅びるまで将軍はいた。鎌倉幕府の将軍は、九代までいたのだ。鎌倉の武士たちは、源氏の血が事実上途絶えた四代以降は、わざわざ京都から摂関家(藤原家)か皇族の男児を迎え入れ、将軍に据えた。幼少時に将軍とし、まだ若いうちに(10代から30代前半)将軍職を解き、別の将軍に取り替えられることが多かった。したがって、鎌倉幕府の実権を握っていたのは、将軍ではなく、執権の北条の方である。なお、北条氏嫡流の当主のことを「得宗」と呼ぶ。後醍醐天皇が率いる西の皇室権力と鎌倉幕府との間の戦いについては、今しがた述べたばかりだが、この時後醍醐が敵として照準していたのは、もちろん北条家である。
 と、教科書的には、このような説明になるのだが、しかし、鎌倉幕府のこうした構成は、まことに奇妙なものである。まったく実験がないのであれば、どうして、将軍がいなければならないのか。しかも、今述べたように、源氏は三代で途絶えたので、それ以降は、源氏とはほとんど関係がない者を、わざわざ京都から連れてきて将軍にしているのだ。しかも、その将軍が、実質的な権力を揮うことがないように、若い頃に解任してしまうのである。こんな将軍は不要であるように見える。またどうしても将軍が必要ならば、なぜ、北条自身が将軍になってはいけないのだろうか。これは非常に不思議なことだが、今、この問題に深入りすると、考察の本筋から外れてしまう。
 さて、問題は北条泰時であった。泰時は、三代目の執権である。時政、義時、そして泰時と執権の地位は継承される。とすると、ここでまた、当然、疑問が出てくるだろう。北条氏は執権で、先に述べたように、鎌倉幕府が存続していた期間の大半において実験を握っていたとはいえ、最初から、北条にそれほどの権力があったわけではない。「革命」という基準で考えた場合には、幕府内の権力争いでトップに立つことに成功した北条よりも、そもそも鎌倉幕府を開いた源頼朝の方が、はるかに重要なのではあるまいか。なぜ、最初の将軍よりも執権の方が、より革命的だということになるのか。しかもその上、泰時は、執権としてでさえも、三代目である。最初の執権が革新的であったというならばわからなくもないが、なぜ、三代目の執権がここで挙げられるのか。このように疑問がもたれるだろう。
 もともと、北条氏は、有力御家人のひとつでしかなかった。北条氏にとって有利だったのは、政子が頼朝の妻だったことだが、頼朝が死没したとき、北条だけが、他の御家人より突出した指導力をもっていたわけではない。御家人たちの中で、北条が、謀略・誅殺・合戦などを含む複雑な政争を通じてのし上がっていく過程は、極端に血なまぐさいことを別にすれば、大企業の中での出世争いと本質的には変わらず、ここにとりたてて革命的なところなどない。この過程を詳しく説明する必要はないだろう。ただ、この台頭していく過程で、北条氏の立ち位置、とりわけ北条政子-義時(政子の弟)ラインの立ち位置には、皇室との関係で、一貫した特徴があったということだけ指摘しておきたい。
 京都の皇室は、鎌倉幕府内の皇室寄りの勢力と結びつき、鎌倉幕府内に楔を打ち込み、影響力を行使しようと、繰り返し画策してきた。北条は、そのとき、常に、皇室寄りの勢力を粛正する側に回っている。ということは、北条は、鎌倉政権を、京都の皇室からできるだけ独立させようとしていたのか。それも違う。政子は、皇室から(第四代の)将軍を迎え入れようと懸命の交渉をしている(うまくいかなかったのだが。したがって、北条は、皇室が陰で糸を引くようなかたちで鎌倉に影響力を行使することに対しては拒絶的だったが、皇室と友好的な関係を築きたいとは望んでいたのだ。
 ともあれ、激しい政争に勝ち抜き、頼朝の妻だった政子の権威を借りながら、その弟で第二代執権の義時は、鎌倉幕府内での権力基盤を固めた。政子と義時のきょうだいは、父時政さえも、政争の過程で伊豆へと追放していた。その義時の子が北条泰時である。
 泰時は、いったい、どんなすごいことをやったというのか。実は、北条泰時が、日本史上唯一の革命家だ、という主張は、私の独創ではない。山本七平がかつて、そのように論じているのだ。私は、この後、山本の著書から多くのインスピレーションを得ながら、議論を進めるだろう。ただ、私と山本では論じ方がだいぶ違う。山本は歴史の人である。山本の論述から、われわれは繊細な事実過程を知ることができる。それに対して、私は論理の人である。私は、泰時が成功した理由を、抽象的で形式的な論理として取り出してみたい。論理を解明するということは、なぜこのような事実過程が生じたのかを、説明することである。それは、現在のような、鎌倉時代とはまったく異なる状況においても説明可能な形式的な論理を、泰時が行ったことから抽象することを意味している。
 そのためにも、泰時が何をしたのかを具体的に確認することから始めなくてはならない。泰時を、日本史上の唯一の革命家として認定する根拠は、どんな事実にあるのか。
 北条泰時が歴史の中でメリハリの利いた役割を果たす最初の場面は、承久の乱である。このとき執権は、まだ父の義時だ。1221年(承久三)の承久の乱は、西国の王権である皇室と東国の王権である幕府が正面衝突した戦である。すぐ後に説明するように、この戦闘は、空前絶後の特別な意味をもった戦であった。このとき、先頭に立って幕府軍を率い、朝廷方を鎮圧したのが泰時である。
 泰時の特異性を納得するための最初の鍵は、承久の乱がどのような意味で空前であり絶後だったのか、ということを理解することである。日本社会の歴史の中には、これと同規模の「内戦」は、数多あったように思える。承久の乱と近いところでは源平の争い、あるいは日本人にとって最終決戦の代名詞にまでなっている関ケ原の合戦、また徳川幕府を滅ぼし、近代への幕開けともなった戊辰戦争等々、数えきれないほどの戦闘があった。これらのなかのいくつかは、承久の乱と勝るとも劣らぬ大規模で決定的な戦争だったのではないか。どうして、承久の乱だけが特別なのか。
 承久の乱は、述べたように、西国に基盤を持つ朝廷と東国に基盤を持つ幕府との間の戦争である。なぜ戦争になったのか。仕掛けてきたのは、朝廷の方である。きっかけは、何か。きっかけは、ある意味では、どうでもよいことである。後鳥羽上皇は寵姫で白拍子の亀菊の所領(摂津長江・倉橋荘)の地頭が、亀菊の言うことをきかないので、これを停廃するようにと幕府に要求してきた。義時は、弟の時房に1千騎をたずさえさせて上洛させて――つまり力を誇示して――、これを拒否させた。この後、後鳥羽院が源頼茂を誅殺して反撃する等のできごとがあるのだが、これらは省略してもかまうまい。要するに、後鳥羽院の地頭改補の要求を、義時が拒否した。これをきっかけに、後鳥羽院は、義時追討の院宣・宣旨を諸国に下した。かくして、承久の乱が勃発した。承久三年五月十五日のことである。
 この経緯にも示されているように、朝廷側の中心には、後鳥羽院がいた。『新古今和歌集』の撰集を命じたこの上皇が、当時、いわゆる「治天の君」として京都では権力の中心にいた。彼は、日本統治の実験を幕府から奪い返したく、以前から、鎌倉政権内で皇室に好意的な御家人に接近しようと、さまざまな策を弄してきた。もっとも、後鳥羽の策は、先に紹介した――歴史の順序からすれば一世紀強ほど後に登場する――後醍醐に比べれば、はるかにスケールの小さな細工ではあったのだが。
 後鳥羽の「地頭を変えよ」という要求も策略のひとつである。この要求は、一種のいじめ、あるいは挑発だったと思われる。その少し前(二か月前)に、三代将軍源実朝が暗殺され、しかも実朝には子がなかったため、幕府は象徴的中心を失った状態にあった。御家人たちの間にも、未だ一枚岩の団結がなかった。この状況を見て、後鳥羽は、幕府が受け入れがたい要求をつきつけたのである。地頭の任免権は、幕府がもつ(かつて後白河法皇が頼朝に与えた)最も重要な権限である。もし後鳥羽の要求を受け入れ、これが前例になれば、地頭の任命権が実質的には朝廷に奪われたことになる。
 だから、幕府側としては、後鳥羽の要求を呑むわけにはいかない。しかし、幕府には、これを敢然と跳ね返すだけの地力がないことを、幕府のリーダーたち自身も知っていた。幕府は苦しいところに追いつめられた。後鳥羽としても、幕府側が要求を全面的に受け入れることはない、ということは織り込み済みのことであっただろう。しかし、もしわずかであっても幕府が譲歩的な回答を出してきたら、幕府の弱体が天下に示され、各国の地頭に、少しでも朝廷に嫌われれば職を失う可能性があると印象づけることができる。そうすれば、地頭の忠誠心は、幕府から徐々に離反し、朝廷側に向けられるようになるはずだ。もし、幕府の回答が全面的な拒否だったら、朝廷側はどうすればよいのか。その時には、朝廷を拒否したことを口実にして、幕府追討の命令を発すればよいのだ。そして、実際にそうなったのである。
 後鳥羽は、将軍という中心を持たない幕府は院宣によって動揺させるか、あるいは武力で一撃を加えれば、崩壊すると予想していたのではないか。ところが、そうはならなかったことを、われわれは知っている。ということは。後鳥羽の予想に反して、幕府に集まる東国武士たちの連帯は強かったということになる。(将軍がいないという意味で)中心は空虚なのに、幕府には強烈な求心力があった、ということになる。
 ……という推測は、間違っている。後鳥羽の状況認識は、おそらく、正確だった。幕府は、中心をもたず、遠心的に分解してしまいそうな状態だったはずだ。むしろ、幕府が執権北条得宗家を中心にしてまとまったのは、まさに、承久の乱を戦うことを通じてだったのである。幕府の下にいた御家人たちがよく連帯していたがゆえに、承久の乱を戦い、これに勝利できたわけではない。逆である。承久の乱を戦うことで、武士たちは連帯したのである。
 実際、義時追討の命令が上皇から出されたとき、巻頭の武士たちは動揺したに違いない。上皇につくのか、北条につくのか。ふりかえって見ると、--―ここがきわめて肝心な点だから強調しておくが――それまで武士は、一度も朝廷に対して全面的に対抗したことはなかったのである。
 そんなことはない、と反論するむきもあるだろう。それ以前にも、源氏や平氏は、皇室の誰かと戦ってきたではないか、と。確かに、それは事実だが、その場合には、皇室の内部。朝廷の内部に亀裂があって、一方のグループと対決することは、必ず他方に加担することを意味していた。誰も皇室の全体を敵に回しているわけではない。たとえば、保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇の争いであり、前者の側に、源義朝(頼朝の父)や平清盛が味方し、後者の側に、源為義(義朝の父)や平忠正(清盛の叔父、伊勢平氏)がついた。
 したがって、武士は、それまで大きな戦いを起すときには、必ず「院宣」とか「令旨」といった皇室の一員の命令をあらかじめ受け取ってきた。たとえば源氏と平氏の戦いは、後白河の三男以仁王が諸国の武士たちに向けて発した命令、つまり平氏追討のための蜂起を促す呼びかけがきっかけになって始まっている。あるいは、源義経が頼朝に歯向かったときも、また頼朝が義経に反撃したときも、ともに院宣を受けている。義経の敗因のひとつは、後白河から強引に受け取った宣旨(頼朝追討の宣旨)を、結局失い、逆に頼朝に義経追討の大義を与えてしまったことにある。
 だから武士は、東国に朝廷の意に沿わない政権を樹立したとはいえ、それまで、公然と、そしてトータルに、朝廷に対抗したことはなかったのだ。朝廷の中の誰かと戦うためには、朝廷内の別の誰かの支持を必要としてきた。しかし、承久の乱のときは違う。後鳥羽の呼びかけに応えて京都から来る軍と戦うことは、天皇と、朝廷のすべてと戦うことを意味する。朝廷内の誰も、幕府傘下の武士に、「後鳥羽追討」の命令を出してはくれない。幕府側の武士たちは怯んだに違いない。士気が上がらず、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってもふしぎではない状況だ。後鳥羽のねらいもそこにあっただろう。」大澤真幸『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』朝日選書、2016年。pp.26-36.

 ことの経過をざっくり要約しているので、余計な説明は要らないだろう。大澤氏が、山本七平を「歴史の人」とし、自分は「論理の人」と規定しているのが、ずいぶん傲慢だが面白いと思う。つまり、社会学者大澤真幸は、歴史家ではなく、抽象化した論理によって歴史を切り刻んでみるということか。


B。体験格差?
 「格差」という言葉が、社会問題を広く説明するキーワードになったのは、20世紀末頃からだったろうか。「格差社会」という言い方も、その頃からしきりにメディアで使われた。でも、ぼくは社会学の階級論や階層論を79年代からやってきた人間なので、従来は階級や階層として捉えてきた、国家社会全体をどう見るか、という点で「格差」という用語は、一種ごまかしかまやかしを含む恐れを感じた。それはいまや、誰も使わなくなった「階級」に取って代わってしまった。「文化資本」の階級差ということも、社会学では長く問われてきたが、ここで「体験格差」という言葉も、もう少し 分析用具として整備する必要があると思う。

 「あるシングルマザーの小学生の息子が、突然正座になり、泣きながら「サッカーがしたいです」と言った。そんな胸を締め付けられるエピソードからはじまるのが、チャンス・フォー・チルドレン代表理事今井祐介による『体験格差』(講談社現代新書)だ。子どもたちにとって体験(スポーツ、文化活動、旅行、キャンプ、地域参加など)は格別な意味を持つ。しかし親の貧困状況によってそこには明確な格差がある。今井らの調査によると、低所得家庭の小学生の約3人に一人は1年間で体験ゼロだという。
 日本社会が子どもの貧困という問題に向き合い始めたのも、ようやく最近のことだ。しかし親の収入や食事、学習の貧困に比べて、大権の貧困は軽んじられてきた。そこには、体験は「贅沢品」という先入観がある。日本は特にその傾向が強くあるだろう。
 しかし子どもたちによって体験とは「贅沢品」なのではなく「必需品」なのではないか、と今井は主張する。たんに楽しいだけではない。子どもの頃の体験は、他者と協力する力、将来に対する意欲や価値観などにも影響していく。だからそれは個々の親や家庭ではなく、「社会」全体の責任として、すべての子どもに保障されるべきなのである。(ハロー)」東京新聞2024年5月24日夕刊3面、大波小波欄。 
 この記事の隣に、椹木野衣氏執筆の美術評欄があり、「デパートの裏舞台としての美術館」という記事で、前橋市のかつてデパートであった建物を転用したアーツ前橋という美術館について、山縣良和展にふれている。そのなかに「実際、かつて日本では都心部の主要なデパートが軒並み本格的な美術館を備えた時代があった(若い世代にとっては信じがたいことだろう)。だが、バブル経済の衰退とともに、これらは次々と姿を消していく。」という文章がある。
 ぼくにはすぐに、あの堤清二が率いたセゾングループの拠点、東京池袋の西武デパートの上にあった西武美術館(1975年開館、1989年セゾン美術館に改称、1999年閉館)を思い浮かべた。セゾン美術館に併設して美術書専門書店「アール・ヴィヴァン (ART VIVANT) 」が開店。前衛美術専門書など書籍のほか、現代音楽のレコードなども取り扱い、当時の日本では入手困難だった音源を紹介していた。ひどく懐かしく、デパートが最先端の文化空間だったあの時代、もう遠い過去になっていることに驚く。昨年、そごう・西武は米投資ファンド「フォートレス・インベストメント・グループ」へ売却、売り場面積は半減させ、「ヨドバシカメラ」が入る計画もあるという。従業員ストの結果か、いまのところ、大きな改装はなされていない。
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