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1950年代チャンバラ時代劇考 15 まとめその2

2019-07-10 14:40:22 | 日記
A.不忠臣蔵?
 中学生になった頃だったと思う。ぼくの家は当時「産経新聞」をとっていて、夕刊に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が連載されていた。岩田専太郎の挿絵が素晴らしく、ぼくは毎日それを楽しみに読んでいた。ある日そこに、大宅壮一だったと思うが「日本人の忠誠心」という特集シリーズが始まった。何げなく読んでみると、まず話は「忠臣蔵」で、元禄時代の赤穂事件、のちに歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」として巷間に流布される物語のもとになった事件について、赤穂城の図録も載せて書いてあった。「忠臣蔵」がどういうものか、浅野内匠頭とか吉良上野介とか映画やテレビでいちおうは子どものぼくも知っていたが、実際の事件がどういうもので、それが日本人の忠誠心とどう結びつくのか、はじめて興味を持った。NHK大河ドラマで「赤穂浪士」が1年間放映されたのは1964年だから、この大佛次郎版忠臣蔵も見ていた。蜘蛛の陣十郎という盗賊を宇野重吉、吉良上野介を滝沢修という民芸の大御所が演じていたのと、敵方の知恵者、上杉家家老千坂兵部を関西歌舞伎の實川延若という人が演じていたのも記憶にある。売り出し中の若手歌手舟木一夫が、四十七士の最年少矢頭右衛門七を演じていたのも当時話題になったが、ニヒルな浪人堀田隼人の林与一が大石の長谷川一夫に並ぶもうひとりの主役であることは忘れられた。
 産経新聞の「日本人の忠誠心」が忠臣蔵を中心に、赤穂事件当時のさまざまな事実や背景を探りながら、これが明治以降の日本帝国の国民形成の精神的支柱のように再構成されていった、という論点は、非常に興味深かった。しかし、中学生のぼくには「竜馬がゆく」から受ける自由な若者の飛翔する変革への情熱に比して、忠臣蔵の世界はひどく古臭いもののようにも思われた。主君への忠、全体への自己犠牲、集団への気配りや同調、仇討ちという復讐の肯定、どれも負けた戦争への屈折した「日本人」を、江戸の武士道みたいなもので賦活させようという姑息な動きにみえる。それはあの戦争中に、忠臣蔵が滅私奉公、一億玉砕の宣伝に利用されたことも知った。
 こんど戦後のチャンバラ時代劇についてみてきて、たまたま井上ひさしの小説に「不忠臣蔵」というのがあることを知ったが、集英社文庫になっているというが、絶版になったか書店にはもうなかった。仕方なく図書館を検索して岩波から「井上ひさし短編中編小説集成」の第10巻に載っているのをみつけ借りてきた。いや~、これはなかなか凄い。何が凄いかというと、これを書くために作者が作った年表はじめ資料探索がハンパないのである。ちょうど江戸切絵図と幕末の江戸の写真をペン画にするという作業をしていたところなので、赤穂事件当時の関係大名屋敷や江戸市内の地理的配置がちゃんと切絵図に一致するのだ。こういうことは江戸に関する膨大な文献資料があるので調べればある程度わかるのだが、普通小説を書くのにここまでするのはちょっとない。どうしてこれが書かれたかの動機は、岩波版の「解説」に記述がある。

 「『不忠臣蔵』の世界:井上ひさしの「不忠臣蔵」の連載は、『すばる』の1980(昭和55)年5月号からはじまっている。『週刊朝日』に「忠臣蔵」を連載していた森村誠一との対談がある(『週刊朝日』1982年5月21日号)。
 そこで井上ひさしは、次のようにいっていた。「赤穂藩には当時、三百余人の家臣がいたんですが、討ち入りに参加するのは全体のわずか六分の一弱。参加しない方が圧倒的に大勢なわけです。それなら、参加しなかった人たちを徹底的に書いたほうが、「日本人」というものがハッキリ出るんじゃないかと思いましてね」「仇討ちは、江戸時代に三百件くらいあったといわれています。しかし、あれほどの数が参加したのは「忠臣蔵」だけ。殺された肉親の恨みを晴らす、という理由で行なわれることが多いんですけど、殿様のためというのは、わずか二、三件しかない。しかも、参加した人は少数派。そんな珍しいケースなのにあたかも日本の行動の手本みたいになっている。特殊な例で一般論を言ってるようなところが危険だって気がするんです。日本人はだから忠義を重んじるとかの「だから」がいやなのが「不忠臣蔵」を書いている動機ですね」。
 表紙には「すべて戦争へ」と刷られている『大衆文藝』(1943・8)の劇評(「演劇」)は、「三座三洋」の「忠臣蔵」の舞台に言及する。『仮名手本忠臣蔵』が情報局の国民演劇のレパートリーの一つであるというのが前提である。歌舞伎座は菊五郎一座の九段目、新橋演舞場は前進座の七段目、そして明治座は吉右衛門一座の大序・二段目・三段目・四段目。
 国体の護持をたかだかとうたい、挙国一致をスローガンに、『仮名手本忠臣蔵』を「日本人の行動の手本」としてその規範に仰いでいたのである。
 『仮名手本忠臣蔵』は「衆知を集めた名脚本の上に長い間の伝統によって錬磨された演出技巧の完璧」を説いていたのは大山巧である。たしかにそのとおりなのだが、さらにつづけて「主へつくす忠といふ犠牲的精神、個を殺して全体を生かす全体主義精神が力強くわれわれ日本人の感情をうつのである」と『国民演劇論』(新正堂、1943)で訴えていた。そしてこれはなにも一人大山功にかぎったことではなかったのである。
 播州赤穂浅野家の家臣三百八人のうち、討ち入りに加わったのは、わずか四十七人でしかない。吉良上野介の首級をあげ、屠腹してはてたのは、あくる年元禄16年2月4日、寺坂吉右衛門信行をのぞいての四十六人だった。のこりの二百六十余人の家臣は、その夜朱引き外の本所松坂町の吉良屋敷に行かなかった。
 かれらは、一体何を考えていたのか。しかしなによりもまずかれらが「不」忠臣というところにたくらみがあった。そもそもなにゆえにかれらは「不」忠臣なのか。四十七人だけが忠臣だったのか。忠臣すらが井上ひさしに疑われている。そこがたいへんおもしろい。
 もっとも「忠臣蔵」における不忠臣(悪臣)といえば『仮名手本忠臣蔵』の斧九太夫をすぐに思い出せるはずで、このモデルが赤穂藩の金庫番として知られた城代家老大野九郎兵衛だった。嗣子と決まっていた浅野内匠頭長矩の弟浅野大学長広の閉門により、もはや赤穂藩再興かなわぬものとなったその大本も、けっきょくは、吝嗇で癇癪だった浅野内匠頭の短慮ゆえのことだった、というのが大野九郎兵衛の退去の理由だった。この大野九郎兵衛についてならば、例えば直木三十五の好短編「大野九郎兵衛の思想」(1931)がある。この大野九郎兵衛のことは、短編長編を問わず多くの小説にもその名前を発見できるはずだ。
 井上ひさしによって召喚されたのは二百六十余名のうちの十六人である。全十九話ということになる。かれらのそれぞれの事情がうちあけられる。
 いや、より正確にいうと喚問されるのは、その被告人(吉良屋敷に行かなかった人、もしくは行けなかった人)ばかりではなかった。証言者(吉良屋敷に行かなかった人、もしくは行けなかった人の身近にいた人、あるいは何らかのかたちでかれらの消息を知る人)、弁護人、補佐人(吉良屋敷に行かなかった人、行けなかった人を不忠者、卑怯者、人でなしとなじる心ない巷の雀の矢おもてにたってかれらの行状をかばう人、あるいはかばわない人)などなど、じつにさまざまである。
 したがってこの『不忠臣蔵』の読者は、選ばれて陪審席についた陪審員というおもむきで、かれらの口上に対して、虚心にもらさず耳をかたむけなければならない。
 吉良屋敷に行かなかった、もしくは行けなかったのには、それぞれやむにやまれぬ事情があったとなれば、喚問されたかれらの口上が、四十七士のそれよりもはるかに波瀾に富み、変化にみちみちたものであったのは道理だった。かれらの「不」忠をいいつのる分子を説きふせ、あるいは犒(ねぎら)い、労り、庇い、かとみえると面くらうような「不」忠が、あらわれたりするのである。
 討ち入りの失敗に備え第二陣にまわったのはかたちばかりで、じつは念友。義兄弟の遺志を継ぐための脱落。浅野長矩の刃傷を未然にふせごうとしたが果たせず他家に仕官。瑶泉院への懸想。忠より孝。人ちがいから、別の仇討ちにまきこまれ、同志の討ち入りをかくすための止むを得ずの陽動。いわれなき事情での軟禁、また取り調べ。癇癪、気まぐれ、いやになるようなお人柄の長矩への愛想づかし、とみえたが、ほんとうは衆道。浅野家の元家中のもののゆくすえ、先行きへの慮り。御家断絶の後始末のはてに『葉隠』に大回心。お初徳兵衛の心中の一年半前、赤穂の浪人と、同じ名前のお初との相対死という奇縁。吉良屋敷の抜け穴をさぐり、生き埋めの不運……。
 まことにはかりがたく数奇、奇妙な、そしてごもっともな事情が次々と明らかにされていく。
 くわうるに、一話ごとに語りの方法、または聞き手を自在に取り換えることによって、太平元禄の時代を思いがけない角度からうかびあがらせる。
 赤穂塩の製法、切腹の作法、介錯のつかまつり方、その仕置きの手順と運び方、長屋住いの寄り合いのもよう、髪結い職人の生活、豆腐の拵(こさ)え方、蕎麦饅頭のつくり方、蕎麦切の津(つ)汁(ゆ)の出しのつくり方、一膳めしやの煮物の中身、三汁七菜三菓子つきのメニュウ、そのしなじなー。
当時のライフスタイル、その豊かな情報が、生き生きと伝えられる。
こうして『不忠臣蔵』の巻末にある「不忠臣蔵年表」、この「年表」には、肥前は佐賀藩主鍋島光茂が殉死を禁じた寛文元(1661)年にはじまり、寛延元(1748)年の『仮名手本忠臣蔵』初演にいたるまでの、『不忠臣蔵』に登場した十九人の「不」忠臣たちの動静を追い、いわゆる元禄赤穂事件とかれらとのかかわりが一目で見わたせることになる。
井上ひさしは『不忠臣蔵』のために十九枚の(十九人の「不」忠臣の)、いやもっとたくさんの井上式年表をつくっていた。「不忠臣蔵四十七景」というのが『すばる』断続連載時の総題だった。」『井上ひさし短編中編小説集成』第10巻「解説」、2015.岩波書店、pp.563-566.

 作者井上ひさしは、1969年戯曲「日本人のへそ」を書いて、それまでの放送作家、そして小説家から劇作家への本格的な飛躍を遂げるのだが、この「不忠臣蔵」は80年代はじめ、話題を呼んだ「吉里吉里人」や「四千万歩の男」と並んで小説家としての多産な活動期の作品である。こまつ座の立ち上げも1980年代半ばだから、寝る間も惜しんで創作に没頭していたと思われるが、この年表作りはすさまじく、仙台にある文学館で実物を見たら細かい独特の文字で詳細に書き込まれている。はじめは、赤穂藩士で討ち入りに参加しなかった人物を主人公に四十人以上を書くつもりだったのだろうが、結果的には十九人になった。しかし、そのどれもまったくユニークで単なるエピソードを超えたドラマになっている。
 「忠臣蔵」がどうして日本人の精神的バックボーンだなどと言われるようになったのか、橋本治氏も述べているがそれは「くやしさのドラマ」であり浅野家という集団の物語であり、その中で大石内蔵助という人物の理想化が起る。大石をリーダーとする強力な同志的結合や主君への忠誠心というスローガンが、「武士の鑑」として賞賛されるのは、江戸時代よりむしろ明治以降の近代化の中で構築されたともいえる。幕藩制下の大名家臣としての武士は、元禄期にもはや戦士でも求道者でもなく藩や幕府という統治組織の官僚として生きる存在だったのだから、ほとんどの武士は主君に殉じるとか仇を討つとかいう観念はあったにしても、お上の威光を忖度して実際にそれを行動に移すような者はなかった。いわば社長の失敗で会社が倒産した事態に社員は次の就職先を探すか、とりあえず親類縁者に頼るしかないのは、元禄時代も似たようなもので、であるからこそ、赤穂浪士の討ち入りは世間を驚かす衝撃的な(ある意味では時代錯誤的な)事件になったのだ。浪士たちがあわよくば、これで世間の喝采を浴びて自分は処罰を受けても、残った親類縁者の再就職を期待しなかったともいえない。また、当時赤穂浪士の行為を絶賛する意見ばかりだったともいえない。幕府の決定を不満として、高家筆頭の邸に集団乱入して首を取るという狼藉は、幕閣批判以外の何物でもないわけだから。
 それにしても、「忠臣蔵」への熱狂的喝采が高まるのは、昭和になって映画化されるようになってからだと考えられる。江戸以来の「仮名手本忠臣蔵」はあくまで町人向けの娯楽芝居のひとつでしかなく、内容的にも実際の赤穂事件とはあまり関係のないお軽勘平とか、一力茶屋とか脇の話でできている。それが四十七士の英雄物語になるのは明治の末ぐらいからで、国家への献身を煽る戦争の時代に高まりを見せ、敗戦でGHQに禁止されながら、その反動のように1950年代チャンバラ時代劇で毎年の超大作として大ヒットする。どうしてそんなに受けたのか?これも橋本治流にみれば、明治以降敗戦までの踏ん張り続けた近代日本が、人民大衆にとってあまり楽しい時代ではなかったから、ということになろうか。安倍晋三氏のような明治以降の日本が「輝かしい栄光の時代」を歩んだという視点とは真逆のネガティヴ近代に、「忠臣蔵」の再構築は関係している。そもそも赤穂浪士の忠誠心とは、5万石ほどの小さな藩の、300人くらいの武士集団の中での主君への忠誠であって、それも結局吉良邸討入りに参加したのは50人に満たなかった。だから、井上ひさしの見方は、47士を武士道の代表、そして「日本人」の代表に押し上げて讃美するのではなく、そこに加わらなかった、もしくは加われなかった多数派のリアルを見ることの方が意味があることになる。赤穂事件は確かに現実にあった事件なのだが、そこから作り上げられた物語の大半はフィクションだろうと。「不忠臣蔵」ももちろん井上ひさしが作り上げたフィクションなのだが、それを大文字の「忠臣蔵」に対抗させるには、元禄の江戸の細部をきっちり描かなければならない。



B.消費税増税について
 参議院選挙の結果次第では、秋に予定の消費税10%は撤回されるのか?野党はそれも可能だと言っているが、この選挙の争点として自民党が言っているのは、消費税ではなく憲法を変えるという話である。安倍首相はいつもそうだが、ほんとうにやりたいことを正面から提起するのが世論の反発を招くような問題は外し、選挙ではアベノミクスの実績と民主党前政権への罵倒軽蔑の言葉を並べてきたのだが、今回はさすがに改憲を表に掲げている。そのぶん消費税はもう決まってるんだから何もいうな、二千万円の老後という話も大丈夫だから任せておけというわけか。野党がみな消費税増税反対を唱えているけれども、ぼくは消費税10%は仕方ないと思っている。安倍政権は早く倒れてほしいと思っているし、改憲勢力に投票する気は毛頭ないけれど、5年先10年先、そして将来世代が社会を支える時代のために、税制・財政の現状をこのままやり過ごすことは、すでに危機的な状況を回復不可能にすると恐れるからだ。

 「「福祉と税」根本議論せよ:野口悠紀雄さん 早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問
 戦後の日本の税制や財政構造は、戦時中につくられた「1940年体制」を引き継いでいます。消費税が選挙で「鬼門」になってしまうのは、日本人の意識と社会構造が、いまだに1940年体制のままだからです。
 戦前の日本の税制は、直接税ではなく間接税が中心で、欧州型に近かったと言えます。しかし、1940年代体制では直接税、特に所得税と法人税が中心で、所得税の源泉徴収も導入しました。戦争遂行のために、歳入を確保する必要があったからです。歳出面では、社会保障が想定されていませんでした。勤めている企業が一生を保証するという発想だったのです。
 その財政構造は、高度成長期の60年代までは機能しましたが、徐々に社会保障への要求が強まってきます。政府は「福祉元年」と言われた73年ごろから、財政構造を「福祉型」へと転換させました。歳出面では年金や医療など社会保障費が巨大化し、税制では消費税など間接税の比重を高めようとしたのです。
 それにもかかわらず、日本社会の構造も、人々の考え方も、変わりませんでした。消費税と年金に代表される福祉型の財政構造は、日本人のメンタリティーに合わないのかもしれません。だから常に選挙の「鬼門」になるのです。
 今回の参院選でも、野党は「年金の100年安心を守れ」といいながら、消費税を上げるのには反対しています。大企業や高額所得者に負担させればいいというのは、まさに1940年体制の発想そのものです。
 これからの日本には、二つの選択肢があります。一つは、消費税率をこれ以上引き上げずに、定年延長や、健康が許す限り働き続けることで老後の保障を実現する方法。いわば1940年体制を維持するやり方です。
 もう一つは、消費税を北欧諸国並みに引き上げ、社会保障で一生の面倒を見る福祉国家をつくる。つまり、1940年体制からの脱却です。
 この二つのどちらを取るのかという根本的な議論はされてきませんでした。本来なら2千万円問題を契機に、参院選でその議論をすべきなのですが、与党も野党も見当はずれの議論しかしていません。
 一方で、国民は現実を冷静に見ていると思います。6月にネットでアンケートをしたのですが、「金融庁の報告書をどう評価しますか」という問いに、8割近くが「老後資金に関する適切な注意だ」と答えた。年金だけで生活できないことは多くの人が理解しています。そうした国民の健全な感覚を政治に反映させることができれば、戦後の日本を縛ってきた1940年体制から脱し、消費税と年金が鬼門でなくなる日がくるかもしれません。 (聞き手・尾沢智史)」朝日新聞2019年7月9日朝刊、9面オピニオン欄、耕論「嫌われ者の消費税」。

 国の借金が1000兆円を超えて積み上がり、国民の資産が底をつく前に、税だけでなく市場に投資でカネを回せというような貧血衰弱路線をやめる必要があることは随分前から言われているのに、昔ながらの「福祉国家」を増税なしで維持できるというのは信じられる話ではない。政治が何かをするには財源が要るから、どっかを削りひねり出すしかないという方策をへたにやったから民主党政権は失敗したのだとすると、安倍政権のやっていることは日本企業を励まして利益が増えれば税収も増え、国民所得も改善されるという見通しのもとに、金融政策でうまくいったかのような宣伝をしても、実質的に足りない分は将来世代への借金でやりくりしているだけだ。これでは、野口氏の言う1940年体制(これがずっと続いているというのはちょっと言い過ぎだと思うが)を根本からいじる気はない。

 「歳出も見直し 納得感を:小谷野敬子さん 戸越銀座商栄会商店街振興組合理事長 
 消費税って税金の中でも「取られた感」が強いんですよね。買い物をするたびにレシートに記載される。100円でも8円。見えるだけに厭になっちゃう。お客さんに請求書を書く時も、1万円で800円は大きいなあとつくづく感じます。だから選挙でも嫌われるんじゃないですか。
 5年前に消費税が5%から8%に上がった時は、戸越銀座でも影響が出ました。たかが3%、されど3%。増税直前は消耗品を買いためるお客さんがいっぱい来ましたが、増税後は買い控えで商店街がしーんとなりました。
 今回はまだ客足に現れてはいませんが、飲食関係のお店は大変そうです。店内で食べれば税率10%なのに、もち返ると8%。じゃあテイクアウトで買った食品をやっぱり店で食べたら……?ややこしいことになっています。ここは食べ歩きの街ですからね。
 増税のタイミングでキャッシュレス決済を導入すれば「消費税に増税分がポイント還元され、店も面倒じゃない」と、安倍晋三首相や小池百合子知事が戸越銀座にPRに来ました。でも年配の地元客にはハードルが高いです。
 店にとっても同じです。中高年が営む小さな商店はずっと現金払いでやって来たので、今さらスマートフォンでピッと決済というわけにはなかなかいきません。地方の商店も同じ悩みを抱えていると思いますよ。増税により、消費者の間でも商店の間でも格差が広がりそうです。
 誰だって消費税を取られるのは嫌なものです。でも本当に必要なら、国民の義務でもあり、仕方ないとも思います。だから今まで30年間、流されるままに払い続けてきました。納得感はずーっとないままで。
 そう、問題は納得感だと思います。国は消費増税をする一方で、陸上イージスの配備やら戦闘機の大量購入やらを進める。でも無駄な歳出をカットする方が先ですよね。それに、そういう防衛費に消費税は使われていないのでしょうか。「社会保障に使う予算」とか国は言っているけど、消費税を実際何に使ったかは国民にはよく分かりません。「これに使われたなら、まあいいか」と思えるように明細を出してほしいです。
 電気屋を苦労して立ち上げた大正生まれの父は、税金を「血税」と呼んでいました。その分、政治に厳しくて、晩酌しながらよく管を巻いていたわね。私も含めて今の人にそんな意識はなくなりました。消費税の使途も恩恵も見えず、自分たちとのつながりも見いだせず、ただ漫然と取られている感じです。
 税金は本来は、社会や自分たちの生活を支えるべきもののはずです。取るならば、とにかく適切に使ってほしい。それ以外にありません。  (聞き手・藤田さつき)」朝日新聞2019年7月9日朝刊、9面オピニオン欄、耕論「嫌われ者の消費税」。 

 政治の80%はこれまでの制度や過去の蓄積の上に立って、それを改善維持するだけでなんとかもっている。あとの20%の領域で、優先的にやるべき新たな政策や時代遅れの制度や機構を廃止して、将来を見越した適切な改革を行うのがベストだと思う。問題は、その財政的基盤が縮小を続けていて、借金を返す負担にどんどん侵食されてしまう(余力が20%から15%になる?)ことと、可能な政策の選択肢のうち何を優先して何を後回しにするかの判断こそが、選挙で国民に明示され、国民はそれを選択したと実感できるかどうかだろう。たとえば、自衛隊に使う防衛予算と、年金や健康保険の公費負担をどう配分するかは、別々の問題であっても、どちらにどのように税収を配分するかは明白にしてほしい。それぞれ必要だというのなら、優先順位こそ問題になる。その配分の意思決定はどこでやっているのか?その情報は公開され明示され説明されているのか?財務省なのか、官邸なのか、自民党政権は、選挙での広報を見ると、それをはっきりさせたくないように見える。
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