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亡国のために死んではいけない・・太鼓たたいて笛ふいて・

2018-06-10 15:18:25 | 日記
A.特攻を英雄にするだけでは間違う。。
 戦争の末期、日本軍が敵艦への体当たり攻撃作戦をおこない、「カミカゼ」特攻といって米軍を恐怖に陥れた、と伝説のように聞かされた。鹿児島県薩摩半島にある知覧はその特攻基地があった場所で、今は「特攻平和会館」という施設でさまざまな資料・文献・遺書の展示があり、修学旅行生をはじめ戦争を学ぶ観光地として賑わっている。ぼくも一度訪れて展示をゆっくり見て回ったが、特攻兵士たちの遺品や遺書には深い感慨を抱かせられると同時に、特攻を美化し純粋な若者が「国家に殉じた悲壮な美しさ」という会館のコンセプトに、強い違和感を抱いた。自分が確実に死ぬことを知って飛び立った特攻兵士の望んだことは、公式には国家の勝利だとすれば、結果として献身した祖国は敵に敗北し占領されたわけで、彼らの死は報われなかった。それはだれもが知っているが、誰もそのことは忘れて、若者の純粋さと国家への献身だけを素晴らしいと語ろうとする。あるいは、かれらが自らの死を意味づけようとした根拠を、親への感謝、家族への愛着、さらに故郷共同体への同一化、それがそのまま天皇と国家に結びつき「靖国の英霊」まで昇華、というか神話化する。
 特攻とは戦争の作戦としてほとんど意味のない、若い兵士の命をただ消耗させただけの禁じ手だったと思う。特攻が実施されたのは、海軍も陸軍も有効な武力・戦闘能力を長期化した戦争で壊滅させてしまった段階で、他にもう戦う手段がないから苦し紛れにとった戦闘法で、実際の戦果としても戦局を転換させる効果などなかった、ということを確かめておきたい。

 「絶望的交戦期に固有の戦死のありようとしては、よく知られているように、特攻死がある。
 特攻隊(特別攻撃隊)とは、主として爆弾を搭載した航空機による艦船などに対する体当たり攻撃(航空特攻)のことを指すが、それ以外にも「震洋」、マルレ艇などのモーターボートによる艦船への体当たり攻撃(水上特攻)、一人乗りの改造魚雷「回天」による体当たり攻撃(水中特攻)などがあった。ここでは、最大の犠牲者を出した航空特攻を取り上げたい。
 航空特攻は、1944年10月に、海軍がフィリピン防衛線で神風特別攻撃隊(「しんぷう」が正式の呼称で「かみかぜ」は俗称)を出撃させたのが最初である。当初の特効作戦の任務は、レイテ湾への突入をはかる栗田艦隊を支援するために、体当たり攻撃によって、アメリカの正式空母の飛行甲板を一時的に使用不能にすることにあった。正規空母の撃沈そのものが目的ではなく、当初の任務は限定的なものだったのである。それが次第にエスカレートし、翌1945年3月末から始まる沖縄戦の段階では、特攻攻撃が陸海軍の主要な戦法となった。そうしたなかで、特攻作戦に対する過大な期待も生まれてくる。
 たとえば、1945年1月26日に、軍令部総長の及川古志郎海軍大将は、特攻専門機、「桜花」250機の配備について、「現戦局に対し色々意見もあるが、私は重体ではあるが危篤とは見ない。特攻兵器〔人間爆弾桜花〕も大体そろって(250)、今、鹿屋〔基地〕で大々的演習にかけている。〔中略〕これは昨年十二月まで整備して比島戦〔フィリピン戦のこと〕に間に合わせる心組みだったが、それが遅れたが、今度これが間に合えば相当戦勢を逆転して『マリアナ』位までは取返したい」と語っている(『高木惣吉 日記と情報(下)』)。
 及川軍令部総長の談を伝え聞いた海軍の長老、岡田啓介大将は、「月産200位の力で、芘島から『サイパン』まで盛り返すというのは、少し夢に近い話ではないか」と率直に語っている(同右)。
 実際、「桜花」への期待は「夢」に終わった。同機はロケット推進器を装備した一人乗りの小型グライダーである。「ロケット機」などと書いている文献があるが正確ではない。母機の一式陸上攻撃機に懸吊(けんちょう)して離陸し、敵の艦船に接近したところで母機から発進する。滑空しながら目標に向かい体当たりの直前にロケット推進器に点火して速度をあげ、体当たりを行う。しかし、二トンを超える重量の「桜花」を懸吊した母機自体の速度や運動性が大きく低下するため、「桜花」の発信前に母機とともに撃墜されることが多く、ほとんど戦果をあげることができなかった。
 なお、一式陸攻の魚雷もしくは爆弾の最大搭載量は800キロにすぎない。
「桜花」の初出撃は、1945年3月21日だが、このときは出撃した「神雷部隊」の一式陸上攻撃機18機の全機が撃墜されている。
 結局、敗戦までの航空特攻による戦果は次の通りである。

 正規空母=撃沈ゼロ、撃破26/護衛空母(商船を改造した小型空母)=撃沈3、撃破18/戦艦=撃沈ゼロ、撃破22/巡洋艦=撃沈13、撃破109/その他(輸送船、上陸艇など)=撃沈31、撃破219

 撃沈の合計は47隻にすぎない。一方、特攻隊員の戦死者は海軍が2431人、陸軍が1417人、計3848人である(『特攻―戦争と日本人』)。大型艦の撃沈には成功していないこと、主として小型艦艇を沈没させていることがわかる。
 戦果があまりあがらなかった理由の一つは、アメリカ側が、フィリピン戦以降、特攻作戦に対する対策を強化したからである。米海軍は、機動部隊の前方に大型レーダーを装備した駆逐艦などのレーダーピケット艦をいくつも配備し、早期警戒と迎撃戦闘機の誘導にあたらせた。特攻期はこの阻止線(ピケットライン)を簡単には突破できなかったのである。
 また、特攻機自体も旧式機が多い上に、重い爆弾を搭載して飛行するので米軍の迎撃戦闘機の格好の餌食となった。さらに、VT信管(電波を利用して、目標に近接すれば自動的に起爆する信管)の開発に成功した米海軍は、1943年からVT信管付きの対空砲弾を使用するようになり、対空戦闘で大きな威力を発揮するようになる。

 特攻についてはすでに多くの文献があるので、ここでは特攻攻撃の破壊力の問題だけを取り上げたい。 
 航空機による通常の攻撃法では、落下する爆弾に加速度がつくため破壊力や貫通力はより大きなものとなる。しかし、体当たり攻撃では、急降下する特攻機自体に揚力が生じ、いわば機自体がエアブレーキの役割を果たしてしまうため、機体に装着した爆弾の破壊力や貫通力は、爆弾を投下する通常の攻撃法より、かなり小さなものとなる。体当たり攻撃で大型艦を撃沈できないのは、この理由による。
 体当たり攻撃による破壊力、打撃力の低下をいわば実証してみせたのが、米海軍の駆逐艦、ラフェイである。1945年4月16日、レーダーピケット艦として沖縄水域で警戒にあたっていた同艦は、80分間のあいだに22回の特攻攻撃を受け、特攻機6機と爆弾4発が命中するという大きな損害を被った。日本軍機による機銃掃射も受け、人員の損害は死者および行方不明31人、負傷者72人に達した。
 しかし沈没することなく、駆逐艦とタグボートに曳航されて泊地にたどりつき、そこで応急の修理を受けたのち、自力でグアムまで帰投している(Victory in the Pacific 1945)。
アメリカ側のダメージコントロール(消火や各種の応急処置によって被害を最小限度のものとすること)能力の高さを示す事例でもあるが、6機の特攻機が命中しても駆逐艦という小型艦艇を沈没させることができなかったのである。
 爆弾を装着したままでの体当たり攻撃の限界は、特攻隊員のなかでも自覚されていたようである。零式戦闘機(ゼロ戦)のパイロットだった橋本義雄は、より効果的な体当たり方法を常に仲間たちと模索していた。橋本は次のように書いている。

 ちょうどそのような時、誰いう事なく自爆する直前に爆弾投下(低空飛行で)、爆弾をスキップさせて敵艦に命中させ、自身は急反転待避、さらに自爆もしくは空戦することにより、より効果をあげることを考えた。その発想の原点は250キロまたは500キロ爆弾の慣性を生かす事により爆発の効果をより大きくすることにあった。戦闘機に固定したまま体当たりするより爆弾自身の重さによる慣性効果と徹甲弾の威力を発揮させるための考え方である。誠に合理的な考え方である。 (『学生特攻 その生と死 海軍第十四期飛行予備学生の記録』)

 スキップボミング(反跳爆撃)と呼ばれた攻撃方法だが、まず爆弾を投下したのちに体当たりをすることを構想していたことがわかる。事実、独自の体当たり攻撃を実行に移した特攻隊員もいた。
 1945年5月、沖縄海域で、エセックス級の大型空母、バンカーヒルに二機の特攻機(零式戦闘機)が連続して命中した。導管は沈没こそ免れたものの、400人近い戦死者を出すという大損害を被った。このとき、二機の特攻機は突入寸前に爆弾を投下してから体当たりをしている(M・T・ケネディ『特攻』)。小川清と安則盛三という二人の特攻隊員がこの攻撃法をあえて選んだのは、できるだけ大きな損害を敵に与えたいという戦闘機パイロットとしての意地からだったのだろうか。それとも、合理性を欠いた無謀な特攻作戦に対する無言の抗議だったのだろうか。
 なお、特攻機のなかには、機内に爆薬を装填したものや爆弾を機体に固着させて爆弾の投下ができないようにしたものもあった。」吉田裕『日本軍兵士』中公新書、pp.52-58.

 戦争は人の命を多く失い傷つける悲惨なものと言われ、できればしないに越したことはない。だが、勝つ戦争をできるようにしておくことが軍隊の使命であるから、軍事のプロフェッショナルという優秀な軍人の視点で考えた時には、人的犠牲は最小限に、戦略的成果は最大限に、あらゆる知恵と手段を駆使して敵を打ち破り、同時にそれが和平・講和の交渉をひき出し、戦争を自国に有利に終わらせることが最終目標となる。それでこそ戦争指導者の犠牲になった兵士に報いるせめてもの責任である。それはどの国の軍人にも共通の倫理だろう。
 だから、特攻を計画し実施した軍人は、軍人としての最低限の自覚・倫理観を投げ捨てた最悪の人間だと思う。自分たちが敗北責任を追及されたくないため、まだ一発逆転してみせると空威張りするためにだけ、兵士の命を火にくべた。これは権力を使った殺人というべきで、特攻を美学に解消してはいけない。



B.井上ひさしの業績のすごさ
 2010年4月9日、肺がんのため75歳で亡くなった井上ひさしさんの芝居を、ぼくが最初に観たのは1982年6月、紀伊国屋ホールで木村光一が演出した「新・道元の冒険」だった。道元という主役を、いろんな役者が入れ替わりで演じる趣向と、言葉の洪水のようなセリフと歌に圧倒された。とくにこれに出ていたピーターこと池畑慎之介の若い道元が空に昇る場面が印象的だった。その後、しばらく実際の舞台は見に行かれなかったが、21世紀になったころから新国立劇場で連続上演された東京裁判シリーズ第1作「夢の裂け目」を皮切りに、「兄おとうと」「夢の泪」(2003)、「きらめく星座」(2004)、「円生と志ん生」(2005)、「夢の痂」「紙屋町さくらホテル」(2006)、「ロマンス」(2007)、「人間合格」(2008)、遺作「組曲虐殺」初演(2009・10月)とほぼ毎年、井上作品を舞台で見るようになった。とくに2008年7月のBunkamura公演「道元の冒険」蜷川幸雄演出は、チケットを買っていたのに当日行くのを忘れて見なかったのは未だに悔やまれる。

 「一般的に言って、現代の日本では、小説家に比べて劇作家の充実した活動期間、いわば最盛期はかなり短いように思われる。若いころに代表作をいくつか出し、名声を得たものの、その後は突出した作品をなかなか生み出せない、というケースが結構見られるのだ。かつて私は、「劇作家十年説」という極端な説を唱えたことさえある。日本の現代演劇の作り手たちの仕事長年にわたって見てくると、劇作活動の「旬」が十年程度という書き手が多いからだ。
 むろん例外がある。井上ひさしはその例外的な劇作家の一人である。
 1969年初演の『日本人のへそ』で劇作家として本格的にデビューした井上ひさしの劇作活動は、すでに三十五年を越えている。井上の戯曲の執筆そのものは、すでに1950年代後半に始まっているから、実際にはもっと長期にわたって劇作にかかわってきたわけだ。
 驚かざるを得ないのは、井上がこの長い年月、息切れせず、コンスタントに、レベルの高い、
創意あふれる劇作活動を持続してきたことだ。
 若いマグマの大爆発ともいえる初期の十数年間は、『表裏源内蛙合戦』『雨』『しみじみ日本・乃木大将』『小林一茶』『化粧』など、とびきりの傑作が次々に生まれた。井上が座付作者を務める「こまつ座」が創立された1984年以降も、『頭痛肩こり樋口一葉』『きらめく星座』『國語元年』『犬の仇討』『父と暮らせば』などの秀作が並ぶ。1990年代には、東京の新国立劇場との共同作業も加わり、『神谷町さくらホテル』『夢の裂け目』などの意欲作が生まれた。とにかく井上は、あまりに秀作が多いため、代表作を数本に絞ることが難しい劇作家なのだ。
 そして2002年夏、井上はまた新しい秀作を送り出した。こまつ座が栗山民也演出、大竹しのぶ主演により東京・新宿の紀伊国屋サザンシアターで初演した『太鼓叩いて笛ふいて』である(04年にこまつ座が再演)。05年にこまつ座が初演した『円生と志ん生』とともに、井上の最近の代表作と言っていい。
『太鼓叩いて笛ふいて』は、『放浪記』『浮雲』などで有名な作家・林芙美子(1903~1951年)を描いた評伝劇である。日中戦争が間近に迫る1935年から、第二次大戦中を経て、戦後の1951年までの十六年間の彼女の言動に的を絞った作品だ。
 初演の公演パンフレット(「the座」第48号)に掲載された井上の文章を引用するなら、「日中戦争から太平洋戦争にかけて。(中略)軍国主義の宣伝ガールとしてバカに派手な活躍をし」たものの、戦争末期に自分の誤りに気付いて沈黙し、戦後は「自分の責任を徹底的に追求した」上で、「反戦小説」をたくさん書いた林芙美子の歩みを描いた作品である。
 井上は、「太鼓叩いて笛ふいて」の言葉通り、時局に便乗し、軍国主義の「宣伝ガール」を務めた林芙美子を批判しているが、冷徹に糾弾はしていない。なぜなら人間は誰でも「過ちを犯す」ものだからだ。それに続く井上の文章は、この作品の意図をよく伝えている。

 わたしたちはだれでも過ちを犯しますが、彼女は自分の過ちにはっきりと目を据えながら、戦後はほんとうにいい作品を書きました。その彼女の凛々しい覚悟を尊いものに思い、こまつ座評伝シリーズに登場を願ったのです。

 井上の数ある戯曲の中でも、古今の実在の人物を主人公とする評伝劇は大きな位置を占め、その数は初期の『表裏源内蛙合戦』から近作の『円生と志ん生』まで、合わせて十五本に及ぶ。だが、井上版評伝劇の主人公はたいてい男性で、女性を主人公にした戯曲は、これまでのところ、『頭痛肩こり樋口一葉』(84年)と『太鼓叩いて笛ふいて』の二作だけだ。しかも、女性作家を主人公に氏が特に深い思いをこめたこの二作はともに優れた作品となって実を結んだ。
 戯曲『太鼓叩いて笛ふいて』のキーワードは「物語」という言葉だ。劇中で、メフィストフェレスよろしく林芙美子を国策協力の道に引きずり込むプロデューサーの三木孝がしきりに口にする言葉である。
 三木が言う「物語」とは、小説などの小さな物語ではなく、「世の中を底の方で動かしている物語」、つまり国家が求める「物語」だ。その「物語」の方向に沿って作家が作品を書きさえすれば、作品は大いに売れ、重版禁止になることもない。露骨に言えば、それは「戦さは儲かるという物語」であり、さらに言えば、「戦さはお祭りであり、またとない楽しみごとでもあるという物語」になる。
 初めは半信半疑だった林芙美子も三木の言葉に乗り、「ペン部隊」の一員になる。「物語」のプロであるはずの作家が、権力が仕かける大きな「物語」の罠にからめとられていくのだ。
 1937年、林芙美子は東京日日新聞(現在の毎日新聞)の特派員として南京占領に女性作家として一番乗りを果たし、38年にはペン部隊の一員として漢口攻略戦の最前線へ。1942年にも報道班員としてジャワ、ボルネオなどに出かけるが、その時点で林芙美子はようやく、「あの物語は妄想だった」ことに気づく……。
 この三木孝というインテリ風の人物が興味深い。三木はポリド-ルレコード文芸部から日本放送協会へ、さらに内閣情報局へと出世し、敗戦後は一転してアメリカ軍の占領政策を担う組織の「音楽民主化主任」になる。めまぐるしい転職につれて、彼が口にする「物語」の中身も次々に変わる。しかも、自分の変化というか変節に、三木自身はまったく疑問を持たず、悩みもしない。
 このような人物は普通、ずる賢い悪役として描かれることが多いが、この作品では意表をついて、終始、善人風の気さくで気のいい男、面倒見のいい男として描かれる(こまつ座の公演で三木役を陽気に晴れやかに演じた木場克己が印象的だった)。これは相当新しい人物像だと言っていい。自分の「悪」を自覚しないこうした普通の「いい人」こそ実は一番おそろしいメフィストフェレスかもしれないこと、だからこそ「三木」は私たちの分身であることを、この作品は暗示しているのだ。
 林芙美子と並んで重要な人物として描かれる島崎こま子(1892~1977年)も実在の女性である。作家・島崎藤村の姪で、同居していた藤村の子をみごもり、藤村の小説『新生』(1919年刊)では「岸本節子」として描かれた。
 その後、こま子は年下の社会主義者と結婚し、東京の吾妻橋の託児所に勤めたが、1937年3月、過労のため町中で生き倒れになり、板橋の養育院に収容された。彼女に関心を持った林芙美子は養育院にこま子を訪ね、「女の新生」と題するインタビューを雑誌「婦人公論」1937年4月号に掲載した。
 このように林芙美子と島崎こま子には実際に接点があった。だが、井上は二人の最初の出会いをその二年前に設定し、こま子が託児園への援助を頼みに林邸にやって来る、という設定にしている。劇中での、その後の二人の親密な関係はおそらく作者の虚構だろう。
  井上ひさし・小森陽一編著『座談会 昭和文学史』第二巻(集英社、2003年)の第六章「島崎藤村」でも、井上は島崎こま子に触れている。井上によれば、放送作家として活躍していた1969年、氏はNHKの「朝の連続テレビ小説」の候補作として、島崎こま子を主人公とするドラマのシノプシスを作ったことがあるという。ドラマ化の案そのものは「(内容が)暗いからだめ」という理由で却下されたが、井上は座談会で「こま子さんを芝居にしたいと思って、いまだにうろうろいている」と語っている(この賞の座談会が行われたのは1999年)。その積年のプランが、『太鼓叩いて笛ふいて』という形で、ようやく実現したのである。
 ところで、この戯曲についてぜひとも触れておきたいのは、これが井上流の優れた音楽劇だということだ。周知の通り、井上戯曲の多くは音楽劇のスタイルを取っている。井上の戯曲総数は2005年までに五十六本を数えるが(商業演劇の台本、子供向けのミュージカル台本を含む)、そのうち劇中で俳優が歌う歌が入った作品は、私の計算では四十二本に達する。つまり、、井上劇の実に75パーセントが音楽劇なのだ。
 にもかからわず、井上戯曲が普通、「ミュージカル」と呼ばれないのは、娯楽劇が主流のブロードウェイ・ミュージカルとは基本的に劇の性格が違うからだ。また現代ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの影響を強く受けた井上の作品は、ブレヒト音楽劇と共通する部分も少なくないが、井上自身の資質から、ブレヒト作品とは相当違う、温かな笑いと情感に富む音楽劇になっている。
最近の井上音楽劇で目立つのは、古今の既成の曲を引用し、そこに井上自身の新しい歌詞をはめこんで、替え歌方式の劇中歌を作るという凝った手法である。過去の音楽とミュージカルに精通していなくては到底出来ない作業だ。
『太鼓叩いて笛ふいて』でも、宇野誠一郎が作曲したオリジナルの劇中歌と並んで、昔のミュージカルなどの旋律を転用した劇中歌が次々に出てくる。
 例えば、第一幕の冒頭で出演者六人が全員で歌う「ドン」という曲。原曲はロレンツ・ハート作詞、リチャード・ロジャース作曲による往年のブロードウェイ・ミュージカル『パル・ジョーイ』(1940年)の劇中歌「ジップ」(Zip)である。これは女性のコラムニストが有名人の名前を列挙して歌うペダンティックな曲だが、日本でも『夜の豹』という邦題で公開されたフランク・シナトラ主演の映画版(ジョージ・シドニー監督、1957年)では、元ストリッパーで、今は金持ちの有閑マダム、ヴェラ・シンプソン(リタ・ヘイワーズ)が昔知り合いだった有名人たちの名前を挙げながら、あでやかに歌う曲になっていた。井上はこの劇中歌からメロディーだけを取り出し、近づく戦争を予感させる歌詞をはめこんで、原曲とはまるで雰囲気が違う秀逸な劇中歌「ドン」に仕立て直したのだ。音楽面でのこうした凝った知的趣向に注目すれば、この劇のおもしろさは倍加するはずである。
 『太鼓叩いて笛ふいて』の初演(2002年)は好評を博し、演劇関係の数々の賞を受賞した。この作品が高い評価を受けた証拠である。まず、井上がこの戯曲で鶴屋南北戯曲賞を受賞。また氏はこの作品をはじめとする劇作の功績で毎日芸術賞を受賞した。さらに、この公演は読売演劇大賞の最優秀作品賞に選ばれ、大竹しのぶは同賞の大賞と最優秀女優賞を受賞。木場克己も同賞の最優秀男優賞を受賞。大竹しのぶは朝日舞台芸術賞と紀伊国屋演劇賞(個人賞)にも輝いた。
七十歳を越えた井上だが、劇作活動の「旬」はまだまだ続きそうである。」扇田昭彦「林芙美子と国家の「物語」――『太鼓叩いで笛ふいて』文庫版解説(新潮文庫『太鼓叩いて笛ふいて』所収、2005年)

 井上ひさしの芝居を、恵比寿のテアトル・エコーで上演された最初の「日本人のへそ」から、ずーっと見続けて『井上ひさしの劇世界』(図書刊行会)2012.をまとめた元朝日新聞学芸部記者、演劇評論家、扇田昭彦さんも亡くなってしまわれた。井上ひさしさんが今のぼくの年齢で何を書いていたのが、『太鼓たたいて笛ふいて』なのだった。たくさんの名作戯曲、『吉里吉里人』などの小説、評論、対談などその仕事の量と質の高さは超人的だった。亡くなる直前まで旺盛に創作を続けていたこともすごい!一度だけ、ぼくは紀伊国屋サザンシアターで「人間合格」の終演後の楽屋口に向かう井上さんと一言言葉を交わしたことがある。「とてもよかったです」と言ったら井上さんが歯を見せた笑顔で「そうですね、どうもありがとう」と言ってくれた。
 75歳まで生きられたとしても、ぼくなどが井上さんの足元にも及ばない仕事しかできないのは言うまでもないが、見習いたいものだと思う。
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