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長谷川等伯のこと  身元不明9人の遺体とアノミー論

2017-11-02 22:43:12 | 日記
A.等伯と友松
 今年五月、飛行機で能登に行き、七尾湾の穴水から中島町、和倉温泉で泊まり、のと鉄道で七尾に寄った。主要な目的は中島町(現在は七尾市と合併しているが)にある「能登演劇堂」に立ち寄ることだった。その際、ちょっと時間ができたのでたまたま七尾美術館で「長谷川等伯展」が開催されているというので、タクシーで往復して等伯展を見た。七尾は等伯の故郷で駅前に銅像も建っているが、郷土の名士ということでここの美術館は毎年のように「等伯展」を開催しているらしい。今回の目玉は、最高傑作とされる『松林図屏風』の展示だが、本物は東京国立博物館にあって、これは最新デジタル画像技術による正確な複製ということだった。安土桃山から江戸初期に京阪で活躍した画家、長谷川等伯のことはぼくも一応知っていたが、その作品をまとまって見る機会はなかった。『松林図屏風』は確かに幽玄な気品が溢れる絵だった。
 狩野派の流れも汲む等伯だから、狩野元信の「真・行・草」の画体を習得して、草体ではこの『松林図屏風』、行体では『古木猿候図』が等伯の独自の境地を示す作とされる。先日見た狩野元信展に、『本朝画史』の原書が展示されていて、木版活字で記述された元信の「画祖」という部分が開かれてあった。有名な『武田信玄像』が等伯によるものだということや、秀吉の幼くして死んだ息子捨丸(秀頼の兄)のために建てられた祥雲寺の障壁画を描くなど、戦国時代の終焉を迎える時代に、当代一の絵師となった等伯。その実力は、田中英道氏の評価では、中国水墨画への見果てぬ憧れ「ロマンティシスム」を脱して、日本独自の絵画にすすむ第一歩だったというわけだが、同時代にもう一人海北友松という人もいた。こちらは亡びた近江浅井氏に仕えた武士の息子だそうである。
 
「長谷川等伯と海北友松
 長谷川等伯(1539~1610)は能登の七尾に生まれ、染色業者長谷川宗清の養子となった。辺鄙な所に生まれたと考えられがちだが、能登にも等春などの雪舟流の画報が伝わっており、養父について修業を積むことが出来た。その死後、京都に行く一五七一年(元亀二年)までに信春の名で仏画、肖像画などを描いていた。京都では本法寺に拠り、法華宗徒として後に『等伯画説』を書く日通上人を知り、画才を認められ大徳寺に出入りしていた。また堺にも行き千利休など茶人や禅僧とも知りあった。このように交流範囲が広くなると肖像画の注文が多くなり、『武田信玄像』(成慶院)や『伝名和長年像』(東京国立博物館)などに見られる作品を描くようになる。『武田像』はいかにも勇猛な武将の顔を写実的に描き、この画家の並々ならぬ技量を感じさせる。『牧馬図屏風』(東京国立博物館)のような和風主題の絵や、『花鳥図屏風』(妙覚寺)のような漢画系の雪舟様式のもの、さらには大徳寺三玄院方丈の『山水図襖』など水墨画の技術を体得した作品も見出される。
 一五九三年(文禄二年)豊臣秀吉の長子捨丸の菩提寺、祥雲寺が創建され、永徳の死もあってその障屏画が等伯一門に依頼された。永徳の天瑞寺方丈画を参考にしながら、緻密な構図の金碧障屏画を制作していった。そのうち『楓図』や『松に秋草図』が等伯の図とされている。『楓図』は永徳の『檜図』と同じように樹木の幹の途中を描きながら、より自然な幹の広がりを描いている。この構図の切り方は力感があり、その葉や草花が写実的に描かれているのも効果的である。この草花の表現は『恵比寿大黒・花鳥図』(京都国立博物館)にもよく示されているが、こうした表現の巧みさはあるものの、石や波といった表現は逆に因襲的な線で描かれる。
 一五九九年(慶長四年)の隣華院の方丈の襖『山水図襖』の岩も写実性がないし、『波濤図』(禅林寺)も形式的である。後者の場合、波がさらに紐上にくねくねと描かれる。このように形式で描くものと、観察に基づくものと二通りあった。これら真体の図に対して、『古木猿候図』(龍泉菴)などは行体で描かれた図であるが、牧谿風の猿候図で、毛描きによる枯れ木のうえに猿が動いており、牧谿のその図の静けさと対照的である。
 いずれにせよ等伯の傑作は誰もが認めるように、草体による『松林図屏風』(東京国立博物館)である。ここには煙霧の中の松林が、たとえ白の空間が大きくても、墨の濃淡により距離感が出され、写実に裏打ちされていると見ることが出来るからである。漢画の定型を打ち破り自由に描かれ、遠景は右上隅に山の稜線がうっすらと見えるだけで、あとは中景だけで統一しており、破綻がないように描かれている。この図によって初めて日本の山水画が生まれた、と言ってよいが、しかしそれでも松だけの林に霧の余白が大きすぎて他の画家が真似すれば、緊張感を失いかねない。
 海(かい)北友松(ほうゆうしょう)(1533~1615)はもともと浅井氏の武将の家柄の五男として生まれており、信長による同家滅亡(一五七三年〈天正元年〉)により武士の道が閉ざされて画家の道に入った。
 「誤って芸家に身を落とした」と述べるほど武士への誇りを持っていたことが知られている。前半生はあまりわからないが狩野派を学び、『本朝画史』でも永徳に師事したという。従って残された作品は六十五歳以後のものである。建仁寺は友松の作品が多く残されており、その中で禅居庵の『松竹梅図襖』はやはり霧でけぶる松に二羽の叭々(はっか)鳥(ちょう)が描かれている。これは大方丈の『花鳥図』の松の根のところに孔雀がいる図も同じで、これらは余白の美を感じさせようとしている。一方『竹林七賢図』のような人物画は「袋人物」と言われる独特のたっぷりとした衣紋の線によって単純化されている。海北友松の図もこのような枯れた描き方と、人工的な描き方を合わせもっており、その点が特徴となっている。やはり中国主題を書くとき、日本画家にとってこの二つの描法はある意味で必然なのかもしれない。和風の『花卉図屏風』(妙心寺)などの写実性にもとづく花や葉の見事な書き込みと対照的である。
 雲谷等顔(1547~1618)もまた武家の出身で、初め狩野派を学んだが一五九三年(文禄二年)に雪舟の『山水長巻』と山口の雲谷庵を与えられたことにより、雪舟流を継ぎ、『山水図襖』(黄梅院)のように端正な風景画を描く一方で、『竹林七賢図襖』(同)のような猪首の唐人物を短い筆致で描いている。また『群馬図』(菊屋家住宅保存会)などは山中の走る馬、佇む馬を表現しているが、馬の顔はみな同じ型で描いている。『梅に鴉図襖』(京都国立博物館)はやはり梅の枝にとまる鴉を描いており、大きく金地の余白を残して、単純な場面となっている。雲谷も中国画についてはやはり海北友松と同じ問題を残しているようである。生没年のわからない曾我直庵は鶏や鷹など鳥や草花を得意とし、それが描かれている場面は写実性で引きしまるが、中国主題の図はやはり人工的で自然さを欠いている。これらの画家たちが、あらたな日本的な主題を選びつつ、しかし一方で中国「ロマンチシズム」が強いために、その伝統的主題が身につかぬまま、中国画の空虚な表現をせざるをえないのは、どこか西洋から影響を強く受けた明治以後の日本美術の中途半端な表現と似ているかもしれない。新たな日本の芸術が花を開くのは次の時代である。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012. pp.361-368.

 この『日本美術全史』の著者、田中英道氏は西洋美術史の専門家で、経歴を見ると東大卒後、ストラスブール大学でPh.D. 東北大学名誉教授、ローマ大学、ボローニャ大学局員教授、前国際美術史学会副会長といった肩書を連ねる。主著に『レオナルド・ダ・ヴィンチ』『ミケランジェロ』『イタリア美術史』『天平のミケランジェロ』『運慶とバロックの巨匠たち』『写楽は北斎である』などがあるそうだ。これらを読んだことはないのだが、題名から推測するに、ルネサンスからバロックにいたる西洋美術の目抜き通りを主に研究し、そこから日本美術では鎌倉彫刻と江戸浮世絵を高く評価する人のようだ。この『日本美術全史』では、孤立した世界としての日本美術史ではなく、世界のアートのなかで極東日本の美術を位置付けることを意図して、日本で名のある個々の作家に対しては、中国や西洋の影響を追いかける模倣や追随を批判し、おおむね厳しい評価を連ねている。ただ、読んでいると気になるのは、西洋の基準や概念を日本美術の作品にあてはめるので、「バロック」にしても「ロマンチシズム」にしても「ロココ」にしても、やや強引にそれで説明してしまう無理を感じる。



B.「アノミー」で説明できるか?
 9人の切断遺体をアパートで保管していて逮捕された事件が、神奈川県座間市で起った。まだ詳しい事件の経過どころか、その死体の身元すらよくわからないという現状である。意図的な殺人なら殺害者と被害者の間になんらかの人間関係や利害関係があるはずだし、ないのなら通り魔殺人や秋葉原事件のような無差別殺人とはるはずだが、これはそのどちらでもないようだ。「前代未聞の凶行」「無慈悲な連続殺人」というレッテルは、どうもそぐわない。
殺害者(あるいは自殺補助者)は、殺した人間の本名も年齢も死への動機も関心がなく、会ったその日に殺しているという。それは目の前に現れた死にたいという人間に、淡々とこの世から雲散霧消する方法を教え、幇助して死体まで片付けるサービス業のようである。
 警察が発表した動機は、9人中8人が若い女性で、唯一の男性も殺した女性のカップルの相手で発覚を恐れて殺したということから、金銭やわいせつ目的だとしたが、それは警察が無理矢理こじつけた理由だろう。ツイッターのネームは「首吊り士」や「死にたい」で、自殺願望が強そうだが、自分が自殺するのではなく、人の自殺を加速し手伝うというのが矛盾といえば矛盾だが、これはきわめて現代的であると同時に、実は19世紀からすでに始まっていた現象なのかもしれない。
 社会学を学んだ人なら、アノミー(英: 仏: anomie)という言葉は知っているだろう。フランスの社会学者エミール・デュルケームが社会学的概念として最初に用いたことで知られる。アノミーは社会の規範が弛緩・崩壊することで生じる無規範状態や無規則状態を示す言葉。もともとはギリシア語の「無法律状態(アノミアー)」から、デュルケームは著書『社会分業論』(1893年)と『自殺論』(1897年)において「アノミー」の概念を提示した。『社会分業論』においては、社会的分業において分化した機能を統合する相互作用を営まないために共通の規範が不十分な状態を示す。『自殺論』においては、経済の危機や急成長などで人々の欲望が無制限に高まるとき、欲求と価値の攪乱状態が起こり、そこに起こる葛藤をアノミーとしている。デュルケームは『自殺論』において自殺の4つの形態を提示した。
自己本位的自殺、集団本位的自殺、アノミー的自殺、宿命的自殺
この中で、アノミー的自殺の説明で、急激な社会変動や性的自由化などによる欲望の過度の肥大化の結果、個人の不満・焦燥・幻滅などの葛藤を経験する個人に起きやすいものであるとした。さて、今回の事件は「アノミー」でうまく説明されるだろうか?

「容疑者「生きている意味ない」 職転々 前途悲観か 座間9遺体
 神奈川県座間市のアパートで九人の切断遺体が見つかった事件で、殺害を認める供述をした白石隆浩容疑者(27)は、正社員として就職したスーパーを二年余で退職し、その後は転職を繰り返していた。物静かな性格で職場でのトラブルは聞かれなかったが、事件直前に足を踏み入れた風俗業界での“つまずき”の直後から、父親に前途を悲観したような言葉を漏らすようになった。
 白石容疑者は座間市出身。中学時代の同級生によると陸上部に所属し、放課後は地元の学習塾で高校受験に備えた。成績はいい方ではなかったが、欠席が少なく、授業態度も良好だった。同級生は「自分のことは語らず、聞き役に回ることが多かった」と話す。
 2009年3月に神奈川県内の高校を卒業後、アルバイトをしていたスーパーにそのまま正社員として就職。複数の店舗で接客やレジ打ちを担当し、アルバイトの統括役も任されたが、約二年三か月後に退職した。
 その後、パチンコ店勤務などを経て風俗店のスカウトをするようになったが、強引さがインターネット上で批判されたことも。今年二月、売春させると知りながら風俗店に女性を紹介したとして職業安定法違反容疑で茨城県警に逮捕され、五月に執行猶予付きの有罪判決を受けた。
 判決と前後して派遣会社に登録したが、わずか二カ月で自ら登録を取り消した。捜査関係者によると、このころから父親に「生きていても意味がない」と吐露するようになった。
 八月二十二日、直後に事件現場となるアパートに入居。逮捕後、二カ月余りで九人を殺害したと供述している。アパート側の話では、契約時は無職で「仕事はおおよそ決まっている」と説明したという。
 事件発覚前の十月初めに、アパートのスタッフが廊下を清掃していたところ、部屋から出て来た容疑者に「掃除ですか」と声を掛けられた。
 スタッフの上司が振り返る。「今思うと部屋から常にこもったような異臭がしていた。外の音に神経質になっていたのかもしれない」

 行方不明届 毎年8万人 若者4割、捜索困難
 警視庁は、行方不明者リストも使って身元確認を進めているとみられる。警察への行方不明の届け出は全国で毎年八万人を超す。二十代までの若年層が四割を占め、犯罪に巻き込まれるケースも少なくない。
 警察庁の統計では、昨年の不明者数は84,850人。64.4%が男性で、認知症を含む疾病や家庭関係、職業や学業上のトラブルなど理由はさまざまだ。年代別では、十台が最多の20.2%、二十代の18.9%が続く。若者が多いのは家出などが原因とみられる。
 不明者の約七割が一週間以内に所在確認されている。自分で帰宅したり、警察活動で発見されたりするのが大半だが、遺体で見つかる場合もある。昨年は、犯罪に関係するとみられる不明者が五百八十人に上った。
 ある警察関係者は「幼い子どもなら大規模な態勢で必死に捜すが、自分の意思で失踪した人に構っている余力はない」。憲法で保障された居住、移転の自由があり「怪しげな人物と一緒にいるのを見つけても、連れ戻すのは難しい」という。
 インターネットの発達が家出人の捜索を難しくしているとの声も。日本行方不明者捜索・地域安全支援協会の田原弘理事長は「出会い系サイトなどでつくった人間関係は本人しか知らず、家族も行き先の見当がつかないケースが増えた」と指摘。犯罪に巻き込まれやすい現状に警鐘を鳴らした。」東京新聞2017年11月2日朝刊、31面社会欄。

 デュルケームのアノミー概念は、個人の欲望が肥大し強化されているのに、それをコントロールする社会的規範が弛緩しているために、挫折や失敗に耐えることができず自殺への抑制ができなくなるというパターンである。19世紀末のフランスでは、カソリックの宗教的規範がかつてのように人々を制御できず、欲望に駆られた人々が死への誘惑に簡単に陥ってしまうという事態の分析が『自殺論』のひとつのテーマだった。20世紀のアメリカの社会学者、R・K・マートンは、このアノミー概念を定義し直して、ある社会において人々の行動を導く文化的目標と、その実現への制度的手段の関係で4類型を考えた。アノミーは、追求すべき価値目標が強調されているのに、それを実現する制度的手段が制約され乏しい場合、アノミー状態に陥ると考える。
 今回の事件の場合、白石容疑者が強い文化的目標を追求していたか、そしてそれを実現する制度的手段がなく挫折したときに、彼の行動を制約するいかなる規範も道徳も皆無だったとすれば、アノミーによる自殺願望といっても外れていないし、彼に殺してもらった死者たちも、似たようなアノミー状態に陥っていたといえるかもしれない。ただし、それでは彼がもともと追求していた強い文化的目標とは何だったのか?そこがよくわからない。彼の27歳までの人生で、初めから無気力で怠惰な生活を送っていたという事実はないようだ。いくつかの証言では、ふつうの少年が学校に通い受験勉強をしとくに乱暴や逸脱行為をすることなく、むしろ穏健で控えめで真面目な青年と見られていたという。だとすれば、彼がかくありたいと願った人生とはどんなものだったのか?そこがわからないと、アノミー論も成立しにくい。
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