gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

東海寺を歩いて禅を思う

2014-06-03 21:34:57 | 日記
A..品川東海寺に行ってみた。
 ジャズから音楽の話をしていたはずが、ちょっと精神医学なんかを覗いているうちに、映画をきっかけにたまたま「宮本武蔵」の話を始めてしまい、沢庵坊主のことから仏教と武道のかかわりを考えていたら、「禅」って何なのだ、という場所に戻ってしまった。それで、陽気もだいぶ暑くなり始めたので、沢庵宗彭が晩年に江戸で彼のために作られた禅寺、品川の東海寺が近いな、と思ったら行ってみようかと気まぐれ心が起きた。
 研究室のパソコンが、サポートが終了したwindows XPでinternet explolerもそろそろ危ない、というので新しいパソコンとモニターを大学から買ってもらって、古いPCを外し、データを外付けHDに移して、昨日新品を箱から出して汗をかいてセッティングしたのだが、Officeが別売だった。Officeは昔のようにCDディスクを読ませればすぐインストールできるのではなく、ネットに接続しないと立ち上がらない。ちくしょ、今日はもうだめだ、仕事にならない!と思ったのが午後4時。ええい、品川の東海寺に行ってみようか、と思って歩いた。
 京浜急行新馬場駅から歩いてすぐ、らしい。まだ空は明るい。品川から京急各停で2駅。都心の西側を山手線に沿って流れる目黒川が、かつての江戸湾に注ぐ手前、東海道五十三次の最初の宿場、品川宿の手前に東海寺はあった。いまは東京の都心部に属するが、江戸時代までは高輪大木戸(今の泉岳寺あたり)までが江戸の朱引き内で、その外は郊外である。東海道の左側は江戸湾の海だった。高杉晋作や坂本龍馬が遊んだ土蔵相模も品川宿。そこに臨済宗の大寺院東海寺があった。駅を出て歩いて行くと、確かにそう遠くない距離に確かにその寺はあったが、入り口は巨大なマンションになっていて、広重の浮世絵が大きなパネルになっていた。
 奥の寺はもう夕刻のためか、新しい山門の中には入れない。禅寺の大きな屋根は見えたが、正直なところ東京のあちこちにある古い小さな寺院にしか見えず、ぼくはかなり失望した。かつては京都の古刹大徳寺の住持も務めた沢庵が、将軍家光に請われて開山したという大きな寺だったはずが、こんな片隅のマンションの裏にある。そこにある地図を見ると、この一帯がかつてはすべて東海寺の寺域であり、今は児童公園や学校などになっている。そこに沢庵の墓として墓地があると出ていた。ぼくは、evianを飲んで水分を補給しながら、目黒川に沿った狭い道を歩いてその墓地を探した。しかし、恐竜のレプリカのある児童公園まで行っても見つからない。沢庵禅師の墓はどこだ?京急に戻るのをやめて、大崎方面にまたぼくは汗をかきながら歩いて行った。そして遂にみつけた。東海道線や横須賀線の線路と新幹線の線路に挟まれた奥まった場所に、東海寺の墓地があった。寺とはかなり離れている。
 なんと、ここには沢庵の墓のほか、国学者賀茂真淵、それに渋川春海の墓まであるのだ!すげ~!もちろん誰もいなかった。6時を過ぎていたが、まだ明るかった。沢庵の墓は、繁みのなかに囲まれた大きな石が横に置かれた墓石だった。その裏に、近年建てられたらしい「夢」と刻まれた沢庵追悼の別の碑も建っていた。その裏を、東海道新幹線が走り去っていった。
 なるほど、時世は移り、もはや戦国の世も、江戸の草創期も、遙か遠い昔になったのだが、歴史の記憶はこういうかすかな形で、今も残っている。ちょっと嬉しくなった。



B.禅の教えについて
前に引いた、内田樹と釈徹宗の往復書簡で構成された『いきなりはじめる仏教入門』には、仏教について初歩的な質問から高度な思想的議論までが解説されていて便利なのだが、どうも禅についてはあまり触れられていない。釈氏は浄土真宗本願寺派の僧侶であるので、禅については少し距離を置いているかもしれないが、そこでちょっとあら探しをしてみると、こんな記述があった。まずは、内田樹の武道論。

「(内田)私は武術の稽古を長くしてきましたが、「死」については、そのアプローチから気づいたことが少なくありません。
 当然ながら武術というのは、端的に言えば「殺す技術」です。ただし、この「殺す」はつねに「殺される」可能性に裏書きされていますから、やや控えめに「生死のあわいにおいて、適切にふるまう術」というふうに私は定義することにしています。
 なぜ「殺す技術」であるはずの武術の修行が人間にとって意味があるのか。
 私の理解では、武術に意味があるとすれば、それは武術の稽古は「死ぬことのシミュレーション」だからです。
「武士道とは死ぬこととみつけたり」とは、『葉隠』のよく知られた言葉ですが、私はこれを武術的な心身の錬磨はつきるところ「死ぬこと」の意味と機能を徹底的に考究するところにある、と解釈しています。
 武道の形稽古の場合、一つの形はつねに最後に相手を制して終わります。徒手でも杖でも険でも「形が終わるとき」というのは、相手が死んだとき(あるいは次の致命的な加撃に対して、有効な抵抗ができない状態になっているとき)です。
 短い形は数秒で終わります。そして、多くの形稽古では、「殺す側」と「殺される側」は形が一つ終わるたびに交替します。ということは、形の取り手と受け手は「殺す経験」と「死ぬ経験」を繰り返しヴァーチャルに体験しているわけです。
 なぜ、そのようなことをするのでしょうか?
 管見の及ぶ限りでは、形においては「受け手」がつねに敗北するのは、受け手の方が微妙に「執着」が多いように形が構成されているためです。
 私の知る限りのことですから、違うものもあるかも知れませんが、武術の形は「先手」を取った方が負けるように構成されています。打ち込むにしても、握るにしても、抑えるにしても、「敵味方」の対立関係をまず立ち上げ、そこに支配被支配・攻撃防衛の二項対立関係を作り上げるのが「先手」を取るものの役目です。
 それに対して、「取り手は」は「後手」にまわるわけですが、その機能は、「先手」を取ったものが立ち上げた「敵味方の対立関係」を解消することにあります。
 徒手の技法である合気道の場合はとりわけ顕著なのですが、相手がしかけてきた攻撃に対して、これを「受け流し」て、相手と一体化してしまうのです。
 つまり形稽古は「対立を作り出そうとするもの」と「対立を解消しようとするもの」のせめぎ合いというふうにも言い換えることができます。
 そして、形が教えるのは「生きること」に執着するものは破れ、「生死のあわい」にふわりと立つものが勝つ、ということです。「自分は生きる、おまえは死ね」というふうに当然のように「生者の側」にとどまり続けようとするものは死に、自分たちがともに生死の危うい境界線上に揺らぐように立っていることを知っている人間、つまりより「死」に近いポジションを選んだものが生き残るのです。
 私はこのような形の構成原理から考えて、形稽古が、身体の強く速い運用や筋肉骨格の強化のためのフィジカルな「トレーニング」であるとはとても思うことができません。
 むしろ武術の稽古が教えようとしているのは、「生きることへの執着は『よく生きる』ことを妨げる」という生死の根本原則ではないのでしょうか。
 もちろんそれだけでなく、武術的な身体技法の中には無数の人類学的英知が凝縮されていますが、本質において、武術とは「死ぬレッスン」だと思うのです。
 山岡鐵舟は臨終に際して家族門人知友に遺言を告げてから、彼らを別室に引き取らせ、一人座禅を組んで瞑目したのち絶命したそうです。
 これを「さすがに武道の達人は死に際もみごとなものだ」というふうな感想をもつとしたら、それはあるいは本末転倒ではないかと思います。
 そうではなくて、鐵舟にとって、生涯の課題はこの臨終の瞬間に端正にふるまうことにあったわけで、そのように「みごとに死ぬ」訓練を幼少から重ねてきたがゆえに、その武芸も胆力も判断力の確かさも感情の豊かさも、人に絶していたというのがことの順序ではないかと私は思うのです。
 どうも自分の好きな話にひきずりこんでしまって申し訳ありません。
「執着」とは何か、「悟り」とは何か、という点について、ぜひ私たち素人に分かるような仏教的解説をお聞かせ下さい。ではまた。」内田樹・釈徹宗『いきなりはじめる仏教入門』角川文庫、2012, pp.91-95.

 武道といっても、内田氏が考えているのは合気道である。ぼくは合気道はやったことがないが、高校時代に剣道と少林寺拳法を少しだけやった。剣道は汗臭い防具を着けて、竹刀で戦う。人間同士が武器を持って戦う武道だが、いまはたんに瞬発力を競うスポーツになっている。面、小手、胴、でポイントを取るのだが、もしこれを木刀や真剣でやったら場合によっては骨折したり死んでしまう。西洋のフェンシングも、人が剣で戦う技術を磨くのだが、最終的には命のやりとりである。身体能力を錬磨してスポーツとして競うのは、あくまで殺す、殺されるという次元を禁じたゲームの側面に限定する。しかし、戦国時代のような命のやりとりが日常化した時代は、ゲームなどというお気楽はあり得ない。
 安全なスポーツ・ゲームとしての武道の方向ではなく、人の生死をかけた精神思想のレベルで、身体技能の錬磨を追求していけば、自ずとそれは「死」の価値をどう鍛えるか、という問題になっていく。宮本武蔵を極限のテーマにするならば、真剣で戦うことの緊張感は、オリンピックのポイント競争とは別種の、ある奇妙な人生観をもたらす。沢庵和尚の思想には「剣禅一如」、つまり剣をもって戦う、ということは人を殺すことに他ならず、それは正当防衛というような合理性の論理ではなく、自らが殺されあるいは相手を殺してしまう紙一重の差について、余計な理屈を持ち込まない、という決意がある。ときどきの政治や道徳の要請を超えて、自分の精神がそのまま行動に発露して、動き、その結果、戦いの相手を殺したとしても、それは自分が殺されていたかもしれない、という相互性、それは誰にも責任を転嫁しない。自分の死を自分が引き受ける、という倫理だったと思う。

「(釈)内田先生は「生きることへの執着は『よく生きる』ことを妨げる」のが生死の根本原則だと書かれました。もはや「ブッダ」と呼ばせていただきます。
 生きる執着を縮小するためには、その人にとっての「リアルな物語」が必要なのではないでしょうか。たとえば、「魂の不滅」や「来世」や「輪廻」といった物語にリアリティを感じる人は、生きる執着が縮小されるかもしれません。つまり個を超えた物語、眼前の世界とは別の足場を持っているということが気分よく死ぬことへのヒントになると思います。
 道元が「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり、万法に証せらるるというは、自己の心身、および他己の心身をして脱落せしむるなり」(『正法眼蔵』)と語っています。リアルな自分を知ることと、個を超える出会いへとつながること、これが「気分よく死ぬ(=気分よく生きる)」ということなのだろうと想像しています。
  〔中略〕
 一方、大乗仏教(マハーヤーナ)は、一時インドから西方へと拡大するのですが、その後イスラム勢力に駆逐されます。大乗の舞台は、インドから東北、中国、チベット、ブータン、朝鮮半島、日本などへと移行していきます。大乗仏教が展開していく中でも、三つほど特筆すべきポイントがあると私は思います。
 密教の成立
 ひとつは、インドにおいてヒンドゥー教と融合し〈密教〉が成立することです。もともと仏教はタナトス傾向〈消滅へのベクトル〉が強い宗教ですが、ヒンドゥーはエロス傾向(生命力を賦活)が強い宗教です。この二つがくっついて、エロスたっぷりの仏教=密教が誕生しました。インドでの大乗仏教最終形態です(その後、ヒンドゥーが仏教を吸収してしまうような格好になり、イスラム勢力の拡大もあって、仏教はインドでほぼ消滅しちゃいます)。
 密教は、苦も楽も、煩悩も欲望も、すべて肯定し、その身のままで仏になれる、という全方向に扉を開いた仏教です。その教えの本質的部分は一般に公開されるようなものではなく、出家して師から伝えられるという性質なので密教と呼びます。口には真言(マントラ)を唱え、印を結び、意識を森羅万象と通じ合わせれば、心身ともに仏と一体となる(加持)という神秘的体験を重視します。
 大日如来(宇宙の根源)を中心として、壮大な仏教ワールド(マンダラ世界)が語られますので、マンガや小説で仏教を活用するなら密教がおすすめ。一番キャラが立ちます。
 禅の確立
 ふたつ目は、中国で出来上がる〈禅仏教〉。ご存知のように、中国で様々な宗派が確立され、それぞれの華を咲かせます。その反面、中国(といってもえらく範囲が広いですが)では、出家文化と相容れない部分もあります。儒教から見たら、出家はとんでもない親不孝です。だいたい、出家者なんて、そんな非生産者を敬い養う文化土壌は希薄です。だから、「仏教が盛んになれば、国が滅びるぞ」などと仏教がものすごく攻撃される時代もありました。そんな中、禅は自給自足の生活形態を確立させていきます。「一日不作一日不食(一日作さざれば、一日食らわず)ですね。畑を耕すのも、料理を作るのも、おトイレに行くのも、生活すべてが禅である、としたのです。出家の形態も、風俗や民族性や地域によって変化するということですね。
 禅は釈尊が悟りへと到達した道筋です。その意味で、仏教では最も重視されるべき形態といえます。ただ中国で発達する禅は、釈尊のような分析的思考法よりも、ちょっかんてきたいとくを重視します。もしかしたら、東アジアの人は、そっちの魅力のほうが発達していたのかもしれません。
 在家仏教の完成
 三つ目は、日本で完成する〈在家仏教〉。沙弥、聖、毛坊主、などといった出家と在家の境界線上みたいな形態も発達します。聖と俗の境界は不明瞭。いやむしろ在家のままこそ自然なんじゃないか、愚者は愚者のままで救われていくのだ、というものすごい仏教の構造改革です。よく考えたら、出家の形態って、えらく不自然というか、特殊ですよね。それよりも「無為自然(むいじねん:あるがまま)」で仏道を生きる、というものです。う~ん、なんかジャパニーズ・テイストだ。」内田樹・釈徹宗『いきなりはじめる仏教入門』角川文庫、2012, pp.115-118.

 釈氏の禅の説明は、少し物足りない。逆にいえば、どうして「葉隠」的に歪んだ武士道が、禅と親和性があるのか?日常生活の細部を、緊張感に貫かれた禅的美意識に満たすことが、主君への忠誠に捧げた江戸初期の武士階級に深く浸透していった理由を、もう一度考えてみたい。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« たくあんtakquan と むさしm... | トップ | ある芝居と、日本美術史の区... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
自然数のカタチ (正則一皐月闇のニンフたち)
2021-10-04 11:38:19
≪…一番キャラが立ちます。…≫を使って、【1 2 3 4】を≪…真言(マントラ)…≫にしてしまう≪…(マンダラ世界)…≫は、【点・線・面】と【円】【真四角】【ながしかく】の≪…個を超える出会いへとつながる…≫を≪…神秘的体験…≫的に感じたい。

 【心即理】な言葉が、自然数の【1 2 3 4】に生り≪…マントラ…≫として受け入れられそうだ。
返信する

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事