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ある芝居と、日本美術史の区分について

2014-06-05 23:46:20 | 日記
A,ある芝居を見た
 さきほど、激しい雨の中、下北沢「本多劇場」で英国の脚本家ブライアン・クラークの「請願~核なき世界」”the PETITION”という芝居を見てきた。加藤健一と三田和代の二人だけで2時間ほど舞台上で休みなしに演じられる芝居である。加藤健一が主催する「加藤健一事務所」はおもに英米の劇作品をとりあげ、軽妙なコメディもやれば、深刻なテーマを扱うドラマも、プロデュース&主演で上演してきた。ぼくは半年に一度くらい加藤健一の芝居を見ているが、今回の作品はなんといっても50年連れ添った退役軍人の妻を演じる三田和代さんが、ほんとにロンドンに住む意志的な老婦人そのままに見えて、素晴らしかった。演出は高瀬久男。この人はぼくが前回見た滝沢馬琴を主人公にした「滝沢家の内乱」でも演出をしていた人。
 「請願」の物語は、こういう設定である。
 ロンドンの高級住宅街で、静かに暮らす老夫婦、エドムンド(加藤健一)と、妻のエリザベス(三田和代)は、子どもたちもそれぞれ独立し、優雅な老後を送っていた。ある朝、新聞の核兵器反対の請願広告に妻が署名していたことを知った夫は、大きなショックを受けて怒り出す。元陸軍大将として長年国家と軍を支持する彼は、核兵器に反対することなど許せないのだ。植民地時代のインドで知り合って結婚し、50年以上も連れ添って、今日初めて妻が夫に自分の本心を主張した。妻は雄弁に自分の考えと意志で、反核署名をしたことを訴え、夫の考えとは正反対の意見を公表したと語る。やがて、動揺する夫に実は妻はあと3か月と宣告された末期ガンに罹っていた、と打ち明ける。なぜそのことを自分に打ち明けてくれなかったのか、今まで大英帝国軍人として生真面目に生きてきて、妻とは何の問題もなかったと思っていた夫ははげしく怒り動揺する。しかし、彼が激昂するほど、妻は冷静に論理的に、ユーモアを交えて夫に語りかける。やがて、これまで表に出さなかった事実や思いが明らかになって・・・。
 というわけで、時代設定はチェルノブイリ原発事故でヨーロッパに反核運動が盛り上がった1980年代後半、夫のエドムントは第二次世界大戦を英国軍で戦った70歳ぐらいの退役将軍、もしかしたらビルマ戦線で日本軍とも戦っているかもしれない。彼は、核兵器こそ冷戦の軍事バランスと共産主義の脅威から国を守る強力な武器だと信じている。もちろんそれは「使えない最終兵器」で、その恐ろしさも知っているからこそ、抑止力になるのだと主張する。エリザベスは60歳近くになるまで、家庭の主婦として家事育児に専念して暮らしていたが、大学の公開講座に参加して世界のこと、社会のこと、政治のことに目覚めて、夫の考えとは違った立場に立っていた。ただそれで夫への愛情を失ったわけではないが、考えてみれば結婚の初めから彼の軍人としての生き方には疑問を感じていた。
 「請願」の日本初演は、2004年6月の新国立劇場(鈴木瑞穂・草笛光子・演出木村光一)だそうだが、ぼくは見ていない。2014年の日本で、この芝居を上演する意味は、当然ながら福島原発事故以後という状況が効いている。核兵器の問題と原発の問題は違う、という意見もあるだろうが、核爆弾や核兵器と原子力発電の原理も技術も基本的に同じものである以上、問題は通底している。この芝居のエドモンドの台詞の中に、軍が全力で開発したミサイルで、敵の補給基地や司令部をピンポイントで攻撃をすれば、確実に勝利できるし、それが軍人の役目だ、というような言葉があった。これは、今の日本にあるたくさんの原発にミサイルを打ち込めば、どんなに自衛隊が強いと言っても日本列島など3日で壊滅できる、ということと同じだ。そしてその論理に立てば、日本がいつでも敵の攻撃を防ぐためには、こっちがさきにミサイルを撃ち込むしかないし、ただのミサイルではなく核をもっているぞ!というのが一番効果的だから、核兵器をいつでももてるぞ!というために原発がどうしても必要だと言いだすのだ。
 この芝居は、もちろんそういう政治的な問題が中心テーマのようにみえて始まるが、ドラマはもっと深まっていって、長い人生を生きてきた夫婦の愛情と精神の決着という場所に行く。それにしても、20世紀の英国は、戦争に勝ち、資本主義先進国として生き残ったはずが、どうして没落したといわれるのか。それは、軍事的覇権を捨てて国民生活の社会保障を優先した労働党政権のせいなのか、それとも世界中の植民地を手放したとはいえ、アメリカと手を携えて、核をもち、経済を支配し、戦争をしてきたからなのか、それとも女王陛下がいてくれたからなのか。敗戦国日本から見ると、少々傲慢で頼りない気もするが、矜持と知恵とユーモアはさすがだな。



B.禅宗と日本美術について
 鎌倉時代に中国(宋)から持ち込まれた禅は、仏教と言っても平安仏教や浄土系、法華系、とは違って、勃興する武士階級に浸透していった。それは美術の面でも、今日のいわゆる日本的伝統美術として語られる、水墨画、木造彫刻、茶室と庭園にみられる建築、陶芸などに影響を与えている。禅について少し考えているうちに、日本の「中世」「禅」「武士」「武術」そして「美術」が繋がってくる気がしてきた。そこで、西洋美術史家だという田中英道氏の著作『日本美術全史』をちらほら読んでみた。
田中氏によると、日本美術史研究という世界は、もともととても「タコツボ化」していて、「古代」「中世」「近世」「近代」という政治史的区分を前提に、さらに「絵画」「彫刻」などお互いの不可侵の縄張りがあるという。したがって、たとえば「近世の絵画」の中で「狩野派」や「琳派」を研究すると決めれば、「中世の彫刻」や「古代の仏像」などには関心もなく、関心があったとしても口は出さないという不文律に囲われる。まして、中国美術は参照しても、西洋の美術になどまったく無関係になる。田中氏のこの本は、そういう暗黙のタコツボを無視して、時代の特性と結びつく「様式」と非凡な作家の作品がもたらした達成に着目しながら、古代から現代までの、東洋から西洋までの、総合的な展望を目指そうとしている。
 これはかなり壮大な試みで、個々の記述には粗雑な部分もあり、おや、そうかな?と思う部分があるのだが、構想と視野の大きさはおおいに参考になる。日本美術史業界からは、ほとんど無視されたそうだが、一般の美術愛好家や外国の美術研究者には、大きな反響を呼んだという。イタリア語やフランス語にも翻訳されるそうである。

「鎌倉に幕府が置かれ、禅宗の一大中心地となると、宋伝来の水墨画と頂相画(ちんそうが:引用者註:禅僧などの肖像画)がもたらされた。頂相画についてはすでに述べたが、新たに水墨画がもたらされた。鎌倉、円覚寺の仏日庵にある北条時宗が用いた道具類の『公物目録』(一三二〇年〈元応二年〉)には、頂相画の他に、布袋、寒山拾得、呂洞賓(りょどうひん)などの道釈画、牛、梅、猿、芦雁などの花鳥画、山水画が記されている。とくに南宋の禅僧の牧𧮾の猿の絵が数点あったことが書かれている。後に日本で最も愛好される『観音猿鶴図』の画家の作品がすでに、鎌倉後期には日本にもたらされていたのである。しかしこの水墨画が宋元画の模倣から始まったからには、それが日本という風土で定着するには時間がかかることであった。この展開は次の機会にゆずるとして、ここでは禅宗が座禅修行によって自己放棄し、無心になることを強調したとき、仏教美術などは頂相以外に必要を感じさせなくなることが気になる。
 つまり問題にされるのは禅宗そのものに、旧仏教の偶像を否定する精神があり、それが新興の武士階級の一方のイデオロギーでもあった点である。確かに武士階級にとっては、新しい浄土念仏の動きや、華厳や戒律の復興が、ある意味では彼らの動きと重なっていたが、それは旧貴族や民衆も巻き込んだもので、彼ら自身のものでは必ずしもなかった。禅宗こそが新しい支配勢力のもつ思想であり、芸術的表現に対して否定的であったことは注目すべきことである。これは、西洋では一六世紀のプロテスタントの運動に似ている。ルターの動きが、自らの信仰そのものを問題にし、、人間と神との直接的な結びつきを協調するあまり、その仲介者を否定してしまうとき、美術は不要となった。カトリックの奢侈を非難し、教会の腐敗を弾劾するあまり、その美術まで否定するに至ったのである。禅宗が、外に向かわず自己に帰れ、というとき、この西洋の新教に似てくるようである。一四世紀に入り、武家政治が一層確立してくると、禅宗が許容する頂相だけは優れていたものの、全体の仏教美術は創造のエネルギーを失っていかざるをえない。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012、pp.317―318.

 輝く仏の像を拝む、という行為が、国家・人民の統合にとって必要であり、文字も読めない大衆に文明の威力を感知させたのは、仏教伝来から平安初期までで、その後も仏像や仏教絵画は造られたが、鎌倉新仏教は仏像仏画を拝むということを重視しなかった。とくに、禅宗は偶像崇拝を否定して、個人の精神的修養・解脱を追求することを重視した。それが武力で己の権力闘争に生きる武士階級に、宗教的そして美的な価値を提供した、と考えてみる。
 そして、仏教美術は平安末期が「マニエリズム」、鎌倉時代に豪壮な「バロック」美術が実現したのを最後に、衰退していったと田中は言い、その理由を社会システムの転換に見る。(この西洋の様式タームで日本美術史を語る田中の論が、日本美術史業界人には受け容れがたいところだろうが)なぜ仏教美術は衰退したか?日本の仏教そのものがリニューアルしたこともあるが、田中は網野善彦の中世史論を使いながら、共同体と国家のためのイデオロギー装置であった仏教から、個人の苦悩の救済へと切り替わったことにあると考える。それが作品自体に現れるのが、南北朝から室町時代ということになり、日本の場合、文化史的にも思想史的にも、そして美術史的にも、ここでそれ以前とは大きく変わったと見る。
 この歴史区分を受け容れるかどうかも、大きなテーマだが、確かにそう言われると、ぼくたちが今、すみずみまで西洋化された世界で、日本的な文化、日本固有なユニークな美としてイメージする具体的なアイテムのほとんどは、鎌倉以前のものではなく、十五世紀以降の創造物である。ぼくは、21世紀の現代につながる日本史の最大の焦点は、戦国時代でも幕末でもなく南北朝争乱だと思っているが、それを美術史で考えたことはなかったので、これはなるほど!である。

「仏教美術史家により、仏教美術は日本では鎌倉時代で終焉したと言われる。仏教彫刻について《日本の仏像彫刻は室町時代以降も数の上では多く制作されている。しかし鎌倉新仏教があまり仏像を尊重しないこともあって、造仏界は鎌倉末期から沈滞しはじめ、南北朝から室町時代になるといっそう仏像は形骸化し、生命力の乏しいものになっていく》(久野健氏)とか、仏教絵画でも《むろん室町時代でも東福寺の仏涅槃図や奈良・長谷寺の観音像、山梨・大善寺のように非常に大きなものが造られはするが、仏画の信仰性をあわせもつ美術性はすでに薄らいでいるのは否めない。江戸時代には細かい技巧をこらして描かれた江戸仏画と呼ばれる特色のある仏画が見られるが、もはやそこには、平安時代の熱い信仰に基づいた仏画の崇高美は求むべくもない》(有賀祥隆氏)と語られている。
 禅宗の役割については述べたが、他の「鎌倉の新仏教」についてはどうであっただろうか。確かに法然をはじめとして親鸞、道元、日蓮などの思想は、国家鎮護のために利用された仏教を民衆の個人的救済の方向に向かわせた意味で、新しいものであった。しかし逆にその個人の救済という点において、その思想が近代性を帯びるとき、それは宗教のもっている共同性の喪失につながり、信仰による表現の弱まりに結びつく。絵画に崇高さがなくなり生命力を失う傾向は、まさにそのことの反映であろう。
 これについて考えられるのは、歴史の分岐点のことである。私は例えば網野善彦氏が次のようにいう十四世紀のいろいろな意味での社会的転換と関係しているように思えてならない。その転換の動きに「鎌倉の新仏教」が大いに貢献しているからである。具体的に言えば寺社の金融行為の成立である。
 それまで農民の金融は神社がそこに捧げられた種籾を貸し出し、利息をつけて返させることを行っていたが、十三世紀後半以後はそれが世俗化し、金融業者の役割を神社がし始めた事実である。寺社の建造のために寄付金(勧進)を集め、その集まった金を運用して商人としての活動もしたという。禅宗の場合も同様で、その宗教者の役割だけではなく、世俗的な分野で活躍し、室町時代になると「荘主」と言われる荘園の請負人として禅僧が経営にたずさわっていた。禅僧や律僧をはじめ、「鎌倉新仏教」系の寺院が、祠堂銭を中心とした金融を活発に行い、寺院をそれで経営するようになる。土地、所領によって寺を維持するのではなく、金融、勧進等による経営さえ、十五、六世紀には行われた。「鎌倉の新仏教」に多い、土地をもたない「無縁所」という寺院もそれで経営された。つまり「資本主義」的な商業や金融によって寺が維持された、ということが出来る。かつての神仏と異なり、寺院というもの、宗教というもの全体が物質的な金融によって支配される状態が現れたのだ。これは、西洋で言えば、十六世紀のプロテスタントの動きが、「資本主義」の精神を育んだというマックス・ウェーバーの理論どおりで、鎌倉新仏教がある程度同じ役割を果たしたという、網野氏の意見は傾聴に値する。
 十三世紀の後半から十四世紀にかけて、日本の社会に、金属貨幣がはじめて本格的に流通しはじめた。土地の売買が米ではなく貨幣で支払われるようになったのである。日本列島に丸に四角の穴のあいた銭が流通するようになった、と言われる。これは中国からの貨幣の流入による、とされているが、あらゆるものの価値尺度が貨幣で表されるようになったことが、重要である。ものがすべて貨幣の尺度で計られるとき、その精神的価値、宗教的価値が、物質の価値にまで平準化される。これは西洋でも、教会を攻撃し勤勉な労働に価値をおいたプロテスタントが進出するにつれ、教会に支えられた芸術もその価値を失っていくことと対応するのである。ドイツでは十六世紀後半にはすでに美術は衰退し、一方イタリア、スペイン、フランスなどのカトリックの側でも十七世紀の後半には、宗教美術そのものが生命力を失っていくのである。
 網野氏は『一遍聖絵』において、「犬神人(いぬじにん)」が一遍や時衆と一緒に遍歴していたことを指摘し、一方『天狗草紙』ではすでに蔑視された「」を描いており、ちょうど十三世紀末の変わり目に注目している。それは、この頃社会の外にいた「」といわれる「犬神人」のような、葬送や処刑にたずさわり罪を浄める仕事をもつ人々が、畏怖から蔑視の対象に変わっていく時期とも一致しているという。死をあつかう人々が、聖なるものとの交わりを司る神聖なものであった時代と異なり、彼らが汚れ多く忌避するべきものになったことは、芸術全体の中で神聖なものの表現が重んじられなくなったことと対応していよう。
 美術が特に、人間の深い信仰と聖なるものへの恐れにより、崇高なるものの追及を行うものであるとすれば、十四世紀がこのように「近代化」と言ってよい社会の動きを示すことは、宗教美術の終焉を意味すると言ってよいであろう。これまで述べたこの時代の仏教絵画の形式化、装飾化の傾向はこれを意味することに他ならない。これは西洋美術で十七世紀「バロック」美術の最終時期に起ったことなのである。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012(原著1995年刊)、pp.318-321.

 文明としての西洋が東洋を侵略したとか、歴史的経済発展に西洋が東洋に先行していたとか、ヘーゲル的巨大進歩史観から世界を見渡して、こっちが進歩しているとか、あっちが遅れているとか、われわれは豊かな先進国で、あそこの人たちは貧しい後進国だ、という言い方自体がどこまで根拠のある認識か疑わしい。とはいっても、ある時代に優れた芸術家がたまたま造りだした作品が、どのような評価を後世に与えたかは、絞り込んで研究する価値があると同時に、空間的・時間的に比較してみないと正確な位置づけは得られないと思う。それは、美学的な、つまり時空を超えた「美しさ」を求めながら、それが社会的なものであることを意識することになる。ぼくは美術史家でも美学者でもないが、社会学にとっても美術は研究する価値があると思う。ちょっと、これをやってみようかな。
 客観的には、あさってはまた福島に行かなくてはいけないし、来週には研究会で報告をしなければならないし、美術とはおよそ無縁な世俗のスケジュールが山積しているのだが、「頂相」の最高峰、『大灯国師像』(大徳寺蔵)を見ていたら、まあ生きていればぼくのようないい加減な人間にも、なんかできるんじゃないかと思えてくるから不思議だ。酒のせいかな?
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