小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京交響楽団×ロレンツォ・ヴィオッティ ヴェルディ『レクイエム』

2019-01-15 16:38:57 | クラシック音楽
東京交響楽団とイタリアの若手指揮者ロレンツォ・ヴィオッティによるヴェルディ『レクイエム』をサントリーホールとミューザ川崎シンフォニーホールで二日間聴いた。いずれも卓越した名演だったが、初日と二日目では少しばかり違う感想を抱いた。サントリーでは衝撃と陶酔を味わい、一方ミューザは(オケにとってより理想の空間だったが…)オーケストラと指揮者、合唱と指揮者、歌手と指揮者の理想の関係とは何か、ということを強く考えた。

声楽ソリストはソプラノの森谷真理さん、メゾ・ソプラノの清水華澄さん、テノール福井敬さん、バスのジョン・ハオさん。バリトンのリアン・リさんが降板となったためハオさんが加わり、すべて二期会の歌手になった。壇上の東響コーラスは壮観で、これだけの数が上ったのは初めて見る。164名の歌手たちがいたという。
冒頭の超弱音から始まる合唱の木霊のような声に心を奪われた。pからpppppまでのグラデーションが繊細な起伏を作り、ステレオのつまみを回すように完璧にコントロールされている。死者の行く暗い道を暗示しているようでもあり、遺された人間の喪の感情を表しているようでもある。それが「怒りの日」の爆音的表現と強烈なコントラストをなし、バロック絵画のようなドラマ効果を醸し出していた。

ソリストの歌手四人はいずれも全力投球で、お尻だけ歌えばよいベートーヴェンの第九と違って85分間最初から最後まで気が抜けない。全員がヴェルディの名手であり、清水さん、福井さん、ハオさんは二期会での『ドン・カルロ』でもメインの役どころを歌っている。歌手陣の磨き上げられた劇的表現は見事で、特に森谷さん、清水さんの歌唱にはヴェルディのこの曲に対するオリジナルな解釈があったように思う。ヴェルディは作家マンゾーニを悼んでこの曲を書いたのだが、現世で死を経験するすべての人間の苦痛、自分自身の苦痛を重ね合わせ、それをどうにか解決しようとしてこのクレイジーな曲を作ったのではないだろうか。死者と引きはがされた生者の「この生にはどんな意味があるのか?」という悲痛な嘆きが女性歌手の声からは感じられた。

オーケストラは、ノットさんと一緒の東響とは別のオケのようだった。激越で戦闘的で張り詰めていて、初日には大太鼓が破れた。サントリーではちょうど前方左側で聴いていたので、大太鼓が交換される様子までよく見ていたのだが…あの雅やかな東響でこんなことが起こるのは珍しい。オーボエの最上さんのTwitterによると、リハーサルのときも大太鼓は破けてしまったらしい。コンマスとセカンドの方が、爆風に飛ばされるように大きくのけぞって演奏する姿も初めて見た。巨大な音と弱音とのコントラストは最大限に強調され、雷が落ちてくるような効果をもたらしていたが、サントリーではそれが新鮮で面白く感じられたものの、ミューザでは少しばかり気の毒に感じられた。あの戦闘的な音はどうしても「東響らしくない」感じがしたからだ。

ヴィオッティはまだ20代で、夭折した偉大な指揮者を父にもつサラブレッドで、今まさに世界を掴もうとしている野心的な若獅子だ。セスナを操縦するようにオケと合唱を思いのままに指揮し、理想の世界を創り上げる。彼が最初に登場した在京オケも東響で、このオケに大切にされて音楽家としてのステップを上がっていった。
奇妙な譬えだが、指揮者には「親目線」のタイプと「子供目線」のタイプがいると思う。親は、子供がどんな我儘を言っても笑って耐え、自分が死んだ後に放蕩息子も分かってくれるだろうと諦観とともに生きる。子供は、青天井の万能感とともに暴君となり、鬼となることが自分の役割だと思っている。くだくだしく語るのも何だが…二日目のヴィオッティは「親の心、子知らず」に見えた。
そのオケの土壌が大切にしているもの、唯一無二の個性を見抜いて、そこに自分の音楽愛を重ね合わせていくのが「達人」の指揮者だが、ヴィオッティはまだ若すぎる。結果的に音楽が面白いものになっても、オケの内側が幸福でないと私は嫌なのだ。破れてしまった太鼓は、舞台から見えない不調和を表しているようにも感じられた。

「レクイエム」のオケには規律があり、木管とチェロはふだんの東響より緊張感のある演奏をしていたと思う。体脂肪の少ない、若い指揮者の身体のラインのような音楽で、独特の美意識が感じられた。でも、もっと豊饒で共感的なサウンドでもよかったかも知れない。

テノールにとって二日間、ヴェルディのレクイエムを歌うのは過酷なことだろう。二日目の福井さんが、中盤で苦しそうな表情をされたのを見て心配になった。歌手とはまったく、過酷な仕事である。ヴィオッティは自分の理想郷を作るために働いてくれる歌手たちのことをどう思っているだろうか…福井さんが苦しそうだったのは、指揮者にも経験不足なところがあったからではないか。この部分を置き去りにして、どんどんキャリアを重ねてしまうと、私の嫌いなタイプの指揮者になってしまうかも知れない。

この二日間のコンサートの主役はコーラスと声楽ソリストで、清水華澄さんの「ルクス・エテルナ」と森谷真理さんの「リベラ・メ」はオペラを超えた宗教的オペラティック世界で、森谷さんの声はもうそれが「声」と呼べるものなのか判別しがたいほど、幽玄な波動そのものになっていた。こうしたクオリティの歌手は世界の宝で、映像配信などでもっと知って欲しいと願ってしまう。東響コーラスも、2013年に聴いたトリノ王立歌劇場合唱団の同演目より、はるかに優れていた。

集中力凄まじく、求心的で真剣な『レクイエム』は間違いなく成功した。若い自分の理想郷を献身的に実現し、命を削るように音を出してくれたすべての奏者と歌手たちに、指揮者が心から感謝し、何倍にも成熟した心で再び共演することを願う。一風変わった後味の、砂の塔のような名演だった。
































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