小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(10/4)

2017-10-06 13:57:17 | クラシック音楽
3日のチェコ・フィルのコンサートを聴いて、予定していなかった4日のプログラムも聴きたくなりサントリーホールへ出かけた。今、日本にいるこのオーケストラをもっと聴きたい、と思うのはとても感情的な理由からだった。彼らの奏でる音楽が大好きで、その音楽がいる場所に少しでも長く一緒にいたかった。
昼に記者会見を取材したルツェルン祝祭管の総裁の言葉が心の中で繰り返されていた。「音楽とは不思議なものです。その瞬間私たちを魅了し、終わってしまえば跡形も残らないのです」
そんな儚いものを追いかけ続けたいという気持ちがある。今回のチェコ・フィルは、こちらの果てしない問いかけにいくらでも答えてくれるような懐の深さがあった。

スメタナの『売られた花嫁』序曲を聴いて、10/1のみなとみらいでの『わが祖国』全曲を聴けなかったことが悔やまれた。その日はペトレンコのワルキューレに行っていたのだから仕方ない。『わが祖国』は亡くなったビエロフラーヴェクが休憩なしで演奏する予定だったのを、アルトリヒテルは休憩ありで演奏したという。2017年の来日プログラムはマエストロ・ビエロフラーヴェクが選曲したもので、アルトリヒテルは全く変えずにそれを引き継いだ。
そのことが影響してか、アリス=紗良・オットがソロを弾いたベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第5番<皇帝>』では、珍しいことが起こった。
アリスはブルーのノースリーブのオールインワンのパンツで登場し、いつものように裸足で、少し日焼けした肌がチャーミングだった。彼女はベートーヴェンのこの曲がとても得意なのではないかと思う。「子供の頃、言葉が足りなくて大人たちに自分の感情を伝えられなかったのが悔しくて、すべてをピアノで表現した」と以前インタビューで語ってくれたが、「皇帝」の譜面に書かれた饒舌な「言葉」を余すところなく楽器に語らせた。相変わらず細身だが、少し前より腕の筋肉が逞しくなって、強音のタッチも堂々たるものだった。もちろん弱音のデリカシーも素晴らしい。
長丁場の一楽章の途中で、オーケストラの勢いが緩んで止まりそうになったところがあった。この曲だけ指揮者の準備が足りなかったのか、キュー出しのタイミングに問題があったのか、管楽器のどのパートかが抜けているような気配があり、オーケストラの響きに不安が現れた。

そこで、聡明なアリスは起こっている状況のすべてを理解し、オーケストラの戸惑いがとてもポジティヴなところからやってくるものだと瞬時に受け止めていたようだった。マエストロを失ったオーケストラと、尊敬と友情ゆえにプログラムを変更しなかった指揮者のために、ピアニストからオーケストラに向けて、無際限のパワーが送られた。ピアニストがオーケストラを凄い勢いでリードしはじめたのだ。すべてのフレーズを活気づかせ、抑揚を最大限にし、たくさんの酸素を吹き込んだ。
すると、オーケストラのサウンドに立体感が戻り、生き生きとした時間が流れ出した。そこからのアリスは素晴らしかった。
「愛情を与えたものに対して、より愛が強くなる」という法則を見たような気がした。瞑想的な緩徐楽章は母性的なおおらかさで、ピアニストが今このときオーケストラに与えると決めた愛情の大きさにため息が出た。
三楽章が始まる前、アリスはもう嬉しくて仕方ないという表情で、オケのフレーズを口ずさんで(歌声は聞こえなかったが)素晴らしいベートーヴェンの友愛の精神を自分の楽器で表した。何度も何度も繰り返されるオーケストラとのダイアローグは、終わりなき会話のようだった。
終わった瞬間、アルトリヒテルとアリスは抱き合い、アリスのほうが指揮者を放したくないという仕草を見せたのがよかった。ケラスもそんなふうだったのだ。コンチェルトのドラマというものを立て続けに見た。

ドヴォルザークの「交響曲第8番」は、二人の指揮者の存在を感じた。ポケットスコアをお守りのように指揮台に置いたアルトリヒテルは、一度も開くことなく祖国の作曲家の名曲を振った。恐らく、このオーケストラの中に残っているビエロフラーヴェクの様々な指示を生かして、ドヴォルザークの「エゴによって分かつことのできない」偉大さを表わそうとしていたのではないか。昨日と同じ、面白い動きやひざをがくがくさせる変わった仕草が繰り返されたが、音楽は流麗で壮大で、チェコ・フィルのホルンとトランペットが少しも音を外さないことに驚いた。英雄的で高貴な金管だが、それは居丈高ではなくあくまで心優しき騎士道といった雰囲気なのだ。
この曲は本当に惜しげもなく旋律的で、牧歌的で、ところどころ日本の歌が聴こえてくるような気さえする。勢いづくとワーグナーのようになるが、どこか懐かしい和声感は「他人事とは思えない」のだ。2楽章の管楽器の鳥たちの会話のような掛け合いも、いつかどこかで見た景色が思い浮かんでしまう。ハーモニーには優しさと温かさが溢れ出し、自然と自己の境目が曖昧だった子供時代に、夕焼けの赤さが身体の熱のように感じられたことを思い出す。

そうしているうちに、オペラグラスで観察していてすっかり顔を覚えてしまったチェコフィルのメンバー全員が、大切な家族か親友のように思えてきて、美男子のコンマスのシュパチェク、モヒカンのチェリスト、双子のようなホルン、美人のヴィオリスト、コントラバスのブラームスたちが親し気な存在に感じられて仕方なかった。
皆が「私たちの祖国はいい場所なんですよ」と音楽で語っていて、日本ではとても不自由な響きになってしまった「愛国心」という言葉が、この上なく貴重な概念であることを思った。私の家はいい場所ですよ…と言えない相手を信用することのほうが難しい。
世の中で一番シンプルな「ドミソ」を思わせる3音から成るモティーフが繰り返された後、スピーディな大団円によって曲は終わった。「我々は何度もドヴォルザークに回帰する」と語ったビエロフラーヴェクの不滅の魂が音楽を満たし、アルトリヒテルといえばコンマスをひしと抱きしめてオケへの感謝を強調する。運命の岐路にあるタイミングで行われたコンサートで、ひとつのオケに二人の指揮者の魂がいることはとても自然で喜ばしく、贅沢なことに思えたのだ。

コンサートの帰り道は美しい月夜で、ドヴォルザークの「月に寄せる歌」が脳裏に浮かんだ。


























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