今年4月に首席客演指揮者に就任したユライ・ヴァルチュハと読響のマーラー3番。この5月は日フィル×カーチュン・ウォンのマーラー9番、東響×ノットの「大地の歌」と、マーラーの演奏を聴く機会が重なったが、どの指揮者も全く違う、三者三様のマーラーだった。マーラーのシンフォニーは3の倍数番号が特に好きな自分にとっても有難い月だったが、初夏の自然が最も美しい5月にマーラーは本当にぴったりだと思った。3番は特に「マーラーの田園交響曲」とも当時呼ばれた曲で(マーラー自身はそれに対して含蓄のある答えをしている)、あの有名な小さな山小屋で作曲された大曲である。マーラーはあの狭い作曲部屋の中で夏の間、鳥の声を聴き、刻一刻と表情を変える太陽の光を見、雨や風や木の葉の音を聴いていた。山小屋は告解の空間にも見える。祈りを捧げ、苦悩を語り、神から与えられた霊感に感謝しながら完成した曲だと実感した。
ヴァルチュハは長大な1楽章からとても丁寧に音楽を作り、読響の食いつきも真剣だった。金管いじめ(!)ではないかと思うのはマーラーの全交響曲について感じることだが、緊張感に満ちたすべての瞬間を読響の金管奏者たちは誠意を込めてこなしていた。マーラーが「夏が行進してくる(バッカスの行進)」と書いていた標題の楽章で、地球が最も美しく天国的なムードになる5月から6月にかけての、夏の夜の夢のようなパノラマが広がっていくような心地がした。マーラーが自然の中に幻視していた神々の饗宴がオーケストラによって繰り広げられた。この楽章だけで40分はかけられていたと思う。
頭でっかちな1楽章の後には、小さなメヌエット楽章が続き、なぜかこの楽章がマーラーのあらゆる曲の中でも最も好きなもののひとつなのだが、「野の花々が私に語ること」という標題もあるこの曲は、やはり愛らしく美しかった。マーラーは野の花の可憐さや無防備さ、子供のような無邪気さに「存在」の理想を思い描いていたのではないか。あるいは、こういう女性が好きだったのかも知れない。ワーグナーの『パルジファル』の花たちのように、複数で華やかにさんざめく若い娘たちの姿も思い浮かんだ。弦楽器の甲高い音は面白く、まるでリハーサルで間違って出した音をそのままピンでとめて曲にしたような感じ。ヴァルチュハの指揮にはユーモアも感じられた。
4楽章でアルトソロを歌ったエリザベス・デションは神々しく、ニーチェのテキストの深遠さが神秘的な声によって歌われた。声量が格別大きいわけではないが、質感が並外れて素晴らしく、慈愛の波動に溢れている。ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でこの曲が流れる場面も思い出した。サントリーホールで起こるすべてのことを是認し、祝福しているような表情は「まるで女神のようだ」と思った。5楽章では、それまで長い時間オーケストラの音を静かに聴いていた東京少年少女合唱隊が立ち上がり、国立音楽大学の女声合唱と、デションとともに弾むような歌声を聴かせた。
自分がオーケストラの取材を始めたのは2009年頃からで、それ以前の在京オケのライヴの演奏を知らない。評論家の方々やクラシック・ファンが語る「読響らしさ」というものを、なんとなく分かっているようで、実ははっきりと把握していない。カンブルランの首席指揮者延長の記者会見の折に、マエストロに「何が読響らしさで、変えたいところがあるとしたらどんな点ですか?」と質問したところ、すごい笑顔で「こんなに熱心で忠実なオーケストラに、変えて欲しいところなんてありませんよ」という答えが返ってきた。それが自分にとっての「読響らしさ」にも感じられた。洞察的で、温かい人間性があり、目の前のマエストロに対してつねに敬意を払っている。
ヴァルチュハの指揮というものを正確に言い当てることも難しい。まだ少ししか聴いていないし…思ったのは、指揮者もオーケストラもその共演に起こるケミカルによって、毎回生まれ変わるということで、このマーラー3番は指揮者とオーケストラの凄い一体化だった。指揮者が孤独な時間の中で楽譜から読み取ったどんな細部も、オケは忠実に再現しようとする。楽章ごとにバラバラな雰囲気をもつマーラー3番が、ひとつの身体のようにがっちりとした幹を持っていた。煉瓦を積み重ねるように力を合わせて作っていったのだろう。
6楽章はノイマイヤーのバレエを思い出さずにはいられない。2023年の来日公演では、なんと最前列センターでこの曲とともに踊られるバレエを観ることが出来た。ノイマイヤー自身もステージにいたその公演の残像を思い出しつつ、オペラグラスで読響の弦楽器の方々の表情を見ていたら、感極まった。生まれてから今までに与えられた色々な人の親切、愚かな自分を許してくれた寛大さ、親心などへの感謝がこみ上げた。マーラーの曲が、ここまで生きてこられた自分の奇跡を思い出させてくれた。こんなおかしな感想はないとも思うが、真に「愛が私に語りかけること」という楽章だった。
9番や「大地の歌」で聴こえるマーラーの成熟と、3番の豊潤さにはギャップを感じない。時系列で発展していく作風、ということとは別の成り行きがあると思った。アルマへの愛が5番を書かせたのは事実だと思うが、3番には既に巨大な愛が描かれ、2番にも愛は溢れている。9番、10番では愛の敗北が馬鹿正直に描かれるが、マーラーとは本質的に「愛の人」だったのだ。3番の作曲中には14歳年下の弟がピストル自殺していて、そんな凄惨な悲劇も音楽に昇華するしかなかったのだろう。自分が死ぬときは「私が死んだら、誰がシェーンベルクの面倒をみるんだ」と泣いた。愛とは無縁であるかのような堅物の音楽家として人生を生き、中身は愛しか詰まっていなかった。
読響がヴァルチュハとともにこつこつ積み上げていった音楽が6楽章にたどり着いたとき、この神秘的な癒しの感覚は奇跡としか言いようがない…と感じた。5月に聴いたコンサートの中でも格別の名演だった。
ヴァルチュハは長大な1楽章からとても丁寧に音楽を作り、読響の食いつきも真剣だった。金管いじめ(!)ではないかと思うのはマーラーの全交響曲について感じることだが、緊張感に満ちたすべての瞬間を読響の金管奏者たちは誠意を込めてこなしていた。マーラーが「夏が行進してくる(バッカスの行進)」と書いていた標題の楽章で、地球が最も美しく天国的なムードになる5月から6月にかけての、夏の夜の夢のようなパノラマが広がっていくような心地がした。マーラーが自然の中に幻視していた神々の饗宴がオーケストラによって繰り広げられた。この楽章だけで40分はかけられていたと思う。
頭でっかちな1楽章の後には、小さなメヌエット楽章が続き、なぜかこの楽章がマーラーのあらゆる曲の中でも最も好きなもののひとつなのだが、「野の花々が私に語ること」という標題もあるこの曲は、やはり愛らしく美しかった。マーラーは野の花の可憐さや無防備さ、子供のような無邪気さに「存在」の理想を思い描いていたのではないか。あるいは、こういう女性が好きだったのかも知れない。ワーグナーの『パルジファル』の花たちのように、複数で華やかにさんざめく若い娘たちの姿も思い浮かんだ。弦楽器の甲高い音は面白く、まるでリハーサルで間違って出した音をそのままピンでとめて曲にしたような感じ。ヴァルチュハの指揮にはユーモアも感じられた。
4楽章でアルトソロを歌ったエリザベス・デションは神々しく、ニーチェのテキストの深遠さが神秘的な声によって歌われた。声量が格別大きいわけではないが、質感が並外れて素晴らしく、慈愛の波動に溢れている。ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でこの曲が流れる場面も思い出した。サントリーホールで起こるすべてのことを是認し、祝福しているような表情は「まるで女神のようだ」と思った。5楽章では、それまで長い時間オーケストラの音を静かに聴いていた東京少年少女合唱隊が立ち上がり、国立音楽大学の女声合唱と、デションとともに弾むような歌声を聴かせた。
自分がオーケストラの取材を始めたのは2009年頃からで、それ以前の在京オケのライヴの演奏を知らない。評論家の方々やクラシック・ファンが語る「読響らしさ」というものを、なんとなく分かっているようで、実ははっきりと把握していない。カンブルランの首席指揮者延長の記者会見の折に、マエストロに「何が読響らしさで、変えたいところがあるとしたらどんな点ですか?」と質問したところ、すごい笑顔で「こんなに熱心で忠実なオーケストラに、変えて欲しいところなんてありませんよ」という答えが返ってきた。それが自分にとっての「読響らしさ」にも感じられた。洞察的で、温かい人間性があり、目の前のマエストロに対してつねに敬意を払っている。
ヴァルチュハの指揮というものを正確に言い当てることも難しい。まだ少ししか聴いていないし…思ったのは、指揮者もオーケストラもその共演に起こるケミカルによって、毎回生まれ変わるということで、このマーラー3番は指揮者とオーケストラの凄い一体化だった。指揮者が孤独な時間の中で楽譜から読み取ったどんな細部も、オケは忠実に再現しようとする。楽章ごとにバラバラな雰囲気をもつマーラー3番が、ひとつの身体のようにがっちりとした幹を持っていた。煉瓦を積み重ねるように力を合わせて作っていったのだろう。
6楽章はノイマイヤーのバレエを思い出さずにはいられない。2023年の来日公演では、なんと最前列センターでこの曲とともに踊られるバレエを観ることが出来た。ノイマイヤー自身もステージにいたその公演の残像を思い出しつつ、オペラグラスで読響の弦楽器の方々の表情を見ていたら、感極まった。生まれてから今までに与えられた色々な人の親切、愚かな自分を許してくれた寛大さ、親心などへの感謝がこみ上げた。マーラーの曲が、ここまで生きてこられた自分の奇跡を思い出させてくれた。こんなおかしな感想はないとも思うが、真に「愛が私に語りかけること」という楽章だった。
9番や「大地の歌」で聴こえるマーラーの成熟と、3番の豊潤さにはギャップを感じない。時系列で発展していく作風、ということとは別の成り行きがあると思った。アルマへの愛が5番を書かせたのは事実だと思うが、3番には既に巨大な愛が描かれ、2番にも愛は溢れている。9番、10番では愛の敗北が馬鹿正直に描かれるが、マーラーとは本質的に「愛の人」だったのだ。3番の作曲中には14歳年下の弟がピストル自殺していて、そんな凄惨な悲劇も音楽に昇華するしかなかったのだろう。自分が死ぬときは「私が死んだら、誰がシェーンベルクの面倒をみるんだ」と泣いた。愛とは無縁であるかのような堅物の音楽家として人生を生き、中身は愛しか詰まっていなかった。
読響がヴァルチュハとともにこつこつ積み上げていった音楽が6楽章にたどり着いたとき、この神秘的な癒しの感覚は奇跡としか言いようがない…と感じた。5月に聴いたコンサートの中でも格別の名演だった。