小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読売交響楽団 ベートーヴェン『交響曲第9番《合唱つき》』(12/19)

2019-01-03 12:31:31 | クラシック音楽
師走の第九は読響の初日(12/19サントリーホール)を聴いた。もうしばらく経っているが、不思議と印象に残る公演で、日々考えている「オーケストラとは何者か」という問いに答えてくれる良質のコンサートだった。指揮は、読響初登場となるイタリア人指揮者マッシモ・ザネッティ氏。ベルリン、ミラノ、パリ、バルセロナ他欧州の有名歌劇場でオペラを振り、パルマのヴェルディ音楽祭にもたびたび出演している歌心に溢れたマエストロだという。
第九の指揮者というのは毎年どのようにキャスティングされるのか分からないが、そのオーケストラの常任指揮者や首席客演指揮者、桂冠指揮者以外の人が突然日本にやってくるというケースも多く、期待以上の演奏を聴かせてくれたり、呆気ないほどビジネスライク(!)に終わってしまったり、結果は蓋を開けてみるまで分からない。
読響とマッシモ・ザネッティはどうであったか…彼は忘れえぬ表情をいくつも見せてくれた。客席からは顔は見えないが、彼の背中が語るものはとても大きかった。

この日は前半に新国立劇場合唱団がバッハのモテット第1番「新しき歌を主に向かって歌え」を演奏した。初日と25日のみのスペシャル・プログラムで、約15分ほどのア・カペラが心に深く響いた。温かく親密な歌声で、年末のクリスマスの季節が家族の絆を思い出す時間であることを改めて思った。新国立劇場合唱団とマエストロ三澤も、読響とは強い絆をもつ。あのとんでもない『アッシジの聖フランチェスコ』をともに成功させた。この冒頭のバッハが演奏される日を聴けて幸運だった。人の声の聖なる温かさと、神とともにいることの祝福、音楽の謙虚な美しさと誇りを芯まで味わった。

休憩を経て本編の第九がはじまる。コンサートマスターは日下紗矢子さん。ザネッティ氏は写真と同じ少し気難しい表情で登場し、第一楽章がはじまった。宇宙の始まりのような独特なイントロが特に新鮮に感じられた。セカンド・ヴァイオリンの外園さんが「(第九のイントロは)何調なのか、これから何が始まるのか期待でわくわくする」と語ってくださったことを思い出す。この森のざわめきのような、波のさざめきのような冒頭が、熱狂的な終幕へつながっていく流れは本当に天才的だ。彼方から何かがやってきて、ひとしきり光を放ち、爆発して去っていく…まるで天体の一生のようで、音楽とはそのような無限な時間を凝縮して経験させてくれる特殊な芸術だと感心する。ザネッティと読響のベートーヴェンにはごく自然な呼吸感があり、音楽が時間とともに拡大発展していく健康な感覚があった。
この数日前には、ハーディング指揮パリ管のベートーヴェン「田園」を聴いたばかりで、こちらは全く消化することのできないベートーヴェンだった。指揮者と自分の相性の悪さを重ねて実感する演奏で、それでもどういうことをやるのか知りたくて足を運ばずにはいられなかったのだが…一言でいうと音楽の「全体」(ホール)が実感できない、矯正的でコンセプチュアルな演奏だった。パリ管の管楽器の技術は確かに圧倒的だが、それが音楽にとって調和的ではなく断片的に聞こえ、どことなく冷たく感じられた。

ザネッティと読響の第九には、実際どのようなコンセプトがあったのか…初日を聴いただけではよく分からないところもあったが、音楽は時系列で発展し、この曲に期待するさまざまな歌が朗々と聴こえてきて、オケから森のような全体が立ち現れる感覚があった。実験室(ラボ)ではなく、大自然の音楽だった。ベートーヴェンの難聴はこの頃だいぶ進行していて、精神的にもかなり追い詰められていたはずだが、音楽には絶体絶命の境地から反転した太陽のような明るさが溢れている。第九には「太陽精神」のようなものを感じるのだ。寛大で無限なる太陽が、息子である地球へとさんさんとエネルギーを注ぎ、その繁栄を祝福する。寛大さと肯定の音楽で、それが未来永劫のメロディとなるためには、ひと工夫することが必要だった。第4楽章のあのシンボリックなメロディは、ポップ・ミュージックにほとんど近い。ベートーヴェンにはフレディ・マーキュリーと同じセンスがある、と言ったら音楽学者は激昂するだろうか。彼らには「単純化」への驚異的な編集能力がある。

その演奏会が最終的に「誰のもの」であったか、ということを論じる人はあまりいないし、評論としてどうでもいいことなのかも知れない。オーケストラに近づけは近づくほど、演奏会は指揮者が100%掌握しているものではないと知る。聴衆の沈黙も演奏会を作る。コンサートの出来栄えについて指揮者は大きな責任をもつが、よい演奏会を創り上げているのが、一見判別しがたい、微妙なものであることはとても多い。ここでは、指揮者が音楽に感じている「感動」が、聴衆へ波及していく感覚があった。
3楽章のアダージョで、ザネッティの背中に羽が生えて、飛んでいくのではないかと思われた。読響とともにいる指揮者の幸福な背中というのは何度も見てきたが、初共演のザネッティもオケから次々と幸福をもらい、それは彼が過去に経験したことのない種類のものであるように見て取れた。すべてのパートが自然な呼吸で指揮者の背中を押し、指揮者自身にとっても「未知のもの」だった至福を気づかせてくれているようだった。
読響は森のように賢い。地下茎でしっかり繋がり、危機やアクシデントを目に見えないネットワークで伝達し、力を合わせてひとつのものを創り上げる。読響のこの性格は日本のオケならではの美質だと思っていたが、2018年のいくつかの印象的な演奏会を聴いて、世界でも格別にユニークで優れた性質を持っていると確信した。ザネッティの少年のような背中が、教えてくれた。

ソプラノのアガ・ミコライ、メゾ・ソプラノの清水華澄さん、テノールのトム・ランドル、バスの妻屋秀和さんは全員初日から絶好調で、新国立劇場合唱団とともに盛大なフィナーレに向かっていった。指揮者は目を白黒させて、「第九とはこういうものなのか…」と驚いていたようだった。彼はコマンダーではなく、素晴らしいコンダクターとしてこの初日をこなし、カーテンコールで二人のマエストロ(三澤氏)が並んで喝采を受ける様子はとても平和で喜ばしかった。読響は「与える」オーケストラで、その性格がさまざまなミラクルを生んでいる。演奏会ごとに好きになったり嫌いになったりする聴き方もあるのかも知れないが、近づけは近づくほどそのオケを手放したくないと思ってもいいのではないか。演奏会は「消えもの」ではあるが、この第九の爽やかな余韻は自分の中では忘れることができない、死んだ後にも誰かに覚えていてほしい演奏会だった。














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