6/8のトリフォニーホールでの演奏会が高い評価を得ていたデュトワ&新日本フィルの共演。6/8と同様6/11のサントリーも売り切れとなり、上階には補助席も出ていた。87歳のマエストロは颯爽と指揮台に上り、ハイドン『交響曲第104番 ニ長調《ロンドン》』から優美なサウンドがホールに溢れ出した。ハイドン最後の交響曲は古典美からはみ出すような妖艶さもあり、アンダンテ楽章はモーツァルトオペラの色っぽい女声のアリアを聴いている心地がした。器楽演奏から「人の声」の気配を感じたのは実は1楽章のアダージョ~アレグロ楽章からで、合奏が合唱のように聴こえ、「これはなんだろう」と神秘的な感慨に包まれた。個人的にハイドンには強い思い入れを持つことが難しい。19世紀後半から20世紀初頭のエモーショナルな煮込み料理のような音楽が好みの自分にとって、ハイドンはあまりに端正で明晰すぎるのだ。ところが、デュトワが新日本フィルから引き出す世界には、色も艶も「愛の切なさ」のようなものもあり、まさにオペラ的だった。ハイドンは生前にマリオネット劇も含むオペラを多数書いたが、多くが散逸したり真偽不明だったりして残っていない。性格的に品行方正すぎてオペラのいかがわしさと絆を持てなかったハイドンの「裏側」が浮き彫りにされていたように思った。
30分のハイドンの後に休憩があり、その後に1時間のストラヴィンスキーとラヴェル。オケの編成上、後半が長くなるのは仕方ない。ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ(1911年原典版)』が神がかっており、ヴェルベットのような弦に、個性的な管楽器が正確に乗り、迫力の打楽器、チェレスタ、ハープが宝石のように音楽を飾る。この演奏会のためにピアニストの阪田知樹さんがオケに加わったのも贅沢この上なかった。フォーキン振付の『ペトルーシュカ』は日本でもロシアでも何度か観ているが、ピットのサウンドからはこのような完璧な音楽を聴くことは稀だ。この夜は格別で、精緻に演奏されればされるほど、ストラヴィンスキーの過激な「遊戯性」が明らかになった。藁人形ペトルーシュカの少ない脳みそが書いたような、子供の落書きのようなメロディがいくつも書き込まれているのだ(いくつかはロシア民謡を思わせる)。「ペトルーシュカの部屋」では3つの管楽器が、追いかけっこをするように単純なメロディを奏で、そこにはヒロイズムも深遠さもないのに、ひどく心を揺さぶられる。不器用なペトルーシュカは人間に憧れるボロ人形で、バレリーナの人形に恋をし、強者であるムーア人に打ちのめされ、最後は魂だけの存在になって天空に吸い込まれていく。この物語はストラヴィンスキーが眠っているときに夢で見た話で、そのプロットを使ってバレエ・リュスのために曲を書いた。現実と夢、大人と子供、人間と人形を往復するようなイマジネーションが潜んでいる。文明の外にある不思議言語を使って、圧政と権力の恐怖も描き出してみせた。
5日間のリハーサルを重ねたというデュトワとオケの「共作」で、奇妙なことにペトルーシュカの最中、ほとんど客席から指揮者を見ることがなかった。デュトワの気配を感じつつ、一人一人の奏者の姿に釘付けになり、特に緊張度の高い管楽器群の活躍には目を奪われた。指揮者の統率力が音楽を完成させているのは明らかだが、見方を変えれば指揮者は影武者であり、そう感じられることが大変未来的に感じられ、嬉しくなった。「謝肉祭の夕方」が演奏されるあたりでは、ペトルーシュカを聴きながらひたすら涙しているおかしな自分がいた。
偉大な指揮者というのは紛れもなく存在するが、実際に鳴らすのはオーケストラで、指揮者とオケは一心同体で価値を発揮する。デュトワの指揮は「あなたがいなければ私はダンスを踊ることが出来ないのです」と、オケ全員に手を差し伸べているような指揮だった。長いキャリアの中で様々な経験をした芸術家が、最終的に到達した境地というものを感じずにはいられなかった。
最後のラヴェル『ダフニスとクロエ』は「夜明け」から素晴らしい色彩感で、音から湿度や「粘菌」のように飛び交う微粒子を感じた。原作は2~3世紀にギリシア語圏で書かれたラブストーリーで、時間の枠を超えた世界に憧れていたラヴェルの創造性が爆発的に発揮されている。名曲と呼ばれるものの何割かは、バレエ音楽なのだ。デュトワにとってフランスものは朝飯前であり、ペトルーシュカの不協和音の後ではひたすら艶麗な音楽で、デュトワも踊るような柔らかい動きだった。各セクションはいずれも精緻を究め、特にフルート首席の野津さんの活躍が目覚ましく、曲終わりでデュトワが指揮台に上らせるほど。コンマスのチェさんはハイドンから、ストラヴィンスキー、ラヴェル、すべての曲でデュトワから感謝の抱擁を受け、指揮台の高いところからコンマスをぎゅっと胸に抱きしめる指揮者のツーショットは、まるで母と赤子のよう(!)だった。ソロ・カーテンコールにはデュトワは現れず、チェさんが代わりに挨拶された。現れないのは「主役はオケですから」の指揮者の意図だと思ったが、後半は流石にハードでお疲れだったらしい。オーケストラサウンドの頂点を聴いた伝説の夜だった。
30分のハイドンの後に休憩があり、その後に1時間のストラヴィンスキーとラヴェル。オケの編成上、後半が長くなるのは仕方ない。ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ(1911年原典版)』が神がかっており、ヴェルベットのような弦に、個性的な管楽器が正確に乗り、迫力の打楽器、チェレスタ、ハープが宝石のように音楽を飾る。この演奏会のためにピアニストの阪田知樹さんがオケに加わったのも贅沢この上なかった。フォーキン振付の『ペトルーシュカ』は日本でもロシアでも何度か観ているが、ピットのサウンドからはこのような完璧な音楽を聴くことは稀だ。この夜は格別で、精緻に演奏されればされるほど、ストラヴィンスキーの過激な「遊戯性」が明らかになった。藁人形ペトルーシュカの少ない脳みそが書いたような、子供の落書きのようなメロディがいくつも書き込まれているのだ(いくつかはロシア民謡を思わせる)。「ペトルーシュカの部屋」では3つの管楽器が、追いかけっこをするように単純なメロディを奏で、そこにはヒロイズムも深遠さもないのに、ひどく心を揺さぶられる。不器用なペトルーシュカは人間に憧れるボロ人形で、バレリーナの人形に恋をし、強者であるムーア人に打ちのめされ、最後は魂だけの存在になって天空に吸い込まれていく。この物語はストラヴィンスキーが眠っているときに夢で見た話で、そのプロットを使ってバレエ・リュスのために曲を書いた。現実と夢、大人と子供、人間と人形を往復するようなイマジネーションが潜んでいる。文明の外にある不思議言語を使って、圧政と権力の恐怖も描き出してみせた。
5日間のリハーサルを重ねたというデュトワとオケの「共作」で、奇妙なことにペトルーシュカの最中、ほとんど客席から指揮者を見ることがなかった。デュトワの気配を感じつつ、一人一人の奏者の姿に釘付けになり、特に緊張度の高い管楽器群の活躍には目を奪われた。指揮者の統率力が音楽を完成させているのは明らかだが、見方を変えれば指揮者は影武者であり、そう感じられることが大変未来的に感じられ、嬉しくなった。「謝肉祭の夕方」が演奏されるあたりでは、ペトルーシュカを聴きながらひたすら涙しているおかしな自分がいた。
偉大な指揮者というのは紛れもなく存在するが、実際に鳴らすのはオーケストラで、指揮者とオケは一心同体で価値を発揮する。デュトワの指揮は「あなたがいなければ私はダンスを踊ることが出来ないのです」と、オケ全員に手を差し伸べているような指揮だった。長いキャリアの中で様々な経験をした芸術家が、最終的に到達した境地というものを感じずにはいられなかった。
最後のラヴェル『ダフニスとクロエ』は「夜明け」から素晴らしい色彩感で、音から湿度や「粘菌」のように飛び交う微粒子を感じた。原作は2~3世紀にギリシア語圏で書かれたラブストーリーで、時間の枠を超えた世界に憧れていたラヴェルの創造性が爆発的に発揮されている。名曲と呼ばれるものの何割かは、バレエ音楽なのだ。デュトワにとってフランスものは朝飯前であり、ペトルーシュカの不協和音の後ではひたすら艶麗な音楽で、デュトワも踊るような柔らかい動きだった。各セクションはいずれも精緻を究め、特にフルート首席の野津さんの活躍が目覚ましく、曲終わりでデュトワが指揮台に上らせるほど。コンマスのチェさんはハイドンから、ストラヴィンスキー、ラヴェル、すべての曲でデュトワから感謝の抱擁を受け、指揮台の高いところからコンマスをぎゅっと胸に抱きしめる指揮者のツーショットは、まるで母と赤子のよう(!)だった。ソロ・カーテンコールにはデュトワは現れず、チェさんが代わりに挨拶された。現れないのは「主役はオケですから」の指揮者の意図だと思ったが、後半は流石にハードでお疲れだったらしい。オーケストラサウンドの頂点を聴いた伝説の夜だった。