小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

アスミク・グリゴリアン (5/17)

2024-05-20 16:18:46 | クラシック音楽
5/15のAプログラムのコンサートが大評判だったリトアニア出身のソプラノ歌手アスミク・グリゴリアンのBプログラム(東京文化会館)。オーケストラは東京フィル、指揮はアルメニア出身のカレン・ドゥルガリャン。バレリーナのようなまとめ髪とシンプルなデザインのロングドレスで現れたグリゴリアンは、ハイヒールを脱いでも175cmはありそうな美人で、横顔が少しザハロワに似ている。
ドヴォルザーク『ルサルカ』~「月に寄せる歌」から、大きな目を見開いてどこまでも澄んだ伸びやかな声を聴かせた。まるで星空や大海原を見るように客席を見つめているのだが、客席よりもっと遠い彼方を見ているようでもあった。オーケストラに埋もれない声とは、ただ声量のある声ではなく、音程が超正確で宝石のような輝きを持っている声なのだと実感。力んだところがまったくないのに、オケを突き抜けて天界に舞い上がっていく自然な美しい声だった。

その前に演奏された『ルサルカ』序曲から、指揮者のカレン・ドゥルガリャンが凄い存在感で「この人は只者ではない」とそのたたずまいを見て感じた。そんなに高齢には見えないのに椅子に座って指揮をするのだが、両手から導き出される音が妖しく、全体が微妙にずり下がっていて、あんな音を出す東フィルも初めて聴いた。ドヴォルザークのオーケストレーションがこんなに複雑な味わいを持っていたことにも驚いた。アルメニアの首都エルバン出身で、グリゴリアンもリトアニア出身だがアルメニアのルーツをもつ。このことが、この夜のコンサートのひとつの鍵のように思われた。

チャイコフスキーの弦楽のためのエレジー『イワン・サマーリンの思い出』も、サンクトペテルブルクのチャイコフスキーではなく、南端をイスラム諸国に囲まれた「ロシア」の雑味のあるサウンドだった。指揮者の動きは魔術師か妖術師のようで、彼の周りに怪しげな煙のようなものが立ち上がっているように見える。こんな指揮者がいたのだ。世界の思わぬ広がりに驚愕する思いだった。
美しいグリゴリアンが再び登場し『エフゲニー・オネーギン』のタチアーナの手紙の場「私は死んでも良いのです」を歌う。これが、オペラ本編を見ているようで、タチアーナになり切ったグリゴリアンは一秒ごとに表情をくるくる変え、怒りと恥じらい、恐れ、希望、そして苦痛に歪んだ哲学者のような顔をして、自由な心のはばたきのようなアリアを歌った。バレエの「オネーギン」でも泣いてしまう場面だが、オペラでも泣いてしまう。あの瞬間、グリゴリアンはタチヤーナになっていたのか? というよりチャイコフスキーになっていたのだ。チャイコフスキーは自分の恋の切なさをヒロインに歌わせ、恐らく泣きながらこの場面を書いた。ソプラノ歌手が作曲家を生きていた。

『スペードの女王』の「もうかれこれ真夜中…ああ、悲しみで疲れ切ってしまった」のあとに歌われた。アルメン・ティグラニアン作曲『歌劇《アヌッシュ》より"かつて柳の木があった"」は、プログラムで唯一初めて聴く曲だったが、アルメニアの吟遊詩人の伝統に強く影響を受けたというティグラニアンの曲を、グリゴリアンは頻繁にリサイタルで採り上げているという。先日のラ・フォル・ジュルネで聴いた地中海の伝統音楽を奏でた現代の吟遊詩人「アンサンブル・オブシディエンヌ」を思い出した。場所は少し異なるが、アルメニアはトルコ、イランに隣接し、北にはジョージアとアゼルバイジャンが位置している。あのあたりの土着音楽はユニークだ。音程の取り方が細かく、バッハ以降のヨーロッパの平均律に収まらない音も認識している。アルメニアはキリスト教を国家の宗教にした最古の国で、グレゴリオ聖歌ならぬアルメニア聖歌を聖典では歌うが、それはメリスマを多様したイランの詠唱にも似た無伴奏の歌なのだ。一方「アルメニアの民族音楽」でひも解くと、インドの音楽のような性格の音楽で、民族楽器ドゥドゥクが独特の哀愁を聴かせる。

それから、歌手と指揮者のルーツであるアルメニアについてしばし考える時間があった。彼らの音感はずば抜けていて、指揮者にはエキゾチックなものがごっそりと残っているが、グリゴリアンのほうは正統派のイタリアオペラのヒロインも演じられる。幼少期に耳にしたアルメニアの微分音いっぱいの揺らぎの音楽は、クラシックをやる耳には余計なものかも知れないが、逆に「12音律以外の音もたくさん知っているが、あえて12音律で歌う面白さ」を目覚めさせたのかも知れない。グリゴリアンのずば抜けた音程の良さ、天空へとまっすぐに突き抜けていく美声は「もともとの音程のバレットが膨大である」という豊かさから来ているのだと認識した。

後半には、ハチャトゥリアンの『スパルタクス』から「スパルタクスとフリーギアのアダージオ」が演奏され、歌をひとつはさんで演奏されたR・シュトラウス『サロメ』の「七つのヴェールの踊り」と双子の音楽に聴こえた。ハチャトゥリヤンとR・シュトラウスが同根の音楽に聴こえたのは、ユニークなアルメニアの指揮者が振ったからだ。古代を志向して、近代西洋の行き詰まりを突破しようとしたR・シュトラウスが、まったく違うエキゾチックな国へ創造力をワープさせたとしても不思議ではない。指揮のドゥルガリャンの生まれたエレバンはアルメニアの首都であり、世界最古の都市のひとつで、アルメニア語も世界最古の言語に属する。音楽家のDNAはそういう来歴を持っている。

グリゴリアンは理想のサロメで、その前に歌われた『エレクトラ』のクリソテミスのモノローグ「私は座っていることもできないし、飲んでいることもできない」も圧巻だったが、この過激なヒロインたちの見事な再現をR・シュトラウスが聴いたら何と言うか聞いてみたい気分になった。サロメのモノローグ「ああ! ヨカナーン、お前の唇に口づけをしたわ!」で歌われる異次元の勝利の歌は、20世紀の新しいオペラヒロインの表現であり、モデルとなったサロメは新約聖書の登場人物である。ロマン派の残骸が散らばる中、R・シュトラウスは能う限りの知力と才能を使って「20世紀に生き続ける音楽」を書こうとした。それ以前のオペラのヒロイン像では飽き足らず、欲望に対して主体的で、能動的な女性を描き出した。

「オペラは作曲家の女性論」というのが私の持論だったが、グリゴリアンのコンサートで「オペラのヒロインは、作曲家自身である」という認識に変わった。ルサルカとはドヴォルザークであり、タチヤーナとはチャイコフスキーであり、サロメとはR・シュトラウス自身のことなのだ。作曲家は男で、歌うのは女。だから、オペラの作曲家は永遠に自分の書いたヒロインになることは出来ない。純粋なサロメを歌い上げたグリゴリアンは、作曲家と「等しい」存在だ。演奏家が作曲家に等しくなる…「そんなことはあり得ない」と思っていたが、その奇跡を見た。作曲家も歌手も完璧に両性具有的な存在で、ひとつの想像界をともに生きている。

グリゴリアンはすごく若く見えたが、経歴からかなりのキャリアを積んだ人だと思って調べたら1981年生まれとあった(それでも若い)。世界中の歌劇場が喉から手が出るほど欲しいソプラノの一人だと思うが、彼女自身はスターになるつもりで歌を続けてきた人ではなく、オペラを創造することに心血を注いできた「地味な舞台人」だった。土台の大きさというか、幹の太さというか、凄くオペラに「根付いている」感じ。その前の週にROHのオペラシネマ『蝶々夫人』を見ていたせいか、彼女のたおやかなお辞儀や所作には日本女性的なものも感じた。色々な女性に変身できる人なのだ。今まで聴いた歌姫とはまったく違う印象を残していった稀有の歌手だった。














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