イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

宇宙図を見ながら数理的な美を想う!

2008-01-26 | 第二章「五感と体感」

 Kさんに教えられて、インターネット上で宇宙図を見つけた。文部科学省は「一家に一枚宇宙図」と宇宙図をホームページで紹介している。良くできていて驚いたが、3次元の私たちの空間に時間軸をいれた4次元の世界を表現しようと苦労されているのが良く判る。

 星空を見ると、二次元的に見えるので、このような表現で充分だなとも思った。

 実は私も、このような模型を作ったことがある。1970年代に大学の卒業研究の発表で、レンズモデルという実験心理学分野の研究発表を行った時であった。

 数理統計モデルの、N次元空間の話なのだが、3次元的に竹ひごと粘土で、説明することができた。その時は、3次元しか表現できない人間の現実が、窮屈だなと思ったものだ。

 大学の時は、数学が好きであった。小学校の時は、得意科目は図工と音楽そして体育であった。美術系が基本的に好きであったが、高校、大学では理工科系に進んだため、芸術的な欲求を数学に求めたのかもしれない。

 海外では、数学はアートの一部として扱われることもあると聴いたことがあるので、何となく私の傾向というのもわかる。真善美の中で真理が好きということを申したが、美もかなり好きなのだと思う。

 理論心理学のような学問ができて、将来人間の心の世界を、宇宙図のように表現できる時代がくるかもしれない。

 今勉強し、教育事業を進めている、「生き甲斐の心理学」といった、予防医学的な心理学は、それこそ一家に一枚といった分野だとも思うが・・・

<真善美3/4>

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


真理が大好き!

2008-01-25 | 第二章「五感と体感」

 生まれてから、真善美の中でも、私は真理を追究する傾向が強かったようだ。真理を大事にしたいという思いが強かった。
 
 父も、祖父も理工科系であったので、その影響もあるかもしれない。

 その傾向を両親は大事に育ててくれたが、高校生ごろには、そんな両親に相当ぶつかったこともある。若気の至りである。

 それは兎に角、今真理というと、昔の真理探究と少し異なることに気が付く。昔は、理性(頭で考えて)で真理を単純に求めようとしたように思う。それが、この数年は、心身一如というか、身体も含めて、人生の真理を求めたいという気持ちに変わっている。

 自分の五感・体感も含めて、真理を目指すこと、その方法論、哲学にとても興味がある。身体論の領域なのであろうか。昨日購入した湯浅泰雄氏の「身体論」は興味がある。

 禅、世阿弥の芸術論、ロジャースの心理学、宗教、西田哲学、皆身体論と関わりがあるようだ。

 今日も、何か真理に触れることがあるかもしれない。わくわくする。

<真善美2/4>

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


五感・体感で聖なるものを感じる時!

2008-01-24 | 第二章「五感と体感」

 昨日は珍しく雪が降った。さほど積もることもなく、薄っすらと雪景色になった雪道を雪を体感しつつ歩く。

 時折車が通ったりするが、雪の日は静である。

  雪の記憶はいくつかある。7歳のアラスカの時の雪。南東アラスカで暖流の関係で暖かいとはいえ、シトカでも冬は零下15度くらいは下がった。雪もパウダースノーで、固まらない雪を投げた思い出がある。

 高校生のときは、校舎に向かう急な坂道があった。大雪が降ると山岳部の方が手すり代わりにザイルを用意してくれ、皆が助かっていたことを思い出す。滑る雪道は大変だった。

 40歳ころ東北の地方に出張に行っていた時、朝大雪で駅に足止めされた。待合室で3人の受験生らしい中学生を引率した先生が、必死に電話で連絡していた光景を思い出す。

 そんな記憶をたどりつつ、やはり、雪は何か聖なるイメージに繋がると思った。すべてを白一色にしてしまうことからなのか。緊張するような、凍えるような寒さからか。

 五感・体感から聖なるものを感じる時、それは真善美に繋がるようにも思う。これから4回真善美について考えてみたい。

<真善美1/4>

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


やはり汽車のように働かねばならぬ!

2008-01-23 | 第二章「五感と体感」

 幸福感は感情の一つであり、人の真実の声ではあるが、やはり束の間の感情である。そして、きちっと思考し、行動し、死に臨む時に悔いのない人生だったと思えるような生き方が大事である。それが、本当の幸福に繋がるのだろう。

 生き方となると、やはり厳しいものになる。生活のためにお金を稼がなければならない。災害や厳しい不幸も、突然やってくるかもしれない。人からも、こうして生きろとプレッシャーが来る。親や近しい人も、場合によれば壁となる。

 とはいえ、人は天命と言われるように、個性に基づく自分でやるべきことが、意識しているか否か、本人すら自覚できないかもしれないがきっとあるだろう。

 環境と戦い、ひたすら自己実現の道を探して、走る。こころの防衛機制など、人特有のこころの仕組みは、本当にやりたいこと、今ここでの判断を曇らせる。自分自身になることは意外と難しいのだ。

 そんな中で、思考・感情・行動の輪を回しながら、どのように生き甲斐を模索していくか?回り道をしながらも進んでいく、それが大事だと思う。

 進むべき方向が定まれば、後は汽車のように進んでいくだけである。多くの祖父母たちが働いたように、今日も、汽笛を鳴らしながら働くのだ!

 <幸福論 3/3>

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


本当の幸福感を体験したい!

2008-01-22 | 第二章「五感と体感」

 幸福感に浸れる時というのは、稀ではないかと思う。

 そして、幸福感は大きな不安や苦悩の後に訪れるように思う。

 私の場合はどうだったか?Something Greatに出会った日危機を乗り切った日だったりした。微妙にその時の感情は異なり、幸福感の定義も難しい。

 ただ、深い感謝の気分というか、「今ここ」が、永遠の中に溶け込んでゆくような感情は、人間の身体の喜びや成育史上のこころの喜びと、一線を画するように思う。魂の喜びなのかもしれない。

 昔読んだ現代詩の中で、出産を終え新たな命に対面した母親の喜びの詩があった。それなども幸福感なのだろう。

 大きな不安や、苦悩の時といえば、それは自分が死を臨む時かもしれない。

 死に逝くときに本当の幸福感を体験できればと願う。

 <幸福論 2/3>

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!