城郭 長谷川博美 基本記録

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丸根砦 小牧山城 安土城 城郭縄張の深層

2022-07-31 08:58:28 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
 
 
◆対談者
私達が企画した一番駄目だと
酷評したボッ動画の失敗作品
があれよあれよの3300視聴を
記録し本当に世の中解らない!
 
◆有識者
この動画は日本の城郭の根幹を
説く文化史として超一流の内容
 
◆質問者
永禄3年の織田信長は尾張大高
城包囲網の砦として佐久間氏に
丸根砦を築城させ佐久間大学と
将兵は壊滅したとされますが?
織田家の永禄3年期の築城術を
知る為には非常に重要ですね?
 
◆長谷川
丸根砦は、曲輪の中心中心から
測量する中央ビイスタ工法採用
しています。併せて扇型放射状
ビイスタ工法も併用しています。
当時の城の測量方法を知る資料
▼扇型ビイスタ工法
▼尾張織田氏 清州 城中央ビイスタ
▼織豊城郭の典型 くさび型ビイスタ
清須城後期の
外郭ビイスタ工法「中央ビイスタ」
▼佐久間氏の本拠 尾張御器所 西城ビイスタ
◆質問者
織田信長 が1563年(永禄6年)
小牧山に築城しますが本丸か
に「佐久間」の墨書石が出土
てます。永禄三年の丸根砦
と永禄6年の小牧山城の本丸
には城郭幾何学的に共通性が
ありますか?
 
▼長谷川博美 城郭ビイスタ用語解説図
 
◆長谷川
両城には規模や用途に差異が
ありますが小牧山城本丸曲輪
から出土した石垣列に検討
加えますと中央型ビイスタも
扇型ビイスタ双方読み取れま
す。
▼中央型ビイスタ 小牧山頂
扇型ビイスタ 小牧山頂
◆長谷川
以下小牧山城のビイスタ
工法に検討を加えますが
この本丸中央ビイスタは
◆長谷川
小牧山城全体の外郭をも統括
する中央ビイスタの可能性が
あると思います。
▼大手登城路途中に存在するビイスタ
▼大手虎口に存在する扇型
 ビイスタ工法 小牧山城
◆長谷川
様々な場所や部位にビイスタ
工法が読取れますが小牧山城
に読み取れますが永禄6年に
織田信長が居城として築城し
た遺構と天正12年1584年秀吉
と家康が戦った小牧長久手の
戦いの徳川家康の本陣として
の遺構が重複して複雑です。
▼小牧山城山頂ではないが
 外郭部の曲輪の位置決め
 を支配している測量起点
◆質問者
クサビ型城郭ビイスタは小牧
山城に数多くよみとれますか?
◆長谷川
驚くべき事に非常に多いです。
 
◆一般様
すごいな!戦国時代の現実!
 
◆質問者
小牧山城は天正4年の安土城
以前に出現した織田信長の城
として巨岩を備えたプレ安土
城つまり安土城系譜の先輩に
相当すると言われていますが
城郭ビイスタ論として安土城
は小牧山城の縄張系譜を継承
しているのでしょうか?
 
◆長谷川
継承しています。先ず安土城
天主台自体の縄張構造は中央
型ビイスタ測量のDNAと言え
る丸根ー小牧ー安土の系譜が
読取れ『織豊系城郭』の系譜
の流れ読み取れると思います
 
▼安土城天主台 中央ビイスタ
 
▼安土城主要部 扇型ビイスタ工法
 
▼安土城主要部 扇型ビイスタと中央ビスタ併用
 
▼元亀末年天正元年 秀吉虎御前山城扇型ビイスタ
▼天正11年織田家老柴田勝家の玄番尾城ビイスタ
◆一般者
覇王織田信長の安土城の構図
城郭ビイスタ論を用いて解説
される長谷川先生すごい先生
 
◆長谷川
悲しい事に私は
著書一冊も無し!
肩書も一切無し!
知名度全く無し!
人気も全然無し!
駄目学者の4冠王
 
◆長谷川
さて織田信長の後継権力者と
なった羽柴秀吉は天正大坂城
を築城して天下に覇権を唱え
る訳ですが彼は大坂城の縄張
に中央型ビイスタを使います。
◆長谷川
しかし良く観察すると
1 中央ビイスタ型
2 扇型ビイスタ腺
2 くさび型ビイスタ
の三種を併用した縄張
を用いて大坂城を築城
織田政権の築城様式を
継承しています。
◆長谷川
太閤秀吉 肥前名護屋城 扇型ビイスタ
 
 
 
◆長谷川
豊臣秀吉が織田家武将として成長
してきた経歴がある以上太閤秀吉
となり築城した肥前名護屋城にも
当然の事ながら中央ビイスタ工法
の日本の城の基礎基本が存在した
と研究を進化進捗させる事が学問
する身の本命だと、私は思います。
そう肥前名護屋城も中央ビイスタ
が併存し日本を代表する城とだと
言えると考えております。
▼肥前名護屋城の中央ビイスタ
◆対談者
長谷川先生!あなたは城郭研究
の異端者では絶対ありません!
日本の城郭研究史の金字塔だ!
 
◆一般者
野球で言うなら9回の裏サヨナ
ラ逆転満塁場外ホームランだ!
 
 
 
※副題
桶狭間合戦 丸根砦 賤ヶ岳合戦 大岩砦
 
◆長谷川
古戦場研究家にとり永禄3年と天正11年の
桶狭間合戦の丸根砦 賤ヶ岳合戦の大岩砦
を比較研究する事は興味深い事と考えられ
る。城郭研究家にとり現地に残る遺構とは
令和の時代から永禄や天正の昔に時間軸を
越えて旅をする事が可能な生々しい歴史的
遺産である事は疑いのない事である。某年
私は丸根砦見学会の為にJR東海の大高駅
に下車する事にした。私が滋賀で大岩山砦
の見学会などしても全く私は滋賀県内では
無名であり人が集合しないのが常である。
ふと私が大高駅に下車すると駅前改札口に
多数の人々が集合されて驚いた。私が滋賀
で見学会などしても先ず2~3名が集合され
るのが関の山である。私は下車した途端に
別の古戦場見学ツアーの人々が集合されて
いると勘違いして駅舎の裏側でひっそりと
待機する事にした。するとそれらの集合し
た人々が滋賀から長谷川先生が到着してお
られない、どうしましようと口々に言われ
まさか自分の見学会に駅前が人で込み合う
とは夢にも思わず驚いた経験を思い出した。
滋賀への帰途、東海道大府駅で一旦待ち合
わせの為に構内にいると全く知らない人が
長谷川先生と御推察申し上げますと挨拶を
されて驚いた事も記憶に残っている。さて
天正11年の賎ヶ岳合戦では羽柴秀吉方に属
する。中川清兵衛清秀守る大岩山砦が柴田
勝家軍に属す佐久間玄蕃盛政に急襲されて
激戦の末に中川は戦死、その首級を取られ
ている。激戦の末に陥落した大岩砦は実際
にはこの様な形状をして現地に天正11年の
城郭様式を残して余呉湖畔の古戦場に残る。
天正11年ともなると西国の武将は直線土塁
を基調とする所謂「織豊系陣城」を構築し
ている様子が手に取るように俯瞰図で解る。
 
さて永禄三年織田信長今川義元による桶狭間
合戦では今川側に属する松平元康「徳川家康」
が織田方の佐久間大学が守る「丸根砦」陣城
を陥落させている。当時未だ織田信長は尾張
地域の領主であり後の「織豊系陣城」の様式
を丸根砦に既に採用していたか?全く一般の
人に解らないか?興味ないか?永禄3年の丸
根城へと時間塾を超えて旅をする事は不可能
である。しかし城郭見学の基礎である城跡の
形状を詳しく詳細に計測すれば佐久間大学の
丸根砦の規模とスケールや形状は現代人にも
認識する事が可能なのである。ただし城跡を
真っ直ぐ通過したり城址遺構を全く見ないで
丸根砦の石柱石碑写真をほんの2~3分で撮影
して丸根砦から次の古戦場へと走り去っては
何の意味も持たない事になる。永禄3年丸根
砦を見た事にはならない。通過しただけの事
になる。私は丸根砦の規模を凡そ事前に30間
と予想して現地調査に出向いている。これは
城を計測する著者の経験値、体験数から来る
ものだ、城郭や砦は30間前後おおよそ約54.9
mで成り立っている。二武将が守る城ならば
60間つまり54.9m×2=109.8m約一丁の規模
と言う事が解る。『信長公記』で信長は大船
を彦根の松原で尾張熱田の大工、岡部又衛門
をして長さ30間巾7間の規模の大船を築造さ
せる。この30間とは砦の基本規模であり信長
は琵琶湖に浮かべる30間の砦を意識していた
事がその寸法記録から推測できる。では尾張
丸根城はどの様な形状どの様な縄張をしてい
た織田方の砦なのか永禄3年の当時の丸根砦
の生々しい現状を検討する事にしたいと思う。
上図の如くやはり砦規模は約30間を基調に築
城されている事がわかる。曲輪も天正期の城
塞のような直線基調は全く採用されず楕円形
状の三段築成の形状をていしているここであ
えて細部の詳細は述べないが凡そその形状が
丸根の如く楕円である事が一般の方々にも御
理解いただけるだろう。
 
◆外弟子
長谷川先生!今先生の城郭放射線状縄張論
ビイスタ理論は大変な注目を受けています!
聞くところによりますと日本で一番古式の
城郭縄張術に精通した超本格縄張の先生!
縄張の魔術師とか隠れた城郭超絶縄研究家
と日本中に、異名をとる長谷川先生ならば
この愛知県丸根砦の縄張を復元考察できる
力量を持っておられると思います。是非と
も御教示と御指南を御願い申し上げます!
どうやったら城や陣を計測できるのです?
 
◆長谷川
私は日本で一番無名城郭研究家です。有名
な先生に御教示を受けられる事を推薦する。
私はの城郭の先生は人間ではなく城址です。
◆長谷川
先ず縄張図を作成したら図面に点描を打つ。
◆長谷川
点描を線で結んでいけば永禄3年の桶挾間合戦の
丸根砦の中心に織田信長の部将、佐久間大学が居
簡単解る。この砦に松平元康「徳川家康」が大学
必死に防戦するも戦死し砦は黒煙を上げて落城!
◆長谷川
愛知県丸根砦の放射状縄張を一度見当します。
これあくまでも試論であり後続される日本の
研究家の参考に少しでもなれば日本一無名な
城郭研究会として幸いな事かといえると思う。
▼放射状縄張Ⅰ試論
放射状縄張Ⅱ試論
▼様々な方向から放射線が。。。。
 
▼天正大坂城本丸放射状縄張論「長谷川博美」放射線挿入
 
◆長谷川
今回の投稿趣旨は古戦場を見学したらせめて
その城塞の形状位は把握して頂きたいと願う!
石碑だけ写真撮影して丸根砦に行ったと言う
なかれ!せめて古城見学ならばその城が四角
だったのか?〇だったのか円だったか位見て
おいて頂きたいと思う。去る4月24日米原駅
の近隣で見学する予定の磯山城などは30間の
曲輪が全山に30ヶ所以上存在する巨大な規模
でありこの様な立派な古城を串指の様に通過
する事は城址見学ではなく城址通過と言える。
 
 
◆対談者
もし長谷川先生が愛知の桶狭間山に至る事が出来
ていたら、今川義元の本陣桶狭間山も計測されて
いた事と思います。賤ヶ岳合戦の砦も鮮明詳細に
先生は図示して捉えられる計測能力がありながら
世間や社会一般は誰1人として長谷川先生を知りま
せん。今度5月29日に延期された勝山城主の柴田勝
安の全長300mもの陣図も長谷川先生だから捉えら
れた特殊な能力でありませんか?だからこれを生
月会長は雨天だから5月29日へと順延された訳で
はない。もっと本格古戦場検証をするべき時節を
選択すべきと大計を計られた事と私は思うのです。
4月24日巨大城郭磯山城見学も凡庸な研究家に
はあの様な詳細図は先ず描けません!その辺
を如何に一般に認識して貰えるか?これは先生
を贔屓した身内の意見ではない全国レベルで見
ても長谷川先生の城郭や古戦場見学は正統派で
学術性がすこぶる高いと私は思います。しかし
遠足や城まつり次元の人々には、長谷川先生の
遺跡見学検証作業は全く眼中に無いと思います。
俗世の人間とは学門の為に集合する訳ではない。
盆踊りの類例のごとく一種の「もよおし事」に
こそ人間と言う俗世の人々が本能的に集まるも
のなのです!だから本当に城郭を歴史の現場を
検証しようとする一般社会の文化土壌レベルが
向上していない限りは歴史の現場を目指す人が
少ないと思います。逆に本当のリアルな歴史の
現場を理解し認識し覚醒した人が一人でも現れ
た時に私は嬉しいですよ。城を真剣に見る人が
1人でも来た時や、城を見る事の大切さに目覚
める人は必ずおられる。長谷川先生の城郭解説
に衝撃を受けた人とは?長谷川先生個人に衝撃
を受けた訳ではない!自分は城ハイキングとし
てスタートしたのに山歩きとしてスタートした
のに自分の心の奥底にある遺跡を見る事、認識
する事つまり自分は何をしたい人間かに目覚め
た人覚醒した人が長谷川先生の解説に驚かれる
訳なのです。そう言う意味で最初から全く城跡
を全く見る気のない人が来て城跡は永遠に理解
できないと思います。それ座敷で100回座布団
の上で畳水練しても水に入らねば絶対泳げない
事と同じ現実的な意味を持っていると思います。
人間はねえ!最初に習った事を親とも常識とも
思い固定概念や様式が脳内記憶として固定して
しまう。だから最初から城ハイキングや城観光
から出発した人には城を通過する事が常識だと
行楽であると観念が固定化されて、これを修正
訂正する事は先ず不可能なです。もし一万人に
1人でも城通過から城を見る事の大切さに気付
かれた人があるならば余程の明敏な頭脳の持ち
主か自分が一体城で何がしたい人間なのか自分
の本質に気付いた貴重な人だと私は思います。
 

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6 コメント

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投稿再開のお知らせ~ (ひろし曽爺1840)
2021-04-19 10:02:54
◆👴◆Haseさん、お早う御座います!ミニご無沙汰でした!
私は💻今までNTT光フレッツを使用していましたが、今日からSoftBank光ファミリー・ハイスピードに変更し投稿しております。
閲覧方法やコメントは今まで通りで出来ると思いますので、今まで同様に宜しくお願い致します。
今日の桶狭間合戦「ブログFaceBook]に➡👍&👏&😍&💛ポッチで~す!
*👴*今朝のMyBlogの感想を楽しみにお待ちしていま~す!
🔷頑張りましょ~!👋・👋~イ!
返信する
Unknown (長谷川博美)
2021-04-19 17:20:06
(ひろし曽爺1840)様、コメントありがとう御座います。
返信する
Unknown (匿名)
2021-04-20 03:35:14
長谷川先生の丸根砦図を見るて驚いております。世の中でこの図を見て驚いているのは全国の学芸員や歴史をネタにしてビジネスしている人達が長谷川先生から情報を搾取しようとネタ探ししている人達と思われます。一般の人はこの投稿には全く驚いてはいない。また城に行く人もこの投稿には感激も驚きも覚えてはいないと思います。おそらくこの投稿は膨大なアクセス数があったと思われます。一般の歴史愛好家は長谷川先生自身の資質と実力は全く解っていない。しかし学芸委員はそれを解って驚いている。一般の人々は町の学芸員を信奉して歴史学びしている、と言う社会構造の矛盾を感じます。私はその事に気づきました
返信する
Unknown (長谷川博美)
2021-04-20 03:40:03
確かに膨大なアクセス数を記録しています。それに比して良いね!が全く少ないと言う反比例現象は私の研究家としての、深刻さ、悲運さ、失望、を象徴する現実であるとも言えます。
返信する
丸根砦の件 (愛知 村瀬)
2022-07-30 21:02:32
先日は有難うございました、城郭フォーラムは大変勉強にまりました。ブログを拝見し早速、丸根砦に本日行ってまいりました。丸根砦が丘の頂上(幼稚園付近)にない点が前々から不思議でした(上から攻められる)が合点ができました。ふもとの見通しの関係、縄張り図で北側の出丸のような部分と堀割(竹藪)が頂上部分からの防衛ラインになっていたような気がします。
縄張り図について教えていただきたい点が2点あります。①砦の周辺部の竪堀のような所は自然崩落でしょうか。②砦の南側、ふもとに近いところに神明社(寛文6年)がありますが帯廓のようなものがあるようにも見えます、砦の一部でしょうか。
丸根砦のビイスタ図について教えていただきたい点があります。
①中央ビイスタ図について中心が一番高いところではなく少し降りたところですがなぜでしょうか。②扇型ビイスタ図が何種類かあります、要の部分はどのように決まるのでしょうか、郭の下部が要ですので砦の後方が見通せませんが測量するに当たりやぐらのようなものを立てるのでしょうか。また攻め手からの防衛という観点から測量しているのでしょうか。③鷲津砦の位置がおかしいとの指摘は前々からあります(横堀らしきものがある、崩落跡か竪堀か、帯廓らしきものもあるが、なぜそこにあるのか砦として機能しているのかわからない)。ビイスタの視点から割り出すことは可能でしょうか。また大高城と織田方の5砦の関係をビイスタで説明がつけれるでしょうか。
返信する
Unknown (長谷川博美)
2022-07-31 08:48:00
御参加わ賜り深く感謝を申し上げます。
返信する

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