剣熊考№18 万葉 足利の海
私のブログでも連続投稿している剣熊考
は隠然とした人気が続いている!
さて日本の古歌『万葉集』の足利とは?
何であろうか?
高市謌一首
標訓 高市(たけち)の歌一首より
集歌1718
足利思伐 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓濫鴨
訓読
率(あとも)ひて榜(こ)ぎ行く舟は高島(たかしま)し
阿渡(あと)し水門(みなと)に泊(は)てるらむかも
解釈
船人を率いて帆を操り行く舟は、
高島の阿渡の湊に停泊するのでしょうか。
さて日本の古歌『万葉集』の足利は?
何であろうか?皆目見当がつかない!
足利と書き、あと、と読むべきか?
あしり と言う意味なのか?微笑?
ここであきらめるのが普通の人である。
私はここから更に深化するから研究家
と言えようか?とにかく深化する為に
角川『地名辞典』25 滋賀を引用する。
▲
足利海「あしりのうみ」について記載
されている、もここから先は解らない!
解らなければ諦めるのが世の中の常だ!
しかしだ研究家とは何十年も、あきらめ
ない人の事を言う。パクリの人とは人の
研究を巧妙に搾取し、さも自分が調べた
如く講演で平気で言う人の事だ。何十年
かけて調査しても瞬時にパクられコピー
され、講演も仕事も来ずに、路頭に迷う
厳しく非常な現実が待っている!
泣き事を言っても始まらない。
それが令和と言う冷酷な暗黒時代だ!
寛保2年(1742 年)に作成された
近江国細見図の原図を見る事にする。
見事に足利海が掲載されている!
是を読んで、ああそうかスゴイと
簡単に、思うのが、一般社会だ。
この記事を私と、別の人が講演で
述べてすごい偉大であると思うの
も一般社会の持つ軽薄さでもある。
ある人から聞いた事だが講演の前
に共演者の講師と本日の目玉とな
る議題や着目点をつまり大衆を心
酔させる話題の壺や深淵や研究の
真髄を絶対に軽率に話しはならな
いと言われた。何故ならば一般の
大衆が驚き納得するべき研究内容
を講演の共演者は開口一番にさも
自分が、長年研究してきた如くに
大衆の前で披露して、大衆を瞬時
に納得させ心酔させる、驚くべき
狡猾な話術と処世術を発揮する人
が世の中には現実に実在すると言
う事だ。
これは音楽家に例えるならば
苦労に、次ぐ苦労の末に、作曲
したメロデイーを瞬時に聞き取り
大衆の面前で作曲者の如く披露
する人や、手品のネタを買いに
行く有名手品師がいる事と同じだ。
世の中には産みだした人よりも、
売り出した人の商品に飛付く大衆性
「ポピュリズム」が常に存在する事だ。
何十年も費やして歴史や城郭を調査
研究を継続する事は、民間研究家に
とり。過酷で困難な現実と言えよう。
この近江国細見図には私が剣熊考で
再三言う「小荒路」そして剣熊は
は「天隅」と表現されている。
また再三私の剣熊考で登場する、
「黒山」も明細図には登場している。
足利海名所とは再三私のブログで
登場する。この景色と景観である。
剣熊=天曲=儉熊=である。
2019年前半には下記の石柱が存在
したが2019年後半には石柱は消え
ていた?見当たらなかったのだが?
▼
剣熊考№14 嶮熊の関「劔熊の関」
劔は(俗字)とされる。
私は友達も仲間も相談相手も全くなく講師の仕事も全くありません。仕方なく一人淋しく滋賀県高島市
マキノ町野口集落近くを歩いていました。嶮熊の関の文字のある石柱を通過いたしました。今や父も母も
なく、この道を歩いていれば何故か父に会える様な気がしたからです。『近江輿地誌略』や江戸時代の
記録には「剣熊御関所」や「野口御番所」とし て登場しています。また『近江輿 地志略』によると、
「専ラ女人ノ出入ヲ改ムル公儀ヨリノ御関所」とありますから口留番所(くちどめばんしょ)は、江戸
時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。江戸幕府の関所に相当する。また
、江戸幕府が設置した施設でも裏街道に設置されたものなど、関所の要件を満たさない小規模なものが
口留番所と称した事を思いだしました。 私の人生は裏街道ばかり 長谷川 涙
★剣熊、天隅、は南北朝の動乱を記した『太平記』にも登場!
★部を見逃すべからず!
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、★見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。↓河野通治一族の供養塔と考えられる石塔。
src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/bd/ae37630c3834a02cef59c0564e134c1b.jpg" border="0">
河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、★見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました
私のブログでも連続投稿している剣熊考
は隠然とした人気が続いている!
さて日本の古歌『万葉集』の足利とは?
何であろうか?
高市謌一首
標訓 高市(たけち)の歌一首より
集歌1718
足利思伐 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓濫鴨
訓読
率(あとも)ひて榜(こ)ぎ行く舟は高島(たかしま)し
阿渡(あと)し水門(みなと)に泊(は)てるらむかも
解釈
船人を率いて帆を操り行く舟は、
高島の阿渡の湊に停泊するのでしょうか。
さて日本の古歌『万葉集』の足利は?
何であろうか?皆目見当がつかない!
足利と書き、あと、と読むべきか?
あしり と言う意味なのか?微笑?
ここであきらめるのが普通の人である。
私はここから更に深化するから研究家
と言えようか?とにかく深化する為に
角川『地名辞典』25 滋賀を引用する。
▲
足利海「あしりのうみ」について記載
されている、もここから先は解らない!
解らなければ諦めるのが世の中の常だ!
しかしだ研究家とは何十年も、あきらめ
ない人の事を言う。パクリの人とは人の
研究を巧妙に搾取し、さも自分が調べた
如く講演で平気で言う人の事だ。何十年
かけて調査しても瞬時にパクられコピー
され、講演も仕事も来ずに、路頭に迷う
厳しく非常な現実が待っている!
泣き事を言っても始まらない。
それが令和と言う冷酷な暗黒時代だ!
寛保2年(1742 年)に作成された
近江国細見図の原図を見る事にする。
見事に足利海が掲載されている!
是を読んで、ああそうかスゴイと
簡単に、思うのが、一般社会だ。
この記事を私と、別の人が講演で
述べてすごい偉大であると思うの
も一般社会の持つ軽薄さでもある。
ある人から聞いた事だが講演の前
に共演者の講師と本日の目玉とな
る議題や着目点をつまり大衆を心
酔させる話題の壺や深淵や研究の
真髄を絶対に軽率に話しはならな
いと言われた。何故ならば一般の
大衆が驚き納得するべき研究内容
を講演の共演者は開口一番にさも
自分が、長年研究してきた如くに
大衆の前で披露して、大衆を瞬時
に納得させ心酔させる、驚くべき
狡猾な話術と処世術を発揮する人
が世の中には現実に実在すると言
う事だ。
これは音楽家に例えるならば
苦労に、次ぐ苦労の末に、作曲
したメロデイーを瞬時に聞き取り
大衆の面前で作曲者の如く披露
する人や、手品のネタを買いに
行く有名手品師がいる事と同じだ。
世の中には産みだした人よりも、
売り出した人の商品に飛付く大衆性
「ポピュリズム」が常に存在する事だ。
何十年も費やして歴史や城郭を調査
研究を継続する事は、民間研究家に
とり。過酷で困難な現実と言えよう。
この近江国細見図には私が剣熊考で
再三言う「小荒路」そして剣熊は
は「天隅」と表現されている。
また再三私の剣熊考で登場する、
「黒山」も明細図には登場している。
足利海名所とは再三私のブログで
登場する。この景色と景観である。
剣熊=天曲=儉熊=である。
2019年前半には下記の石柱が存在
したが2019年後半には石柱は消え
ていた?見当たらなかったのだが?
▼
剣熊考№14 嶮熊の関「劔熊の関」
劔は(俗字)とされる。
私は友達も仲間も相談相手も全くなく講師の仕事も全くありません。仕方なく一人淋しく滋賀県高島市
マキノ町野口集落近くを歩いていました。嶮熊の関の文字のある石柱を通過いたしました。今や父も母も
なく、この道を歩いていれば何故か父に会える様な気がしたからです。『近江輿地誌略』や江戸時代の
記録には「剣熊御関所」や「野口御番所」とし て登場しています。また『近江輿 地志略』によると、
「専ラ女人ノ出入ヲ改ムル公儀ヨリノ御関所」とありますから口留番所(くちどめばんしょ)は、江戸
時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。江戸幕府の関所に相当する。また
、江戸幕府が設置した施設でも裏街道に設置されたものなど、関所の要件を満たさない小規模なものが
口留番所と称した事を思いだしました。 私の人生は裏街道ばかり 長谷川 涙
★剣熊、天隅、は南北朝の動乱を記した『太平記』にも登場!
★部を見逃すべからず!
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、★見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。↓河野通治一族の供養塔と考えられる石塔。
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河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、★見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました