古代日本国成立の物語

自称「古代史勉強家」。趣味は実地踏査と称して各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格の取得を目指して勉強中。

国見ケ丘

2016年10月31日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2013年7月6~7日、宮崎神話の里を訪ねるツアー。高千穂神社を参拝後、ホテル高千穂にチェックイン。夕食と入浴を済ませた後、再び高千穂神社へ戻って夜神楽見物。神話の里を堪能した翌朝は4時に起きてタクシーで雲海の名所、国見ケ丘へ。

以下は高千穂町のホームページより。
神武天皇の孫・建磐龍命(たていわたつのみこと)が九州統治の際に立ち寄って、国見をされたという伝説の丘。「雲海」の名所として全国的に知られています。標高513mのこの丘からは、西に阿蘇の五岳、北に祖母の連山、東に天香具山、高天原、四皇子峰や高千穂盆地、眼下に五ヶ瀬川の渓流が一目で見渡せるなど眺望が特に優れています。

頂上にある瓊々杵尊の像。


日の出の直前、時刻は4:55。雲海の予感たっぷり。


1分おきの経過をご覧ください。





朝陽のオレンジが美しい。


見事な雲海。



前夜の就寝前にタクシーを手配しておき、普段は決して起きることのない午前4時に頑張って起床。その甲斐あって見事な雲海を見ることができ、奇跡の瞬間でした。



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小嶋浩毅
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高千穂神社

2016年10月30日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2013年7月6日、宮崎神話の里を訪ねるツアー、天岩戸神社の次は宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井にある高千穂神社。
主祭神は一之御殿の高千穂皇神と二之御殿の十社大明神。
高千穂皇神とは、日向三代の瓊々杵命・彦火火出見命・鵜鵝草葺不合命と、それぞれの配偶神である木花開耶姫命・豊玉姫命・玉依姫命。
十社大明神とは、三毛入野命・鵜目姫命とその御子神の太郎命・二郎命・三郎命・畝見命・照野命・大戸命・霊社命・浅良部命。


一の鳥居。


本殿。


由緒説明。


夫婦杉。この夫婦杉の周りを大好きな人と手をつないで3回廻ると幸せになれるらしい。


鎮石。垂仁天皇の命により伊勢神宮と高千穂神社に設置された石。皆で手をかざしてパワーをもらいました。



鉄製狛犬一対。鎌倉時代に源頼朝が奉納したという。



三毛入野命の脇障子。祭神である三毛入野命が荒ぶる神「鬼八」を退治したという伝説をもとにつくられた脇障子。



境内の神楽殿では「高千穂の夜神楽」を観た。演目はおそらく「手力雄の舞」。写真は天手力雄神が力ずくで天岩戸の扉を開ける場面。




この神社を訪ねるのは実は2回であった。天岩戸神社と違い、ここには史実が眠っている気がした。
神武天皇一行はこの境内から東征を開始した。そんな雰囲気を感じる神社でした。



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天岩戸神社

2016年10月29日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2013年7月6~7日、宮崎神話の里を訪ねるツアー。まずは宮崎県西臼杵郡高千穂町大字天岩戸にある「天岩戸神社」。祭神は大日霎尊(天照大神)。岩戸川を挟んで東西2つの宮があるが、一般的には西本宮を参拝する。ご神体は天照大神がお隠れになった天岩戸と言われる洞窟であり、西本宮の拝殿裏が川の向こう岸のご神体を拝む。

以下は神社公式サイトより。

御由緒

古事記(こじき)、日本書紀(にほんしょき)等に皇祖天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)は御弟素盞鳴尊(すさのおのみこと)を御避け遊ばして暫く天岩戸(あまのいわと)へ御籠り遊ばされた事を記して居ますが、当神社は其の霊蹟天岩戸(あまのいわと)を斎ひ奉る神社です。
境内社殿の背後断崖の中腹に御窟あり天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)籠らせ給ひし処と伝へ、古より其の御神域を御神体としてお祭り致して居ります。
社殿は東本宮(ひがしほんぐう)と天岩戸(あまのいわと)直拝の西本宮(にしほんぐう)と岩戸川(いわとがわ)の渓谷を挟み相対して御鎮座ましますが東本宮(ひがしほんぐう)関係の昌泰(しょうたい)年間の記録に天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天岩戸(あまのいわと)より御出ましの節、思兼神(おもいかねのかみ)其の御手を取りて東本宮(ひがしほんぐう)の土地に御造営の御社殿へ御鎮りを願ったと記してあります。
弘仁壬辰三歳中秋には三田井(みたい)候の遠祖、大神大太惟基(おおかみたゆうこれもと)公霊夢に恐惶して頽廃せる社殿を再興し深く其神明を崇敬したと申します。
又神社に由縁の舞楽として岩戸神楽(いわとかぐら)三十三番の古雅なる手振を宮司社家代々伝へ氏子達習ひ伝へて祭典に奉奏する外、毎年十一月下旬より二月初旬にかけ、各集落において、民家に〆かざりして終夜舞続け黎明に及びて岩戸開(いわとびら)きと称するを舞納むる慣習があります。
住時名士の此の地を訪ふ者も多く寛政の奇士高山彦九郎(たかやまひこくろう)の参詣紀行あり薩摩の歌人八田知紀(はったとものり)礼参し、水戸の烈土井上主人義秀(いのうえもんどよしひで)等八名参籠して俳句「落つるには 手もなきものよ 蝸牛(かたつむり)」を残して居ます。
又大宝の昔京都神祇宮卜部朝臣(うらべあそん)参拝の記録あり相当古くより中央に認られて居た事が考えられます。
皇室の崇敬も厚く秩父宮殿下、秩父宮妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、朝香宮殿下、常陸宮(義宮)殿下を始め皇族、侍従の代参等、度々の御参拝がありました。


天岩戸神社 西本宮
御祭神   大日霎尊(おおひるめのみこと) 【天照皇大神の別称】
御神木   招霊(おがたま)の木
天照皇大神が御隠れになられた天岩戸(洞窟)を御神体として御祀りしている神社。

天岩戸神社 東本宮
御祭神   天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)
天照皇大神が天岩戸からお出ましになられた後、最初にお住まいになられた場所を御祀りしている神社。

天安河原宮
御祭神   思兼神(おもいかねのかみ) 
      八百萬神(やおよろずのかみ)
天照皇大神、天岩戸へ御籠り遊ばれた時に、八百萬神は天安河原へ神集神議りになった事を古事記等に記してありますが、天岩戸神社より500メートル川上の此の天安河原は其の御相談の場所であると伝へます。此の河原の一角に「仰慕窟(ぎょうぼがいわや)」と称し間口40メートル、奥行30メートルの大洞窟があり、全国から願事がかなうとの信仰があります。


西本宮の一の鳥居。


二の鳥居。


境内の案内図。


拝殿。拝殿の裏にご神体を拝むところがあるが、写真撮影禁止である。


岩戸に隠れた天照大神をなんとか外に引き出そうと八百万の神々が相談したところと言われる天安河原。


西本宮から天安河原まで歩いて行く途中の橋の上から。上流からパワーが押し寄せるパワースポット。橋の上から流れに向かって両手をかざすとそのパワーを感じる気がする。


天安河原は西本宮の拝殿横の遥拝所から拝むことができる。




記紀が先か、この地の伝承が先なのか。たぶん、記紀が先なのでしょう。



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◆日本神話の源流

2016年10月28日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、書紀における海幸山幸の説話は本編のほかに一書が第1から第4まである。それぞれに内容がしっかりと書かれていて全部合わせるとかなりのボリュームになり、神代巻の中では出雲神話に次ぐ文量である。このことは海幸山幸神話が神代巻の中でも特に重要な意味を含んでいるということだ。

 文化人類学者の後藤明氏によると、海幸山幸神話には釣針喪失譚、異境探訪譚、大鰐に乗る話、異類婚のモチーフなどが見られ、これらのモチーフは東南アジアや南太平洋にその源流が認められるという。後藤氏が雑誌「Seven Seas」に投稿された記事をもとに少し確認しておきたい。
 海幸山幸神話は弟の山幸彦が兄の海幸彦の釣針を失くしてしまうことが発端になる。これと同じような発端を持つ神話はスラウェン(旧セレベス島)の北端のミナハッサ地方に伝わる話など、インドネシア付近に多く、さらに釣針を失くして探しに行く話は同じくインドネシアのチモール島、ケイ島、メラネシアのソロモン諸島、あるいはミクロネシアのパラウ諸島など南太平洋に連綿と見いだせるという。
 次に大鰐に乗る話。海幸山幸神話の一書(第1)や一書(第3)では山幸彦が海神の宮から戻るときに鰐に乗って戻ったとあり、また一書(第4)では海神の宮に行くときに鰐に乗っている。鰐は古事記の因幡の白兎にも登場する。この鰐は鮫であると言われているが、中国の揚子江流域には淡水性の鰐がおり、東南アジアのマレー鰐もかつては中国南部海岸にまで棲息していた可能性があるらしい。鰐が日本に棲息していたかどうかはわからないが、中国から鰐の知識が持ち込まれて鮫のイメージと融合して定着した可能性があるという。そして鰐のような大きな水棲動物に乗って海上を移動する話はマレー半島をはじめとする東南アジアに多く見つけられる。
 山幸彦は海神の娘の豊玉姫と結婚したが、この豊玉姫は鰐であった。このように人間と動物との結婚は異類婚と呼ばれる。ベトナム、ミャンマー、カンボジアなど東南アジアの王権起源の神話にはこの異類婚が多く、人間の男が動物の女と結婚して息子を作り、その子が新たな王国をつくるというストーリーが一般的だという。

 これに対して、学習院大学の名誉教授で芸能史学者の諏訪春雄氏の説を見てみたい。諏訪氏によると、記紀の天孫降臨神話は朝鮮半島から内陸アジア地域にかけて広く分布する祖神の天降り神話に由来するという定説に対して、南方の長江流域の少数民族社会にも祖先が穀物を持って天から下ったという神話や伝説が流布していることから、天孫降臨神話は北方諸民族の山上降臨型神話によってその骨格が形成され、これに天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる南方農耕民族の神話が融合して誕生した、と唱えた。出雲の根の国神話についてもその由来を長江流域の少数民族の神話や伝説に求めることができるという。さらに諏訪氏は、東南アジアの兄妹始祖洪水伝説の系列に属するとされていた記紀の国生み神話が、実は長江流域に数多く発見される洪水神話に基づくことを論証し、東南アジアで発見される洪水神話もその分布状況から判断して中国から伝播したものである、つまり洪水神話はその源流は長江流域であるとしている。そしてこれと同じ理屈で、海幸山幸神話の原型も長江流域の伝承が取り込まれたのだと主張する。

 諏訪氏によると、海幸山幸神話のみならず日本神話の源流を東南アジアに求める傾向があり、その理由を2つ挙げている。第1の理由は、中国神話の調査が不十分だったということ。中国は幾度も王朝が交替したが、そのたびに新しい歴史が作り直され、前王朝の遺制が破壊されて体系的な神話や伝承が後世に残されなかったということ。第二の理由は、それに比べて東南アジアの研究がはるかに進んでいたということ。しかもその研究のほとんどは欧米の学者によるものだという。欧米の研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くために著しく立ち遅れていた。これによって日本神話の原型を東南アジアに求める傾向が強くなったという。
 
 海幸山幸神話は東南アジアから来たものか、それとも中国長江流域からのものか。東南アジアに由来するとする考えが通説のようであるが、私は諏訪氏の主張に一票を投じたい。神話の源流地とはその神話を書かせた当事者の源流地に他ならないと考えるからである。これまで何度も書いてきたように、記紀編纂を命じた天武天皇の源流は中国江南の地である、とするのが私の考えであるから。



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◆海幸彦・山幸彦

2016年10月27日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 天孫降臨に続いて瓊々杵尊の子の話はさらに続く。いわゆる海幸彦・山幸彦の説話である。瓊々杵尊と鹿葦津姫の間に生まれた三人の子のうち、長男の火闌降命が海幸彦、次男の彦火火出見尊が山幸彦である。
 兄の火闌降命には海で魚を採る「海の幸」があり、弟の彦火火出見尊には山で鳥や獣を採る「山の幸」があった。 二人は互いの「幸」を交換してみたが、弟のは兄の「幸」である釣り針を失くしてしまった。弟は困って刀を壊して新しい釣り針を造ってカゴ一杯に盛って渡そうとしたが兄は「いくらたくさんの針であってももとの釣り針でなければ受け取らない」と怒って言った。この場面では弟の彦火火出見尊は製鉄の技術を持っていたということがわかる。刀を作ること、刀を溶融して釣り針に作り替えることができたのだ。大陸から南九州へやってきた一族が製鉄技術を持っていたことはすでに書いたが、この一文からもそのことが読み取れる。
 その後、途方に暮れた山幸彦を助けたのが塩土老翁(しおつちのおじ)である。塩土老翁は継ぎ目の無い細かい籠に山幸彦を乗せて海神の宮殿に送り出した。天孫降臨において日向の高千穂の峯に天降った瓊々杵尊が笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)が登場し、瓊々杵尊に自分の国を奉っているが、一書(第4)によるとこの事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、伊弉諾尊の子であるとしている。
 山幸彦は海神の宮殿で海神の娘である豊玉姫を娶って3年を過ごすこととなったが、3年後に山幸彦が海神の宮から戻りたいと申し出たとき、海神は山幸彦に潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を持たせた。これは潮の満ち引きを自由にコントロールできる玉で、彦火火出見尊はこの玉を使って兄の火闌降命を平伏させ、火闌降命が「今後、私はお前の俳優(わざおさ)の民となって仕えるので、どうか許してくれ」と言ったので容赦したという。ここから2つのことが読み取れる。1つは彦火火出見尊は潮の干満を操る玉を手にしたことから、潮の干満や潮流を見極める術に長けた海洋族であったのだろうということ。もう1つは大和政権において隼人の舞を踊る民、律令制下での隼人司の起源がここにあり、俳優の民として描かれていることである。海幸彦の苦しむ姿が隼人の舞を表しているとも言われる。書紀には火闌降命は隼人らの始祖であると記されている。

 山幸彦の彦火火出見尊は製鉄技術を擁した海洋族であったこと、海幸彦の火闌降命は隼人の始祖であったこと、そしてこの2人が兄弟として描かれていること、などから江南海洋族と九州南部に居住していた隼人の始祖と呼ばれるようになる先住集団が近しい関係にあったということが書紀編纂当時の認識であったことが認められる。さらに、山幸彦が海幸彦を従えたという結末は、海洋族がこの先住集団を取り込んだことを表している。その結果、両者が一体化して隼人族と呼ばれるようになったのだろう。

 天孫族直系の系譜は瓊々杵尊、彦火火出見尊、盧茲草葺不合尊と続いたあと、初代天皇の神武天皇に至る。この神武天皇は瓊々杵尊と同様に日向国吾田邑出身の吾平津媛(あひらつひめ)を妃としていることから神武は隼人の地で隼人族を従えたということが言えると思う。隼人に天孫の血が入っていることは当時の誰もが否定できない事実であったと先に書いたが、逆に天皇家が隼人族の出身であることもまた否定の出来ない事実になっていたのではなかろうか。



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大山祇神社

2016年10月26日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2015年11月2日、四国へ旅行して「しまなみ海道」を走ったときに立ち寄った大山祇神社。愛媛県今治市大三島町宮浦にある伊予国一宮で、全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。祭神は大山積神。日本総鎮守の社号をもち、初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝があるとのこと。

以下は、今治地方観光協会のサイトより。
今からおよそ2600年くらい前、神武天皇御東征(南九州地方より奈良地方へ御東征したと伝えられています。)にさきがけて、御祭神、大山積大神の子孫小千命が先駆者として伊予二名国(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衡である御島(大三島)を神地と定め鎮祭したことにはじまると伝えられます。御祭神は、大山積大神で天照大神の兄神に当り、天孫瓊々杵尊御降臨に際し御子女神木花開耶姫命を皇妃として国を奉られたわが国建国の大神で、山幸神(山林・鉱山の神)、和多志神(航海の神)、大水上神(地水、稲作の神)、塩筒神(陸上・海上交通の知識神)、事勝国勝長狭神(戦勝の神)が祀られ御神徳のある由緒ある神社です。本殿、拝殿、宝篋印塔は重要文化財に指定され、隣接する宝物館には国宝を含む数多くの重要文化財を収蔵しています。


二の鳥居。

日本総鎮守の扁額。


由緒。


総門。2010年に再建されたばかり。総ヒノキ造りで高さは12m。


これをくぐれば本殿。


樹齢2600年ともいわれる大楠。


能因法師雨乞いの樟。伝承樹齢3000年。かつて日本最古の楠と言われた。Wikipediaによると、18世紀に枯死し腐朽がかなり進行しているが、1990年頃の調査でも胸高幹周10mの大木である。名称は1066年の大干ばつの際、能因法師がこの木に幣帛を掛け雨乞いを行ったことに由来する。


神社から海辺までは歩いてもすぐ。


神社の前のお店。新鮮な海鮮がメチャ安。神社参拝に行かれるときは必ずここでご飯を食べるべし。名前を書いて順番を待つ間に参拝を。



現地へ行けば山の要素は全く感じない。この神社はどう考えても海の神社である。大山祇神は海の神である。このあたりは中世の村上水軍の本拠地であり、古代より瀬戸内海を制する集団の拠点であった。



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◆天孫降臨(大山祇神と隼人)

2016年10月25日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 瓊々杵尊の后である鹿葦津姫は別名を木花開耶姫、さらには神吾田津姫(かむあたつひめ)という別名も持つ。つまり、大陸江南から日本列島にやってきた瓊々杵尊は地元「吾田」の娘と結ばれた。そして、この娘は自らを「天神が大山祇神を娶って生んだ子である」と言った。

 大山祇神は別名を和多志大神(わたしのおおかみ)といい、海神(わたつみ)につながることから山の神のみならず海の神でもある。瀬戸内海の大三島にある全国の山祇神社の総本山である大山祇神社に訪れたことがある。まず大三島そのものは東西軸では関門海峡から明石海峡にいたる瀬戸内海の真ん中に位置し、南北軸は四国の愛媛県今治市から大島、伯方島を経由して大三島、そして生口島、因島、向島を経て本州の広島県尾道市につながるいわゆる「しまなみ海道」のちょうど中間地点にあたり、まさに瀬戸内海の中心に居座る島である。大山祇神社はその大三島の西側の湾になったところの真ん中あたり、海岸から程近いところにあり、実際に行ってみると山の神というよりもまさに海の神という印象が強烈である。大山祇神は瀬戸内海航路を押さえていた海洋系一族の首長ではないだろうか。天孫降臨の段で瀬戸内海を押さえる大山祇を登場させておいて、その後の神武東征とその時の宇佐や安芸、吉備との関係を語りやすくしているような気がする。

 鹿葦津姫が産んだ三人は、第一子が隼人の祖とされる火闌降命、第二子が彦火火出見尊、第三子が尾張連の祖である火明命である。天孫の瓊々杵尊と吾田の娘である鹿葦津姫の子が隼人の祖になっている。まさに阿多隼人である。これは隼人族に天孫の血が入っていることを伝えている。隼人は5世紀以降に畿内に移住して近習隼人として履中天皇や雄略天皇の傍に仕えたり、「隼人司」として6年交代で宮中の警護に当たったりしただけでなく、彼らの犬の吠え声を真似た儀礼が魔除けの力をもつと信じられた。また、隼人の首長には新しい姓も授与された。685年に畿内在住の豪族11氏に忌寸姓が賜与されているが、その中に「大隅直」が入っていることから推察できる。大隅直は大隅半島の隼人族と考えられ、その一部がこの時期までに畿内に移住して隼人集団を率いて朝廷に従っていたとみられるからである。このように大和政権における隼人は決して辺境の蛮族として冷遇されたわけではなく、むしろ天皇家を支える役割を担い、天皇家にとって近しい存在であったと考えられる。天武天皇崩御のときに大隅および阿多の隼人が諸氏とともに誄(しのびごと)をした(弔辞を述べた)ことが何よりの証左となろう。当時、天皇家が隼人の地から来たことが周知であったため、その隼人に天孫の血が入っていることを誰も否定することはできなかった。火明命の尾張氏も同様である。尾張氏は壬申の乱で吉野を脱出した天武天皇(当時は大海人皇子)に援助の手を差し伸べるなど書紀編纂を命じた天武天皇にとって最も重要な氏族であったので、この神話の段階で天孫の血統であることを伝えた記述を他の氏族は否定することができなかった。



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◆天孫降臨(薩摩半島の野間岬)

2016年10月24日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 それにしても、天孫が降臨する場所がなぜ南九州であったのか。記紀編纂時、政権は大和にあった。そうであれば直接大和に降臨させても良かったのに、何故そうしなかったのか。大陸を出た天皇家の祖先が南九州に流れ着いたという伝承が消すに消せないものになっていたのだ。
 また書紀では、降臨した瓊々杵尊はその後、大山祇神(おおやまつみのかみ)の子である鹿葦津姫(かしつひめ)を娶る。姫は一夜で身蘢り、瓊々杵尊に国津神の子ではないかと疑われたため、その疑いを晴らそうと産屋に火をつけて火の中で三人の子を産んだという。この話は桜島、霧島、阿蘇など南九州の火を噴く火山を連想させ、天孫降臨の地がこの一帯であったことを暗示しているのではないか。
 瓊々杵尊は降臨のあと、「笠狭碕(かささのみさき)」に向かった。薩摩半島の野間岬と考えられているが、「笠狭碕」の場所は降臨の場所よりも重要である。先述したように、もともと大陸から海を渡ってやってきたとは言えないから天から峯に降りたことにしたので、降臨した場所はそもそも架空の場所である。しかし「笠狭碕」は実際に海を渡って到着した場所を表しているのではないだろうか。そして一般的には薩摩半島の野間岬であると言われている。江南地方から最も近い九州島の地が薩摩半島である。

 野間岬の南に坊津町がある。8世紀に入って新羅との関係が悪化したことから遣唐使船が朝鮮半島を経由しないルート(南路および南島路)を取るようになったが、この南島路の拠点が坊津であった。753年、鑑真和上が5度の渡航失敗の末にたどりついた場所でもある。この九州の南のはずれをわざわざ拠点にしたのは、当時すでに東シナ海を渡るための港がここにあったからであろう。また、この坊津は室町時代には倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ琉球や南方諸国との貿易拠点にもなった。鎖国時代には密貿易の拠点にもなったようだ。坊津のすぐ近くにはカツオの水揚げが全国有数規模を誇る枕崎の港もある。このあたりは古代より東シナ海を往来するときの一大拠点であった。
 また、野間岬の北、南さつま市金峰町に高橋貝塚がある。縄文晩期から弥生前期の遺跡で、牡蠣類の貝殻のほか、石器・土器・鉄製品に混じって貝製品が出土している。南島産のゴホウラ貝を加工した貝輪もあり南島との交流が伺われる。さらに北へ行くと市来貝塚がある。縄文時代後期を主とする貝塚で、南九州の縄文後期を代表する「市来式土器」の標式遺跡である。市来式土器は南は沖縄県から九州全域で出土し、地域間の文化交流を示す重要な土器型式となっているが、この交流も船を使って行われた。
 要するに薩摩半島、とくに西側の野間岬の近辺は海を舞台に活動する海洋民族の拠点であったと言うことだ。そしてこの薩摩半島一帯に居住していた集団が薩摩隼人または阿多隼人と呼ばれた隼人族である。隼人は海洋民族であった。江南の地を離れ、東シナ海を集団で渡ってくる航海技術をもっていたのだから当然といえば当然であった。この一帯は8世紀に薩摩国が設置される以前、アタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。そして書紀には「吾田国の長屋の笠狭碕」と記されている。



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◆天孫降臨(日向の高千穂峯)

2016年10月23日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、出雲神話のあとはいよいよ天孫降臨である。書紀本編によると天孫である瓊々杵尊は「日向の襲の高千穂の峯に降った」となっている。この高千穂の場所についての議論が盛んである。古事記に「筑紫の日向」と書かれており、筑紫とあるから宮崎の日向ではなく福岡の日向(ひなた)であるという論が出されているが、「筑紫」の文字が入っていない書紀本編を素直に読めば、現在の宮崎・鹿児島の県境、霧島連峰にある高千穂峯と考えるのが妥当であろう。「襲」は熊襲の襲である。また、古事記には「韓国に向かい」という記述があるが、これは「唐国」として中国であると解することができる。また「空国」として人々の住んでいない土地、あるいは自分たちが逃れてきたため空になった土地、すなわち大陸江南の地、と解することも可能である。稗田阿礼が「カラクニ」と暗誦するのを太安万侶が「韓国」と記載したのであろう。いずれにしても書紀にない記述なので固執するところではない。
 ちなみに、記紀に記された降臨のシーンは以下のようになっている。「筑紫の日向」としているのは書紀の一書(第1)と古事記の2例のみである。

  
 

 高千穂峯の麓には霧島神宮があり主祭神として瓊々杵尊が祀られ、相殿神として木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)、盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依姫尊(たまよりひめのみこと)、神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が祀られている。日向三代とそれぞれの配偶神、さらに神武天皇を加えた計7柱が祭神となっている。記紀編纂の前、6世紀の欽明天皇の時代に慶胤(けいいん)という名の僧侶に命じて高千穂峰と御鉢(おはち)の間に社殿が造られたのが始まりとされているので、古くからの神奈備信仰に天孫降臨説話が結びついたものと考えられる。あるいは記紀編者が意図的にこの神奈備信仰に天孫降臨を合わせたのかもしれない。
 しかし、瓊々杵尊が高天原から高千穂の峯に降り立ったということは、天皇家の祖先が日本列島の外からやってきたことを比喩的に表しているのは明らかである。まさか正史に「天皇家は中国大陸から船に乗ってやってきた」とは書けないのでこのように表したまでのことだ。そう考えると降り立った場所は阿蘇山や桜島、薩摩半島の開聞岳でもよかったが、南九州でもっとも霊験ありそうな山である高千穂峯を選んだということだ。ちなみに「峯」は「峰」と同じであり、神域とみなした山に対して用いる文字である。「高千穂峯」は「山」でもなく「岳」でもなく「峯」の字が使われ、しかも現在でも呼称として続いていることに重要な意味を認めたい。



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◆葦原中国の平定(国譲り・第三段階②)

2016年10月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 高皇産霊尊は再び神々を集めて次は誰を派遣すればいいかを問うたところ、経津主神がいいということになった。ところがそれを聞いた武甕槌神は経津主神だけが丈夫(ますらお=勇気のある強い男)ではない、自分も丈夫である、と言って一緒に葦原中国に行くことになった。二人して大己貴神に対して国譲りを迫った。しかし大己貴神は「わが子に相談したい」と答えた。そしてその相談したかった子が事代主神である。前回で書いたように事代主神は葛城の神である。二人の丈夫が降り立ったところが出雲の五十田狭之小汀であり、事代主神が釣りをしていた場所も同じく出雲の三穂之碕であるので、いかにも出雲での出来事のように考えてしまうが、よく考えてみると国譲り第一段階において既に出雲の支配権は高天原一族の手に渡っているのである。また、第二段階の話は出雲ではなく葛城の話であった。とすると、この国譲り第三段階の場も出雲ではないと考えられる。出雲の地名になっているのはあくまで書紀の読者には出雲での出来事と思わせたいという意図が見える。
 ではこの国譲り第三段階は出雲でなければどこで行われたのだろうか。私はその場所を大和の纏向であったと考える。大己貴神はその幸魂奇魂が三輪山に祀られている。高天原一族はその三輪山の大己貴神に対して纏向の地を譲れと迫った。三輪山の祭祀権をよこせとも迫ったであろう。

 そうか! 国譲り第一段階で出雲の支配権を手に入れたのは高天原一族ではなく、崇神王朝だ! 書紀はそれを高天原一族の事蹟としたのだ。とすると、これは邪馬台国が倭国を統治したことの投影ということになりはしないか。
 そして第二段階では、日向から大和に入った高天原一族(=神武王朝=狗奴国)が大和で葛城を手に入れて基盤を築いた。あとで触れることになるが、葛城の味耜高彦根神や事代主神は鴨族の神である。そして鴨一族は神武と同じく江南系の海洋族であった。神武は葛城を支配したわけではなく、同族として相互支援の関係を構築した。そして神武王朝は出雲の支配権を手に入れた崇神王朝に対して決戦を挑んだ。これが国譲り第三段階の真相ではないだろうか。九州において北九州倭国と戦った狗奴国(=神武王朝)はこの大和の地で倭国大本営である邪馬台国(=崇神王朝)と決戦することになった。しかし、天皇家が自ら編纂を手がけた記紀において、万世一系であるはずの天皇家どうしが戦ったとは決して書けない。だからこそ、設定上の出雲を舞台に、敵を大己貴神として描いた。実際の舞台は邪馬台国、すなわち三輪山の麓の纏向で敵は崇神王朝であった。これで事代主神が登場する理由も納得がいく。舞台は大和、事代主神は葛城の神で神武側の神である。彼は託宣の神であり、彼が言うことは神のお告げとして為政者はそれに従うのが常である。だからここに事代主神が登場したのだ。

 ここで古事記における国譲りを見ておきたい。古事記と書紀を比較すると、第一段階、第二段階においては概ね同様の内容となっているが、第三段階において少し相違が見られる。古事記では、葦原中国に派遣された建御雷神(建御甕神)に帯同したのは経津主神ではなく、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)となっている。経津主神は後に完成した書紀にのみ登場するので、登場させたい何らかの意図があったものと考えられる。神武東征で神武軍が熊野に上陸して土地の首長と戦った後、神の毒気にやられて全員が気絶してしまったときに武甕槌神が神武軍を助けるために天から刀剣をおろした。その刀剣を布都御魂(ふつのみたま)といい、それが神格化したものが経津主神であると言われている。神武東征で再度登場させるために国譲りで威厳を高めておいたのか。また、千葉県の香取神宮には経津主神が主祭神として祀られている。常総の地は書紀編纂当事に絶大な力を誇っていた藤原氏の本拠地であったことから藤原氏への配慮があったのか。
 記紀の相違がもうひとつ。書紀において大己貴神は国譲りの返答を子である事代主神にのみ委ねたが、古事記ではさらにもう一人の子である建御名方神にも答えさせている。建御名方神は国譲りを受け入れることができずに戦うことを選択した。しかしその結果、建御名方神は敗れて信濃の諏訪湖まで逃げることになった。この話は神武王朝が信濃の国をも支配下においたことを伺わせるが、何らかの理由で書紀では省かれることになった。

 ここまで国譲りを考えてきたが、最初は三段階の全てが高天原一族、すなわち日向一族(=神武系)による葦原中国の段階的制覇であるとして書いてきたが、ここに至って、第一段階はそうではなかったと考えるようになった。第一段階は大和の纒向にある崇神王朝、すなわち邪馬台国による出雲(投馬国)制圧の話であった。そのように考えたときに、さらに合点がいくことがある。崇神王朝は出雲から大和にやってきた少彦名命が開祖である。少彦名命と大己貴神は出雲において国造りで共に苦労してきた仲間である。しかし少彦名命はその仲間である大己貴神と袂を分かって大和へきた。二人は対立関係になり、そしてついには少彦名命が大己貴神に勝利したのである。この一大決戦のあと、大己貴神を弔う社が出雲に建てられた。それが出雲大社である。
 ここに国譲りは完結する。神武王朝は崇神王朝に勝利してようやく大和をおさえ、葦原中国を平定することになる。大己貴神と少彦名命が苦労して作り上げた出雲と大和纒向も、結局最後は日向一族である神武王朝が総取りすることになったのだ。

 出雲神話の最後に少しだけ付け足しの話を。古事記の出雲神話にある「稲羽之素兎(因幡の白兎)」の話は書紀には記載がない。また、大国主神の兄弟である八十神による数々の試練の中に出てくる「伯岐国之手間山(伯耆の国の手間の山)」の話も書紀にはない。それぞれの話の内容は割愛するが、伯耆には妻木晩田遺跡、因幡には青谷上寺地遺跡がある。さらに伯耆にも因幡にも四隅突出型墳丘墓がある。古事記における出雲神話は書紀よりも実態を反映したものであったのかもしれない。



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◆葦原中国の平定(国譲り・第三段階①)

2016年10月21日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 いよいよ国譲りの第三段階であるが、これを考える前に私がここまで書いてきた、あるいはこれから書こうとしている物語における重要なポイントを箇条書きにして確認しておきたい。

●日本列島における縄文時代から弥生時代への変化は大陸からやってきた人々によってもたらされた。
●大きくいえば、中国江南から東シナ海を渡ってきた人々と中国中原あたりから朝鮮半島をわたってきた人々によるものであった。
●前者は南部九州から中部九州を中心に文化を発展させていき、北部九州を侵食しながら瀬戸内、そして畿内へと勢力を拡大しつつあった。(この南部九州から中部九州を勢力範囲とする国が魏志倭人伝にいう狗奴国である)
●後者は北部九州から日本海沿岸の山陰各地域にかけて小国による衝突を繰り返しながら出雲を中心に次第にまとまりつつあった。(これら小国の連合体が魏志倭人伝にいう倭国である) 
●この2つの勢力はそれぞれに紆余曲折を経ながらも、いずれも列島外からやってきた天津神集団として日本国の骨格を形成していく。
●そして大和の地において、前者は神武天皇に始まる神武王朝を、後者は崇神天皇に始まる崇神王朝を成立させる。(この崇神王朝こそが魏志倭人伝にいう邪馬台国である)
●記紀には神武王朝に続いて崇神王朝が成立したとあるが、実際は両王朝が並立してにらみ合いつつ、崇神王朝が優勢な状況であった。
●その崇神王朝を倒して政権の座に就いたのが応神王朝で、さらに継体王朝を経て天武王朝へとつながる。
●記紀編纂を命じた天武王朝は神武王朝と同系統、すなわち中国江南の流れを受け継ぐ集団であった。

 後半部分の論証はまだできていないが、大まかに言えばこういうことになる。
 そして、この考えの下で記紀を何度も読んでいるうちに、もう一つの考えが浮かんできた。記紀では、神武王朝のあとに崇神王朝という順に書かれているが、実際のところは並立していたと私は考えている。ということは記紀において崇神王朝の事績として描かれていることであっても、それは神武王朝の後のこととは限らない。神武王朝よりも前に起こっていたことかもしれない。そして私は、崇神王朝の事績でありながら神武王朝よりも前に起こったことを神代巻、特に出雲神話の中に表現したのではないかと考えた。神武王朝よりも先にあった崇神王朝の事績を神話の中に神の事績として書き、その後の崇神紀には崇神の事績としてより具体的に書いた。だから神代巻と崇神紀は次のようによく似た話が出てくる。

 たとえば八岐大蛇の話。素戔鳴尊が大蛇の尾を斬ったときに剣が出てきたが、この剣は三種の神器のひとつの草薙剣であり、素戔鳴尊はこれを天津神に献上したという。一方、崇神紀では出雲の神宝を矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖にあたる武諸隅(たけもろすみ)を派遣して献上させようとした、とある。出雲の神宝が剣であったかどうかわからないが、神器を取り上げるという点でよく似た話である。
 同じく八岐大蛇の話。古事記では高志之八俣遠呂知とされ、また出雲国風土記にある大己貴神による「越の八口」の平定話とあわせて素戔鳴尊が越を平定したことの表れとされるが、崇神天皇は越を平定するために四道将軍の一人として大彦命を派遣している。(ただし、私は「八岐大蛇=越」という考えはとらず、四隅突出墳丘墓の分布と変遷から素戔鳴尊のときに出雲が越に進出して支配権を確立した、と考えていることは先に書いた。)
 国造りのあと、大己貴神は海を照らしてやってきた自らの幸魂奇魂を大和の三諸山(三輪山)に祀った。そして崇神天皇は、疫病や農民流浪による国民の疲弊を治めようと大田田根子をして三輪山に大物主神を祀らせた。神話の世界は神の事績が書かれているという点で問題ないが、ここでは神(大己貴神)が神(自分の幸魂奇魂)を祀るという不自然なことになってしまっている。実際は三輪山に神を祀ったのは神ではなくヒトであった。それを無理やりに神話の世界に押し込めたためにこのようなことになった。そのヒトとは、先に書いたとおり崇神一族であっただろう。
 素戔鳴尊は自分の子孫の国に浮宝(船)がなければ困るだろう、と言って杉と檜を船の材料に定めたが、崇神天皇は、船が無くて困っている人民を見て諸国に船舶を造らせた。

 これらのことは、神武王朝と崇神王朝が並立していた、あるいは崇神王朝のほうが少し早く成立していたことの傍証になるのではないかと思っている。そしていよいよ国譲りの最終段階、日本書紀神代巻のクライマックスに入る。



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◆葦原中国の平定(国譲り・第二段階)

2016年10月20日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 次に第二段階の天稚彦。父は天国玉神(あまつくにたまのかみ)であり、親子共に名前に「天」がついているので天津神であることに疑いはないが、この第二段階は話が少しややこしい。高天原では天穂日命が戻ってこなかったので次に誰を派遣するかを話し合った結果、天稚彦にしようということになり、高皇産霊尊は天鹿兒弓(あまのかごゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を持たせて送り込んだ。ところが天稚彦は大己貴神の娘の下照姫(したてるひめ)を娶って葦原中国に住み着いてしまった。そして自ら葦原中国を治めたいと言い、高天原への報告をしなくなった。葦原中国の王とも言える大己貴神の娘を娶ったということは、首尾よく敵を取り込んだということではないだろうか。逆に取り込まれたと考えられないわけではないが、その後の経過を見ると大己貴神がこの機に乗じて反撃してきたわけでもなく、天稚彦の行動が国譲りの障害になったわけでもないので、私はうまく事が進んだのだろうと考える。しかし、その後に天稚彦は死んでしまう。死の経緯については返し矢の話などの脚色が加わるが、そのことよりも重要なのは、天稚彦の葬儀で登場する味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)である。味耜高彦根神は天稚彦と仲がよくて顔がよく似ていた。高天原で行われた天稚彦の葬儀に参列したところ、あまりに似ていたために天稚彦の親族や妻子が間違えて、天稚彦は死んでいなかったのだと喜んだ。味耜高彦根神は死者と間違われたことで激怒して十拳剣で喪屋を切り倒してしまった。しかしよく考えてみると、いくら似ているとはいえ妻が亡くなった夫の顔を間違えることなど考えにくいことだ。それほど二人が似ていたと言いたかったのだろうが、それは味耜高彦根神が天稚彦の生き返りである、すなわち天津神と同等であることを主張したかったのではないだろうか。

 味耜高彦根神は葛城の高鴨神社の主祭神であり、別名を迦毛大御神という。この神は書紀においては国譲りで初めて登場する。書紀ではその出自はわからないが、古事記においては大国主神と宗像三女神の一人である多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)の子となっており、事代主神(ことしろぬしのかみ)や下照姫(天稚彦の妃)と兄弟であるとされている。出雲国風土記においても大国主神の子となっており、いかにも出雲の神のようになっているが、その出雲国風土記でさえ「葛城の賀茂の社に鎮座する神」としている。また、同じ大国主神の子であり味耜高彦根神の弟である事代主神にいたっては、国譲りの第三段階で非常に重要な役割を担う神であるにもかかわらず、出雲国風土記には一度たりとも登場しない上に、出雲には事代主神を主祭神として祀る神社がほとんどない。それにも関わらず葛城の鴨都波(かもつば)神社には主祭神として祀られている。私は味耜高彦根神も事代主神も出雲の神ではなく葛城の神であると考える。葛城の神として葛城の地を押さえていた味耜高彦根神が天稚彦の葬儀のために高天原へやってきたのだ。これらのことから、天稚彦が派遣された先は出雲ではなく葛城であったということがわかり、さらには葛城の地のリーダーであった味耜高彦根神が高天原に来たことから、彼が高天原一族に帰順する意思を示した、ということが言えるのではないか。だからこそ、顔が瓜二つであることにして天津神である天稚彦の生き返りということにした。かくして高天原一族による国譲り第二段階(葛城一族の取り込み)もうまく進んだ。

 実はこの第二段階で高天原一族(=日向族=神武系)が葛城を取り込む話は神武東征の最終局面である神武天皇の大和入りが下地になっているのではないかと思っている。神武は大和に入って葛城に拠点を設けた。それは神武王朝の宮がこのあたりを中心に設けられていることからわかる。



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◆葦原中国の平定(国譲り・第一段階)

2016年10月19日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀の出雲神話の終盤は、①大己貴神と少彦名命による国造りのあと、②少彦名命が常世の国に去り、③大己貴神(の幸魂奇魂)の三輪山への遷移があって、最後に、④天津神(高天原一族)による国譲り、という展開になっている。①は、朝鮮半島から出雲に渡ってきた素戔嗚尊をリーダーとする集団が丹後を除く日本海沿岸各国を支配した話で、一連の争いが魏志倭人伝でいう倭国大乱を指していると考えられる。②は、崇神王朝につながる人物である少彦名命が出雲の支配集団から抜けて大和へやってきた話、③は、出雲から大和の三輪(纒向)に入った②の集団が三輪の地を統治するために当地で古くから行われていた三輪山信仰(大物主信仰)を利用しようとして、出雲の偉大なる神である大己貴神(幸魂奇魂)を大物主神と同化させた話。そして④は、いよいよ出雲神話の締めくくりである。出雲神話のクロージングを考えてみよう。

 国譲りとは、天津神である高天原一族が葦原中国の支配権を国津神から奪ったことを指している。しかしここで注意しなければならないのは「葦原中国の支配権」であって、「出雲の国の支配権」を奪う話ではないということだ。その葦原中国における出雲の占めるウエイトはたいへん大きいものであったためにいかにも出雲での出来事のように書かれているが、その出雲から大和の三輪(纏向)にやってきた集団がいることは既述の通りであるし、同じ大和においても自陣に取り込むべき集団がほかにも存在したはずだ。そしてもうひとつ注意すべきことは、葦原中国の支配権を奪った天津神は高天原一族、すなわち日向から大和へやってきた勢力であるということ。国譲りの話は日向の一族が出雲を中心とする他の集団を順に支配下においていく様子が記されているのだ。書紀の国譲りの話は三段階に分かれている。第一段階が天穂日命(あめのほひのみこと)の話、第二段階が天稚彦(あめのわかひこ)の話、そして第三段階が経津主神と建甕槌神の話である。順に考えてみたい。

 まず第一段階の天穂日命。高天原にいる皇祖である高皇産霊尊は、自分の娘の栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)と天照大神の子である天押穂耳命の間に生まれた瓊々杵尊を葦原中国の君主にしようと思い、平定のために誰を派遣しようかと多くの神々に聞いたところ、天穂日命がいいということになった。高皇産霊尊は天穂日命を派遣したが、大己貴神におもねって3年たっても何の報告もしてこなかった。そこで高皇産霊尊は、天穂日命の子である大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)を遣わしたが、彼もまた父親に従って何も報告をしてこなかった。
 天穂日命は天照大神と素戔鳴尊の誓約の際に天照から生まれた神で天押穂耳命の弟である。名前に「天」がついていることからも高天原一族であることは間違いない。しかし一方で、天穂日命は出雲国造の祖であるとされている。天津神である天穂日命がなぜ出雲の国造の始祖なのか。答えは簡単だ。それは天穂日命が出雲の統治に成功したからである。だからこそ3年たっても高天原に戻ることはなかった。次いで派遣された子も出雲で父の後を継いだのだ。律令制下になって国造は廃止され、代わって国司・郡司による地方統治が行われるようになるが、出雲国造は廃止されず出雲大社の祭祀を担う氏族として連綿と受け継がれて現在に至っている。これは出雲国造が天津神の出身であったからではないだろうか。いずれにしても高天原一族は天穂日命によって国譲りの第一段階(出雲の国の支配権を手にすること)に成功したのだ。



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◆大己貴神と三輪山

2016年10月18日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 日本書紀第8段の一書(第6)はさらに続く。少彦名命と別れた大己貴神はまだ未完成であった国を一人で回り、出雲の国に辿り着いたとき「葦原中国は元々は荒れ果てていた。岩から草木まで何もかも荒々しかった。しかし私が砕き伏せて従わないものはいなくなった」と言った。そしてさらに続けた。「今、この国を治めるのは私だけである。私と共に天下を治めるものが果たしているだろうか」と。その時、神々しい光が海を照らして忽然と浮かんで来る神があり「もし、私がいなければ、おまえはどうしてこの国を平定することができたと云えようか。私がいたからこそ、おまえはその大きな功績を立てることができたのだ」と言った。大己貴神が「それならばあなたは誰ですか」と尋ねると「私はおまえの幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である」と答えた。大己貴神が「そのとおりです。判りました。あなたは私の幸魂奇魂です。今からどこに住むおつもりですか」と尋ねると、「私は日本国の三諸山に住もうと思う」と答えた。そこで宮をその地に造り、そこに坐しまされた。これが大三輪之神である。
 このシーンによって大己貴神が二人に分割されることになる。一人は出雲に残って国譲りを迫られる神で、もう一人は幸魂奇魂として三輪山に移り住んだ神。前者は自らが国譲りの条件とした通りに出雲大社に祀られ、後者はこれまた自らの希望通りに三輪山に遷り住んだ。これは明らかに別の神をあたかも同一であるかのように装った話である。ここまでの流れから、出雲大社に祀られているのが素戔嗚尊の後裔で出雲の王であった本物の大己貴神であろう。とすると、三輪山に祀られているのは大己貴神ではない別の神ということになる。書紀には大三輪之神とされているので、大三輪氏が祀っていた神のことであろう。もともと三輪山には大三輪氏が祀っていた神がいて、それを大己貴神(幸魂奇魂)に置き換える意図があった。出雲からきた集団(崇神一族)が三輪の地(纒向)を支配するための手段として三輪山信仰を利用したのではないだろうか。書紀編纂を企てた天武天皇は崇神の対立勢力であった神武の系列であり、その立場からすると三輪山に出雲の神が祀られていることなど書く必要のないことであったが、書紀編纂時にその事実は周知となっていた、すなわち、三輪山は出雲の神の山と考えられるようになっていた。

 古事記の同じシーンを見ると少し趣が違っている。少彦名命が常世の国に去ってしまったあと、大国主神は「どうして一人で国を作れようか。誰か一緒に作ってくれないだろうか」と気弱なところを見せる。そのときに海を照らしてやってきた神が「私をきちんと祀れば私が一緒に国を作ろう」「大和を囲む山々の東の山に祀りなさい」と言った。そして書紀では「おまえの幸魂奇魂」と名乗った神は古事記では自ら名乗ることはなく、御諸山にいる神と記されるのみである。

 さて、大三輪氏あるいは三輪氏は何者であろうか。書紀の一書(第6)では、三諸山(三輪山)に住もうと言った大三輪之神の子として、甘茂君、大三輪君、姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)が挙げられている。さらに崇神天皇のとき、疫病で人民の多くが亡くなり、農民の流浪が絶えない状況になった理由を占ったときに、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に憑いた大物主神の言葉に従って大田田根子に大物主神を祀らせたが、この大田田根子は大物主神の子であり、三輪君の始祖となっている。これらにより書紀では「大物主神(大三輪之神)→大田田根子→三輪君(大三輪君)」というつながりがわかる。
 古事記ではどうであろうか。書紀と同様、崇神天皇のときに疫病が流行した際に意富多々泥古(おおたたねこ)に大三輪大神を祀らせようとしたが、このときに意富多々泥古は大物主大神の4世孫であると答えている。書紀と世代数は違うものの、意富多々泥古は大物主大神の直系であるとされている。また、この場面では、大物主大神が夢に出て意富多々泥古に自分を祀らせよと言ったが、意富多々泥古は大三輪大神を祀ったとなっており、神武天皇の段では「美和の大物主神」と書かれていることからも大物主大神と大三輪大神は同一神であることがわかる。さらには、三輪の由来を記した場面では「意富多々泥古命は神君(みわのきみ)、鴨君の祖である」とされている。以上より古事記においては「大物主神(大三輪大神)→(3世代)→意富多々泥古→神君(三輪君)」ということになる。

 記紀によれば、大三輪氏(三輪氏)は大物主神の子孫である、ということだ。では、この大物主神は何者だろうか。一般的には大物主神と大国主神は同一であると言われており、書紀一書(第6)には明示的に書かれているが、書紀本編や古事記には書かれていない。また、出雲国風土記においては大国主神が「天の下造らしし大神」や「大穴持命」として頻繁に登場する一方で、大物主神は一度たりとも登場していない。崇神天皇が祀るほどの神で大国主神と同じ神であるなら出雲国風土記が触れないはずがない。やはり大物主神は大国主神とは同一ではなく出雲の神でもなかったと考えるのが妥当であろう。
 三輪山(御諸山、美和山、三諸岳ともいう)は大神神社のご神体で、大神神社の公式サイトによれば、祭神は大物主大神であり大己貴神と少彦名命が配祀されており、神社の古い縁起書によると、頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座に少彦名命が鎮まる、とされている、とある。大物主大神と大己貴神が明らかに別の神として祀られているのである。大己貴神は出雲の神であるが、大物主神は出雲の神ではなく、それ以前から三輪山で祀られていた土着の神であった。だからこそ、頂上に祀られているのである。



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◆大己貴神と少彦名命

2016年10月17日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀の出雲神話もいよいよ終盤に入る。素戔嗚尊は八岐大蛇を退治したあと、奇稲田姫との生活の場を探し「清」というところに到った。四隅突出型墳丘墓のところですでに触れておいた清神社の場所であろうか。あるいは島根県雲南市にある須我神社であろうか。須我神社は素戔嗚尊が八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝え、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称されている。神社の公式サイトによると主祭神は「須佐之男命、稲田比売命、御子神の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)、6代の後の大国主命」となっている。いずれにしてもその「清」の地に宮殿を建て、大己貴神(おおなむちのかみ)が生まれた。そして遂に素戔嗚尊は根の国に行ったという。「根の国」がどこを指すのかについては議論があるが私は素直に「素戔嗚尊は出雲の国で亡くなった」と理解したい。

 書紀第8段の本編はここで出雲神話が終わるが、一書(第6)に大己貴神と少彦名命(すくなひこなのみこと)による国造りの話が記されている。大己貴神は少彦名命に「自分たちが作った国は良くなったと言えるだろうか?」と問いかけたところ、少彦名命は「あるところは良くなったが、あるところは良くなっていない」と答えた。そして「是談也、蓋有幽深之致焉」という不可解な文が記載される。「この会話には非常に深い意味があるだろう」という。素戔嗚尊およびその後裔である大己貴神は少彦名命の協力を得て葦原中国を制圧(国造り)した。その範囲は四隅突出型墳丘墓のある地域、すなわち石見・出雲・伯耆・因幡・越と広範囲にわたる日本海沿岸の国々である。しかし、残念なことに丹後だけは支配できなかった。少彦名命はそのことを指摘して責めたのではないだろうか。大己貴神と少彦名命は国造りの苦労を共にしてきた仲間であったが、このシーンは仲間割れの雰囲気が漂う。そのことを指して「深い意味」と記されたのではないだろうか。二人の間に何があったのかはわからないが最後の最後に対立することになり、少彦名命は熊野の御崎(出雲国一之宮の熊野大社か)から常世郷に行ってしまった。別伝によると淡嶋へ行って粟の茎に昇ったら、はじかれて常世の国へ行ってしまったとも。
 二人の対立を示す話が播磨国風土記の神前(かんざき)郡の条にも残っている。大己貴神と少彦名命が「ハニ(赤土)の荷を担いで遠く行くのと、屎(大便)をしないで遠く行くのと、どちらが勝つだろうか」と言い争った。大己貴神は「私は屎をしないで行こう」と言い、少彦名命は「私はハニの荷を持って行こう」と言った。争って歩き始めて数日後、大己貴神は「もう我慢できない」とその場で屎をした。その時、少彦名命は笑って「私も苦しかった」と、ハニの荷を岡に投げつけた。それでここを「埴岡(はにおか)」と名付けた。
 さらに伊予国風土記の逸文にも。大己貴神が見て悔い恥じて、少彦名命を生き返らせようと、大分の別府温泉の湯を道後温泉まで引いてきて少彦名命を湯に浸からせると、しばらくして生き返り、何もなかったように辺りを眺めて「よく寝たことよ」と言ったという。文脈からすると大己貴神が少彦名命に重傷を負わせたことが推察され、それを悔いた行為であると読み取れる。

 実は、少彦名命は出雲大社に祀られていない。それはなぜだろうか。大国主神の父あるいは祖先である素戔嗚尊は、記紀では天照大神と姉弟関係にあって天津神となっているが、その実態は朝鮮半島からきた一族のリーダーであり、天津神である高天原一族からすると敵対勢力であった。高天原一族はその敵対勢力の国を制圧した(国譲りをさせた)からこそ、その祟りを恐れて大国主神を祀る出雲大社を建てた。少彦名命は主祭神である大国主神と共に国造りを果たした人物であるにも関わらず、さらに神皇産霊神あるいは高皇産霊神の御子神とされる神にも関わらず、摂社を含めて出雲大社のどこにも祀られていない。何故か。それは祀る必要がなかった、すなわち祟りを恐れる必要がなかったからだ。さらに言えば高天原にとって敵対勢力ではなかったのだ。少彦名命は船に乗って海を渡ってやって来たという記紀の記述から朝鮮半島出身であると考えられ、素戔嗚尊や大国主神と同郷の一族であったが、国造りの過程において何らかの理由で大国主神と袂を分かった。それが先に見た仲間割れ、対立のシーンであり、それが原因で少彦名命は常世の国へ行くことになった。そう考えると常世の国というのは大国主神の立ち位置と反対側、国譲りを迫る側と解することができないだろうか。だからこそ古事記では神皇産霊神の子、日本書紀では高皇産霊神の子、すなわち高天原の一族とされたのではないだろうか。

 大己貴神が生まれた後に素戔嗚尊が根の国に行ったという一文を「根の国である出雲で亡くなった」と理解したい、と先述した。私は、素戔嗚尊の「根の国」が出雲であるなら、少彦名命が向かった「常世の国」は素戔嗚尊や大国主神(大己貴神)と敵対する国であり、それは大和ではなかったか、と考えている。そして私の想像はここで終わらない。出雲から大和に遷った人物と言えば誰であったか。纒向に都を開いた崇神天皇である。少彦名命は崇神天皇自身もしくは崇神につながる一族のリーダーではないだろうか。
 また、少彦名命は高皇産霊尊が生んだ1500人ほどの神でただ一人、いたずらで教えに従わない神であったとされているが、この高皇産霊尊の言葉には少し深い意味が感じられる。これは少彦名命が天津神の中でも異端であったということを表しているのではないか。すなわち崇神天皇の系列(崇神王朝)は主流派ではないということ、さらに言えば書紀編纂を命じた天武王朝につながると考える神武王朝とは別の一族であることを暗に匂わしているのではないだろうか。



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