古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆葦原中国の平定(国譲り・第一段階)

2016年10月19日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀の出雲神話の終盤は、①大己貴神と少彦名命による国造りのあと、②少彦名命が常世の国に去り、③大己貴神(の幸魂奇魂)の三輪山への遷移があって、最後に、④天津神(高天原一族)による国譲り、という展開になっている。①は、朝鮮半島から出雲に渡ってきた素戔嗚尊をリーダーとする集団が丹後を除く日本海沿岸各国を支配した話で、一連の争いが魏志倭人伝でいう倭国大乱を指していると考えられる。②は、崇神王朝につながる人物である少彦名命が出雲の支配集団から抜けて大和へやってきた話、③は、出雲から大和の三輪(纒向)に入った②の集団が三輪の地を統治するために当地で古くから行われていた三輪山信仰(大物主信仰)を利用しようとして、出雲の偉大なる神である大己貴神(幸魂奇魂)を大物主神と同化させた話。そして④は、いよいよ出雲神話の締めくくりである。出雲神話のクロージングを考えてみよう。

 国譲りとは、天津神である高天原一族が葦原中国の支配権を国津神から奪ったことを指している。しかしここで注意しなければならないのは「葦原中国の支配権」であって、「出雲の国の支配権」を奪う話ではないということだ。その葦原中国における出雲の占めるウエイトはたいへん大きいものであったためにいかにも出雲での出来事のように書かれているが、その出雲から大和の三輪(纏向)にやってきた集団がいることは既述の通りであるし、同じ大和においても自陣に取り込むべき集団がほかにも存在したはずだ。そしてもうひとつ注意すべきことは、葦原中国の支配権を奪った天津神は高天原一族、すなわち日向から大和へやってきた勢力であるということ。国譲りの話は日向の一族が出雲を中心とする他の集団を順に支配下においていく様子が記されているのだ。書紀の国譲りの話は三段階に分かれている。第一段階が天穂日命(あめのほひのみこと)の話、第二段階が天稚彦(あめのわかひこ)の話、そして第三段階が経津主神と建甕槌神の話である。順に考えてみたい。

 まず第一段階の天穂日命。高天原にいる皇祖である高皇産霊尊は、自分の娘の栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)と天照大神の子である天押穂耳命の間に生まれた瓊々杵尊を葦原中国の君主にしようと思い、平定のために誰を派遣しようかと多くの神々に聞いたところ、天穂日命がいいということになった。高皇産霊尊は天穂日命を派遣したが、大己貴神におもねって3年たっても何の報告もしてこなかった。そこで高皇産霊尊は、天穂日命の子である大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)を遣わしたが、彼もまた父親に従って何も報告をしてこなかった。
 天穂日命は天照大神と素戔鳴尊の誓約の際に天照から生まれた神で天押穂耳命の弟である。名前に「天」がついていることからも高天原一族であることは間違いない。しかし一方で、天穂日命は出雲国造の祖であるとされている。天津神である天穂日命がなぜ出雲の国造の始祖なのか。答えは簡単だ。それは天穂日命が出雲の統治に成功したからである。だからこそ3年たっても高天原に戻ることはなかった。次いで派遣された子も出雲で父の後を継いだのだ。律令制下になって国造は廃止され、代わって国司・郡司による地方統治が行われるようになるが、出雲国造は廃止されず出雲大社の祭祀を担う氏族として連綿と受け継がれて現在に至っている。これは出雲国造が天津神の出身であったからではないだろうか。いずれにしても高天原一族は天穂日命によって国譲りの第一段階(出雲の国の支配権を手にすること)に成功したのだ。



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