古代日本国成立の物語

自称「古代史勉強家」。趣味は実地踏査と称して各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格の取得を目指して勉強中。

卑弥呼と台与

2017年01月30日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 崇神天皇(その3)の記事で「倭迹々日百襲姫命が台与である」という考えを書いた。今回はこれについてもう少し考えてみたい。その前提として私の考えとして次の2点を確認しておきたい。1つは、崇神天皇のときに疫病で民の半数以上が死亡し、農民の流浪、反乱などで国内の災いが収まらなかったことが、魏志倭人伝に記される「卑弥呼の死後に男王が立つも国中が服さなかった」との記事に符合するということ、つまりこの男王が崇神天皇であるということ。そしてこの男王が国を治めることができなかったので卑弥呼の宗女である台与が王についた。2つ目は、倭人伝には卑弥呼が女王として共立されたときに男弟(本当の弟という意味かどうか疑わしい)がいたと記されており、この男弟が崇神天皇であるということ。卑弥呼と台与を比定するにあたってこの2点を前提に今一度、魏志倭人伝から関連する部分を抜き出して考えてみる。

其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名日卑弥呼、事鬼道能惑衆、 年已長大、無夫婿、有男弟、佐治國、自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食傳辭出入居處、宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衛
(その国は、元々は男子を王としていた。七、八十年を経た後、倭国は乱れ、互いに攻撃しあうことが何年も続いた。そこで一人の女子を共に立てて王とした。名を卑弥呼という。鬼道の祀りを行い、人々をうまく惑わせた。高齢で夫はいないが、弟がいて国を治めるのを補佐している。王となって以来、会った者はわずかしかいない。侍女千人を自らの側においている。男子が一人いて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に設けられ、常に人がいて武器を持って守衛している。)

 倭国はもともと男子を王としていたとある。これはおそらく「後漢書東夷伝」の記述「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」にある「帥升」のことであろう。安帝の永初元年とは西暦107年のことである。さらに後漢書は続いて「桓霊間倭国大乱、相攻伐歴年主無」と記す。これは倭人伝の「住七八十年、倭國亂相攻伐歴年」の記述と対応している。倭王帥升の治世から7~80年後、すなわち後漢の桓帝と霊帝の治世の間(146年~189年)に倭国大乱が起こり、主(王)がいなかった、ということだ。この倭国大乱とは朝鮮半島から渡来した素戔嗚尊が伯耆や出雲、越などの日本海沿岸地域を制圧する過程であり、さらにその子の大国主命が国造りを進め、その後に少彦名命が大国主命と袂を分かって大和へ移って邪馬台国を建国する、という争乱を指していると考える。その後、倭国はその少彦名命が建国した邪馬台国の女王卑弥呼を共立してまとまったという。西暦200年前後であろうか。このあと、景初三年(239年)から倭国の魏に対する朝貢の記事が続く。そして正始八年(247年)の次の記事になる。

其八年太守王頎到官、倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和、遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状
(その八年、太守王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴國の男王卑弥弓呼と以前から不仲であった。倭の載斯烏越らを帯方郡に遣わし、互いに攻撃しあっている状況を報告させた。)

 倭の女王卑弥呼と狗奴国王の卑弥弓呼が不仲であったとしているが、これは倭国と狗奴国が対立していたということだ(あくまで倭国と狗奴国の対立であって邪馬台国と狗奴国の対立ではない)。そして両国がついに交戦状況に陥ったことが記される。この状況は第一部において阿蘇山北側の北九州倭国と狗奴国の国境付近に集中する遺跡群から検証した。太守の王頎は塞曹掾史の張政等を派遣して女王を激励したが結果は首尾よくいかなかったようだ。

卑弥呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人、更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人、復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、國中遂定、政等以檄告喩壹與
(卑弥呼は死んで大きな墓を作った。直径が百余歩で徇葬者の奴婢は百余人であった。あらためて男王を擁立したが、国中の混乱は収まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女である十三才の台与を女王に立てると国中が遂に収まった。政等は檄文を以て台与を激励した。)

 卑弥呼は死んだ。「以死」が良からぬ死、非業の死を意味することも第一部で見た。自ら命を絶ったのか、誰かに殺されたのか。 いずれにしても狗奴国との戦争と何らかの関係がありそうだ。おそらく倭国は狗奴国に敗れたか、それに近い状態になったのだろう。そして卑弥呼の墓が築かれた。王であった卑弥呼に代わって男王が立ったが倭国内の混乱が続いたため、卑弥呼の宗女であった台与が13歳で女王となってようやく混乱が収まった、という状況は冒頭で確認した通りである。

 魏志倭人伝をもとに卑弥呼から台与に代わる経緯を見てみたが、今一度、事の順序を整理するとこうなる。

  倭国大乱→卑弥呼共立→狗奴国と交戦→卑弥呼死去→男王即位→国内の混乱→台与共立→混乱収束

 男王を崇神天皇としてこの順序を記紀の記述に照らし合わせると、崇神天皇即位後に巫女としての力を発揮する倭迹々日百襲姫を卑弥呼とすることはできない。やはり崇神天皇即位後、国内が混乱した状況を収束させるために登場した巫女である倭迹々日百襲姫は台与であると考えるのが妥当であろう。ただ、倭迹々日百襲姫は記紀の系譜によれば第7代孝霊天皇の子となっており、13歳で女王として共立されたという倭人伝の記述と年齢的、世代的に合わない。しかし、記紀の系譜は万世一系を演出するために第9代までの神武王朝と第10代からの崇神王朝を無理やりつなげる作為が施されているため、このような矛盾はあり得ると考える。現に崇神天皇を神武王朝につなげるために開化天皇と継母(父である孝元天皇の妃)との間にできた子にするという不自然な作為が見られる。

 さらにここで箸墓についても言及しておきたい。日本書紀には「倭迹々日百襲姫命が死んだときに大市の墓に葬った。その墓を箸墓という」というくだりがある。奈良県桜井市箸中にある箸墓古墳である。卑弥呼の古墳であると唱える人が多く、築造時期が3世紀中頃に遡るということが示されて以降、圧倒的に有力な説となってしまった。しかし前述のように私は倭迹々日百襲姫命は台与であると考えるのでその墓を卑弥呼の墓に比定することはできない。さらに言えば、箸墓古墳は前方後円墳であり全長は278m、後円部の直径が150mである。魏志倭人伝にある「径百余歩」に合わない。「径」は円形部の直径を指すと考えるのが自然であるから、歩幅が50cmとすれば50m、歩幅1mとしても100mで、後円部の直径150mに合致しない。したがって、仮に築造時期が卑弥呼が死んだ時期に一致したとしても卑弥呼の墓と考えることができない。第一部の「纏向型前方後円墳と箸墓古墳」にも書いたが、卑弥呼の墓は箸墓の東にあるホケノ山古墳であると考えている。

 それではいったい誰を卑弥呼に比定するのが妥当なのだろうか。この点については、現時点において記紀に登場する人物をもって卑弥呼に比定することができなかったというのが正直なところで、継続検討課題としておきたい。
コメント

崇神天皇(その8)

2017年01月22日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
今回が崇神天皇の最終回である。

即位62年 7月 河内の狭山に池溝(うなで)を掘った
     10月 依網池(よさみのいけ)を造った
     11月 苅坂池(かりさかのいけ)・反折池(さかおりのいけ)を造った。
即位65年 7月 任那国が蘇那曷叱知(そなかしつ)を派遣して朝貢してきた。

<考察>
 河内の狭山とは現在の大阪府大阪狭山市であり、この池溝は私の自宅から歩いて30分ほどのところにある現在の狭山池のことを指している。日本最古のダム式ため池であるが、今なお周囲の田畑に用水を供給している現役のため池だ。余談になるが、1988年からの平成の大改修でダム部分や堤防が大幅に整備されて近隣の住民の憩いの場所になっている。隣接地に安藤忠雄氏が設計した狭山池博物館があり、田舎の町には分不相応な立派な建物であるが、展示内容はなかなかのもので一見の価値アリだ。ともかく、大阪の南部、南河内や泉州地方は瀬戸内式気候で雨が少ないうえに大きな河川がないため、いたるところにため池がある。次の依網池は現在の大阪市東住吉区のあたりとされており、この付近も江戸時代に大和川が付け替えられるまではため池が必要とされた。ちなみにこの依網池は現在はもう存在しない。苅坂池と反折池については場所がわかっていない。
 ところで、3世紀の崇神天皇の時代に本当にこんな大規模な工事が行われたのだろうか。狭山池については平成の大改修で検出された樋に使用された木材の伐採時期が年輪年代測定によって616年と判定されことから、少なくとも7世紀初めに存在したことが確認されたが、そこからさらに300年も遡ることがあるのだろうか(ちなみに地元では今年が狭山池築造1400年という触れ込みで宣伝されている)。崇神天皇は戸籍調査を行った上で課税していたこと、それを天神地祇に納めたところ様々な穀物がよく採れるようになり、皆が裕福になって人民が増えたこと、が書紀に記されているので、理屈上は大規模な公共工事ができるほどの財政基盤があったといえなくもないが、そもそも戸籍調査や課税についても果たして崇神のときに始まったのかどうか、怪しいと言わざるを得ない。治世の初期に徳の政治が上手くいかずに神託に頼っていた崇神であるが、いつしか徳を備えた立派な天皇になった、というハッピーエンドの演出であろう。

 即位65年に任那が朝貢してきたという。魏志倭人伝によれば任那のあった朝鮮半島の南端は狗邪韓国と境を接する倭国の領域であることが記されており、書紀の記述を裏付ける材料となろう。この蘇那曷叱知という人物は次の垂仁天皇の2年になって任那に帰りたいと申し出たが、天皇は彼にたくさんの賞(赤絹を百匹)を与えて帰らせたという。私はこの説話は日本と任那の朝貢関係ではなく、倭国と朝鮮半島を通じた魏との朝貢関係を表しているのではないかと考える。もちろん倭国が朝貢する立場である。したがって、天皇が蘇那曷叱知に持たせた賞は任那に対するものではなくて、魏に対する朝貢の品ではなかったか。これも書紀と倭人伝の対応を示している。

 これで崇神天皇の事蹟は終わり。祭政一致の始まり、崇神王朝と神武王朝の対立、神武王朝の敗北、出雲の制圧、魏志倭人伝との対応などが確認できた。第一部で描いた物語がひっくり返るかも知れないと思いつつ思考を巡らせてきたが、むしろ第一部を裏付けることができたと感じている。ただ、ここまで棚上げにしてきた大きな課題がある。それは卑弥呼である。卑弥呼は誰か、あるいは台与は誰か。思考の途中であり、まだ答は出ていないが、次回はその途中経過を書いてみる。
コメント

崇神天皇(その7)

2017年01月20日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
崇神天皇の事跡もいよいよ終盤である。

即位60年7月 出雲大社に収められている神宝を見たいと言い、武諸隅を遣わした。
       ことの経緯は次の通り。

 この神宝は武日照命(たけひなてるのみこと)が天より持って来たものである。この神宝を奉らせるために矢田部造の先祖である武諸隅(たけもろすみ)を遣わした。このときこの神宝を管理していたのは出雲臣の先祖である出雲振根(ふるね)であったが、彼は筑紫の国に行っていたので会えなかった。そこで弟の飯入根(いいいりね)が皇命を承って、その弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と子の鸕濡渟(うかずくね)に託して献上した。
 出雲振根は筑紫から帰ってきて、神宝を献上したと聞いて飯入根を責めた。数年を経てもこのときの恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと考えた。そこで止屋(やむや=島根県出雲市今市町・大津町・塩谷町付近)の淵に誘い出した。振根は密かに本物の太刀にそっくりな木刀を作って、その木刀を帯刀して行った。淵についたときに兄は弟に「水が清らかなので水浴びをしよう」と言った。弟は兄の言葉に従い、それぞれ帯刀していた太刀を抜いて淵のそばに置いて水に入った。兄は先に上がって弟の本物の太刀を帯刀し、続いて弟が上がって兄の木刀を手に取った。そのとき、互いに刀を斬り込むことになったが弟は木刀なので抜く事も出来ず、兄は弟を撃ち殺した。
 甘美韓日狭と子の鸕濡渟はその様子を詳しく朝廷に報告したところ、吉備津彦と武渟河別を遣わして出雲振根を殺させた。
 その後、出雲臣たちは討伐を恐れるあまり、出雲の神を祀るのを怠りました。すると、丹波の氷上(兵庫県氷上郡氷上町)に氷香戸邊(ひかとべ)という人が皇太子の活目尊(垂仁天皇)に会って、こう言った。
  「わたしの小さな子がこんなことを歌っている。
    玉藻の中に静かに眠っています。
    出雲の人が祭る、立派な大事な鏡が
    すばらしい神が、水の底に眠っています。
    神霊が山河の水に沈んでいます。  
    静かに掛けて祭らなくてはいけない立派な鏡が
    水の底に沈んでいます。
   これは子供の言葉ではない。神が取り憑いたのでしょう。」

 皇太子が天皇に伝えると、天皇は勅して鏡を祭らせた。

<考察>
 出雲大社に祀ってあった神宝は武日照命が天から持ってきたものだという。武日照命は古事記では天菩日命の子の建比良鳥命となっている。つまり、武日照命は天穂日命の子である。天穂日命は素戔嗚尊と天照大神の誓約によって生まれた5人の男神の一人で、国譲りに際して最初に出雲に派遣された人物であるが、彼は大己貴神におもねって3年経っても報告しなかった。それで子の武三熊之大人(たけみくまのうし)を派遣したが同じ状況であったという。この天穂日命は出雲国造の祖とされている。武三熊之大人は武日照命と同一人物であろう。天穂日命と武日照命は大己貴神の系譜にあり、さらに出雲臣の先祖とされる出雲振根はさらにその後裔ということになろう。
 武諸隅が出雲へ到着した際、出雲振根は筑紫の国に行っていたという。日本書紀はここで初めて出雲と筑紫の関係に直接触れることになる。私は第一部で魏志倭人伝に登場する倭の国々を比定したが「不弥国の位置」「投馬国の位置」に書いたように、福岡県飯塚市の立岩遺跡を不弥国に、そしてこの出雲を投馬国に比定している。倭人伝によるとこの両国間には水行20日の航路が成立していたのだ。さらに日本書紀において、素戔嗚尊と天照大神の誓約の際に生まれた田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)の三姉妹は、素戔嗚尊の剣から生まれたので素戔嗚尊の子とされ、書紀の一書においてこの三女神を筑紫の国に降らせられたことになっている。宗像三女神である。このことも素戔嗚尊の出雲と筑紫の近しい関係を表している。
 出雲振根が筑紫に行っている間に弟の飯入根が神宝を献上してしまったことに怒った振根はその後に弟を殺してしまう。その手段が木刀と本物の刀を取り違えさせるという何とも姑息な手である。このやり口、古事記における倭建命(やまとたけるのみこと)の出雲征討でも使われた方法である。倭建命は出雲に着くやいなや、出雲建と交友関係を結ぶ一方で密かに偽刀を作り、ともに斐伊川で水浴びをした際に先に川から上がって太刀を交換させ、斬り合いを仕掛けた、という話だ。
 その姑息な手段はさておき、ここまで書きながら思うことがひとつある。それは出雲の神宝とは「剣」のことではないか、ということだ。宗像三女神は素戔嗚尊の剣から生まれた。出雲振根は剣を使って弟を騙して殺した。何よりも出雲振根の名前に「振」がついていることである。これは太刀を振るところから付けられたのではないだろうか。さらに思い出されるのが荒神谷遺跡で出土した358本もの銅剣である。この数は出雲国風土記に記される出雲国の神社の総数とおおよそ一致しているという。何らかの理由があって出雲の各神社が祀っていた剣を荒神谷に集めて埋納した、という説があり、私も同様に考えている。つまり、剣はご神体として祀られる存在、すなわち神宝であったと言える。加えて言えば、三種の神器の1つである草薙剣は素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治したときにその尾から出てきた剣である。出雲の神宝は「剣」であったのだ。
 それを間接的に裏付けるのが氷香戸邊のくだりである。水底に沈んだ鏡を神や神霊に例え、これを祀らなければならない、という子供の歌を神託として天皇が鏡を祀らせたという。出雲で祀られてきた剣を奪い取り、代わって鏡を祀らせたのだ。明らかに支配者が交替したことを表している。崇神天皇は最後の最後に出雲を制圧し、国造りのあと袂を分かった大己貴神にリベンジを果たしたのだ。
 実は細かいことにこだわれば、鏡は天照大神の象徴であるが、その天照大神は神武王朝が祀るべき神であり、崇神王朝が祀る神ではなかった。「崇神天皇(その2)」で見たように、崇神王朝の初めに国が乱れたとき、宮中で祀っていた天照大神を追い出しているのだ。しかし、日本書紀編纂時、すでに鏡は天皇家の祖先である天照大神を象徴するものとして代々の天皇によって受け継がれ、祀られ続けていたので、その事実を反映して鏡を祀らせることにしたのだろう。
コメント

崇神天皇(その6)

2017年01月18日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
崇神天皇の事跡を続ける。

即位10年10月 群臣に対して次のように話した。
       「畿内の反抗者は皆服した。残るは畿外の暴君どもだ。
        四道将軍よ、すぐに出発せよ」
即位11年11月 四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。
       この年、異民族がたくさん従うようになった。
即位12年 3月 次のように詔をした。
        ・疫病や災いに対しては神祇を敬い、反抗する者を討ち破った。
        ・宮は廃れることなく、教えが広がり、民は生活を謳歌している。
        ・異民族が何度もやってきて、海外の人も帰化をする。
        ・このときに戸籍調査をして課役を課すことにしよう。
即位12年 9月 初めて戸籍調査をして課税を行うと国が栄えて天下泰平となり、
       天皇は御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)と呼ばれた。

<考察>
 崇神天皇による天下統一の話である。即位10年10月の詔から、やはり大和で反乱が起こっていたことがわかる。先に見たとおり、神武王朝によるものである。畿外においても同様で、神武王朝に近しい国々が同調して反乱を起こしていたのだ。崇神天皇はそれらを制圧して日本を統一した、つまり、神武王朝は崇神王朝に敗れたということだ。

 また、11年11月と12年3月の記事を見ると、ともに異民族(異俗)や海外が登場する。即位7年に神浅茅原で大物主神が倭迹々日百襲姫命に授けた神託に「大田田根子に自分を祀らせれば世の中が治まり、海外の国も降伏するだろう」というくだりがあった。すでに日本海の向こう、朝鮮半島を経由して大陸から人が来ていたのだ。それらの中には魏の遣いもいたであろう。魏志倭人伝によると、次のように倭と魏は帯方郡を介して交流(実際は倭国による朝貢)が行われている。少々長くなるが、倭人伝の訳文を記載する。卑弥呼が「親魏倭王」の印綬を受けたくだりからだ。

---------------<ここから魏志倭人伝>---------------
・景初二年(景初三年の誤記として239年)六月、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣でて、天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。
・太守の劉夏は役人を遣わし、彼らに随行して都に詣でさせた。
・その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて次のように伝えた。
 「親魏倭王卑彌呼に申し伝える。帯方郡太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉って届けてきた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝の意の表れであり、我は甚だうれしく思う。今、汝を親魏倭王として称え、金印紫綬を封印して帯方郡太守に預け、汝に授ける。それを人々に示して人民を服従させなさい。汝の使者の難升米、牛利は遠路はるばる来訪し、道中の労を勤めた。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい、倭に還すことにする。今、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹、これらを以って汝が献じたものへの返礼とする。また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装して難升米、牛利に託することとする。帰還したら目録を受けとるがよい。(それらの)すべてを汝は国中の人々に顕示し、魏国が汝に情を寄せていることを知らしめよ、それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである

・正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜る。
・倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。
・その四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。
・掖邪狗らは一同に率善中郎将の印綬を拝受した。
・その六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して授けた。
・その八年(247年)、(帯方郡)太守の王頎が(洛陽の)官府に到着した。

・倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より仲が悪かった。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。
・(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を作って激励した。

・卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。
・ほどなく男の王を立てるが、国中がこの王に服さず、更に戦いが続いて、当時は千余人を殺した。
・続いて卑彌呼の宗女「壹與」を王として立てた。十三歳で王となると、ようやく国中が治まった。
・張政らは檄文を以て壹與を激励し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らが魏へ帰るのを送り届け、そして臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。
---------------<ここまで>---------------

 このように卑弥呼のときから台与の時代にいたるまで倭国と魏の間で往来があったことがよくわかる。この様子が「異民族(異俗)の訪問」や「海外からの帰化」ということに表れたのではないだろうか。日本の正史である日本書紀は間違っても魏に対して朝貢していたことを伺わせることは書かない。むしろ逆に向こうからやってきた、という表現になった。大物主神による神託においても「海外の国が降伏するだろう」と主客逆転の表現を使っている。

 崇神天皇の治世を描いた日本書紀の崇神紀と魏志倭人伝の記述と比較すると見事に対応していると言える。

 それにしても冒頭の崇神天皇は本当に晴々しく立派な姿として描かれている。治世の前半、国が乱れて不安定になったころのダメ天皇の姿とエライ違いだ。それもこれも神の力を利用することに成功し、祭政一致の政治スタイルを確立することができたからであろう。ここに卑弥呼や台与の姿を思い浮かべずにはおられない。


 さて、ここに二人目の「ハツクニシラススメラノミコト」が登場することとなった。一人目が「始馭天下之天皇」である神武天皇、そして二人目が「御肇國天皇」である崇神天皇である。神武天皇は初めて大和の国を治めた天皇として、崇神天皇は畿外も含めて初めて日本を治めた天皇として、それぞれ「初めて国を治めた天皇」」と呼ばれることになった、と考えれば二人の「ハツクニシラススメラノミコト」の存在が理解できる。しかも順番が「神武→崇神」、すなわち「大和→日本」なので筋が通っており、天皇家が万世一系であることも演出できている。ただし厳密に言えば、神武王朝と崇神王朝は並立していたので、神武天皇が大和を統一したわけでないのはこれまで述べてきたとおりである。
コメント

崇神天皇(その5)

2017年01月16日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 四道将軍が任命されたのが即位10年9月9日であるが、その直後の9月27日、北陸担当に任命された大彦命の異母弟の武埴安彦と妻の吾田媛による反乱の説話が記紀に記載される。崇神天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)と大彦命、さらに和珥氏の祖先である彦国葺に命じて反乱軍を討たせた。この反乱は何を意味するのだろうか。武埴安彦は第8代孝元天皇の子であり、第9代開化天皇の異母弟である。また、妻の吾田媛の名から連想されるのは「阿多」であり「阿多隼人」である。阿多は天孫族、すなわち神武天皇の祖先が大陸から流れ着いた地であり、一族はその地の豪族である阿多隼人と融合した。これらのことから、この反乱は神武王朝の一族が崇神王朝に対して起こした反乱であると言えよう。したがって、開化の兄である大彦命がこの反乱の鎮圧に参加している点は創作であろうと考えられる。
 神武王朝一族による崇神王朝に対する反乱はこれだけではなく、垂仁天皇のときにも起こっている。天皇の后である狭穂姫の兄、狭穂彦王が謀反を企てた話が日本書紀および古事記に記載されている。兄の狭穂彦王が妹の狭穂姫をそそのかして天皇を殺害しようとしたが失敗に終わり、二人は死を共にしたという話であるが、この狭穂彦王は開化天皇の孫にあたる。
 この2つの話から想像を膨らませると、崇神天皇のときに農民が流浪し反乱を起こした話も神武王朝あるいはそれに近い集団による反乱であったのかもしれないし、そもそも四道将軍を派遣した話も神武王朝と同盟関係にある国による反乱の事実があったのかもしれない。いずれにしても神武王朝は開化天皇の後も崇神王朝に対して抵抗を続けていたことがわかる。しかし、このあとも崇神王朝の勢力は衰えることはなかった
コメント

崇神天皇(その4)

2017年01月15日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 崇神天皇の事跡をさらに追ってみるが、その前に前回の記事の最後の部分、大物主神の神託で「大田田根子に祀らせれば世の中が治まり、海外の国も降伏するだろう」という中の「海外の国」を狗奴国ではないかと書いたが、考え直すことにした。ここは素直に海外、すなわち朝鮮半島や大陸の国のことを指しているとしておきたい。では、崇神の事跡を続ける。

即位10年7月 遠国の教化のために四道将軍の派遣を決定した。
    9月 以下の通り、四道将軍を任命した。
        大彦命を北陸担当に任命。
        武渟川別を東海担当に任命。
        吉備津彦を西海担当に任命。
        丹波道主命を丹波担当に任命。

<考察>
北陸に派遣された大彦命は第8代孝元天皇の子で第9代開化天皇の兄である。東海に派遣された武渟川別は古事記によると大彦命の子である。 また、西道に派遣された吉備津彦(彦五十狭芹彦命)は第7代孝霊天皇の子で第8代孝元天皇の弟である。そして第9代開化天皇の子である彦坐王の子で、第11代垂仁天皇の后の日葉酢姫の父である丹波道主命がを丹波に派遣された。要するに四道将軍は4人ともいわゆる欠史八代の系譜に属する人物である。私は南九州の狗奴国から東征して奈良盆地南部で即位した神武天皇から第9代の開化天皇までを神武王朝と呼び、中国江南から渡来した集団に由来する王朝とし、第10代の崇神天皇から第14代仲哀天皇までを崇神王朝として出雲から大和に入って纏向に邪馬台国を建設した王朝であると考えている。そして両王朝は大和の地で並立していた時期があった。その前提で考えると、崇神天皇のときに敵対する神武王朝の人物を将軍に任命したということは考えにくいが、一方で私は将軍達の派遣先には意味があると考える。 

 まず北陸であるが、北陸は越の国とも呼ばれ、古代においては出雲が支配する地域であったと考える。四隅突出型墳丘墓の分布から、出雲の影響力が伯耆や越にまで及んでいたことがわかる。また、出雲の八千矛神(大国主神)が越の沼河比売を娶った話が古事記に記されているが、これも出雲と越の関係を表していると考えられる。このあたりは当ブログの「古代史(第一部)」の中で詳しく触れているので参照していただきたい(四隅突出型墳丘墓出雲と越など)。そして、出雲において大国主神と共に国造りを行った少彦名命が大国主神と袂を分かって大和の纏向にやってきて崇神王朝を成立させたことと合わせて考えると、崇神王朝と出雲は対立関係にあり、その出雲の支配域であった越も同様に崇神王朝から見ると敵国という位置付けであった。したがって、崇神は討伐の対象としたのだ。
 次に東海であるが、東海と言えばその中心地は尾張である。第一部で尾張氏について詳しく書いた(尾張氏考尾張氏と丹波尾張氏と大海氏)のでここでは結論だけにするが、東海地域の雄であった尾張氏はもとをたどれば神武東征の際に熊野で一行を救った高倉下であり、神武と共に大和に入って葛城に定住した。その後、丹後へ移り、さらには尾張に移って大きな勢力を持つに至った。よって東海の地も対立する神武王朝の息がかかった地域であったため、崇神はここにも侵攻しようとした。
 丹波はどうであろうか。神武が東征の最後に戦った饒速日命は自身が持っていた天羽羽矢と歩靫から神武と同じ天孫族であると認められて神武の配下に入った。その饒速日命の出身は丹後である。また、第9代開化天皇が丹波の竹野媛を妃とするなど、神武王朝と丹波(丹後)は強くつながっていた。丹波も崇神王朝の対立国であったのだ。
 最後に西海(吉備)であるが、ここは神武が東征の際に寄港して宮を置き、日本書紀では3年、古事記では8年の滞在期間で船の調達、食料の準備など兵站を整えたところであり、神武の同盟国と考えられる地域である。したがってここも崇神の敵国であったのだ。

以上のように崇神天皇が将軍を派遣しようとした北陸、東海、西海、丹波はすべて崇神の敵対国、あるいは敵対する神武王朝とつながる地域であったのだ。
コメント

崇神天皇(その3)

2017年01月07日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
前回に続いて崇神天皇の事績を順に見ていく。

即位7年2月  災いが続くので神浅茅原で八十万の神々を招いて占ったところ、大物主神が倭迹々日百襲姫命に憑いて「自分を祀れ」と言った。
          しかし、霊験がなかったので再度祈ると、大物主神が崇神の夢に登場し、大田田根子に「自分を祀らせれば世の中が治まり、海外の国も降伏するだろう」と言った。
即位7年8月  大田々根子に大物主を祀らせると疫病が止んだ。
          占いが吉と出たので伊香謎雄(物部連の先祖)を神班物者に任じた。
         ※神班物者(かみのものあかつひと)=神に捧げるものを分ける人
即位7年11月  伊香謎雄に平瓮を神祭の供物とさせた。
          大田田根子を大物主を祀る祭主とした。
          長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とした。
          占いが吉と出たので八十万神を祀り、天つ社、国つ社、神地、神戸を定めた。
          そして疫病が収まりようやく国が鎮まった。
即位7年12月  大田田根子に大物主神を祀らせた。
          高橋邑の活日(いくひ)が御酒を天皇に奉げた。
即位9年3月  墨坂神と大坂神に盾と矛を祀るよう神託を受けた(天皇の夢に神人が現れてお告げした)。
即位9年4月  神託にしたがって墨坂神と大坂神に盾と矛を祀った。

●考察
 魏志倭人伝では卑弥呼も台与も女王となっているが卑弥呼の紹介において「鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす」とあることから、その実態は王というよりも神託を司る巫女のような役割をもった女性であると考えられる。この神浅茅原の場面で大物主神が取り憑いてその神の言葉を発している倭迹々日百襲姫命の姿はまさに巫女そのものである。その大物主神の言葉に従ったところ、疫病が止んだという。さらに伊香謎雄を神班物者に、大田田根子を大物主を祀る祭主に、長尾市を倭大国魂神を祀る祭主に、それぞれ任じ、続いて八十万神を祀り、天つ社、国つ社、神地、神戸を定めたところ、疫病が収まりようやく国が鎮まったという。書紀の記述によれば、倭迹々日百襲姫命が大物主神の言葉を発したのは「自分を敬い祀れば自ずと国が収まる」という最初の場面のみであり、その後の崇神天皇の判断に対する倭迹々日百襲姫命の関与は読み取れないが、いずれも占いや夢のお告げ、神託による意思決定をであることは明らかであり、話の流れからするとそれを告げたのは倭迹々日百襲姫命であると考えて差し支えないだろう。つまり、崇神天皇は巫女である倭迹々日百襲姫命の神託によって国の混乱を収めることができた、ということだ。すでに見た通り、倭人伝には「卑弥呼の宗女である台与を王に立てたところ、国中が治まった」とある。私は倭迹々日百襲姫命が台与であると考えている。

 また、大物主神の神託に「大田田根子に自分を祀らせれば世の中が治まり、海外の国も降伏するだろう」というくだりがある。唐突に「海外」という言葉が出てきたが、海外の国とはどこを指すのであろうか。それは崇神天皇が治める国、すなわち倭国以外の国のことを指しており、それは狗奴国のことではないかだろうかと考えている。   
コメント

崇神天皇(その2)

2017年01月06日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
崇神天皇の事績を即位から順に見ていきたい。

即位3年9月 磯城の瑞籬宮へ都を移す
即位5年  国民が疫病で半分以上死亡
即位6年  農民の流浪や反逆が収まらなかった
即位6年  宮中で祀っていた天照大神と倭大国魂神の神勢を畏れて共に住むには不安だった
      ・豐鍬入姫命に天照大神を笠縫邑に祀らせた(同床共殿をやめた)
      ・日本大國魂神を渟名城入姫に祀らせたが髪が抜け体が痩せて祀れなかった

●考察
 日本書紀第九段一書(第二)によると、天照大神は天忍穂耳尊が降臨しようとする際に手に宝鏡を持って「わが子がこの宝鏡を見るのに、丁度私を見るようにすべきである。共に床を同じくし、部屋をひとつにして、つつしみ祀る鏡とせよ」と言い、三種の神器のひとつである八咫鏡を天照大神と思って宮中で祀る同床共殿を指示(神勅)した。一般的には初代の神武天皇から続いた同床共殿を崇神天皇が止めてしまったと解されているが、神武王朝と崇神王朝は別の王朝であったと考える私は、崇神天皇が即位時点で同床共殿を行っていたことの意味を次のように理解したい。 
 崇神天皇は初期の時点においては、狗奴国王である神武天皇の祖先の天照大神と、倭国の神と考えられる倭大国魂神をともに自身の宮中で祀っていた。ということは崇神天皇が狗奴国の祖先神である天照大神を受け入れたことを表し、対立から和解へという両国関係の変化を読み取ることができる。しかし崇神天皇はその天照大神を宮中から追い出した。これは疫病などによる混乱が収まらないのは敵国の祖先神のせいと考えてそのことの責任を取らせたと考えられないだろうか。またその一方で、倭大国魂神の祭主として新しく渟名城入姫を任命して自らの宮中にて祀ろうとした。これは崇神天皇が王としてあらためて自身の力を示そうとしたのだ。しかし結果はうまく行かなかった。結局、狗奴国政権である神武王朝と倭国(邪馬台国)政権である崇神王朝は1つにまとまることができなかった。

 また、この事実は考えようによっては崇神天皇は統治能力に欠けることを表していると見ることもできる。崇神の政治スタイルはとにかく神頼みである。このあとにも神託や夢のお告げに頼った判断が続く。そもそも神頼みの政治でありながら、敵国の神である天照大神はもとより、自国の神である倭大国魂神ですらきちんと祀ることができなかった。要するに、できの悪い天皇であったと言えるのではないか。

 そして、魏志倭人伝には「卑弥呼の死後に男王が立ったが国中が服さずに戦いが続いて千余人を殺した」と記されており、この記事はこのときの混乱の様子を表しているのではないだろうか。男王が崇神天皇を指し、国中が服さずに戦いが続いたというのは疫病や農民の流浪、反乱を意味していると考えたい。そして倭人伝には続いて「卑弥呼の宗女である台与を王に立てたところ国中が治まった」とある。この混乱を収めたのが台与であるということだ。
コメント

崇神天皇(その1)

2017年01月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 「古代日本国成立の物語」の第一部は2016年末をもって終了としましたが、この第一部は毎日1つの記事を投稿することにこだわって物語を紡いできました。結果、連載モノとして読んでいただくことができたのではないかと思っています。そして新しい年の始まりとともに第二部を開始しようと思うのですが、第二部については、材料が整っていない状態、料理が出来上がっていない生煮えの状態、検証が十分にできていない思いつきレベルの状態、ストーリーがつながっていない断片状態、であっても随時アップしていこうと考えています。第一部のような連載モノにならないと思いますが、時々訪ねていただけるとありがたいです。

 第二部は日本書紀をもとに崇神天皇を考える所から始めようと思います。まず、崇神天皇の事績に関連のある第7代孝霊天皇に遡って確認作業をしてみます。

■孝霊天皇
 后…細姫命
 子…孝元天皇

 妃…倭国香媛
 ※古事記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命
 子…倭迹々日百襲姫命、彦五十狹芹彦命(別名を吉備津彦命)、倭迹々稚屋姫命

■孝元天皇
 后…欝色謎命(穂積臣の先祖である欝色雄命の妹)
 子…大彦命、開化天皇、倭迹々姫命

 妃…伊香色謎命(物部氏の先祖である大綜麻杵命の娘) 
 ※先代旧事本紀では大綜麻杵命と高屋阿波良姫の子で弟に伊香色雄命がいる
 子…彦太忍信命(武内宿禰の祖父)

■開化天皇
  母…欝色謎命
  后…伊香色謎命 → 父親の妃を自分の后にした
  子…崇神天皇(第二子)

  妃…丹波竹野媛
  子…彦湯産隅命(第一子) 

■崇神天皇
  母…伊香色謎命
  后…御間城姫
  子…活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)、彦五十狭茅命、国方姫命、千千衝倭姫命、倭彦命、五十日鶴彦命

  妃…遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国の荒河戸畔の娘)
  子…豊城入彦命、豊鍬入姫命、

  妃…尾張大海媛
  子…八坂入彦命、淳名城入姫命、十市瓊入姫命

●考察
 第10代崇神天皇は第9代開化天皇とその后である伊香色謎命の間にできた子である。したがって第二子でありながら皇位継承権をもった嫡男である。このことは問題ないのだろうが、この開化天皇の「后」である伊香色謎命は、自分の父親である第8代孝元天皇の「妃」である。つまり、父親の相手を皇后として娶ったことになる。私はここに不自然さを感じるのだ。つまり、神武天皇の系譜にある欠史八代に崇神天皇を無理やり繋げるための作為ではないかと考えるのだ。本来、皇位を継ぐ地位にあったのは開化天皇の第一子である丹波竹野媛との間にできた彦湯産隅命ではなかったのか。さらにこのことは神武王朝と丹後王国のつながりを示唆してくれている
コメント