古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

継体天皇⑧(越前における伝承2)

2020年02月25日 | 継体天皇
 継体天皇にまつわる越前における数々の伝承について、その信憑性について調べてみることにした。ネットを検索しまくったところ、2つの情報を得ることができたので紹介したい。

 ひとつめは「一乗学アカデミー 歩けお老爺 (archaeology=考古学) の備忘録」というブログにある「味真野の継体伝説(世阿弥、足羽敬明の功罪)」という記事。ここには私と同様の疑問を抱いたブログ作者の考えが掲載されているので、少し長くなるが一部をここに引用させていただく。

ここでは継体天皇が越前市味真野に潜龍していたという歴史事実でもない伝承が、まことしやかに地元に根付いていることについて、探ってみたい。
①越前国“現在の味真野地域”は、奈良時代から罪ある中央貴族の配流(近流)の地に定められていた。

②桑田忠親氏は、「世阿弥は、永享6年(1434)72歳の高齢で若狭小浜から佐渡へ配流された。『金島集』には、5月4日、都を出て、次日若州小浜といふ泊りにつきぬ。こゝは先年も見たりし所なれども、(中略)身のわかさ路と見えしものを、いまは老の後瀬山、(後略)とあり、若き日の思い出のある小浜港から罪人として舟出した。
また、赦されて帰洛する際も舟路を利用したが、一説によると、白山禅定を試みたともいう。しかし、70数歳の老体のことだから、登山したとも思われない」(桑田忠親『世阿弥と利休』改訂増補版 至文堂 昭和53年5月20日)と述べられている。
世阿弥元清は、『日本書紀』の継体天皇記事をテーマにした恋慕の狂乱物の謡曲「花筐(はながたみ)」を創作しており、越前市には能面製作の府中出目家もあるので、帰路、味真野に立ち寄ったかもしれない。
『花筐』は「これは越前の国味真野と申す所御座候。大迹邊(おほあとべ)の皇子に仕へ申す者・・・・」から始まり、「照日の前と申す御方、このほど御暇にて御里に御座候・・・・」と展開していく。
大迹邊の皇子が越前に御滞留中、寵愛を受けていた照日の前(日本書記では不詳)が都へ狂い出で、紅葉の御幸の御前で真情を認められるという筋である。
“歩けお老爺”は「世阿弥は、万葉集に詠われた貴種配流地味真野を舞台に、『日本書紀』の継体天皇を題材にして、謡曲『花筐』を新作した」と考えている。

③佐久高士氏は「武生市味真野地方は皇子の居住地と伝え、同地区一体(帯)には、皇子に関する史蹟として、各種各様の標柱が建てられているが、怪しいものばかりである。皇子に関していろいろの伝説の元を作った人は、足羽敬明(もりあき)という近世中期に生まれた足羽神社の神主である。この人は『足羽社記略』という書物を書いて、越前の産業・神社・山嶽・用水・郷荘等、総てを男大迹皇子とその皇子皇女とに結びつけて、越前一国が全く皇子一家の創造物であることを思わせ、その皇子を祀ってある足羽神社への祟敬の念を高しめようと計ったのである」(郷土史物語『福井の歴史』世界書院 昭和42年4月10日)と、「足羽社記略」の功罪について言及され、
杉原丈夫氏も「足羽神社の神主牧田(足羽)敬明が享保2年(1717)に著作した『足羽社記略』は、『越前国名蹟考』をはじめ郷土の地誌に引用され、それがさらに明治以降郡誌や町村誌に転載されて、彼のでたらめな考証が、無批判的に郷土の人々に信じられるという結果になっている。その罪軽からずといわねばならない。故に本叢書ではこの書を、地誌そのものの価値によってではなく、安易な考証に対する批判資料として収載した」(『越前若狭地誌叢書』続巻。松見文庫 昭和52年7月)と、「足羽社記略」の解題で述べている。

 以上のことから、味真野地区には多くの継体伝説が色濃く根づくことになったのである。
 (引用おわり)

 この記事によると、世阿弥の著した「花筐」と、足羽神社の神官である足羽敬明の著した「足羽社記略」によって継体にまつわる伝承が生まれて定着していったということである。「花筐」についてはあらすじを確認したが「足羽社記略」については確認できなかった。しかし、「一乗学アカデミー」の記事はおおむね納得することができた。

 継体にまつわる伝承は大きく分けるとふたつある。ひとつは越前平野の治水とその後の産業奨励に関する伝承、もうひとつは継体が過ごしたとされる味真野地区に残る伝承である。ふたつめの味真野伝承については「一乗学アカデミー」の記事の通りだろうと思うのだが、実は治水伝承について腑に落ちないことがあって、さらに調べてみることにした。

 「『福井県史』通史編1 原始・古代」によると、継体天皇進出のエネルギー源として、少なくとも四つの要素を考えることができるとして、その第一の要素に米を主体とする農業を挙げている。以下に引用する。

越前における継体天皇伝説は非常に多いが、その大部分は治水に結びついたものである。そのすべてを荒唐無稽と退けることは、かえって歴史の実情から遠ざかることになるであろう。それは五世紀末ごろにおける九頭竜川水系における農業の発展を反映するものではなかったか。技術革新が進行すると、元来肥沃な越前平野の生産力は飛躍的に増大していったに違いない。

表9 『弘仁式』『延喜式』にみえる公出挙稲

注1 『弘仁式』主税上は断簡による前欠のため、畿内・東海道の諸国および近江国
  の数値は不明である。したがってそれら以外の確認できる国を多い順に列挙した。
注2 『延喜式』の越前国は1,028,000束、加賀国は 686,000束である。

表9に示すのは、『弘仁式』ならびに『延喜式』主税上に記されている公出挙稲の数値である。もとより米の総収穫量を示すものではないが、まったく無関係とも考えられない。『弘仁式』において越前(加賀を含む)の出挙稲数値は、陸奥・肥後・上野についで全国第四位である。『延喜式』においては越前・加賀に分かれているが、もしこれを合算するならば全国第二位となる。これらは平安時代の史料であるが、六世紀ごろの実情をまったく反映していないとも考えられない。陸奥・肥後などはおそらく律令制以後の発展が顕著であろうから、古墳時代後期ごろには越前の米生産力が全国一であった可能性さえ否定しえないのである。
(引用おわり)

 文中にも書かれているが、ここに示された弘仁式は9世紀初めに制定されたものであるから継体天皇の時代から約300年後ということになる。また、弘仁式における越前には加賀を含んでいるため、延喜式にある越前と加賀の比率を適用して弘仁式での越前分を算出すると約657,000束となり、取り立てて大きな数字にはならない。さらにはこの表には畿内・東海道諸国・近江が含まれていない。この3点を考慮したときに「古墳時代後期ごろには越前の米生産力が全国一であった可能性さえ否定しえない」とまで言えるだろうか。
 弥生時代から古墳時代に入って有力な豪族が自らの勢力地の統治体制を確立していく過程で、治水や開墾など地域開発の事業が行われたことは事実であろうし、その結果として米の生産量がアップしたことも事実だろう。しかし、越前が全国一の生産力であった可能性にまで言及するのは少し飛躍が過ぎるように思う。

 ただ、各地の有力豪族が自国の開発を進めていたころ、越前には男大迹王が暮らしていた。越前平野の開発に男大迹王が関与していたことを否定する史料は何もないが、一方で男大迹王による事績であることを裏付ける史料はあるのだろうか。『福井市史 通史編』には足羽神社など地元の神社の神社明細帳に治水伝承の記載があるとしているが、神社明細帳は明治時代になってから社格を決めるために作成されたものであるので、伝承を裏付ける史料とはなり得ない。

 一般社団法人・農業農村整備情報総合センターによる「水土の礎」というサイトにある「千年の悲願 九頭竜川の用水」には「『続日本記』では、古代、この平野は大きな湖でしたが、継体天皇が三国の岩山を切り裂いて湖の水を海へ流すことにより田畑を開いたとあります。」と記されている。しかし「続日本紀」にはそのような記述が見当たらない。記述がないのにどうしてこのように書かれているのだろうか。
 ここでも登場するのが「足羽社記略」を著した足羽敬明である。彼は「続日本紀故事考」という書も著している。この書も内容を確認することはかなわないが、「千年の悲願 九頭竜川の用水」に書かれている内容は「続日本紀」ではなく「続日本紀故事考」のことを指しているのではないだろうか。足羽敬明はこの書でもあることないことを書き連ねたことが想定される。継体天皇を祭神として足羽神社の格をあげるために「足羽社記略」や「続日本紀故事考」を著し、継体天皇を越前の英雄として描いたのではないだろうか。これが地元に定着、あるいは他の地域にも広がっていき、いつしか事実のように語られるようになった。

 とは言え、火のないところに煙は立たないので、越前の発展に男大迹王の貢献はあったのだろうと思うが、それにしてもこれだけの事業を男大迹王の力だけで成し遂げることができたのだろうか。第一に必要となるのが資本力である。ほかに技術力と労働力(動員力)、加えて道具類の生産・調達力なども必要となる。幼少期に近江から越前に移った男大迹王は誰かのバックアップなしにはこの事業をなしえなかったはずだ。おそらく母の出自である江沼氏あるいは三尾氏・三国氏ということになろう。なかでも最も有力であった三国氏によるところが大きかったのではないだろうか。

 男大迹王は三国氏の協力なしには越前を治めることが叶わなかった。そして、継体天皇としての即位は三国氏の存在抜きには語ることができなかった。これが三国氏が八色の姓で「真人」を与えられた最大の理由ではないだろうか。
 武烈天皇が崩御して皇位継承者が不在となったとき、大連の大伴金村、物部麁鹿火、大臣の許勢男人の3人が次の天皇を決めるとき、「男大迹王は慈しみや仁愛があって孝順だ。皇位を引き継ぐべきだ。願わくば、ねんごろに進めて帝業を受け継ぎ、国を盛んにしていこう」「傍系の中から吟味して選ぶに、賢者はただ男大迹王だけだ」 と話し合った。男大迹王は三国氏の力をバックに越前を治め、様々な施策によって大いに発展させた。この実績が中央まで聞こえていたのであろう。


 3月の近江・越前への実地踏査ツアーの事前学習として即位前までの継体天皇について学んできましたが、いったんここまでとします。ツアーの報告はあらためてこの場で。







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継体天皇⑦(越前における伝承1)

2020年02月23日 | 継体天皇
 幼い時に父を亡くし、母とともに母の実家のある越前の高向に移った男大迹王はその地で成長し、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かな成人になった。そして男大迹王が57歳の時に武烈天皇が崩御し、少しばかりの紆余曲折があった後、翌507年に58歳となった男大迹王は第26代継体天皇として河内国樟葉宮で即位した。即位後の事績はあらためて考察するとして、ここでは男大迹王として越前を治めていたときのことについて考えてみたい。
 幼年で越前に移り58歳で即位したということは越前で過ごした時間はなんと50年以上に及ぶということになる。ただし、古事記ではその崩御の歳を43歳としているので、その年齢に大きなズレがあるが、ここでは書紀の記述に従っておきたい。

 今から10年と少し前の西暦2007年(平成19年)、福井県や滋賀県では継体即位1500年を祝う様々なイベントが開催された。そして継体天皇にまつわる様々な伝承が一般に知られるようになった。とくに越前における男大迹王の為政者としての主な伝承は次のようなものがある。

・当時の越前国は沼地同然で、居住や農耕に適さない土地あったので、まず足羽山に社殿(現在の足羽神社)を建て、大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀ってこの地の守護神とした。
・大規模な治水事業を行い、九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造って湿原の干拓に成功した。この結果、越前平野は実り豊かな土地となって人々が定住できるようになった。
・三国に港を開いて水運を発展させ、稲作、養蚕、採石、製紙、製鉄などを奨励し、様々な産業を発展させる基礎を作った。これによって男大迹王は「越前開闢の御祖神(みおやがみ)」と称えられるようになった。
・即位のために越前の国を離れる際に「末永く此の国の守神に成らん」と自らの生霊を足羽神社に鎮めて馬來田皇女を斎主として後を託した。これによって足羽神社では継体天皇が主祭神として祀られている。


これらのほかにも次のような伝承が様々なサイトで紹介されている。

・男大迹王が河和田の郷へ視察した際に冠を壊してしまった。片山村の漆塗り職人がこれを修理して「三つ汲み椀」を添えて献上したところ、大変喜んで「片山椀」と命名して産業として奨励し、これが今日の越前漆器に発展した。
・足羽山の笏谷石は越前青石とも呼ばれ、男大迹王が産業として奨励した伝承に基づき、近年まで足羽山で採掘されてきた。足羽山には笏谷石採掘に携わった人々により王の遺徳を讃えるために造られた石像が立てられている。
・男大迹皇子は古代製鉄技術を駆使して鉄製農具や今までにない鉄製道具を量産し、それを使って農業振興や治水事業を推進した。
・鯖江市上河内町の山中に自立するエドヒガンの古木は男大迹王が如来谷と呼ばれる山中に植えた薄墨桜の孫桜と伝わる。
・男大迹王が上京する際に、岡太神社の桜を形見とするよう言い残したが、上京後は花の色が次第に薄黒くなり、いつの頃ともなく薄墨桜と呼ばれるようになった。
・男大迹王の娘である茨田姫が住んでいたとされる場所が尾花町に残っている。尾花の裏山の「天王」というところから石室が見つかり、土器や刀剣、勾玉が出としたことから、茨田姫の墳墓だと伝えられている。
・男大迹王が味真野に住んでいた頃、九頭竜・足羽・日野の三川を開く治水事業を行った際に建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀して岡太神社を創建した。
・男大迹王が味真野郷に住んでいた頃、当地の守りとして刀那坂の峠に木戸をもうけ、守護神として「建御雷之男命」を祀った神社を建てた。これが刀那神社の始まりである。
・男大迹王が味真野に住んでいた頃、学問所を建てて勉強をしていた。地名も文室と呼ばれ、ここに宮殿を建て応神天皇から男大迹王の父、彦主人王までの五皇を祀ったのが五皇神社である。
・勾の里は第1皇子である勾大兄皇子(第27代安閑天皇)の誕生の地で、男大迹王が月見の時に腰を掛けた月見の石が残されている。すぐ近くの桧隈の里は第2皇子の桧隈皇子(第28代宣化天皇)の生誕地と伝えられる。
・花筐公園の一角にある皇子ケ池は勾大兄皇子と桧隈皇子がこの地で誕生した時に産湯に使った池と伝えられる。


 実はこれらの伝承は記紀や上宮記一云には全く記されていない。継体天皇を学びながらこれらの伝承に触れることになったのだが、これらを裏付ける史料がどこにも提示されていないので少し調べてみることにした。伝承の個々の内容はともかくとして、これだけ多くの伝承がこの地区に残ることになったのはどうしてだろうか。特にこの味真野の狭い地域に伝承が密集しているのはいかにも不自然だ。そう思って調べてみることにした。






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継体天皇⑥(継体天皇の父系系譜2)

2020年02月15日 | 継体天皇
 継体の父方は息長氏の後裔であり、継体の曾祖父であり応神天皇の孫である意富富等王まで近江国坂田郡を本拠地としていた可能性が高いことがわかった。継体の母方の三国氏がそうであったように、父方の息長氏も天武天皇が制定した八色の姓において「真人」の姓を与えられた氏族である。三国氏、息長氏ともに意富富等王を先祖とするが、古事記が記す同祖の氏族としてほかに波多君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君があるが、このうち坂田酒人氏(あるいは坂田氏と酒人氏)、山道氏が「真人」を与えられている。

 さて、息長氏の本拠地である琵琶湖東岸の湖北地方には多数の古墳がある。長浜市と米原市にまたがる横山丘陵の北端周辺に位置する長浜古墳群と南端周辺に位置する息長古墳群について「息長氏の考察③」で詳しく見てみたが、ここであらためて確認しておきたい。

 長浜古墳群には長浜茶臼山古墳をはじめとする数十基の古墳があり、古墳群の最盛期は5世紀と考えられている。丘陵北端に築かれた長浜茶臼山古墳は全長92mの前方後円墳で築造時期は4世紀後半とも5世紀前葉とも言われる。また、丘陵の西側1キロほどのところにある丸岡塚古墳は前方部がすでに失われているが全長が130mに復元しうることが明らかになった湖北最大の前方後円墳で5世紀中頃の築造とされる。丘陵東麓には第30代敏達天皇の皇后である息長広媛の陵墓として宮内庁が管理する村居田古墳がある。墳丘の多くが失われているために墳形や規模に諸説あるが、全長100mを超える前方後円墳で5世紀中葉から後半の築造と考えられる。さらに丘陵西麓には応神天皇の皇子である稚野毛二派皇子の墓とされる全長50数m、5世紀後半の前方後方墳とされる垣籠古墳がある。
 このように長浜古墳群では少なくとも5世紀の100年間に数十mから100mを超える規模の前方後円墳あるいは前方後方墳が継続的に築造されている。

 次に横山丘陵の南側に位置する息長古墳群を見てみる。こちらは長浜古墳群が最盛期を終えたあとの6世紀に入ってから最盛期を迎える。丘陵南西端の北陸自動車道沿いに位置する後別当古墳は全長が50m余りの帆立貝型の前方後円墳で5世紀後半の築造とされる。そこから真南に500mのところにある全長40m余りの塚の越古墳は、5世紀末から6世紀初頭の築造とされる前方後円墳である。盗掘を受けているが、鏡1面、金銅製装身具の残片をはじめ、馬具、金環、ガラス製勾玉、管玉、丸玉、切子玉など豪華な副葬品が確認されている。その塚の越古墳の東、丘陵南端の山津照神社境内にある山津照神社古墳は全長63mの前方後円墳で6世紀中葉の築造とされる。明治時代の社殿移設に際する参道拡幅工事で横穴式石室が発見され、3面の鏡のほか、金銅製冠の破片、馬具、鉄刀・鉄剣の残欠、水晶製三輪玉など、塚の越古墳とよく似た副葬品が見つかった。被葬者は息長宿禰王との言い伝えがある。また、山津照神社由緒には「当地に在住の息長氏の崇敬殊に厚く、神功皇后は朝鮮に進出の時祈願され、帰還の際にも奉賽の祭儀をされて朝鮮国王所持の鉞(まさかり)を奉納されました。これは今もなお当社の貴重な宝物として保管してあります」とある。そして後別当古墳の北西、丘陵の南西端の縁にある人塚山古墳は全長58mの前方後円墳で6世紀後半の築造と考えられる。
 以上の通り、息長古墳群では長浜古墳群が最盛期を終えたあとの5世紀後半から6世紀後半の100年間にわたり、数十m規模の前方後円墳が継続的に築かれている。ふたつの古墳群の盛衰から、5世紀に姉川流域を中心に栄えて長浜古墳群を築いた勢力と、6世紀に入って天野川流域で栄えて息長古墳群を築いた勢力があったと考えられる。息長古墳群については、息長の地名や山津照神社に残る由緒・伝承なども併せて考えると息長氏の墓域と考えて差し支えないと思うが、そうすると長浜古墳群はもう一方の坂田氏(あるいは坂田酒人氏)ということになるのだろうか。

 なお、塚の越古墳や山津照神社古墳の副葬品として出土した金銅製装身具や馬具などの存在はこの地域の首長が朝鮮半島と交流していたことを示すものと考えられている。また、これらは湖西地方の高島市にある6世紀前半の築造と考えられる前方後円墳である鴨稲荷山古墳の副葬品とも似ている。その副葬品とは、金銅製の広帯二山式冠と沓、金製耳飾り、捩じり環頭大刀・三葉文楕円形杏葉など大変豪華なものであった。
 この鴨稲荷山古墳は、継体天皇の父である彦主人王の別業があった三尾の地と考えられる安曇川町三尾里や水尾神社に極めて近い所にある。古墳のある場所、その築造時期、豪華な副葬品などから、その被葬者を三尾氏の首長とする説が有力であるが、継体天皇の皇子である大郎皇子(大郎子)を充てる説もある。

 応神天皇の治世が4世紀後半から5世紀前半と考えると、その子である稚野毛二派皇子や孫の意富富等王あたりまでは5世紀の人物となる。そうするとこの二人は5世紀に栄えた長浜古墳群に葬られていると考えることもできる。現に5世紀後半の垣籠古墳は稚野毛二派皇子の墓と伝えられているのだ。
 そして応神三世孫の乎非王や四世孫、つまり継体の父である彦主人王は5世紀後半から6世紀にかけての人物ということが言えるから、その墓を息長古墳群に求めることが可能となる。ただし、彦主人王は湖西の高嶋郡で亡くなっているので、その地に葬られている可能性が高いだろう。滋賀県高島市安曇川町田中に全長70mの帆立貝式古墳で5世紀後半の築造と推定される田中王塚古墳がある。被葬者は彦主人王であるという伝承により「安曇陵墓参考地」として宮内庁が管理している。







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継体天皇⑤(継体天皇の父系系譜1)

2020年02月13日 | 継体天皇
 継体天皇の母である振媛の母方は加賀の江沼氏であるが、一方の父方は、垂仁天皇の系譜にある三尾氏で、その三尾氏は近江を本拠地としていたが、あるときに一部が越前、能登へと移動し、やがて越前の三尾氏が三国氏を名乗るようになった。これが現時点で私がたどり着いた仮説です。

 さて、次に継体天皇の父方、つまり彦主人王の系譜について詳しく見てみたい。彦主人王は近江国の高嶋郡にいて振媛を迎え入れたのだが、継体が生まれて間もなく亡くなり、幼い継体は母とともにその故郷である越前国坂井郡に移ることになった。彦主人王は近江で生まれて近江で育ったのだろうか。彦主人王の父である乎非王や祖父の大郎子(意富富等王)はどこを拠点にしていたのだろうか。
 手がかりはこの意富富等王にある。この人物は古事記の応神天皇段によると、意富富等王は三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君の祖になっている(三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君とする説もある)。「継体天皇②」ではここに三国、息長、坂田の名があることに留意されると書いたが、これによって継体天皇は息長氏や坂田氏と同じ先祖をもつ同祖関係にあることがわかる。

 近江国高嶋郡とは琵琶湖を挟んだ反対側に近江国坂田郡がある。現在の米原市を中心に北は長浜市の一部、南には彦根市の一部を含む地域であるが、この坂田郡の天野川下流域に坂田と息長という地名がある。息長氏がここを拠点にしていたことは「息長氏の考察①」「息長氏の考察②」「息長氏の考察③」で書いたとおりであるが、坂田氏も同様に坂田郡が本拠地であったと考えていいだろう。この息長氏と坂田氏はいずれも継体に妃を出している。息長真手王の娘、麻積郎子と坂田大跨王の娘の広媛である。両氏は継体と同祖関係にあるだけでなく、いずれも外戚として継体を支える存在であった。

 息長氏、坂田氏がいずれも坂田郡を拠点としていたとすれば、その先祖である意富富等王もこの坂田郡あたりにいた可能性がある。書紀の允恭紀によると、允恭天皇の后である忍坂大中姫には弟姫(衣通郎姫)という妹がいた。天皇はこの妹を気に入って妃にしようとしたが、彼女は姉に気を遣ってこれを拒否し続けた。このとき弟姫は母に従って近江坂田にいた。天皇は使者を遣わして説得にあたらせ、ようやく7日目にして入内を決意することになったという。この忍坂大中姫と弟姫(衣通郎姫)の姉妹はいずれも意富富等王の妹にあたる。弟姫が従っていた母は意富富等王の母でもあり、その母は近江坂田の出身である可能性が高い。そうすると子である意富富等王も同様に坂田を拠点にしていたことが想定される。

以下に、古事記をもとに意富富等王の系譜を整理してみる。



 これによると、意富々杼王(意富富等王)の父である若野毛二俣王(稚野毛二派皇子)は応神天皇と息長真若中比売の間にできた子であることがわかる。その息長真若中比売の父が杙俣長日子王で、これは先に見た上宮記一云に記された系譜と一致する。杙俣長日子王をさらに遡ると再び息長の名が見える。倭建命(日本武尊)の子、息長田別王である。つまり、若野毛二俣王の母方が息長氏であることがわかる。
 一方、若野毛二俣王の父である応神天皇であるが、言わずと知れた息長帯比売命、つまり神功皇后の子である。さらに神功皇后の父は息長宿禰王である。つまり、若野毛二俣王は父方も息長氏ということになる。
 このように古事記の系譜を見る限り、継体天皇の父方は息長氏の後裔ということがわかる。ただし、これらの系譜がどこまで信用できるのかは何とも言えない。たとえば、日本武尊から出ている息長氏の系譜は書紀には記されない。

 允恭紀にある衣通郎姫(そとおしのいらつめ)の説話や古事記および上宮記一云の系譜に一定の信頼をおくのであれば、継体の父方は少なくとも意富富等王までは近江国坂田郡を拠点にしていた可能性が高いと言えよう。






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継体天皇④(継体天皇の母系系譜2)

2020年02月11日 | 継体天皇
 継体天皇の母、振媛の父方は三尾氏の後裔であり、その三尾氏は近江の高嶋郡を拠点とするが、越前、能登へと移動した一派がいた可能性がある。また、振媛の母方は加賀の江沼郡を拠点とする余奴臣(江沼氏)である。このことから振媛は、越前国坂井郡にやってきた三尾氏と加賀国江沼郡の江沼氏との間にできた娘と考えることができ、彼女の故郷が越前国坂井郡の高向であることとも符合する。

 さて、三尾氏が三国氏と近しい関係、あるいは同族関係という説があることを先に紹介したが、その三国氏についても考えておく必要があるだろう。というのも、三国氏あるいは三国は継体天皇や振媛の出自を見ていく中で何度も登場するので、そこに何らかの関係性がありそうなのだ。記紀及び上宮記には継体天皇に関連する「三国」が次のように記載される。

①彦主人王は振媛を召し入れるために越前国三国の坂中井へ使者を派遣した。(書紀・上宮記)
②彦主人王の薨去後、振媛は「親族のいないところにいて独りで皇子を育てるのは難しい。先祖の三国命のいる高向村に下がります」と言った。(上宮記)
③大伴の金村らは男大迹王に皇位を継承してもらうために臣や連たちを派遣して三国に迎えに行かせた。(書紀)
④彦主人王の祖父である大郎子(意富富杼王)は、三国君・息長君・坂田君などの祖であった。(古事記)
⑤三尾君堅楲(かたひ)の娘である倭媛が継体の妃になって生んだ椀子皇子(まろこのみこ)は三国公の祖となっている。(書紀)

 ここには5つの「三国」が登場しているが①および③は地名である。①について、越前国坂中井は坂井郡を指すと考えるが、三国という地名が越前国のうしろで坂中井よりも前にあるので、越前国よりも狭くて坂井郡よりも広い地域を指している。一般的に三国の名がつく地名は、三国山、三国岳、三国峠、三国ヶ丘など現在でも残っており、これらは三つの国の境界にある山や峠を意味している。越前の三国も三つの国を総称した地名であると素直に考えるのがいいだろうが、ここでいう国は律令制における国ではなく、範囲としては郡に相当すると考えるのが妥当であろう。
 律令制における郡で該当しそうなところは、越前国においては坂井郡とそのすぐ南にある足羽郡、そして3つ目として西側の丹生郡や東の大野郡が考えられるが、3つ目はそのいずれでもなく、加賀国の江沼郡が妥当ではないだろうか。加賀国は分国前は越前国の一部であり、江沼郡は振媛の母方の出身氏族である余奴臣(江沼氏)の拠点で、坂井郡の北で境界を接していたことは先に書いたとおりである。そして、③の三国についても①と同じ地域と考えて問題ないであろう。

 あとの3つの「三国」は人名あるいは氏族名であるが、先に見た三尾氏がそうであったように氏族名と地名は密接な関係にあることが多く、この場合も①や③にある地名の三国(おそらく越前国坂井郡を中心とする一帯)との関連性が強いことが想定される。つまり、三国を本拠地にしたのが三国氏であるということだ。②の三国命については振媛の祖先の中に三国を名乗る人物がいたことになるが、その場合であっても地名に由来している可能性が高いだろう。
 「福井県史 通史編1 原始・古代」には「上宮記には『命』のついた人名が三国命以外に三例あり、いずれも継体天皇の直系尊属の女性ばかりである。上宮記の母系を三尾氏の系譜とみれば、三国命は振媛の母である阿那余比弥(あなにひめ)をさしている可能性が強い」とある。
 福井県史はさらに「振媛の直系尊属のなかに三国命と名のる人物がいたことは確実であり、これは三尾と三国の同族説に重要な論拠を与えるものである。三国氏と三尾氏を同族とすれば、三尾氏からは継体天皇に二人の妃を出しているし、また継体天皇の母振媛も三尾氏出身と考えられるので、三国・三尾氏の同族関係を矛盾なく理解することができる」と続ける。
 この「三国命は振媛の母である阿那余比弥をさしている」という説はどうであろう。上宮記一云において阿那余比弥は余奴臣(江沼氏)の祖となっているので三国氏と関係があるとは考えにくい。三国命は三国氏と関係がなく、あくまで地名の三国からの名であるということだろう。

 三尾氏は継体天皇に二人の妃を出しているが、その一人が⑤にある三尾君堅楲の娘である倭媛である。子の椀子皇子は三国公の祖となっていることから三国氏の母方が三尾氏ということになる。もうひとりの三尾氏の妃は三尾角折君の妹である稚子媛である。古事記では「三尾君等の祖、若比売」と記され、継体の后妃の筆頭に挙げられる。継体天皇は母の振媛を通じて三尾氏とつながっているだけでなく、自らも三尾氏と関係を結んだ。その三尾氏は三国氏と同族あるいはかなり近しい関係にあったことがわかる。
 また、わずかではあるが継体自身も三国氏とつながっている。④によると三国氏は継体の曾祖父である大郎子(意富富杼王)を祖とすることから、三国氏と継体は遠い親戚ということになる。

 684年、天武天皇は皇親政治による新しい国家体制を作り上げる政策の一環として八色の姓を定めた。具体的には、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八つの姓である。特に真人・朝臣・宿禰・忌寸の四姓については、旧来の臣・連の中から天皇家と関係の深い氏族を対象にこれらの姓を与え、新しい身分秩序によって皇族の地位を高めようとした。上級官人と下級官人の家柄を明確にするとともに、中央貴族と地方豪族とを区別する意味合いもあった。

 そしてこのとき最上位の真人姓が与えられたのは、守山公・路公(みちのきみ)・高橋公・三国公・当麻公・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たぢひのきみ)・猪名公(いなのきみ)・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公の13氏であった。記紀や新撰姓氏録によると、そのほとんどが応神天皇あるいは継体天皇の系譜につながる氏族であることがわかる。三国・息長・坂田・酒人・山道・羽田の各氏が意富富杼王を祖とすることが古事記に記されていることは先に見た通りである。継体天皇から系譜をつなぐ天武天皇の目論んだ皇親政治の中核をなすのが真人姓を与えられた13氏であり、三国氏もその一翼を担うこととなった。

 さて、継体天皇とつながる三国氏が真人姓を与えられたことは理解できるとしても、ここに三尾氏が入っていないことが気になる。天武天皇の時にはすでに没落していたのであろうか。彦主人王の時代から200年以上の年月を経ているためにその可能性は否定できないが、そこからさらに20年ほどを経た8世紀初めに編纂された記紀に垂仁天皇の子である磐衝別命が三尾氏の先祖であるとわざわざ注記していることをどのように考えるか。検証する術がないが、三尾氏が三国氏に改姓した、あるいは三尾氏から出た三国氏が本家を吸収したなどの理由で三尾の名が消えたものの、真人の姓を賜るほどの名家である三国氏の本宗家が三尾氏であったことは記紀編纂の時点でも周知のことであり、その三尾氏から二人の女性が継体の妃となっている。三国氏の要請によるものなのか、それとも天武自らの指示によるものなのか、誰かの意向でそのことが書き記されることになった、と考えるのはどうだろうか。











継体天皇③(継体天皇の母系系譜1)

2020年02月09日 | 継体天皇
 次に継体の母方、すなわち振媛の系図を少し詳しく見てみると、冒頭の伊久牟尼利比古大王(いくむねりひこのおおきみ)は活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらのみこと)、すなわち第11代垂仁天皇であるとされ、その七世孫として布利比弥命の名が見え、これは振媛を指すであろうから、書紀の「振媛は活目天皇の七世孫である」という記述に合致する。
 さらに、伊久牟尼利比古大王に続く伊波都久和希は書紀垂仁紀に見える磐衝別命(いわつくわけのみこと)および古事記垂仁段にある石衝別王と一致し、前者では三尾君の祖、後者では羽咋君および三尾君の祖となっている。また、書紀景行紀には三尾氏磐城別なる人物が登場する。磐衝別命の子であるとは記していないが、三尾氏の人物であることと、その音が似ていることから、伊波都久和希の子である伊波智和希であることが想定される。

 以上より、上宮記一云の系図にある継体の母、布利比弥命(振媛)の父方に見える最初の三代は記紀の記述に一致することから、振媛の父方は垂仁天皇の後裔であるとともに、三尾氏の後裔であることがわかる。さらに振媛の母である阿那余比弥(あなにひめ)は余奴臣(よぬのおみ)の祖とある。この余奴臣は江沼氏を指すというのが通説であるので、継体の母である振媛は、父系は三尾氏で母系が江沼氏という系譜になる。 
 江沼氏は加賀国江沼郡を拠点とする氏族である。加賀国は823年に越前国から江沼・加賀の2郡を割いて設置された国であり、加賀国江沼郡は振媛がいたとされる越前国坂井郡と境界を接している。



 さて、幼い継体を抱いて故郷に戻った振媛であるが、その場所は越前国高向である。坂井郡にあったと考えられる高向は現在の福井県坂井市丸岡町のあたりとされ、高向神社が鎮座する。福井県神社庁によると継体天皇と振媛が祭神となっているが、丸岡町などによると応神天皇と振媛を祭神としている。この地が振媛の故郷ということになるのだろうが、それは父方の三尾氏のゆかりなのか、それとも母方の江沼氏なのか。  
 江沼氏の拠点である加賀国江沼郡は北に20キロほどのところであり、9世紀の分国前は同じ越前国ということになるので、5世紀後半あるいは6世紀前半の頃には江沼氏とゆかりのある土地であったとしても不思議ではない。

 では一方の三尾氏についてはどうであろうか。三尾氏の本拠地については諸説ある。有力な説は、彦主人王の別業があったとされる近江国高嶋郡とする説で三尾郷や水尾神社がある。また、733年の「山背国愛宕郡某郷計帳」に「越前国坂井郡水尾郷」の記載があることや「延喜式」の北陸道の駅名のなかに「三尾」が存在していることから越前国坂井郡という説も出されている。さらには、もともとは越前であったのだが継体即位頃には近江に移っていたとする説や、三尾氏は近江国を拠点とするが越前の三国氏と近しい関係あるいは同族関係にあったとする説もある。

 記紀によると、三尾氏の祖とされる磐衝別命は、第11代垂仁天皇と山背大国不遅(やましろのおおくにのふち)の娘である綺戸辺(かにはたとべ)との間に生まれた第十皇子である。山背大国不遅は綺戸辺の父親なのか母親なのかはわからないが、山背を名に持っていることから山背国にいた人物と言えよう。また書紀は垂仁天皇が山背に出かけた際に綺戸辺を後宮に召し入れたとも記す。磐衝別命は山背にゆかりがあることがわかったが、磐衝別命あるいはその後裔はその後、どうなったのであろうか。

 滋賀県高島市に磐衝別命を祀る水尾(みお)神社がある。創建は不詳であるが、天平神護元年(765年)に三尾神に13戸の神封が給されたことが文献に見える。古くから三尾の神である磐衝別命を祀る神社が近江国高嶋郡にあったことだけは確かだ。その裏山には拝戸古墳群と呼ばれる30基ほどの6世紀の群集墳がある。
 さらに、石川県羽咋市には石衝別命を祀る羽咋神社があり、ここは相殿神として子の石城別命も祀っている。一帯に疫病が流行り、盗賊が横行、さらには大きな毒鳥が住民を苦しめていたとき、勅命で石衝別命が派遣されたという。境内には石衝別命の墓とされる大塚古墳、石城別王の墓とされる大谷塚古墳がある。前者は全長100メートル前後の前方後円墳で5世紀中頃の築造とされ、後者は45メートルの円墳であり、いずれも陵墓として宮内庁が管理している。

 ここからはまったくの想像であるが、垂仁天皇の皇子である磐衝別命は自身の故地である大和や山背を離れて近江国高嶋郡を拠点にしていたのではないだろうか。その後裔が三尾氏となり、その地が三尾と呼ばれるようになった。また、その三尾氏の一部が近江から越前、さらに北上して能登の羽咋まで移動し、そこで勢力基盤を築いて羽咋氏となった。そのために越前にも三尾や水尾の地名が残っているのだ。羽咋神社に伝わる石衝別命が勅命で派遣されたという伝承は三尾氏が移動してきたことの反映ではないだろうか。こう考えれば古事記が石衝別王を羽咋君および三尾君の祖としているのも頷ける。福井県坂井市にある大湊神社にはかつて磐衝別命を祭神として祀っていた古い記録があるそうだ。近江、越前、能登にある三尾にまつわる地名や磐衝別命を祀る神社の存在は三尾氏の移動を物語っているのではないだろうか。

 彦主人王の薨去後、振媛が幼い継体を連れて故郷の越前高向へ戻ったことが書紀に記されることは先述したが、上宮記にも同様のシーンの記述があり、そこでは「親族のいないところにいて独りで皇子を育てるのは難しい。先祖の三国命のいる高向村に下がります」と振媛は言っている。振媛の父方が三尾氏であるにもかかわらず、近江の三尾には親族がいないというのも、同じ三尾氏であっても振媛自身は近江とは交流がなかったと考えれば理解される。

 先代旧事本紀の国造本紀には三尾君の祖である石衝別命の子孫が加我国造や羽咋国造を任じられたことが記されるが、本拠地の近江を出て北上した三尾氏の一派が加賀や羽咋のあたりに一定の勢力を持っていたことの証とも言えるだろう。








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継体天皇②(継体天皇の出自)

2020年02月07日 | 継体天皇
 継体天皇の出自は越前か、それとも近江か。ここでは記紀および上宮記という史料にもとづいてその出自について確認しておきたい。

 日本書紀によると、応神天皇の五世孫である男大迹天皇(継体天皇)は近江で生まれて越前で育ったという。父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)で、母は垂仁天皇の七世孫の振媛(ふるひめ)である。彦主人王は、振媛が容姿端麗であることを聞き、近江国高嶋郡の三尾の別邸から使者を派遣して、越前国の三国の坂中井(さかない)より振媛を迎えて継体天皇をもうけた。
 三国の坂中井は越前国坂井郡とされている。しかし、天皇が幼いときに彦主人王が亡くなり、取り残された振媛は、故郷を遠く離れたところで満足に養育できない状況を嘆き、故郷である越前の高向に帰って親の面倒を見ながら幼い天皇を養育することにした。その後、成人した天皇は、人を愛し、賢人を敬い、心が豊かな大人へと成長した。
 一方、古事記では、武烈天皇が崩御して皇位を継ぐべき皇子がいなくなったとき、応神天皇五世孫の袁本杼命(継体天皇)が近江国より迎え入れられた、とあるのみだ。
 日本書紀では近江で生まれたものの、その大半を越前で過ごしたことになり、古事記によると継体は少なくとも即位前は近江にいた。そして越前で過ごしたことがあるかどうかは触れられていない。

 これら記紀のほかに継体天皇の出自を確認するために利用される史料に「上宮記一云(じょうぐうきいちにいう)」というのがある。上宮記というからには聖徳太子に関する史料と考えられているが、上宮記そのものはすでに存在しておらず逸文が残るのみとなっている。鎌倉時代末期に卜部兼方が著した「釈日本紀」という日本書紀の注釈書にその一部が引用されている。

 そこには継体の父方および母方の系譜が具体的に記されており、それを系図にすると次のようになる。



 これによると、継体天皇の父方は凡牟都和希王→若野毛二俣王→大郎子(意富富等王)→乎非王と続くが、これが古事記の応神天皇段にある系譜、品陀天皇→若野毛二俣王→大郎子(意富富杼王)と酷似しており、凡牟都和希王が品陀天皇、すなわち応神天皇とみなすことができる。前述の通り、古事記は武烈天皇段の最後に、品太天皇の五世孫の袁本杼命(継体天皇)を近江から迎えたとも記す。また日本書紀では、継体天皇である男大迹天皇が応神天皇である誉田天皇の五世孫であり彦主人王の子であることが記される。さらに応神天皇の皇子として稚野毛二派皇の名が見え、これは上宮記や古事記に見える若野毛二俣王と同一と思われる。

 上宮記は使用する文字や文体などから記紀よりも成立が古い、具体的には推古天皇から天武天皇の間であろうと考えられている。その上宮記に記載されていたと思われる継体天皇に関する系譜は記紀の記述とも矛盾がなく、記紀よりも詳しい内容が記されているために記紀を補完する史料として活用されている。この前提にたって継体天皇の系譜を整理すると次のようになる。

上宮記  応神天皇→若野毛二俣王 →大郎子(意富富等王)→乎非王→汗斯王 →継体天皇

古事記  応神天皇→若野毛二俣王 →大郎子(意富富杼王)→〇〇〇→〇〇〇 →継体天皇

日本書紀 応神天皇→稚野毛二派皇子→〇〇〇〇〇〇〇〇〇 →〇〇〇→彦主人王→継体天皇

 古事記によれば、大郎子(意富富杼王)は、三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君の祖になっている(三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君とする説もある)。これは継体天皇がこれらの氏族と同じ先祖を持つことを意味するが、三国、息長、坂田の名があることに留意される。








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継体天皇①(三王朝交替説)

2020年02月05日 | 継体天皇
 自主企画による第9回古代史実地踏査ツアーを2019年3月に予定しています。今回は継体天皇を主たるコンセプトとして仮のテーマを「継体天皇の出自と近江・越前の勢力を考える」と設定しました。行き先は大阪を出発して近江の湖東から湖北を経て越前へ、そして若狭から湖西、最後は摂津に立ち寄って戻ってくるルートを計画中。そして今は継体天皇を勉強しているところです。書籍やネット情報の受け売りになりますが、勉強したことを備忘録として記事に書いていきたいと思います。
 継体天皇を勉強した後、どういう展開になるのか考えていませんが、カテゴリーをいったん「古代日本国成立の物語(第三部)」としておきます。

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 日本書紀・古事記はともに、神倭磐余彦尊が日向より東征し、大和の磐余の地で初代天皇として即位して以来、我が国の天皇家は紆余曲折を経ながらも血統が断絶することなく続いているという建て付けで記述されている。戦後、江上波夫氏が騎馬民族征服説でこの万世一系の天皇観に風穴を開けて以来、古代日本国家の成立過程を明らかにしようとする様々な考えが出されるようになった。

 その中でも水野祐氏による三王朝交代説は今なお大きな影響力を持っているようだ。4世紀代の三輪山麓一帯を中心に栄えた崇神天皇から仲哀天皇までの5代の天皇による政権を古王朝とし、次に主に河内を中心に栄えた5世紀代の応神天皇から武烈天皇までの11代の天皇による政権を中王朝、そして6世紀初めの継体天皇以降の政権を新王朝として、4世紀から6世紀にかけて3つの王朝が交替したとする考えである。古王朝を三輪王朝、中王朝を河内王朝、あるいはそれぞれを三輪王権、河内王権と呼ぶこともある。
 ちなみに、私は初代神武天皇からから第9代開化天皇までを神武王朝、第10代崇神天皇から第14代仲哀天皇までを崇神王朝、第15代応神天皇から第25代武烈天応までを応神王朝として、神武王朝は南九州の狗奴国から出た王朝、崇神王朝を邪馬台国あるいは邪馬台国を盟主とする倭国、応神王朝は丹後・近江勢力が邪馬台国を倒して成立した王朝、と考えています。

 水野祐氏の三王朝交代説は、仲哀天皇から応神天皇へ、武烈天皇から継体天皇へ、というふたつの皇位継承のタイミングにおいて血統の断絶があるということを説いているのであるが、天皇家の血統が断絶することなく続いていることを記しているはずの記紀を順に読み進めていくと、たしかにこれらの皇位継承のタイミングにおいては血統の断絶を想像しうる状況が描かれている。

 書紀によると、第14代仲哀天皇は熊襲の反乱を抑えようと筑紫の香椎宮にいるとき、同行していた神功皇后によって発せられた「新羅を討て」との神託に背いて熊襲を討とうとしたが失敗し、その直後に病で亡くなった、とある。古事記では、その神託のシーンで天皇は琴を弾きながら息が絶えたという。天皇と皇后のほか、ただひとり武内宿禰のみが同席していたとするその場面はいかにも天皇殺害を想像させる描き方である。
 そして天皇崩御の後、神功皇后は朝鮮半島出兵を成功させて帰国し、のちに応神天皇となる誉田別皇子を出産した。さらに皇后は武内宿禰とのコンビで、皇位継承権をもつ香坂王・忍熊王の兄弟を倒し、応神天皇の即位を実現させた。この応神天皇は仲哀天皇の子ではなく、神功皇后と武内宿禰の間にできた子ではないかという考えも出されている。

 また、記紀はともに第25代武烈天皇が崩御した際に皇位を継承すべき皇子がひとりもいなかったことを記す。武烈に先立つ第21代雄略天皇が皇位継承権を持つ皇子をことごとく殺害してしまったこと、雄略の子である第22代清寧天皇は后妃を持たずに崩御したために跡継ぎとなる直系皇子がいなかったこと、かろうじて傍系となる第18代履中天皇の孫である顕宗天皇、仁賢天皇が第23代、第24代と順に即位したものの、仁賢の皇子は武烈ひとりのみで、顕宗には皇子がいなかった。これらの結果として武烈のあとに皇位を継承すべき者が不在となった。
 そこで政権内から推挙の声があがったのが、近江あるいは越前にいたとされる第15代応神天皇の五世孫にあたる継体であった。第16代仁徳天皇以来、第25代武烈天皇までは少なくとも仁徳の系譜にある皇子が皇位を繋いできたが、ここにきてその系譜を離れたうえで、さらには五世代も飛ばした継体がいきなり推挙されることとなった。しかし彼は第26代継体天皇として即位した後も宮を転々としてなかなか大和に入れなかったという。

 仲哀天皇崩御から応神天皇即位までの記紀の記述はまさに神功皇后と武内宿禰によるクーデターによって皇統が断絶した匂いがプンプンする。一方の継体即位の場面は、少なくとも記録上は傍系の五世孫というわずかながらも細い糸でつながっていることから必ずしも皇統断絶とまでは言えないが、少なくとも政権が変わったと言ってもいい状況であろう。細い糸が作為されたものであるという説はひとまず置いておく。

 このように記紀を素直に読み進めると、水野氏の説いた三王朝交代説はそれなりに頷ける考え方であると言えよう。私は、少なくとも崇神から仲哀に至る王朝(崇神王朝)と応神から武烈に至る王朝(応神王朝)は別の王朝として捉えるのがよいと考えている。しかしながら、継体天皇あるいは継体王朝については現時点では考えを留保しておきたい。

(日本書紀による天皇系図)










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