古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

天照大神と伊勢神宮(第1部・15章)

2022年06月29日 | 伊勢神宮
●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史①



ここまで伊勢神宮や天照大神を研究する著名な日本史学者5名の著書を見てきました。次は少し毛色の違う建築史学の林一馬氏の論文『伊勢神宮成立史考』を見てみます。林氏は、伊勢神宮の日本建築史上に占める位置の重大さからすればその成立史は建築史学的に看過できない、その成立年代の如何によっては日本の古代建築の歴史的な組立てに甚大な影響を及ぼす、として自らの試見を提示されました。

この論文はこれまでに取り上げた各氏を含む先学研究を包括的に整理して論点を抽出し、論理的な批判を展開しながら自身の考えを主張するものです。すでに何度か登場してもらっているので重複する部分があるかもわかりませんが、あらためて紹介したいと思います。論文から適宜引用しながら確認していきます。

著者はまず、皇大神宮(内宮)が現在地に設立されたのがいつだったか、という一点に絞って主要な説を以下のように年代順に整理します。

①垂仁天皇の治世下、3世紀後半(~4世紀前半)頃…田中卓説
②5世紀後半の雄略天皇21年(477年)…岡田精司説
③5世紀後半の雄略朝以後、とくに6世紀前半の欽明朝を重視…直木孝次郎説
④遅くとも6世紀中葉…西田長男説
⑤早くとも6世紀後半…津田左右吉説
⑥舒明天皇の時代よりもずっと遡ったころ…福山敏男説
⑦斉明天皇3年(657年)…神崎勝説
⑧天武天皇13年(685年)~持統天皇4年(690年)…鳥越憲三郎説
⑨文武天皇2年(698年)12月乙卯(29日)…筑紫申真、川添登、築地康明らの説
⑩奈良朝初め、養老元年(717年)頃…鶴岡静夫説

伊勢神宮はこのうち①の立場で自らを位置づけています。②③⑨はすでに当ブログで紹介したものですが、著者は内宮成立を5世紀後半から6世紀前半とする②や③の説、内宮成立は7世紀後半以降とするものの、内宮の前身的な存在が南伊勢地方のどこかに遅くとも6世紀中頃以前に成立していたとする⑧や⑨などの説に妥当性を認め、これら説の論拠を次の5つに整理して考証に入ります。それぞれ簡単に見ておきます。

論点① 垂仁紀一書にみえる丁巳年
論点② 大和朝廷の東国経略との関連性
論点③ 地方神昇格説の可能性
論点④ 大化前代の斎王記事
論点⑤ 神宮側の史料の解釈について

まず論点①の「垂仁紀一書にみえる丁巳年」に対する考察です。先に見たように岡田精司氏はこの丁巳年を西暦477年であるとしますが、氏がその理由とした朝鮮半島での敗退に伴う国際的危機、5世紀後半の社会的変動や信仰の変質、大和朝廷による東国経営の進展、などの歴史的背景は5世紀後半に限定されるものでなく、それ以降なら多かれ少なかれ該当すると指摘します。また、この一書の趣意は大倭神社の祭祀の由来を述べた所伝であるので、まず大倭神社の起源を検討するのでなければ片手落ちだとする建築史家の福山敏男氏の説を支持します。その上で、大倭神社の文献上の初見が『日本書紀』持統6年であることから、そもそもこの一書の所伝はそれほど古くに形成されたとは考えられないと主張します。これらのことから「垂仁紀一書にみえる丁巳年」を根拠に神宮の成立を5世紀後半や6世紀前半に求める説には従えないと反論します。

次に論点②の「大和朝廷の東国経略との関連性」に対してはどうでしょう。これは特に直木孝次郎氏が神宮成立を考えるふたつの手がかりのひとつとして重視していたことは先に見た通りですが、著者は、大和朝廷にとっての東国経営の重要さやその一拠点として南伊勢地方が注目された時期があったことを否定するものではなく、古代的な戦乱は一面では神々の争いであり、征略に向かう軍団に何らかの神霊が奉じられていた可能性などを疑うものではないとしつつも、それらのことと神宮の創立に何か密接な関係があったことを示す証拠が何一つ見出せないとして、この考えを否定します。そして『巫女の文化』などを著した倉塚曄子(あきこ)氏による「伊勢に皇祖神の社が設けられたのは、なまの政治的・歴史的契機にもとづくものではなく、王権に内在する神話的契機によるのではないか」との主張を支持します。

続いて論点③「地方神昇格説の可能性」に言及します。直木孝次郎氏の「地方神昇格説」は先に詳しく見たのでここでは触れませんが、著者はこの説に対して、何の証拠もないばかりか、そもそも古代人の氏族宗教的心性に照らしてあり得たこととは思われない、と一蹴します。

また論点④「大化前代の斎王記事」について、地方神昇格説や大化前代における皇祖神遷座説が疑問視されるとなると記紀にみられる斎王記事をどう理解するか、著者の考えが述べられます。筑紫申真氏が主張した通り、伊勢に派遣された初代の斎王は天武朝の大来皇女であり、それ以前は実在性が疑われる、または大和の宮廷近傍で祭祀に従事したこと、垂仁朝の倭姫命によって天照大神を伊勢に遷座して伊勢神宮が創建されたというのが『日本書紀』の歴史設定である以上、それ以降の斎王記事はこの文脈に従って改変を受けていると考えられること、敏達6年2月条の「詔置日祀部・私部」にある日祀部は日神祭祀に当たる斎王のために設置された部民と考えられ、6世紀後半には天皇家の斎王制度の経済的基盤が整備され、公的に確立されていたとみなされること、大和の地で歴代の斎王が奉祭していた皇室の氏神はもとから日神であったがそれは未だ天照大神ではなく、より古い皇祖神とみられるタカミムスヒの神(正確にはそれの前身)が該当すること、などがその主な主張となります。

タカミムスヒ(の前身)が日神であり、天照大神よりも古い皇祖神である、と述べられていることが注目されますが、その根拠が示されていないのが残念です。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・14章)

2022年06月27日 | 伊勢神宮
●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神③



続いて著者は、ここまでの論証で存在が明らかになった天照大神以前の太陽神が、神話の中に痕跡をとどめていないかを探り、心御柱=ヒモロギを依り代とする神の連想から、高皇産霊尊の別名として『古事記』に見える高木大神(高木神)がそれであるとします。『日本書紀』本文では一貫して最高司令神、一書においても天照大神とかかわりつつ、『古事記』では天照大神と並んで司令神とされています。また『日本書紀』の天孫降臨の一書ではその発する言葉に「勅」の文字が使われ、瓊瓊杵尊の誕生では「皇祖」と表現されます。さらに『出雲国造神賀詞』では「神王」とされており、これらはすべて高皇産霊尊が古くは大王家の祖神であったことを示していると説きます。また、宮中で祀られる「宮中八神」の筆頭に神産日神、高御産日神があることも、大王守護神としての伝統に基づくものとします。以上のように荒祭宮に祀られていた古い日神は「高皇産霊尊」であり、より古い名称は「高木神」であったとします。

高木神については筑紫申真氏も『アマテラスの誕生』で、心の御柱によりつく太陽霊であったとし、天照大神はその高木神の巫女であり、カミ妻であったとします。そしてカミとカミをまつるものが同一視され、ついには高木神と天照大神の区別がなくなったと説いています。

著者はさらに、高木神から日女(ひるめ)の神への転換によって太陽神をめぐる神話も大きく変化したとして、『日本書紀』の天岩戸神話の第2・第3の一書に「天照大神」ではなく「日神」と記されること、スサノヲが機殿に生き馬を投げ入れたときに神衣を織っていたのが天照大神自身であったこと、スサノヲが天上に登っていったときに天照大神が武装して雄叫びをあげるという姿は女性とは思えないことなどをあげて、これらは本来は高皇産霊尊にまつわる話だったとします。

そしてこれらの太陽神話は、大阪湾周辺に祭場があった時代=5世紀以前の古い神話と、伊勢に移ってからの祭儀を背景とした新しい神話に区別できると言います。前者は日神の妻と御子が海辺に漂着する神話を中心とするもので、天孫降臨・神武・神功など天皇家の祖先伝承に断片を伝えるだけとします(これについて著者は別稿で論証をしていますがここでは立ち入りません)。一方、後者については、天岩戸神話で天照大神が機殿で神衣を織る場面、常世の長鳴鳥を鳴かせる場面、天岩戸が開かれる場面、あるいは天孫降臨神話で多くの神々を従えて降臨する場面、猿田彦が天孫降臨を迎える場面、さらには猿田彦が伊勢の阿邪訶で比良夫貝に手を食われて溺れる場面などに伊勢の祭儀の反映をみます。

このように、大王家の守護霊である「日神」が高木神(高皇産霊尊)から日女(ひるめ)の神を経て天照大神に変化した、つまり男性神から女性神に変化したことを精緻に論証した上で、次の①を前提として②~⑤をその理由としてあげます。

①神格化した斎王=ヒルメの神がすでに成立し、日神である高皇産霊尊と並んで祀られるようになっていたこと。
②天皇家の古い祖先神話として、海の彼方より来臨する母子神伝承があり、その母神の伝統的信仰と新しいヒルメの神とはいずれも「日神の妻」としての共通性から両者のイメージが重複したこと。
③古い太陽神=高皇産霊尊は人格神以前の神格で、巫女が昇化したヒルメの神は人格神であり、太陽霊の人格神への発展が人格神ヒルメの神と合一した。
④斎王は天皇家の肉親だから、太陽神の守護霊から皇祖神への発展の過程で、斎王の神格化したヒルメの神と結合しやすかった。
⑤各地で信仰された太陽神(アマテルミタマ)は人格神以前ではあるが、男性とされるのが普通だった。天皇家の守護神をそれらと区別させるために故意に女性化が推進された。

ここまでの精緻な論証に比べると、この部分は少し抽象的であり根拠が薄い印象です。そして著者はいよいよ最後に太陽神である高皇産霊尊が天照大神に変化した時期に言及します。まず、伊勢に祭場が移される以前から日神への斎王的な皇女の奉仕の伝統(トヨスキイリヒメの伝説の如く)があったと考えられるから、6世紀の早い時期に巫女神=ヒルメの神の神格化が完成していたとします。

さらに、天岩戸神話や天孫降臨神話の考察から、これらが成立したと考えられる6世紀時点ではまだ高皇産霊尊が大王家の守護神であり、ヒルメの神に太陽神の座を奪われていないこと、推古朝で宮廷祭祀が発展するとともに、老女帝の存在がヒルメの神の地位を向上させて日神=高木神(高皇産霊尊)と対等に並ぶ存在にまで高められたこと、そしてこのようなヒルメの神の成熟という条件の上に、伊勢神宮における荒祭宮とヒルメの宮との並立に大変革を加え、ヒルメの宮をもって太陽神の祠とし、ヒルメの神を単独の最高神として「天照大神」と名を変えるのは天武朝のことであった、と論証します。

少し詳しくなりましたが、以上が岡田精司氏の説となります。結論だけを言えば、太陽神である高木神(高皇産霊尊)に奉仕する巫女が神格化し、やがて太陽神と合一して天照大神が生まれた、ということになりますが、このとき高木神が消滅したのではなく、天照大神とは別に存在しているということは案外に重要なことだと思います。岡田説に従えば、本来は荒祭宮にそのまま高木神が祀られているはずなのですが、現在の荒祭宮は天照大神の荒御魂が祭神となっています。

なぜ荒御魂だけが別で祀られているのか、同様に和御魂だけを祀る社はないのか、瀧原宮は和御魂を祀っているけど隣の瀧原並宮で荒御魂が祀られているので、これでセットと考えれば納得。内宮には荒祭宮とセットになる神社がないことをずっと不思議に思っています。

なお、史学者の上田正昭氏は著書『大和朝廷』においてこの岡田説を「軽視できない」として、皇祖神としての確立は7世紀後半であるが雄略朝ごろに伊勢地域の大神の祭祀権が掌握された、と概ね支持する考えを示しています。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・13章)

2022年06月25日 | 伊勢神宮
●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神②



著者は、戦後の諸研究において天皇家と太陽信仰の結びつきを6世紀後半以降とする、つまり新しく考えようとする傾向があることに対して批判的立場を取り、大王家の祖霊・守護神の信仰が簡単に変化することはないとした上で、大王が太陽神の子孫である、つまり太陽霊が古くから大王家の守護霊であったことの証拠を『古事記』の歌謡にある「比能美古(=日の御子)」に見い出し、少なくとも5世紀代、応神天皇以降の河内王朝における大王が太陽神の子として認知されていたと説きます。

そしてその太陽霊を祀る恒常的な祭場として、古くからあった難波の浜のほかに河内国高安郡にある「天照大神高座神社二座」をあげます。社名から天照大神が祭神であることが明らかなこと、高座神が従五位以上の神階を得る一方で、天照大神は伊勢神宮や日前神宮と同様に神階記事が見えないこと、などからこの付近に大王家の古い太陽神祭場があったとします。ただしこれについては、大和書房創業者で古代史研究家でもある大和岩雄氏は、『延喜式』神名帳に「元号春日戸神」とあることに全く触れていないので賛同できないと主張します。

天照大神高座神社二座と難波津の祭場との関係としては、もともと難波の浜で太陽神が祀られていたが、5世紀中葉以降に宮都を大和に移してからは一代一度の就任儀礼である八十嶋祭のみを難波津で行い、平常の祭祀は都により近い高安山麓で行われるようになったとします。

その後、5世紀後半になって大王権の発展に伴って大王家の守護霊=太陽神を国家的祭祀の対象に昇格させようとする動きが現れます。新羅では5世紀末から6世紀初めに“神宮”の名称が国王の祖廟の称として使われるようになり、“大王”の称号も朝鮮三国で使われ始める中、朝鮮半島に対して大王の権威を高める必要が生じたこと、また国内では、雄略天皇が三輪山の神体である蛇を捕えさせたり、葛城山の一言主神と一緒に狩りをするなど、中央権力による地方神祭祀に対する干渉という形で信仰の変革の動きが見られる中、この前後に“神社”が成立したと考えられること、臣系の有力豪族である葛城氏の滅亡によって旧来の臣系豪族群による大王への制約がゆるんだこと、などを背景として大王家の守護神の祭場が河内から伊勢に移されることになります。

著者は470年代の雄略朝に伊勢神宮の創建年代を求められることは考古学資料からも裏付けられるとして、第1に祭祀遺跡をあげます。外宮神域内から子持勾玉が、内宮神域では荒祭宮北方から大量の滑石製臼玉が出土しており、いずれも5世紀代のものとされ、度会氏の祭場であった外宮はもとより、内宮においても5世紀代に太陽神祭場が存在した証拠になるとします。第2には、内宮のご神体を納める「御船代」の形態が古墳時代中期に盛行した長持型石棺にそっくりであることから、内宮の成立を古墳時代中期と推定できるとします。

さて次に、『日本書紀』で天照大神の別名とする大日孁貴(おおひるめのむち)、天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)、大日孁尊(おおひるめのみこと)の「ヒルメ」の語義を、日の妻=太陽神の巫女の神格化したもの、として巫女が本来仕えていた太陽神が何であったかを考えようとします。日本では巫女が神格化する例は決して珍しくないとして、八幡、住吉、枚岡などの大社では祭神の中に併記される「姫神」は巫女神と考えられています。ところが、天照大神を巫女の神格化と見た場合、その巫女が仕えた古い神格が全く不明なのです。これに対しては以下の考察から、内宮の荒祭宮こそが古い太陽神の神殿であり、最初に河内から伊勢に移されたのはこの神であったとします。

神宮第一の別宮として別格の扱いを受ける荒祭宮は内宮の西の正殿の真北に位置することから、内宮正殿と荒祭宮は一般の神社建築の拝殿と本殿の関係にあること、その荒祭宮の神域には5世紀からの祭場があったと想定されていること、度会氏の祖先が神宮遷座にあたって荒御魂宮地の造営に奉仕したと『大同本記』逸文に記されること、などから皇大神宮たる内宮正殿よりも先に荒祭宮(の前身)が設けられたと考えられます。

さらに神宮で古くから行われている年中三節祭(神嘗祭と6月・12月の月次祭)において、斎王は最初に玉串を奉奠したあとは内宮内院にある「斎内親王侍殿」に籠って神事には参加せず、また神事の最後に行われる荒祭宮に対する遥拝も行いません。このことは、斎王がヒルメの神であると考えれば、太陽神に玉串奉奠をしたあとは拝まれる立場として遥拝をしない、と理解ができます。そして『皇大神宮儀式帳』に、内宮正殿内の御船代が安置される御床に各一具の様々な御被(おんふすま)とともに二基の御枕が並べられる、との記載があることなどをもとに、もともと神事の最中に斎王が籠った場所は現在の内宮正殿にあたる場所で、そこで荒祭宮の太陽神と斎王の聖婚儀礼が行われたのだとします。これはまさに斎王がヒルメ(=日の妻)であることを端的に表していると思います。

また著者は、年中三節祭で行われる由貴大御饌(ゆきのおおみけ)の供進や20年ごとに行われる社殿造営の方法や手順の考察から、内宮正殿の床下にある「心御柱」が太陽神のヒモロギであるとします。しかし先に見たように正殿の前身が斎王の籠りと聖婚の場であったとすれば、その床下にヒモロギが立てられているのはおかしいので、もともとは荒祭宮の床下にすえられていたものが、巫女神の神格化と太陽神の地位を入れ替えるという祭神の変革によってヒルメの神が主神として扱われるようになったときに正殿の下に移されたのだろうとします。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・12章)

2022年06月23日 | 伊勢神宮
●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神①



次に日本史学者の岡田精司氏が著した『古代王権の祭祀と神話』に収録された「伊勢神宮の起源」と「古代王権と太陽神」をもとに氏の説を考えたいと思います。様々な資料や事実に基づく極めて実証的かつ論理的な論考となっています。適宜引用しながら見ていきます。

伊勢神宮には荒木田氏を神官とする内宮と度会氏を神官とする外宮があり、『日本書紀』や延暦年間に編纂された『皇大神宮儀式帳』には垂仁天皇25年の内宮鎮座の記事が見られ、一方の外宮は同じく延暦年間の『止由気宮儀式帳』に、雄略天皇のときに天照大神の御饌都神(みけつかみ)として丹波国から豊受大神を迎えたとする記事があります。これが事実だとすると、伊勢神宮には祭典や奉幣は必ず外宮を先にするという外宮先祭の慣習があること、外宮神域内に巨大な末期古墳があること、外宮と度会神主一族との間には密接な結びつきがあるが内宮と荒木田氏との間にはそれが見られない、などの不可解なことがあると指摘します。

さらに、伊勢神宮創建前は度会県主的な土豪(伊勢地方の特色である県造)であった度会氏が、大化の改新以降に神三郡(度会・多気・飯野)の国造に任じられたこと、中期以前の古墳が少ない中でも5世紀頃には画文帯神獣鏡を伴う神前山古墳などを築いた権力者が生まれ、これを度会県造に擬することは可能とし、さらに後期に入ると先述の通り、外宮神域にある高倉山山頂に巨大石室を持つ高倉山古墳が築かれることなどは、神宮が伊勢に遷されて以降、度会氏が神宮をバックに発展したことを示しているとします。また、外宮一帯には国津神の社や県神社のほか、度会一族の祭場が高倉山を取り巻くように散在するとともに、高倉山に住む国津神が度会氏の祖神である天日別命を迎えたという伝説があることも指摘します。

これらのことから著者は、外宮は皇大神宮祭神の神託によって他処から移してきたものではなく、度会氏の祖先神の聖地である高倉山を中心にして、国造一族によって斎かれてきたものとします。

また、垂仁朝の内宮鎮座以来の禰宜であったと主張する荒木田氏の系譜と、天武期に禰宜制度が制定されるまで二宮大神主に任命され、さらに両宮とも初代禰宜を務めたと主張する度会氏の系譜を比較し、新興の荒木田氏は旧族の度会氏と肩を並べられる家柄ではないなどの理由から、度会氏の系譜のほうに妥当性を認めています。但しこれに対しては、両者が両宮の禰宜を分掌したことで一致する持統朝より以前の主張は別の客観的傍証がない限り、いずれも虚構的述作とみてよい、とする建築史家の林一馬氏の批判があります。

さらに先述の通り、外宮の前身が度会氏と密接な関係をもつ存在だとすれば、その祭神は度会氏の祖神または守護神である天日別命であり、外宮の摂・末社には天日別命の妃や子などを祀る神社はあるが、天日別命を祀る社がないことがその裏づけになるとします。そして天日別命はその名に「日」を持つことから太陽神であるとした上で、度会郡の高倉山の南に「陽田(ヒナタ)」という郷があったことなどから、度会地方は太陽信仰の聖地として畿内周辺に知られていたに違いないとします。

伊勢地方は大和盆地から見ると東方の山脈の彼方の陸地の果てにあって海から太陽が昇る国であり、畿内周辺で海の上に日の出を望めるのは伊勢・志摩だけで、大和で古くから太陽信仰が行われていれば、太陽信仰の聖地として神聖視されていたに違いないとし、伊勢の度会が皇大神宮の鎮座地として選ばれたのは太陽神の聖地としての伝統が重要な条件となった、と指摘します。直木説の考察の最後に書いたように、これに対しては全く同感です。

さて、著者は伊勢神宮の成立時期について、『日本書紀』垂仁天皇25年の天照大神鎮座に関する記事にある「然後、隨神誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢国渡遇宮(そのあと、神の教えの通りに、丁巳年の冬10月に伊勢国の渡遇宮に遷った)」という一文の「丁巳年」を手がかりとして、雄略朝の西暦477年であるとします。『日本書紀』雄略天皇紀に伊勢に関する伝承が集中すること、伊勢地方は4世紀までに大和政権の支配下に入っていたこと、5世紀後半の朝鮮半島情勢悪化に伴う東国進出計画によって伊勢支配を強化したこと、雄略朝の栲幡皇女(稚足姫皇女)以降の斎王任命が確実視されること、『日本書紀』にある渡遇宮は内宮・外宮分離前の呼称と考えれば神宮関係の諸書が外宮鎮座を「丁巳年」としていることと一致すること、などについて根拠を示しながら丁巳年=477年の妥当性を説き、大王家の守護霊の祭場を伊勢に遷したのが477年であると主張します。ただ、これに対しては「丁巳年」は537年(宣化2年)、あるいは657年(斉明3年)などとする説が提唱されています。

ではなぜ、大王家は守護霊を伊勢に移したのか。大和政権に参加していた諸豪族は大王家と同様にそれぞれに自己の氏の守護霊を奉じていましたが、様々な情勢変化の中、大王家は専制体制を確立する必要から、大王の権威の根源である守護霊、太陽の精霊を諸豪族の守護霊の上に位置づけて、国家的祭祀の対象に発展させようとしました。また同時に、朝鮮半島支配のゆきづまりから、東国進出へと国家政策を転換することを迫られたこともあり、太陽神の聖地である伊勢の度会に新しい祭祀場を移すことを決定したのです。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・11章)

2022年06月21日 | 伊勢神宮
●溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」③



記紀神話二元構造論に基づき、直木孝次郎氏の伊勢神宮論や記紀の神功皇后伝説などをもとにヤマト王権時代、すなわち5~7世紀のアマテラス、要するに皇祖神になる前のアマテラスについて解説がなされ、続いて「ウケヒ神話」ではアマテラスを皇祖神の地位に就けるために、スサノヲが生んだオシホミミを含む五男神をアマテラスの子とする変更が行われたとします。さらに、当時の豪族は「連」「臣」「君」などのカバネ(姓)を持っていましたが、「連」は王権内の職掌に由来する名を持ち、天皇家の存在を存立基盤とする豪族で、「臣」「君」は本拠とする土地の名を持つ場合が多く、天皇家との関係でいえば半独立的な土着の豪族であるとして、神話の二元構造がこのふたつのグループによって分担されていたことを説きます。

そして話はいよいよ7世紀末に行われたタカミムスヒからアマテラスへの皇祖神転換に及びます。アマテラスの皇祖神化を決断、実行したのは天武天皇であるとして、当時の時代背景を、大化の改新以降の国家体制の一大転換期で、中国の文字文化を受け入れ始めて唐風化がいっきに進行した時代であるとともに、白村江での敗戦以来の支配者層の関心が国際問題や外交文化の摂取に向けられる中、皇祖神問題の重要性が相対的に軽くなった時代であった、と整理します。その上で天武天皇が抱える政治課題が、新しい統一国家建設を支える思想基盤としての「神話と歴史の一元化」、新しい支配機構を作り上げていくための氏族対策としての「カバネ(姓)制度の改革」であったとします。

そういう状況下で皇祖神の転換が行われた理由を4つあげます。第1には、タカミムスヒが一般の人々にはほとんど親しまれていない馴染みのない神であり、さらには「連」を中心とするグループが信奉した派閥的色彩の強い神であったこと。天武天皇は、新しい統一国家を挙国一致で作るためには派閥の匂いの強いタカミムスヒではなく、土着の太陽神としてすべての人々に古くから馴染みの深いアマテラスを神々の中心に据えるのが得策と考えた、とします。

第2の理由は、天皇は即位後すぐに大伯皇女(大来皇女)を伊勢に派遣して実質的な斎宮制度を開始していますが、皇位に就く前からアマテラスを特別に重視する何かが天武の胸中に芽生えていたからだとします。しかし著者はどのような意味での重視なのかはわからないと言います。直木孝次郎氏などが説く壬申の乱における神助説は事柄の軽重からいって納得しがたい、とまで言いながらこの点を曖昧にするのは残念です。

第3には、中国の文字文化という新しい外来文化を取り入れるために、北方ユーラシアの支配者文化という古い外来文化を捨てようとしたことをあげます。さらには第4の理由として、新羅への対抗意識があったとします。朝貢国として遇しようとする新羅と共通する国家神ではなく、日本固有の神を国家神として掲げようとしたのだと。しかし、もしそうだとするとアマテラスをタカミムスヒよりも上位に位置づける神話を構築すべきであるのに、『古事記』ではタカミムスヒは造化三神とされ、『日本書紀』でもアマテラスよりも先に誕生し、高天原において両者は同等もしくはタカミムスヒの方が上位に位置づけられていることに矛盾を感じます。

著者の論に従うならば、天武天皇がアマテラスを新しい皇祖神にしようと考えたのは、反旗を翻して争った壬申の乱の敵方である天皇家が祀る神(タカミムスヒ)をそのまま受け継いで祀るのではなく、新たに自らの皇祖神を創造しようと考えたからではないでしょうか。建築史学の林一馬氏は、壬申の乱でアマテラスを望拝したときにこの神を自らの守護神にすることを決めたとし、その神名が示す超越性や透明性とともに、諸国に散在するアマテルミタマなどと類同すること、日神への連想が働くこと、などを理由としてあげています。著者もまとめにおいては、アマテラスが選択された最大の要因は、この神が伝統文化の広く厚い地層にしっかりと根を張った神であったことをあげています。

いずれにしても天武天皇は皇祖神の転換を契機として「神話と歴史の一元化」に取り組んだわけですが、そのために天武自らが『古事記』の編纂にタッチしたと著者は言います。『古事記』にアマテラスを持ち込むことで神話を一元化し、統一国家として一元的な世界観を創出したのだと。また、その『古事記』に記された氏族の先祖の記載は臣・君やその下級氏族である国造に偏り、連やその下級の伴造氏族は極端に少ないとします。そのことと連動するように「カバネ制度の改革」において、第一位の「朝臣」になったのはほとんどが臣・君の氏族で、連では物部氏と中臣氏だけ、逆に第二位の「宿禰」はほとんどが連となっています。つまり『古事記』編纂もカバネ制度改革も、天皇家を存立基盤としてきた連ではなく臣・君を重視する氏族政策、土着の古い伝統文化の尊重という同じ目的のために天武によって同時並行で実行された事業であった、とします。


以上、溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」を見てきました。タカミムスヒを軸にした神話の二元構造はなるほどと思う反面、敵国であった高句麗の王権思想を取り入れることが人の感情として考えにくいこと、「ムスヒ」の解釈からタカミムスヒを太陽神とする理由が今ひとつ明快でないこと、同様にアマテラスを皇祖神とした理由も明快でないことなど、素直に納得できない部分が少なからず残りました。

(つづく)




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天照大神と伊勢神宮(第1部・10章)

2022年06月19日 | 伊勢神宮
●溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」②



前回は、5世紀になって「王の出自は天に由来する」という新しい王権思想を高句麗から取り入れた結果、太陽神であるタカミムスヒが生まれ、天孫降臨神話ができあがったことを見ました。ここからはいよいよ天照大神に迫っていきます。

記紀神話は二元構造になっていて、それが『日本書紀』の「神代上」と「神代下」に見て取れるとします。「神代上」はイザナキ・イザナミの国生みからオオクニヌシまで、「神代下」がタカミムスヒを主神とする天孫降臨神話を中心とする話で、ふたつの神話体系が下巻はじめの「国譲り神話」で結び付けられているというのです。そして、上巻は古くから伝承された日本土着の神話・伝説を集成して構成された神話体系で、下巻は5世紀になって取り入れた北方系支配者起源神話に範をとった建国神話であるとして、この二元構造が形成された過程を試論として次のように示します。

<第一段階>
 ムスヒ系建国神話の成立…大王家と大伴・物部など王権中枢の伴造氏族が作成者
<第二段階>
 イザナキ・イザナミ~アマテラス・スサノヲ~オオクニヌシ系の成立…地方豪族が作成者
<第三段階>
 イザナキ・イザナミ系の中の主神である「オオクニヌシ」がムスヒ系建国神話の主神である「タカミムスヒ」に国の支配権を譲るという神話が挿入されることによって、ムスヒ系とイザナキ・イザナミ系、ふたつの神話が接着され、全体がひと続きの神話になる…大王家と伴造家が主たる作成者
<第四段階>
天孫降臨神話と神武東征は元来ひと続きになって建国神話を形成していたが、その中間に海幸・山幸神話あるいは日向神話と呼ばれる部分があとから加えられる

第一段階の神話ができた段階で、政治的に中央から遠い立場にあった豪族たちがこれに対抗して、自らが4世紀以前から伝承してきた神話・伝説の集成を行いました。この第二段階で創られた神話は、過去の神話研究によって、主として中国の江南から東南アジア、東インド・インドネシア・ニューギニアにかけての南方系であると言っても誤りではないとして、「海洋的世界観」と「多神教的世界」というふたつの特徴をあげます。

まず「海洋的世界観」について。たとえば、オオクニヌシとともに国作りをしたスクナヒコナは海上はるか彼方の理想郷「常世の国」の神で、そのスクナヒコナが常世の国に帰った後、オオクニヌシが嘆いていると海の彼方から海面を照らしながらやって来る神がいました。この神は大和の大神神社に祀られる大物主だという伝承をもち、大神神社に隣接する纒向には初期の大王墓とされる4世紀の巨大な前方後円墳があります。常世の国にかかわる伝承は初期王権と海洋的世界観との結びつきを強く示唆しているとします。

常世の国とは不老不死の国を意味すると見るのが定説で、その「不老不死」という表現が中国の神仙思想を彷彿とさせる、と著者は言います。この言い回しは、常世の国の不老不死は神仙思想とは別物であることを意味していると思われますが、4世紀にはすでに中国から神仙思想や道教の思想が入っていたことから、不老不死の概念はまさに神仙思想を表していると考えることができます。中国の神仙思想では、東方の海上にあると信じられた蓬莱山は仙人が住む不老不死の仙境であるとします。まさに常世の国のイメージに重なります。

次に「多神教的世界」について。イザナキ・イザナミ系の神話には多種多様な神々が活躍します。イザナキ・イザナミが大八嶋国を始め万物を創造し、アマテラスとスサノヲによる「ウケヒ神話」や「天岩屋神話」があり、そのスサノヲの英雄譚が展開され、最後にオオクニヌシをめぐる神話で締めくくられます。

著者は、「天岩屋神話」の意義・本質を、アマテラスが至上神、最高神として、また天上界と地上界を貫く宇宙的秩序の体現者として姿を現したことにある、と説く現在の有力な見方に対して、アマテラスはきわめて寛容で心やさしい神、多神教世界の自然神のひとりとしての太陽神、手に負えないスサノヲに対してなす術をしらない女神であり、神々のトップに立つ最高神・至上神や北方系の「天帝」とも言い換えられる太陽神では決してなく、天岩屋神話での主人公はむしろ67名もの後裔系譜をもつスサノヲである、と反論します。

そしてこの第二段階のイザナキ・イザナミからオオクニヌシへと続く神話、すなわち4世紀以前の日本土着の神話世界における神々の王はアマテラスではなく、圧倒的な量の伝承を持つ国作りの神、オオクニヌシであると説きます。記紀神話は、5世紀段階で新しく取り入れられた北方系の王権思想に基づく建国神話と、在来の土着の伝承を集成したイザナキ・イザナミ系神話という全く異質なふたつの神話が一本化されて、ひとつながりの神話となっています。そのために、後者の主神「オオクニヌシ」が前者の主神「タカミムスヒ」に国の支配権を譲る、すなわち「国譲り神話」という方法がとられたのです。記紀神話の二元構造の第三段階です。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・9章)

2022年06月17日 | 伊勢神宮
●溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」①



次に日本史学者の溝口睦子氏による「アマテラスの誕生」を見てみます。タイトルは筑紫申真氏の著書と同じですが「古代王権の源流を探る」というサブタイトルを冠して筑紫氏とは全く違うアプローチで天照大神に迫ります。弥生時代から4世紀までの政治体制やその拠り所となる政治思想、宗教観が5世紀初頭に大きく変化し、8世紀の律令体制の確立に伴ってさらに変化を遂げたとして、そのプロセスの中でどのようにして天照大神が誕生したかを描き出します。なお、溝口氏の論を紹介するにあたっては神の名をカタカナで表記する著書に従った方がわかりやすい良いと思うのでそのようにします。こちらも著書から適宜引用しながら紹介します。


三国史記や好太王碑文によると、4世紀から朝鮮半島に進出して新羅への侵攻を繰り返した倭政権は、5世紀初頭に高句麗に大敗を喫し、政権の権威が失墜します。著者はこの敗戦が抜本的な体制変革のきっかけになったとします。実際にこの5世紀は、巨大古墳の造営地が奈良盆地から大阪平野へ移動したこと、その古墳の副葬品に武具・馬具などが含まれるようになることなど、それを裏付けるような変化が見られるとします。

中でも最も必要とされた変革は新しい政治思想、王権思想の導入であり、それを朝鮮半島きっての先進国であり倭の主敵でもあった高句麗から導入したというのです。その新しい政治思想とは、王の出自が「天」に由来するとする考え方で、この天に由来する王権思想は、高句麗を通して百済・新羅・加羅など朝鮮半島諸国が軒並み取り入れた当時流行の思想です。その源流は北方ユーラシアの遊牧民族が古くから持っていたもので、それを反映した神話が「天孫降臨神話」だとします。

著者は、民族学の大林太良氏の主張や神話学の松村武雄氏の説を引用して、天孫降臨神話や神武東征伝説が高句麗や百済の建国神話につながりを持ち、さらには北方ユーラシアに興った匈奴に始まる北方遊牧民の国家の始祖神話に源郷があるとします。

さて、5世紀に全く新しい王権思想を取り入れたとすれば、それを実行したのはいわゆる倭の五王(讃・珍・済・興・武)ということになります。五王をどの天皇に比定するかはさておき、彼らは皆、中国南朝の宋に対して遣使を送っていますが、その目的は、中国の先進的な文明を摂取するとともに、中国皇帝の威光を借りて国内の支配を安定させることに加え、朝鮮半島諸国、とくに高句麗との外交を有利に進めて半島での権益を確保する意図があったとされています。そんな五王たちが果たして高句麗の王権思想を取り入れようと考えるでしょうか。ましてや、大敗を喫した屈辱の相手国です。

著者は次に、天照大神よりも以前に最高神、皇祖神の座にあったのはタカミムスヒ(『古事記』では高御産巣日神、『日本書紀』では高皇産霊尊)であるとします。つまり、5世紀に高句麗の王権思想を取り入れて生まれた「天」に由来する最高神がタカミムスヒだということです。天孫降臨神話において、天孫に地上世界の統治を命じて天降らせたのがタカミムスヒであることは、研究者の間では決着しているそうです。

記紀神話や宮中で行われる月次祭(つきなみのまつり)の祝詞の分析などから、本来の皇祖神はタカミムスヒであったが、7世紀末から8世紀初めにその皇祖神・国家神の地位が天照大神に転換しました。著者は先に見た直木孝次郎氏の「地方神昇格説」を支持しており、伊勢神宮の皇祖神昇格の時期を奈良時代初期前後であるとする直木氏の考えも取り入れて、皇祖神・国家神の変遷を「5世紀~7世紀のヤマト王権時代はタカミムスヒ、律令国家が成立した8世紀以降はアマテラス」と整理します。

さらにこのタカミムスヒもアマテラス同様に太陽神であったとします。アマテラスがその名から太陽神だとわかるように『日本書紀』では「高皇産霊尊」と書くタカミムスヒもその名に太陽神の意味があると言うのです。「高」も「皇」も尊称なので残りの「産霊」つまり「ムスヒ」をどう解釈するか。そして「ムス」は「生産」「生成」を意味する点で諸説一致しますが、「ヒ」については「霊力」とみる説と「日(太陽)」とみる説があり、前者なら霊力神、後者なら太陽神ということになります。本居宣長が『古事記伝』で前者として解釈し、津田左右吉がそれを認めて以降、こちらが有力となっていますが、著者は後者の立場をとります。

いくつかの根拠を上げて北方遊牧民の匈奴や高句麗における「天」は「太陽」と置換可能な概念であると説く著者に対し、芸能史学者の諏訪春雄氏は、大陸北方の遊牧民族の天の信仰は北極星に代表される星辰に対する信仰であり、古代朝鮮にみられる太陽信仰は日本と同様に稲作とセットになった中国南部の太陽信仰の影響を受けたもの、と反論しています。日本の太陽神が農耕神の一面を持っていることを考えると、諏訪氏の反論に同意したいところです。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・8章)

2022年06月15日 | 伊勢神宮
●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立③



直木氏は、伊勢神宮が天皇家の氏神の社の地位を独占し、天皇家の最高の神社となるのは天武朝以後で、その画期は壬申の乱であったとします。大海人皇子が北伊勢の朝明郡で天照大神を望拝した行為は、伊勢神宮に敬意を表すとともに援助を要請したと考え、伊勢神宮もこれに応えて加勢したと推測します。

去く鳥の 争ふはしに 度会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を

696年の高市皇子の死に際して柿本人麻呂が詠んだ挽歌の一節ですが、壬申の乱に際して度会から吹いてきた神風によって大海人皇子が勝利して天下を平定した、というこの歌から、伊勢神宮の援助が大きな力になったことを読み取ります。673年に大海人皇子が天武天皇として即位し、大来皇女を斎王に任命し、翌年に伊勢に参向させます。伊勢神宮は天武とともに壬申の乱に運命を賭け、成功したとする著者は、このときに伊勢神宮の地位が確立したとします。

伊勢神宮に関する様々な制度は天武朝以降に整備されたと考えられ、20年に一度の式年遷宮も天武あるいは持統天皇の時に始まったとされます。また、「大神宮」と呼ばれるようになるのも奈良時代に入ってから盛んになり、797年に完成した『続日本紀』では50数例を数えます。神宮司が設置され、その職をほぼ独占した中臣氏やその同族とされる荒木田氏が力を持つようになります。斎王に関する役所として斎宮司あるいは斎宮寮も設置されます。これらの神官職制度の整備によって伊勢神宮は大和政権の管理下に入り、皇祖神の地位を保ったまま国家神へと上昇していったのです。


以上、3回にわたって直木孝次郎氏の伊勢神宮成立に関する説を見てきましたが、南伊勢の太陽神を祀る地方神であった伊勢神宮が、同じ太陽神を祀る天皇家との関係をもつことによって皇祖神を祀るようになり、さらには壬申の乱から天武・持統朝を経て国家神へと地位を高めていったという考えから、この説は「地方神昇格説」と呼ばれたりします。この説には賛同者が多く存在する一方で、異を唱える専門家も存在します。たとえば、平安遷都後の賀茂社が斎院として皇女が派遣されたものの、その祭神が皇祖神とみなされたわけではないことを例に挙げて、地方神が皇祖神に昇格することなどそもそも古代人の氏族宗教的心性に照らしてあり得ない、と厳しく反論する論者もいます。

最後に、直木氏の説はあくまで伊勢神宮成立の話なので、天照大神は最初から皇祖神として存在することが前提になり、その皇祖神を祀る場所が大和から伊勢に遷った時代やその経緯が説かれているにすぎません。唯一、天照大神に触れているのが斎王寮の設置に関するところで、このように書かれています。

「…そしてこの十司であるが、その構成は養老令の後宮職員令にみえる朝廷の後宮の官司に酷似している。斎王が伊勢大神の妃とみなされていたことを物語るものであろう(伊勢大神は女神の天照大神で、女性に妃のいるのは不合理だが、天照大神はもと男神であったと考えられる)。」

天照大神がもともと男神だったことは武光誠氏が言及していました。また、歴史学の大家である津田左右吉は、太陽神が皇祖神となった経緯について「太陽が天にあって国土を照らすという自然現象と、皇室がこの国を統治するという政治形態とが相通じる関係にあるとして、皇室を太陽に擬すことによって太陽神が皇祖神とみなされるようになった」とし、さらに「家々の祖先が男として記されているのであるから、皇室の祖先である皇祖神も男神と考えるのが自然である」として、天照大神はもともと男神であったとする「皇祖神男神論」の立場をとっています。

天照大神が男神か女神かは別にして、大阪で生まれて大阪で育った私には、伊勢で太陽信仰が盛んになった理由がわかるような気がするのです。そしてこの感覚はおそらく河内や大和で暮らした古代人にとっても同様のものだったろうと思います。というのは、大阪や奈良に住んでいると海の向こうの水平線から昇る朝陽を見ることがないため、朝の空をオレンジ色に照らして大海原から昇ってくる朝陽を見たときの感動や感激は格別なものがあります。手軽に各地を旅してそのような光景を見る機会が増えた今でも、その感動は衰えることはありません。河内や大和からはるばる伊勢までやってきて、生まれて初めてこの光景を目にした古代の人々は現代人が想像する以上に感動したことでしょう。そしてこの場所はまさに太陽神の聖地であり、現代風に言うとパワースポットだと感じたのではないでしょうか。ましてや、神が海の向こうからやってくると信じた古代人にとってこの朝陽は神そのものであるとすら思ったことでしょう。とくに天皇家にはその感情が強くあったと想像します。

(つづく)








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天照大神と伊勢神宮(第1部・7章)

2022年06月13日 | 伊勢神宮
●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立②



直木氏は、伊勢は東国への交通の要地であるという第1の手がかりをさらに深掘りします。雄略朝のころ、大和から東海を経て東国へ通じるルートは、伊賀から北伊勢を通って尾張、そして東国へ、という陸路が主要ルートで、南伊勢から渥美半島へ船で渡る海路は脇道だとします。難波の住吉、尾張の熱田、敦賀の気比、筑前の宗像など古代の大社は交通上の要地にあるものが多いが、この時代に脇道であった、つまり交通上の要地でなかった南伊勢は神宮が設けられる条件を満たしていなかったとします。

私はこの南伊勢ルートが脇道であったとの考えには賛成しかねます。愛知県清須市にある歴史博物館を訪ねたときに学芸員の方から「清須市周辺は古代には湿地帯あるいは海の底であって、人が住める場所ではなかった」「人が住むようになったのはつい最近のこと」と聞いたことがあり、実際にこのあたりの標高を調べてみると、名古屋市から大垣市に至る新幹線が走るラインよりも南側、つまり濃尾平野の南西域は内陸部であっても海抜数メートル、場所によってはゼロメートルというところがあります。また、7世紀の濃尾平野の古地図を見ると、現在の一宮市あたりに大きな島があるものの、内陸部まで海が広がっています。これでは北伊勢から陸路で東国へ行こうと思えば大きく北へ回って美濃を経由することになります。つまり、大和から東国へのルートは美濃を経由する遠回りな陸路をとらない限り、南伊勢経由でも北伊勢経由でも海路になる、ということです。

著者は続けて、継体天皇死後の皇位継承をめぐる内乱によって、その脇道であった南伊勢ルートの交通上に占める意義が変化したとします。その内乱とは、尾張連から出た目子媛を母とする安閑・宣化と、仁賢天皇の皇女の手白香皇女を母とする欽明とが継体天皇の死後にそれぞれに皇位継承を主張して両朝が並び立った事態のことです。欽明側は勢力拡大のために東国を支配下に収めようとするものの、尾張連が押さえる北伊勢ルートは選択できずに南伊勢ルートをとらざるを得ず、このときに伊勢神宮の地位が高まり(著者は一貫して伊勢神宮の存在を前提に話を展開します)、欽明天皇家の尊信を得たと考えるのです。その後、この対立は欽明側の勝利に終わって両朝が統一されました。

『日本書紀』に記される継体天皇崩御から欽明天皇即位に至る紀年に矛盾が見られることから、このときに皇位継承争いがあったとする説があります。「継体・欽明朝の内乱」あるいは「辛亥の変」と呼ばれる争いですが、著者はそれを大きな材料として伊勢神宮の成立を考え、結果、6世紀前半の欽明朝のはじめに伊勢神宮と天皇家の関係が強化・確立されたとします。

とはいえ、この時点で伊勢神宮に天皇家の祖先神である天照大神が祀られていたわけではないとも言います。それどころか、天照大神を伊勢に遷し祀ったことについて『古事記』が全く触れないこと、『日本書紀』で天照大神が伊勢神宮のある地に天降ったと伝えていること、持統天皇6年に伊勢大神が天皇に奏上して伊勢国の調と力役の免除を請うていることなどから、伊勢神宮はある時期に皇祖神である天照大神を大和から伊勢に遷して建設したのではなく、古くから伊勢地方に神威を有する地方神の社であった、つまり天照大神は祀られていないものの地方神を祀る伊勢神宮はすでに存在していたとします。

その上で、伊勢の地は東に海をひかえる自然的条件から太陽信仰が盛んで、伊勢神宮の元来の祭神も太陽神であったことから、天照大神との習合・合体が行われたとします。伊勢神宮にとっては自己の政治的地位を高めることができ、天皇家にとっては伊勢から東国に勢力拡大するのに便利であるという両者の利害が一致したということです。その結果、地方神のうちの太陽神と習合した天照大神は内宮に祀られ、太陽神の性格を除いた農業神の性格を持った地方神が食物の神として外宮に祀られることになります。つまり、6世紀前半のこのときに天照大神を祀る伊勢神宮は成立したと説きます。しかしそれが天皇家の氏神の社の地位を独占し、国家最高の神社となるのは7世紀以降であると言います。

(つづく)








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天照大神と伊勢神宮(第1部・6章)

2022年06月11日 | 伊勢神宮
●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立①



私の手元にある本は1991年に出版された藤谷俊雄氏との共著による『伊勢神宮』の新版です。この本の旧版が出版された1960年から30年以上の歳月を経たのちの新版ですが、内容については「誤植を正し、一、二の加筆をするのにとどめてほぼもとの形のまま刊行する」とあとがきに記されています。この直木説は伊勢神宮成立に関する代表的な論考のひとつと言えるでしょう。さっそく著書から引用しながら見ていきます。

直木氏は伊勢神宮の起源を考えるにあたって2つの手がかりをあげます。第1の手がかりは「伊勢神宮の所在地が、伊勢湾をへだてて尾張・三河に対する交通上の要点で、大和政権の東方発展と関係があると思われること」、そして第2には「斎宮に関する記紀の記録」の2点です。それぞれ見ていきます。

まず第1の手がかりについて。天皇家の氏神である天照大神が故なく大和を離れて伊勢に遷されたとは考えられないので、伊勢の地が大和政権の勢力下に入って、なおかつ天皇家に重要視される時代にならなければ伊勢遷祭は起こりえない。著者はその時期を以下のような理由から5世紀中葉以降だとします。

まず、崇神・垂仁朝に相当する3世紀後半から4世紀初めの頃は、天皇家を中心とする大和の諸豪族の連合政権が成立してまのない時代であり、伊勢以東には勢力が伸びていなかったと考えられ、天照大神の社を伊勢に設けるほど、伊勢を重要視、神聖視したとは思えない。

古墳の分布は4世紀後半から5世紀にかけて、大和の勢力が伊勢湾の線をこえて東国地方へのびていっており、それに応じて伊勢地方の重要性も高まったであろうが、4世紀末から5世紀前半の天皇家の主たる関心は西方の朝鮮にあり、都も大和から難波に遷す状態であった。

允恭天皇・安康天皇・雄略天皇の頃からあとの天皇や天皇の后妃に属する部民が、関東地方南部を中心として多数設置されたことが史料からわかるので、天皇家の関心がふたたび東国へ向かうのは5世紀中葉以降と考えられる。この時期、高句麗の南下や、それに伴う百済国都の南遷などによって日本の朝鮮半島進出にも困難が生じてきたので、天皇家は勢力拡大の方向を転換して東方進出に熱心になったと考えられる。

以上が第1の手がかりの要約ですが、次に第2の手がかりである記紀にある斎王記事について、7世紀末頃までの記録を整理すると次のようになります。

 崇神(第10代) 豊鍬入姫命 <記・紀>
 垂仁(第11代) 倭姫命 <記・紀>
 景行(第12代) 倭姫命・五百野皇女 <記・紀>
 雄略(第21代) 稚足姫皇女(栲幡皇女) <紀>
 継体(第26代) 荳角皇女 <記・紀>
 欽明(第29代) 磐隈皇女 <紀>
 敏達(第30代) 菟道皇女 <紀>
 用明(第31代) 酢香手姫皇女 <紀>
 崇峻(第32代)  〃
 推古(第33代)  〃
 天武(第40代) 大来皇女 <紀>

氏は、記紀の斎王関係の記事で多少とも信用できるのは雄略朝にさかのぼるくらいで、それ以前の崇神・垂仁・景行朝はほとんど信用ができない、とします。もしもこの時期に実際に斎王を送るほどに伊勢神宮と密接な関係をもっていたなら、それ以降、雄略朝までの間に斎王記事がみえないことが説明できない、と言います。確かにその通りですが、それはこの時点で伊勢神宮が存在することを前提とした見解です。ただ、雄略朝の稚足姫の記事には問題があるとも指摘しています。

その問題とは、雄略天皇3年に廬城部(いおきべ)連武彦が稚足姫皇女を妊娠させたとする阿閉臣国見の讒言によって稚足姫が五十鈴川のほとりで自死した、とする『日本書紀』の記述が事実であるなら、伊勢神宮における斎王の地位はまだ不安定であり、天皇家と伊勢とのつながりは十分に確立していなかったと考えられるとし、ここでも雄略朝のときに伊勢神宮が存在したことを前提に論述します。筑紫申真氏もこの記事に言及しており、仮にこの話が作り話でなかったとしても、讒言した国見が石上神宮に逃げ込んだとあることから、彼は大和の豪族でありこの事件も大和が舞台であったと推測し、雄略朝において斎王は伊勢に派遣されていなかったとして、直木説よりも踏み込んだ判断をしています。これについては建築史学の林一馬氏も同様の見解を示します。

著者は第2の手がかりからは、天皇家と伊勢神宮が密接な関係を持つようになるのは6世紀初頭以降、古くみても5世紀後半の雄略朝ごろからとしながらも、雄略朝までさかのぼらせることを躊躇します。倭王武の名をもって中国南朝の宋に送った国書から、雄略天皇の数代前から天皇家の勢力が東西に広がっており、伊勢の重要性が高まっていたこと、記紀の雄略朝の記事には斎王以外にも伊勢に関するものが多くみられること、などから雄略天皇のときに伊勢に深い関係を持ったことは事実かも知れないとする一方で、先の稚足姫皇女事件の問題があることから、結局、伊勢神宮成立史においては継体・欽明朝の時代をより重視するとの考えを示します。

(つづく)








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天照大神と伊勢神宮(第1部・5章)

2022年06月09日 | 伊勢神宮
●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」③



筑紫申真氏は、天照大神は天武・持統両帝がつくったカミであり、皇大神宮は天武・持統両帝が築き上げた神社だと断言し、神格三転説にもとづいてそのプロセスや成立年代を説きます。加えて、その場所がなぜ南伊勢であったのか、についても論述しているので要約してみます。

南伊勢の宮川下流域は度会県と呼ばれ、この地の磯部(伊勢部、石部)と呼ばれる漁民たちを支配下におく度会氏が治めていました。天皇家の支配下に入ってからは御食つ国として魚介類を献上するほどに漁業の盛んな地域です。その度会氏は伊勢国造や外宮の神官を務めることになる有力豪族で、天日別命あるいは天日鷲命と呼ばれる日の神を祖先神として祀っていました。

大化の改新以降、度会・多気の二郡は神郡に定められ、度会氏は天皇家から統治を委ねられますが、敏達天皇6年(577年)に日祀部を置いて以降、太陽神を祀っていた天皇家と、同じく太陽神を祖先神とする度会氏との関係が深くなっていきます。そして魚介類を献上する役割を担った伊勢の海部(磯部・伊勢部)の中から、宮廷に専属する語部(かたりべ)となって大和に居住する天語連(あまがたりのむらじ)が生まれ、彼らは伊勢の太陽神信仰にもとづく神話を宮廷にもたらしました。これらが天岩戸神話や天孫降臨神話となって記紀に採録されるようになったのです。

天武天皇が幼少期に養育を受けた凡海氏は摂津の海部の一族ですが、その海部つながりを利用して伊勢の海部は天武天皇に接近しました。天武天皇はその影響もあってか、壬申の乱に際して伊勢の太陽神から受けた恩恵に対する報謝はそのまま伊勢の海部が信仰する太陽神への報謝へとつながり、ついには大和での太陽神信仰の場を南伊勢に移すとともに、大来皇女を斎王として南伊勢に赴任させることになったのです。

一方で伊勢の土豪の勢力関係が崩れて、度会氏のもとにあった宇治土公氏が台頭し、その系列の猿女君が天語連をしのいで宮廷内で力を持つに至ります。『古事記』を誦習した稗田阿礼は猿女君の一族です。宮川流域の度会郡を拠点とする度会氏・天語連から五十鈴川流域を拠点とする宇治土公氏・猿女君への勢力関係の変化が、皇大神宮を宇治に建設させる結果につながったと著者は言い切ります。

天岩戸神話で、岩屋に隠れた天照大神を外に出すために岩戸の前で踊った天鈿女命は猿女君の遠祖にあたり、現代においても毎年11月に宮中で催される鎮魂祭での儀式はこの伝承にもとづく太陽霊復活を祈るものです。そして著者は、伊勢の神島で毎年元旦の早朝に行われているゲーター祭りは宇治土公氏によって行われていた太陽霊復活祭の名残りであると指摘します。

最後に、著者は天照大神のモデルは持統女帝であると説きますが、この説そのものは広く説かれているものです。天孫降臨において、子の忍穗耳尊ではなく孫の瓊瓊杵尊を急きょ降臨させたとする神話は、若くして病死した草壁皇子に代わって孫の軽皇子を文武天皇として即位させた史実を反映したものである、天照大神が女性神であることの決定的な理由は持統女帝をモデルにしているから、としますが妥当な主張だと思います。


ここまで筑紫申真氏の『アマテラスの誕生』を3回にわたって見てきました。理解が難しいところは、多気や宇治で祀られていた川の神がなぜ日の神、太陽神になったのか、という点です。著者は「多気や宇治の地方神も川の神でありながらも天つカミとして日の神、風の神、雷の神でもあった」「これらの中から日の神が人格化されて天照大神ができあがった」としますが、川の神なのに日の神が人格化された理由は曖昧です。あえていうなら、度会氏が日の神である天日別命を祖先神としていたから、あるいは、北伊勢を行軍中に雷雨に打たれた大海人皇子が日の神(であった天照大神)に祈ったから、はたまた、神島でゲーター祭りという太陽霊復活祭が行われてきたから、くらいしかありません。

それにしても、度会氏の祖先神が日の神であるなら、なぜ多気大神宮ではもともと川の神を祀っていたのでしょうか。さらには、伊勢の地に皇祖神を祀った最初の場所が多気(現在の瀧原宮のあるところ)だったとして、そこにもともと祀られていた川の神は追い出されたのでしょうか。武光氏はそのあたりを「太陽神を祀る巫女であるひるめの神が水の神を婿として迎え入れて合祀した」と明確にしますが、筑紫氏はそこを曖昧にしています。

以上、著書の内容のほんの一部を紹介するにとどまりましたが、原始的な自然信仰のあり方、神社という形式が出来上がる前の祭祀のあり方など、たいへん勉強になる本でした。上記のように腹落ちしない部分が残ったものの、なるほどと思える部分もたくさんありました。さて、次は伊勢神宮の成立に関する代表的な説のひとつであり、筑紫氏もその著書を引用していた直木孝次郎氏の説を見て行こうと思います。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・4章)

2022年06月07日 | 伊勢神宮
●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」②



『日本書紀』によると、敏達天皇6年(577年)に「日祀部」が設けられました。このとき天皇家は日神を祀っていましたが、まだ天照大神は登場していません。さらに著者は歴史学者の直木孝次郎氏の説を引用して、大化の改新より前に天照大神が祀られた形跡がないことを示します。また、その後も天智天皇に至るまで天照大神や伊勢神宮を祀った記事が『日本書紀』にないことを指摘し、天照大神が天皇家の祖先神として人格を与えられて創り上げられるのは、天武天皇即位(天武元年)から、多気大神宮が度会に遷される前年の文武元年の間だと主張します。

その天武天皇元年(672年)には壬申の乱が起こります。挙兵のために吉野を出て伊勢国に入った大海人皇子(即位前の天武天皇)は「朝明郡の迹太(とほ)川の川辺で天照大神を望拝した」と『日本書紀』は記し、ついに天照大神が登場します。「望拝(たによせおがむ)」を「遥拝」として、すでに伊勢に存在していた皇大神宮を遥か遠くから拝んだ、と解するのが一般的ですが、この時点でまだ皇大神宮がなかったとする著者は、皇祖神としての天照大神ではなく、日の神としての天つカミを拝んだにすぎないとします。大海人皇子の一行は前日からの激しい雷雨で全身ずぶ濡れになり、寒さに凍えて朝を迎えたという状況から考えると、太陽の陽が降り注ぐことを期待して日の神に祈った、という行為は素直に理解できます。しかし、日の神を拝んだにすぎないのであれば「天照大神」という神名が登場することが理解できません。

この解釈については、前回に登場した林一馬氏(建築史学)も近い見解を出しています。同氏はさらに、大海人皇子はこのときに天照大神を自らの陣営の守護神とすることを決めたのだ、と一歩踏み込んだ主張をします。というのも、大海人皇子はこの時点では皇室に対して反逆を企てた謀反人であり、仮に天照大神が皇祖神として成立していたとすれば、それは近江側、すなわち大友皇子によって祀られるべき存在であり、それを強奪でもしない限り大海人皇子が拝むことは考えられないとします。つまり、この時点で天照大神は皇祖神として成立していないということです。的確な指摘だと思います。そして大海人皇子が天照大神を守護神にすることを決めた理由のひとつとして、日神への連想があったことをあげます。林説ではこのときに「天照大神」という名の神を守護神にすることを決めたので、この神名が登場することは納得できることになります。

ところで、『古事記』における天皇家の祖先神の呼び方は、編纂時に確定していた名称である「天照大御神」に統一されていますが、一方の『日本書紀』では古くからの言い伝えを整理不十分のまま掲載しているので様々な名称が出てきます。「日神」「大日孁貴」「天照大日孁尊」「天照大神」などですが、これらはこのまま太陽の霊魂からその人格化、天皇家の祖先神化のプロセスを順に示しています。持統天皇3年(689年)に草壁皇子が死去したときに柿本人麻呂が作った挽歌に「天照らす日女尊」という名が登場します。これは持統天皇のときには天皇家祖先の人格神の呼び名が天照大神として固まっていないことを表しています。神格三転説の第二段階です。

『日本書紀』には持統天皇6年(692年)に伊勢大神が伊勢国の貢ぎ物の免除を天皇に願い出たことが記されることから著者は、このときの伊勢大神は天皇家の祖先神になっていないことが明らかである、とします。たしかに、伊勢大神が皇祖神になっていたとすれば、皇祖神が天皇にお願いするというのはおかしな話です。また同じく持統天皇6年、天皇は伊勢に行幸したものの伊勢大神を参詣しなかったことから、この時の伊勢には参るべき皇大神宮はなく、伊勢大神も皇祖神になっていなかったとします。ただし、ここでは天照大神の前身が伊勢大神であることを前提としていますが、果たしてそうなのでしょうか。

文武2年(698年)に多気大神宮が度会郡に遷されて皇大神宮が成立したとする著者は、多気大神宮の名が多分に皇大神宮的であることなどから、多気大神宮は皇大神宮に似たものとして天皇家によって設立され、天皇家の氏神または祖先神の意識をもって祀られていた、とします。しかし一方では「多気大神宮はもうアマテラスをまつっていたかもしれませんが」と言葉を濁し、多気大神宮に祀られる皇祖神が天照大神であるとは明示しません。いずれにしても持統天皇6年以降、文武天皇2年までの数年の間に神格三転説の第三段階を迎えた、つまり天照大神が誕生したと説きます。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・3章)

2022年06月05日 | 伊勢神宮
●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」①



著者の筑紫申真氏はWikipediaによると「在野の神話学者、歴史学者、民俗学者」となっていますが『アマテラスの誕生』を読むと、歴史学者というよりも民俗学者の印象を強く受けます。民俗学によくあるパターンで、いくつかの事実や事象を取り上げて結論を導き出すものの、その因果関係が必ずしも明確ではないので今ひとつ腹に落ちない部分が結構ありました。では、少し長くなりますが著書から適宜引用させていただきながら順に追っていこうと思います。

8世紀よりも古い時代、神は一年に一回、海や川からやって来ると考えられ、その神を迎えるために神の妻となるべき女性、つまり巫女が神の着物とする神衣(かんみそ)を機にかけて織りました。神の一夜妻となるこの巫女は棚機つ女(たなばたつめ)と呼ばれました。

著者は、アマテラスの神格は「太陽そのもの→太陽神を祀る女→天皇家の祖先神」という具合に三転したとします(神格三転説)。『日本書紀』ではアマテラスの呼び方が「日神→大日孁貴→アマテラス」と変化していますが、これは神格が三転したことの表れで、日神とは太陽の霊魂そのもので自然神としての太陽神、大日孁貴とは太陽神を祀る女、つまり棚機つ女であり、オオヒルメのヒルメは日の妻(め)の意味であるとし、これは前回の武光誠氏の著書にも出てきました。

『日本書紀』には、天照大神が機殿で神衣を織っているときに素戔嗚尊が皮を剝いだ馬を投げ入れる場面が記されます。最高神である天照大神が織る神衣は誰のものでもなく天照大神自身のものであり、ここに太陽神と棚機つ女である巫女が同一視されたことが表れていると示唆します。天照大神は棚機つ女をモデルに天皇家の祖先神として創作された神なので女性神なのです。一書(第1)では神衣を織っていたのが稚日女尊となっていて、こちらの方がわかりやすい例かもしれません。ちなみに、このあたりの考え方は、著者が師事した民俗学の大家である折口信夫の影響を受けているとされます。

また著者は、続日本紀にある「文武天皇2年12月乙卯、多気大神宮を度会郡に遷す」の一文をもって、伊勢神宮(皇大神宮)の成立を文武天皇2年にあたる698年であるとします。この多気大神宮は三重県度会郡と多気郡の郡境を流れる宮川の上流域、現在は伊勢神宮別宮である瀧原宮が鎮座する場所にあったとします。この瀧原宮が度会郡に遷された多気大神宮の名残りであり、この「大神宮」という呼び名は古代において皇大神宮以外で使われたことがないとします。そして遷座した先が度会郡の五十鈴川上流の宇治、つまり現在の内宮の場所でした。

しかしこの説に対して建築史学の林一馬氏は、『古事記』分註にある「伊勢大神之宮」「伊勢大御神宮」などの用例や記紀に共通してみられる「出雲大神宮」の表記をもとに、「多気大神宮」は「多気の大神宮」ではなく「多気大神の宮」と読むべきであると反論します。そして、文武2年の記事が内宮遷座を指しているとすれば、天照大神を祀る伊勢内宮の創建を垂仁朝とする『日本書紀』の記述と矛盾する、つまり『日本書紀』と『続日本紀』、2つの正史に矛盾が生じるとも指摘します。また、こういった指摘とは別に、そもそも文武2年の記事は内宮ではなく外宮の成立を表しているとする説もあります。

瀧原宮は現在、天照大神(の和御魂)を祀っていますが、著者によると、もともとは雨水を司る水戸神(みなとのかみ)、つまり川の神を祀っていたそうです。そして度会郡の宇治の地でも毎年定期的に川の神を祀る滝祭りが行なわれていました。つまり、皇祖神としての天照大神が誕生する前は、いずれも多気や宇治の地においてそれぞれの地方神として川の神を祀っていたということです。このようにそれぞれの土地で祀られる神は天空に住んでいると信じられた霊魂で、大空の自然現象そのものの魂であったとし、著者はそれを「天つカミ」と呼びます。いわゆる自然神であり、日の神、月の神、風の神、雷の神、雲の神などが全て「天つカミ」として一括りにされ、多気や宇治の地方神も川の神でありながらも「天つカミ」として日の神、風の神、雷の神でもあったとします。これは神格三転説の第一段階にあたり、これらの中から日の神が人格化されて天照大神ができあがったわけです。

2021年11月、伊勢市街から宮川を40キロほどさかのぼった森の中に鎮座する瀧原宮を参拝しました。ここはどこの神社にもある手水舎がなく、参道から少し下ったところを流れる頓登(とんど)川の御手洗場(みたらしば)で清めてからお参りするのですが、これはまさに五十鈴川で清める内宮と同じ方式です。瀧原宮と内宮とのつながりを感じる一方、大和に居を構える天皇家が自らの祖神を祀る場所としてはあまりに遠く、しかも山あいの辺境な場所であることを実感しました。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・2章)

2022年06月03日 | 伊勢神宮
●武光誠氏の考える天照大神



前回の冒頭に紹介した武光誠氏の『誰が天照大神を女神にかえたのか』には「中臣氏が6世紀なかばに高天原神話を整えたときに、大日孁尊(おおひるめのみこと)の別名を持つ男性の天照大神を、女性の天照大神に変えた」と書かれています。大日孁尊は『日本書紀』に天照大神の別名として登場する神ですが、「尊」がついているので男性神とみることができます。しかし一方で「日孁」は「日の女」あるいは「日の妻」として「太陽神に仕える巫女あるいは巫女神」と解するのが有力な考えで、そうすると両者は矛盾する話となります。著者はこの矛盾を解く理屈として次のような解釈を展開します。

農耕神である太陽神(男性神)を祀る集団はその巫女神である「ひるめの神」も一緒に祀っているが、その中に、また別の農耕神である水の神(男性神)を「ひるめの神」の婿として迎え入れて合祀し、より大きなご利益を得たいと考える集団がいました。この合祀によって水の神と太陽の神が一体となった「おおひるめのみこと」というより強力な太陽神が誕生したのです。

この時点で「おおひるめのみこと」は男性神です。また、この解釈においては、古代の日本では婿入り婚が当たり前であったこと、別々の神を合わせてより有力なひとつの神にする合祀の概念が存在したこと、が前提となります。

ところが6世紀の初めに太陽神の祭祀を始めた大王家は天照大神を「おおひるめのみこと」と同じ神とみなしました。このとき、もともと女性神としての「ひるめの神」の名であった「おおひるめ」が天照大神の別名とされたことによって、天照大神を女性神とする発想が形成されていきました。わかりやすく言えば、「おおひるめ」と「おおひるめのみこと」を混同してしまった、ということになるのでしょう。

この解釈、実は私にはあまり理解が及びません。ここでは前後の話を省いて結論だけ書いているのですが、この本を全部読んでも痒いところに手が届かず、なかなか腹に落ちませんでした。婿入り婚については、たとえば九州から東征してきた神日本磐余彦尊が大和の豪族に婿入りして神武天皇として即位した、などの説があることから理解できるとしても、別々の神を合祀するという概念が古代に存在したのでしょうか。著者は大己貴神と少彦名命を祭神とする神田明神が鎌倉時代に平将門を合祀した例をもとに説明をするものの、新しい時代のことを持ち出して古い時代がそうであった、というのは少し無理がありますね。

一方で、日孁(ひるめ)=日の女、あるいは日の妻という見立ては、その後に読んだ本や論文にもたびたび登場し、反論する学者もいるようですが、どうやら定着した考えと言えそうです。

この著者も最後に伊勢神宮の誕生に触れています。天照大神の祭祀は6世紀に中臣氏が主導して中央で創られたとする一方で、これとは全く関係なく、伊勢では古くから「天照神」や「天日別命」、「高木神」などと呼ばれる太陽神が祀られていました。鳥羽の神島で行われていたゲーター祭り(※)はその名残りだとします。ちなみにこのゲーター祭りは2018年以降は祭りの担い手が少なくなったことなどから開催されていません。

壬申の乱に勝利した天武天皇は、大和で行われていた大王家の太陽神祭祀(天照大神の祭祀)を伊勢に遷し、伊勢の太陽神と天照大神を合祀しました。ここには国家祭祀の実権を中臣氏から天皇家に取り戻そうという天武天皇の意図があったとしています。なお、合祀された天照大神が最初に祀られた場所は現在の内宮ではなく、その別宮とされる瀧原宮でした。

ただ、なぜ伊勢だったのか、ということについては残念ながらほとんど触れられていません。伊勢の多気郡や度会郡が神郡とされて中央が重要視する神社が存在していたからと書かれていますが、中央が重要視する神社とはどこなのかがわかりません。さらには壬申の乱の際に伊勢の太陽神に道中の無事と勝利を祈った結果、乱に勝つことができたことにも触れますが、明確な理由とはしていません。

著者は「筑紫申真氏に従って、皇室の伊勢の祭祀の起点を天武天皇の時代においている」としており、この著書における伊勢神宮に関する論考も概ねそれに従っているように感じるので、次はその筑紫申真氏の著書である『アマテラスの誕生』を見たいと思います。


※ゲーター祭り(「小学館デジタル大辞泉プラス」より)
三重県鳥羽市、志摩諸島に属する神島で、大晦日の夜から元旦の早朝にかけて行われる民俗行事。大晦日の晩に、日輪を模してグミの枝を束ね白い紙で巻いた“アワ”と呼ばれる大きな輪をつくり、それを元旦の早朝、東の浜に担ぎ出して紙矛をつけた長い竹の棒で高く突き上げる。アワが高くあがればあがるほど豊漁になると言われている。県の無形民俗文化財に指定。



(つづく)




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天照大神と伊勢神宮(第1部・1章)

2022年06月01日 | 伊勢神宮
●アマテラスは何者?

アマテラス(『古事記』では天照大御神、『日本書紀』では天照大神。以降、特別な意図がない限りにおいて天照大神と記します。)はいったい何者なのか、なぜ女神なのか。今回はこの疑問に対する自分なりの答えを出してみようと思って学習を開始しました。私の人生において天照大神を知ってからここに至るまでの経緯は次のような次第です。

幼少の頃、「かみさまのおはなし」という絵本を幼稚園で買ってもらった記憶があります。天の岩戸や因幡の白兎の話が載っていたと思います。その絵本に登場する天照大神は女神でした。それ以来、天照大神が女神であることに何の違和感も持たずに生きてきました。生まれてこの方、ずっと大阪に住んでいる私の小学校のときの修学旅行はお決まりの伊勢志摩方面。中学生の時に式年遷宮があって、その後すぐに新しい内宮を家族と参拝しました。大学生、社会人になってからも、お手頃な観光地である伊勢には車で何度も出かけては伊勢神宮を参拝しました。小学生の頃からここに天照大神が祀られていることは知っていたし、それが女神であることもわかっていましたが、そこに特別な意味があることなど知る由もありませんでした。

ところが数年前のあるとき、本屋さんで『誰が天照大神を女神に変えたのか?(武光誠著)』という本を見つけて、「えっ?天照大神はもとは男だったの?」と頭の上に「?」がいくつも並んだのです。それでその本を買って読んでみたのですが、今ひとつよくわからず、というか痒いところに手が届かず、読後はそのまま放置していました。

その後すぐくらいのタイミングで、とある大学の公開講座を受講しました。友人の紹介で知り合った宗教哲学の先生の講座で、古代の祭祀やそれにまつわる神社や神様を学ぶ非常に価値ある機会だったのですが、このときに伊勢神宮や天照大神の話に関連して『アマテラスの誕生(筑紫申真著)』という本が紹介されたのです。さっそく買って読んでみると、先生の講義と重なるところもあって大変面白く、天照大神や伊勢神宮に関する知識がグンと増えました。

そして今から一年前の2021年5月、車中泊旅で名古屋から大阪の自宅に戻る途中、三重県津市に住む奥さんの友人宅を訪ねることになりました。私はお会いするのは初めてだったのですが、このときを機にFacebookでつながることになり、ブログも見ていただくようになりました。そして古代史好きな私に「神島で毎年元旦の早朝に行われるゲーター祭りは古代史と何か関係あるのかな」と質問がとんできました。実はこの友人、ゲーター祭りが行われる神島の出身なのです。ゲーター祭りのことは前述の公開講座でも聴き、『アマテラスの誕生』にも書いてあったにも関わらず、すぐに返答できませんでした。

年が明けて今年の1月、古代史コミュニティ「古代史日和」のオンラインサロンの企画で、天孫降臨神話に登場する鹿児島の笠沙岬(野間岬)や伊勢神宮別宮の瀧原宮へ行ったときのことを紹介する機会がありました。その発表に際しての質疑応答対策として事前にいろいろと調べて整理するうちに、あらためて天孫降臨神話や伊勢神宮、それに関連してゲーター祭りへの興味が高まりました。

そんな経緯があって「天照大神」を詳しく調べようと思い立ったのです。そして、専門家の書籍や論文を読んでいくうちに、天照大神のことを知ることは即ち伊勢神宮の成り立ちを知ることに他ならない、ということがわかってきました。天照大神に関する書籍や論文を読むと必ず伊勢神宮のことに多くの文字数が費やされていますし、伊勢神宮の成立を考える際にも天照大神は避けて通れないようです。そういうことで、今回の学習テーマを「天照大神と伊勢神宮」として少し幅を広げて自分の考えを作ってみたいと思います。

次回以降、わたしが読んだ天照大神や伊勢神宮に関するいくつかの書籍や論文の内容について、それぞれの著書からの引用を用いながらダイジェスト的に紹介しますが、他の専門家からの反論やわたしの意見、疑問などを挟んだ文章になることをお断りしておきます。

<伊勢神宮の位置>

 (国土地理院Webサイトより)

(つづく)


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