古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆神原神社古墳

2016年10月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 素戔嗚尊一族の時代の出雲を見てきた。倭国大乱の中、一度は先住支配族に勝利して出雲や越の支配権を握った素戔嗚尊一族であったが、弥生時代の終わりとともに結局は新しい勢力の支配下に入ることとなった様子についても四隅突出型墳丘墓の変遷をもとに書いた。その新勢力とは大和の纏向にある邪馬台国であり、支配される出雲は投馬国である。ちょうど弥生時代から古墳時代に変わるタイミングで支配勢力が変わった。いや、逆に支配勢力が変わったことによって古墳時代に移行したと言うほうが妥当かも知れない。まさに魏志倭人伝に描かれた倭国の時代の話である。

 先に2011年3月の出雲出張の折に荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡に加え、この神原神社古墳を訪れたことを書いた。加茂岩倉遺跡から東南に車で数分のところ、島根県雲南市加茂町大字神原の地、斐伊川水系の赤川の右岸すぐの神原神社の隣に4世紀中頃に築造された一辺が約30mの方墳である神原神社古墳がある。現在の姿は赤川改修のための堤防建設に伴って神原神社と共に移設された後のものであり、石室が復元されて自由に見学ができる。もともとは現在地から北東へ50mほどのところにあり、古墳の上に神原神社が建てられていたために発掘ができなかったが、神社移設の際に発掘調査が行われ、竪穴式石室から魏の「景初三年(239年)」の銘が鋳出された三角縁神獣鏡が見つかったことで名が知れることとなった。この三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡とも言われている鏡であり、景初三年の銘がある三角縁神獣鏡はこれまで大阪の和泉黄金塚古墳とここからしか出土していない。邪馬台国や卑弥呼と出雲のつながりを考えさせる鏡である。また、古墳の上にあった神原神社は出雲国風土記に「神原社」として記されており、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、磐筒男命(いわつつのおのみこと)、磐筒女命(いわつつのめのみこと)の三柱である。大国主命は書紀では素戔嗚尊の子、古事記では六世孫となっている。この古墳の上にあった神原神社が大国主命を祀っているということは、古墳の被葬者が大国主命本人であるか、あるいはそれと近しい素戔嗚尊の後裔と関係する人物であることは否定できないだろう。ましてや、景初三年の三角縁神獣鏡が出たとあっては邪馬台国や卑弥呼との関係を考えざるを得ない。


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