古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆葦原中国の平定(国譲り・第二段階)

2016年10月20日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 次に第二段階の天稚彦。父は天国玉神(あまつくにたまのかみ)であり、親子共に名前に「天」がついているので天津神であることに疑いはないが、この第二段階は話が少しややこしい。高天原では天穂日命が戻ってこなかったので次に誰を派遣するかを話し合った結果、天稚彦にしようということになり、高皇産霊尊は天鹿兒弓(あまのかごゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を持たせて送り込んだ。ところが天稚彦は大己貴神の娘の下照姫(したてるひめ)を娶って葦原中国に住み着いてしまった。そして自ら葦原中国を治めたいと言い、高天原への報告をしなくなった。葦原中国の王とも言える大己貴神の娘を娶ったということは、首尾よく敵を取り込んだということではないだろうか。逆に取り込まれたと考えられないわけではないが、その後の経過を見ると大己貴神がこの機に乗じて反撃してきたわけでもなく、天稚彦の行動が国譲りの障害になったわけでもないので、私はうまく事が進んだのだろうと考える。しかし、その後に天稚彦は死んでしまう。死の経緯については返し矢の話などの脚色が加わるが、そのことよりも重要なのは、天稚彦の葬儀で登場する味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)である。味耜高彦根神は天稚彦と仲がよくて顔がよく似ていた。高天原で行われた天稚彦の葬儀に参列したところ、あまりに似ていたために天稚彦の親族や妻子が間違えて、天稚彦は死んでいなかったのだと喜んだ。味耜高彦根神は死者と間違われたことで激怒して十拳剣で喪屋を切り倒してしまった。しかしよく考えてみると、いくら似ているとはいえ妻が亡くなった夫の顔を間違えることなど考えにくいことだ。それほど二人が似ていたと言いたかったのだろうが、それは味耜高彦根神が天稚彦の生き返りである、すなわち天津神と同等であることを主張したかったのではないだろうか。

 味耜高彦根神は葛城の高鴨神社の主祭神であり、別名を迦毛大御神という。この神は書紀においては国譲りで初めて登場する。書紀ではその出自はわからないが、古事記においては大国主神と宗像三女神の一人である多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)の子となっており、事代主神(ことしろぬしのかみ)や下照姫(天稚彦の妃)と兄弟であるとされている。出雲国風土記においても大国主神の子となっており、いかにも出雲の神のようになっているが、その出雲国風土記でさえ「葛城の賀茂の社に鎮座する神」としている。また、同じ大国主神の子であり味耜高彦根神の弟である事代主神にいたっては、国譲りの第三段階で非常に重要な役割を担う神であるにもかかわらず、出雲国風土記には一度たりとも登場しない上に、出雲には事代主神を主祭神として祀る神社がほとんどない。それにも関わらず葛城の鴨都波(かもつば)神社には主祭神として祀られている。私は味耜高彦根神も事代主神も出雲の神ではなく葛城の神であると考える。葛城の神として葛城の地を押さえていた味耜高彦根神が天稚彦の葬儀のために高天原へやってきたのだ。これらのことから、天稚彦が派遣された先は出雲ではなく葛城であったということがわかり、さらには葛城の地のリーダーであった味耜高彦根神が高天原に来たことから、彼が高天原一族に帰順する意思を示した、ということが言えるのではないか。だからこそ、顔が瓜二つであることにして天津神である天稚彦の生き返りということにした。かくして高天原一族による国譲り第二段階(葛城一族の取り込み)もうまく進んだ。

 実はこの第二段階で高天原一族(=日向族=神武系)が葛城を取り込む話は神武東征の最終局面である神武天皇の大和入りが下地になっているのではないかと思っている。神武は大和に入って葛城に拠点を設けた。それは神武王朝の宮がこのあたりを中心に設けられていることからわかる。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする