古代日本国成立の物語

小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取り組んでみよう。

神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)

2017年11月30日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 ここで今一度、書紀において熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神について考えてみたい。神託で示された神の名が天照大神、経津主神、事代主神、住吉大神であるとしておいたが、とくに二番目の神、すなわち尾田吾田節淡郡に居る神については諸説あるとしてひとまず経津主神としてみたが、書紀を読み進めると次のようなことが記されている。

 神功皇后が誉田別皇子(応神天皇)を生んだ後、仲哀天皇と大中媛との間にできた麛坂王(以降、香坂王とする)と押熊王が反乱を起こした時、皇后が難波に向かおうとして船が進まない状況に陥ったため、皇后が務古水門(武庫の港)に戻って占ったところ、4人の神が現れて託宣をした。託宣の内容は割愛するが、ひとり目が天照大神、ふたり目が稚日女尊(わかひるめのみこと)、3人目が事代主尊、そして4人目が表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神、すなわち住吉大神である。 それぞれの神の教えのとおりにしたら船は無事に進むことができたと言う。ここに登場する神は新羅を攻めよと告げた4人の神とよく似ている。違うのはふたり目が稚日女尊になっているところだけである。稚日女尊は書紀においては神代巻に登場し、高天原の機殿(はたどの)で神衣を織っていたとき、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで部屋の中に投げ込んだため、驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなったとある。稚日女尊は天照大神の妹神あるいは御子神であると言われる。

 同じ神宮皇后紀に4人セットで登場する神々のうち、3人が同じでひとりだけが違っていると考えるよりも4人とも同一であると考えるほうが自然ではないだろうか。つまり、尾田吾田節淡郡に居る神とは稚日女尊と考えることができる。「神功皇后(その1 仲哀天皇の最期①)」では粟島坐伊射波神社を現在の伊雑宮であるとして、その祭神は天照坐皇大御神御魂、すなわち天照大神であるからひとりめの伊勢の五十鈴宮の神である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と重複するとしたのだが、よく調べると伊射波神社は三重県鳥羽市安楽島(あらしま)町にあって伊雑宮とは別の神社であった。そしてここの祭神が稚日女尊なのだ。淡郡は粟島のことをいい、粟島が変化して安楽島になったのだ。そうすると、熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅侵攻を勧めた神が、天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉大神の神々ということになる。

 さて、この4人の神がなぜ仲哀天皇に対して熊襲ではなく新羅を討つように勧めたのだろうか。この課題を考えるにあたっては、このブログで述べてきた古代日本国成立における私の仮説をおおまかに確認しておきたい。

 魏志倭人伝にある邪馬台国は出雲から大和の纒向に入った勢力が築いた国で、日本海沿岸から北九州にかけての諸国を倭国としてまとめていた。この国の王は記紀では崇神天皇と呼ばれた。一方、この邪馬台国と対立していた狗奴国は南九州にあって、記紀においては熊襲あるいは隼人と呼ばれ、その王は神武天皇であった。また、邪馬台国が成立するより以前の大和には丹後からやってきた饒速日命が奈良盆地中央部の唐古・鍵に国を築いていた。狗奴国王の神武は南九州から東征して大和に侵攻、饒速日命の国を統合して奈良盆地南西部に勢力基盤を築いて纒向の邪馬台国、すなわち崇神勢力と睨み合った。
 葛城を拠点とする勢力が初代天皇の神武から第9代の開化にいたる一族で、私はこれを神武王朝と呼んでいる。一方、纒向を拠点とする第10代の崇神から第14代の仲哀にいたる勢力を崇神王朝とする。記紀においては初代から第14代までの天皇が順番に即位して系譜をつないだように記されているが、私は神武王朝と崇神王朝が並立していたと考えている。これが弥生時代後期にあたる紀元3世紀のことだ。その後、3世紀後半から4世紀にかけて崇神王朝が優勢になり、神武王朝は実質的な終焉を迎えたのである。

 以上のような状況の中で神功皇后が登場したのである。神功皇后および子の応神天皇につながる系図を次のようにまとめてみた。



 天日槍および彦坐王の系譜については書紀の記述が乏しいために古事記によることにした。また、この系図では開化天皇と伊香色謎命の間に崇神天皇が生まれているが、私の考えではこのつながりは創作ということになる。
 これを見ると神功皇后の父である息長宿禰王の系譜をさかのぼると第9代開化天皇につながっていることがわかる。また皇后の母である葛城高額日売命は天日槍にさかのぼることができる。要するに神功皇后は神武王朝の末裔であり、天日槍の末裔でもあるのだ。また父が息長宿禰王であることから、近江を拠点にした息長勢力でもある。神功皇后が丹波・近江連合勢力の後裔として出現したことは「景行天皇(その12 近江遷都)」などで書いた通りであるが、ここではさらに神武王朝ともつながっていることが確認できた。

 神武王朝は垂仁天皇から景行天皇の頃に実質的な終焉を迎えた、すなわち崇神王朝に敗北を喫したのだが、その神武王朝の末裔である神功皇后が仲哀天皇を殺害し、崇神から5代続いた崇神王朝にとどめを刺したのだ。まさに神武王朝のリベンジを果たしたと言えよう。

 これで4人の神が仲哀天皇に対して熊襲討伐を止めさせようとした理由が推察できよう。熊襲は神武王朝の故郷であり出身一族であったのだ。そしてあらためて4人の神を見ると、4人すべてが神武王朝ゆかりの神であることがわかる。天照大神は神武王朝の祖先神であり、稚日女尊はその妹または子とされる。事代主神は葛城の神で、葛城は神武王朝の大和での勢力基盤の地であった。さらに事代主神は神武・綏靖・安寧の三代の天皇の外戚でもあったのだ。最後の住吉大神は日向の地で伊弉諾尊の禊ぎによって天照大神とともに生まれた神である。

 ただし、そう考えたとしても2つの疑問が残る。ひとつは天皇崩御後の神託で4人の神の名を聞き出した後、吉備臣の祖である鴨別を派遣して熊襲を討たせていること。もうひとつは、討伐の相手がなぜ熊襲ではなく新羅だったのか。
 まずひとつ目であるが、そもそも仲哀天皇や神功皇后が筑紫にやって来たのは熊襲が謀反を起こしたからである。おそらく熊襲は神功皇后と武内宿禰の作戦に乗っかって謀反を装ったのだろう。景行天皇や日本武尊のときに何度も負かされている崇神王朝を打倒する作戦に乗らないはずがない。そして仲哀天皇が崩御した(殺害された)ことによって作戦はいったん終了であるが、熊襲が謀反を起こしたこと、天皇が熊襲討伐に失敗したことが記されるので、その後の措置として残された皇后が熊襲を平定したことにした。だから鴨別の派遣に対して熊襲は反抗することもなく服従したとされるのだ。
 
 もうひとつの疑問、なぜ新羅を討つように勧めたのか、については少し時間をかけて考えたい。
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神功皇后(その2 仲哀天皇の最期②)

2017年11月28日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 仲哀天皇の崩御の場面を書紀の記述で確認したが、古事記ではここまでの状況をどのように記しているであろうか。
天皇が熊襲を討とうと筑紫の香椎宮に滞在していた時、皇后が神懸りした。天皇が琴を弾き、武内宿禰が祭場で神託を求めた。皇后に憑りついた神は「西の彼方に金銀のほか、眩いばかりの宝物がある国がある。その国を天皇に帰属させよう」と言った。しかし天皇は「高い山に登っても国は見えない」と言い、偽りを言う神であるとして琴を弾くのを止めた。すると神はひどく怒って「もはやこの国は汝の治める国ではない。一筋の道に行きなさい(死を意味することか)」と言ったので、武内宿禰が「恐れ多いこと。天皇、そのまま琴を弾いてください」と言った。天皇は再び弾き始めたが間もなくして琴の音が途絶えた。火を指し向けて見ると天皇は崩御していた。

 書紀の記述に比べるといかにも怪しい雰囲気が漂う描写だ。書紀では、天皇は神託に逆らって実際に熊襲討伐に出向いたが失敗して崩御したとあるが、古事記では熊襲討伐に出向くことなく、神託の場で崩御している。このとき、この場には天皇、皇后、武内宿禰の三人がいたのみである。そして武内宿禰が神に問いかけ、神が神功皇后に憑りついて問いに応える。天皇は琴を弾きながらそれを聞く立場だ。つまり、武内宿禰と皇后のふたりがこの場面を支配していることになる。そんな状況下で天皇が崩御した。天皇がふたりによって殺害されたのは明白だ。臣下と皇后による天皇暗殺。書紀ではそれを伏せるために神託の後に熊襲討伐に向かわせたのだ。
 殯(もがり)の儀式のあと、武内宿禰は祭場で再び神託を求めた。神は「この国は皇后の胎内にいる御子が治める国である」と言ったので武内宿禰は「その子は男か、それとも女か」と尋ねると神は「男である」と応えた。宿禰が「そのようにおっしゃる神の名をお教えください」と願うと神が「天照大御神の託宣である。また、住吉の底筒男・中筒男・上筒男の三大神である」と応えた。書紀では四人の神であったのが古事記では天照大神と住吉大神のみとなっている。

 仲哀天皇が崩御した時点では皇位を継ぐことができる皇子が三人いた。すなわち麛坂皇子と押熊皇子、そして誉屋別皇子である。いずれも神功皇后の子ではなかった。普通に考えれば三人の皇子のいずれかが皇位を継ぐことになるはずだが、神功皇后はそれを阻止して自らのお腹にいる子に皇位を継承させようと目論んだのだ。その作戦は皇后ひとりによるものではなく、武内宿禰とともに練ったものだ。香椎宮において仲哀天皇を殺害するとともにお腹の子に皇位を授ける神託を行う、そしてそれを告げた神を天皇家の祖先神である天照大神として誰も文句を言えないようにしたのだ。書紀よりも古事記の描写の方が当時の状況をよりリアルに伝えているように思う。

 さて、神託を告げた神は天照大神と住吉大神であるが、この二柱の神はこの場面における神功皇后と武内宿禰に重なって見える。要するにこのふたりが天皇を殺害したことを暗示しているのだ。
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神功皇后(その1 仲哀天皇の最期①)

2017年11月26日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 天皇は仲哀9年2月に香椎宮で崩御したが、神功皇后は、天皇が神の教えに従わずに崩御したことに心を痛め、祟った神を知って財宝の国を求めようと思い、群臣(まえつきみ)と百僚(つかさつかさ)に命じて罪を祓い、過ちを改めて小山田邑に斎宮を設け、翌月には自ら神主となって斎宮に入った。中臣烏賊津使主を審神者(さにわ)とし、武内宿禰に琴を弾かせた。審神者とは神託を聞いてその意味を伝える役割を担う人のことである。皇后は琴の両側に幣帛をたくさん積んで「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしょうか。願わくはその神の名を教えてほしい」と問いかけたところ、七日七夜にわたって神々の名が次のように告げられた。
 まず、伊勢国の渡会郡の五十鈴宮に居る撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。次に、尾田吾田節の淡郡(あわのこおり)に居る神。さらに、天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)。そして最後に、日向国の橘小門(たちばなのおど)の水底に居る海藻のように若々しく生命に満ちている神で名前は表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男神(そこつつのお)。皇后はこれらの神々の名を告げられた。

 ひとり目の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は伊勢の五十鈴宮の神となっているので、伊勢神宮に祀られる天照大神のことであるとする通説に異論はない。
 ふたり目の尾田吾田節淡郡の神が誰を指すのかは諸説あるようだ。ひとつは「淡郡」を阿波国阿波郡、「吾田」を赤田、さらに「節」をフチ=フツと考えて、徳島県阿波市にある赤田(あかんた)神社に祀られる経津主神とする考え。赤田神社は建布都神社の論社である。論社とは、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことである。鎌倉時代末期に卜部兼方が記した日本書紀の注釈書である「釈日本紀」は阿波郡の建布都神にあてている。経津主神は国譲りにおいて高天原から派遣された神である。
 別の説として「田節」を志摩国の答志(たふし)、「淡郡」を粟島と考えて、志摩国答志郡(現在の三重県志摩市磯部町)にある粟島坐伊射波神社(伊雑宮(いざわのみや))をあてる説がある。伊雑宮は志摩国一之宮で「天照大神の遙宮(とおのみや)」とも呼ばれ、祭神は天照坐皇大御神御魂 (あまてらしますすめおおみかみのみたま)、すなわち天照大神である。しかし、ひとり目の神が天照大神であるので、ふたり目の神が同一とは考えにくい。そうすると経津主神と考えるのが妥当ということか。
 三人目の神、天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神は長い名がついているが、要するに事代主神のことである。事代主神は大国主神の子で出雲の神とされているが、私は鴨氏あるいは葛城氏につながる葛城の神であったと考えている。詳しくは「事代主神」をご覧いただきたい。
 そして四人目の神として表筒男・中筒男・底筒男が挙げられているが、住吉大神そのものである。書紀の神代巻において、伊弉諾尊が黄泉の国から逃げ帰ってきて日向の小戸橘の檍原(あわきはら)で穢れた身体を洗ったときに生まれた九柱の神のうち、表筒男神・中筒男神・底筒男神の三柱の神を総称して住吉大神であるとしている。

 熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神が、天照大神、経津主神、事代主神、住吉大神の神々であることが神功皇后を通じた神託によって明らかにされた。
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仲哀天皇(その3 神の啓示)

2017年11月24日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 仲哀8年9月、天皇は橿日宮において熊襲討伐の会議を行った。そのとき皇后に神が憑いてこう言った。「熊襲は荒れて痩せたところで、取るに足らない国だ。それよりも目に眩い金銀や彩色の宝がある新羅の国を手に入れてはどうか。私をよく祀れば刀を血で濡らさずに自然と服従するだろう」と。しかし天皇はその託宣を信じなかった。「高い山に上って見渡したが、あたりは海が見えるだけで国など見えない。我を欺くのはどこの神か。歴代の天皇は皆、あらゆる神々を祀ってきた。祀っていない神はいないはずだ」。神はまた皇后に託して「水に映る影のように自分が見下ろしている国を『国はない』と言ってわが言葉を謗るのか。汝が信じないのであれば汝はその国を得ることはできない。ただし、皇后は今、子を孕んでいる。その子が得ることになるだろう」と言った。それでも天皇は信じることができずに熊襲討伐を強行したが勝つことができずに帰還した。
 翌年、天皇は病にかかって亡くなった。年齢は52歳であった。つまり、神の言葉を信じなかったことが原因と考えられた。別の言い伝えによると、天皇は熊襲を討った時に賊の矢が命中して崩御したのだと言う。
 皇后と大臣の武内宿禰は天皇の死を隠して天下に知らせなかった。皇后は大臣と中臣烏賊津使主(いかつのおみ)、大三輪大友主君(おおともぬしのきみ)、物部胆咋連(いくいのむらじ)、大伴武以連(たけもつのむらじ)に詔して言った。「天下の民は未だ天皇が崩御したことを知らない。もし百姓が知ったら怠けるかもしれない」。そして4人の大夫(まえつきみ)に命じて宮中を守らせた。
 密かに天皇の遺骸を収めて武内宿禰に任せて、海路から穴門へ移させた。そして豊浦宮で火を焚かずに殯を行った。武内宿禰は穴門から戻って皇后に報告した。この年は新羅との戦があったので天皇の葬儀は行われなかった。

 以上が書紀に記された仲哀天皇の最期の場面である。書紀の仲哀紀はここで終わっているが、仲哀天皇の最期の場面は次の神功皇后紀に続いて記される。また、この場面は古事記においても記される。神功皇后紀にて続きの話を確認した上で古事記との比較をしながらこの場面を考えてみたい。
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香椎宮

2017年11月17日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 2017年9月、福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮を参拝。勅祭社であり、旧社格は官幣大社。主祭神は仲哀天皇と神功皇后で、応神天皇と住吉大神を配祀する。現在も勅祭社として10年に一度、天皇からの勅使の参向を受ける神社である。
 博多駅からJR鹿児島本線で北へ向かい4つ目の香椎駅で下車。香椎宮の最寄駅はこの香椎駅から香椎線に乗り換えて1つめの香椎神宮駅であるが、勅使道と呼ばれる参道を歩いてみたかったので香椎駅で改札を出た。

勅使道のスタート。この右手にある小さな丘の上に頓宮がある。頓宮は神幸式のときの神輿の仮宮であるので、普段はここに神様はいない。神幸式(神幸祭ともいう)とは神霊の御幸(ぎょこう)が行われる神社の祭礼のことで、多くの場合は神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移して氏子地域内に御幸したり、御旅所や元宮に渡御したりする。

この奥が頓宮。


勅使道は古くは神の道として、勅使参向ならびに神幸式の時のみに使用されたという。直近の勅祭は平成27年10月9日に斎行された。


両側に楠の並木が続く1キロほどの勅使道のゴールは香椎宮の入り口。



香椎宮とその周辺は見どころがいっぱい。日本古代史の最大の転換点となった場所、というのは言い過ぎかな。


荘厳な楼門。


楼門をくぐって右手にある勅使館。


さらにその奥には武内宿禰の像がある。


綾杉。楼門をくぐった正面の広場に立つ神木。「綾杉」の名は杉の葉が交互に生える様を綾に例えたことによるらしい。神功皇后が三韓征伐から帰国した際、剣・鉾・杖の三種宝を埋め、鎧の袖に挿していた杉枝を本朝鎮護祈願で植えたものという。そうだとしたら樹齢は1600年以上か。


中門をくぐるとすぐに拝殿。


本殿は横から撮影。この構造はここだけのもので日本唯一の「香椎造」と言うらしい。


境内を出て少し歩いたところにある古宮。仲哀天皇が熊襲征伐の際に設けた仮宮「橿日宮(訶志比宮)」の伝承地。大正4年(1915年)までは仲哀天皇を祀る祠が存在したが同年に本殿に合祀されたという。



仲哀天皇の棺を掛けたという神木「香椎」。棺掛椎(かんかけのしい)という。


歩を進めた突き当たりにある「仲哀天皇大本営御旧蹟」の碑。



仲哀天皇は熊襲を討とうとこの地へやってきたが、后である神功皇后に憑いた神が西の新羅を討つことを勧める。天皇はその神の教えを聞かなかったために崩御する。日本書紀では熊襲の矢に当たって死んだとも、病で倒れたとも。古事記では神託の場で琴を弾いていた天皇はそのまま息絶えたという。その現場にいたのは天皇のほかに神功皇后と武内宿禰のみ。記紀ともにこのシーンはいかにも意味深に描かれている。このあと、神功皇后は朝鮮半島へ渡って新羅との戦に勝利。凱旋帰国して応神天皇を生んだ。

古宮から歩いて5分ほどのところにある不老水。仲哀天皇・神功皇后に仕えた武内宿禰がこの泉の水を汲んで食事・酒を調えて300歳以上という長寿を保ったことによるという。


この一帯は天皇・皇后に随行した武内宿禰が居住した地として「武内屋敷跡」と呼ばれる。


「武内」の表札がかかっているのは、現在ここに住んでおられる方が武内さんなのか、それとも武内屋敷跡を示す案内板なのか。

途中から降りだした雨のせいもかもしれないが、香椎宮境内と古宮から武内屋敷跡にかけての一帯は千数百年まえに起こった事件を感じさせる空気だった。
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仲哀天皇(その2 熊襲征伐)

2017年11月15日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 仲哀8年、天皇と皇后は豊浦宮を出て筑紫に向かった。目的地は筑紫の橿日宮(現在の香椎宮)であるが、この行程においてもふたりは別行動をとっている。
 天皇はまず周芳(すわ)の娑麼(さば)の浦、現在の山口県防府市佐波に到着し、岡県主の先祖である熊鰐(わに)の歓迎を受けた。熊鰐はここで天皇に魚や塩を採る魚塩(なじお)の地を献上した。そのあと、穴門の引島、現在の山口県下関市彦島では伊都県主の先祖の五十迹手(いとて)の歓迎を受ける。天皇はこのときに五十迹手を褒めて「伊蘇志(いそし)」と言ったので時の人は五十迹手の国を伊蘇国と呼び、これがなまって伊都国になったという。魏志倭人伝にある伊都国である。3世紀後半、伊都国は現在の糸島市にあって倭国における外交窓口として栄えた国であった。天皇はそのまま関門海峡を抜けて山鹿岬(やまかのさき)、現在の北九州市若松区の遠見ケ鼻を経て岡浦(おかのうら)に入った。そして水門(みなと)に着いたときに船が進まなくなった。岡浦の水門とは遠賀川河口にあり、神武天皇が東征の際に立ち寄った岡水門(おかのみなと)のことである。古代には遠賀川下流域は古遠賀潟が広がっていて潮の干満で船の航行が左右された。おそらく天皇の船が岡浦についたときは干潮時にあたっていたのだろう。しかし、熊鰐が大倉主と菟夫羅媛(つぶらひめ)の男女二神が原因であると言うので天皇は舵取りの伊賀彦に二神を祭らせたところ、無事に進むことができた。

 ここで前述の娑麼の浦での熊鰐による歓迎と引島での五十迹手による歓迎の様子を見ておきたい。熊鰐は五百枝賢木(いおえのさかき)を船の舳先に立てて上段の枝に白銅鏡(ますみのかがみ)、中段の枝に十握剣、下段の枝に八尺瓊(やさかに)をかけて出迎えた。八尺瓊は勾玉であるので要するに三種の神器を賢木に吊るしたということだ。一方の五十迹手は、船の舳先と艫に立てた五百枝賢木の上段に八尺瓊、中段に白銅鏡、下段に十握剣を吊るして天皇を迎えた。こちらも同じ三種の神器である。このことから三種の神器は天皇家のみならず各地域の首長の権威を表すものでもあったことがわかる。熊鰐や五十迹手はそれを示すことによって自身が地域の首長であることを誇示するとともに、天皇に対して歓迎の意を表したのであろう。しかし熊鰐と五十迹手の場合では各神器の吊るす順番が違っているが、この順番によって首長の序列があったのだろうか、それともこの違いは各地域での祭祀方式の違いを表しているのだろうか。
 二代前の景行天皇が熊襲討伐のために西征した際に仲哀天皇と同様に周芳の娑麼に滞在したことがあった。このとき、南の方に煙が立ち上るのをみて賊がいると思い、確認のために使いを派遣したところ、女首長の神夏磯媛が(かむなつそひめ)が帰順の意を表しにやって来た。このとき神夏磯媛の船の舳先には、磯津山(しつのやま)で抜き取った賢木の上段に八握剣、中段に八咫鏡、下段に八尺瓊が吊るされ、さらに基準の意思を表す白旗が掲げられていた。ここでも三種の神器を賢木に吊るすという方法をとっているが、その順番は熊鰐や五十迹手と違っている。
 さらに書紀の神代巻を見れば天照大神の岩屋隠れの話に同様の場面が登場する。書紀本編においては、八十万の神々が天照大神を天岩屋から外へ出すために様々な策を施すなかで、中臣連の祖先の天児屋命(あめのこやねのみこと)と忌部氏の祖先の太玉命(ふとたまのみこと)が天香山の五百箇真坂樹(いおつまさかき)を掘り出して、上の枝に八坂瓊の五百箇御統(いおつみすまる)、中段の枝に八咫鏡、下段の枝には青と白の和幣(にきて)を掛けて祈祷するということを試みている。和幣とは麻の布のことである。一書(第3)においても同様に天香山の真坂木の上段に八咫鏡、中段に八坂瓊の曲玉(まがたま)、下段に木綿(ゆう)をかけて祈った、とある。三種の神器のうち剣が用いられずに麻布や木綿に替わっている。これは最高神である天照大神に対して剣を示すことが不適切であるということであろうか。そしてここでも上段と中段で順番が違っているが、重要なことは天岩屋の前で真坂木に神器を吊るして祈っていることである。三種の神器を真坂木あるいは賢木に吊るすという行為は祈りの際のしきたりなのであろう。

 話を元に戻して、天皇が引島から海岸伝いに岡浦へ進んでいた時、皇后は別の船で洞海(くきのうみ)から岡浦を目指した。洞海は現在の洞海湾であるが、古代には東西に広がる遠浅の湾で古遠賀潟によって遠賀川河口と水路でつながっていた。この皇后の船も洞海で進まなくなったと言う。同じく干潮によるものと考えられるが、皇后の場合は潮が満ちてきたので船が進んだと素直に書かれている。

 天皇、皇后ともにそのまま儺県(なのあがた)に向かい、橿日宮に入った。現在の香椎宮は仲哀天皇と神功皇后が主祭神として祀られ、本殿からすぐ近くにこのときに設けられた仮宮の伝承地があり「仲哀天皇大本営御旧蹟」の碑が建てられている。
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仲哀天皇(その1 崇神王朝の終焉)

2017年11月13日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 成務天皇には跡継ぎの皇子がいなかったため、異母兄である日本武尊の子、足仲彦尊が皇太子となっていた。そして成務天皇の崩御後に仲哀天皇として即位した。しかし、先に書いた通り私は成務天皇と日本武尊は同一人物であると考えるので、景行天皇、成務天皇(日本武尊)、仲哀天皇は直系で系譜をつないでいると言える。
 仲哀天皇が即位した年の11月、天皇は群臣に向かって「自分が二十歳になる前に父の王が亡くなり、魂は白鳥となって天に昇った。それで白鳥を飼うことによって父を偲びたい」と言って諸国に白鳥を献上させる詔をしているが、ここで「父王」という表現が使われている。また、越国から白鳥4羽が献上されようとしたときに蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)が「白鳥も焼いてしまったら黒鳥になるだろう」と言ってその白鳥を奪い取ったことに対して、天皇は蒲見別王が先王に対して無礼であることを憎んで兵を送って誅殺した。ここでは「先王」という表現になっている。さらにこの事件に対して時の人が「父(日本武尊のこと)は天であり、兄(仲哀天皇のこと)は君主である。天を侮り、君主に叛けば罪は免れることができない」と言った。日本武尊を「天」と呼んでいる。これらはすべて日本武尊が天皇であったことを意味していると考えられる。

 仲哀天皇は気長足姫尊(おきながらしひめのみこと)を皇后としたが、それより先に叔父である彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘である大中媛(おおなかつひめ)を妃として香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)というふたりの皇子を設けていた。また、来熊田造(くまたのみやつこ)の祖である大酒主(おおさかぬし)の娘である弟媛(おとひめ)との間には誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を設けた。気長足姫尊はのちの神功皇后であるが、なぜ三番目の妻が皇后となったのであろうか。
 これを考えるにあたっては、日本武尊が近江の伊吹山の神に敗れて死に至ったことが、天皇家が近江勢力に敗北を喫したことを意味している、ということを思い出す必要がある。この近江勢力とは言わずもがな、天日槍の後裔たちが築きあげた大丹波王国に近江の息長勢力を加えた連合勢力である。仲哀天皇は自身の父である日本武尊、すなわち成務天皇がこの連合勢力に敗れたあとに即位したのである。大中媛や弟媛という本来なら皇后にしたい妻がいるにも関わらず気長足姫尊が皇后になったのは、天皇家に勝利して勢いを増したこの連合勢力が自陣の気長足姫尊を送り込んで強引に皇后にさせてしまったのである。大中媛との間にはすでに皇太子候補である香坂皇子と忍熊皇子の兄弟が存在し、弟媛との間にも誉屋別皇子がいたにも関わらず、未だ皇子を生んでいない気長足姫尊が皇后になる理由はそれ以外に考えにくい。要するに連合勢力が実権を握ろうと目論んだのだ。仲哀紀を読んでも天皇と皇后が夫婦である印象が全くと言っていいほど伝わってこないことはそれを裏付けているのではないだろうか。
 仲哀2年、角鹿(敦賀)に行幸して行宮として笥飯宮(けひのみや)を設けたとあるが、これも実際は行宮ではなく、景行天皇が晩年に遷都した高穴穂宮を廃止して笥飯宮に遷都したのではないだろうか。もちろん連合勢力の仕業である。これによって仲哀天皇は完全に実権を失うこととなり、崇神王朝はここで実質的な終焉を迎えたと言ってもいいだろう。もともとこの敦賀の地は書紀において天日槍が渡来後に但馬に拠点を設けるまでに移動したルートにあたっており、大丹波王国が押さえていた要衝の地であったのだ。また、「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」や「天日槍の王国」などで見たとおり、このあと神功皇后に応神天皇が生まれると、連合勢力と敦賀あるいは笥飯(気比)とのゆかりがさらに深まっていくことになるのだ。そういう状況下にあって仲哀天皇は遷都後すぐに紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)に行幸しているが、これには皇后を伴っていない。これは明らかに連合勢力からの逃避であろう。こういう様子を見ていると、仲哀天皇と神功皇后が本来の夫婦関係にあったとは到底思えないのだ。現在の和歌山市新在家に徳勒津宮の跡地がある。

 天皇が紀伊国に行幸しているときに熊襲が叛いた。景行天皇の時以来、三度目の反乱である。中央政界が大きく揺れている真っ只中での反乱であるが、このタイミングは偶然であろうか。私は神功皇后が仕組んだのではないかと考えている。崇神王朝が実質的に終焉を迎えようとしている中での有事の勃発はさらに政権の力を弱めることになる。仲哀天皇にとってはまさに内憂外患である。
 天皇は徳勒津宮から船で穴門(山口県)に向かうとともに、敦賀に使いを出して神功皇后に対して穴門で落ち合おうと告げた。天皇は先に豊浦津(とゆらのつ)に到着したが、皇后は敦賀を出て渟田門(ぬたのみなと)に着き、船上で食事をとった。このとき、たくさんの鯛が船の周りに集まって来たので皇后がそこに酒を注いだところ、鯛は酒に酔って浮かんできた。漁師たちはその鯛を得て大いに喜んだ。この話、神武天皇が東征の際に大和に侵攻しようと戦っているときに丹生川の上流で勝敗を占った際の行為とそっくりだ。酒の入った甕を丹生川に沈め、大小の魚が酔ってマキの葉が流れるように浮かび上がってきたら必ずこの国を平定できるだろう、と言って甕を沈めたところ、魚が皆浮かび上がって来たので天皇は大いに喜んだという。神功皇后の行為は神武天皇が行った占いの行為そのものであり、さらにはその結果によって勝利、すなわち仲哀天皇からの政権奪取を暗示するものであった。このあと、仲哀紀および神功皇后紀における皇后の行為において、神に教えを乞うたり、神の教えに従ったり、神に依存する場面が多く出てくる。皇后が神と通じる存在であることをほのめかす意図があるのだろう。

 皇后は約ひと月遅れで豊浦津に着いた。このとき、如意珠(全ての願いが叶う珠)を海中から拾い上げたという。これは山幸彦が失くした針を探し求めて滞在した海神の宮殿から戻るときに海神からもらった潮の満ち引きを自由に扱える潮満玉(しおみつたま)と潮涸玉(しおひのたま)を思い出す。神と通じる存在になったこと合わせて神功皇后がどんどん強くなっていく様子が窺える。その後、穴門に豊浦宮を設けた。しかし、ここからすぐに熊襲征伐に向かったわけではなく、その後この豊浦宮での滞在が6年にも及ぶことになる
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平原遺跡

2017年11月06日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2017年3月、伊都国歴史博物館→井原鑓溝遺跡→三雲南小路遺跡と巡って、途中、狐塚古墳、銭瓶塚古墳、ワレ塚古墳を見ながらいよいよ最後の目的地である平原遺跡へ。



平原遺跡は福岡県糸島市にある弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。1965(昭和40)年、土地の持主(井手さん)がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、多数の銅鏡の破片が出土したことから平原1号墓が発見され、原田大六氏による調査の結果、最終的に5基の墳丘墓が発見された。1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年に国宝指定された。これらは伊都国歴史博物館に実物が展示されている。



1号墓は方形周溝墓で割竹形木棺の埋納が検出されている。1号墓の墓壙周辺に12本の柱穴跡があり、上から見て、このうちの10本を結ぶと平行四辺形の形が浮き上がる。短辺の中央の柱穴を結んだ線の延長には、それぞれ短辺の中央の柱穴から1メートルほど離れた場所に柱穴跡がある。この4本の柱穴を結んだ線の延長上の東南約15メートルに「大柱跡」とされる穴があり、その延長線上に日向峠がある。

平原王墓の謎。


1号墓の後方から。

稜線のいちばん低いところが日向峠であるが、よく見ると軸線から少しずれている。

発掘に携わった原田大六は1号墓の被葬者を大日孁貴、すなわち天照大神としているが、果たして真実はいかに。

この遺跡は周囲に高い建物がなく東の山々まで望むことができる。これは古代の人々が見たのと同じ景色である。
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三雲南小路遺跡

2017年11月04日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
井原鑓溝遺跡の次はすぐ近くの三雲南小路遺跡。

この遺跡は江戸時代の文政5年に発見された。発見当時の様子を記録した『柳園古器略考』には、甕棺の大きさは「深三尺餘、腹經二尺許」であり、高さが90cm以上、胴の直径が60cmほどもある巨大なもので、その巨大な甕棺が二つ、口を合わせて埋められていた、と書かれている。中からは銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1個、ガラスの璧8枚、金銅製金具などが出土している。これらの出土品は殆どが現残していないが、わずかに銅鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられており、国の重要文化財に指定されている。出土した甕棺からこの墓は弥生時代の中期後半(紀元前後)に造られたものと考えられる。

甕棺墓の跡や周濠の跡がわかるように残されている。



最初の発見から150年後の1975年(昭和50年)、福岡県教育委員会によって発掘調査が行われ、新たに2号甕棺が発見された。2号甕棺も、高さ120cm、胴の直径が90cmの巨大な甕棺二つの口を合わせて埋めたもので、これも盗掘されていた。副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製勾玉1個、ガラス製勾玉1個、ガラス製管玉2個、ガラス製垂飾1個などが出土している。また、1号甕棺の破片や副葬品の銅鏡の破片多数、ガラス製の璧も出土し、新たに金銅製の四葉座飾金具が出土した。銅鏡はすべて中国製で、1号棺、2号棺からの前漢鏡を合わせると60面近く出土している。この時の調査では2基の甕棺のまわりをとり囲むと考えられる溝(周溝)の一部も発見されており、甕棺は墳丘の中に埋葬されたと考えられる。墳丘は東西32m×南北22mの長方形をしていたと推定され、弥生時代の墓としては巨大なものである。墳丘内には他に墓が無いので、この巨大な墳丘は2基の甕棺の埋葬のために造られたものと考えられる。







副葬品の内容から王と王妃の墓であろうと考えられる。三雲南小路遺跡の南端の所に井原鑓溝遺跡があり、後漢鏡が20面くらい出土しているが、この遺跡は末廬国の桜馬場遺跡とほぼ同時代と見られている。そして、そのあとの時期の王墓とされるのが平原遺跡である。方格規矩鏡、内行花文鏡の組み合わせから、後漢中期の組み合わせであろうとされ、それは邪馬台国の時代に相当する。伊都国の王墓は、三雲→井原→平原と変遷して行くと考えられる。

三雲南小路遺跡から北方向の井原鑓溝遺跡を望む。


伊都国歴史博物館にあった三雲南小路遺跡の説明と2号墓から出た甕棺。



このあと、さらに徒歩で狐塚古墳、銭瓶塚古墳、ワレ塚古墳などを観察しながら平原遺跡へ向かった。
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井原鑓溝遺跡

2017年11月02日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
伊都国歴史博物館を出て徒歩で10分と少しで井原鑓溝遺跡に到着。
ここは遺跡らしきものはまったくなく、ただただ田畑が広がるだけ。


わずかにこの案内板だけが頼りである。



江戸時代の天明年間(1781~88)、銅鏡を多数副葬した甕棺が発見された。このときの出土品は現存しないが『柳園古器略考』(青柳種信著)に記録されている。これは主に文政5年(1822)に三雲村で発見された三雲南小路遺跡1号棺の調査報告書だが、種信は40年前に隣村で発見された井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行い、農民が保管していた27個の鏡片、2個の巴形銅器の拓本を残している。

「怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。あやしみ堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり。」

拓本から復元される鏡(方格規矩四神鏡)は18面、全て中国製である。その多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれにこの鏡が海を越え伊都国に定着するまでの期間を加えたものとなり、概ね1世紀後半~2世紀初頭の間と推定できる。また、出土した豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられ、三雲南小路遺跡(紀元前後)より数代を経た王墓ということになる。

現在、その王墓の場所は不明だが、三雲南小路遺跡の南約100mのあたりに大字井原字ヤリミゾという地名があり一面に水田が広がっているが、その下あたりに遺跡が眠っていると考えられており、それがこの場所である。そして現在も調査が続けられている。



伊都国歴史博物館にあった井原鑓溝遺跡の説明。


このあと再び徒歩で三雲南小路遺跡へ向かいました。
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