古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆大己貴神と少彦名命

2016年10月17日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀の出雲神話もいよいよ終盤に入る。素戔嗚尊は八岐大蛇を退治したあと、奇稲田姫との生活の場を探し「清」というところに到った。四隅突出型墳丘墓のところですでに触れておいた清神社の場所であろうか。あるいは島根県雲南市にある須我神社であろうか。須我神社は素戔嗚尊が八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝え、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称されている。神社の公式サイトによると主祭神は「須佐之男命、稲田比売命、御子神の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)、6代の後の大国主命」となっている。いずれにしてもその「清」の地に宮殿を建て、大己貴神(おおなむちのかみ)が生まれた。そして遂に素戔嗚尊は根の国に行ったという。「根の国」がどこを指すのかについては議論があるが私は素直に「素戔嗚尊は出雲の国で亡くなった」と理解したい。

 書紀第8段の本編はここで出雲神話が終わるが、一書(第6)に大己貴神と少彦名命(すくなひこなのみこと)による国造りの話が記されている。大己貴神は少彦名命に「自分たちが作った国は良くなったと言えるだろうか?」と問いかけたところ、少彦名命は「あるところは良くなったが、あるところは良くなっていない」と答えた。そして「是談也、蓋有幽深之致焉」という不可解な文が記載される。「この会話には非常に深い意味があるだろう」という。素戔嗚尊およびその後裔である大己貴神は少彦名命の協力を得て葦原中国を制圧(国造り)した。その範囲は四隅突出型墳丘墓のある地域、すなわち石見・出雲・伯耆・因幡・越と広範囲にわたる日本海沿岸の国々である。しかし、残念なことに丹後だけは支配できなかった。少彦名命はそのことを指摘して責めたのではないだろうか。大己貴神と少彦名命は国造りの苦労を共にしてきた仲間であったが、このシーンは仲間割れの雰囲気が漂う。そのことを指して「深い意味」と記されたのではないだろうか。二人の間に何があったのかはわからないが最後の最後に対立することになり、少彦名命は熊野の御崎(出雲国一之宮の熊野大社か)から常世郷に行ってしまった。別伝によると淡嶋へ行って粟の茎に昇ったら、はじかれて常世の国へ行ってしまったとも。
 二人の対立を示す話が播磨国風土記の神前(かんざき)郡の条にも残っている。大己貴神と少彦名命が「ハニ(赤土)の荷を担いで遠く行くのと、屎(大便)をしないで遠く行くのと、どちらが勝つだろうか」と言い争った。大己貴神は「私は屎をしないで行こう」と言い、少彦名命は「私はハニの荷を持って行こう」と言った。争って歩き始めて数日後、大己貴神は「もう我慢できない」とその場で屎をした。その時、少彦名命は笑って「私も苦しかった」と、ハニの荷を岡に投げつけた。それでここを「埴岡(はにおか)」と名付けた。
 さらに伊予国風土記の逸文にも。大己貴神が見て悔い恥じて、少彦名命を生き返らせようと、大分の別府温泉の湯を道後温泉まで引いてきて少彦名命を湯に浸からせると、しばらくして生き返り、何もなかったように辺りを眺めて「よく寝たことよ」と言ったという。文脈からすると大己貴神が少彦名命に重傷を負わせたことが推察され、それを悔いた行為であると読み取れる。

 実は、少彦名命は出雲大社に祀られていない。それはなぜだろうか。大国主神の父あるいは祖先である素戔嗚尊は、記紀では天照大神と姉弟関係にあって天津神となっているが、その実態は朝鮮半島からきた一族のリーダーであり、天津神である高天原一族からすると敵対勢力であった。高天原一族はその敵対勢力の国を制圧した(国譲りをさせた)からこそ、その祟りを恐れて大国主神を祀る出雲大社を建てた。少彦名命は主祭神である大国主神と共に国造りを果たした人物であるにも関わらず、さらに神皇産霊神あるいは高皇産霊神の御子神とされる神にも関わらず、摂社を含めて出雲大社のどこにも祀られていない。何故か。それは祀る必要がなかった、すなわち祟りを恐れる必要がなかったからだ。さらに言えば高天原にとって敵対勢力ではなかったのだ。少彦名命は船に乗って海を渡ってやって来たという記紀の記述から朝鮮半島出身であると考えられ、素戔嗚尊や大国主神と同郷の一族であったが、国造りの過程において何らかの理由で大国主神と袂を分かった。それが先に見た仲間割れ、対立のシーンであり、それが原因で少彦名命は常世の国へ行くことになった。そう考えると常世の国というのは大国主神の立ち位置と反対側、国譲りを迫る側と解することができないだろうか。だからこそ古事記では神皇産霊神の子、日本書紀では高皇産霊神の子、すなわち高天原の一族とされたのではないだろうか。

 大己貴神が生まれた後に素戔嗚尊が根の国に行ったという一文を「根の国である出雲で亡くなった」と理解したい、と先述した。私は、素戔嗚尊の「根の国」が出雲であるなら、少彦名命が向かった「常世の国」は素戔嗚尊や大国主神(大己貴神)と敵対する国であり、それは大和ではなかったか、と考えている。そして私の想像はここで終わらない。出雲から大和に遷った人物と言えば誰であったか。纒向に都を開いた崇神天皇である。少彦名命は崇神天皇自身もしくは崇神につながる一族のリーダーではないだろうか。
 また、少彦名命は高皇産霊尊が生んだ1500人ほどの神でただ一人、いたずらで教えに従わない神であったとされているが、この高皇産霊尊の言葉には少し深い意味が感じられる。これは少彦名命が天津神の中でも異端であったということを表しているのではないか。すなわち崇神天皇の系列(崇神王朝)は主流派ではないということ、さらに言えば書紀編纂を命じた天武王朝につながると考える神武王朝とは別の一族であることを暗に匂わしているのではないだろうか。


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