古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

前方後方墳の考察⑭(前方後方墳の終焉)

2024年07月27日 | 前方後方墳
3世紀初めに円形由来ならびに方形由来の壺形古墳が登場し、3世紀後半の箸墓古墳の築造によって始まった古墳時代は7世紀初めまでの350~400年ほど続いたわけですが、その間、終末期を除いて継続的に築造された前方後円墳と違って、前方後方墳は意外に早く終焉を迎えます。植田文雄氏の著書『前方後方墳の謎』をもとにその様子を追ってみます。

出現地と考えられる近江では早くも4世紀中頃になると前方後方墳が造られなくなり、流域単位の主な古墳は前方後円墳になり、湖南地方では首長墓が円墳や帆立貝式古墳となります。濃尾地方では逆に4世紀に入って河川の中・上流域に拡大するものの、5世紀に入ると急激に姿を消します。伊勢では4世紀前半にはピークを終え、三河・遠江でもその築造時期は4世紀中頃までとみられます。北陸では、富山で4世紀代はしっかり前方後方墳世界となりますが5世紀に入ると円墳が拡大します。北陸の他の地域でも4世紀後半から前方後円墳が導入され始めます。

関東では、相模で4世紀のうちに前方後円墳に代わっていき、3世紀中頃に関東地方最古級の前方後方墳である高部30・32号墳を築いた上総でも4世紀後半には姿を消します。上・下侍塚古墳を始めとして前方後方墳のメッカである下野でも4世紀末を最後に前方後方墳が見られなくなり、上野でも4世紀後半に前方後円墳の時代を迎えます。同様に武蔵においても4世紀後半には前方後円墳が導入されます。東北では、3世紀後半に前方後方墳を受け入れた会津では4世紀前半まで、4世紀中頃以降に前方後方墳を導入した中通り地域や4世紀前半の仙台のいずれもが5世紀代には前方後円墳の時代になります。

以上のように近江より東の地域では遅くとも5世紀に入ると前方後方墳が造られなくなります。一方、西日本の状況はどうかと言うと、吉備では4世紀前半代は非常に多かった前方後方墳が4世紀後半に入ると全く造られなくなります。北部九州でも3世紀後半の吉野ヶ里遺跡など前方後方墳から始まるものの、4世紀中頃には前方後円墳となります。これらに対して出雲は特異な地域で、古墳時代中期以後も宮山1号墳や後期では山城二子塚古墳など前方後方墳が継続します。松江市南部の岡田山古墳は6世紀後半の築造です。このように出雲は列島で最後まで前方後方墳を造り続けた地域で、弥生時代の四隅突出型墳丘墓から古墳時代後期の前方後方墳や方墳まで、方形墓の伝統を堅持した地域と言えます。

また、3世紀後半に前方後円墳を採用した大王家の本拠地である大和においても意外に遅くまで前方後方墳が残り、新山古墳が4世紀中頃、列島最大の西山古墳は4世紀後半の築造と位置づけられます。いずれも100mを大きく上回りますが、規模では同時代の崇神陵に治定される行燈山古墳(242m)、垂仁陵に治定される宝来山古墳(227m)、景行陵に治定される渋谷向山古墳(300m)などには遠く及びません。以上のように西日本では6世紀まで続いた出雲を除き、東日本同様に5世紀には前方後方墳の築造が終わります。

3世紀初頭に前方後円墳とほぼ同じ頃に出現した前方後方墳が、出雲を除く全国各地において5世紀に終わりを告げるのはどうしてでしょうか。また逆に出雲において5世紀以降も造られ続けたのはどうしてでしょうか。5世紀といえば畿内において大和の大和・柳本古墳群および佐紀古墳群から河内の百舌鳥・古市古墳群に大王家の墓域が移った時期にあたり、このタイミングで応神陵に治定される誉田御廟山古墳(425m)や仁徳陵に治定される大仙古墳(525m)など4世紀までの大王墓である前方後円墳とは一線を画す破格の規模となりました。また、墓域の移動が大和から河内への政権の移動を示しているとする説もあります。

ここにふたつの可能性が考えられそうです。ひとつは大王墓の規模が突然に大規模になったことから、方形に強いこだわりを持つ出雲を除く各地の首長たちの円形由来の壺形古墳への憧憬がより一層強くなり、自然と前方後方墳が造られなくなったのではないか、ということ。もうひとつは、この時期に政権の移動があったとの前提で、河内の新政権が前方後方墳の築造を禁止し、政権に属する首長の墓は前方後円墳に限ると通達した可能性。この考えによるならば、前方後方墳を造り続けた出雲は政権に属さない敵対勢力であったということになり、このときの対立関係が『記紀』の出雲神話に反映された可能性まで考えられます。戦後に水野祐氏が唱えた三王朝交代説を支持するわたしとしてはこの後者の可能性を想定したいと思いますが、ここから先は機会を改めて考えることにします。


ここまで14回にわたって前方後方墳の由来や前方後円墳との関係、さらには前方後方墳も壺形古墳と言えるのか、というもともとの課題について論じてきましたが、わたしなりの一定の結論に辿り着くことができたので、このあたりで終わりにしたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


(おわり)


<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄


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前方後方墳の考察⑬(前方後方墳の位置付け)

2024年07月24日 | 前方後方墳
ここまで3世紀初め頃に前方後円墳(あるいは前方後円形周溝墓)および前方後方墳(あるいは前方後方形周溝墓)が誕生した経緯や、ほぼ定説となっている主に前方後円墳に関する専門家の見解に対しての異論を述べ、前方後円墳は円形由来の壺形古墳であり、前方後方墳は方形由来の壺形古墳であるとの見解を示しました。また、大陸から渡来した徐福一行の末裔が各地において神仙思想をもとにした葬送に関する祭祀を取り仕切っていた可能性や、ヤマト王権の大王墓として前方後円墳が選択された理由についても触れました。最後に、前方後円墳に対する前方後方墳の位置付けについて考えておきたいと思います。

大王家が前方後円墳を選択したのが箸墓古墳が造られた3世紀後半なので、それまでは墳墓の築造に特段の決まりごとはなく、各地の有力者は自らの意志と権力をもって自らが望む墓を造っていたと思われます。出雲や越の四隅突出型墳丘墓、北近畿の方形台状墓などが3世紀に入ってからも続けられたほか、前方後円形や前方後方形の壺形古墳も各地で造られました。少なくとも箸墓古墳の築造までに造られた各地の壺形古墳は大和が大王墓として前方後円墳を選択したこととは関係がありません。むしろ箸墓古墳が築造された時期には前方後方墳が急増し、北は福島県から南は佐賀県まで分布するようになり、東海、北陸、関東、東北南部、播磨、北部九州などでは前方後方墳が先行して造られたようです。

すでに「前方後方墳の考察⑨(壺形古墳説の確認)」で整理した通り、前方後円墳は約4,800基、前方後方墳はその約1割の500基ほどが全国で確認されています。また、同じ時期の最も大きい両者を比較すると、前方後方墳の規模が前方後円墳を上回ることはありません。

下図は同時代における前方後円墳と前方後方墳の最大規模どうしを比較したものです。古代史コミュニティ「古代史日和」を主宰する藤江かおりさんが作成したものをお借りしました。これを見ると、たしかに同じ時期の築造と考えられる両者を比較すると常に前方後円墳が前方後方墳を上回っている状況が確認できます。


(「古代史日和」藤江かおり氏より拝借)


都出比呂志氏は、古墳の墳形には前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の四つの基本形があり、被葬者の身分はこの墳形と規模の二重の基準で表現されたと言います。墳形においては前方後円墳→前方後方墳→円墳→方墳と序列化され、規模においてはそれぞれの墳形で最大規模から最小規模へと序列化されるというもので、これに従うなら古墳時代に政治的な身分秩序を反映した古墳の築造ルールが存在したということになります。前述した前方後円墳と前方後方墳の規模の比較がここに反映されています。しかし一方、序列が下がるほど数が増えるのが通常であるこのようなヒエラルキーを4,800基の前方後円墳と500基の前方後方墳との間に読み取ることはできません。さらに全国的に見れば方墳より円墳の方が圧倒的に数が多いのではないでしょうか。これらの点から都出氏の説は成立しないと考えます。


『古代国家の胎動(都出比呂志)』より


また、各地の首長墓の系譜にはいくつかのパターンがあるとされます。前方後方墳が継続的に造られる「前方後方墳継続型」、途中から墳形が円墳に変わる「前方後方墳→円墳交代型」、最初の1基が前方後方墳で、その後は前方後円墳を築造する「前方後方墳→前方後円墳交代型」、前方後円墳のみからなる「前方後円墳継続型」などです。この事実からは、各地の首長の墳形を規定する統一的なルールが存在しなかったと考えることができます。

古墳の築造に関する特別なルールがあったとすればそれは「大王の墓よりも大きい墓を造ってはいけない」という1点のみだったのではないでしょうか。前方後円墳の築造が大王家だけに許されたわけではなく、また大王家から前方後円墳の築造を命令されたわけでもなく、各地の首長は同時代の大王墓の規模を超えないように注意しながらも、自らが望む形の墓を造りました。また、各地においても同様に、どんな形の墓でもよいが首長墓より大きい墓を造ってはいけないとされたようです。その結果、首長を始めとする有力者たちにとって神仙界へ赴くための墓である壺形古墳の人気は絶大で、直接的に壺の形を表した円形由来の前方後円墳が全国各地で造られることになりました。一方で、方形墓の伝統を堅持する地域や集団、あるいはそこに出自を持つ首長や有力者は方形由来の壺形古墳である前方後方墳を造ったわけです。ただ、その数は自ずと前方後円墳に比べると少なくなります。このように考えれば、規模においても数においても常に前方後円墳が前方後方墳を上回るという状況の説明がつきます。

全国で約500基の前方後方墳の分布を都道府県別に見ると次の図のようになります。ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」より拝借しました。これによると方形由来の壺形古墳の発祥地と考えられる滋賀県(近江)や愛知県(尾張)、さらに東へ向かって北関東一帯などに多く分布するのは、弥生時代に方形周溝墓が隆盛していたことと関係がありそうです。また、島根県(出雲)や石川県(越)など日本海側では四隅突出型墳丘墓や台状墓などの方形墓が造られていました。一方で、円形周溝墓が多く分布する東部瀬戸内の範囲と考えられる岡山県(吉備)に前方後方墳が多く分布するのは意外ですが、出雲もしくは畿内に出自をもつ有力者の墓とも考えられます。


(「ぺんの古墳探訪記」より拝借)


前方後円墳に対する前方後方墳の位置付けを規模と数の点から考えてみましたが、墳形として一方が優位で他方が劣位ということではなく、いずれも神仙界を意味する壺の形を表現したものであるものの、単数埋葬を基本とする円形周溝墓に由来する前方後円墳の方が大王墓に相応しく、さらに言えば前方後円墳の方がより壺に似ていることから大王家が前方後円墳を採用したということです。また、大王墓を超える大きな墓を造ってはいけないというルールによって、同時代での比較をすると大王墓である前方後円墳の方が常に大きいという状況が起こったのです。


(つづく)


<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「日本古代の国家形成論序説 -前方後円墳体制の提唱-」都出比呂志
「前方後方墳の思想」 青山博樹
「倭王権の地域的構造 小古墳と集落を中心とした分析より」 松木武彦



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前方後方墳の考察⑫(円形由来の大王墓)

2024年07月21日 | 前方後方墳
3世紀初め(200年~220年)に摂津、大和、近江において前方後円形の壺形古墳が誕生しました。続いてほぼ同時期に河内、近江、東海で前方後方形の壺形古墳も誕生しました。大和においてはその後、少し時間を置いた3世紀中頃(250~270年)にホケノ山古墳、纒向矢塚古墳と立て続けに前方後円形の壺形古墳が造られ、3世紀後半(270年~300年)の箸墓古墳の築造へと続いていきます(なお、それぞれの築造年代はこれまでの話と整合性をとるために植田文雄氏の年代比定に従っています)。この箸墓古墳は定型化された最初の古墳とされ、これ以降、前方後円形の壺形古墳がヤマト王権の大王墓として採用されます。大王家がなぜ前方後方形ではなく前方後円形の壺形古墳を選択したのでしょうか。

天は円形で神の住む空間、地は方形で人の住む空間、円の宇宙観が地を包み込むという古代中国の天円地方の観念を墳丘の形に反映させたとする説があります。まさに大王家の墓に相応しい思想だと思いますが、中国の歴代王朝の墓にこの形は見いだせないそうです。また、天円地方の観念であるなら前方後円墳ではなく上円下方墳となるのが自然ですがそうではない。壺形古墳説に対して、考古学からの裏付けがとれないとの批判が見受けられますが、天円地方の観念が墳形に表現されたことが考古学的に裏付けられているのでしょうか。

植田氏によれば、四角形には正面(正座)があり、支配するものとされる者、指示する者とされる者、持つ者と持たざる者の対立関係が内在するとされ、方形周溝墓が出現した時期は稲作の導入によって社会が階層化した時期と重なることから、稲作によってうまれた富める者の墓は主に四角形の方形周溝墓だったということです。しかし、この考えに基づくならば大王墓は円形由来ではなく方形由来の壺形古墳、すなわち前方後方墳でなければなりません。氏はもう一方の円形については、その対角線は中心を通る限り等距離にあり、車座の会議に主客の別がなく、円形墓は貧富の差や階級社会に達していない段階の墓であるとし、円形周溝墓に縄文時代の伝統を見出そうとしますが、大王家が平等、対等、融和といった概念をもとに円形由来の壺形古墳を選択したとは思えません。

大陸から渡来して神仙思想を広めた徐福一行の末裔が、通路部のある円形周溝墓、あるいは方形周溝墓から着想を得て創出した墓が壺形古墳なので、大王家が円形由来を選択した理由を周溝墓に求めてみるのも一案だと思います。円形周溝墓と方形周溝墓の両者を比較したときに明らかな差異がいくつかあります。ひとつは分布域。方形周溝墓は関東以西の各地に万遍なく見られるのに対して、円形周溝墓は吉備、播磨、摂津、讃岐、阿波といった東部瀬戸内地域にほぼ限定され、それ以外の地域においてはあったとしても単発的に見られる程度です。ふたつめが検出された数。方形周溝墓は全国で発見された数が1万基以上とされているのに対して、円形周溝墓は数百基程度と言われています。三つめが埋葬の状況。方形周溝墓は2人以上の複数埋葬が多く、円形周溝墓は1人のみを埋葬する単数埋葬が基本とされています。方形周溝墓も弥生時代を通じて単数埋葬が見られますが、基本は1~3人の少数埋葬だったものが特に弥生中期後葉以降は5人以上の複数埋葬が増える傾向が認められます。そして四つめに方形周溝墓は密集して造営されるケースが多くみられる一方、円形周溝墓が密集するケースはあまり見られません。

この比較をもって大王家が円形由来の壺形古墳を選択した理由を推測するとすれば、たとえば、円形周溝墓が集中的に分布する東部瀬戸内地域に大王家の出自を求める可能性が考えられます。箸墓古墳からは吉備の特殊器台・特殊壺が出ていますし、『日本書紀』には孝霊天皇の子の吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)や吉備臣の始祖である稚武彦命のことが記され、『古事記』にも吉備臣らの祖である若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女が景行天皇の后になったことなどが記されることから、大王家が吉備とつながりがあったことは明白ですが、大王家の出自が吉備を始めとする東部瀬戸内地域にあることを示す考古資料や文献資料はありません。また、吉備では円形周溝墓の造営は弥生中期初頭までで、それ以降は造られなくなります。

一方で円形墓は播磨から摂津、北河内、さらには中河内を経由して大和へと伝播したと考えられるので、東部瀬戸内地域とは関係がないとすれば、三つめの相違点である円形周溝墓が単数埋葬を基本としていることにその理由を求めてはどうでしょうか。単数埋葬が基本ということはその地域の有力者の墓である可能性が高いと考えられます。さらに四つめの相違点である密集して造営されるケースが少ないことも合わせて考えると、その可能性はさらに高まります。円形周溝墓は地域の有力者の墓、すなわち首長墓として創出された墓制だと言えます。もちろん、方形周溝墓に首長が埋葬されるケースもあるはずですが、方形周溝墓は複数埋葬が多い点から家族墓や親族墓という見方が優勢です。

伝統的に方形墓が主体であった大和において、河内を経由して入ってきた円形周溝墓に由来する壺形古墳が大王家の墓として選択されたのは、円形周溝墓が首長墓として創出された墓であり、大王の墓に最適であったことが理由です。また、出雲の四隅突出型墳丘墓や北近畿の方形貼石墓や方形台状墓など、主に方形の首長墓を造っていた大和以外の地域への牽制の意味もあったのかもわかりません。


(つづく)


<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「伊勢湾周辺地域における方形周溝墓の埋葬施設」 宮脇健司
「播磨の弥生墓 -方形周溝墓と円形周溝墓-」 赤穂市立有年考古館
「有年牟礼・山田遺跡現地説明会資料」 赤穂市教育委員会


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前方後方墳の考察⑪(大和の円形周溝墓)

2024年07月18日 | 前方後方墳
壺形古墳が発祥した畿内では方形周溝墓が主たる墓制として隆盛していましたが、そんな状況でどうして壺形古墳の原型となった円形由来の墓が造られていたのかを考えてみたいと思います。

円形周溝墓はもともと讃岐、阿波、播磨といった東部瀬戸内地域で盛んに造られた墓ですが、播磨では遅くとも弥生中期前葉には小野市の河合中カケ田遺跡、赤穂市の東有年・沖田遺跡で出現し、その後は弥生後期から終末期にかけて有年原・田中1号墓のように大型化するものが現れます。瀬戸内東方では神戸市の深江北町遺跡、郡家遺跡、猪名川流域では伊丹市の口酒井遺跡、豊中市の豊島北遺跡、服部遺跡、さらに淀川水系を遡って北河内地域に入った茨木市の総持寺遺跡などで見られます。福永伸哉氏は、摂津地域は弥生中期までは方形周溝墓を普遍的に営んでいたものの、後期以降は東部瀬戸内方面からの影響で円丘系墳墓が見られるようになったとします。このように弥生後期以降の播磨から摂津にかけての一帯は円形周溝墓が優勢な地域であり、この地域にある服部遺跡において円形由来の壺形周溝墓が誕生したのは頷けます。

一方、纒向石塚古墳のある大和はもともと円形周溝墓のない地域でしたが、2016年に奈良県橿原市の瀬田遺跡で7mの通路部がついた全長26mの円形周溝墓が見つかったと発表されました。大和で初めての円形墓で、『奈良文化財研究所紀要』によれば庄内0式期または纒向1式期の造営が想定されています。新聞などでは2世紀中頃~後半と書かれていましたが、これまでの話と整合性を図るために植田文雄氏の土器編年表にある歴年代を当てはめると、纒向石塚古墳と同じ200年~220年となります。さて、円形墓のなかった大和に突然に出現した瀬田遺跡の円形周溝墓はどこから入ってきたのでしょうか。


纒向石塚古墳(纏向石塚古墳第9次調査配布資料より)


瀬田遺跡の円形周溝墓(現地説明会資料より)


瀬田遺跡の円形周溝墓(産経新聞2016年5月13日より)

上述した円形周溝墓の分布から考えると淀川から木津川を経て北側から奈良盆地に入ってきたルートが想定されますが、木津川から奈良盆地南部までの間に円形周溝墓が見あたりません。そうするともう一つ、大和川を経由する西側からのルートが想定されますが、福永氏によると大和川流域にあたる中河内・南河内地域は弥生後期から古墳時代初頭までは圧倒的な方丘墓地帯で、円丘墓をほぼ受け入れなかったそうですが、次のようにわずかながらも円形周溝墓が検出されているのです。

大阪市平野区の長原遺跡では4基の方形周溝墓とともに通路部のついた径11.5mの1基を含む3基の円形周溝墓が出ており、いずれも弥生時代末期から古墳時代初頭にかけてのものです。また隣接する八尾市の八尾南遺跡では弥生後期末から古墳時代初頭の30基前後の周溝墓の中に円形に近いものが見つかっています。同じく八尾市の郡川遺跡でも2基の方形周溝墓とともに2基の円形周溝墓が見つかっていて、うち1基は通路部が付いた径10m弱のものです。成法寺遺跡も八尾市にあって円形周溝墓1基のほか、前方後方形周溝墓1基、方形周溝墓3基が出ています。播磨から摂津、北河内へ、そして中河内から大和川を遡って円形墓が大和に伝播し、瀬田遺跡の円形周溝墓につながり、そこから着想を得て纒向石塚古墳が誕生したと考えることができそうです。

ちなみに、弥生中期以降、方形周溝墓が隆盛していた近江においても3世紀前半(庄内式併行期前半)に入ると突然に円形の墓が造られるようになります。長浜市の五村遺跡では9基の方形周溝墓に混じって全長28mの前方後円形周溝墓が出現します。同じく長浜市の鴨田遺跡では3基の方形周溝墓の隣りに全長19mの帆立貝形の前方後円形周溝墓が見つかっています。滋賀県教育委員会による『鴨田遺跡発掘調査概要』によれば、姉川右岸一帯は物部氏が掌握した地域であり、現在でも長浜市に物部の地名が残っています。たいへん興味深く示唆に富む事実です。そういえば、先に見た中河内地域、とりわけ八尾市は6世紀頃には物部氏の拠点となり、蘇我氏に討たれた物部守屋の別業があったところです。やはり、物部氏と前方後円墳のつながりを想定したくなります。


『長浜市の遺跡7 鴨田遺跡』より

3世紀の初め、畿内の摂津や大和で円形周溝墓をもとに前方後円形の壺形古墳が生み出され、それが瞬く間に伝播して各地で前方後円形の壺形古墳が造られるようになったわけですが、ほぼ同時に方形墓を造営していた地域においても同じ現象が発生しました。おそらく彼らは摂津や大和、さらには近江で円形墓をもとに生み出された壺形古墳を見て、それが神仙界を意味する壺であることを聴き、自分たちも同じ墓を造ろうとしたのでしょう。ただし、方形墓という伝統的な集団のアイデンティティを維持したままでの壺形古墳を生み出したのです。これが前方後方墳(前方後方形周溝墓)で、東海地域の廻間遺跡、河内(中河内)の久宝寺遺跡、近江の神郷亀塚古墳および法勝寺遺跡がその発祥となります。とくに近江では前方後円墳と前方後方墳がほぼ同時期に出現したことになります。


(つづく)


<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」 福永伸哉
「ヤマト政権成立期における猪名川流域の重要性」 福永伸哉
「河内地域の庄内式期・布留式期の墳墓について」 杉本厚典
「長原遺跡(NG03-6次)発掘調査現地説明会資料」 (財)大阪市文化財協会 
「成法寺遺跡 第1次調査~第4次調査・第6次調査報告書」 (財)八尾市文化財調査研究会
「八尾・よろず考古通信 26号」 八尾市立埋蔵文化財調査センター
「若江北・亀井・長原(城山)遺跡」 大阪府教育委員会
「八尾市文化財調査研究会報告92 Ⅰ.郡川遺跡(第3次調査)」 (財)八尾市文化財調査研究会
「区画溝と周溝墓 -滋賀県五村遺跡の調査結果をもとに-」 植野浩三
「長浜市鴨田遺跡発掘調査概要」 滋賀県教育委員会
「鴨田遺跡 第28次調査報告書」 滋賀県長浜市教育委員会
「米原の弥生 -米作りがはじまったころ-」 米原市教育委員会
「奈良文化財研究所紀要2017」 奈良文化財研究所


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前方後方墳の考察⑩(神仙思想の反映)

2024年07月15日 | 前方後方墳
司馬遷の『史記』によると、秦の始皇帝は方士である徐福を東方に派遣して不老不死の仙薬を求めさせました。徐福は3,000人もの童男童女や多くの技術者とともに日本列島にやってきましたが、そこで平原広沢を得て王となり、二度と秦に戻ることはありませんでした。多くの技術者と書かれていますが、仙薬を発見することが目的であったので、一行の中には徐福と同じ方士がたくさんいたと考えられます。方士とは、占い、気功、錬丹術などの方術によって不老長寿、尸解(しかい=羽化すること)を成し遂げようとした、つまり神仙になることを目指して修行した者のことです。さらに、『三国志』呉書の呉王伝・黄龍2年(230年)の記事には、秦の時代に徐福が渡海したが戻らず、その子孫が数万家になっていると書かれてあり、徐福一行の子孫が日本で大きな集団となって各地に存続していたことが窺われます。時代はまさに弥生時代終末期です。

徐福は中国においても伝説の人物とされてきましたが、1982年に江蘇省で徐福生誕の地とされる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、現在では実在した人物とされています。日本でも各地に徐福伝承が残る地域がありますが、徐福が実在したことと『史記』や『呉書』に書かれた内容とを合わせて考えると、各地の徐福伝承もなにがしかの根拠のあるものと考えてよいと思います。この徐福一行が列島各地に神仙思想を伝えた結果、首長や王と呼ばれる各地のリーダーたちは自らが不老不死の神仙になることを希求するようになります。

徐福伝承が色濃く残る北部九州では弥生時代中期に甕棺墓が隆盛しました。とくに王墓とされる甕棺墓は複式構造の合口部分を粘土などで密閉しており、再生を願って遺体を保存する意識が強く窺えることから、不老不死を目指した神仙思想に基づく墓制である、との見解があります。棺内に朱が塗られていたり、棺外に朱入りの壺を副葬する例も同様に神仙思想によるものではないでしょうか。埋葬施設に朱が用いられる例は出雲や丹後、吉備などの大型の墳丘墓でも顕著に見られますが、これらは各地に分散した徐福一行あるいはその後裔たちの神仙思想の布教活動の産物ではないかと考えられます。甕棺墓は愛媛県中西部、広島県西部および山口県東南部などの西部瀬戸内地域においても採用されています。

甕棺墓を採用したり、埋葬施設に多量の朱を用いるこれらの地域は、近畿や東海で隆盛した方形周溝墓や播磨や阿波・讃岐など東部瀬戸内地域で見られる円形周溝墓が流行らなかった地域とも言えます。弥生時代中期には神仙思想に基づく造墓を行う地域とそうでない地域があり、後者では方形周溝墓や円形周溝墓を造っていたということになります。その後、弥生時代終末期に入り、方形墓や円形墓を造っていた地域においても造墓思想の大転換が起こり、神仙思想による前方後方形や前方後円形の墓が造られ、それが瞬く間に東西各地に広がって古墳時代に突入することになります。

この大転換はもともと円形墓を造っていた集団から始まったと考えます。大阪府豊中市の服部遺跡で見つかった弥生時代終末期の4基の周溝墓のうち、3基が1カ所に通路を持つ円形周溝墓でしたが、残る1基は全長18mほどの前方後円形周溝墓、すなわち壺形の周溝墓でした。服部遺跡では円形の墓を突然に壺形に変えたのです。植田文雄氏はこの墓の造営時期を200~220年としています。同じ頃、大和では大規模な壺形古墳が築かれます。全長96mの纒向石塚古墳です。そして3世紀中頃までに千葉県で全長42.5mの神門5号墳、滋賀県鴨田遺跡で全長19mのSX01、愛媛県で全長24mの大久保1号墳など、周溝が全周する前方後円形の墳墓が各地に出現し始めます。この大久保1号墳は半円形の周溝墓の隣りに造られています。

3世紀初頭、畿内の摂津あるいは大和の王は神仙界に行きたいという強い気持ちから、北部九州の甕棺墓を上回る墓を生み出しました。甕棺墓は再生を願って遺体を密封、保存するための墓でしたが、壺形古墳はダイレクトに神仙界に行くことができる墓です。壺形の墓はおそらく通路のついた円形周溝墓に着想を得て、円形部を胴部、通路部を頸部に見立てて壺形にしたのだと思いますが、そこには壺の意味をよく理解している徐福一行の末裔による何らかの関与があったに違いありません。これが周溝を渡るための通路という機能を捨ててまで周溝を全周させることになった理由、前方後円形の墳墓が誕生した経緯です。徐福の子孫が列島で数万家となって繁栄していることが『呉書』に記されたのがちょうどこの頃です。

話が少しそれますが、徐福一行およびその末裔たちは日本列島各地で神仙思想を広める役割を果たしたのですが、甕棺墓の造営、朱の精製、壺形土器の供献、さらには葬送儀礼の挙行など、各地の王の死にまつわる祭祀をも司る役割を担っていたのではないでしょうか。彼らは各地で王族とつながり、その祭祀を担う一族として繁栄を謳歌していたと思われます。そんな各地の一族がのちに部民として物部と呼ばれ、なかでも大王家とつながった物部連氏が各地の物部を統括するようになります。このあたりの話は別稿「物部氏を妄想する①~⑱」に詳しく書いたのでご覧いただければと思います。


(つづく)


<主な参考文献>
「古墳とは何か 認知考古学からみる古代」 松木武彦
「古代日本と神仙思想  三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
「古墳の思想 象徴のアルケオロジー」 辰巳和弘
「徐福と日本神話の神々」 前田豊 
「不老不死 仙人の誕生と神仙術」 大形徹


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前方後方墳の考察⑨(壺形古墳説の確認)

2024年07月11日 | 前方後方墳
主丘部への通路が発達して祭祀場になったという本命説も、対抗馬である墓道起源説も今ひとつ納得できず、つまりは前方後円墳や前方後方墳の前方部は祭祀場でもなく葬列が通る墓道でもないというのが私の結論です。ただし、いずれの説も可能性を否定するものではなく、もしかしたら祭祀場だったかもしれないし墓道だったのかもしれません。同様に前方部は古墳の玄関として設けられたのかもしれないし、前方後円墳は円墳と方墳が合体したものかもしれません。また、器物模倣説とて否定されるものではなく、盾の形を真似たのかもしれないし家形かもしれません。しかし、結局は私にとってもっとも納得できる説は壺形古墳説だと改めて認識できました。

壺形古墳説については以前に「前方後円墳の考察」として16回シリーズで投稿しているので、そちらを参照いただけるとありがたいのですが、私の理解をもとに私なりの解釈を含めて以下に簡単にまとめておきます。

・壺形古墳は不老不死を求める神仙思想に基づいて発想された古墳である。
・神仙思想では壺の中に神仙界が広がると考えられた。
・神仙界とは不老不死の仙人、祖霊となった霊魂が住む場所である。
・被葬者を神仙界に送り届けるために墓を壺の形にした。
・埋葬施設に不老不死の仙薬の原料である朱を撒き、神仙界を表した鏡を副葬した。
・葬送儀礼では壺を供献し、穿孔または破砕して埋葬施設に神仙界の空気を送った。

前方後円墳は円形の主丘部に前方部が付設された形状になっていますが、その前方部が祭祀場や墓道であったという説に対して一貫して疑問を呈し、弥生時代以来、数百年も続けてきた円形の主丘部をわざわざ前方後円形にするということは、そこに何らかの意図や目的があったはずで、これは形が変化したと考えるよりも、造墓思想の大転換があったと考えるべきだと述べてきました。その新たな造墓思想とは、亡き先王を祖霊として神仙界に送り届けんがために墓そのものを神仙界である壺の形にすることでした。神仙思想を全面に押し出した造墓思想のもとで創出された古墳が壺形古墳です。

前方後円墳が壺の形を模した墓だと考えると、前方部は壺の頸の部分にあたり、そこも壺の中であるので埋葬施設があることに何ら問題はありません。また、上から見ないと壺の形であることがわからないので意味がないという批判に対しては、そもそも被葬者を壺に入れることが目的なので、人に見せることを目的として壺形にしたのではないと考えます。

松木武彦氏は「初期前方後円墳の前方部の形がいろいろである事実は、前方後円墳の形が、壺などの特定の器物をかたどったものではないことをしめしている」として壺形古墳説を否定します。たしかに纒向型前方後円墳と讃岐型前方後円墳の前方部の形は違っているし、いずれにも属さない前方後円形の墳墓もあり、たしかに前方部の形状は様々ですが、そもそも壺の形も様々にあるのだから、前方部の形がいろいろあることが壺形古墳説を否定する理由にはなりません。しかし、氏は「前方後円墳とほぼ同時に前方後方墳もあらわれ、しばしば前方部の形をともにしていることは、壺説などには決定的に不利だ」と痛い所を突いてきます。しかし、これは私の疑問でもあるので、ここからようやく前方後方墳も壺形古墳なのか、について考えていくことにします。ちなみに近藤義郎氏は、壺形古墳説は墓道起源説と相容れず、考古学的検討を省いた観念の産物であるとして切り捨てますが、これは批判になっていないですね。ここでは前方後円墳との比較で前方後方墳を以下のようにいったん整理しておきます。

全国で発見されている前方後方墳の数は約4,800基の前方後円墳に対して約1割の500基ほどしかありません。出現時期はいずれも3世紀前葉で、植田文雄氏によれば前方後方墳としては近江の神郷亀塚古墳などが、一方の前方後円墳は大和の纒向石塚古墳などがもっとも早く、いずれも200年から220年の間に出現しています。また、前方後方形周溝墓や前方後円形周溝墓の出現も同じ時期と考えてよさそうです。前方後方墳、前方後円墳ともに出現以来、前方部が次第に幅を広げながら高さを増していくという変化が認められ、その点も含めて墳形の違いは主丘部が方形か円形の違いに過ぎず、埋葬施設や副葬品についても少なくとも同じ規模であれば両者の間にまったく差異が認められないと言われています。また、同じ時期の最も大きい両者を比較すると、前方後方墳の規模が前方後円墳を上回ることはない、つまり前方後方墳は数の点でも規模の点においても前方後円墳の後塵を拝していることになります。

(つづく)


<主な参考文献>
「古墳とは何か 認知考古学からみる古代」 松木武彦
「前方後方墳序説」 大塚初重
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「古代日本と神仙思想  三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
 

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前方後方墳の考察⑧(有力説への疑問)

2024年07月05日 | 前方後方墳
前方後円墳あるいは前方後方墳の前方部は周溝墓の通路が発達したもので、その前方部がやがて祭祀の場になった、との考えが現在の最有力説、本命であると思います。これに対して、前方部は主丘部への墓道に起源があり、前方後円墳が成立して以降は前方部の一方の隅角斜面を緩い勾配にして葬列の登り降りの便を図ったとする近藤説が対抗馬と位置づけられるでしょうか。以下、3つの論点を設定して考えてみたいと思います。

●論点① 「周溝墓の通路が発達して前方部になったのか」

見た目の形の変化をもって通路が前方部に発達したと考えるのは少々無理があると思います。そもそも墓の外側から内側の台状部に渡るために必要だから通路を設けたにもかかわらず、その通路を断ち切って溝を全周させてしまえば安全に周溝を渡ることができなくなります。なぜ本来の目的を放棄したのでしょうか。白石氏はこの通路を死者の世界と生者の世界をつなぐ通路としていますが、それであるならなおさら切断してしまうと両世界をつなぐことができなくなります。

論点②とも関係してきますが、祭祀場を設けるために通路を切断したのか、別の目的で通路を切断した跡がたまたま祭祀場として利用されるようになったのか。いずれにしても通路が前方部に発達したとする主張は、もっとも重要なポイントである通路が切断された理由に触れることはありません。数百年も続けてきた方形の台状部をわざわざ前方後方形にするということは、そこに何らかの意図や目的があったはずで、要するに前方後方形にすることに意味があるのだと思います。方形から前方後方形への転換、同様に円形から前方後円形への転換。これは形が変化したと考えるよりも、造墓思想の大転換があったと考えるべきでしょう。さらに、方形墓と円形墓がほぼ同じ時期に前方部を形成して、それぞれ前方後方形周溝墓、前方後円形周溝墓が成立したことも重要なポイントと言えます。

●論点② 「前方部は祭祀場であったのか」

上述の如く白石氏は「主丘部への通路を、死者の世界と生者の世界をつなぐ通路と解して、この部分が次第に祭祀・儀礼の場として重視されるようになった」とし、植田氏も「前方部は当初、棺のある後方部にのぼる通路だったものが、のちに祭祀場としてひろくなった」としますが、祭祀場が必要なら台状部に特別な区域として設ければよくて、わざわざ狭い細い通路を広げる必要もないし、論点①で触れたように溝を全周させてしまっては肝心の祭祀場に渡る道がなくなってしまいます。

都出氏は「3世紀中葉になると各地に円墳の一方向に祭祀用の突起部を付設した前方後円墳の墳形に近いものが登場」、大塚氏は「前方部は主丘への一種の階段的な存在であり被葬者に一段と接近しえた神聖な場所で、祭祀や祈念を催すことのできる地点」と、いずれも前方部が祭祀の場所であったとします。前方部祭壇付加説の流れを踏襲するものと思われますが、その後の調査・研究の進展によって前方部に埋葬施設をもつ古い古墳がいくつも見つかっており、3世紀後半の築造とされる西殿塚古墳においても前方部の方形壇の下に埋葬施設があることが想定されています。祭祀の場に埋葬施設があることは考えにくいですね。

また、定型化された最初の前方後円墳とされ、3世紀後半に築造された箸墓古墳では葬送儀礼に用いたと考えられる吉備の特殊器台が見つかっていますが、その出土した場所は前方部ではなく後円部墳頂です。大和では箸墓古墳に続く中山大塚古墳、西殿塚古墳や葛本弁天塚古墳からも特殊器台、特殊壺が出ていますが、いずれも後円部からの出土です。中山大塚古墳にいたっては石室天井石の上面で破砕された状態で見つかっています。前方後円墳が成立した早い段階での古墳で葬送儀礼に用いられた特殊器台・特殊壺が前方部ではなく後円部から出土している事実は、古墳上での祭祀の場は前方部ではなく後円部にあったことを物語っています。

●論点③ 「前方部隅角の斜面は墓道なのか」

論点①では周溝墓の通路が発達して前方部になったわけではなく、論点②では前方部が祭祀場であった可能性は限りなく低いと考えました。最後に論点③として近藤氏の墓道起源説を考えます。墳丘に登るときに前方部の隅角の一方の斜面を登ったのかどうか、葬列の墓道として隅角を利用したのか否か。

下図は近藤氏によって加筆された西殿塚古墳の図ですが、氏はバチ型を形成する前方後円墳においてこの図の左側の隅角のように前方部の一方の隅角の勾配が緩くなっているケースが見られることから、この部分が墓道として設計されたと考えました。図の各所に「疲労」「努力」「困難」「至難」の語が書きこまれていますが、これは墳丘斜面を登るとした場合の難易度を表していて、勾配を基準として15度までが疲労、20度までが努力、25度までが困難、25度以上が至難となっています。


(近藤義郎「前方部とは何か」より)

図をよく見ると右側のくびれ部付近の前方部斜面に「疲労」だけで登れる勾配があります。一方、近藤氏が墓道と想定した勾配の緩い左側の隅角は「疲労→努力→努力」となっており、明らかに前者の方が登りやすいのです(いずれも字が小さく見えにくいので赤丸で囲みました)。この点は藤田友治氏も指摘しています。それよりも何よりも、墳丘に直行して登ることを想定して疲労や努力としていますが、たとえば黄色の矢印のように前方部の左隅からくびれ部の上部に向かって斜めに登れば、距離は長くなるものの容易に登れるはずです。そんな痕跡は検出されていないと批判されそうですが、そもそも近藤氏が墓道とするルートも人が登り降りした痕跡が出ているわけではありません。



氏は『前方部とは何か』の中で、奈良県北葛城郡の馬見古墳群にあるナガレ山古墳においてくびれ部前方部寄りのところで「墳丘鞍部へ至る道路」あるいは「前方部平坦面へ至る道線」と考えられる埴輪列が検出されているとした和田晴吾氏の指摘を「根拠不十分」として一蹴します。ナガレ山古墳については藤田氏も指摘していますが、常識的に考えれば和田氏や藤田氏に軍配が上がるでしょう。


(復元されたナガレ山古墳の墳丘への通路)


(ナガレ山古墳に設置された説明板)

墓道起源説は弥生墳丘墓の突出部が葬列の墓道であったとして、それが前方後円墳に受け継がれたとするもので、その墓道のルートは前方部の勾配の緩い一方の隅角から前方部頂に登り、そこから後円部に向かって伸びる斜道を進み、さらには後円部頂に至る勾配を緩くした隆起斜道を登って埋葬施設に到達するというものです。前方後円墳が成立する段階でその設計思想が組み込まれていたとする点も含めて論理的かつ実証的に説かれていると思いますが、隅角が葬列の墓道として利用されたという点に今ひとつ納得感がありません。

以上のように3つの論点で考えてみましたが、周溝墓の通路が発達した前方部がやがて祭祀の場になったとする本命説、対抗馬である墓道起源説とも、素直に受け入れることができませんでした。

(つづく)


<主な参考文献>
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「古代吉備 第21集 『前方部とは何か』」 近藤義郎
「古代日本と神仙思想  三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治


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