古代日本国成立の物語

自称「古代史勉強家」。趣味は各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格保有。

今さらの魏志倭人伝

2020年12月22日 | 古代日本国成立の物語(第三部)
しばらく記事を書いていなかったので、いろいろと確認中や考え中のことを備忘録としてあげておきます。いま何を考えているかというと、魏志倭人伝のことです。今さら、というくらいに基本的なところです。

倭人伝の冒頭に「倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見者 今使訳所通三十国」とあります。「旧百余国」の「旧」はいつのことでしょうか。これは1世紀頃に書かれた漢書地理志にある「楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云」から引用していると思われるので、前漢時代のBC1世紀頃のことで、「漢時有朝見者」は「以歳時来献見云」のことを指しているのでしょう。

次に倭人伝の中ほどに「其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼」という文章があります。ここに出てくる「其国」はどこを指すのでしょうか。其国にはもともと男子の王がいたとあり、これは後漢書にある「安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見」に登場する倭国王の帥升とするのが通説です。したがって「其国」はこの後漢書にある「倭国」を指すと考えられます。帥升王が統治していた国々をまとめて「倭国」と呼んだのでしょう。逆に言えば、帥升王が統治していなかった国々もあったはずで、それらは倭国に含まれていません。ちなみに、安帝永初元年は西暦107年です。でも、後漢書の成立は魏志倭人伝よりもあとのことで、陳寿は倭国王帥升の情報をどこから得たのでしょうか。

そして、その帥升王から7~80年を経て倭国に乱が発生します。後漢書には「桓霊間 倭国大乱 更相攻伐」とあり、桓帝と霊帝の間(146年~189年)に倭国大乱が起こったことになっています。帥升が後漢に朝見したのが107年で、そこから7~80年後は180年代になるので、辻褄はあっています。

その倭国大乱が歴年(数年?)続いたあとに卑弥呼が共立されたので、彼女が女王になったのは190年頃ということになります。中国はまだ後漢の時代ですね。そして220年に魏が成立し、238年に遼東地域を支配していた公孫氏が滅んで、魏への通行が容易になった翌年(景初3年)に卑弥呼を共立した連合国は魏に遣使します。これが冒頭の「今使訳所通三十国」を指すのでしょう。つまり、卑弥呼が統治していた連合国が30カ国あったということです。

さて、この倭国大乱の「倭国」は卑弥呼を共立した国々、つまり卑弥呼が統治していた30カ国を指すのか、それとも共立に参加しなかった国も含めるのか。倭国大乱に参戦した全部の国がまとまって卑弥呼を共立したかどうかはわかりません。卑弥呼と不仲であった狗奴国のような国も倭国大乱に参戦したとも考えられるので、卑弥呼を共立した国々と反卑弥呼の国々があったと考えるのが自然ですが、どうでしょうか。倭人伝には次の通り、ほかに「倭国」が2カ所に出てきます。

①王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露
②太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭国拝仮倭王

①は「王が使いを京都や帯方郡、諸韓国に遣わし、及び帯方郡使が倭国に来た時、みな津で臨検する」という意味で、この津は伊都国の港を指すのでここでの「倭国」は卑弥呼が統治した連合国を指します。
②は「帯方郡から派遣された梯儁が詔書や印綬をもって倭国へ赴いて倭王に授けた」という意味で、倭王が卑弥呼なので「倭国」はここでも卑弥呼が統治した連合国を指します。
そうすると「倭国乱相攻伐歴年」の「倭国」も卑弥呼が統治した連合国、すなわち卑弥呼共立に参加した30カ国のことなのだろうか。

倭人伝には「倭国」のほかに「倭」「倭人」「倭水人」「倭種」「倭地」「倭王」「倭女王」などの単語が登場します。「倭王」や「倭女王」明らかに卑弥呼を指していると考えられるので、この場合の「倭」は卑弥呼を共立した国々という意味に限定した使い方になります。「倭」が単独で使われている場合も同様です。つまり「倭=卑弥呼が統治した連合国」です。一方、「倭人」「倭水人」「倭種」「倭地」などは当時の魏が認識していた日本国全体を表しているように思えます。

ところで、倭人伝を読んでいると「邪馬台国」というのは1カ所にしか登場しません。それに対して「女王国」は5カ所、「女王」が8カ所に登場します。このことについて少し考えておきたいと思います。邪馬台国は「女王之所都」とあるので、卑弥呼の宮があった国です。

「女王国」は以下の5カ所です。

①世有王皆統属女王国郡使往来常所駐
②自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳
③自郡至女王国万二千余里
④自女王国以北特置一大率検察
女王国東渡海千余里復有国

どれも「邪馬台国」に置き換えて問題なさそうですが、あえて言えば⑤については邪馬台国そのものよりも「卑弥呼が統治していた連合国」として広い範囲で捉える方がいいかもしれません。

それよりもここで気になったのは①の文です。この前の部分も合わせると「東南陸行 五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐」となります。これは伊都国に関する記述として「伊都国には代々に王がいて皆が女王国に属していた」と解されていますが、「世有王」なのに「代々」と解することに違和感を覚えますが、これは次の「皆」という単語で複数の王がいたことを表しているので「代々」と解さざるを得ない、ということです。

しかし、卑弥呼が共立されたのが190年頃で、魏が滅亡したのが265年なので、この70~80年の間に交代した王は多くみても3人程度でしょう。それを「代々」と解することもどうかと思い、調べてみるとこんな説がありました。

伊都国に関する記述は「有千余戸」で切れて、次の「世有王」からは新しい文となり、この「世」は世の中と解する。そうすると「世の中には王がいて、皆が女王国に属していた」と読むことができる。つまり、伊都国を含む30カ国のすべてに王がいて女王国に属していた、ということです。これはなるほど、と思ったものの、そのあとの記述が奴国、不弥国、投馬国と続くので、今度はこの文章をここに挟んだことに違和感を覚えてしまったのです。いったん棚上げです。

次に「女王」について考えます。「女王」は次の8カ所です・

①南至邪馬台国女王之所都
②次有烏奴国次有奴国此女王境界所尽
③其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王
④皆臨津捜露伝送文書賜遺之物詣女王不得差錯
⑤去女王四千余里又有裸国黒歯国
⑥景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡
⑦其年十二月詔書報倭女王
⑧倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和

①④⑥⑦⑧は「女王」を「卑弥呼」と読み替えても問題なさそうですが、②③⑤についてはどうも違うようです。⑤は「女王国」つまり「邪馬台国」と読み替えても意味が通じますが、この記述の前には先に見た「女王国東渡海千余里復有国」の一文が出てくるので、ここでも同様に邪馬台国そのものとするよりも「卑弥呼が統治していた連合国」と少し大きな範囲で捉えるのがいいと思います。とくにこちらは四千里も先の国のことを言っているのでその方が腹落ちします。

②は戸数も距離も詳しくわからないその他の傍国の名称を並べた最後の一文なので「邪馬台国の境界が尽きる所」ではなく「女王が統治する国々の境界が尽きる所」とするべきでしょう。③は「卑弥呼」でも意味が通りそうですが、狗奴国を説明している文と考えれば「狗奴国は女王が統治する国々に属さない」とする方がよい。

このように「女王」は「卑弥呼」あるいは「卑弥呼が統治する連合国」のふたつの意味があると考えられます。陳寿は同じ「女王」という単語を意志を持って使い分けているように感じました。

そして今回の最後に「倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状」をあげておきます。倭人伝の最後の部分に出てくる記述です。これをもって「邪馬台国と狗奴国が戦った」と解される場合が往々にしてありますが、邪馬台国と狗奴国が戦ったとはどこにも書いていません。「倭の女王である卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼はもともと和することがない。倭は載斯烏越等を派遣して帯方郡に至り、互いに攻撃し合う状況を説明した」ということなので、卑弥呼が統治する連合国と狗奴国が戦った、と解するのが妥当と思います。










コメント

ウワナベ古墳・コナベ古墳・ヒシアゲ古墳

2020年12月01日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2020年11月22日、奈良県と京都府の境界の近くまで行く用事があって車で出かけたので、ついでに近くの佐紀盾列古墳群を見学してきました。車をどこに停めようかと悩んだ結果、平城宮跡遺構展示館の駐車場に停めて歩くことにしました。この駐車場は無料です。

歩いて10分足らずでコナベ古墳の前方部左手の周堤上に到着です。下の写真の左が後円部で右側が前方部です。



徒歩での見学なので効率的に見て回ろうと思って、コナベ古墳はいったんやり過ごしてウワナベ古墳に向かいました。上の写真の右に向かって歩き、前方部右手から下の写真を撮影しました。左側が前方部で右奥が後円部です。





この案内を右に進んで、コナベ古墳とウワナベ古墳の間にある航空自衛隊の施設の前を通過してすぐにウワナベ古墳が見えました。左が後円部で右が前方部です。



よく見ると、墳丘表面の土が剥がされて葺石らしきものが見えています。





さらに周濠に沿って歩いていると、空き地に立てたテントに人が何人か立っています。なんと、そのテントの下のテーブルには土器片が並べられているではありませんか。見せてもらっていいですかと聞くと、どうぞ、という返事。少し興奮してきました。土器片やパネルを見ながら係の人から説明を聞きました。すると、ウワナベ古墳はちょうど調査をしているところで、昨日今日の2日間は現地見学会をしているというではありませんか。そうやった、古代史サロンのメンバーが投稿してくれてたのがこれやったんか。何と間抜けなことです。ウワナベ古墳を見学しようと決めたときにはその投稿を読んでいたのに、話がまったくつながっていなかった。そういえばさっき見た葺石も調査中の場所やったんや。



















見学会は事前申込制なので入れないけど、外から眺めることができるというのでさっそく行ってみました。後円部を中心に調査区域が設定されています。下の写真の右側になります。



陵墓参考地の発掘を見学できる機会なんて滅多にないので、外から眺めるだけでも十分だけど、できることなら入って見たかったなあ。













後ろ髪を引かれながら見学場所をあとにしてさらに周濠を巡ってみると、ほかの区域でも調査が行われていました。この調査は崩れつつある墳丘裾部に護岸工事を施すために裾部を確定すべく行われているもので、結果としてこれまで考えられていた255mよりも少し長い270m~280mの長さがあることがことがわかりました。これは結構大きなニュースになったのですが、さっきの土器片展示のところの係の方の話では「このあたりの周濠のある古墳は調査をすればおそらくどれも長くなるでしょう。だからこの古墳だけ取り立てて言うのはあまり意味がないです。」ということでした。そういうものなんだ。ちなみに、この古墳は5世紀前半の築造とされ、もとは元明天皇陵に治定されていたけど、元明陵は違う古墳になったので、現在は被葬者は特定されずに「宇和奈辺陵墓参考地」として宮内庁の管理になっています。



さて、ウワナベ古墳をあとにして、もう一度コナベ古墳に戻ります。今度は古墳の東側を周濠に沿って歩きます。



後円部のあたりで道が分かれます。コナベ古墳を一周するまえに近くのヒシアゲ古墳に行くことにしました。ヒシアゲ古墳は「平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されています。全長219mの前方後円墳で、築造時期は5世紀中葉~後半とされています。









後円部に行くと外堤上に並べられていたとされる埴輪列がそのままの位置に復元されていました。





近くに「飛地ほ号」という陪塚がありました。





ウワナベ古墳、コナベ古墳、ヒシアゲ古墳の位置関係はこうなっています。



来た道を引き返してコナベ古墳の続きを歩きます。





これでコナベ古墳も一周し、佐紀盾列古墳群の東地区にある3つの古墳を見学したことになります。ちなみに最後のコナベ古墳は全長が204mで、こちらも「小奈辺陵墓参考地」として宮内庁が管理しています。

このあとは車に戻って、古墳群西側にある成務天皇陵に治定される佐紀石塚山古墳、垂仁天皇妃の日葉酢媛陵に治定される佐紀陵山古墳、孝謙・称徳天皇陵に治定される佐紀高塚古墳、さらには少し北に行ったところにある神功皇后陵に治定される五社神古墳(ごさしこふん)などを見ようと車で向かいました。事前に駐車できそうな場所を調べていたのでナビをセットして向かったのですが、近くまで行くとあまりに道が細くて車を擦るのが嫌だったのであきらめることにしました。また機会を作って来ようと思います。

それで少し時間があったので、遺構展示館にもどって見学することにしました。これは平城宮の内裏の遺構ですが、このように発掘調査時のままの遺構を保存して展示する方式は私がもっとも好きな博物館の展示形態です。







ここもゆっくり見たいのであらためて来ることにしました。平城宮跡はこのような施設以外は広大な公園としてピクニック気分で時間を過ごすことができる場所です。と知ったかぶって言いますが、実はここにやってきたのは約30年ぶりです。前回来たのは結婚した翌年で、その年に開催された「なら・シルクロード博覧会」の会場になっていました。それ以来です。

この日は急な用事で奈良に来ることになったにもかかわらず、天気も良くて充実の時間を過ごすことができました。とくにウワナベ古墳はあまりの偶然というか幸運な機会に恵まれ貴重な経験となりました。


↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント

談山神社で紅葉観賞

2020年11月29日 | 旅行・車中泊
2020年11月15日、奈良県桜井市にある談山神社まで紅葉を観に行きました。富田林の自宅を出て竹内街道から山麓バイパスに入り、24号線から橿原神宮を経て明日香村を通過、石舞台を右手に見ながら峠を越えて目的地に到着。明日香村は通過しただけでしたが、以前に来たのは40年くらい前のこと。そのときは田舎の風景がもっと残っていたように思うのですが、道路が整備されてお店も増えて、何となく田園も小さくなって、すっかり景色が変わっていました。何よりも驚いたのは石舞台です。里山の中にが浮かぶように存在していたのが、今ではきれいに整備された公園の中にあるモニュメントのように見えました。中学2年のときに歴史研究会の活動で訪ね、高校1年では春の遠足でやって来たのですが、残念ながらそのときののどかな雰囲気はあまり感じられませんでした。

談山神社も結婚前に奥さんと来て以来の35年ぶりくらいです。そのときは今回走った石舞台から多武峰につづく道は車で越えることができずに、桜井の市街から南下する道を走りました。便利になったなあと感心していたら、峠の手前から渋滞です。峠を下ったところにある談山神社の駐車場に入る車の列が続いていて、駐車場まで1時間と案内がありました。結局、50分くらいでたどり着くことができたのですが、これは境内も結構な人だろうなと予想されました。前に来たときは確かもっと寒い季節で、境内には誰もいなかった記憶があります。









赤・黄・緑のグラデーションが青空に映えてきれいでした。











この十三重塔、以前に来たときはもっと小さな印象があったけど、意外にも大きく感じました。拝殿からの眺めも素晴らしい。







拝殿には神社所縁の資料が展示されていました。多武峰縁起絵巻には教科書などでよく見る蘇我入鹿惨殺のシーンを見ることができました。



銀杏の大木が金色に輝いていました。





藤原鎌足公にご対面。意外にもデカ鼻でした。



●神社公式サイトより
「舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。 この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、 聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、 西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。(中略)鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。 大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。」

藤原鎌足を祭神とする談山神社は上記のように藤原氏ゆかりの神社ですが、神仏習合によって境内に建てられた妙楽寺は天台宗の寺院で、藤原氏の氏寺である法相宗の興福寺や藤原氏の氏神である春日大社との仲は良くなかったそうで、興福寺の僧兵に焼き討ちされたことがあるそうです。なんとまあ。







↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。




コメント

「考古学から見た邪馬台国大和説」を読んで

2020年11月26日 | 書評
本書は「畿内ではありえぬ邪馬台国」という刺激的な、そして畿内説論者にとっては何とも攻撃的かつ挑戦的なサブタイトルがついています。私は考古学や古代史の専門家ではないので「説」として主張しているわけではないですが、邪馬台国は畿内にあったと考えています。その私が本書を読むにあたって心がけたことは、できるだけ中立的なスタンスで受け止めよう、その上で本書の内容に何ら反論できずに納得することばかりであれば、素直に自分の考えを見直してみよう、ということでした。結果は、そういうことにならなかったのですが、ここでは本書の感想というよりも、本書が指摘することに対する私の考えを書いてみたいと思います。



著者は、多くの邪馬台国畿内説論者が卑弥呼の居所であったと考える纒向遺跡や卑弥呼の墓ともされる箸墓古墳など、畿内説の象徴とも考えられる考古資料をその論考の中心に据えて、大和における弥生遺跡や墳墓の状況、そこから見つかる出土物の状況などに対する多様な視点に基づく考察をもとに、これまでに邪馬台国畿内説(大和説)の根拠として主張されてきた様々な事象に対して否定的な見解を展開しながら、結果として大和に邪馬台国の存在を認めることができない、と断言しています。ただし、著者が否定する畿内説は過去から次のような文脈で語られてきた主張を指していると思われます。

・大和で起こった邪馬台国が強大化して西方に勢力を広げ、西日本一帯を統治下においた。(邪馬台国がその後の大和政権へとつながる)
・その統一過程において、大和で生み出した大型前方後円墳を広げていった。
・その最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳は卑弥呼の墓と考えられている。
・卑弥呼の神殿とも考えられる大型建物などが出た纒向遺跡が邪馬台国の中心と考えられる。
・邪馬台国による大陸との交流や交易によって人々が往来し、様々な物資が大和に持ち込まれた。

邪馬台国が畿内にあったと考える私は次のように上記の畿内説とは少し違った考えをしており、このように解釈する立場から見ると著者の指摘は邪馬台国畿内説にとって致命的な問題ではない(大和に邪馬台国が存在しえないと断言できない)と言えそうです。

倭国大乱の渦中にあった西日本各地のクニはこれ以上の疲弊や消耗、さらには自分のクニの消滅を回避すべく、この大乱を終息させて連合での共存を志向することにした。その結果、各クニの合議によって卑弥呼を女王として共立し、連合国の首都として邪馬台国を建設した。つまり邪馬台国とは、弥生時代の前期あるいは中期から存在した勢力が強大化し、後期に至って北部九州をも含む西日本を統一したという国ではなく、連合国に属する各クニが共同で建設した連合国統治のための政治国家である。そして、倭国とはこの連合国のことを指す。倭人伝の記述をそのように考えると、邪馬台国は連合国の扇の要となりうる場所で、なおかつ、それぞれのクニにとっては女王の直接的な介入を困難ならしめて一定の勢力を保持できる場所が選ばれたであろう。それが大和であったと考えることは可能であり、むしろ大和が必然であったとさえ言えるのではないだろうか。

★参考にどうぞ
 ↓↓↓↓↓↓



上記のような基本スタンスのもと、少し長くなりますが以下に著者の主張を「大和地域の弥生遺跡の考察」と「纒向遺跡の評価」という二つの側面で整理しながら、それに対する私の考えを述べてみたいと思います。なお、著者はこのほか様々な視点からの論考を展開していますが、大和の考古資料に対して直接的に言及しているこの二つの側面を補足するためのものと考えられるため、ここでは割愛したいと思います。

■大和地域の弥生遺跡の考察

●弥生時代における大和の大型集落遺跡として「唐古・鍵遺跡」を取り上げて、弥生時代の全期から古墳時代にいたる相当な長期間にわたって安定的に経営された大和の大型弥生集落の典型と位置付ける一方で、集落内で発見された弥生中期の二棟の大型建物に言及した上で、それが弥生後期の段階にまで継続していないこと、さらには唐古・鍵を除く大和地域においてはそもそも弥生の集落遺跡に大型建物が見られないこと、とくに古墳時代に見られるような周溝や区画を持った首長の居住を窺わせるような建物群の出現を想定できる状況にないことなどを指摘する。
→弥生中期から後期、さらには古墳時代に至る大和には大きな権力を持った首長の存在を想定し得る建物遺構が見つかっていないということから、邪馬台国の存在を想定しがたいということを暗に指摘しているが、後述するように少なくとも弥生後期の纒向遺跡には神殿を想定しうる大型建物跡が検出されていることからこの指摘は当たらない。

●大和盆地ではその南半部周縁、特に盆地東南部より紀伊に抜ける南西方面に高地性集落が多く見られる。汎西日本的な大きな広がりを持つ高地性集落はこの時代(弥生後期)の緊張関係なり争乱を起源とすることを否定できないとした上で、大和地域の高地性集落は弥生時代後期前半から中頃のものが多く、その時期は瀬戸内地域などよりわずかに後出することから、西方地域より波及した何らかの緊張関係に対して出現したものと位置づけることによって、国々の統合をもたらした政治的な動きが畿内から始まったものではないとする。
→国々の統合を促す緊張関係や争乱は畿内から西日本に波及したのではなく西方から畿内に波及してきたとして、畿内の邪馬台国勢力が西に拡大していったとは考えられないことを指摘するものの、この緊張関係や争乱が倭国大乱であり、その結果として大和に邪馬台国が建設されたと考えれば何ら矛盾することはない。

●大和の墳墓の実態について、弥生前期から現れる方形周溝墓は中期に増加するものの後期以降はやや減少することに加えて、弥生時代を通じて副葬品がほとんど出ないことを指摘するとともに、弥生後期に入ってから他の地域(瀬戸内・山陰・北陸など)で見られるような首長墓を想定し得る大型の墳丘墓も大和盆地ではほぼ皆無であるとする。
→弥生後期に至るまで大きな権力を持った首長の存在を想定し得る墳墓がないことをもって邪馬台国の存在を否定する意図が見えるが、首長の権力が次第に大きくなって邪馬台国になっていったのではなく、突然に女王が共立されて生まれたのが邪馬台国であり、それ以前に権力があったことを示すような豊富な副葬品を持った方形周溝墓や大型墳丘墓が見られないのはむしろ当然と言える。

●唐古・鍵遺跡の搬入土器の実態から、その交流範囲が、西は吉備、北は近江、東は伊勢湾岸地域が想定され、全体の傾向として西方の地域よりむしろ東方の地域との交流が多いとした上で、その範囲が北部九州にほとんど及んでいないことを指摘する。(吉備・瀬戸内20点、北部九州1点、近江40点、伊賀・尾張20点、伊勢湾岸地域60点以上)
→朝鮮半島を通じて魏と交流していた邪馬台国が畿内にあったとすれば、北部九州を含む西方の土器がもっと大量に出るはず、ということを仄めかすが、北部九州の土器が出ていないことについては、吉備が北部九州と畿内の中継地点として機能していたと考えれば、物資を積みかえた(土器を入れ替えた)ことを想定することも可能である。

●大和地域の鉄製品の出土は大阪府下と比較すると極めて少なく、鉄器製造にかかわる遺構や遺物はまだ知られていない。青銅製品についても調査例の多い唐古・鍵遺跡においてもわずかであり、銅鏡がほとんど見つかっていないことも大和の弥生遺跡総体の傾向である。大和は近畿圏の中でも金属器が少なく、青銅器生産も盛んであったとは言い難いとする。
→後述するように纒向遺跡では鍛冶関係の遺物が10か所ほどから出ているが、そのことには触れずに逆に石器が弥生後期初めまで使われていたことを持ち出して鉄製品の乏しさを強調する。そもそも湿地が広がっていた大和盆地では鉄製品が残りにくいという指摘もあり、金属製品の出土が少ないことを大和に邪馬台国がなかった材料にするのは少し無理があるように思う。

●大和で見つかった14個の銅鐸(うち2個は破片のみ)について、銅鐸の様式から判断できる製作時期と出土地の関係を見ると、盆地西側からは古い銅鐸が見つかり、新しいものが東部から、さらに最も新しい形式の銅鐸の破片が東部の纒向遺跡から見つかっている。これは西方より銅鐸文化を受け入れながらも後半期からは西日本よりも東方地域との関係が強まっていることを示しているとする。
→邪馬台国が大和にあったとすれば、逆の傾向を示してよいはずであるとの指摘であろうが、そもそも東西わずか10数キロの狭い大和盆地で見つかったわずか14個の銅鐸をもって東から、西からという議論はナンセンスではないだろうか。むしろ、全国で見つかっている銅鐸の出土の状況や発生から終焉までの傾向などから想定される歴史の動きは大和に邪馬台国が建設されたことに符合すると考えられる。

●大和における弥生時代の大陸産青銅器の出土は近畿地方の中でも特に少ない状況で、最も注目すべき中国鏡に至ってはその確実な出土例は清水風遺跡の前漢鏡1点のみである。さらには大陸系青銅品の代表格である貸泉などの中国銭貨は皆無である。
→これらの事実は、大陸との交流を持っていた邪馬台国における社会動向とは相当の違いがあるとして、大和の邪馬台国を否定的に捉えるが、邪馬台国は弥生後期後半に突然大和に建設されたので前漢鏡や貨泉が出ないのはむしろ当然であり、逆に布留式以降の大和では鏡が一般的になる。

■纒向遺跡の評価

●大型建物
過去の度重なる調査の結果、3世紀のものと考えられる建物AからFまでの6棟の建物跡あるいは建物跡と思われる遺構が東西軸上に並ぶように検出されている。最近の調査で建物Aの存在が確認できなかったことは著者の指摘のとおりであるが、最も大きいとされる建物Dについて、遺構の半分が古墳時代の削平によって検出不能であった中で様々な考古学者や建築の専門家が推定した結果に対し、建物の全体像の理解ができないから積極的な評価が困難であると切り捨てる。同様に、建物跡が東西軸上に並んでいることに対しても空間的制約によるものと短絡的に断言する。
→少なくとも3世紀の段階でこれらの建物群の存在が認められる以上、確定的なことが言えない中にあっても与件をもとにその性格や位置付けなど、何らかの評価をすることが求められよう。建物群が東西軸上に並ぶことについても、太陽の軌道との関連で意味付けしようとする主張などがある中、もう少し多面的な考察が欲しい所である。

●古墳
纒向遺跡には纒向石塚、纒向矢塚、纒向勝山、東田大塚、ホケノ山など、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳よりも古いとされる大型の古墳が多く存在する。そして箸墓古墳についてはその研究史を振り返りつつ、様々な観点からの考察を加えて、最古の大型前方後円墳であることとその築造時期は4世紀の中で考えるのが適切であり3世紀まで遡ることはないと結論づける。ホケノ山古墳についても墳丘上から見つかった土器の考察から、箸墓古墳とほぼ同時期の築造であるとする。しかしながら、 纒向石塚、纒向矢塚、纒向勝山、東田大塚については埋葬部の内容が明らかでないことが問題であるとし、さらには古墳の周濠内や墳丘内から出た土器による推定では確実性に欠けるとして、築造時期への言及を避けている。
→上記の大型建物に対する考察と同様、専門家の考察としては物足りない。箸墓古墳よりも古いと考えられているこれらの古墳の考察を経ずに、箸墓古墳の築造時期をもって邪馬台国の存在を否定することはできない。寺澤薫氏はこれらの古墳を纒向型前方後円墳として3世紀代の古墳であることを主張する。また、石野博信氏は周濠などからの出土遺物から纒向石塚古墳の築造が3世紀であると主張する。これらの主張に対する根拠ある反論が欲しい所である。

●外来系土器(搬入土器)
纒向遺跡では唐古・鍵遺跡以上に多数の搬入土器が見つかっており、搬入元地域の範囲も拡大しているが、概ね唐古・鍵遺跡と同様の傾向を示している。つまり、西方においては吉備や山陰が多く、北部九州からはひとつも入ってきていない。一方で、搬入土器のほぼ半数が東海系の土器で占められ、東日本を含む汎日本的な交流が窺える。著者はこの状況を邪馬台国の影響範囲をはるかに越えるものであるとして、3世紀のこととして捉えることに疑問を呈し、4世紀の箸墓古墳築造と関連づけて考えようとする。
→搬入土器の状況を素直に3世紀以降の動きと捉えたうえで、東日本との交流を考察するというスタンスが求められよう。狗奴国が東海地域にあったとは思わないが、倭人伝に記された他のクニが東海方面に存在した可能性があり、逆に倭人伝に記されない東方のクニが邪馬台国と交流していた可能性も否定できない。一方、西方の範囲が吉備や山陰が限界になっていて北部九州の土器が出ていないことについては、唐古・鍵遺跡と同様の理解ができる。

●金属製品と大陸系遺物
纒向遺跡では弥生時代を通じて金属製品や大陸系遺物が少ない状況が続いている中、庄内末期から布留式にかけてのものとされる鍛冶関連遺物が10か所ほどから出土するとともに、朝鮮陶質土器や木製鐙などの大陸系遺物も見つかっている。
→鍛冶関連遺物や大陸系遺物を比較的新しい時期のものと位置付けて邪馬台国時代とは一線を画そうとする意図が読み取れるが、庄内末期から布留式にかけての期間は3世紀後半を想定しうるので、むしろ邪馬台国の発展を示すものと解することもできる。


以上、二つの側面で整理したときの個々の論点に対する私の考えを書いてみました。全体的な感想としては、なるほどと頷く部分がある一方で、指摘や主張の端々に畿内説(大和説)を否定する意図が見えすぎて素直に受け取れない部分もあったのが正直なところです。遺跡や遺物の解釈にあたっては定説として確定していないものについては専門家によってその解釈が違う場合があるのは当然で、本書で取り上げられた考古資料に関してもそのようなものがたくさんあるはずです。同じものでも右から見るのと左から見るのとでは形が違うことはよくあります。少なくとも素人の私はどんな立場の人であれ、その人の主張を否定することはせずに「なるほど、そういう考えもあるんだ」と思って受けとめようと心がけています。

今回この著書を読んでみて、自分の中で確たる答えの出せていないことや修正が必要だと感じていたこと、たとえば「卑弥呼や台与が記紀に登場しているとすればそれは誰にあたるのか」、あるいは「女王であったふたりの墓はどこにあるのか」、「東海を中心とする東方との関係をどのように理解するか」、「邪馬台国と大和政権の関係をどのように定義するか」などについて改めて考える必要性を痛感したので、久しぶりに邪馬台国を学びなおそうと思いました。


★参考にどうぞ
 ↓↓↓↓↓↓




コメント (2)

「日本語はどこからきたのか」を読了

2020年11月07日 | 書評
大野晋著「日本語はどこからきたのか」を読了したので、ポイントを以下に整理しておきます。

ある言語と別の言語、ふたつの言語を比較すること(比較言語学)によって、①意味が同じで音の対応が成り立つ単語が基礎語の中にたくさん認めれらること、②文法的な共通点が認められること、の2点を証明することができれば、このふたつの言語が共通の祖先をもつ、あるいは一方が他方の祖先である、つまり、それぞれの言語が親戚関係にあることがわかる。

著者はこの比較言語学の手法で日本語とタミル語(インド南部およびスリランカの一部で使われているドラヴィダ語に属する言語)を比較し、①については2000語ほどの基礎語のうち約500語が該当すること、②については肯定文の最後に疑問の助詞をつけて疑問文にするなど多くの共通点を持っていることから、 タミル語と日本語が親戚関係にあることを証明した。さらに加えて、③日本の和歌の「57577」の形式が紀元前後のタミル語最古の歌集に認められることも証拠として提示している。

しかしながら、この事実はあくまでふたつの言語が極めて近い関係にあることを証明したに過ぎず、この言語を用いる民族が親戚関係にあることを証明したことにはならない。そこで著者は、両言語の類似性を証明した上で、特に穀物に関する言葉、田畑などの耕作地に関する言葉、米・糠・粥など稲を加工した食料を表す言葉、織り物に関する言葉、墓に関する言葉、金属に関する言葉、船に関する言葉などの共通性を指摘し、さらに小正月の行事の共通性、甕棺による葬制の共通性、壺形土器や子持ち土器の形の一致、農具の形の一致などについても指摘し、稲作、金属器、機織りなど弥生時代の文明が南インドからやってきた集団によって、その言葉とともに伝えられたと主張する。ただし、日本の弥生文化は北部九州から始まったと考える著者は、タミル人が北部九州にやって来たとの説を展開する。

古代の造船技術や航海技術は私たちの想像を上回るものであったろうし、タミル語を使う集団が南インドを出て、ベンガル湾、マラッカ海峡、南シナ海、東シナ海を航海して北部九州にやってきた可能性は大いにあると考えるが、その到着地は南九州であったかもしれない。また、南インドからダイレクトに日本に来たのではなく、中国の江南や朝鮮半島を中継してやってきたことも考えられる。古来、東シナ海を挟んで江南地方と南九州との間で往来が盛んであったことを考えると、タミル文化が江南を経由して南九州に入ってきた可能性も否定できない。

また、著者は日本語と朝鮮語の比較も行っている。その比較においては、②は多くの点で成立するが、①については認められる単語の対応が少ないことから、両言語は近くて遠い関係にあるとしている。ただし、朝鮮語は15世紀以前にさかのぼる資料がないことがその証明を困難にしているという事情も指摘しており、その点においては朝鮮語が日本語の祖先であることを完全に否定することができないとも言える。このことから、弥生時代に南インドの集団が朝鮮半島を経由して日本にやってきた、あるいは朝鮮半島の集団が南インドの文明や言語を採用し、それを日本に伝えたという可能性が十分に考えられる。むしろ、そう考える方が説得力がありそうだ。

タミル語が日本語の祖先に位置づけられるという著者の説は聞いたことがあり、日本人のルーツを考えるにあたって参考になると思って本書を読んでみた。言葉の類似性や共通性に留まらず、稲作を伝えて弥生文化をもたらしたのがタミル人であったとまで言われると、俄かに賛意を表すことができない気持ちになったのが正直なところである。しかし、それにしても子持ち土器の形が似ていることには興味を覚えた。しかもタミル人は口縁部に皮を張って楽器(太鼓)として使っていたというから驚きだ。もしかすると日本で出土している子持ち土器も楽器だったのかもしれない。




↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。



コメント

東京から八ヶ岳・松阪を経て大阪へ帰る車中泊旅②

2020年11月06日 | 旅行・車中泊
東京を出発して八ヶ岳のホテルで一泊。2日目は縄文時代中期の井戸尻遺跡や井戸尻考古館を見学した後、諏訪湖を経て木曽路を南下、名古屋を通過して津市に入ったところにある「道の駅 津かわげ」で車中泊。

3日目の朝は7時過ぎに目が覚めて、準備を済ませて8時過ぎに出発、松阪駅近くにある松阪シティーホテルを目指します。松阪までやってきた目的の一つが、このホテルの朝食バイキングで提供される松阪牛の牛スジカレーを食べることです。到着したのが終了間際の8時40分頃でギリギリ間に合いました。期待を上回る美味しさのカレーやほかの食材も食べ放題で宿泊客800円、外来客850円という料金はたいへんお得だと思います。40分ほどで朝食を済ませて車に戻りました。




この日の目的の二つ目は、松阪市にある宝塚古墳および松阪市文化財センター「はにわ館」を訪ねることです。はにわ館では宝塚古墳から出土した日本最大級の舟形埴輪の実物が展示されています。この舟形埴輪は私がこのブログの第一部や著書「古代日本国成立の物語」で「不弥国の位置」を説こうとして魏志倭人伝に記された「水行」を考えた際に知った埴輪で、そのときから実物を見てみたいと思い続けた埴輪です。実物を見たときの感動というか驚きというか。これだけ圧倒的な迫力で迫ってくる埴輪は初めてです。圧巻でした。いやあ、来てよかったなあ。




はにわ館で宝塚古墳の情報をしっかりインプットしてから古墳に向かいました。この日の天気は初日、2日目と打って変わって青い空に白い雲の快晴。下から見上げた古墳が青空に映えて美しかったなあ。墳丘からの眺めも最高でした。古墳公園として二基の古墳が復元整備されていて、舟形埴輪が出土した造り出し部もきれいに復元されて埴輪が並べられていました。





このあと、松阪市内を何か所かまわって帰路につきました。松阪から大阪に帰るルートは3つ。ひとつは伊勢に行くときにいつも使う名阪国道、もうひとつは下道の国道165号線、そして3つ目が国道166号線から368号線、422号線、369号線、165号線とつながるルートです。国道165号線は走る機会は何度かあったので、この際、走ったことのない3つ目のルートを走ることにしました。この道は伊勢本街道と呼ばれ、江戸時代に大阪方面から伊勢参りに行く際に使われていた道です。

松阪市街を抜けて166号線から368号線に入ってしばらく走ると道幅が極端に狭くなって山道に入り、峠に向かってどんどん登っていきます。木々が茂ってうす暗いので昼間でも点灯が必要です。途中、カーブの広くなったところで3台の車とすれ違いましたが、広い場所で良かったと思っていた矢先、前方にマイクロバスを発見。「大丈夫かな」と思いながらガードレールいっぱいに寄せてみて「こりゃ無理だわ」と思っていると、バスの運転手が右へ寄れという。互いにギリギリまで寄せて何とかやり過ごすことができました。それにしても、マイクロバスの運ちゃんはこの道を知ってて来たのかな。迷惑な話だ。この細い山道を櫃坂道(ひっさかみち)というそうです。いわゆる「酷道」です。

途中、眺望がひらけた場所があったものの、まだまだ続きそうなワインディングロードに気持ちの余裕はなく、そのまま行き過ぎてしまいました。そして少し走って道が広くなったところが仁柿峠(にがきとうげ)といいます。伊勢参りが盛んだった頃は旅籠が並んでいたようで、その名残を十分に感じ取ることができました。




ここからは道幅も広くなってだらだらと下りに入り、それまでがうそのような快適な道になりました。でも、この酷道は二度と走らないと心に誓いました。途中、栗拾いを楽しんだり、道の駅に寄ったりしながら楽しく帰りました。



9月20日に大阪を出発して、名古屋、浜松、御前崎、富士五湖巡りから東京へ、そして北海道一周を楽しんで再び東京に戻り、八ヶ岳から木曽路、松阪を経て10月11日に大阪に戻ってきました。3週間にわたる車中泊三昧は一生の記念になる旅となりました。 (終わり)





コメント

東京から八ヶ岳・松阪を経て大阪へ帰る車中泊旅①

2020年11月05日 | 旅行・車中泊
2020年10月9日、北海道一周の旅を終えて東京に戻って3日後、次は自宅のある大阪を目指すことにしました。大阪までは2泊3日の予定で中山道ルートを走ります。9日午後に東京の単身赴任宅を出発、高速で八ヶ岳まで行って1泊、その後はずっと下道で諏訪湖を経由して木曽路を南下、名古屋を通過して津で1泊、3日目は松阪で過ごしたあと、山間部を貫く伊勢本街道を走って大阪へ戻りました。今回の2泊3日の1泊目はワンコも泊まれる「ゆとりろ蓼科ホテル」を利用し、津での2泊目は「道の駅津かわげ」で車中泊です。


初日の9日は朝から土砂降りの雨。午後から北品川を出発して首都高、中央道を乗り継いで諏訪南ICを経て現地に到着したのが17時前。チェックインから翌朝のチェックアウトまでホテルでのんびりと過ごしました。このホテルの宿泊客は皆さんがワンコ連れなので気兼ねなく過ごせました。




2日目も残念ながら雨です。予報では昼過ぎまで雨が残り、そのあと回復に向かうものの太陽は姿を見せないようです。もともと2日目の10日は白樺湖や霧ケ峰などを巡るか、それとも清里へ行くかなどと考えていましたが再考を迫られました。

そして行き先は井戸尻遺跡と井戸尻考古館に決めました。井戸尻遺跡は八ヶ岳山麓に広がる縄文時代中期を中心とする遺跡で、知り合いの大学の先生に強く勧められていたこともあって機会があればと思っていた遺跡です。考古館や遺跡を見学する間、奥さんとワンコは車で待っていてくれました。申し訳ないという思いとこの機会を与えてくれてありがとう、という気持ちで見学しました。ここの紹介はまた別の機会にしたいと思います。





12時半頃に遺跡を後にして諏訪湖に向かいました。実はこのときすでに給油サインが点灯してから20キロくらい走っていたので早く給油したかったのですが、ガソリンスタンドが見つからないのです。仕方なくナビで諏訪湖方面の最寄りのスタンドを探して行ってみると何とリッター147円。とりあえず10リッターだけ入れることにしました。

さらに諏訪湖方面に走りながら「お腹がすいてきた」ということになって、Googleで蕎麦屋を探したところ、ちょっと戻るけど評価の高い「丸甚手打そば店」というお店を見つけたので行くことにしました。温かい蕎麦とざるそばと野菜のかき揚げとヤマメの天ぷらを注文したのですが、驚いたのは無料の小鉢が3つも出てきたことです。どれも美味しかった。




そのまま国道20号線を走るうちに雨が上がりました。諏訪湖の手前で給油をして塩尻へ向かいます。そして塩尻から国道19号線に入って南下します。このあたりは若いころによく乗った大阪から信州へのスキーバスが走った道です。大阪市内から高速に乗って中津川インターで降りてこの19号線を走り、塩尻や松本のドライブインで休憩を取るというパターンでした。なんだか懐かしかった。国道沿いのフルーツ屋さんでリンゴを買おうと思ったのですが、残念ながら少し季節が早くて並んでいませんでした。




途中で「ここから木曽路」という案内板を見ながら先に進みます。当初の予定では奈良井宿とか妻籠宿、馬籠宿などに寄ろうと思っていたのですが、井戸尻に行ったこともあってすでに日が暮れかけていたので、ここはまた次の機会にしようと順に現れる宿場町をスルーして前進しました。



このあともずっと国道19号線を走って名古屋市内に入り、そのまま1号線に入って四日市を目指します。四日市では「天然温泉ジャブ」というところでお風呂です。館内にはドラゴンズの立浪選手などのサインや写真、ユニホームなどが飾ってありました。

続いて国道23号線のバイパスに乗って津市に入ったところの「道の駅 津かわげ」で車中泊です。暗くてよくわからなかったのですが、新しい道の駅で、結構たくさんの車が停まっていました。

(続きは次回)
コメント

北海道一周 車中泊の旅 ⑪

2020年10月24日 | 旅行・車中泊
2020年10月5日、いよいよ最終日となりました。「道の駅なとわ・えさん」での朝は車を打つ雨の音で5時半頃に目が覚めました。残念ながら前夜からの雨が残る最終日となりました。ワンコの散歩に出ると、道の駅のすぐ裏に海岸が迫っていたので驚きました。向こうの方にこれから登る恵山が見えます。




準備を済ませて6時半頃に出発しました。 海岸沿いに5分ほど走って左折すると山に登る道に入ります。途中のゲートは6時に開くことを事前に調べていたので問題なし。たぶん一番乗りです。鹿の糞らしきものが道路のあちこちにあったので、車が走らない夜になると鹿が出てくるのだろうと話をしていると、目の前の斜面に鹿が現れました。最終日に野生の鹿に遭遇できたことが何だか嬉しかった。



山頂近くの駐車場まで10分ほどですが、そこで見た光景はまさに登別温泉の地獄谷の様相でした。木々のない地肌むきだしの状態で白い湯気?煙?が立ち上っています。ここで奥さんが画期的なパノラマ動画の撮影方法を思いつきました。車で駐車場を一周しながらフロントガラスの向こうを撮影するというものです。あとで見るとなかなかの出来栄えでした。 



少し山を下ったところに津軽海峡を見渡すことができる展望台があるので寄ってみましたが、例によって残念な結果でした。晴れていれば遠く下北半島を望むことができるようです。恵山に登った目的の半分は達成できたのでまあ良しとしよう。このあとはいくつかのポイントを考えていましたが、雨のためにすべてキャンセルしてゴールの函館を目指すことにしました。






途中で雨があがったのですが気持ちはすでに函館に跳んでいるので、本州と最も近い場所とされている汐首岬で写真を撮るだけにして、そのまま函館に直行です。




約40キロ、1時間ほど走って8時20分頃に函館に到着しました。ついに、まるまる10日間をかけて北海道一周を達成しました。達成感いっぱいです。そして、もともと11時半に出港するフェリーを予約していたのですが、赤レンガ倉庫街などを見て回ろうと考えて、14時半出港の便に予約を変更していたので時間はたっぷりあります。とりあえず、入庫後30分無料の函館駅前の駐車場に車を入れて腹ごしらえです。前日に長万部で買った「かにめし弁当」をふたりで分けて食べました。



赤レンガ倉庫が9時に開くので車を近くの駐車場に移してワンコとともに散策に出ました。風が少し強く吹きつけますが、太陽が見えて気温が上がってきたので寒さは感じません。











敦賀や舞鶴の赤レンガ倉庫も行ったけど、ここが一番楽しい。30分ほど散策をした後、いったんワンコを車に戻して、あちらこちらのお店をのぞきながらショッピングです。釧路で魚貝、恵庭で野菜、そしてこの函館では頼まれていた白い恋人などのお菓子を買い込みました。イートインコーナーでは安くて新鮮な刺身やお寿司を見つけて我慢できずに買ってその場で食べ、函館でやり残していたラッキーピエロにも入りました。一番人気のチャイニーズチキンバーガーのセットと照り焼きバーガーを注文して、海の見える席で食べました。どう考えても朝から食べ過ぎです。








赤レンガ倉庫を中心に函館の港町の雰囲気を満喫して車に戻り、奥さんのリサーチ結果で最後に行こうと決めていたアンジェリック・ヴォヤージュというスイーツ屋さんに向かいました。ところが、お店に着いてみると休業になっていて、最後の最後に悔しい思いをしました。 よく考えるとこのお店の場所は初日の深夜にやってきた八幡坂の近くです。もう一度チャーミーグリーンの老夫婦の気分になって車で坂を下りました。そして、スイーツを諦めきれず、赤レンガ倉庫のパン屋さんで見ていた5個1000円のショートケーキを買うために再び赤レンガ倉庫に戻って無事にゲット。





以上で函館の予定を終了、つまり北海道での予定をすべて終了して、フェリーターミナルに向かいました。14時前に到着して乗船手続きをしてワンコの散歩も済ませて、車中で買ったばかりのショートケーキも食べて、いよいよ乗船です。あっという間の10日間で北海道を満喫しました。そして「また来るぞ」とつぶやきながらフェリーに乗り込みました。風が強くて船は大揺れで、波しぶきが船室の窓を打ちつけます。船中で残りのケーキも食べつくし、オンタイムの18時半に青森に到着。





ガソリンを満タンにして、ここから東京までまっしぐら。最後まで安全運転を心がけ、何度も休憩しながら東北道から首都高に入り、ついに都内に戻ってきました。そしてガソリンも何とか持ちそうと思った矢先に給油サインが点灯。高速上での万が一の失態を回避しようと、かなり手前で首都高を下りて給油しました。結果、下道を走って都心を抜けることになったため、自宅に到着したのが予定を2時間以上も過ぎた7時前になってしまいました。それでも無事に帰って来れて何よりです。次の北海道は内陸部をゆっくりと時間を気にせずに回ることにします。




以下に、今回の行程、天気、宿泊地、走行距離をまとめました。全部で4800キロも走って何事もなかったのはある意味で奇跡的です。睡魔に襲われることが何度もありましたが振り返ってみると、すぐに休憩を取らずに無理をしたこともあり、本当に何もなくて良かった。天気は、道内で一滴も雨が降らなかった日が半分の5日間だけでしたが、逆に5日間もあったことに感謝します。

9月24日 東京→青森→函館(曇)
 …午後に出発、船中泊     734㎞
9月25日 函館→ニセコ(曇→雨)
 …道の駅ニセコ・ビュープラザ 438㎞
9月26日 ニセコ→留萌(晴→曇)
 …道の駅るもい        330㎞
9月27日 留萌→紋別(雨)  
 …紋別港オートサイト     476㎞
9月28日 紋別→相生(雨→晴)
 …道の駅あいおい       249㎞
9月29日 相生→斜里(晴)
 …道の駅うとろ・シリエトク  278㎞
9月30日 斜里→納沙布(曇→晴)
 …北方領土資料館駐車場    313㎞
10月1日 納沙布→士幌(晴)
 …道の駅ピア21しほろ    397㎞
10月2日 士幌→日高(晴) 
 …道の駅みついし       306㎞
10月3日 日高→伊達(雨→晴)
 …道の駅だて歴史の杜     317㎞
10月4日 伊達→函館(曇→雨)
 …道の駅なとわ・えさん    231㎞
10月5日 函館→青森→(雨→晴)
 …徹夜で走行          69㎞
10月6日 →東京(曇) 
 …早朝に帰宅         726㎞
--------------------------------------------------
合計             4,866㎞


最後に、北海道を車で走っていて気が付いたことや気をつけたいことを以下に記して終わりにします。

・思った以上にスピードが出ているので、いつもの調子でブレーキを踏むと思ったところで止まれない。
・まっすぐな道を調子に乗って走っていると、右左折する場所がわかりにくくて行き過ぎてしまう。
・それなりにスピードが出ている自分よりもスピードを出している車に追い抜かれることが何度もあった。
・ガソリンは決して高くなかった。(どこもだいたい120円前後から130円前後でした)
・その中でもOKAMOTOは安く、表示価格より10円安いのは何故でしょう。(最低価格は109円でした)
・数十キロの間、スタンドがないことがあるので早い目の給油を心がけた。
・洗車の予洗いができるスタンドがあった。(全部がそうかはわからない)
・道路沿いのいたるところにパーキングがあって、いつでも休憩がとれる。
・市街地でない限り、ご飯屋さんは日没すぎると開いていない。
・ネット情報の閉店時間よりも早く閉まっている店もあった。(お客さんがいないと閉めるのかな)
・そういえば、今回のルート上でファミレスをほとんど見なかった。
・それでもセイコーマートがあるから最低限の安心感がある。

以上、終わり。







コメント

北海道一周 車中泊の旅 ⑩

2020年10月23日 | 旅行・車中泊
北海道へ渡って早くも10日目、残すところあと2日となりました。この日はさすがに疲れが溜まってきたのでしょうか、「道の駅だて歴史の杜」での目覚めはいつもより1時間遅い7時過ぎとなりました。ワンコの散歩に出るとあれだけたくさんいた車の半分くらいがすでに出発していました。焦る必要もないのでいつも通りの準備時間を経て8時に出発しました。




この日はまず洞爺湖を目指します。昭和新山と有珠山の間を抜けて洞爺湖畔にぶつかったところを左折して温泉街に入ります。遊覧船乗り場近くの駐車場らしきところに車を停めて湖畔を散策しました。天気は今一つですが少しひんやりした空気が心地よい。足湯があったので入りました。






ここにもお決まりのアヒルちゃんがいます。乗り場のおじさんがワンコ好きなようで、ご自身の愛犬の写真を見せていただきながら楽しい会話ができました。30分くらいまったりしたのかな、次は西山山麓に残された火山活動の被害のあとを見に行きます。車に戻るときに山の上に見えたのがサミットの開催されたウインザーホテル洞爺です。確かにあそこなら警備しやすいわ。




その西山山麓へやってきました。広い駐車場があるのだけど有料無人駐車場となっています。そして少し坂を上ったところに無料駐車場があることを示す矢印があったのでそちらに停めました。ここはなかなか生々しい現場でした。国道が陥没したところに水が溜まって沼になったり、町道がずたずたになって折れた電柱が標識がそのまま残されていたり、地中の水道管が切断されて地上に姿を現したり、破壊された建物や復旧作業中の重機がそのまま取り残されていたり、、、枕木の遊歩道を登っていくと噴気が噴き出すところがあって、いつ同じことが起こってもおかしくないと思うと怖くなってきます。展望所からは洞爺湖が見渡せました。









洞爺湖を後にして海岸へ出て、ここからは噴火湾をぐるっと回ります。時刻は11時前で少しお腹がすいてきたので「道の駅豊浦」に入りました。奥さんが店内に入って調達してきたのが、スイートコーンとホタテドック。噴火湾はホタテ漁で有名ですね。どちらも美味しかったです。




次は長万部。駅前で名物の「かにめし弁当」を買うために寄りました。実は東京から青森に向かう車中、北海道で何を食べるかを奥さんがずっと調べていました。函館のハセガワストアのやきとり弁当、積丹半島の中村屋、稚内の樺太食堂、釧路の和商市場の勝手丼などは奥さんのリサーチによるものなんです。この長万部のかにめし弁当も、このあと行くハーベスター八雲もそうです。どれも有名といえば有名なんですが、調べないとわからないことなので奥さんに感謝です。




お店の横にこんなスペースがありました。駅弁の雰囲気を味わえるように列車の車中を再現した場所で、買ったばかりの弁当をここで食べることができるのです。



次は「ハーベスター八雲」でランチの予定にしていたので、かにめし弁当はあとにとっておくことにしました。このハーベスター八雲はハーブ鶏発祥のお店でチキンがおいしいイタリアンレストランです。ワンコと食べれるテラス席があるので聞いてみると、あと1時間くらいで雨が降ってくるのでこの日はテラス席へは案内していないという。食事の最中に雨が降ってくるとワンコ連れで店内へ入れないので、その後はテイクアウトになるけどそれでも良ければ、ということだったので、もちろんOKしてテラス席を使わせてもらいました。店内は満席でしたがテラス席はすぐに案内してもらえたので、ワンコさまさまです。注文したのがマルゲリータ、フライドチキン、グリルドチキン、そしてプリンにオレンジジュース。チキンはもちろん、ピザも美味しかったのですが、とくにプリンは味が濃くてぷるんぷるんで絶品でした。





ほとんど食べ終わったタイミングで案の定、雨が降ってきました。ギリギリセーフって感じで、急いで片付けていると店員さんがやってきて手伝ってくれました。様々な面でなかなか印象の良いお店でした。車を出してすぐ近くの噴火湾パノラマ館に行って噴火湾の写真を撮りました。





時刻は13時45分。次の目的地は大沼公園を見晴らすことができる日暮山展望台。この展望台に通じる道は舗装がされていないダート道で道幅も狭い。ダート道はわかっていたのだけどここまで細くてデコボコとは思わなかった。しかも強い雨のためにぬかるみ始めています。サロマ湖の展望台を思い出しましたが、それ以上にビビりました。頂上付近でパジェロと入れ違いになりましたが、これが上りの途中だったらたぶん大変なことになっていたと思います。北海道へ来てからいちばん緊張する運転でした。たぶん晴れていればもう少し感動する景色だったんだろうな。なんだか悔しい。




大沼だんごを買おうと大沼公園駅前の沼の家に行きました。これも奥さんのリサーチの成果です。今日中にお召し上がりくださいということだったので、すぐに車の中でいただきました。みたらしとあんの団子です。団子そのものは小さいのですぐになくなりました。団子のあとは湖畔を走って海岸を目指します。






「道の駅しかべ間歇泉公園」で、たらこご飯を食べようと思っていたのですが、到着した16時半にはすべて完売ということで何も食べることができませんでした。しかたなくそのまま先に進んで、「ホテル函館ひるめ荘」に併設する保養センターでお風呂にしました。ここは内湯が重曹泉で露天風呂が硫黄泉になっていて2種類の泉質を楽しめる温泉で、とてもいいお湯でした。



すぐ近くに大船遺跡があって、晴れていて時間があれば行こうと思っていたのですが、雨だし暗いしでパスしました。この大船遺跡をはじめ、有名な中空土偶が出た著保内野遺跡など、このあたりは縄文時代の重要な遺跡があって、このひるめ荘というホテルは遺跡見学に訪れる人がよく利用するようです。館内には道南の遺跡群を紹介するコーナーがありました。この道南の縄文遺跡群と青森を中心とした北東北の遺跡群を合わせて世界遺産登録を目指しているということをここで初めて知ることとなりました。



19時過ぎにここを出て、この日の車中泊を予定していた「道の駅なとわ・えさん」に向かったのですが、到着してびっくり。車はわずかに一台だけ。かなり不安な気持ちになりましたが、こんなに強い雨の中をわざわざ襲いに来るやつもいないだろうと逆に開き直って寝ることにしました。この日の走行距離は231キロでした。 (続きは次回)







コメント

北海道一周 車中泊の旅 ⑨

2020年10月22日 | 旅行・車中泊
2020年10月3日、北海道9日目は「道の駅みついし」で6時に起床。すぐにワンコの散歩に出ると、道路の向こう側の牧場に馬がいました。ここは日高郡新ひだか町です。となりの新冠町も含めてこの辺りは競争馬の飼育が盛んで、一面に牧場が広がっています。準備を済ませて7時過ぎに出発。朝ご飯は前日に帯広で買ったパンと残り少なくなったりんごです。





40分ほどでサラブレッド銀座駐車公園に到着。ここからは牧場が一面に見渡せ、遠くにたくさんの馬が見えます。振り返ると新冠泥火山という小さな火山の周辺にも馬がいる。泥火山というのは火山活動によって地下深くの泥などが地表に噴出してできたものです。これまで牧場で牛ばっかり見てきたので馬は新鮮でした。





雨がポツポツと降ってきました。ぶ厚い雲の様子から雨の一日になりそうな予感です。この日の最大の目的は恵庭市内にある「うおはん」というところでお土産を買うことです。北海道に住む奥さんの友達からの情報で、北海道の新鮮な魚貝や野菜を安く買える地元でも有名なお店だといいます。できるだけ買い物の時間を確保するため、ここまでずっと下道を走ってきましたが、ここで初めて高速道路に乗りました。ただし無料区間です。高速を降りてから雨が激しくなってきて、朝の出勤時間とも重なってけっこうな渋滞になり、千歳市内を抜けるのにかなりの時間を要してしまいました。加えて、あまりの土砂降りに洗ったばっかりの車が台無しです。

お店の開店が9時で着いたのが9時半頃でしたが、すでに駐車場はいっぱいです。たまたま出る車が一台あったので停めることができました。しかもほとんど濡れずにお店に入れるところです。これはラッキーでした。そしてお店に入ってビックリ。これっていわゆるスーパーではないか。しかも巨大な。釧路の和商市場のようなところをイメージしていたのだけど全然違った。でも、野菜も魚貝も本当に安い。2時間ほどの滞在でジャガイモやとうもろこし、かぼちゃなどの野菜をいっぱい買いました。ついでに昼ご飯のお寿司も買って車に戻りました。

買い物を済ませて満足な気持ちで支笏湖に向かいました。温泉街に着いたものの湖が見えません。駐車場はあるもののどこも有料だったので、もともと調べていた休暇村の無料駐車場まで走ることにしました。車を停めてまずはうおはんで買ったお寿司で昼ご飯です。



あれだけ降っていた雨が上がって、太陽が眩しいくらいに輝いています。腹ごしらえを済ませてワンコとともに散策に出かけました。丘の上の展望台から湖を眺めてから、崖沿いの道を歩いて湖まで下ります。




この湖はとにかく水が綺麗です。湖から流れ出す千歳川は何でこんな色になるんだろう。透き通った水が青、緑、黄色にゆらゆらと。そして、空はやっぱり晴れてるのがいいなあ。








ここから苫小牧市内に向かい、海岸沿いの国道を西に走ります。目指すは登別温泉です。山を登って俱多楽湖畔を走ろうかと思っていたのですが、パスしていきなり登別の中心に行くことにしました。GOTOトラベルの恩恵を受けてか、温泉街は結構な人出で車も多い。日帰り温泉の駐車場に停めさせてもらって地獄谷を見学しました。






さて、いよいよこの日最後の目的地、室蘭の地球岬を目指します。地球岬は北海道勤務の経験がある元上司からよく聞かされた場所で、名前の響きも手伝って機会があれば是非行ってみたいと思っていたところです。灯台の入口の表示板には「チキウ岬」とあります。




実はここ、水平線に沈む夕陽を見る最後のチャンスです。計算通りに日没前に到着したのですが、またしても水平線に雲がかかってこんな状態。同じ思いで展望台に集まっていたカップル達も残念がりながら帰っていきました。





本当に残念な思いですぐ近くのトッカリショ岬に向かいました。写真では明るく見えますが、空はどんどん暗くなっていきます。






そしてなんと、もう一度地球岬の展望台に戻りました。地球が丸く見えるから地球岬、その丸く見える水平線をパノラマで撮るのを忘れたと思って戻ってみると、灯台に灯がともっていました。パノラマ撮影にすると残念ながら真っ黒で水平線が写りませんでした。





これでこの日の予定終了です。晩ご飯はまたしてもGoogleのお世話になって、東室蘭駅に近い所にある回転寿司の「伊達和さび室蘭店」でお寿司を食べました。結構混んでいたので40分ほど待ったかな。でも、安くて美味しいお店で大正解でした。




お風呂は30分ほど走って「伊達温泉」へ。こじんまりした温泉ですが、露天風呂もあっていいお湯でした。そしてこの日の寝床はすこし戻ったところにある「道の駅だて歴史の杜」です。意外にすいていると思った場所はトイレが少し遠いところで、トイレに近い所は一台おきに車が停まっていました。悩んだ結果、混んでいるトイレに近い場所に決めました。





この日の走行距離は317キロ。満足度の高い一日となりました。 (続きは次回)





コメント