古代日本国成立の物語

小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取り組んでみよう。

博物館での学びとは何か ~博物館が生み出す学びの好循環~

2018年06月11日 | 学芸員資格
博物館教育論のレポートです。先生からはいちおう合格点をいただきました。
タイトルは「博物館での学びとは何か」、内容に応じたサブタイトルを設定し「自ら学ぶ」をキーワードとして博物館における学びの意義を考察。

博物館での学びとは何か ~博物館が生み出す学びの好循環~

1.私の学びと博物館
 私は現在、民間企業に勤めるビジネスマンであり、3年後に定年退職を迎えることになっている。仕事に没頭していた頃はビジネスマン人生の終わりが来るなど考えたこともなかったのだが、50代半ばに差し掛かった頃になって初めて定年退職という言葉が頭に浮かぶようになり、それ以降は定年後の人生をいかに充実させるかということを真面目に考えるようになった。そしてこれまでの人生を振り返ってみて、どんなときに充実を感じていたのか、どんなときに満足感を味わってきたのか、を確認してみた。その結果、小学生から大学生に至るまでは、試験でいい点を取ったとき、そして受験においては不合格や浪人という挫折を味わいながらもあきらめずに勉強を続けて志望校合格を果たしたとき、社会人になってからは仕事で必要となる様々な能力やスキルを高める努力を続けてハードルをひとつひとつ乗り越えたとき、あるいはその結果として相応の役職に就くことができたとき、私はこういうときに満足感や達成感、人生の充実を感じていたことが認識できた。学校でも会社でも、学ぶことを続けることによって充実した人生を手に入れてきたことに気がつき、定年後においても学ぶことを続けようと考えるに至った。そして、子どもの頃に興味を覚え、この年齢になってもその興味が失せることのなかった古代史を真面目に勉強してみようと心に決めた。
 前置きが長くなったが、そういう経緯があって私はいま古代史を学んでいる。具体的には、日本書紀や古事記などの歴史書を読み、専門家や歴史作家の書籍を読み、インターネットで知りたい情報を調べ、各地の遺跡や神社を訪ね、そして資料館や歴史館などの歴史博物館を訪ね、そうして集めた情報をもとに日本国(大和政権)が成立した過程を自分なりに考え、ひとつの仮説としてまとめたものをブログや自費出版によって発信するという活動をしている。
 これまで数多くの歴史博物館を訪ねてきたが、その際には博物館の常設展示の内容をインターネットで事前に調べ、どんな資料が展示されているのか、何を見ることができるのか、何を知ることができるのか、を考えてから見学に臨むようにしている。つまり、目的意識を持って博物館を見学するようにしている。たいへん限定的なケースであるかもしれないが、そういう私の経験をもとに博物館における学びの価値を考えてみたい。

2.博物館での気づきと発見
 これまで見学した多くの歴史博物館から、本レポートでは奈良県にある唐古・鍵考古学ミュージアムを見学したときの経験を述べたい。
 唐古・鍵考古学ミュージアム(以下、ミュージアムという)は奈良県磯城郡田原本町にある田原本青垣生涯学習センターに併設する歴史博物館で、北へ2キロほどのところにある唐古・鍵遺跡からの出土品を中心に展示が構成されている。その設立目的は「田原本町の歴史に関する資料を収集し、保管及び調査研究を行うとともに当該資料を展示し、町民の教育、学術及び文化の発展に寄与すること」(注1)となっている。
 一方、唐古・鍵遺跡は、広さ約42万平方メートルにも及ぶ弥生時代の環濠集落遺跡で、大型建物跡が発見されるとともに出土した土器の線刻画から多層式の楼閣があったと推測され、また、青銅器鋳造炉跡が見つかったことから銅鐸の主要な製造地であったと考えられている。全国からヒスイや土器などが集まる状況も確認され、弥生時代における重要勢力の拠点集落であったと考えられている。この遺跡は史跡公園として整備されて4月にオープンしたばかりである。
 私は先に遺跡を見学し、周囲の地形や景色、方角などを含めて遺跡の全体観をつかんだ後にミュージアムを訪ねた。ミュージアムではボランティアガイドに説明をお願いして見学したのだが、解説パネルに書かれていないことも説明をしていただき、また私の質問にも丁寧に答えてもらった。ガイドは原則として私見を述べてはいけないそうなのだが、私の質問は想定問答にないことが多かったのか、「あくまで私見ですが」と断ってまで答えてくれた。展示資料や解説パネルから得られる基本的な情報とそれを補足するガイドの説明、さらにはガイドの私見も含め、私は大変貴重な情報を得ることができ、それに触発されて新たな発想がいくつも浮かんだ。
 一例をあげると、この遺跡は環濠が複数ある多重環濠集落なのだが、ガイドの説明によると、どの環濠も浅くて敵の侵入を防ぐ防御機能は果たしえないという。意外であったがそうだとすると、単に村の内と外を区別する境界というくらいの意味だろうかとも思ったが、それでは環濠が何重にもなっていることが説明できない。そして集落の想像復元図を見ると環濠が川とつながっていることがわかったので、ここでふたつの考えが浮かんだ。ひとつは上水と下水の機能を複数の濠で使い分けていたということ。もうひとつは、この川は大和川から大阪湾へとつながるので、船の航行のための運河あるいは船着き場として機能していたのではないかということ。おそらく、そのいずれもが的を射ているのでないかと思っている。
 このように博物館では新たな情報に出会って思いもよらぬ気づきを得たり、新たな知識によって理解を深めることがしばしばある。福岡県の板付遺跡を訪ねたときも併設の「板付遺跡弥生館」で歴史的な大発見となった土器を見て、遺跡の本質的な重要性を理解し、さらに学芸員の説明を聞くことによってある疑問が即座に解消したことがある。同様に佐賀県の菜畑遺跡でも併設の「末盧館」での学芸員との会話から新たな知識を得ることができた。

3.学びにおける博物館の価値
 私自身の例でみたように目的意識をもって博物館を利用すると、そこで新たな情報に触れることができ、新たな知識を獲得することができる。もちろん博物館へ行かずとも展示資料に関する情報は博物館が自ら公開するWebサイトなどをもとに調べることができるが、博物館へ足を運んで展示される資料を自分の眼で見て、場合によっては触れることもでき、学芸員やガイドの話を聞けることもあり、五感で情報を得ることができるのだ。Webの調査では写真や解説文、せいぜい動画や音声による確認しかできない。まさに「本物」に勝る物はなく、そして「百聞は一見に如かず」なのだ。このことはつまり、博物館において学ぶことそのものと言える。
 さらに、目的意識をもって本物を見て、聞いて、感じることによって新たな発想が生まれる。これは長いビジネスマン人生においても何度か経験したことだが、どうしても答えの出ない困難な課題に直面したときは、とにかく課題を乗り越えるための策を考え続けることが重要で、寝ても覚めても考え続けていると、あるとき何かの拍子にふと閃くのだ。目的意識を持つとはそれと同じことで、答えを見つけたい課題をもって博物館を訪れるということだ。そうすると、何気ない情報も見逃さず、聞き逃さず、意味のある情報となって入ってくるし、それによって新たな発想が閃くのだ。新たな発想は新たな疑問を生み、その疑問を解消するためにまた調べてまた考える。同じ博物館を再訪することもたびたびある。学びが次の学びにつながっており、私はこれを学びの好循環と呼びたい。学びの好循環が生まれると、学ぶことそのものが楽しくなる。学ぶことによって手にする結果だけでなく、学ぶプロセスそのものに意味や価値を感じるようになる。博物館は学びの好循環を生み出す場であり、学ぶ者に学ぶことの楽しさを感じさせる場であると考える。

以上、私の経験をもとに博物館での学びの意義、さらには学びにおける博物館の価値を考えてみた。



<引用>
(注1)
 ・奈良県磯城郡田原本町 『田原本青垣生涯学習センター条例 第4章 第24条』

<参考文献>
 ・新井孝喜 『八洲学園大学Web配信教材』 2018年
 ・全国大学博物館学講座協議会西日本部会編 『新時代の博物館学』 芙蓉書房出版、2012年
 ・倉田公裕・矢島國雄 『新編 博物館学』 東京堂出版、1997年
 ・田原本町教育委員会 『弥生の王都 唐古・鍵』 2013年
 ・田原本町教育委員会 『田原本町文化財調査年報14 2004年度』 2006年

<参考Webサイト>
 ・奈良県磯城郡田原本町 『唐古・鍵総合サイト』
   http://www.town.tawaramoto.nara.jp/karako_kagi/museum/index.html (参照日:2018年5月6日)
 ・京阪園芸株式会社 『唐古・鍵遺跡史跡公園公式ホームページ』
   https://www.karako-kagi.com/ (参照日:2018年5月6日)
 ・奈良文化財研究所ホームページ 『全国遺跡報告総覧』
   http://sitereports.nabunken.go.jp/ja (参照日:2018年5月6日)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

上野原遺跡

2018年06月03日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年5月26日、南九州踏査ツアーの第9弾。今回が最終回となります。



展示館を見学しているうちに雨があがりました。大雨の中、傘をさして足元がジュクジュクになりながら見学することを覚悟していたのでホッとしました。
展示館の裏が上野原遺跡を保存した公園になっています。竪穴式住居や集石遺構を復元した復元集落、遺跡発掘時の地層をそのまま保存した地層観察館、発掘跡を建屋で覆って保存した遺跡保存館など、広大な敷地に見どころ満載の遺跡公園です。

展示館から出たところの眺め。


まずは地層観察館。


この地層は鹿児島の縄文時代を理解するためには必要な知識となります。


地層が明確に分かれているのがわかります。


説明板。


竪穴式住居の復元。

よく見る復元と少し違ってドーム型になっています。

竪穴式住居跡と集石遺構の復元。

集石遺構はここに土器を置いて火を焚いて調理した場所と考えられます。



復元集落の説明。


遺跡保存館が近づいてきました。

こんもりした小山の下が保存館になっています。



保存館の内部。


説明板。


連穴土坑の遺構。

連穴土坑というのは縦に掘った2つの穴を横穴(トンネル)でつないだもの。この土坑跡は横穴の天井部が取り除かれています。猪の肉などを燻製にするためのものと考えられています。

保存館の小山に登って撮った遺跡の全景。

雨上がりのあとの空気が気持ちいい。

展示館に戻ってきました。


展示館の上が展望台になっています。

北西方面の景色。この右側が北方面で霧島、えびの高原が望めます。桜島は左側です。

展示館と遺跡の見学で予定通りの3時間。埋蔵文化財センターを見学できなかったこともあって後ろ髪を引かれながら16時半頃に車を出発させました。空港まで30分ほど。事故も渋滞もなく、2日間の実地踏査ツアーは無事に終了。

雲海に沈む夕陽が綺麗でした。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

上野原縄文の森展示館

2018年06月02日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年5月26日、南九州踏査ツアーレポートの第8弾。

南さつま市金峰町の歴史交流館金峰をあとにして最終目的地の上野原遺跡に向かいました。この遺跡も当ブログの「南九州の遺跡」で簡単に紹介しています。

雨がどんどん強くなる中、途中で間違えて高速を降りてしまうという失敗があったものの、13時過ぎに遺跡最寄りの国分ICを降りました。コンビニのおにぎりで昼ごはんを済ませて13時半頃に到着。遺跡が台地上にあるのはわかっていたのですが、これが平地から切り立ったような崖の上にある台地で、 急な坂道をアクセルを踏み続けて上っていくような高さがあります。



遺跡周辺は 「上野原縄文の森」と呼ばれる 県営公園として整備されています。公園内には「上野原縄文の森展示館」という博物館と「鹿児島県立埋蔵文化財センター」があって、後者は鹿児島県内全域の遺跡発掘調査を行い、その成果を報告書としてまとめたり、出土した埋蔵文化財の保存や活用を図る活動をしています。平日であれば収蔵物とともに職員の方々が遺物を調べたり報告書を書いているところを見学できるのですが、残念ながらこの日は休日で見れませんでした。

まずは展示館で見学です。


緑が雨に濡れていい雰囲気です。


料金は310円。チケットを購入してロビーを進むと年配の職員の方がどうぞと案内してくれた部屋が企画展示室。「バックナンバー 古の美術品」というテーマで県内の考古資料を美術品に見立てて展示。南日本新聞の連載企画を本物を展示することで再現した企画展です。軽石の石偶、レモン型土器など珍しい資料がたくさんあって、なかなか面白い企画展でした。

円筒形土器、角筒土器、レモン形土器の三点セット。

どれもこの地方独特の土器で、円筒形土器は歴史交流館金峰でも展示されていました。レモン形というのは、上から見たときの形がレモンの形に似ているからです。これらの形の土器は初めてみました。

市来式土器。

薩摩半島の西側の付け根、いちき串木野市にある市来貝塚から出土した土器。市来貝塚は縄文後期を主とする貝塚で、南九州の縄文後期を代表する「市来式土器」の標式遺跡です。市来式土器は南は沖縄県から九州全域で出土し、地域間の文化交流を示す重要な土器型式とされています。今回、市来貝塚へ行こうとも思ったのですが、少し遠くてルートからはずれるのでパスしたものの、ここでこの土器が見れるとは思っていませんでした。

企画展を見学しているときにさっきの年配の職員さんが「シアターで短い映画が始まるのでどうですか」と言ってくれたのでシアターに行きました。古代を生きた上野原遺跡の人々を描いた漫画映画で、子供向けの映像でしたが学芸員の勉強と思って観ていました。

映画のあと、企画展を最後まで観て常設展示の部屋へ行くと、ここでまた年配職員さんと話をする機会がありました。奄美大島の方でお歳は62歳、おそらく奄美の公務員の方と思われますが、昔から博物館で働きたいと思ってずっと希望していたのですが最後までかなわずに定年退職、この上野原での職員募集の知らせを見て受けてみたら採用されたとのこと。ボランティアかと思っていたら正規職員だそうで「願いがかなってよかったですね、おめでとうございます」と言ったら満面の笑顔になりました。

常設展示室の入口。

遺跡に復元されている竪穴式住居をイメージしています。

そんな話をしていると、今度は職員とおぼしき女性の方が近づいてきて「聞きたいことがあれば説明させていただきます」と声をかけてくれた。聞けば学芸員さんとのこと。面白そうな展示をみつくろって説明してくれました。当方も学芸員の勉強をしていることを伝えて、展示とは関係ない質問をさせていただいたのですが、快くいろいろ答えていただきました。

河口コレクション。


河口貞徳氏は鹿児島考古学会の重鎮。亡くなられたあとに遺族の意向で個人所蔵していた数々の出土品を県立埋蔵文化財センターへ河口コレクションとして寄贈されました。それはそれは貴重なものばかり。発掘調査で出た遺物を個人で所蔵するというのはどういうことなのだろう、個人の資金で発掘したということかな、それにしても出土したものを個人所有にしようと思うと土地の所有者の了解が必要だけど、と考えてしまいました。市来貝塚から出た縄文人の頭骨まで個人で所有されていたとは。

歴史交流館金峰の学芸員さんからも教わったのですが、約7300年前に薩摩半島の南にある鬼界カルデラが大噴火し、積もった火山灰(アカホヤというそうです)によって鹿児島の縄文文化は絶滅したそうです。先の鹿児島独特の円筒形埴輪などはアカホヤよりも古い時代の土器にあたり、アカホヤ以降の遺跡からはこの形の土器がまったく出ないそうです。まるでベスビオ火山の大噴火によって消滅した古代都市ポンペイのようです。いったん絶滅した南九州に北部九州やその他の地域から人々がやってきて新しい縄文文化を形成したとのことですが、それは他の地域とそれほど変わらない文化であったということです。

ロビーに展示される地層の剥ぎ取り標本。

数万年に渡る度重なる火山活動の結果がよくわかります。遺跡には実際に発掘されたときの地層がそのまま保存されています。

喜界カルデラの爆発時の様子がよくわかる地層剥ぎ取り標本。

噴火によってまず軽石が積もり、その後に左から右に火砕流が流れて樹木を燃やし、その上に火山灰(アカホヤ)が積もった様子です。

学芸員さんによると、遺跡が発見された時、当時の知事が『神様からの贈り物』と言ったそうです。上野原遺跡は工業団地の開発で発見されたのですが、知事はそのときから観光資源としての活用を考えていたようで、その結果、工業団地は半分に縮小されて遺跡部分が県営公園として整備されました。

この遺跡を一躍有名にしたふたつの土器。

形だけ見ると弥生式土器のようだけど、これが縄文時代の地層から出たことで専門家が驚愕したという。しかも、ふたつ並んで地中に埋められていたそうです。国の重要文化財に指定されています。

ほかにも興味深い資料(すべてが実物)がたくさん展示されていて時間が経つのを忘れて見学していました。それと、この常設展示は先日行った登呂遺跡に併設する登呂博物館と同じくらいに美しい展示で、まるで図鑑のようでした。











さあ、遺跡の歴史を学びながら展示を堪能したので、いよいよ遺跡を見学に行ってきます。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

歴史交流館 金峰

2018年06月01日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年5月26日、南九州踏査ツアーレポートの第7弾です。
栫ノ原遺跡の見学を済ませて国道270号線を北上。南さつま市金峰町にある「歴史交流館金峰」に到着したのが開館時刻の9時少し前。ここは前日に鹿児島から野間岬に向かう途中に立ち寄った「道の駅きんぽう木花館」の裏手にあります。開館まで待って入口に向かうとおばさんが掃除中。「もう開いてますか。」「はい、開いてますよ。どうぞどうぞ。お客さんですよお。」

前日に道の駅から撮った全景写真。


事務室から出てきた女性に料金300円を払って見学を始めたのですがダメもとで「説明をお願いできますか」と聞いてみたところ、快諾をいただいた。聞くと女性は学芸員さんでした。ここが面白くなければすぐに切り上げて鹿児島市内の博物館へ行こうと思ってやってきたのですが、結局はたっぷり2時間、この学芸員さんと楽しい時間を過ごすことになりました。

金峰町には高橋貝塚をはじめ重要な遺跡がたくさんあり、遺跡の宝庫という印象でした。薩摩地方独特の円筒型の土器、南九州唯一の甕棺など多くの貴重な展示資料を写真に撮ったのでここで紹介をしたいのですが、不特定多数の方への公開はNGとのことなので掲載を見送ります。学芸員さんの顔をつぶすことになるので。

でも、これくらいはいいかな。

この学芸員さんが企画から展示までを担当した企画展「米どころ金峰 ~No Rice,No Life~」です。

これは歴史博物館ではよくある古代衣装の試着体験。

他の博物館と違うのは、単なる貫頭衣ではなくて隼人の衣装になっていること。しかも隼人の楯もある。この渦巻き模様は隼人の象徴で、まさしく海の渦、あるいは海流の逆巻く様子を表現していて、隼人が海洋民族であることの証である、というのは私の意見です。

入口のホールに展示される木花咲耶姫の砂像。

金峰町には日本三大砂丘のひとつ、吹上浜があります。吹上浜では機を同じくして「砂の祭典」が開催されていました。でも、けっこう強い雨だったので会場の砂像はどうなったんだろうか。



学芸員さんにはいろいろなことを教わった。展示資料に関する詳しい話のほかに、高橋貝塚は以前は金網で囲っていなくて誰でも入れたこと、そしてこの学芸員さんがそこで高坏の破片を発見したけど持ち帰りたい誘惑に打ち勝ってその場においてきたこと(エライ!)、高橋貝塚のある玉手神社にあった小さな土俵はこの地に伝わる水難事故防止を願う「高橋十八度踊り(ヨッカブイ)」というお祭りで使われること、阿多貝塚の貝殻崎城跡の碑文が小泉元首相の筆による理由、この地域は温暖な気候を利用して全国でも例のない超早場米に特化した米作りをしていることなどなど、興味深いお話が満載でした。学芸員さん、ありがとうございました。

鹿児島県立歴史資料センター黎明館をパスして次に向かうは今回のメインイベント、上野原遺跡。楽しみだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

栫ノ原遺跡

2018年05月31日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年5月26日、南九州踏査ツアーの2日目、レポート第六弾です。
2日目は土曜日。帰りの飛行機が18時半なので時間は十分にある。しかし、この日は朝から雨です。結構強い雨です。天気予報でわかっていたものの残念です。この日のメインイベントは縄文の大遺跡、上野原遺跡。雨のなか行くのは残念です。上野原は鹿児島空港に近いので、午後に回します。この雨のなか、午前中はどこへ行こうか考えた結果、次のルートに決定。

 ①前日に行き忘れていた栫ノ原遺跡(かこいのはらいせき)・・・ホテルからすぐ
 ②歴史交流館金峰・・・南さつま市直営の小さな歴史博物館で前日見てきた遺跡を確認したい
 ③鹿児島県立歴史資料センター黎明館・・・古代の考古資料がどれだけあるのか不明
 ④上野原遺跡および併設の博物館・・・時間は3時間を確保したい

②の歴史交流館が面白くなければすぐに切り上げて③の県立黎明館へ行こう、②が面白ければ③はパスしてもよし、とにかく④では最低3時間は確保したい。そう決めて8時過ぎに出発。まず、近くのマクドで朝食をとって8時半頃に①の栫ノ原遺跡に到着。

栫ノ原遺跡は100メートル四方の独立台地の上に設けられた旧石器時代から近世に渡る複合遺跡で、とくに、縄文時代早期の段階で定住生活への移行を思わせる形跡が認められる重要な遺跡です。

遺跡に建つ説明板。


遺構が出たところにそれぞれの説明板が立っています。










ここまでよく頑張ったC-HRもお披露目しておこう。


現地に来ると独立台地という意味がよくわかる。遺跡の報告書によると周囲との高低差が20メートルとなっており、100メートル四方の正方形の区画に高さ20メートルの台地がすっぽりおさまるという感じ。国の史跡に指定されたためにこの状態で保存されている。緑が豊富で景色もよく、雨は降っていたものの、気持ちのいい場所でした。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

高橋貝塚・阿多貝塚

2018年05月30日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年5月25日、南九州実地踏査の第五弾。この日の最後の目的地は高橋貝塚。(高橋貝塚については当ブログ「南九州の遺跡」で少し触れています)

薩摩半島の西には日本三大砂丘のひとつとされる吹上浜があります。その吹上浜の砂丘の南端に玉手神社があり、その境内にあるのが高橋貝塚です。縄文時代晩期から弥生時代中期にかけての遺跡で、籾痕(もみこん)のある土器や石包丁が見つかったことから南九州でもっとも早く米作りが行われた場所と言われています。また、琉球産のゴホウラ貝を加工した腕輪の未製品も出土。ゴホウラ貝の腕輪は北九州の立岩遺跡からも出ているため、この高橋貝塚は琉球から貝を仕入れて貝輪に加工し北九州へ販売していたと考えられ、南九州の海洋交易の拠点あるいは加工貿易の拠点であったと言えます。もちろん、古代には貨幣がないので物々交換でした。そういえば、一方の立岩遺跡は石包丁の産地でした。

南さつま市の市街地を抜けて「阿多」の交差点を曲がって高橋貝塚に向かう途中の風景。

少し小高くなった砂丘が連なっているのがよくわかります。目的地はこの砂丘の南端(写真では左端あたり)です。

実はここでまた悩ましい場面に遭遇。少し走ると川があって橋を渡ります。ナビではこの橋からすぐを左折して少し行ったところが目的地になっています。ところが、橋を渡ってすぐの交差点に「←高橋貝塚 約300m先右折」という小さな案内板が見えたのでナビを無視して左折しました。左折すると川の堤防を走ることになりますが道は広いので問題ありません。300メートルといえばすぐそこです。ところが、です。300メートル走ると「→高橋貝塚」の案内板が見えたのですが、そこには道路はありません。なんと幅1メートルほどの坂道があって、その先が高橋貝塚だというのです。おいおい、誰のための案内板やねん。

今回もストリートビューでお見せします。これが左折の案内。

どう見たって曲がるでしょ。

そして右折の案内。

畑の向こうのこんもりしたところが目的地。

ナビは神社の裏手に出るルートを示していたのであきらめて、とにかく堤防の下に見えている細い道に入ろうと来た道を戻った。車一台がやっとの細い道なので対向車が来ないことを祈りながらゆっくり走って神社の正面に到着。しかし、到着したのはよかったのだけど、またしてもUターンができない場所だった。

車の目の前が神社の入口。

この階段の分だけ周囲よりも高くなった場所に遺跡があるということです。

階段の左手に由緒がありそうな石碑。近づいて目を凝らして読んでみると「日露戦役記念碑」とあった。


境内に土俵があります。なぜここに土俵があるのかはあとで知ることに。


社殿の奥に説明板があります。


近くへ寄ります。

遺物は持ち帰らないように、とあるけど社殿裏の遺跡は金網で囲われていて入れないぞ。でも、少し前までは囲いはなくて誰でも入れたそうです。

帰りは結局バックで戻ることに。今日一日でまた車の運転が上手くなった気がします。

そして堤防へ戻って遺跡のある場所を撮影。この遺跡はてっきり砂丘上にあるのかと思っていた。境内に登る階段が砂丘南端にあることを示しているとも思っていた。でも、あとで遺跡の報告書を読むと、この遺跡は砂丘上ではなくて眼の前の川(堀川という)の河岸段丘の上ということになっていました。

これで本日の踏査は終了の予定でしたが、この高橋貝塚に来る途中に道路脇に建つ「阿多貝塚」の説明板を見つけたので、帰りにそこに寄ることしました。

この阿多貝塚は堀川を挟んで高橋貝塚と反対側の河岸段丘上に位置します。


段丘上というのがよくわかります。右側に堀川があります。


阿多貝塚は縄文時代前期から弥生時代にかけての遺跡で、このあたりは明治の頃から貝殻がよく見つかったので貝殻崎と呼ばれていました。近くには貝殻崎城跡の立派な石碑が建っています。


貝殻崎城は鮫島城とも呼ばれます。源頼朝が征夷大将軍になった年、平家追討の戦いで功を挙げた駿河国の鮫島氏は阿多郡の地頭としてこの地に派遣され、貝殻崎城を築いて本拠としました。その鮫島氏の末裔が小泉家につながったことから、小泉元首相の筆による碑が建てられたということらしい。

さあ、これで本日の踏査は完了(実はあと1ケ所あったのですが、すっかり忘れていました)。この日の踏査は結果的に1年半前に書いた記事「天孫降臨(薩摩の野間岬)」を確認する踏査となりました。

市内へ戻って予約しておいたビジネスホテルにチェックイン。近くにレストランなどはなく、疲労困憊で出かけるのが億劫だったので近くのコンビニで食料を調達して部屋で晩ご飯。心地よい充実感に浸りました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

笠沙宮跡

2018年05月29日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年5月25日の南九州実地踏査の第四弾。もうひとつの笠沙宮跡。

笠沙岬に上陸した瓊瓊杵尊はこの地にしばらく留まって木花之開耶姫を娶ります。木花之開耶姫は別名を神吾田津姫といい、吾田にいる姫を指します。今回、ここ南さつま市までやってきたことで「笠沙」という地名も「阿多(吾田ではないですが)」という地名も存在することがこの眼で確認できました。

以下は日本書紀の該当箇所です。

于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、覆於皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座、天磐座、此云阿麻能以簸矩羅。且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。既而皇孫遊行之狀也者、則自槵日二上天浮橋立於浮渚在平處、立於浮渚在平處、此云羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志。而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、頓丘、此云毗陀烏。覓國、此云矩貳磨儀。行去、此云騰褒屢。到於吾田長屋笠狹之碕矣。其地有一人、自號事勝國勝長狹。皇孫問曰「國在耶以不。」對曰「此焉有國、請任意遊之。」故皇孫就而留住。時彼國有美人、名曰鹿葦津姬。亦名神吾田津姬。亦名木花之開耶姬

皇孫瓊瓊杵尊が留まり住んだところが笠沙宮です。


「日本発祥の地」とはまた大きく出たなあ。


ここが入口。


入口の階段を登ったところ。奥に碑が見えます。ひなびた神社の雰囲気。


碑の手前にある教育委員会の説明。


登りきったところには立派な碑が建っています。


階段の脇に見えた聖蹟顕彰記念の碑。

昭和15年に当時の鹿児島県知事が建てた碑。昭和15年といえば神武天皇即位から2600年にあたる記念すべき年とされ、日本は日中戦争から太平洋戦争へとまっしぐら。ときの政府は国威発揚のため、苦難の末に日本を統一した神武天皇を称える「神武東征聖蹟顕彰碑」を各地の神武東征ゆかりの地に建立した。そしてここの聖蹟顕彰記念の碑も同じ昭和15年の建立です。神武天皇の曾祖父にあたる瓊瓊杵尊を称えて県民の士気を発揚しようとしたのでしょう。

裏の林には苔や草木に覆われた石垣が見えます。


近くには「磐境」の説明板が朽ち落ちていました。

どうみても磐境とは思えず、あたりを歩き回るとほかのところにも同じ石垣が見られる。隣地の住宅を見に行くと同じような石垣の上に建っている。この林にはもともと大きな屋敷が建っていたのでしょう。屋敷を壊したあと、何十年も放置された結果だと思います。

さらに、林の横には道路があり、その先に階段が見える。


まだ何かあるぞ、とワクワクしながら階段を登ってみると、、、


とにかく、これでふたつの笠沙宮跡を訪ねたことになるのですが、仮に瓊瓊杵尊がこの薩摩の地に宮を構えたのが史実だとしたら、宮ノ山遺跡ではなく、こちらが本家だと思います。ちなみに、ここは南さつま市加世田川畑というところで、野間岬からは少し離れているものの、近くには御座屋敷というところもあって所縁を感じる所でした。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

宮ノ山遺跡(瓊瓊杵尊駐蹕之地)

2018年05月28日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年5月25日の南九州実地踏査の第三弾。
野間岬、野間神社と立て続けに精神的に疲れる踏査となり、鹿児島からここまでの走行距離は100キロほどなのに結構くたくた。野間岳を下りてきて海岸沿いの国道を走りながらホッとした気分で次の目的地に到着。しかし、その気分もほんの束の間でした。

「神代聖蹟 瓊瓊杵尊駐蹕之地」は宮ノ山遺跡にあるという。瓊瓊杵尊が降臨してこの地で木花咲耶姫を娶ってここに宮を設けて一時的に滞在したことから瓊瓊杵尊駐蹕之地、または笠沙宮跡とも呼ばれている。実は笠沙宮跡は別のところにもあって、そこにも行ってきたので別稿で紹介します。宮ノ山遺跡は有史以前の日本最古の遺跡。土器も出ていないので縄文時代よりも前の先土器時代。石器が出たとも書かれていない。

道路わきの空き地に車を停めると道路を挟んだ向かい側に「神話のふる里」の石碑。




背後にはさっき登った野間岳が見えてます。


ここが宮ノ山遺跡の入口で右手の階段をあがっていく。ここまでは神話のふる里のイメージでのどかな雰囲気。






しかし、この先はもう登山そのもの。それもそのはず、ここは野間岳の登山道の入口を兼ねていた。登山道の脇に次々と遺構が現れる。








そして全身が汗にまみれる頃にようやく。


ここが瓊瓊杵尊駐蹕之地。

たしかに古代人がこの山の斜面に住居を構え、墓を設けて集落を形成していたようすは遺構から理解できる。しかし、神話の世界とほど遠いイメージ。平地のほとんどない海岸沿いの急な山の斜面だから、ここの住人はおそらく漁撈を生業とする海洋民だろうな。その点においては大陸から東シナ海を渡って来た天皇家の祖先とおんなじなんだけど。

さらに上へいくと3つめのドルメン。ドルメンとは支石墓のことです。

これを見ると、古墳の石室の原型ということになるかな。

宮ノ山遺跡の範囲はここまでで、これ以上は純粋に登山道。

ここまでで汗だくに。ズボンもドロドロに。山を降りると海からの風が心地いい。

この島は野間岬の展望所から見えていた島です。天気が良ければここからの夕陽の眺めは最高だろうな。


あとで調べるとすぐ近くの黒瀬漁港には「瓊瓊杵尊上陸地の碑」というのがあったらしい。行っておけばよかった。それでも、たいへんな踏査となりましたが、かなりの充実感でした。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

野間神社

2018年05月27日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年5月25日の南九州実地踏査の続編。向こうに見える島の対岸を目指して進みます。


野間半島から戻って平地に出たところで車を停めて野間神社の場所をGoogleマップで調べてみると、すこし距離がありそうだったのであきらめて当初から考えていた場所「瓊瓊杵尊駐蹕之地」へ向かうことにした。しばらく走ると左手の山に登っていく道の入口に「野間神社2km」の案内板が見えた。なんだ2キロか、近いやん。寄り道しても問題ないと思ってハンドルを左に切って山道に入った。ほとんど車が走っていないのだろう、道路は小枝や葉っぱに埋もれている。それでも2キロだから大丈夫だ。

ところが、走れど走れど神社は見えない。すでに2キロ以上走っている。ずっと登っていた道がいつの間にか下りになっている。これは絶対に間違っているぞ。でも、途中で道が分かれているところはなかったし。2キロと思ってナビをセットしなかったのが間違いだった。あらためてナビをセットすると、やはり間違っていた。ほぼ180度の角度で枝分かれした道があり、それを曲がらなければいけなかった。曲がると言うよりもほぼUターンだけど。そこまで戻らなければいけないのだけど、これまたUターンする場所がない。しかたなく狭い道で何度も切り返しをしてようやく逆戻り。ここでもC-HRを用意したレンタカー屋さんを恨んだ。野間半島に続いて不安増大。でも野間岬と同じで、ここまで来たら引き返せない。行くところまで行こう。


※この記事を書きながら枝分かれした道のところをGoogleストリートビューで確認すると、大変なことがわかりました。

これがストリートビューの画像で2013年11月撮影となっている。

左から走ってきて、ここを鋭角に曲がって上の道へ入らないといけなかったのです。

拡大すると、、、

なんと、野間神社の矢印があるではないですか。実際に行ったときにはこの標示はなくなっていて、左の白いのが倒れていました。そもそも、この道には気づいていたものの、まさか車が通れる道だとは思わずに真っ直ぐに進んだのです。それでも、この正しいと思われる道は少し細くない? C-HRで大丈夫? ますます不安が増大して束の間の躊躇。それでも行くしかない。

とにかく、ようやく正しいルートに戻って山を登っていく。しかし、だ。ナビを見ると目的地まで4.7kmと出ている。おかしい。野間神社までは2キロのはずだ。ここまでですでに何キロも走っている。ルートをみると野間神社までは野間岳をぐるりと周りながら登っていくようだ。そうか、2キロというのは歩いて、つまり登山道で2キロということなんだろう。どっちにしても野間神社って野間岳の上にあるんだ。そこで初めてわかった。

※ここでもGoogleストリートビューで確認すると、またまた大変なことがわかりました。

これが上と同じく2013年11月に撮影されたストリートビューの画像で実際に見たのと同じ案内板です。ここを左に曲がって山道に入ったのです。野間神社まで2kmとなっています。


これはクリック一回分だけストリートビューを進めてみたときの画像。なんと、12kmとなっています。この撮影は2012年1月となっています。


2012年1月以降のどこかで「1」が剥落したのです。たぶん、12kmだったら行かなかったと思う。でも、苦労はしたけど行って良かったので結果オーライです。

それでようやく到着した野間神社。立派な由緒ある神社の予感。


創建がわからないんだ。軽四のおじさんは伊勢神宮より古いって言ってたけど何を根拠に。

瓊瓊杵尊・木花開耶姫の夫婦と、火蘭降尊・彦火々出見尊・火照尊の三人の子どもたち、つまり天孫一家を祀っているのです。もともと野間岳の頂上にあったものをこの八合目に遷したとのこと。

石標も苔むしてよく読めない。


拝殿を正面から。


裏に本殿が見えます。


境内から野間岳山頂を目指す登山ルートがあります。

往復で1時間なので時間があれば登ってみたかった。

車で登れるのはここまで。わずか2キロと思って来てみたらとんでもない高いところまで来てしまった。


帰りは途中から東へ降りる違うルートがあることがわかったので、そちらで下山。向かう先は上の写真にある「宮ノ山」で、ここは「神代聖蹟 瓊瓊杵尊駐蹕之地」とされる遺跡があるところだ。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

笠沙岬(野間岬)

2018年05月26日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年5月25日、出張の機会を得て鹿児島へ。午前中に用件が終わったので午後から休みを取ってレンタカーで踏査ツアーを敢行。今回の踏査地は、瓊瓊杵尊が降臨したあとに向かった吾田長屋笠狹之碕(あたのながやのかささのみさき)。現在の薩摩半島の西端、野間半島の先にある野間岬だ。野間半島は鹿児島市内から車で2時間ほど。薩摩半島を横断して国道270号線を南下したところ。ついにここまで来てしまった。もう病気かもしれない。


北側から見た野間半島。風力発電の風車が立ち並ぶ。


野間半島はその昔は島だったらしい。それが砂州でつながって半島になったという。Googleマップを見ると半島は坊野間県立自然公園になっていて道路もついているし野間岬展望所というのがある。さすがに半島の先の灯台までは行けそうになかったけど、展望所までは余裕で行けると思っていた。それがこんなことになろうとは。

道路は確かにあった。しかし車一台が通るのがやっとの幅で、しかも新緑の季節に入ったからか、両側から草木が道路に覆いかぶさる。ほとんど勘で運転する状況で、不安は増すばかり。そんな道なのに、なぜか後ろから2シーターオープンのベンツがぴったりついてきた。Uターンする場所もなくバックで戻ることもできず、前進するしかない。

これは帰りに撮った写真。ここは直線だからいいものの、断崖のカーブもあって涙が出そう。だからコンパクトカーが良かったのに。レンタカー屋さんが同じ料金でC-HRを用意しましたって、やっぱり余計なお世話だった。


途中、やっと見つけたUターンできそうな少しのスペース。しかしトラックが停まっていて工事中のお兄さんが二人。ここでのUターンをあきらめて車を停め「この先、Uターンできる場所はありますか」と聞いてみた。「ぼくもここまでしか来たことないからわからないけど、さっきランクルのおばさんが行って戻って来たから大丈夫でしょう」と教えてくれた。とにかく行くしかない。少し走るとかろうじてUターン出来そうな場所があったので頭を突っ込んだ。追ってきたベンツも横で停まった。同い歳くらいの夫婦。「えらいとこに来てしまったけど、まだ先に行くんですか」と聞くと「行きます」との答え。そうだよな、ここまで来て引き返す手はないよな。幸いにも順番が逆転してベンツが先を走ってくれることになったし一緒に行こう。気がつくとベンツのうしろにさらに軽四がついている。三台もいれば何とかなるだろう。そしてついに展望所へ到着。

半島の先端が野間岬。ベンツ夫婦のおかげだ。来てよかった。笠沙岬だ。感動! ベンツのおじさん曰く「草をかき分けて来た甲斐があった。これくらいしないと絶景は観れないよ」と余裕の笑顔。

でも見ての通り、これだけ苦労してきたのに、まだ半島の中ほど。でもこれ以上は無理。

のどかなモニュメント。こんなの建てるのなら、もう少し道を整備してください。奇跡的に対向車がこなかったから良かったけど、もしも来ていたらと思うとゾッとする。

軽四のおじさんは地元の人らしい。この地が天皇家のふるさとと言われる所以を語ってくれた。この笠沙岬とあとふたつ。ひとつがこのあと行くことにしていた瓊瓊杵尊が宮を構えたと言われる場所。もうひとつが伊勢神宮よりも古いと言われる野間神社。野間神社のことは知らなかった。

瓊瓊杵尊の宮跡は向こうに見える島の対岸あたり。


さて、野間半島の手前に野間岳という尖がった山があります。古代にはこの山が航海の目印になったことは間違いない。大陸の江南あたりを出て東シナ海を渡った人々は間違いなくこの山を目指してやってきたと思う。その事実が神話に反映されたのだ。天照大神の孫、すなわち天孫である瓊瓊杵尊は高天原から高千穂の峯に降臨したあと、この岬にやってきた。天孫降臨の話は天皇家の祖先が大陸から南九州のこの地にやって来たことを投影しているのだ。野間岳をこの目で見てそう確信した。

展望所からの帰りに見えた野間岳。標高の高いところからなのであまり尖った感じはないけども平地から見るとかなり目立った尖りよう。

このとき、再び大きな不安に襲われるドライブになるとは露知らず、帰路についた安心感から余裕の撮影となった。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加