古代日本国成立の物語

自称「古代史勉強家」。趣味は実地踏査と称して各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格の取得を目指して勉強中。

息長氏の考察①

2019年03月21日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政紀はこのあとも続くのであるが、このあたりで神功皇后、すなわち気長足姫尊を輩出した息長氏について考えてみたい。

 息長氏の本貫地は琵琶湖の北方東岸にあたる近江国坂田郡(現在の滋賀県米原市および長浜市の一部)、天野川と姉川が形成した長浜平野一帯とされる。北へは越前・若狭へ通じ、東ヘは尾張・美濃へ通じる交通の要衝である。伊吹山の南麓、尾張・美濃へ通じる街道は現代においても東海道新幹線、東海道本線、名神高速道路が通過するところである。また、天野川河口の朝妻津は琵琶湖水運における湖北、湖南への結節点でもある。米原市長沢にある長沢御坊の別名を持つ浄土真宗本願寺派の福田寺(ふくでんじ)は天武12年(683年)に息長氏の菩提寺として建立されて息長寺と号した寺で、神功皇后および天日槍が逗留したという伝承が残っている。なお、息長氏の本貫地については河内説や播磨・吉備説があり、たいへん興味深いところであるが、ここでは通説に従っておきたい。

 息長氏を語るときにその名の由来が必ず説かれる。すなわち、なぜ「息長」という名になったのか。主に3つの説、①生命力の長さを表しているという説、②水中で息を長く保つ海人を表しているという説、③鞴(ふいご)で空気を吹き送って火を起こす様を表しているという説に集約される。息長氏が近江国坂田郡を本拠として琵琶湖水運を掌握していたと考えられること、天日槍とのつながりなどからもわかるように息長氏は渡来系であり航海に長けた海洋族と考えられること、などから当初は②ではないかと考えていた。それが調べていくうちに後述するように近江国は畿内最大の製鉄産地であったこと、たたらに風を送る「息吹き」「火吹き」が語源であるとされる伊福氏、伊福部(いおきべ)氏、など製鉄由来の名を冠した豪族が周辺地にいたことなどから、息長氏についても③であると考えるようになった。

 現在、滋賀県下では60カ所以上の製鉄遺跡が見つかっている。財団法人滋賀県文化財保護協会が1996年に発行した紀要に所収された大道和人氏の論文によると、まず滋賀県南部には逢坂山製鉄遺跡群、瀬田丘陵製鉄遺跡群、南郷・田上山製鉄遺跡群の3つの遺跡群に属する17カ所の遺跡がわかっている。次に西部では和邇製鉄遺跡群および比良山製鉄遺跡群に属する12の遺跡がある。北部においては今津製鉄遺跡群、マキノ・西浅井製鉄遺跡群、浅井製鉄遺跡群に属する31カ所がある。このうち浅井製鉄遺跡群は伊吹山の北部、滋賀県と岐阜県の県境に位置する金糞岳から南に延びる鉱床を背景とした遺跡群であるが、大道氏によるとこの遺跡群は遺跡地図等には掲載されていないが、時期や内容は不明ながら製鉄に関わる鉱滓の散布地がみられ、また、近隣地域の調査において集落遺跡から製錬滓と想定される鉄滓が出土する例が見つかってくるようになってきたことから、ほぼ確実に製鉄遺跡の存在が明らかになってきた、としている。金糞岳の名も、鉄鉱石を精錬する時に出る鉄滓、すなわち金屎(かなくそ)が由来であるとする説がある。また、そこから流れ出る草野川を下ったところには鍛冶屋町という地名も残っている。このあたりは近江国浅井郡に属する地域であるがすぐ南が坂田郡である。
 その坂田郡では米原市能登瀬にある能登瀬遺跡からは鉄滓が出土している。また、伊吹山の東麓、岐阜県不破郡垂井町の日守遺跡からも鉄滓が出ており、同町内にある美濃国一之宮である南宮大社は金山彦命を祀っている。この金山彦命は、書紀の神代巻第5段一書(第4)に記される神産みにおいて、伊弉冉尊が火の神である軻遇突智(かぐつち)を産んで火傷を負い、苦しみのあまり吐き出した嘔吐物から化生した神である。金山彦という名はもとより、火の神に苦しんで吐き出された嘔吐物は製鉄炉から流れ出る鉄滓を表しており、この神はまさに製鉄の神であると言えよう。さらに同じく垂井町にある美濃国二之宮の伊富岐神社は製鉄氏族である伊福氏の祖神が祀られている。このように息長氏が本拠地としていた琵琶湖北部東岸から伊吹山の山麓にかけての一帯は広く製鉄が行われていた地域であり、まさに製鉄王国といっても過言ではなかろう。長常真弓氏はその著「古代の鉄と神々」の中で「息長氏は伊吹山の鉄によって大をなした」と述べている。



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神功皇后(その10 角鹿の笥飯大神)

2019年03月18日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政13年、誉田皇太子は武内宿禰とともに角鹿(敦賀)の笥飯大神に参った。越前国一之宮の気比神宮で、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)である。書紀の本編では笥飯大神に参ったと記されるのみであるが、応神天皇紀の最初に別伝として「皇太子となったときに越国に行き、笥飯大神を参った。そのとき、大神と皇太子は名を交換した。それで大神を名づけて去来紗別神といい、皇太子を誉田別尊と名づけた」と記される。そして、これと同じ話が古事記にもある。皇太子と武内宿禰は禊をしようと近江と若狭を巡り、角鹿で仮宮を設けたところ、その地に鎮座する伊奢沙和気大神之命が皇太子の夢に現れたという。大神が皇太子と名前を交換したいと申し出たところ、皇太子は承諾した。すると翌朝、鼻が傷ついたイルカの大群が浜いっぱいに打ち寄せられていたという。皇太子が食する御食(みけ)を賜ったことからその神を御食大神と名付け、その神が今は気比大神と呼ばれている。
 「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」でも触れたのだが、垂仁天皇の時に来日した天日槍が持参した神宝のなかにあった膽狭浅太刀(いささのたち)と伊奢沙別命の音の類似などの連想から、伊奢沙別命は天日槍であるという考えが本居宣長以来説かれているが、私もその蓋然性が高いと考える。つまり、気比神宮に祀られるのは丹波・近江連合勢力の祖とも言える天日槍であり、始祖が祀られるこの敦賀の地は丹波・近江連合勢力にとって聖地とも言える場所ということになる。その天日槍の後裔である神功皇后は仲哀天皇の居所である近江の高穴穂宮をすぐに放棄して敦賀の笥飯宮に移り、ここを起点に三韓征伐を成し遂げ、さらには香坂王・忍熊王を討って大和に入って宮を設けた。これは崇神王朝からの政権交代が成就したことを意味すると考える。そして今、神功皇后の子である誉田皇太子は生まれて初めてこの敦賀にやって来たのであるが、さしずめ始祖である天日槍への政権交代の報告と故郷へのお披露目、顔見世といったところか。また、この聖地において始祖からその名を授けられたということは、その系譜を継ぐ正当な資格を与えられたということを意味すると考えられ、これをもって実質的に応神王朝が成立したと考えてよいだろう。書紀で垂仁紀に記される天日槍の来日譚が古事記においては応神天皇の段に記される理由はここにある。
 この一連の話の中で触れられるイルカが皇太子に献上される話は敦賀の地が天皇家に御食を献上する土地になったことを表しているが、これも応神王朝成立を背景とした説話である。延喜式や平城京跡から出土した木簡などから、若狭が海産物を献上する御食国(みけつくに)であったことがわかっている。

 皇太子と武内宿禰は敦賀から大和に戻ったところ、皇太后が酒宴を開催し、盃を挙げて祝った。そして歌っていうのには「この酒は私だけの酒ではない。神酒の司で常世の国にいる少御神が祝いの言葉を述べながら歌って踊り狂って醸して献上した酒だ。さあ、残さず飲みなさい」と。武内宿禰が皇太子に代わって「この酒を醸した人は鼓を臼のように立てて歌いながら醸したからだろう。この酒のうまいことよ」と返歌を歌った。
 どうしてここに少御神、すなわち少彦名命が登場するのだろうか。歌中では少御神は酒の神であるとなっているが、単に酒の神であるから酒の場面に登場させたのだろうか。そうではない。書紀第8段の一書、国造りの場面に登場する少彦名命は大己貴神(大国主命)とともに国造りを進めてきたものの、その最終段階で仲間割れを起こしたことから常世の国へ行ってしまう。この少彦名命は出雲から大和へやってきた崇神天皇、あるいは崇神につながる一族のリーダーを指しているということを当ブログ第一部の「大己貴神と少彦名命」で書いておいた。そしてこの酒宴は神功皇太后と皇太子、のちの応神天皇が崇神王朝を倒して政権交代を実現したことを祝う宴である。崇神王朝の開祖とも呼ぶべき少彦名命の酒を飲み干すことはそのことを喩えているのだ。歌の意味は「大和の少彦名命が創り、繁栄を謳歌した国を平らげてやったぞ。めでたいことだ。彼らの築いたものを全てわが手に収めよう」ということになろうか。


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学芸員資格を取るための学習を終えました

2019年03月16日 | 学芸員資格・博物館
 昨年4月からスタートした通信制大学での学芸員資格を取得するための学習がついに終わりを迎えました。昨年4月から9月までの春期においては8科目16単位を修得し、10月から3月の秋期においては博物館実習の1科目3単位を残すのみとなっていましたが、実習およびレポートの提出を11月に済ませていたので実質的には11月で学習を終え、3月の成績発表を待つばかりという状況でした。そして3月1日、その実習の成績が発表され無事に「優」をいただくことができました。結果、全9科目19単位の履修を終え、「優」が8個、「良」が1個ということになりました。



 仕事をしながらの学習だったので、1年間で全ての科目を終えることができるかどうか不安でした。さらには事前に調べた限りでは、学生の夏休みである8月に実習受入れを行う博物館ばかりだったので10月からの秋期で実習を受けることができないかもしれない、ということがあったので、1年で履修を終えることを目標にしていたものの、実際は1年半かかるだろうと思っていました。
 春期では空いた時間はすべて課題レポートのために費やしたために古代史の勉強やブログ執筆が滞っていましたが、結果として8科目16単位の修得ができました。そして、秋期に向けて実習を受け入れてくれる博物館を探していたところ、幸運にも大阪府和泉市の「いずみの国歴史館」から承諾の返事をいただくことができました。いろいろとうまく行かないことはあったものの、館の皆さまのご支援のお蔭で無事に実習を終えることができました。その結果「1年で全科目を修得」という目標を果たすことができ、学芸員資格を取得することもできました。あらためて「いずみの国歴史館」の皆さまにお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

 さて、こうして取得できた学芸員の資格ですが、私は今すぐに学芸員になろうと思っているわけではありません。博物館や学芸員のことを知れば知るほど、そのおかれた環境がたいへん厳しいものであることがわかってきました。博物館の価値向上や活性化など、博物館が将来に渡って存続していくために何かお手伝いできることはないだろうか、とぼんやりと考えています。学芸員の資格を使ってというよりも、博物館のさまざまなことを学んだからこそ、何十という博物館を見てきた経験があるからこそ、そしてビジネスや経営の経験があるからこそ、さらには外部の客観的な視点をもって、何かお役に立てないだろうか。ボチボチ考えていきます。
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神功皇后(その9 葛城襲津彦の登場)

2019年03月12日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政5年、新羅王が3人の遣いを派遣して朝貢してきた。その際、先に人質として日本に滞在していた微叱許智伐旱(みしこちはっかん)を取り戻そうとして彼に嘘の証言をさせたところ、皇后はあっさりと帰国を許した。そして帰国にあたっては葛城襲津彦を随行させたのだが、対馬まで来たときに新羅の遣いにだまされて人質を逃してしまう失態を犯した。襲津彦は3人の遣いを殺害したあと、そのまま新羅に攻め入って捕虜を連れて帰国、このときに連行された捕虜は桑原、佐糜(さび)、高宮、忍海の四邑に住む漢人の祖先であるという。
 この新羅の人質を帰国させる話は三国史記にも記される。訥祇麻立干(とつぎまりつかん)2年、すなわち西暦418年の記事に「王弟未斯欣(みしきん)、倭国自り逃げ還る」とあって、これに先立つ実聖尼師今(じっせいにしきん)元年、すなわち西暦402年の記事に「倭国と好みを通じ、奈勿王の子、未斯欣を以って質と為す」とある。麻立干、尼師今ともに国王を表す名称で、未斯欣は書紀にある微叱許智伐旱であると考えられている。

 捕虜を住まわせた四邑であるが、桑原は現在の御所市池之内・玉手あたり、佐糜は御所市東佐味・西佐味、高宮は御所市伏見・高天・北窪・南郷の一帯、忍海は葛城市忍海に比定され、いずれも葛城氏の本拠地にあたる。この地域は豪族居館跡とされる大型建物遺構が出土した極楽寺ヒビキ遺跡、須恵器や韓式系土器などの遺物と祭祀で使われた導水施設とみられる遺構が出土した南郷大東遺跡、鉄製品やガラス製品を製作したと考えられる工房跡が出た南郷角田遺跡、大規模倉庫跡が出土した井戸大田台遺跡など5世紀代を中心とした南郷遺跡群と呼ばれる数多くの遺跡が発見されており、先進的な技術者集団の存在を背景とする繁栄が窺える。襲津彦は先進技術をもった集団を連れ帰って自らの本拠地周辺に住まわせて一族の繁栄の基礎を固めたのだ。
 葛城氏については当ブログ第一部「葛城氏の考察」や「葛城氏の盛衰」などで考察した通り、神武東征で功績のあった八咫烏、すなわち鴨氏から分かれた一族で、奈良盆地南西部の葛城地方を拠点に神武王朝を支えて大きな勢力を築き、襲津彦のときに大いに栄えた氏族であると考える。そして葛城氏が繁栄を謳歌できた理由は、前述の技術者集団の存在に加え、本拠地である葛城地方を南進して紀ノ川へ出て、さらに瀬戸内海、関門海峡を経て朝鮮半島へ通じる航路を統率していたことがあげられる。そしてそれができたのはともに武内宿禰を先祖に持つ兄弟氏族である紀氏の力によるところが大きい。なお、南郷遺跡群は5世紀前半から後半にかけての繁栄が想定され、御所市にある全長238mの前方後円墳である室宮山古墳は5世紀初め頃の築造とされている。神功皇后は4世紀後半から5世紀初めにかけて活躍したと考えられることから、葛城氏の繁栄が神功皇后に仕えた襲津彦を起点としていることと整合がとれている。さらに三国史記の402年および418年の記事とも一致する。


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神功皇后(その8 神功摂政の誕生)

2019年03月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 紀ノ川から大和に入る河川航路を神功皇后が押さえていたと書いたが、この点についてもう少し考えてみたい。紀伊水門は紀ノ川の河口にあたり、近くには神武東征の際に命を落とした五瀬命を葬った竈山があり、名草戸畔という女酋を倒した名草邑がある。この名草戸畔は地元では名草姫と呼ばれ、その死後に代わって紀伊を治めたのが紀氏であると言われている。そう言えば、皇后が小竹宮に滞在したときに常夜行が起こった理由を問うた相手は紀直の先祖である豊耳であった。この豊耳は名草戸畔のあとに紀ノ川流域を押さえた人物の後裔であろう。当ブログ第一部の「難波から熊野へ」で書いたように、私は名草戸畔の死後にこの地を治めたのは神武東征に随行してきた人物であったと考える。大和から大阪湾、さらには瀬戸内海へ通じる水運要衝の地を統治するために神武がこの地に残した腹心の部下が勢力拡大に成功して紀直、すなわち紀氏となった。この腹心の部下は神武一行が日向を発って宇佐に着く前に速水之門で道案内として一行に加えた珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦(しいねつひこ)であったと考える。
 書紀の景行紀では、景行天皇3年の武内宿禰の誕生の話にも紀直が登場する。神武王朝第8代孝元天皇の血を継ぐ屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が景行天皇3年に紀伊国に派遣され、紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ)の娘の影媛を娶って武内宿禰が生まれ、その武内宿禰が蘇我氏、平群氏、紀氏などの祖になった、と記されている。この菟道彦は珍彦である。菟道彦(=珍彦=椎根津彦)が紀直の遠祖とされていることと、その孫にあたる武内宿禰が紀氏の祖とされていることは整合がとれている。そして小竹宮で神功皇后のそばにいた紀直の先祖である豊耳はその系譜にある人物である。
 以上から、武内宿禰を介して神武王朝と神功皇后のつながりを確認することができるとともに、神功皇后が紀氏を配下に従えて紀ノ川流域を勢力下に置くことができたのは、まさに武内宿禰の影響によるものであることが理解できよう。また、景行3年に天皇が屋主忍男武雄心命を紀伊国に派遣した記事をあらためて読むと、景行天皇は紀伊国に行幸しようとしたが占いの結果がよくなかったので行幸を中止した、とある。紀伊国は神武王朝の勢力下にあったため、敵対する崇神王朝の景行天皇は紀伊国に入れなかったのだ。

 さて、神功皇后は紀伊国で合流した武内宿禰と和邇臣の先祖である武振熊(たけふるくま)に命じて宇治に陣を構える忍熊王を討たせた。このとき、皇后軍は数万の大軍で進攻したにもかかわらず、なんと敵を騙し討ちにする作戦に出たのだ。この作戦にまんまと引っかかった忍熊軍は宇治の陣をあとにして近江の逢坂、栗林、そして瀬田へと敗走を余儀なくされ、ついには全滅することとなった。仲哀天皇崩御から1年8ヶ月、新羅を征討し、香坂王・忍熊王を破った皇后は皇太后として天皇に代わって政治を担う摂政となった。
 実はこの皇后軍と香坂王・忍熊王との戦いは単なる皇位争いではなかった。これまで述べてきた通り、神功皇后は丹波・近江連合勢力が崇神王朝に送り込んだ皇后である。その皇后が香坂王・忍熊王を倒して我が子である誉田別皇子の皇位継承を確実なものにしたということは、丹波・近江連合勢力が崇神王朝を倒して政権を奪取することに成功したことを意味するのだ。さらに言えば、丹波・近江連合勢力はこの戦いによってもともと拠点としていた琵琶湖から若狭、日本海へ抜ける敦賀に加え、琵琶湖から難波へ通じる宇治川から淀川にかけての流域、大和から大阪湾、瀬戸内海へ通じる紀ノ川流域という水運の要衝を支配することになった。畿内あるいは大和から船を使って畿外へ出るルートはこの3つしかない。大和川ルートもあるが最後は河内湖から難波を通過するため、結局は難波を押さえておく必要があるのだ。そしてこれらのルートは海路でそのまま朝鮮半島へつながっているので外交上も非常に重要となってくる。これ以降、朝鮮半島との外交が一気に活況を呈してくるのはこのことと無縁ではない。

 皇后が摂政についた翌年、ようやく仲哀天皇が葬られることとなった。その陵は先に見た通り、河内国長野陵に治定される大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳である。
 そして幼い誉田別皇子を皇太子として次の天皇であることを世に知らしめた。そして神功摂政69年に神功皇太后が崩御したあと、皇子は応神天皇として即位した。私は仲哀天皇崩御後の神功皇后の時代も含めて第25代武烈天皇までを応神王朝と呼ぶこととしたい。

 しかしここでよく考えてみると、神功皇后は仲哀天皇の后となって以降、高穴穂宮で暮らすことはなかったのではないだろうか。書紀によると、仲哀2年1月11日に皇后になって翌2月6日には角鹿(敦賀)へ行幸して笥飯宮(けひのみや)を設けている。皇后は角鹿で滞在中に熊襲の反乱が起こったために角鹿を出て日本海沿岸を航行し、穴門の豊浦宮を経て儺県の橿日宮に入った。そしてそのまま熊襲を討ち、さらには朝鮮半島に渡って新羅を討った。凱旋帰国後は再び穴門豊浦宮に移り、帰京のために瀬戸内海を通過して難波から紀伊へ向かった。そこで香坂王・忍熊王を討って大和に入り、摂政に就任して大和の磐余に若桜宮を設けている。結局は高穴穂宮に戻ることはなかった。そもそも高穴穂宮は崇神王朝の景行天皇がその晩年に丹波・近江連合勢力を牽制するために設けた宮である。だから神功皇后は最初からこの宮に関心はなく、むしろ大和を押さえることにこだわったと考えられる。その磐余若桜宮は奈良県桜井市にある若桜神社または稚桜神社の2カ所が候補地とされている。





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神功皇后(その7 香坂王・忍熊王の反乱)

2019年02月27日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 当ブログ第二部の執筆を実質的に中断して1年が経過してしまいました。ちょうど昨年の今頃、博物館学芸員の資格を取るために通信制大学で学ぶことを決めて準備を進め、入学が決まるとすぐにテキストを購入して学習を始めました。それ以降、博物館学の各科目の学習やレポート執筆に多くの時間を割くことになり、古代史の勉強のための時間がとれなくなってしまいました。その結果、遺跡探訪や博物館見学のレポートなどを断続的に投稿してきたものの、第二部の執筆は中断せざるを得ませんでした。そして1年が経過、大学の成績発表は3月なので無事に学芸員資格が取れたかどうかはまだわかりませんが博物館学の学習がようやく終わりを迎えたので、古代史の勉強を再開しました。
 ということで、1年前の記事「神功皇后(その6 新羅征討③)」の続きから再開しようと思いますので、よろしくお願いします。

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 新羅遠征を成功させた神功皇后は凱旋帰国し、誉田別皇子、のちの応神天皇を産んだ。翌年、亡き天皇の遺骸とともに帰京しようとしたところ、天皇の御子である香坂王と忍熊王の兄弟が謀反を企てた。この兄弟は仲哀天皇と妃である大中媛の間にできた子である。「仲哀天皇(その1 崇神王朝の終焉)」で書いた通り、本来であれば大中媛が皇后となり、その大中媛が産んだふたりの皇子のいずれかが仲哀天皇の跡を継ぐべきであったのだが、丹波・近江連合勢力の企みによって神功すなわち気長足姫尊が皇后となったために、この兄弟の皇位継承権は神功皇后の子である誉田別皇子に劣後することとなった。神功皇后はふたりの父親である仲哀天皇を亡き者にしただけでなく、ふたりを直系皇統から追い出したのだ。兄弟が皇后による天皇殺害の事実を知らないにしても、謀反を企てる理由は理解ができよう。
 兄弟は筑紫から畿内に帰京する皇后一行を播磨で待ち伏せた。一行を騙すために明石の地にわざわざ天皇のための偽の陵を築いたと書紀に記され、その陵が神戸市垂水区にある五色塚古墳とされる。全長が194メートルの兵庫県最大の前方後円墳で4世紀後半から5世紀前半の築造、奈良の佐紀盾列古墳群にある全長207メートルの前方後円墳である佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳と同形とされている。日本で最初に復元整備が行われた古墳で、墳丘に登ると明石海峡を挟んで淡路島がすぐそこに見える。調査の結果、3段築成の上段および中段の葺石が淡路島産であることがわかっており、淡路島から石を運んだとする書紀の記述と一致する。主体部の埋葬施設は明らかにされていないが、被葬者は明石海峡という要衝を押さえ、さらには淡路島にも勢力を及ぼしたこの地の首長と考えられている。仲哀天皇は即位の翌年に淡路に屯倉を定めている。大和の巨大古墳との関連性に加え、その勢力内に屯倉がおかれたことを考えると、この被葬者はかなり天皇家に近い人物ではないだろうか。また、4世紀後半から5世紀前半という築造年代は神功の時代と重なりがある。書紀では仲哀天皇のための偽の陵とされているが、実際はこの時代の天皇家に近い人物を葬るために築かれた古墳と考えられる。ちなみに仲哀天皇は書紀では河内国の長野陵に、古事記では河内の恵賀の長江に葬られたとあり、大阪府藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳が仲哀陵に治定されている。

 兵を集めて待ち伏せていた兄弟であるが、難波の兎我野で祈狩(うけいがり)をしたときに赤猪に襲われた香坂王が命を落とすこととなった。怖気づいた忍熊王は軍を退かせて住吉に駐屯した。忍熊王が待ち構えていることを知った皇后は同行していた武内宿禰に命じて皇子を連れて紀伊水門に迂回させた。一方、そのまま難波に向かった皇后は難波を前にして船がぐるぐる回って進めなかったので務古水門(武庫の港)に戻って占いをしたところ4人の神々が現れて、それぞれが鎮座したい地を告げた。そしてその教えに従ったところ船が進むようになった。4人の神々とは天照大神、稚日女尊、事代主尊、そして表筒男・中筒男・底筒男の住吉大神であり「神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)」で書いた通り、熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神々である。それぞれの神がどこに鎮座したのかを確認してみよう。

 天照大神が鎮座した廣田国は兵庫県西宮市の廣田神社、稚日女尊の活田長峡国(いくたのながおのくに)は神戸市生田区の生田神社、事代主尊の長田国は神戸市長田区の長田神社である。そして最後の住吉大神の鎮座地である大津渟名倉長峡(おおつぬなくらのながお)は特定が難しいが、先の3カ所から推定すると神戸市東灘区にある本住吉神社であろうか。五色塚古墳のある明石海峡を起点にして難波に至る現在の神戸市から西宮市にかけての大阪湾沿岸部に4つの神社が並んでおり、このことは明石海峡から難波までの航路を神功皇后が押さえたということを意味するのではないか。この航路を支配下に置いたことで船が進んだ、すなわち難波に進攻することができたのだ。そう考えると、これらの神々のお告げは新羅討伐の託宣と同様に神功皇后の意志や行動そのものを表していることになる。つまり、天照大神、稚日女尊、事代主尊、住吉大神は天皇家ではなく、神功皇后の味方であると言える。

 ところで、ここまでの神功皇后の様子、瀬戸内海を東進して難波の手前までやってきたところで不思議な力によって足止めを喰ったためにいったん引き返すという状況は、古事記の応神段に記される天日槍の来日譚とよく似ている。新羅から妻を追いかけて日本へやって来た天日槍はまさに難波に入ろうとしたところで難波の渡りの神に遮られたために引き返して但馬国に入るという話だ。天日槍はそのまま但馬に留まり、妻を娶って子孫を設ける。その末裔が気長足姫尊、すなわち神功皇后である。

 書紀はさらに示唆に富む話が続く。皇后一行が難波に入って来たために忍熊王は住吉から淀川を遡って宇治まで退いていたのだが、皇后は深追いせずにそのまま紀伊国に向かう。先に紀伊水門に向かった皇子と合流するためだ。皇后は紀伊国の日高で皇子と合流し、さらに小竹宮(しののみや)へ移った。この「日高」は現在の和歌山県日高郡、小竹宮はその北にあたる和歌山県御坊市にある小竹(しの)八幡神社が宮跡と考えられているが、果たしてそうであろうか。小竹宮の候補地は4カ所あるとされている。1つめが前述の小竹八幡神社、2つめが和歌山県紀の川市の志野神社、3つめが奈良県五條市西吉野夜中の波宝(はほう)神社、4つめが大阪府和泉市の旧府(ふるふ)神社である。
 小竹宮に滞在しているときに、昼でも夜のような暗さになる「常夜行」という現象が何日も続いた。日食があったのだろうか。天照大神の天の岩屋隠れを想起させる現象だ。土地の老人は、ふたつの社の祝者(はふり)を一緒に葬っているからだと言う。その祝者とは小竹祝と天野祝で、ふたりは良き友人であったので合葬されたのだが、別々のところに埋葬し直すと昼夜の区別が戻った。
 小竹祝は小竹宮とされる候補地のいずれかの社の神官で、天野祝は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある天野大社とも呼ばれる丹生都比売神社の神官であると考えられる。「天野」が丹生都比売神社であるなら「小竹」はその近く、すなわち通説の小竹八幡神社ではなく、2つめの志野神社、あるいは3つめの波宝神社と考えるのが妥当であろう。それぞれの神社が小竹宮の候補とされる理由は、志野神社はその名称から、波宝神社は地名の「夜中」が前述の常夜行の現象に由来すると考えられている、ということからである。志野神社の主祭神は天言代主命・加具土命・息長帯姫命、波宝神社は息長帯日売命と上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の住吉大神が主祭神となっている。ちなみに、丹生都比売神社は第一殿から第四殿までの4つの本殿があり、第一殿には丹生都比売大神すなわち稚日女尊が祀られる。務古水門での占いに登場した神々のうち、天照大神を除く三神が祀られている。
 そしてさらに言うなら、皇后が皇子と合流した「日高」は日高郡ではなく、丹生都比売神社のすぐ近くの和歌山県伊都郡葛城町日高であると考えるべきであろう。

 皇后一行が明石海峡を通過して香坂王・忍熊王の兄弟と対峙するまでに登場した場所を地図にプロットすると下図のようになる。これを見ると、近江の高穴穂宮から瀬田川、宇治川、淀川を経て難波に至る河川航路(図の点線の楕円部分)は天皇家が押さえていたものの、播磨から難波に至る海路および紀ノ川から大和に入る河川航路は皇后が押さえていたと考えることができるだろう。なお、当時の住吉は上町台地の西に位置し、目の前には海岸が迫っていた。台地の東側は河内湖が広がっており、淀川や大和川が流れ込んでいた。





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若狭三方縄文博物館(DOKIDOKI館)

2019年02月15日 | 学芸員資格・博物館
2019年2月3日、福井県年縞博物館を見学したあと、眼の前にある若狭三方縄文博物館(愛称DOKIDOKI館)を見学しました。雨がかなり強くなっていたのですぐそこに見えている入口まで走りました。でもそこは身障者用の入口で封鎖されていたので、さらに走ってなんと2階まで上がる必要があり、結構濡れてしまいました。

年縞博物館から見えるDOKIDOKI館。

そこに入口がありそうでしょ。でも入口はぐるっと右に回って2階への階段を上がる必要があるのです。

ここが入口。


入口から見える年縞博物館。


 年縞博物館でセット券を購入していたのでそれを見せて入館。展示室は階段を下りた1階です。階段を下りたところがホールになっていて縄文杉の大株(埋没林)が床に展示されていたのでパチパチと写真を撮っているときに思い出した。いつも博物館では写真撮影がOKかどうかを受付で聞くようにしているのに忘れていた。階段を駆け上がって受付で聞くと「申請書を書いてください」と言われた。SNS等で公開するかどうかも聞かれたので「ブログに掲載します」といったら「特別な許可が必要です」と。面倒だったので公開はしないと言って通常の撮影許可だけもらいました。そういう事情なのでたくさん撮った写真をここで公開することはできないのが残念です。

 ホールを通り過ぎて常設展示室へ向かう土器の径(みち)という順路の壁面には縄文土器がずらりと並びます。実はそれぞれの土器のキャプションには土器の年代が記されているのですが、なんとほとんどすべての土器の年代が訂正されていました。それは水月湖の年縞によって年代が書き換えられたのです。

 この博物館は近くの鳥浜貝塚やユリ遺跡などの縄文遺跡からの出土品を中心に展示が構成されています。なかでも特徴的な展示は縄文時代の丸木舟です。全部で11艘(鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から9艘)の丸木舟が展示されています。ユリ遺跡から出た9艘のうちの1艘は日本で初めて完全な形で出土した縄文丸木舟です。

 両遺跡とも古三方湖に面した遺跡で、この丸木舟で古三方湖から若狭湾、日本海へと漕ぎ出した姿が甦ります。この丸木舟のほか、発掘当時の縄文時代の遺跡としては日本で初めての出土となった漆塗りの櫛なども展示されていたようですが、記憶にありません。

 鳥浜貝塚は縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡で、この遺跡の発見が水月湖の年縞発見へとつながったそうです。ユリ遺跡は縄文時代中期から後期の遺跡と考えられています。

展示資料や展示室の写真が掲載できないので、代わりにリーフレットを。



入口から三方湖を臨むと縄文ロマンパークという公園が広がっています。



 このDOKIDOKI館の初代館長は先日亡くなられた梅原猛氏です。館の公式サイトには梅原氏のメッセージが掲載されていました。

縄文文化は日本文化の基礎であり、人類の還るべき文化が縄文にあるのではないかと考えています。森が破壊され、自然環境が破壊され、人類の未来が危惧される今日、縄文のもつ共生と循環の世界観が改めて認識される必要があるのではないでしょうか。
若狭三方縄文博物館[DOKIDOKI館]は、地球を破壊しつつある現代文明へのメッセージとして縄文の光を世界へ届けたいと思っています。  【初代館長 梅原 猛】




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福井県年縞博物館

2019年02月14日 | 学芸員資格・博物館
2019年2月3日、越前海岸へカニ旅行に行った帰り、若狭の三方五湖にある福井県年縞博物館を訪ねました。去年の9月にオープンしたばかりの博物館です。

建物のデザインも周囲の自然にマッチして素晴らしい。




 年縞とは聞きなれない言葉ですが、年縞博物館の公式サイトによると「長い年月の間に湖沼などに堆積した層が描く特徴的な縞模様の湖底堆積物」のことで、春から秋にかけてはプランクトンの死骸などが湖底に積もって黒っぽい層ができ、晩秋から冬にかけては鉄分や黄砂などが積もって白っぽい層ができるので、この黒っぽい層と白い層が交互に重なっていきます。つまり黒と白が1セットで1年分ということになります。

年縞を解説した映像とパネル。



 この博物館には2006年に三方五湖の水月湖の湖底から採取された何と7万年分の年縞が展示されています。水月湖の湖底35mからさらに73mの深さまでボーリングによって掘り進んで直径10cmほどの円筒状に切り出された堆積層です。これをボーリングコアというそうです。73m分を一度に採取できないので1mづつ掘り進めたとのことですが、そうすると1mごとの境い目は綺麗につながりません。それを補うために同時に3カ所で採取して、3本あわせて連続的な年縞として把握できるように工夫しています。年縞は縦に掘り進んで採取したものなので本来であれば立てて展示したいところですが、そんな高い建物を作れないので横向きに展示しているとのこと。

 73m分の堆積層がボーリングコアとして採取され、そのうち45m分で年縞が明確に確認され、それが7万年分に該当するということです。では45mより深いところはどうなっていたかというと、45m~64mまでは粘土堆積物で年縞が確認されず、65mから再び年縞が見られ、最深部の73m部分はおよそ15万年前のものと考えられているとのことです。

 1Fで料金を払って受付を済ませるとまずはシアターでの映像鑑賞。少しの待ち時間にシアター前のパネルを見ていると解説員の方が年稿についてやさしく説明してくれました。

シアター前のパネル。

シアターでは円筒型の壁面や床面いっぱいに立体的な映像が映し出され、年縞のこと、年縞で何がわかるのか、などをわかりやすく解説してくれます。身体が宙に浮くような感覚になる素晴らしい映像でした。

 そして階段を上がって2Fの展示室へ。この階段の踊り場には年縞研究に関するパネルが展示されているのですが、ここでも解説員の方が詳しい説明をしてくれました。とにかく年縞のことがよくわかっていないので、こういう解説は大変ありがたかったです。2Fへ上がると大きな空間に年縞が横たわっていました。

7万年分の年縞を横向きに展示。

見学はこちらからとなるのですが、この手前が一番浅いところ、つまり時代が新しい年縞で向こうの端っこが7万年前の年縞です。これを見るだけも圧巻でした。

 実際に展示される年縞を見た第一印象は「昆布みたい」です。採取したボーリングコアは直径10cmの円筒に詰まった黒っぽい泥で、そのコアを縦に半分に切ると年縞が現れます。細かな工程はおいといて、その切断したコアを乾燥させて樹脂で固めてから超極薄にスライスします。ここまで薄くスライスする技術を持った人は世界でただ一人しかいないそうです。たしかドイツのケーラーさん、だったかな。研究チームは処理を施したコアをドイツへ送ってスライスしてもらったそうです。そして薄くスライスしたものをアクリル板で挟みこんだものがここに展示されているのです。もともと黒っぽかったものが酸化して昆布のような色に変色しており、さらに小さな気泡がいっぱい見えるのですが、これはアクリル板で挟むときにほんのわずかに入った空気のために樹脂の中で気泡を生じてしまうとのことでした。

 年縞が3段に並べられていますが、3ヶ所から採取した3本の年縞で連続性を確保したことがわかります。ところどころに下の写真のような記載があって、これまたスゴイ!と思わず驚きの声が出てしまうのです。

「喜界カルデラの火山灰」と書いてあります。

7253年±23年前とあります。喜界カルデラの爆発は従来は約6300年前と言われていましたが、その後に約7300年前と補正されました。そしてこの水月湖の年縞によると7253年前であったことがわかります。

 ちなみに、この喜界カルデラの爆発は豊かに栄えていた南九州の縄文文化を消滅させました。この爆発で積もった火山灰はアカホヤと呼ばれ、鹿児島ではアカホヤの下の地層から数々の縄文遺跡が見つかっています。その代表が上野原遺跡で、イタリアのポンペイを彷彿とさせます。

下の段、左が「大山の火山灰(29888±36年前)」で右が「姶良カルデラの火山灰(30078年±48年前)」。

姶良カルデラの噴火は南九州にシラス台地を形成した日本最大級の噴火です。

縄文時代と弥生時代の境い目。


一番奥にある最初の年縞は71231±2097年前とあります。


一番奥から見た写真。

この角度がいちばん美しく撮影できるポイントとありました。

 放射性年代測定の較正に利用されて化石や過去の遺物の年代が特定できるのがこの年縞の大きな価値と言えます。この水月湖の年縞は7万年にわたって途切れることなく堆積してきたため、どの層が何年前のものかがわかります。その年縞に含まれる葉の化石の炭素14の量を測定することで、その葉が落ちて湖底に沈んだ年代の炭素14の量が特定できるので、逆に化石や遺物の炭素14の量がわかればそれらの年代が特定できるというものです。

 ただしそれは、この年縞を一年の狂いもなく正確に数えたからこそ可能になったのです。そしてこの水月湖の年縞は世界各地のどこの年縞よりも圧倒的に正確であることから、年代特定の世界のものさしとして認められたのです。「やはり2番じゃダメなんです。1番だからこそ世界標準になれたのです」とは解説員の言葉です。年縞を正確に数えるためにドイツやイギリスなどの複数のチームが顕微鏡やレントゲン撮影など複数の違う方法を用いて丹念に数えて突き合わせをして確定させたそうです。

 年縞はこのように化石や遺物の年代特定に使われるだけでなく、年縞に含まれる葉や花粉の化石から、湖の周辺はどの時代にどんな植生であったのかがわかり、そこから気候の変動もわかります。また先の喜界カルデラの火山灰のように、火山の噴火や地震、洪水などの自然災害の時代や規模などもわかります。火山灰や黄砂の積もった状況から偏西風の風向きの変化もわかるそうです。

研究の変遷。


年縞からわかったことを年表に表した展示。



世界各地の年縞。すべて実物です。





 年縞はどこでも採取できるわけではありません。水月湖の7万年もの年縞は次のような条件が重なったことで形成されたことから、この湖は「奇跡の湖」と呼ばれています。

水月湖で年縞が形成された理由。 
①山々に囲まれていて風が遮られるので、風によって湖水がかき混ぜられない。
②水深が深いので、仮に強い風が吹き付けて湖面が乱されても湖底は穏やか。
③流れ込む大きな河川がないので、大雨による土砂や水の流入で湖底がかき乱されることがない。
④かき乱されない湖底には酸素がなくて生物が生息しないので、生物に乱されれることもない。
⑤周辺の断層の影響で湖が沈降を続けているので、堆積物で湖が埋まってしまうことがない。

 水月湖の隣にある三方湖は水深が2mと浅く、また河川が流れ込むために年縞が形成されません。GoogleEarthで確認すると三方湖には土砂が流入しているので少し茶色に変色しているのがわかります。

 この年縞は上述したようにすでに様々な研究に活用されていますが、今後のあらたな研究にも活用できるように未利用のものが保存されているそうです。過去を解き明かすことは未来を考えることにつながります。歴史学や考古学はより良い未来を築くための学問だと思うので、水月湖の年縞は人類の未来のための貴重な資料であるといえます。

 たっぷり2時間、年縞の魅力にとりつかれた2時間でした。


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越前海岸カニ旅行

2019年02月12日 | 旅行
2019年2月2~3日、一泊二日で福井県のあわら温泉へ行ってきました。毎年恒例のカニ旅行です。今回はランチで贅沢、宿泊は節約というパターンを試行してみました。

ランチはここ → 道の駅越前にあるお食事処「かねいち」
宿泊はここ  → 大江戸温泉物語 芦原温泉「あわら」

 さて、今回訪ねた福井県は昨年のこの時期にドカ雪の大きな被害があったので、タイヤはもちろんスタッドレス。天気予報も当初は雪模様だったのですが、当日が近づくに連れて雨の予報に変化。いずれにしても観光は天気と相談ということにしました。ランチのお店は人気店なのでできれば早い目に到着したいと思い、2日の朝はどこにも寄らずに越前まで直行です。8時過ぎに出て11時過ぎに到着し、無事に並ばず入ることができたのですが、食べている間にどんどん人がやってきて行列になっていました。

道の駅越前。


 越前海岸沿いにはランチでカニを出すお店がたくさんあって、ネットで調べて比較してみてもどこも似たり寄ったりで決め手がなく、道の駅というわかりやすさとコストパフォーマンスでこのお店にしました。本当は福井県ではなく、一度行ったことのある兵庫県の餘部鉄橋の近くにある「尾崎屋」でカニのフルコースのランチにしたかったのですが、直前だったので予約が取れませんでした。ちなみに尾崎屋でのフルコースランチはお一人様13,500円です。
 「かねいち」でのランチの越前蟹定食は、オス蟹とメス蟹が1杯ずつと刺身の盛り合わせ、小鉢2つ、ご飯、味噌汁、漬物で6,000円。それと、越前蟹のせいこ丼はせいこ蟹が3杯分で3,000円。奥さんとふたりでシェアしました。贅沢ランチといってもこれで9,000円なので十分に安い。でも、やはりカニはそれなりにコストをかけないと贅沢気分を味わえないと思いました。

写真を撮り忘れたのでタグだけでも。


 食後は道の駅で買い物をして車を走らせました。越前岬のあたりで急な山道に入って水仙ランドに行ってみたものの既に盛りは過ぎていたので素通り。さらになんとかもっていた天気も崩れだして途中から土砂降りに。予定していた東尋坊もあきらめて旅館に直行し、ゆっくり温泉を楽しむことにしました。

 宿泊は安い温泉旅館でいいと思って、加賀温泉郷にある湯快リゾートと大江戸温泉の空き室を検索したところ、一室だけヒットしたのがここでした。どこも空いていなければ車中泊か24時間営業のスーパー銭湯でもOKと思っていたので十分です。大江戸温泉はバイキングのご飯がおいしい。温泉に何度も浸かって身体はポカポカ。温泉とテレビで冬の夜長をのんびりと過ごしました。

 さて、翌日も天気はすぐれません。天気が良ければ越前や若狭の遺跡や神社へ行こうと考えていたのですが、あきらめて三方五湖へ向かいました。目的地は出来たばかりの年稿博物館。テレビで年縞の研究に関する番組を見て、ここに博物館ができたことを知り、機会があれば是非とも訪ねたいと思っていました。自然の神秘、科学の素晴らしさ、考古学研究への影響など、興味が尽きません。別の記事であらためて書きたいと思います。

レインボーラインから三方五湖を臨む。


年縞博物館でたっぷり時間を使ったので遅くなってしまいました。帰りはお土産を買いに敦賀の日本海さかな街へ。17時前だったのでどこのお店も店仕舞い直前の叩き売り。カニをお土産に買って帰りました。次は絶対に尾崎屋だ。
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築山古墳群(続編)

2019年01月10日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
年末年始に奈良県大和高田市の奥さんの実家に帰った時に築山古墳群を再度探索しました。前回のときに写真を撮り忘れたところや今回新たに訪ねたところを紹介します。

まずは近鉄大阪線の築山駅の前にあるインキ山古墳(前方後円墳)です。

前回は日が暮れてからだったので明るいときに再訪しました。

右手が墳丘で左が駅です。おそらく鉄道や駅の建設のときに墳丘が削られて道路が敷設されたのだと思います。

道路を進んで振り返ったところ。右手が駅で、墳丘上には保育園があります。この駅は築山という駅ですが、もともとこのあたりの地名が築山といいます。まさに古墳を表している地名だと思います。

次にかん山古墳。築山古墳群最大の築山古墳の隣(北側)にある築山児童公園の中にあります。公園の入口はまさに墳丘を登る感じです。


帆立貝型前方後円墳の前方部から。

右手に見える階段を登ると墳丘の頂上です。頂上からの眺めはなかなか素晴らしい。

南側の眼の前に築山古墳。


西を臨めば二上山から葛城・金剛連山。


北側には大谷自然公園。

林のあたりが公園で、公園内にふたつの円墳(大谷1号墳と2号墳)があります。見えないですが、このずっと先に馬見丘陵が広がっています。

東には近畿地方最大の円墳であるコンピラ山古墳と、ずっとむこうの左手に三輪山が見えます。


次は大谷自然公園内にある大谷1号墳。



2号墳。


円墳の肩越しに築山古墳が見えます。

築山古墳の北東すぐのところにある古屋敷古墳。


Wikipediaによると石室が露出しているとなっているのですが、私有地で中に入れないので確認ができませんでした。

築山古墳から南へ進んでJR和歌山線を越えたあたりの池田遺跡に隣接する領家山古墳。

道端にあった町内会の地図には「領家山古墳」と書かれていたのですが、どうやらこの丘陵全体が古墳ということではないようです。この丘陵上に3つほどの古墳があるそうです。

説明板にはたしかに「領家山古墳群」と書かれています。階段を登って天照皇太神社の社殿の裏側にまわると小さな円墳らしき小山がありました。


さらに南へいくと古墳らしきこんもりした空間。

ここには岡崎稲荷神社があり鳥居をくぐって境内の左側に行くと小さな祠がありました。


右側に墳丘が少し削られたと思われる痕跡があります。たぶん古墳と思われるのですが、一度ちゃんと調べてみます。

最後に盟主墳である築山古墳をぐるっと一周しました。

前方部の右隅。


前方部。


前方部左隅。


南側の前方部から後円部にかけて。

前回は北側(右側)しか撮影しなかったので、今回は反対側を撮りました。こちらはくびれ部に造り出しがあるのがわかります。

後円部。(前回の写真)


北側の後円部から前方部にかけて。(前回の写真)


この築山古墳群を含めて馬見丘陵に広がる馬見古墳群は葛城氏の墓域と考えられていますが、葛城氏の本貫地はもう少し南へいった葛城市から御所市にかけてのあたりと考えられるので、少し距離が離れているように感じます。この築山古墳群がぎりぎりのところかもわかりません。今回、ワンコとともに歩き回ってつぶさに観察したことで、この古墳群にたいへん興味を持ったので、あらためて勉強してみたいと思いました。

以上、築山古墳群レポートの続編でした。



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