古代日本国成立の物語

自称「古代史勉強家」。趣味は実地踏査と称して各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格の取得を目指して勉強中。

貝殻山貝塚資料館(朝日遺跡)

2018年11月19日 | 学芸員資格・博物館
 2018年11月、午前中に東谷山に登って志段味古墳群の尾張戸神社古墳などを見たあと高蔵寺駅に戻ってランチをとり、まだ時間が十分あったので清須市にある貝殻山貝塚資料館へ行くことにしました。貝殻山貝塚遺跡の上に建てられた資料館ですが、朝日遺跡の近くといった方がいいかもしれません。
 朝日遺跡は愛知県清須市と名古屋市西区にまたがる弥生時代の東海地方最大級の環濠集落遺跡で、東西1.4キロメートル、南北0.8キロメートル、推定面積80万平方メートルにも及び、最盛期の人口は約1,000人であったと推定されています。

 ここに大きな環濠集落遺跡があって資料館があることも知っていたのですが、なかなか行ってみようという気になれませんでした。しかし博物館実習で自主企画展のテーマを環濠集落にしようと決め、あらためて情報収集する過程でこの朝日遺跡が思っていた以上にすごい遺跡であることを知り、機会を作って行かなければと思っていたところでした。
 アクセスを調べてみると東海交通事業の城北線という電車があって尾張星の宮という駅から徒歩で10分となっています。意外に便利だと思ったのも束の間、この城北線を調べてみると単線、一両編成、ワンマン、本数も少なくて使いにくそうでした。西側は東海道本線の枇杷島駅と接続しているのに、東側は中央本線の勝川駅と一見つながっているように見えるのですが、この駅間は徒歩10分となっています。西から行くのは問題ないようですが、東からだとちょっと面倒だ、ということです。

 高蔵寺駅からだと東からの不便なルートになります。ある程度の覚悟を持って中央本線に乗ってNAVITIMEで乗継の時間を調べてみると、勝川駅で下車してから城北線の発車時間まで10分もありません。もし乗れなかったとしたら次は1時間後になります。汗だくになってダッシュで乗り継ぎ、10分ほどで尾張星の宮駅に到着。1時間に1本、乗客は5名ほど、いったいこの城北線は誰のため、何のためにあるのか。不便すぎる。バスで十分だ。



貝殻山貝塚遺跡の入口です。

少しわかりにくいですが中央に盛り上がったところがあります。古墳ではなく貝塚跡なのですが古墳だという説もあるようです。

お決まりの竪穴式住居の復元。


 このあたりは昭和4年(1929年)からの発掘調査で貝殻山貝塚が見つかり、昭和46年に国の史跡に指定され、昭和50年(1975年)に資料館が開館しました。その後、名古屋環状2号線と東名阪自動車道の建設工事に伴って昭和47年(1972年)からの調査が行われ、大環濠集落である朝日遺跡が発見されました。今となっては貝塚よりも大環濠集落をフィーチャーすべき遺跡となっています。

公園に建つ遺跡の説明板。

朝日遺跡が発見される前のものと思われます。

資料館前に建つ新しい説明板。

こちらは朝日遺跡をメインに説明しています。

資料館の入口。古くて小さな資料館です。

この写真を撮って入ろうとすると中から年配の方が扉を開けて出迎えてくれました。気さくな方なのでいくつか質問をしてみると詳しく答えてくれました。ただ、こちらはこの遺跡について知識があまりなくて質問が続かないのでまずは一人で見学を始めました。





朝日遺跡から出た特徴的な土器が並びます。





その朝日遺跡はこんな遺跡です。



こちら(→朝日遺跡マップ)のほうがわかりやすいかも。

 Wikipediaでは「縄文時代末期から弥生時代を中心に栄えた集落遺跡で、集落間の闘争の歴史と住民の生活の変化とその状況の両方を知ることができる。特に弥生時代中期の初頭~後半にかけては、他の集落の住民の襲撃に備え、強固な防御施設を建設していることがわかる。それは、環濠、柵列、逆茂木、乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なものであった。これらは、弥生時代のものとしては日本で初めて発掘されている。今でも日本の弥生中期遺跡としては最大級である。これらの防御施設の発見で、集落が城塞的な姿であったことが分かり、それまでの牧歌的な弥生時代のイメージを戦乱の時代へと大きく変える根拠になった。また、方形周溝墓跡も発見されており、古墳時代へ変遷の萌芽を窺い知ることができる」と紹介されています。

 朝日遺跡から出た遺物はコンテナで13,000箱もあるそうです。国の重要文化財に指定されたものだけでも2,000点以上あり、さらに国の補助を受けて保存、修理作業が順次行われているところです。現在は平成29年度に保存、修理を終えた朝日遺跡出土の土器などを展示する企画展が開催中でした。そして史跡公園の南側に新館の建設が進んでいます。おそらく新館オープンを機に、朝日遺跡の名が冠されることになるでしょう。

 1時間ほどでひととおり見学を終えて休んでいると、再びおじさんが事務室から出てきました。せっかくなので池上曽根遺跡などをネタに会話をしてみると、いろいろと教えてくれました。この一帯は海抜が4mしかない湿地帯であったので逆茂木や木製品がよく残っていたといいます。土器も残りがよくて表面がきれいだとも。おじさんによると、同じ名古屋にある高地性集落の見晴台遺跡の土器は表面がゴツゴツで状態が良くないらしく、その違いは水に浸かっていたかどうかによるのです。見晴台の土器は雨に浸かったり日照で乾燥したりを繰り返すから劣化が激しくなる。ここの土器は残りが良いから土器に土がついている、残りが悪いと土に土器がくっつくんです、と。なるほどなあ。博物館実習で土器洗浄を経験したばかりなので、その表現の意味が理解できました。そして驚いたのは、湿地帯であったがゆえに遺跡が弥生時代で終焉を迎えた後、次に人が住むようになったのは平成になってからだというのです。古墳時代以降つい最近まで人が住むことはなく、千数百年の間、ずっと田んぼだったらしいのです。

 このあたりでおじさんの正体を確認したくなり「学芸員さんですか」と聞いてみると「資格は持っています」という答え。続いて「館長さんですか」と聞くと「もう定年を過ぎて単なる留守番役です」との返答。事務室の中に女性がいたので「あの方は学芸員さんですか」の問いには「彼女は学生のアルバイトです」と。留守番役とアルバイトで運営しているので開館日が木・金・土・日と変則的になっているとのこと。
 それにしても詳しいので、元は館長さんだったんだろうなと思って話を続けました。そしてこの地方特有のS字状口縁台付甕の話をすると俄然盛り上がってきました。「大阪の博物館ではS字を見ることができないし、名古屋市博物館に展示されていたのもケースの中だったのでなかなか詳しく見る機会がないんです」「ここにも展示されていませんでしたね」「S字は蓋をしたときによく密閉できるというのが利点なんですよね」といった話をすると元館長(?)さんは少し考えた後、「ちょっと来てください」といって展示室の裏にある収蔵室へ案内してくれました。土器がいっぱい並べられている保管棚の一番奥にS字が置かれていて、それを取り出して見せてくれました。「持ってみてください」「いいんですか?」、緊張しながら両手で持ってみてびっくりしました。「軽い!」「これがS字の一番の特徴なんです」




 いやあ、楽しい時間でした。朝の登山や乗り換えのダッシュで体は疲れ切っていたけど、元館長との会話の時間、気持ちはずっとワクワクしてました。これが博物館見学の醍醐味です。名古屋駅への帰り方を聞くと、城北線はダメダメと言われ、JR清須駅まで歩くと30分ほどかかるけど途中の清須城を見て帰るといい、と教えていただいのでそうすることにしました。



新館がオープンしたら必ず来るぞ。
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志段味古墳群(続編)

2018年11月18日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 2018年11月、名古屋市守山区にある志段味古墳群を訪ねました。4世紀から7世紀という古墳時代全期にわたって数十基(100基以上とも言われる)の古墳が築かれた古墳群です。ここは昨年2017年5月にも訪れたのですが、その際は古墳群の西側の地区しか見ることができませんでした。というのも東側、とくに東端にあたる地区の古墳は東谷山という山の上に築かれていることもあって、体力と時間の関係で見ることが叶いませんでした。それで今回はその東谷山に登ろうと決心をしてやってきたのです。

「歴史の里しだみ古墳群」のサイトより。


JR中央本線を高蔵寺駅で下車、駅からまっすぐ南へ向かうと庄内川に出ます。ここから左手を見上げれば目指す東谷山が望めます。


橋をわたって左折するとすぐのところに東谷山白鳥古墳があります。

ここは前回も来たのですが通り道なのでもう一度見学しました。径17mの円墳で6世紀末~7世紀初めの築造とされています。横穴式石室の内部をみることができます。




さて、ここからいよいよ山登りの様相を呈してきます。最初は住宅地の中を抜けるのですがとても危険な急坂です。住宅地を抜けるといよいよ山道に入ります。


手前で舗装が途切れています。この先も林道になっているので道は広いのですが、とにかくダラダラと登ります。登ること30分ほどだったかな、ようやく頂上近くの平らなところへ到着。東谷山の標高は198メートルでその頂上付近にあるのが尾張戸(おわりべ)神社古墳とその墳丘上に建つ尾張戸神社。





 尾張戸神社古墳は径27.5m、2段築成の円墳で築造は4世紀前半とされています。斜面にはおそらく山頂付近で集めたと考えられる大振りの角礫が葺かれていました。葺石上には多量の石英が撒かれていたと推定され、平坦面の敷石の一部にも石英が使われているとのこと。

 墳丘の裏へまわってみる。写真上部に本殿を囲む白壁と本殿の屋根が見えます。このあたりを発掘して2段築成ということがわかったようです。しかし2段目は神社を建てる際にほとんど削平されてしまいました。また、神社が建っているためにこのように墳丘の裾部分しか発掘できなかったと思われます。





 Wikipediaによると、墳丘上に建つ尾張戸神社の祭神は尾張氏の遠祖とされる神々で、尾張氏の始祖とされる天火明命(あめのほのあかりのみこと)、その子にあたる天香語山命(あめのかぐやまのみこと)、別名を高倉下命(たかくらじのみこと)といい、神武東征の際に熊野で天皇一行を救った人物、そして天火明命十二世孫にあたる建稲種命(たけいなだねのみこと)の三柱です。神社由緒によると天香語山命(高倉下命)は庄内川対岸の高蔵山に降り立ち、のちにこの東谷山に移ったとされ、その際に白鹿に乗って川を渡ったことから、その地に架かる「鹿乗橋」に伝承の名残を残しているとのことです。そういえばそんな名前の橋でした。
 JRの最寄駅の名は高蔵寺駅で「こうぞうじ」と読みますが、訓読みすれば「たかくらてら」です。高倉下と高蔵寺あるいは高蔵山は通じているのでしょうか。それとも後付けでしょうか。

由緒が刻まれた碑。

色合いや陰影の加減で見えにくく、博物館実習で教わった拓本を採りたいと思ってしまったのですが、それはともかく、祭神には上記の三柱のほかに、天道日女命(あめのみちひめのみこと)と乎止與命(おとよのみこと)の二柱の名が見えます。先代旧事本紀によれば天道日女命は天香語山命の母神とされます。乎止與命は建稲種命の父神で先代旧事本紀では成務天皇の時に尾張国造に任命されたとあります。いずれも尾張氏ゆかりの人物とされます。

 さあ、そうするとこの古墳に葬られている人物は自然に考えれば尾張氏ゆかりの人物ということになるのではないでしょうか。古墳の築造が4世紀前半なので尾張氏の系図からその時代に合う人物を求めるとよいことになります。二世の天香語山命が神武東征の頃なので私の考えでは3世紀中頃です。十一世孫の乎止與命が成務天皇のときに尾張国造になったというのが史実とすれば4世紀中頃ということになります。3世紀中頃の二世から4世紀中頃の十一世までおよそ100年で10代というのは少し密度が濃いようですが、4世紀前半となれば単純に考えれば五世孫から七世孫あたりになるでしょうか。先代旧事本紀などに記される尾張氏につながる系図でみると五世孫が建斗米命、六世孫が建田背命、七世孫が建諸隅命、八世孫が倭得玉彦命となりますが、どこまで行っても想像の域を出ないので別の機会に考えてみたいと思います。

 それよりも、なぜこんなに高い山頂に古墳が築かれたのでしょうか。このあと巡る中社古墳も南社古墳もそうです。初期の古墳は台地や河岸段丘の上、あるいは丘陵の尾根を切り出して築かれたケースが多いのは承知しているのですが、この志段味古墳群は少しおかしい。
 というのも、東谷山西麓の平地に白鳥塚古墳という愛知県で3番目に大きい前方後円墳があるのですが、この古墳も4世紀前半の築造とされています。その理由は、崇神天皇陵に治定される纏向の行燈山古墳とほぼ相似形であること、その行燈山古墳と同様に周濠に陸橋(渡り土手)があること、埴輪が出ていないこと、など畿内の早い時期の古墳の特徴を持つことから古墳時代前期前半の4世紀前半とされているのです。これは理解できます。そして、東谷山頂の尾張戸神社古墳も埴輪を持たないこと、葺石に石英がまかれていたこと、という特徴が白鳥塚古墳と似ていることから4世紀前半の築造とされたのです。これは少し無理があるのではないでしょうか。

白鳥塚古墳。




 東谷山の山頂に築かれた小さな円墳と山麓に築かれた巨大な前方後円墳が同じ時期に造られたことになるのですが、私は古墳群を含むこの地域一帯を見下ろす山頂に築かれ、かつ墳丘上に被葬者を祀ると考えられる祠が建てられた古墳の方が古く、この古墳の被葬者の後継がさらに勢力を拡大して畿内勢力と結びついて自分が治める土地に巨大な前方後円墳を築くまでになった、と考えるのが自然なように思うのです。つまり、山頂の尾張戸神社古墳の築造は4世紀前半よりも遡るのではないかと考えるのです。仮に3世紀後半や中頃まで遡らせると被葬者はそれこそ尾張氏始祖の天火明命や二世の天香語山命まで候補として考えられる。いかん、また想像が過ぎてきた。

古墳の近くの展望台からの眺め。下を流れるのが庄内川です。


 山頂をあとにしてここからは下り坂を下ります。少し下ると突然現れるのが中社(なかやしろ)古墳。東谷山山頂からのびる尾根を切り出して成形した全長63.5m、後円部3段、前方部2段の前方後円墳です。ここからは円筒埴輪や形象埴輪が出土しています。







 この円筒埴輪は奈良県東南部の影響が色濃く、東海地方では最古級の円筒埴輪だそうです。また白鳥塚古墳と同様に後円部の葺石の上や墳丘頂上に石英がまかれていたようです。墳形や円筒埴輪が大和政権の影響を受けており、白鳥塚古墳と似た特徴を持っていることから白鳥塚古墳よりも少し新しい4世紀中頃の築造とされているようです。

 これも少し違うような気がする。やはり平地にある古墳よりも山の上の方が古いと考えられないでしょうか。しかも尾根を切り出しているのです。平地に巨大な古墳を築くようになったあとにわざわざ山の上の尾根を削るでしょうか。白鳥塚古墳が4世紀前半ではなく、もう少し新しいのかもしれません。とにかく時代を特定する土器が出ていないのでどこまで行っても推測の域を出ないのです。

 さらに下ると南社(みなみやしろ)古墳です。径30m、2段築成の円墳です。1段目の斜面には山中で採取した人頭大あるいは拳大の角礫が葺かれ、上段は角礫ではなく円礫が葺かれていました。これはわざわざ山麓から運んだものと思われます。ここからも円筒埴輪や形象埴輪が出ており、円筒埴輪は中社古墳のものと共通性が認められ、両古墳の埴輪は一体的に生産されたと考えられています。このことから築造時期は中社古墳と同様の4世紀中頃とされています。







 さあ、これで今回の目的は達成です。あとは山を下りて駅に向かうだけと思って急な坂や階段を下っていくと登山靴を履いた何人もの人が登ってくる。誰もかれも汗だくでヘトヘトな感じ。こちらはどんどん下るだけなので楽チン。そうか、ここはハイキングコースになっていてその登山口から登ってきた人たちなんだ。たまたま私は古墳を見るために反対から山に入ったので登りは登山といっても車の通れる道を登って来たので、それほどヘトヘトにならずに済んだのです。これはラッキーしたぞ。逆のコース=本来の登山コースで来ていたら、山頂に着くまでに疲れ切っていたかもしれない。しかも登山靴なんて履いていないし。ただし、山を下りてからは駅まで結構な距離を歩くことになりました。

こんな急な階段が続く。階段だからまだ歩きやすいが延々と登り続けるのはきついだろうな。


この右手が散策路の入口。私にとっては出口でしたが。しかし、散策路とあるのは問題かも。どう考えても登山です。


途中、前述した白鳥塚古墳にも立ち寄りました。ここは前回に来たものの、もう一度見ておこうと思って時間をとりました。






高蔵寺駅を出て庄内川を渡り、東谷山白鳥古墳→尾張戸神社古墳→中社古墳→南社古墳→白鳥塚古墳と巡り、2時間半ほどでもとの高蔵寺駅に戻ってきました。ここで昼食をとって、午後からは清須市にある貝殻山貝塚資料館へ向かいました。

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博物館実習レポート(vol.6)

2018年11月17日 | 学芸員資格・博物館
 博物館実習6日目のレポート、いよいよ最終日です。最終日は館を出て2つの文化財関連イベントに白石さんとともにスタッフとして参加しました。午前が近世和泉の名所を訪ねる和泉市歴史ウォーク、午後からは「ココロ トリコ イズミ 和泉の歴史は面白い!」がテーマのいずみ歴史トーク、いずれも和泉市文化財活性化推進実行委員会(名前が長い!)や和泉市教育委員会などが主催するイベントです。

 この日は歴史ウォークの出発地である弘法寺に行かなければならないので、いつもより少し早い目の9:15に館に到着して白石さんと一緒に徒歩で出発。弘法寺に到着するとすでに多くの参加者が集まっています。まず本堂に入ってウォークの概要、見どころなどの説明を受けたあと、住職さんから両界曼荼羅に関する有難いお話を伺うことができました。



 ひととおりの説明があって、いよいよ最初の目的地に向かいます。そうです、この弘法寺は歴史ウォークの見どころではなく、単なる集合場所だったのです。とはいえ、最初の目的地はお寺の裏にある意賀美山(おがみやま)。小高い丘に登って担当の山下さんの解説を聞きながら和泉の眺めを楽しみました。後ろの方にいたので残念ながら解説はよく聞こえませんでした。
 続いて徒歩にて「国学発祥之地」の碑に向かいました。和泉は契沖ゆかりの地であり、それに因んで建てられた碑です。契沖は国学をやっていたという意識はなく、契沖がやっていたことを後世の人が国学と呼んだに過ぎない、という山下さんの解説が良かった。
 


 その次は特別展「時をかける文書」を開催中の歴史館へ向かいます。歴史館では山下さんのわかりやすい解説付きでウォーク参加者全員で展示を見学。予定時間を20分ほどオーバーして10時に始まった歴史ウォークは無事に終了です。



 ランチのあと、徒歩15分ほどのところにある久保惣記念美術館に移動して歴史トークの開始です。午前の参加者の皆さんは全員が午後も参加され、午後から参加される方も大勢おられたと思います。この久保惣記念美術館は私も何度か来たことがあり、泉州の片田舎にあるにしては素晴らしい美術館で所蔵する美術品もなかなかのものです。昨年はピカソと日本画の対比という面白い企画展示を楽しみました。



 ホールを会場として河田館長のお話、教育委員会の乾さんによる和泉の古刹である施福寺と松尾寺のお話、実習でお世話になった市史編さん室の永野さんによる「江戸時代の道と旅」というテーマの解説を聴きました。ここまでで第一部が終わって休憩に入ったので白石さんとともに美術館をあとにしました。



 さあ、これで実習のカリキュラムが全て終了しました。館に戻って6日間の実習を振り返って実習日誌を書き、白石さんに提出しました。いつもはコメント記入と押印をいただいて翌日に返却をお願いしていたのですが、最終日なのでその日のうちに返却いただけるよう無理をお願いさせていただきました。そしてすべてが終了したのが15:40頃。中身の濃い6日間で皆さんに大変親切にしていただきました。お世話になったお礼を申し上げて、後ろ髪を引かれる思いで館をあとにしました。

 その後、実習の終了を大学に報告し、現在は単位修得のための実習レポートを執筆中です。4,000字以上という条件があるのですが、書くことがたくさんありすぎて。市史第6巻もまだ途中で、白石さんにいただいた図録や調査報告書などもまだ読了できていません。とにかく、和泉の歴史は面白い!



以上、いずみの国歴史館での6日間の実習報告を終わります。


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博物館実習レポート(vol.5)

2018年11月15日 | 学芸員資格・博物館
 博物館実習、5日目のレポートです。この日はカリキュラムの順序を変更して、朝から拓本の採取、午後からはこの歴史館で開催中の秋の特別展の分析と、そのあとはいよいよ自主企画展の発表です。とくに午後の2つのプログラムは6日間の実習カリキュラムのヤマ場といってもいいと思います。

 土器の拓本は前日に続いて西田さんに指導していただきました。この日は腕時計や胸のペンをはずして実習に臨みました。まず最初に、使用する道具とそれを使って拓本を採る手順を西田さんの実演によって教えてもらいます。実はここで使用するタンポという道具も手作りでした。まず弥生土器の破片の拓本です。ご存知の通り、弥生土器の表面はさほど凹凸がないので、手順通りにやれば比較的簡単にきれいにできました。それを3つくらいやったあと、メインイベントの瓦の拓本です。瓦は弥生土器と違って凹凸が大きくてうまく紙が瓦にくっついてくれません。しかも瓦の破片は安定が悪くて倒れないように手で支えながらの作業。水をたっぷりつけて、しっかり空気を抜いて、小さなタンポでしっかり押さえて、、、少しづつコツがわかってきました。何とかできあがったタイミングでランチタイムです。



 午後の1つめ、特別展の分析は実は2日目の実習終了後にじっくり展示を見ていたのと、前日にもう一度確認したことで、自分なりの考えが整理できていました。展示の分析というか評価を「良い点」と「改善余地」に分けて箇条書きにしてまとめた紙をもって白石さんと展示室へ入り、それを順に説明していきました。同意していただいたこともあり、また早速改善してくれたこともあり、きちんと受け止めていただいたことを嬉しく思いました。

 さあ、そしていよいよ実習のメインイベント(私がそう思っているだけですが)、自主企画展の発表です。初日のオリエンテーションで説明を聞いてから頭の中はほぼこの自主企画展のことで占められていました。まずはテーマを決めないことには始まりません。過去の実習生の企画書を見せていただいたところ、皆さん自由な発想で自分の得意分野、例えば人形とか野球とかの展示を企画していましたが、この博物館で実習を受けている以上、私はどうしても和泉市の歴史に因んだ展示を考えたかった。2日目にフワッとしたアイデアを白石さんにお話ししたら参考図書を頂くことになりました。感謝です。そして出来上がったのがこれ。



 左が企画書の表紙、右がチラシのイメージです。20年の館の歴史の中ですでに似たような企画展が実施されてるかもしれないということと、やはり時間がない中で情報を集めきれずに生煮えの状態が否めないことで、不安な気持ちで発表しましたがアイデアは我ながら満足しています。
 単に各地の環濠集落遺跡を紹介するのではなく、それらの中でも池上曽根遺跡は日本最大規模を誇り、その池上曽根遺跡の誕生が端緒となって和泉の発展が始まり現在に至っているというシナリオで、和泉の素晴らしさを伝えたかった。
 今回、この自主企画展のために和泉市の古代遺跡や遺跡の立地と密接な関係にある地形について調べましたが、興味が尽きませんでした。和泉市史第6巻も大変興味深く読みました。

 和泉市というところは知名度の高い堺市と岸和田市に挟まれていること、みさき公園や大阪南部の海水浴場などに行く観光客が使う南海本線が通っていないこと、大阪湾に面していないので地図に埋もれてしまっていることなどの理由から他の地域の人からあまり知られていませんでした。最近でこそ和泉中央駅を中心にニュータウンが開発されて人口流入が起こっていますが、同じ泉州地方の貝塚市で生まれ育った私ですら大人になってからもJR阪和線の和泉府中駅には快速が停まるということくらいしか知りませんでした。
 でも、自分で調べてみたからこそ、和泉市は古代からの歴史が溢れる町で、まだまだ自然が残る素晴らしい所だということがわかりました。おべんちゃらではなく、和泉市のファンになりました。


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博物館実習レポート(vol.4)

2018年11月12日 | 学芸員資格・博物館
 博物館実習、4日目のレポートです。4日目の午前中は近世資料の取扱い、午後からは刀剣の取扱いと考古資料を取扱う際に使用する備品の製作を学びました。

 午前の近世資料の取扱いは和泉市の市史編さん事業に携わっておられる永野さんに指導していただきました(永野さんの「野」は「田+又、その下に土」という字です)。和泉市は20年ほど前から市史編さん事業に取り組んでおり、市史全9巻が発刊される予定で、これまでに6巻が発刊されました。直近では第6巻の「和泉市の近世」が出たばかりで永野さんが担当されました。この過程で市内の旧家からたくさんの資料の提供があったそうで、この日も資料の寄託申請があった館近くのお宅へ伺って、資料が保管されている蔵の見取り図を作成して資料を持ち帰るという作業を永野さんと一緒に行いました。
 館に戻ってからは古文書の整理作業です。古文書といっても私が作業をしたのは昭和の郵便物で、和泉の古寺である槇尾山施福寺から寄託された手紙でした。整理をしながら永野さんと一緒に手紙を読んでいると、当時のお寺の賑わいが手に取るように甦ります。古文書の価値とはこういうことなのかと理解できました。古文書は当時の地域の歴史を生々しく甦らせてくれる資料で、古文書から歴史を再現していくことが重要なのです。いま、いずみの国歴史館へ行くと「時をかける文書(もんじょ)」というテーマで和泉市にまつわる近世の古文書がたくさん展示されていて、江戸時代の和泉の歴史を感じることができます。ぜひ行ってみてください。

 午後からは刀剣の取扱いです。取扱いといっても私がやるのは大変危険なので、白石さんが手入れする様子を横で説明を聞きながら見ているだけです。この館には少し驚くほどの数の刀剣が保管されているのですが、銃刀法などの関係で個人の家で保管することが難しくて寄託されることが多いとのことです。左手に刀を持って右手にもった丸い布の包みのようなものでポンポンとたたいていく様子を時代劇などでよく見かけますが、あの包みには刀を研いだときに出る砥石の粉のまじった水を乾かしたもの、つまり砥石の粉が入っているのです。刀の両面と背の部分をポンポンとたたいたあと、ふき取ります。ふき取る時に使うのは鼻にやさしい上質のティッシュペーパーです。通常はそのあとに油を塗るのだそうですが、今回は塗りませんでした。
 刀といえば備前。中国山地を挟んで向こう側は古代からたたら製鉄が行われていた出雲の地。どうして出雲に製刀の技術が残らずに山を挟んだこちら側の備前に伝えられてきたのだろう。とにかく、真剣を目の前で拝むことができたのは貴重な経験となりました。

 刀剣の取扱いを白石さんの実演で学んだあとは、学芸員の西田さんによる土器などの梱包材の製作指導です。この歴史館は予算の少ない公立ということもあってか様々な備品を手作りでまかなっています。今回は土器などの割れやすい資料を他館から借用する際などに使用する梱包材の製作方法を学びました。私はここでも不器用さをさらけ出してしまいましたが、西田さんは嫌な顔ひとつせず、笑顔で対応してくれました。自作の梱包材を使って土器を包むのですが、手作りで十分だと思いました。
 ひととおりの指導が終わった後、西田さんから指摘、というか指導というか、このような資料の取扱いをするときには腕時計などをはずしておくこと、胸ポケットのペンも抜いておくこと、本来であれば手袋をすること、などの基本的なことを教えていただきました。このことはテキストでも学んだことで、資料を取り扱う際の基本中の基本であるのに、すっかり忘れてしまっていました。特に借用のために他館で作業する際に抜かりがあっては信頼を損ねてしまいます。改めて肝に銘じました。

 この日は古文書、刀剣、土器と様々な種類の資料の取扱いを経験することができて楽しい一日となりました。ただ、古文書や刀剣は土器や須恵器などとは取扱いや保管の方法がまったく違うので、博物館としては管理が大変であるというのと、考古資料だけでも手狭になっている収蔵庫に古文書や刀剣の寄託や寄贈が増えてくると、この館だけでは収蔵しきれなくなるという悩みもある。博物館の運営についてもいろいろと考えさせられる機会となりました。


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博物館実習レポート(vol.3)

2018年11月10日 | 学芸員資格・博物館
 博物館実習、3日目のレポートです。3日目の午前中は須恵器の調査を通じて考古資料の取扱いを学びました。昼食を挟んで午後からは土器の接合を通じて考古資料の整理作業を学びました。

 この日は9:45に出勤。午前のカリキュラムには考古資料の取扱いとして「作品調査」と書かれていたので何をするのだろうと思いながらバックヤードへ行きました。博物館は展示資料を他の博物館から借用することがありますが、その際、事前に借用先の博物館へ行って借用する資料の状態を確認して記録しておく必要があります。借用中に破損したり傷をつけていないことを証明するために、あるいは傷をつけてしまった場合はどの部分にどんな傷をつけたのかを明らかにするために、借用前に記録を取るのです。今ではデジカメで簡単にパシャっとできますが、伝統的な方法はスケッチを取ることです。そういう説明を白石さんからお聞きした後に、考古資料である須恵器をスケッチするように言われました。
 須恵器を前においてA4の用紙に鉛筆で描いてみたのですが、不器用な私は1つの須恵器を描くのに20分ばかりの時間を要してしまいました。白石さんからは「少し角度が悪いので、もう少し視点を下げたほうがいい」とアドバイスをいただいて描きなおすことになり、次は所見も記入するように言われました。同じように20分ほどかけて描きなおして所見も記入しました。ここで中途半端な知識、というか知ったかぶりによって大失敗をしでかしました。スケッチはそれなりに描けたのですが所見が全く見当違いでした。そもそも調査やスケッチの目的を事前に教えていただいたにも関わらず、所見として須恵器の特徴を列挙してしまいました。傷の位置や大きさ、接合の状況などを記録しなければならないということを改めて指摘いただきました。加えて、通常は借用先でゆっくり調査している時間がないので、できるだけ要領よく時間をかけずに描く必要があることも教えていただきました。
 あと2点の須恵器について同様の記録作業を行い、午前の部を終えました。

 この日のランチは桃山学院大学のファミマでおにぎりとパンを購入し、気分転換のために車の中で食べました。

 午後からは土器の接合です。予定では土器の注記をやったあとに接合作業ということになっていたのですが、白石さんの判断で注記作業を止めて、午後からの時間をすべて接合作業に費やすことになりました。実はこの土器の接合というのも密かに楽しみにしていたのです。テーブルに並べられた数十の土器片を見て、ジグソーパズルを解くように土器をつなぎ合わせていく作業で、一度やってみたいと思っていました。
 余談ですが、春に鹿児島の上野原遺跡に併設する博物館にいったときに、接合によって復元された土器が実物か複製かを判断する方法を学芸員さんに教えてもらいました。それは土器の内側を見て接合された個々の土器片に注記があれば実物、なければ複製、ということでした。そりゃそうだわな。そんなことを聞いていたので、実は注記作業もやってみたいと思っていました。
 で、肝心の接合ですが、これがなんとも難しかった。結局、休憩を挟んで3時間やったものの、ただのひとつも接合することができませんでした。この日は私のほかに3人のパートの方が同じ部屋で同じ作業をやっていました。経験豊富な方々の作業を見ているのは楽しかったのですが、自分の作業が全く進まないのが残念で悔しかった。皆さんから「それは私らが何度もやって最後に残ったものだから難しいわ」と慰めや励ましの言葉をいただきながら作業を続けました。休憩時間にはコーヒーをいれていただき、おやつまでいただいて何とも楽しい時間を過ごしました。白石さんは何度も顔を出してアドバイスをしてくれたのですが、結局は成果ゼロで終わってしまいました。もしかすると白石さんは接合作業の難しさを分からせるため、わざとこの数十の土器片を課題として与えたのかも。何もできなかった悔しさもあって、土器のことをきちんと勉強してみようと思いました。

 以上、須恵器と土器に向かい合って悪戦苦闘した一日となりました。


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博物館実習レポート(vol.2)

2018年11月08日 | 学芸員資格・博物館
 博物館実習の2日目のレポートです。この日は午前中が発掘調査の見学、午後から和泉市が運営する「信太の森ふるさと館」の見学と、終日館外での活動となります。

 予定より早い目の9:15に館に到着し、指導担当の白石さんとともに車で発掘調査の現場に向かいました。場所は日本最大規模の環濠集落である池上曽根遺跡です。現場近くの大阪府立弥生文化博物館(弥生博)の駐車場に車を停め、歩いて3分ほどで到着。発掘は福祉施設の建設に伴う調査とのことでした。
 少し発掘体験ができると伺っていたので楽しみにしていたのですが、現場に到着してからは人生初めての遺跡発掘とあって緊張してずっと気持ちがフワフワしていました。発掘リーダーの上田さんや担当の呉ちゃん(くれちゃん、名前忘れました。すいません)の説明をドキドキしながら聴きました。二人の学生アルバイト君と、好きが高じて引退後に遺跡発掘にたずさわっておられるミヨシさん(漢字わかりません。すいません)は黙々と遺構を記録しています。パワーワーク担当はシルバーのオッチャン達。発掘調査はいろんな方々の共同作業で成り立っていることがよくわかりました。





 何となく雰囲気に慣れてきた時、白石さんが「やってみますか」とガリを渡してくれました(ガリは前日のスライドの説明のときに教えてもらっていた発掘のための道具です)。すでに調査が一段落している場所でしたが、見よう見まねでガリを使ってみました。これもれっきとした発掘体験。私がガリガリやっていると、弥生博の方がやってきて私の後ろで、地層や遺構をどう判断するか、というような内容の会話が始まりました。去年行った鳥取県の青谷上寺地遺跡のことも出てきたので大変興味深いお話でした。

 お昼少し前になったので車を停めた弥生博に戻り、30分ほどの時間で常設展を見学しました。白石さんにいろいろと教えていただきながらの見学だったので、わずかな時間だったけど大変勉強になりました。

 ランチをとって午後からの見学先である「信太の森ふるさと館」に向かいました。信太の森は安倍晴明誕生の「葛の葉伝説」や和歌・文学のふるさとで、ふるさと館では葛の葉伝説にちなむ資料が展示されるだけでなく、植物、野鳥や昆虫や歴史なども紹介しています。学芸員の清水さんからは葛の葉伝説を教えてもらいながら展示の説明をしていただきました。





 植物・昆虫など自然担当は豊島さんです。豊島さん、白石さんと私の3人は館を出て近くの惣ケ池公園へ向かいました。この公園を含む一帯は弥生時代後期の高地性集落で「惣の池遺跡」と呼ばれ、8棟の竪穴式住居が保存されて公園全体が和泉市の史跡として指定されています。白石さんはここを発掘調査したそうです。





 この公園を通って惣ケ池湿地を見学、いや探検に行きました。池の奥に湿地が広がり、どん詰まりまで行くと湧水が流れ出ていました。和泉市というのは信太の森もそうですが、信太山丘陵を中心にまだまだ自然が残されています。和泉中央周辺がどんどん開発されて人口も増えているようですが、こういう自然を残す努力を怠らないようにしてもらいたいです。



 ふるさと館に戻り、清水さん、豊島さんにお礼を申し上げて車に乗りました。予定ではこのまま館に戻ることになっていたのですが、白石さんが気を利かせてくれて丸笠山古墳と信太狐塚古墳というふたつの古墳を見学しました。和泉市ホームページによると、丸笠山古墳は信太山丘陵の西縁部に築かれた全長100mほどの前方後円墳で4世紀末ころの築造とされています。かつて延喜式内社の丸笠神社の社殿が前方部にあったとありますが、たしかに小さな祠が建ち、鳥居もありました。これが式内社だったとは驚きです。和泉市最大規模で市内唯一の水濠を残す古墳であるとのこと。信太狐塚古墳は槙尾川下流域が一望できる信太山丘陵の西の縁辺部に築造された全長58mの前方後円墳で6世紀後半の築造とされます。信太千塚古墳群で唯一の後期前方後円墳で信太千塚古墳群の盟主墳とされます。前方部は完全に削平されて一見すると円墳そのものです。丘陵の縁とあってその眺望は素晴らしいものでした。白石さんによると、目の前に住宅が立ち並ぶ前はもっと眺めがよかったとのこと。







 以上で2日目の予定が終了。この日は和泉市の素晴らしさを感じた一日となりました。


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博物館実習レポート(vol.1)

2018年11月06日 | 学芸員資格・博物館
 10月30日から11月4日までの6日間、大阪府和泉市にある「和泉市いずみの国歴史館」にて博物館実習を受けてきました。先日の日曜日に6日間のカリキュラムが無事に終了しましたのでこの場で実習の様子を順に報告していこうと思います。今回は初日の様子をレポートします。

 初日の実習開始は11時だったので10:45頃に館に到着。「おはようございます。本日よりお世話になります。よろしくお願いします。」とまるで新入社員に戻ったような気持ちで事務室に入りました。ただ、10日ほど前の10月21日に実習受入れのお礼とご挨拶のために事前訪問していたので、それほど緊張することはありませんでした。

 11時少し前に私を指導いただく館長代理の白石さんからお声がかかり、いよいよ実習がスタート。まずはオリエンテーションです。6日間のカリキュラムの説明を受けました。事前訪問の際に伺っていた内容と少し変更があって「刀剣の取扱い」が加わっていました。この小さな歴史館で刀剣を所蔵しているんだ、と少しばかり驚くとともに、刀剣を取扱えることにドキドキとワクワクの気持ちが沸いてきました。2日目には発掘調査の見学が組まれていたのですが、発掘作業を体験させてくれるというのを伺って嬉しいやら申し訳ないやら。そして5日目の予定に入っている「自主企画展の発表」についての説明があり、テーマは何でもいいからこの博物館の展示室を使った展示を企画しなさい、というものでした。事前訪問でカリキュラムを拝見したときにすでに組まれていたので、少しずつ考え始めて情報収集をやりかけていたのですが、私が考えていたのはミニ展示のようなもの。それが広い展示室を全部使って、ということだったので完全に当てがはずれてしまいました。それ以降、昼食や休憩の時間、館への通勤や帰宅までの時間、帰宅してからの時間、ほとんどすべての時間をこの展示の企画と関連情報の収集、企画書作成に費やすことになりました。

 そんなこんなでカリキュラムの説明を聞いた後は、館内のバックヤードと展示室を案内していただきました。展示室はひとつしかなく、この期間は秋の特別展「時をかける文書(もんじょ)」を開催中で、残念ながら常設展を見ることができません。そうです、展示室がひとつしかないということは特別展や企画展があるたびに展示の入れ替えが発生するのです。これは学芸員さんにとっては大変なことだぞ、と思いました。

 午前の部が終わるとランチタイムです。すぐ近くに桃山学院大学があって、キャンパス内の学生生協やコンビニで弁当やおにぎりなどを買うことができます。初日は白石さんについて行って場所を教えてもらいました。これは便利だ。

 さて、この日の午後は「土器の洗浄」です。最初は大きくて丈夫な瓦の洗浄。タワシや大きなブラシでゴシゴシ擦っても大丈夫なので思い切ってできました。次は弥生土器の破片です。弥生土器は薄くてデリケートなので小さなブラシや筆を使います。ここで私の几帳面な性格が災いしました。こびりついた土をきれいに全部落さなければいけないと思い、ゴシゴシはしないけど、そーっと何度も丁寧に擦ります。土が落ちたかどうか親指の腹でさわって確かめます。けっきょく擦りすぎて土器の紋様が消えたり、土器の土が溶け出したり、しまいには小さな破片がひとつパキっと割れてしまいました。大切な出土遺物を壊してしまいました。本当に申し訳ありませんでした。白石さんが見かねてもう一度要領を教えてくれました。次からは大丈夫だと思います。洗い終わった土器片はカゴに並べて日陰で乾かします。この洗浄作業、小さな破片がいっぱいあれば慣れた方がやったとしてもそこそこ時間がかかりそうです。部屋の中には土器片の入ったコンテナが山積みになっています。コツコツ地道にやるしかないものの効率性も必要だなあ、と感じました。

 夕方になって土器洗浄を終え、事務室に戻って、和泉市教育委員会が小学生向けに実施している「文化芸術科学ふれあい体験事業」で使用されている「発掘調査へレッツゴー!」というスライドを見せていただきました。和泉市は遺跡が多く、池上曽根遺跡や和泉黄金塚古墳など全国的に知名度の高いものもあります。小さい頃から発掘調査を体験するなど、遺跡や遺物に触れて地域の歴史や文化を身近に感じてもらえるような取り組みを地道に積み重ねていくことで、それらを守り、次世代に受け継いでいくことの重要性や必要性を感じる人材が育ってくるのだと思います。

 以上が初日の実習内容です。社会人実習生でしかも不器用とあって、これは扱いにくいだろうなあと思うのですが、指導担当の白石さんは終始にこやかな笑顔で接してくれました。明日はいよいよ発掘現場です。


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博物館実習が始まります

2018年10月28日 | 学芸員資格・博物館
 博物館学芸員の資格取得のために今年4月より通信制大学で学んでいますが、9月までの春期で8科目16単位の修得を終え、残すは博物館実習の3単位のみとなっていました。
 実習の受入れ館を探すにあたっては、まず東京23区や大阪の自宅から通える府内の歴史系博物館のホームページを片っ端から調べてみたところ、ほとんどの館での実習受入れ期間が学生の夏休み期間である8月となっていました。10月とか11月とか、8月ではない館も少しはあったのですが、いずれの場合においても申し込み期間が1月以降となっており、今年の10月以降にすぐに実習ができそうな博物館を見つけることができませんでした。
 半年間をムダに過ごして来年8月になってもやむを得ないという気持ちになる中、ダメ元で受入れ可否を問い合わせるメールを順番に送ってみることにしました。「残念ですが、、、」という返信が続くなか、大阪府和泉市にある「いずみの国歴史館」から実習受入れが可能との連絡をいただきました。嬉しかったなあ。
 館の設置者である和泉市と大学との文書を通じたやりとりによって正式に実習の受入れが決定し、さらに私自身が直接電話をかけて何度かのやりとりをさせていただいた結果、以下のように10月30日~11月4日の計6日間の予定で実習カリキュラムを組んでいただくことができました。

10月30日(火)
 ・オリエンテーション
 ・考古資料整理作業(土器洗浄)
10月31日(水)
 ・発掘調査見学(池上曽根遺跡)
 ・他館見学(信太の森ふるさと館)
11月1日(木)
 ・考古資料整理作業(土器接合・土器注記)
 ・考古資料取扱い(作品調査)
11月2日(金)
 ・歴史館特別展分析
 ・展示用梱包材製作
11月3日(土)
 ・近世資料取扱い
 ・拓本
 ・自主企画展発表
11月4日(日)
 ・文化財関連イベント
  (市史歴史ウォーク・久保惣記念美術館)

どれも楽しみでワクワクしています。とくに2日の特別展分析と3日の自主企画展発表は自分の考えを出さなければならないので今から頭が回り始めています。こんな本も買ってしまいました。

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 この実習を受けるために4日間の有給休暇を取得するのですが、これだけ長期の休暇は30年以上の会社勤務において、新婚旅行、30周年永年勤続旅行に次いで3回目となります。ただ、この4日間の休暇が業務にほとんど支障がないのは幸いでした。というよりも実は、実習スケジュールの決定にあたって希望を伝えたところ、その希望を受け止めていただいたという館側のご配慮のお蔭です。いずみの国歴史館の皆様をはじめ、関係者の皆様には本当に感謝しております。まもなく実習が始まりますが、何卒よろしくお願いいたします。
 
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環濠集落と高地性集落

2018年10月17日 | 雑感
 今年、何度も何度も日本列島を襲った大型台風や暴風雨による河川の氾濫などの大きな被害の状況をテレビやネットで見ていて、被害にあわれた方々に対するお見舞いの気持ちを抱くとともに、不謹慎と思いながらもある考えが頭に浮かんだ。

 大自然の猛威に対して、現代の治水技術、土木技術をもってしても防ぐことができない河川の氾濫。これが縄文時代や弥生時代といった古代だったらどういうことになるのだろうか。人間が生きていくためには水は欠かせない。そしてその水の主たる供給源は今も昔も河川である。したがって水の獲得だけを考えれば河川の近くに住むのが合理的である。しかし、毎年いくつもの台風が襲来する日本列島で、河川の氾濫を防ぐための堅牢な堤防やダムを築く技術のない古代においては、河川の近くに住むことは危険極まりないことであった。ひとたび大雨が降ると河川は氾濫し、周辺のものは全て流されてしまうことになる。だから、古代のムラはたいていの場合、台地や河岸段丘の上、あるいは平地であっても微高地と呼ばれる周囲よりも少し高くなったところに設けられている。生活のために必要となる水を汲んで高いところへ運搬する労力よりも、河川の氾濫による被害から身を守ることを優先したと考えられる。

 弥生時代になると村の周囲に濠や壕を巡らせた環濠あるいは環壕集落が出現する。稲作中心の社会になって各地で集団による定住生活が定着すると、耕作地に近い低地にムラが形成されるようになる。するとムラどうしが耕作地や水資源、あるいは収穫物をめぐって互いに争うようになり、それぞれのムラは自らを防御するためにムラの周囲に濠や壕を巡らせるようなった。(水を貯えたものが濠、そうでないものを壕と表現するが、ここではまとめて濠と表すこととする。)環濠集落と呼ばれるもので、有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡では濠に沿って逆茂木が備えられており、環濠集落そのものが防御施設であることは間違いないと考えられる。しかし一方で、奈良県の大和盆地中央にある多重環濠集落で有名な唐古・鍵遺跡では、その環濠が浅くて防御機能を果たしえないという。この遺跡の多重環濠は河川につながっていたことから、上下水道の機能、あるいは運河の機能を果たしたのではないかと考えられる。

 そして現代における河川の氾濫による水害の映像を見て思いついたことは、環濠集落は水害からムラを守るために築かれたのではないだろうか、ということだ。現代のゲリラ豪雨のような猛威には抵抗できないであろうが、近くを流れる河川から水が溢れ出てムラを襲った際に周囲に濠があれば被害を緩和することができる。特に低地に設けられた環濠集落は敵からの防御とともに水害対策の目的があったと考えることができないだろうか。

 この発想をさらに拡げてみた。いわゆる高地性集落は実は暴風雨や大水害がムラを襲ったときの避難場所ではなかっただろうか。もちろん、ムラが敵から攻撃されたときの避難場所でもあり戦闘のための施設という位置付けであることは言うまでもない。両者の考えは矛盾するものではなく、むしろ両立するものである。高地性集落は東海地方、北陸地方よりも東側には存在せず、その分布は東海・北陸以西の西日本に限定される。これは台風の進路にあたる地域と一致している。環濠集落についても関東地方や東北地方において存在が認められるものの、その多くが西日本に分布する状況は同様である。環濠集落に関する報告書などを読むと、時代を経る中で環濠が幾度かにわたって埋められたり掘られたりを繰り返すという記事を眼にすることがよくある。これは河川の氾濫による土砂で埋まった環濠を掘り返して再建するということを繰り返したということではないだろうか。

 以上は何ら検証のできていない素人の思いつきの発想なので悪しからず。


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