古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆青谷上寺地遺跡

2016年10月04日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 次に因幡にある青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡。この遺跡も妻木晩田遺跡同様に鳥取県教育委員会のサイトなどを参考にまとめてみる。

 青谷上寺地遺跡は鳥取市青谷町の西側を流れる勝部川と東側を流れる日置川の合流地点南側に位置する弥生時代を中心とする集落遺跡で、国道および県道の建設に先駆けて発掘調査が行われた。典型的な低湿地遺跡であったため遺物の保存状態が良好で「地下の弥生博物館」と呼ばれている。
 弥生時代前期後半、潟湖(ラグーン)のほとりの低湿地帯に集落として姿を現し、中期後半に著しい拡大が見られる。集落の中心域の周囲を排水用の大きな溝で囲み、その溝は徐々に東に拡張されていく。この溝には260cm×70cmという大きな矢板(過去に発掘された弥生時代の板材の中では最大のもの)を数枚並べて杭で固定した護岸施設が設けられていた。弥生後期になると地形の高い範囲を取り囲むように溝をめぐらせて矢板列を幾重にも打ち込み、人々が活動した中心部と水田などの周辺の低地を区画していた。
 遺跡の東側の溝からは100人分をこえる約5300点の人骨が発見されている。それらのうち110点には殺傷痕が認められ、銅鏃がささったままの骨盤や額に刃物の傷をもつ頭蓋骨などがあった。さらに驚くべきことに3人の弥生人の脳が奇跡的に残っていた。これは世界でも6例しかない貴重な資料と言える。
 北陸や近畿、山陽地方の土器が出土、さらに鳥取では産出しないヒスイやサヌカイトなどが出土したことからも広範囲に交流をはかっていたことがわかる。また、500点をこえる鉄製品は中国・朝鮮半島・北部九州の特徴を持ったものが見られ、古代中国の鏡や「貸泉」も出土したことから、日本海を舞台にして中国や朝鮮半島をも含んだ広範囲の交流、交易があったことが伺える。また、海と山に囲まれたこの遺跡は稲作だけでなく、漁撈や狩猟を盛んに行っていたことも様々な道具類や獣骨などの出土物からわかっている。ラグーンのほとりに位置し、天然の良港として漁撈活動や対外交易を行い、航海技術に長けた人々が住んでいたと考えられ、モノや技術が行き交う港湾拠点として機能したと推測されている。
 これほど発展した集落であったが、古墳時代前期初頭に突如として姿を消すことになった。殺傷痕を持つ多数の人骨が関係しているのかもしれない。

 弥生時代後期における多数の殺傷痕をもった人骨。しかも兵士である男性に限らず、女性や子供にまで及んでいるという。また、そのあとに村が突如として終焉を迎えたという。これは明らかに戦乱による村の滅亡を物語っている。弥生後期といえば魏志倭人伝にある「倭国大乱」と重なる。青谷上寺地は倭国大乱で敗北を喫して滅んだ国、と考えてよいのではないか。



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