古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆丹後と中国江南のつながり

2016年10月10日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 記紀の出雲神話は出雲と越の関係を示唆する一方で出雲と越の間にある丹後には全く触れていないこと、山陰や越に多数確認されている四隅突出型墳丘墓が丹後にないこと、などから、丹後は出雲・越とは一線を画す別の集団が支配する国であったと考え、中国の江南方面から渡来した集団が形成した国ではないかと書いた。丹後と江南のつながりを示す痕跡はないものかと調べてみたところ、大浦半島の西端、京都府舞鶴市千歳にある浦入(うらにゅう)遺跡で発見された 「けつ状耳飾り(※)」と呼ばれる大型の土製耳飾りがあることがわかった。

※「けつ」は王へんに夬と書く。中国の河姆渡文化や紅山(こうざん)文化などでみられる玉器のことで、この玉器の「けつ」の形に似ていることから「けつ状耳飾り」と名付けられた。

 浦入遺跡は縄文時代から平安時代にわたる複合遺跡で、集落遺構や製塩遺構、古墳の存在などが判明しているが、この遺跡を有名にしたのは約5300年前の地層から発見された丸木舟である。全長8m、幅0.8m、舟底の厚さ5cmの大きさで、縄文時代の丸木舟としては最大級で、舞鶴湾の入り口近くで発見されたことから外洋航行に使用されたと推測されている。遺跡からは各地の縄文前期の土器が多数発見されており、当時相当広い範囲に渡って交流があった事が窺える。また、桟橋の杭のあとや錨として使ったと思われる大石など、当時の船着場と思われる遺構も出ており、この遺跡は日本海沿岸の交易拠点の一つであったと考えられる。
 その丸木舟と同時代の遺跡から見つかったのが「けつ状耳飾り」である。直径が6.5cmもあり、中国江南の河姆渡遺跡から出土したものに酷似していて、遠く大陸との交流の可能性が想定される。河姆渡遺跡は、1973年に上海の南で発見された遺跡で、紀元前5000年(約7000年前)の地層から稲籾とわら束が大量に発見され、分析の結果、この地が稲の栽培源流地であることがほぼ確定したと言われている。この稲が日本の縄文時代や弥生時代の遺跡からも多数確認されており、日本の稲作は江南から伝わるルートがあったことがわかっている。大きな耳飾りをつけた人々が稲作技術を携えて江南を出て、ここ丹後の浦入へやって来たのだ。



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