古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

日本武尊白鳥陵(葛城・纒向ツアー No.13)

2019年12月26日 | 実地踏査・古代史旅
 陽が沈みかけているので先を急がないと最後の新沢千塚古墳群に着くころには真っ暗になってしまいます。やって来たのは車ですぐの日本武尊白鳥陵(しらとりのみささぎ)です。

 御所市観光ガイドには「現在、宮内庁が治定している陵墓には根拠の薄弱なものが多いが、この陵もその典型と言える。記紀には戦野に死んで魂のやすまらなかった日本武尊は、白鳥となって三度羽根を休めたといい、そのとどまるところが現在、全て白鳥陵として治定されている」と書かれています。
 これは御所市教育委員会の見解です。たしかに日本武尊の陵墓は全国に3カ所もあるのでとりわけ怪しい。そもそも日本武尊の実在性を疑う考えもあるくらいなのでこの見解には同意ですが、行政が宮内庁の治定をここまで悪く書いて公開しているのは珍しくないですか。

 記紀における日本武尊の薨去の記事は少し違いがあります。古事記では、能褒野(のぼの)から白鳥となって飛び、河内国志幾(しき)に留まり、そこに「陵」を起こし、これを「白鳥陵」と呼んだが、のちにここからまたも白鳥となって飛び、ついに昇天したとなっています。つまり古事記における日本武尊(倭建)の陵は能褒野と河内国志幾の2カ所です。
 一方の日本書紀では、白鳥となって能褒野陵から出て、まず大和国琴弾原にとどまり、そこに「陵」を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市(ふるいち)邑に行きとどまったので、そこにも「陵」を造ったが、また白鳥となって天に上ったと記されます。日本書紀では、能褒野、大和琴弾原、河内国旧市邑の3カ所が「白鳥陵」ということになります。

 ちなみに、「陵」は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓に対して使う言葉なのですが、記紀において皇子の墓を「陵」と記すのは、日本武尊の能褒野陵と2つの白鳥陵だけです。
 宮内庁では次の3つの古墳を日本武尊の陵墓として治定しています。そして今回はこの大和琴弾原の陵にやってきたのです。

●能褒野墓(三重県亀山市田村町)
 遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末 の築造と推定されます。
●白鳥陵(奈良県御所市富田)
 かつては「権現山」・「天王山」とも呼ばれた。幅約28m×約45mの長方丘とされますが一説には円墳とも言われています。
●白鳥陵(大阪府羽曳野市軽里) 
 遺跡名は「軽里大塚古墳」、「前の山古墳」、「白鳥陵古墳」など。墳丘長190mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されます。


 さて、ここも駐車場がないので近くの道路脇に停めて歩いて向かいました。小さな村の中を通り抜けるとすぐです。





墳丘を囲むように設けられた小道を歩きます。











 墳丘の形は明確ではありません。円形を思わせるところもあるものの円墳とまでは言えない。かといって明確な長方形でもない。変形した前方後円墳と言うにも無理がある。そもそも本当に古墳なのか?とさえ思えてくる。感想としては「不整形墳」ということにしておこう。

白鳥伝説を記した説明板。


「大和は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる 大和し美し」


さあ、いよいよ時間がなくなってきたので先を急ごう。




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條ウル神古墳・條池古墳群(葛城・纒向ツアー No.12)

2019年12月24日 | 実地踏査・古代史旅
 室宮山古墳から條池古墳群へは東へ5分足らずで到着するのですが、その途中、京奈和自動車道の下をくぐります。そのすぐ北側に御所南インターチェンジと御所南パーキングエリアがあるのですが、この工事の最中にたいへんな遺跡が見つかっています。中西遺跡と秋津遺跡です。

 秋津遺跡からは古墳時代前期(活動の中心期は4世紀初頭)の方形区画施設、いわゆる豪族居館跡と呼ばれるような大規模な遺構が見つかっています。すぐ近くにある室宮山古墳の築造が5世紀初頭、南郷遺跡群が5~6世紀とされているので、それらよりも前の時代ということになります。2キロほど北にある鴨都波遺跡が弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡で、鴨都波1号墳が4世紀中頃の築造であったことからすると、秋津遺跡はむしろ鴨都波遺跡との関係で考えたほうがよさそうです。つまり、葛城氏に関係する遺構ではなく、鴨氏に関係する集落遺跡であったと考えられます。

 その秋津遺跡のすぐ南に広がるのが中西遺跡です。ここからは弥生時代前期の大規模な水田跡が見つかりました。2009年から継続的に実施された調査の結果、水田跡は延べ約43,000平方メートルにも及び、3メートル四方ほどの小さな区画の水田が3,000枚以上も確認され、弥生前期の水田跡としては全国最大規模となります。このあたりは現在も田畑が広がる地域ですが、遺跡は洪水による土砂に覆われていたことから一度は耕作を放棄したと考えられます。

 ここにこんなにも重要な遺跡があるのは知っていたのですが、京奈和自動車道がすでに利用が開始されていることから、もはや遺跡の確認はできないと思い込んで行程に入れなかったのです。しかし、ツアーを終えたすぐあとに橿原考古学研究所による現地説明会があると知ったときは少なからずショックでした。なんと、供用が開始された道路の東側では調査が続けられていたのです。しかも、これが広域調査の最後の機会だというのです。行程に組み込んでおけば調査中の遺跡を垣間見ることができたかもしれません。本当に残念。いずれの遺跡も3年前の記事「◆古代の葛城地方」に登場させていますのでご覧ください。

前置きが長くなりましたが、話を戻します。

 條池古墳群も條ウル神古墳もアザレアホールで学習したばかりなので親近感を持ってやってきました。企画展を見学していた地元のおばちゃんからは「すぐ近くには車を停めるところがないのでここに停めるといい」という場所まで聞いていたので、なんだか一度来たことがあるような気持ちにさえなっていました。

 車を停めて最初に徒歩で向かったのが條池古墳群です。ここには條庚申塚古墳、條池北古墳、條池南古墳の3つの古墳があります。一番手前の條庚申塚古墳はすぐにそれとわかります。



條池古墳群の説明です。

ここには巨勢山古墳群の條池支群として書かれてます。いずれも破壊が進んで正確な墳形や大きさは不明のようですが、6世紀以降の築造と考えられています。

墳丘の左手から踏み込んで墳丘に上ると小さな祠が建っていました。








 この祠があることから庚申塚古墳の名がついたそうです。アザレアホールではこの古墳の石室を確認するためにどうすればいいかを観光協会のおじさんと係員のおじさんがそれぞれの考えで教えてくれたのですが、観光協会のおじさんによると「墳丘を越えていけばいい」と言い、係員のおじさんは「右側から回り込めばいい」ということでした。

 今から思うと「墳丘を越えて」というのが、この祠の後ろの断崖を降りるという意味だったのでしょうが、怪しい風貌の観光協会のおじさんの言うことを鼻から聞くつもりはなく、係員のおじさんの言葉に従おうと思っていたので、このときにはここを降りる発想はまったくありませんでした。そして、墳丘を降りて右側から回り込もうとしたのですが、大変な茂みが行く手を阻みます。すぐにあきらめて左手に墳丘を囲むような小道があったのでそちらに進みました。しかし、ぐるりと墳丘を回り込むだけで肝心の石室がどこにあるかは全くわかりません。

右手に墳丘を見ながら進みます。




ついに墳丘を回り込んで反対側にある條池の堤防に出てしまいました。

堤防の斜面はおじさん達には少し危険な斜面です。そろりそろり、慎重に降ります。


これでほぼ一周したことになります。むこうに堤防が見えます。この左に墳丘があるのでこのあたりから藪の中へ入っていけないかトライしましたがダメでした。

ひっつき虫をとるのが大変。これでもかなり取ったあとです。


 このとき、冷静に観光協会のおじさんの言葉を思い出してよく考えていれば、さっきの祠の下に石室があるということが思いついたはず。もういちど祠に戻って裏に降りればよかったのですが、結局、難儀して墳丘を一周したものの、石室を発見することができずにあきらめることにしました。苦労したのに報われず残念でした。しかし、ここは自宅から1時間ほどで行けるので、近いうちにリベンジしたいと思います。




 條庚申塚古墳から歩いてすぐのところにあるのが條ウル神古墳。石室の穴に神様がいるという伝承から「穴神→ウル神」と称されるようになった、というのはアザレアホールで聞いた話。残念ながらここは私有地のために立ち入りができません。





 條池古墳群は南の巨勢山丘陵地に広がる巨勢山古墳群に属しています。御所市観光ガイドには次にように書かれています。

 この丘陵全体が巨勢山古墳群の範囲と考えられ、総数約800基により構成される、我国最大級の群集墳であり、前方後円墳4基と多くの径十数メートル前後の円・方墳から成っている。
 五世紀前葉、大形前方後円墳、室・宮山古墳の築造を端緒として背後(南側)の巨勢山丘陵に点々と古墳が構築され始める。五世紀代は木棺直葬墳を主体に築造され、徐々に群形成が活発化し、六世紀中葉にピークを迎える。六世紀前葉には横穴式石室を採用する支群が出現するが、その採否は支群により一様ではない。七世紀初頭に至って、群形成は若干沈静化を見せるが、古墳造営は継続され、七世紀中葉に、横口式石槨墳が323号墳として構築される。


 巨勢山古墳群はその名の通り、巨勢氏の墓域と考えられていますが、葛城氏の首長墓である室宮山古墳からすぐのところにあるため、むしろ葛城氏との関係で考えるのが妥当かと思っていたのですが、丘陵の東側に拠点をもつ巨勢氏が、葛城氏の勢力が衰えてきた6世紀以降に丘陵を越えてこちらの方に進出してきたと考えれば納得がいきます。條池古墳群が6世紀以降の築造とされていることがその傍証といえます。「宮山古墳の築造を端緒として」とする御所市の説明はいかにも葛城氏との関係を連想させるため適切でないように思えます。



 かなり陽が傾いてきました。次の目的地は東へ車ですぐのところにある日本武尊白鳥陵です。



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室宮山古墳・ネコ塚古墳(葛城・纒向ツアー No.11)

2019年12月22日 | 実地踏査・古代史旅
 室宮山古墳は葛木御歳神社から車で数分のところにあります。ここは駐車場がないので路上駐車を余儀なくされます。3年前の訪問時と同様に後円部の先端、墳丘の裾部にある八幡神社の入口付近に車を停めました。この八幡神社の存在から宮山古墳と呼ばれるようになったらしいです。

室宮山古墳の全景。

右が前方部、左が後円部。倍塚のネコ塚古墳から撮りました。

八幡神社。

八幡神社というからには祭神は応神天皇ということになりますが、なぜここに応神天皇を祀る神社ができたのかは定かではありません。

ここは第6代孝安天皇の室秋津島宮趾ともされています。


神武天皇遥拝所の碑も立っていました。


八幡神社の拝殿

左側の鳥居をくぐって階段を上ると後円部の頂上へ通じています。

 室宮山古墳は全長238メートルの前方後円墳で古墳時代中期前葉の5世紀初頭の築造と考えられています。金剛山と葛城山の間を縫って河内へ抜ける水越街道と大和から紀伊へ抜ける葛城古道の交わるところに葛城最大規模、築造当時としては大和最大級、全国でも第18位の規模の前方後円墳が5世紀初めに突如として築造されることになった理由はいかに。

 畿内の古墳群の隆盛は、まず3世紀中頃から4世紀、すなわち古墳出現期から古墳時代前期においては、纏向遺跡周辺に広がる纏向古墳群や山麓に沿って北側に展開される柳本古墳群、大和古墳群が栄えた後、古墳時代前期後葉から中期にかけて奈良盆地を北上した地に佐紀盾列古墳群が築かれました。その後、5世紀から6世紀、古墳時代中期から後期にかけては大和を出て河内に大規模な古墳群(古市古墳群、百舌鳥古墳群)が築かれるようになりました。
 佐紀盾列古墳群から古市古墳群や百舌鳥古墳群に勢力が移行する過渡期に、ちょうどその道中にあたる葛城の地に大規模な前方後円墳が築かれたことになります。この古墳の被葬者が河内の勢力と何らかの関係があるとする考え方があるようです。
 また、先に訪ねた鴨都波遺跡から出た4世紀中頃築造の鴨都波1号墳はその豊富な副葬品から当時のこの地の王であった鴨氏の首長墓と考えられること、その後に築かれた室宮山古墳は鴨氏から分かれた葛城氏の首長、すなわち葛城襲津彦の墓の可能性が高いこと、は「鴨都波神社(葛城・纒向 実地踏査ツアー No.4)」で書いた通りです。

 葛城襲津彦あるいは葛城氏が河内の勢力とどんな関係があったのか、あるいは河内勢力に劣らぬ規模の首長墓を築くだけの影響力を持っていたのか。これらの問いに対してはある程度の答えが出ているように思います。
 葛城氏は、襲津彦の娘である磐之媛を仁徳天皇の皇后として入内させて以降、4代にわたる葛城一族の娘たちを8人もの天皇の后妃や母親とすることで天皇家を上回るほどの権勢をふるいましたが、これらの8人の天皇の宮や陵墓は河内や北葛城を中心に設けられています。
 また先に見た通り、葛城の地から西に水越峠を越えれば南河内へ、北へ向かって大和川を下れば中河内から河内湖へ、南へ向かって風の森峠を越えて紀ノ川に出れば大阪湾へ、と葛城氏は背後から河内を囲むように朝鮮半島や大陸へつづく水運を掌握していました。

 以上のことから、室宮山古墳は葛城氏と河内勢力(河内王朝)との関係で考えることができそうです。とすると、被葬者はやはりその端緒を開いた葛城襲津彦と考えるのが妥当ではないでしょうか。
 その後、葛城氏はその勢力を北の大和川あたりまで拡大して奈良盆地の西側に広がる馬見丘陵一帯に4世紀から6世紀、つまり古墳時代を通じた大古墳群である馬見古墳群を形成するに至ります。


墳丘上への階段。かなり急な斜面です。


墳丘上はそれほど広くありません。

北側(向こう側)と南側(手前側)の2か所に埋葬施設があります。北側は石室の蓋石が見えるだけですが、南側の石室には石棺が収められた状態のまま保存されていて、その中を見ることができます。

北側の石室の蓋石。


南側の石室には石棺が収められています。

石室手前の小さなスペースに降りると石棺の中を見ることができます。岡田さんと佐々木さんが一緒に入りました。降りるのは簡単ですが、お腹が出てきた佐々木さんはここから抜け出すのに苦労したようです。

石室の左上の角。

上部が石室の天井(蓋)で左側が壁、右下に見えるのが石棺の蓋。ピッタリ収まっていますが、もう少し余裕をもって石室を造れなかったのでしょうか。

石棺は長持形石棺で半分が埋まっています。


石棺の内部。


ここに葛城襲津彦の遺骸が収められていたのでしょうか。

墳丘上に並べられていた形象埴輪(靫型埴輪)のレプリカ。

このほかにも盾型や甲冑型、家型などの形象埴輪が石室を取り囲むように並べられていたことがわかっています。


奈良県教育委員会による説明板。



さて、このあとは車をそのままにしておいて宮山古墳の陪塚であるネコ塚古墳を見に行きました。

ゴメンなさい。少し私有地に入らせていただきました。墳丘上は畑になっていて柿の木やミカンの木が植えられています。

 一辺が約70メートル、高さが約10メートルの方墳で、刀剣や鉄鏃に加えて短甲・頸甲などが検出されました。甲冑類が多いことから被葬者は武器庫の管理者と推定する説があるそうです。



墳丘からは葛城山や金剛山が奇麗に見えます。

山並を断ち切るように谷になっているところが水越峠(国道309号線)です。山の向こうの河内から峠を越えてまっすぐに東進するとこの古墳に至ります。

 さて、ここまで葛城氏や鴨氏ゆかりのスポットを見てきました。鴨都波遺跡は鴨氏が暮らした農耕集落で鴨都波1号墳は鴨氏の首長墓、鴨三社や葛城一言主神社は葛城氏・鴨氏の祖先神を祀る両氏の拠点、南郷遺跡群は要塞都市、政治都市、工業都市の要素を持った葛城氏が築いた先進都市、鴨神遺跡は葛城氏が押えた紀伊と大和を結ぶ要衝の地、室宮山古墳は河内王朝への影響力を持った葛城氏の首長墓。

 ここまでの踏査で古代において絶大な力を誇った葛城氏を十二分に感じることができました。ちなみに、時代が下った7世紀、時の権力者であった蘇我馬子はこの葛城の地を手に入れようと推古天皇に直訴したことが日本書紀に記されます。
その蘇我氏の時代に至る前、葛城氏の勢力が衰え始めたときに台頭してきたのがご近所の巨勢谷を拠点とする巨勢氏でした。次に向かう條ウル神古墳や條池古墳群ではそれを確認したいと思います。




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葛木御歳神社(葛城・纒向ツアー No.10)

2019年12月18日 | 実地踏査・古代史旅
 鴨神遺跡で古代の幹線道路を感じたあとは現在の幹線道路である国道へ出て風の森峠を一気に下っていきます。小殿北という交差点まで3キロほどで120メートルを下ります。奈良盆地はこの最南部から北に向かって大和川のあたりまではダラダラと標高を下げていくのですが、風の森峠は標高が260メートルほどで、そこから20キロほど北上すると大和川に突き当ります。その標高差はざっと220メートルになります。奈良盆地で最も低いところがこの大和川が流れるあたりで標高40メートルほどなので、盆地の四方の山々から流れ出た川はすべてそこに向かい、最終的には大和川一本になります。葛城山や金剛山の山麓の傾斜だけでなく、平地のダラダラとした傾斜があるのも奈良盆地の特徴かな。

 さて、葛木御歳神社は中鴨社とも呼ばれる鴨三社のひとつ。主祭神は御歳神(みとしのかみ)で、相殿神として大年神(おおとしのかみ)と高照姫命(たかてるひめのみこと)が祀られています。





 古事記には須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売命(かむおおいちひめのみこと)の間にできた子が大年神で、その大年神と香用比売命(かよひめのみこと)の子が御歳神であると記されています。ということは、親子の二柱が祀られていることになりますが、子どものほうが主祭神で父親が相殿神ということになります。子のほうがご利益が高いということでしょうか。

拝殿。


本殿。


 この本殿は春日大社の本殿第一殿を江戸時代に移築したものだそうです。ほかに参拝者がいなかったこともあり、靴を脱いで拝殿に上がって拝みました。

拝殿から本殿を。


 ところで、昔から正月になると少し大きな丸餅を重ねて鏡餅として供える風習がありますが、これは御歳神へのお供え物だそうです。だからこのお供え物のおさがりのお餅には御歳神の魂がこめられていて、これを「御歳魂(おとしだま)」と呼び、これが今でいう「お年玉」になったということらしいです。

 神社の創建は不詳となっていますが、もともとは背後の御歳山の磐座を依り代として祀っていたということなので、神社という形式が成立するよりも古くから祭祀が行われていたでしょうし、天安3年(859年)には従一位の神階を得ている格式のある古社でもあります。ただ、高鴨神社や鴨都波神社と比較すると境内も狭く、手水鉢にも空になっていたりして、どうしても見劣りがして寂れた感じは拭えず、岡田さんも佐々木さんも残念がっていました。
 でも私は3年前に初めて参拝して以来、お会いしたことはありませんがこの神社の再興に取り組んでこられた女性の宮司さんのことを知っていたので、むしろ「よくぞここまで再興された」という思いが強かったのです。神社の公式サイトのほか、こちらの記事のように様々なメディアで紹介されているので、ぜひ読んでいただきたいと思います。これらを読むと自ずと応援する気持ちがわいてきます。

 そして今回の訪問でおどろいたのは、境内に新しい祠が建てられていたことです。宮司さんが目標として取り組んでこられた祖霊社が建立されていたのです。あらためて宮司さんの努力に対して敬意を表さずにはおれませんでした。

新しく建立された祖霊社。


境内摂社。




 実は3年前に訪ねた時、境内に建つ摂社の石垣に小さな白い蛇を見つけたのです。宮司さんの頑張りで再興が進むこの神社を再訪してその時のことを思い出し、ここには本当に神様がいるんだと思いました。そんな様々な思いが込み上げてきたこともあって、今回は拝殿に上がって参拝させていただきました。

 神社のすぐそばには「みとしの森」というサロン&カフェがあります。なんと宮司さんは神社再興に注力するためにここに引っ越してきて、氏子さんや参拝者が集う場所まで作ってしまったのです。




 さて、この日の踏査も中盤を過ぎ、少しづつ陽が傾いてきています。このあとは葛城最大の前方後円墳である室宮山古墳、アザレアホールで学習した條ウル神古墳、掖上鑵子塚古墳など、古墳シリーズに入ります。少し先を急ぐ必要が出てきました。



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鴨神遺跡(葛城・纒向ツアー No.9)

2019年12月16日 | 実地踏査・古代史旅
 高鴨神社の参拝を終えたところで葛城山から金剛山にいたる山麓の標高の高いところの踏査は終了です。このあとは山麓を一気に下って奈良盆地の最深部ともいえる南西部を踏査します。まずは鴨神遺跡です。

 鴨神遺跡は南郷遺跡群同様に山麓の圃場整備に伴って大規模な調査が行われた遺跡ですが、なかでも調査地の東端に出た古墳時代の道路遺構が最も注目されます。5世紀後半から6世紀の頃、当時の大和政権あるいは葛城氏が大和と紀伊を結ぶために整備した官道とも考えられる道路で、奈良盆地の最南部、奈良県御所市から五条市へと抜ける風の森峠の上に位置しています。現在は国道24号線が西に出っ張った尾根を切り通して南北に直線的に通じていますが、古代においてはこの尾根を避けて山裾に沿って道路が敷設されていたようです。まさに、東西の交通の要衝である葛城を象徴する遺跡であると言えます。

道路遺構が出たところ。

右手に見える道路は山裾に沿って敷かれた現在の道路で、古代道路はその左側、まさにこの道に沿うように田んぼの下から見つかりました。国道24号線はさらに右手を走っています。

Googleの航空写真に少し手を加えました。

赤い線が推定される古代道路で、黄色の部分が上の写真の場所です。
 
 この道路は単に大和と紀伊を結ぶだけではなく、大和から紀伊へ入って紀ノ川を下り、大阪湾から瀬戸内海を通って対馬海峡へ抜けると朝鮮半島や中国大陸へ通じています。記紀において葛城襲津彦が外交を掌握する様子が描かれていますが、葛城氏が外交を掌握できたのはまさにこの道路を押えていたからである、と言っても過言ではないでしょう。

 ただ、この遺跡も南郷遺跡群と同様に現在は田畑の下に埋もれてしまっており、あたりはのどかな田園風景が一面に広がるばかりです。

金剛山地を見上げる風景。


 発掘された道路遺構は2.5m~3.3m で全長約130m にも及びます。固い地盤の部分は叩き締めた砂利敷きの上の黄褐色の粘質土を路面にしてあったり、軟弱な粘土の地盤部分では道路に沿って溝状に掘り下げ、砂を入れて路盤改良工事がおこなわれ、固い粘土の地盤部分では浅く掘り下げて砂をいれたり、部分的に砂利敷きにして路盤を作っていたそうです。これらのことから、地盤に応じた路盤工事を施すことによって道路を維持していることがわかります。

 なお、ネットに公開されている鴨神遺跡発掘時の写真があまりなく、あったとしても著作権者の承諾を得る必要があり、面倒なのでここでは私の撮った写真のみの掲載とさせてください。

 実は南の五条市から大和の中心地に向かうルートはこの風の森峠を越えるルートと、その東側、現在のJR和歌山線が走る巨勢谷を通る巨勢路ルートがありますが、古墳時代中期以前はこちらの風の森ルートが主要ルートであったとされています。そして古墳時代後期以降、葛城氏の没落後に巨勢氏が台頭して東側の巨勢路が主要ルートになっていったと想定されています。この想定はアザレアホールで学んだ條ウル神古墳と巨勢氏を考える理屈とまったく同じだと思いました。巨勢氏は葛城氏没落の機を逃さずに自身の勢力拡大に努めたのです。
 ひとつの道路遺構から葛城氏の盛衰、巨勢氏の台頭といった古代豪族の勢力争いを想像するのはなかなか楽しいですね。

 古代道路が通っていた峠、その峠に茂る木々、その木々を揺らして峠を抜けていく風、風の森峠とはよく言ったものです。



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高鴨神社(葛城・纒向ツアー No.8)

2019年12月14日 | 実地踏査・古代史旅
 念願の南郷遺跡群の踏査を終えたあと、もういちど山麓バイパスに戻って次の目的地である高鴨神社へ向かいました。高鴨神社は鴨三社のなかでも上鴨社と呼ばれて、これはやはり三社の中では最も格上ということになるのでしょう。それとも一番高いところに鎮座しているからかな。

 神社の駐車場はランチを予定していた蕎麦屋さん「そば小舎」の駐車場を兼ねています。ここまで頭も体もフル回転、しかも時刻はお昼時をとっくに過ぎています。神社を参拝する前に腹ごしらえです。メニューは5つくらいしかありません。岡田さんはきのこそばの大盛、佐々木さんはとり南蛮の大盛だったかな、私は鴨汁そば。鴨氏のふるさとに来ているのだからという理由で初めて食べる鴨汁そばでした。





 食後は店の奥にある小さな資料館「葛城の道歴史文化館」を見学しました。ここも床一面に奈良盆地の航空写真を貼り付けています。「今ここで、これまでこういうルートを辿ってここに行って、これから行くのはここ」てな具合で、葛城市歴史博物館でもそうでしたが、こういうのは会話が盛り上がりますね。

鴨都波遺跡からの出土品などが展示されています。



 腹ごしらえを済ませて高鴨神社を参拝します。この神社は、日本最古の神社のひとつで全国の鴨社(加茂社)の総本宮を名乗るほどに由緒のある神社です。鴨社の元宮ということはあの有名な京都の上賀茂神社や下鴨神社の元宮でもあるわけです。



 神社のサイトを見ると、主祭神は阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)で、その別名を迦毛之大御神(かものおおみかみ)としています。さらに「大御神」と名のつく神様は天照大御神、伊邪那岐大御神と三神しかいないととして、死した神をも甦らせることができる、御神力の強き神様であるとなっています。
 たしかに古事記において「大御神」は他に「天照大御神」、「伊耶那岐大御神」、「伊勢大御神宮」に用いられるのみであり、古事記における神への敬称としては最高のものであり、この敬称をこの神が持つことは、この神とこの神を祭った氏族との、ある時期における勢力の強大さを物語っているとする説があるようです。(3年前に鴨三社をまわったときの記事に高鴨神社の由緒などを載せているのでごらんください。)



 「阿遅志貴高日子根命」は日本書紀では「味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)」と記し、一般的には農耕神と考えられています。また、ここにあるように古事記には別名として「迦毛大御神」と記されています。 この神は大国主神の子であることから出雲系の神と考えられていますが、一方で、出雲国風土記に「坐葛城賀茂社」、出雲国造が就任した際に奏上される出雲国造神賀詞に「葛木乃鴨乃神奈備尓坐」などとあることから、大和国葛城地方、鴨氏の祭神とも考えられます。実際に出雲においてこの神を祀る神社はほとんどないことから、私は出雲の神ではなくて葛城の神であると考えています。









 鳥居をくぐった右手には釣鐘堂があって梵鐘が吊られています。池に張り出した能舞台も見事です。紅葉の盛りには少し早いのが残念でした。



 高鴨神社の参拝を終えた後は山麓を平地まで一気に下ります。ちょうど下りきったところが次の目的地の鴨神遺跡になります。



 


 


 

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南郷遺跡群(葛城・纒向ツアー No.7)

2019年12月12日 | 実地踏査・古代史旅
葛城山東麓の葛城一言主神社から名柄銅鐸出土地を経て、山麓バイパスをさらに南下すると金剛山の東麓に入ります。奈良盆地を一望できるバイパスあたりから東へ下っていく斜面はけっこうな急斜面で、標高140メートル~250メートルで100メートル以上の比高差があります。斜面一帯は一見すると段々畑が連なるのどかな田園風景が広がっていて遺跡を示す痕跡は何もなく、それとわかって来ない限り、ここに5世紀~6世紀の古墳時代の集落、葛城氏の拠点があったとは知る由もないでしょう。
 
 南郷遺跡群は東西1.7㎞南北1.4km、面積にしておよそ2.4㎢の広大な範囲におよびます。本格的な発掘調査の開始は、平成4年の橿原考古学研究所による県営の圃場整備事業に伴う事前の調査で、それ以降、圃場整備の事業地を中心に調査がおこなわれました。したがって遺跡はすべて埋め戻され、一帯には整備された圃場が広がっているばかりです。

南郷遺跡群の全体。左(西)から右(東)に向かって傾斜しています。

20か所以上の遺跡が密集しているのがわかります。中心が御所市の大字南郷に位置することからこれらを総称して南郷遺跡群と呼びます。(今回は極楽寺ヒビキ遺跡と南郷大東遺跡を訪ねました。)

上の図を航空写真で見るとこんな感じ。
山麓に段々畑が広がる様子がよくわかります。そして遺跡の痕跡がないのもよくわかりますね。

 調査を担当した橿原考古学研究所によると、この古墳時代の集落遺跡は主として5世紀前半~中葉の前半期と5世紀後葉~6世紀の後半期に内容が大きく分かれるそうです。
 前半期の遺跡は、祭祀儀礼関連の施設(極楽寺ヒビキ遺跡や南郷大東遺跡など)、朝鮮半島からの渡来人が推進したと考えられる鉄器生産を核とした手工業生産関連施設、それらに従事したと考えられる集団の居住施設などが見られます。
 後半期は、大壁建物が各所に樹立されて、技術者系ではなく知識人系渡来人が主導する集落へと大きく変貌したようです。高所に大型倉庫群、低所に居館状遺構が造営され、中間層の知識人系渡来人の居住区や一般層居住区が各所に配置されています。

 これらのうち、今回は極楽寺ヒビキ遺跡と南郷大東遺跡を訪ねたので、以下にそのときの様子を報告します。

極楽寺ヒビキ遺跡

 石葺きの護岸を持つ濠に囲まれた古墳時代中期(5世紀前半)の大型掘立柱建物跡が見つかりました。建物跡は約15m四方の高床式で四面に庇があったと考えられ、柱の太さが約40cmであったことなどから、高さが10メートルほどの2階建ての楼閣のような建物と考えられています。いわゆる豪族居館と言われる建物ですが、葛城氏の首長が祭祀と政治を行った中心施設と思われます。柱跡に火災での焼失を示す痕跡があるため、日本書紀に次のように記される葛城円(つぶら)大臣の居館ではないかとも考えられています。

 眉輪王(まよわのおおきみ)の父である大草香皇子は第20代安康天皇によって罪なくして殺害されます。これを知った眉輪王は父の仇として天皇を刺殺します(眉輪王の変)。葛城円は逃亡してきた彼を屋敷に匿うものの、大泊瀬皇子(後の第21代雄略天皇)の軍勢に攻め込まれ、屋敷もろとも焼き殺されたといいます。葛城円は葛城襲津彦の直系三代目であり、ここに葛城本宗家は滅亡したとされています。

 この極楽寺ヒビキ遺跡は奈良盆地を一望する標高240メートルの高台に立地しています。金剛山から流れ出る小川が西側から北側を囲むように深さ10数メートルから20メートルほどの谷を形成し、南側および東側もその支流によって数メートルから10メートル近い深さの谷で囲まれ、2つの川は東北部で合流しています。つまりこの建物に近づくためには南西部の一本道を行くしかないのです。

地形図を見るとよくわかります。

東側から発掘時の写真。(橿考研による現地説明会のときの資料から)
左上が南西部になります。遺跡全体が木々で囲まれていますが、これは谷川の両岸に茂る樹木です。

南西部から。(同上)
奈良盆地に向かう眺望が開けています。

葺石で護岸された建物を囲む堀。

 実際に行ってみると葛城氏がなぜここに屋敷を構えたかがよくわかりました。攻めてくる敵を発見しやすい眺望、侵入を許さない四方を囲む谷、さらには屋敷を囲む堀と塀。まさに天然の要塞に設けられた防御を主目的とする城のような施設であったことがわかります。5世紀の葛城の地にこのような施設を建設するのはやはり葛城氏以外には考えられないですね。では、その要塞に近づいてみましょう。

ナビの設定ミスで少し離れたところに車を停めて歩きます。
帰りに撮った写真なので岡田さんと佐々木さんは車に向かっています。林の向こう側が遺跡です。すぐそこに見えているのに谷に阻まれて行くことができないのです。
ぐるっと遠回りして金剛山に向かって登って行きます。

ここを右に曲がります。結構な高低差がありますね。

ここから一本道です。この上でさらに右に曲がります。

この奥で再び右に曲がります。

突き当たりを左に曲がります。この向こうは谷になっています。

右側は谷です。

遺跡に通じる唯一の道です。

いよいよこの道の先です。


見えてきました。

一本道を抜けると目の前に田んぼが広がっています。



 説明板も何もないので、ここが遺跡だとは全くわかりません。遺構はこの田んぼの下に保存されているらしいのですが、どういう方法で保存されているのでしょうか。単に埋め戻しただけ、ということかな。大阪府和泉市にある日本最大級の環濠集落である池上曽根遺跡は遺構の上に道路を敷設する際に鉄板をかぶせて保存したと聞きましたが、ここは田んぼなので水を通さない鉄板はないだろうな。

 実際に行ってみると、本当にこのルート以外では近寄れない場所でした。そういう意味で攻めにくい場所ではあるものの、それほど広くない場所なので大量の兵を待機させておくことはできそうにない。したがって、一本道といえども圧倒的な人数で攻め入れば屋敷を囲んでしまうことは簡単にできそうだし、実際に大泊瀬皇子はそのようにしたのでしょう。そうなれば兵糧攻めでも焼き討ちでも何でもできてしまう。案外もろい要塞と言えますね。

南郷大東(おおひがし)遺跡

 南郷大東遺跡は極楽寺ヒビキ遺跡を少しばかり東に下っていった坂道の途中にあります。斜面を流れる幅6mほど、深さ1.2mほどの小川を石積みで成地造成してせきとめて水を溜め、そこから木樋で小屋に導水して水の祭りをした全長25mの導水施設と考えられています。

 柵で囲まれた小屋の中で何らかの祭祀が執り行われたことが想定されます。小屋周辺から木刀・弓・盾・琴・サルノコシカケ・桃の種などの祭祀用具や多量の「焼けた木片」が見つかり、祭りが夜に行われたことがわかっているそうです。当初はトイレ跡という考えも出されて議論があったようだが、現在では導水施設との考えが定着しているようです。

 ここも極楽寺ヒビキ遺跡とならんで南郷遺跡群を代表する遺跡だと思います。学会では祭祀遺構かトイレ遺構か本気で議論されたようですが、どう考えてもトイレであるはずがないと思います。ここにトイレがあるくらいなら、ほかでも見つかっているでしょう。仮に5世紀にはトイレが一般的でなく豪族だけに許された設備であるとするなら葛城本宗家の屋敷である極楽寺ヒビキ遺跡にあるべきでしょうし、ここが葛城氏専用トイレだとするなら極楽寺ヒビキから歩いて15分は遠すぎます。そもそも、藤原京で初めてトイレ遺構が出たときには寄生虫や様々な食物に含まれる種子や骨などが見つかったことなどからトイレ遺構と判断されたのであって、ここはそういうものが出ておらず、逆に琴や桃の種が見つかっていることから何らかの祭祀遺構であると考えるのが妥当です。

 ただ一方で、その位置関係から極楽寺ヒビキ遺跡との何らかの関連を考える必要がありそうです。今は答えを持ち合わせていませんが、ここで行われた祭祀が葛城氏の管理下での儀式であったことだけは間違いないでしょうね。

斜面を下る農道の左側で遺構が見つかりました。



岡田さんがガイドブックを見ながら確認しています。


自作のガイドブックに載せた写真と比較してみました。


農道わきの細い側溝には今でもきれいな水が流れています。

この遺跡も完全に埋め戻されているので遺構が埋まっているとは気がつきません。ただし、現在は棚田になっていますが、ここにあった導水施設は斜面に沿って水が流れるような施設だったので、古代には棚田はなくて自然の傾斜のままであったと言えるでしょう。とすると、この周囲は木々が生い茂っていたのか、それとも草原のような状態だったのか、少なくとも今のような開放的な雰囲気はなかったのではないでしょうか。

事前学習で見学した古代オリエント博物館での展示です。

稲刈りの終わった棚田の中に立って、目に入ってくるのは青い空と金剛山地、そして眼下に広がる奈良盆地。十分に古代を感じることができました。以上、南郷遺跡群のレポートでした。


 
 

 
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名柄銅鐸出土地(葛城・纒向 実地踏査ツアー No.6)

2019年12月10日 | 実地踏査・古代史旅
今回、綏靖天皇の葛城高丘宮址へ行くのに少しだけ葛城古道を歩いたのですが、葛城山麓を山沿いに縦断するこの古道はなかなか風情があってよかったです。いつかこの葛城古道をスタートからゴールまで歩いてみたいという気持ちになりました。

 さて、葛城高丘宮址から車に戻って次の目的地である名柄銅鐸出土地へ向かいました。ここは事前に場所を特定するのに難儀したところです。その説明はあとにするとして、まずはここから出土した銅鐸と鏡について、御所市の広報紙や国立博物館による文化財紹介サイト「e国宝」を参考に紹介します。

 名柄銅鐸出土地としていますが、実は銅鐸とともに鏡(多紐細文鏡)も一緒に出ています。銅鐸と鏡が共伴(一緒に出土)することは全国的にも極めて稀(おそらくここだけ)であり、しかもいずれもが大変珍しいものであることがわかっており、ともに国の重要文化財に指定されて東京国立博物館にて所蔵されています。

 銅鐸は高さが25センチと比較的小型のもので身の主文様が片方の面には流水文が、反対の面には袈裟襷文が施されるというきわめて稀な文様構成をもつものです。銅鐸の変遷過程では4段階のうちの第2段階目(外縁付鈕式)に位置づけられ、製作時期は紀元前2世紀ころとされています。銅鐸の変遷過程の4段階とは、銅鐸を吊り下げるための紐(鐸身の上についている半円状の部分)という部分に着目して、その形状の変遷をみるもので、第1段階が菱環鈕式、第2段階が外縁付鈕式、第3段階が扁平鈕式、第4段階が突線鈕式といった変遷を辿ります。第1段階が古くて第4段階が新しいということになります。

 一方の銅鏡は、中国系の漢式鏡とは違って鈕が2か所についています(多紐)。鏡背にはきわめて緻密な幾何学文が鋳出され、繊細かつ幾何学美にあふれています(細文鏡)。この種の鏡は朝鮮半島から蒙古・中国東北地方を中心に数多く発見されていますが、日本ではこれまでに数百面の鏡が出土していますが、この多紐細文鏡は11面の出土例しかないそうです。

 これらの銅鐸と鏡は大正7年(1918)の溜池工事の際に偶然発見されたものです。今回この地を訪ねるにあたって事前にその場所を特定するためにネットで調べまくりました。ほぼこのあたり、というところまでわかるのですが、発見当時にあった溜池は埋められて現在は老人ホームが建っていて、出土地に立っているはずの石碑と説明板を見つけることができないのです。

だいたいこのあたり。左が1976年、右が現在の航空写真。
溜池がなくなってあたらしい施設が建っているのがわかります。

 Googleストリートビューでこの一帯を何周も回りましたがわかりません。結局あきらめて行程からはずそうと思ってガイドブックにも書きませんでした。そしてツアーの前週、仕事で使っているiPhoneが機種変更で新しくなったので設定作業や確認作業をしながら改めてGoogleストリートビューを見ていると、なんと老人ホームの横にそれらしきものが見えるではありませんか。

拡大してみるとまさに石碑と説明板です。

これまで見落としていたのか、それとも機種変更で解像度が上がって認識できるようになったのか、いずれかは定かではありませんが、これで場所が特定できました。これだけ苦労したのだからどうしても行かねばなりません。

そして撮影したのが次の4枚。




これを見るため、これを写真に収めるためにどれだけ時間を費やしたことか。だから、ここに立った時には密かに感動していました。

 この半年ほど、私は銅鐸あるいは青銅器のことを考え続けています。銅鐸は何のために製作されてどのように使われたのか、大きさ・形状・文様などが変遷してきた意味は何だろうか、銅鐸を製作して使用した集団は大和政権成立の過程にどんな関与があったのだろうか。まだ確たる自分の考えを持てていないのです。佐々木さんも銅鐸がキーになると考えているようです。葛城から出た銅鐸がこの1個だけ、というのを聞いて少しがっかりしていたのが印象的でした。

 さて、岡田さんの一服タイムも終わって、次はいよいよ南郷遺跡群です。葛城あるいは葛城氏を考えるとき、絶対にはずせない遺跡です。


 
 
 

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葛城一言主神社・綏靖天皇葛城高丘宮趾(葛城・纒向 実地踏査ツアー No.5)

2019年12月08日 | 実地踏査・古代史旅
 葛城一言主神社は葛城山の東麓、ここから下は傾斜が緩くなって田畑が広がるという山と里の境目に葛城一帯を見下ろすように東面して鎮座しています。木々が社殿に覆いかぶさるようにすぐ裏まで山が迫っています。ここは佐々木さんが是非行ってみたいと言っていたところです。
 鴨都波神社から車で10分ほど、南に向かう山麓バイパスを降りて突き当りを右折、西にまっすぐに伸びる道がそのまま参道になっています。鳥居を過ぎたところにある駐車場に車を停めて歩きます。

参道の途中に立つ鳥居。


神武天皇が東征の折にここで土蜘蛛を討ったという伝承に基づく蜘蛛塚が鳥居のすぐそばにあります。






 石段を上がったところにある境内はそれほど広くない、というよりも狭いです。その狭い境内に、由緒ある神社にしては小振りだけど立派な社殿がデンと構えています。






祭神は葛城之一言主大神と幼武尊(第21代雄略天皇)の二柱で、以下は神社のパンフレットにある由緒です。

本社に鎮まります一言主大神は、第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に、顕現されました。
一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言(いちごん)さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。
当社は全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社であり、全国各地には当社に参拝するための講があり、現代にも篤い信仰を集めています。


 ここにみえる説話は前回の鴨都波神社の報告で紹介した通りです。神社の創建は不詳ですが、鴨都波神社の創建とそう変わらない時期ではないでしょうか。鴨氏あるいは葛城氏が葛城一帯に睨みを利かせるためにこの葛城山東麓の地に祖先神を祀る社を建てた、と考えられなくはない。



境内に生える推定樹齢1,200年の大イチョウ。

たくましい生命力を感じずにはおれません。

 さて、参拝を済ませた後、境内を出て少し歩きます。さきほどの参道が神社の右手からさらに山側に入り込んでいくのでそれに従って進みます。向かう先は第2代綏靖天皇の葛城高丘宮趾です。実は3年前にこの神社を参拝した時、この宮趾の石碑が見たくて同じ道を車で行ったところ、すぐに行き止まりになって進むことができず、石碑を見るのをあきらめて引き返した経験があったので、今回は何としてでも見たいと思って岡田さん、佐々木さんに付き合ってもらいました。20分ほどの葛城古道散策は秋晴れの青空のもと、たいへん気持ちのいい時間となりました。

古道からの風景。






遠くにこれから行く室宮山古墳が見えます。


宮趾の石碑。これが見たかったのです。




 日本書紀によると、第2代綏靖天皇は初代神武天皇の第三皇子で、母は事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)となっています。事代主神(=一言主神)が祀られる葛城一言主神社のすぐ近くにその孫である綏靖天皇の宮があったとしても不思議ではないですね。



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鴨都波神社(葛城・纒向 実地踏査ツアー No.4)

2019年12月06日 | 実地踏査・古代史旅
アザレアホールを出て次の目的地、鴨都波神社に向かいました。地図を頭に入れていたのでナビを設定せずに走り出したのですが、少し走るといきなり進入禁止の標識。迂回しようと左折すると道が細く入り組んでいる。ここは安全策をとっていったんアザレアホールまで戻ってナビに従うことに。5分ほど走ると突然に見覚えのある石の鳥居が現れました。

鴨都波神社の一之鳥居です。

境内の手前にある駐車場に車を停めて徒歩で参拝です。


以下、神社公式サイトからの転載です。

 鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。
 おまつりされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあります。
 また、一般的には「えびす神」という呼称で、商売繁盛の神様としても有名です。
 そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。
 当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。
  彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。


 このあと行くことになっている高鴨神社が上鴨社、葛木御歳神社が中鴨社、そしてこの鴨都波神社が下鴨社とされ、三社合わせて鴨三社と呼ばれています。鴨都波神社が祀る事代主神はもともと鴨族が信仰していた神であることから、当社が事代主神の信仰の本源であるとされています。そして神社の下に広がる鴨都波遺跡は弥生時代における南葛城最大の拠点集落で、弥生時代前期から古墳時代後期にかけて長期間営まれ、多数の土器や農具が出土しています。このことから、古くからこの地に鴨族が住みついて農耕をしていたと考えられています。



 鴨都波遺跡は葛城山麓から東に延びる低い丘陵の東端に立地しています。高床式建物と見られる柱列、矢板を打ち込んだ柵列、竪穴式住居、大溝、木器貯蔵穴などが検出されたほか、木器、土器、石器などがたくさん出土しており、弥生時代中期に入ると和歌山県でよく見られる「紀伊型甕」がこの鴨都波遺跡でも見かけられるようになります。南に向かって風森峠を越えるとすぐに紀伊国。その紀伊国との近しい関係がうかがえます。
 また、神社のすぐ西側を南北に走る国道を隔てた反対側では古墳が発見されました。20m×16mの方墳で4世紀中頃の築造と推定されています。鴨都波1号墳と名付けられた古墳には高野槙で作られた木棺が納められ、三角縁神獣鏡4面をはじめとして多くの副葬品が出土しました。その後5世紀前半になると、2キロほど南へ行った室の地に全長が200mを越す巨大な宮山古墳が突然出現します。4世紀中頃の鴨都波1号墳と5世紀前半の室宮山古墳。わずか数十年しか隔たっていないこの両古墳の被葬者は関係があると考えられます。

 鴨都波1号墳の被葬者はその副葬品から考えると鴨氏の首長とするのが妥当でしょう。一方の室宮山古墳は葛城氏の首長である葛城襲津彦の墓とするのが有力な考えです。私は鴨氏から葛城氏が枝分かれしたと考えています。少なくとも両氏族は大変近しい関係にあると思います。
 鴨氏が奉祀するこの鴨都波神社の祭神は事代主神であることから、事代主神は鴨氏の祖先神と考えられます。一方で、このあと訪ねる葛城一言主神社の祭神である一言主神にまつわる説話が記紀に次のように記されます。第24代雄略天皇が葛城山中で狩りをしていたときに天皇と同じ姿をしたものが現れました。天皇が名を問うと自分は一言主神であると名乗り、それを聞いた天皇は大刀・弓矢・衣服などを献じて拝礼して(このくだりは日本書紀にはない)一緒に狩りを続けました。この説話から、天皇と対等な関係、あるいは天皇が一目置く関係をもつ一言主神が葛城氏であると考えられるのです。

 葛城氏は襲津彦のときに娘の磐之媛が仁徳天皇の皇后になって履中天皇・反正天皇・允恭天皇を生み、襲津彦の子である葦田宿禰の娘の黒媛が履中天皇の妃となりました。さらにその葦田宿禰の孫である荑媛は顕宗天皇・仁賢天皇を生んでいます。また、襲津彦の孫である円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として清寧天皇を生んでいます。結局、仁徳から仁賢に至る9人の天皇のうち安康天皇を除いた8人の天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになります。このように葛城氏は5世紀において天皇家に匹敵する、あるいは外戚として天皇家以上の権力を持っていたと考えられ、このことが背景となって前述の説話が生まれたと考えられるのです。

 以上のことから、鴨氏=事代主神=一言主神=葛城氏ということになってくるのですが、まあ、このあたりはいろんな考え方があるでしょうから、本当のところはよくわかりません。


 平日ということもあって境内には私たち3人だけです。すぐ隣にある国道をたくさんの車が走っているというのに木々に囲まれた境内は静かなものです。私たちが単なる参拝者であるなら、この境内の下に大きな遺跡が眠っていることなど想像だにできないでしょう。

 さて、鴨都波1号墳が出た場所には現在、済生会御所病院が建っています。この病院の増築工事の際に古墳が出たということで、病院内に出土品のレプリカが展示されています。時間の余裕があれば見学しようと考えていたのですが、あとの行程を考えればここで時間を食うのは得策ではありません。少しだけ後ろ髪を引かれながら次の目的地である葛城一言主神社へ向かいました。


 
 

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條ウル神古墳企画展(葛城・纒向ツアー No.3)

2019年12月04日 | 実地踏査・古代史旅
葛城市歴史博物館をあとにして車で10分ほど走ると御所市役所前にあるアザレアホールに到着です。ここで條ウル神古墳に関する企画展が開催されていることを知ったのはツイッターでした。ツイッターでは古代史や考古学に関連するたくさんの方々をフォローしているのですが、その中のどなたかのつぶやきを見て「これは行かねば」と思った次第です。実は前週に記念講演会が開催されるのを知っていたので聴きに行きたかったのですが、どうしても都合がつかずにあきらめたので、せめて展示は見ておきたいと思って行程にねじ込んだのでした。

 「條ウル神古墳 ~巨勢氏との関係を探る」と題した企画展がホール2Fのオープンスペースで開催されていました。ちなみに條ウル神は「じょうウルがみ」と読みます。條はこの古墳がある御所市の町の名前です。


 葛城氏の本貫地である葛城一帯はその東南部において巨勢氏の本貫地と接しています。そして條ウル神古墳はその巨勢氏の墓域と考えられている巨勢山古墳群がある丘陵地帯の北端に位置するため、巨勢氏との関係が説かれています。
 條ウル神古墳は全長が約70mの前方後円墳とされ、築造は6世紀後葉と考えられています。墳丘には蘇我馬子の墓といわれている石舞台古墳に匹敵する日本最大級の巨大な横穴式石室と、長辺側に3対、短辺側に1対の計8個の縄掛け突起(通常は4個あるいは6個)を持つ特異な家形石棺が見つかっており、被葬者は大和政権を支えた豪族である巨勢氏を率いた首長クラスの人物とみられています。







 出土品が少し展示されていましたが、基本的には解説パネルと写真が中心の展示になっていました。「ウル神というのは何ですか」と佐々木さんが係のおじさんに質問しました。記憶が定かではないですが「この古墳には大きな穴があり、昔からそこには神様がいるとされた。地元の人は穴神様と呼んでいた。穴という字を分解するとウとルになるでしょ」というような回答だったと思います。穴とは石室のことなのでしょう。そして「穴=ウ+ル」ということでウル神。この説ともうひとつの説を教えてもらったものの忘れてしまいました。どちらにしても「へえー、ホンマかいな」という感じ。

條ウル神古墳(6世紀後葉)だけでなく、市尾墓山古墳(6世紀初め)、市尾宮塚古墳(6世紀中頃)、権現堂古墳(6世紀中頃)、新宮山古墳(6世紀後半)、水沼北古墳(6世紀後半)、水沼南古墳(7世紀初め)、條庚申塚古墳、條池北古墳(6世紀後半)、條池南古墳(6世紀中葉~後半)など、近隣の古墳もパネルで紹介しています。條池北古墳、條池南古墳がもともと行くことにしていた條庚申塚古墳のすぐ南にあることがわかったので、そこにも行くことにしました。この3つを合わせて條池古墳群といいます。
またそれとは逆に、市尾墓山古墳と市尾宮塚古墳は当初は行程に入れていたものの、この企画展や新沢千塚古墳群を組み込んだためにやむなくカットした古墳でした。このふたつの古墳は巨勢山古墳群の東側、まさに巨勢氏の本貫地とされる巨勢谷にあることから巨勢氏の首長墓とされています。








 この企画展では、條ウル神古墳およびそのすぐ近くにある條池古墳群はその石室や石棺の特徴が巨勢谷にある巨勢氏の首長墓とよく似ていることから、これらの古墳が造られた6世紀後半には巨勢谷と一体の地域、すなわち巨勢氏の勢力範囲にあったと理解することができる、と解説されていました。

 この結論は一理あると思う一方で、直感的には受け入れることができないものでした。というのも、地理的に見れば條ウル神古墳や條池古墳群は、巨勢山丘陵上というよりも奈良盆地南端の平坦地、葛城襲津彦の墓とも考えられる室宮山古墳から数百メートルのところに位置していることから、むしろ葛城氏の勢力範囲にあると考えられるのです。実際に現地に行ってみるとそうとしか思えないのです。
 しかし、ここに時間軸を設定すると見方が変わってくる。葛城氏は5世紀の襲津彦のときに全盛期を迎えますが、その後に起こった眉輪王の変(456年)などによって本宗家は滅亡します。巨勢氏は葛城氏の勢力が弱まったのに乗じて巨勢谷から葛城地域へ進出して自らの勢力範囲に取り込み、6世紀以降はこの地に楔を打つように古墳を築くようになった、と考えることは十分に説得力があります。

 係員と親しそうに話をしながら見学しているヒッピー風の変なおじさんがいました。風貌は怪しいのですが、なんだかこのあたりの遺跡や歴史に詳しそうです。別の係員にこっそり聞いてみると観光協会の人だということです。ふたりの話に無理やり割って入って係員に「條庚申塚古墳の石室を見ることはできますか」と質問をしてみました。
 係員によると「墳丘には自由に入れますが、この季節は藪が茂っていて石室まで行くのが無理だと思う。でも見ようと思えば見れます。右手のほうからぐるっと回っていけば見つかると思います」という。一方、変なおじさんは「墳丘を越えて藪を踏み分けて降りていけば見つかるよ」といいます。それに対して係員が「いやあ、今の時期は無理でしょう。右のほうから行くのがいい」と返します。さらに変なおじさんは「大丈夫、大丈夫」と。う~ん、よくわからんけど、とにかく行けば何とかなるのかな、と思って「今から行ってきます」と言い残してホールをでました。岡田さんと佐々木さんはとっくにいなくなっていました。
 
 このレポートを書くにあたって再度調べてみるとよく理解ができるのですが、残念ながら展示を見学しているときにはあまり深く考えずに解説を読むので、点の情報が頭に入るだけでそれらが線や面になってつながりません。事前学習も一応やるのですが、これも点を集めるだけなので全体感がわかりません。やはり勉強というのは復習がいちばん大事ですね。私の場合は「ガイドブック作成→見学・実地踏査→ブログでレポート」というのがまさに「予習→授業→復習」ということになっています。

 さあ、次は鴨都波神社です。


 
 

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葛城市歴史博物館(葛城・纒向ツアー No.2)

2019年12月02日 | 実地踏査・古代史旅
2019年11月8日の金曜日、一週間前には雨模様の天気予報が一転、前々日あたりから曇りマーク、そして晴れマークに変わり、当日は爽やかな秋晴れとなりました。近鉄大和八木駅に集合した私たち3人は予約しておいた近くのレンタカー屋さんまで歩いていきました。

 手続きを済ませて車に乗り込んだ私たちが最初に向かったのが奈良県葛城市にある歴史博物館です。葛城の地理的な位置関係、どこにどんな遺跡があるかなど、まずは全体感の把握と基本情報の収集です。私はこの博物館には昨年も来たので展示内容はだいたい記憶に残っていました。



 受付で料金200円を払って入館。事前学習で訪ねた東京の古代オリエント博物館の900円とはえらい違いです。葛城市の歴史を紹介する映像を見た後、足元に貼られた葛城一帯の航空写真を見ながら「今どこにいるのか」「これからどこへ行くのか」という会話でプチ盛り上がり。この会話でこの日に巡るルートや個々の踏査地の位置関係の全体イメージがインプットされました。


 旧石器時代や縄文時代からの展示を順に見ていくのですが、岡田さんも佐々木さんも展示ケース内の資料は流していきます。そして岡田さんが食いついたのが露出展示されているふたつの円筒埴輪でした。特に鰭付円筒埴輪で盛り上がり、記憶があいまいですがこんな話をしました。「埴輪を並べるときに鰭の部分を重ね合わせたのか、重ねずに並べたのか、どっちやろう」「たぶん重ねたんでしょうね」「その方が隙間ができないからいいわ、多分そうやろ」。他愛もない会話ですが、見る人によって着眼点が違うということに改めて気づかされました。

話題になったふたつの円筒埴輪。左が楕円筒埴輪で右が鰭付円筒埴輪。

舟形埴輪。古代オリエント博物館の特別展にも同じような舟形埴輪が展示されていました。

博物館からほど近いところにある屋敷山古墳(5世紀中頃の前方後円墳)から出た長持形石棺。
複製とは書いていなかったので実物だと思います。

壁面の展示。








露出展示。

公立の歴史博物館で必ずと言っていいほど見られる昭和時代のお茶の間を再現した展示。
「これ、何の意味があるんやろう」と佐々木さん。私も同じような展示を見るたびにそう思います。

 しかし、平成が終わって令和の時代に入り、昭和時代のお茶の間を知らない人が増えています。今は価値を感じない展示ですが、あと何十年かすれば歴史博物館の展示資料として意味あるものになるかも知れません。ただ、それまでは収蔵庫にしまっておいてほしいと思います。これを通史展示の最後に見せられると興ざめなんですよね。

 隣の特別展示室では「葛城と磯長谷の終末期古墳 -竹内峠の西と東-」と題した特別展が開催されていました。この葛城地方は奈良盆地の南西部に位置しますが、その西には二上山、葛城山、金剛山と続く山地が連なっており、これらの山々を越えれば大阪府、いわゆる河内国に入ります。古代にこの河内と葛城を結んだ道路が日本最古の官道とされる竹内街道(現在の国道166号線)です。竹内峠を挟んだ西側、つまり河内側の山麓一帯は天皇陵4基(敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵)や聖徳太子墓を含む約30基の古墳からなる磯長谷古墳群があり「王陵の谷」と呼ばれています。特別展はこの磯長谷古墳群と葛城との関係性にスポットを当てた展示構成になっていました。






 この博物館は竹内街道にちなんだ特別展をよく開催しているように思います。昨年、学芸員の資格取得のために博物館教育論を勉強しているときに、まさにこの竹内街道沿いにある「大阪府立近つ飛鳥博物館」を取り上げて「博物館教育の実際 ~大阪府立近つ飛鳥博物館における中高生向け学習プログラムの模索~」および「私の考える博物館教育 -近つ飛鳥博物館における新しい学習プログラムによる地域再生への挑戦-」と題してのふたつのレポートを書きました。そこでは博物館の立地を活かして竹内街道を題材にした教育活動をひとつの例として提案しました。私が意図したことがもしかするとこの葛城市歴史博物館で実践されているのではないか、と思えてきました。

 それともう一点、実はこの博物館の常設展示は正直言って物足りない。この葛城地域には重要な遺跡が豊富にあるのに、それらに関する資料がほとんど展示されていない。おそらくそれらは発掘調査を担当した橿原考古学研究所など格上の博物館が所蔵しているのでしょう。市町村単位で設立される公立博物館の限界を見せつけられた気がするのですが、あらためて葛城市のホームページを見ると「金剛・葛城地域博物館ネットワーク協議会」と称して、近隣自治体の博物館によるネットワークがあることがわかりました。加盟館は、香芝市二上山博物館、市立五條文化博物館、水平社博物館、大阪府立近つ飛鳥博物館、太子町立竹内街道歴史資料館、千早赤阪村立郷土資料館、河内長野市立ふるさと歴史学習館、河内長野市立滝畑ふるさと文化財の森センター、となっています。まさに竹内峠を挟んだ両側の公立博物館が連携する体制ができているのです。これは少しうれしい気持ちになりました。

 1時間足らずの見学を終えて、受付で図録を買って出ました。次はたまたまネットで見つけた「條ウル神古墳企画展」が開催されている御所市役所前にあるアザレアホールへ向かいます。條ウル古墳はもともと行程に組み込んでいたので、この企画展を見つけたときは少し無理してでも行こうと思って行程に追加したのです。

 

 

 
 

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