古代日本国成立の物語

自称「古代史勉強家」。趣味は実地踏査と称して各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格の取得を目指して勉強中。

垂仁天皇(その5 伊勢の祭祀)

2017年06月26日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 垂仁25年に、天皇は阿倍臣の祖である武渟川別、和珥臣の祖である彦国葺、中臣連の祖である大鹿島、物部連の祖である十千根、大伴連の祖である武日の五人の大夫(まえつきみ)に対して先帝の崇神天皇を称えた上で、自分の代においても神祇を祀ることを怠ってはならない、と詔した。一人目の武渟川別は四道将軍の一人として東海地方に派遣された人物、二人目の彦国葺は武埴安彦の反乱を鎮圧した人物、三人目の中臣氏の祖である大鹿島は記紀では初登場で、諸家の系図を記載する「尊卑分脈」の藤原氏系図に見える国摩大鹿嶋命(くにすりおおかしまのみこと)がその人とされる。四人目の十千根は、先代旧事本紀や新撰姓氏録で饒速日命の七世孫とされ、垂仁26年に出雲へ赴いて神宝を検校して天皇に報告する役割を担った人物で、その後の垂仁87年に石上神宮に納められた剣一千口と神宝を管理する役割を与えられ、物部氏が石上神宮の神宝を管理する起源となった。五人目の大伴武日は景行天皇40年に日本武尊(やまとたける)が東国征伐に向かった際に従者に任じられている。
 
 天皇の詔のひと月後、天照大神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離して倭姫命(やまとひめのみこと)に託した。崇神天皇の時、天照大神と倭大国魂神を宮中に祀っていたが、神の勢いが強すぎたために天照大神を豊耜入姫命に託して大和の笠縫邑に遷した。「崇神天皇(その2)」では、神武王朝(狗奴国)と崇神王朝(邪馬台国)が1つにまとまることができなかった、すなわち対立が解消することはなかった、という主旨のことを書いたが、そもそも神武王朝の祖先神である天照大神が崇神王朝の宮中に祀られていたということは、和解のために神武側が妥協して自らの神を差し出したのか、それとも四道将軍の派遣などによって神武側の敗北がすでに決定的なものになっていたのか、のいずれかであろう。武埴安彦や狭穂彦がそれぞれ反乱を起こしたように、断続的な抵抗はあったが長くは続かなかった。狗奴国(神武王朝)は北九州倭国に勝利したものの、東征してきた大和の地で倭国の本丸である邪馬台国(崇神王朝)を制圧することができず、むしろに立場が逆転してしまったのではないだろうか。神武王朝は大和で返り討ちにあったのだ。そして邪馬台国(崇神王朝)は景行天皇の時に神武の故郷である九州の熊襲を征討することになるのだ。
 
 垂仁天皇は天照大神を祀る役割を異母姉(あるいは異母妹)の豊耜入姫命から自分の娘である倭姫命に譲らせた。豊耜入姫命が高齢であったからなのか、それとも天照大神を自分の目の届く状態にしておくために娘に担わせたのか。前者の意味は当然あるとしても、前述の状況から考えると後者の意味が強いような気がする。神武王朝の祖先神である天照大神をより直接的に管理できる状況におこうとしたのだ。
 倭姫命はその後、天照大神を鎮座させるべきところを探して宇陀、近江、美濃と順に巡って伊勢に着いたときに大神自らが「ここに居たい」と言ったので、伊勢に祠を立てて祀った。さらに斎宮を五十鈴川の川上に立てた。書紀はここが天照大神が初めて天より降りた場所であると記す。伊勢神宮(皇大神宮=内宮)の起源説話である。天照大神は天上の高天原から降臨した。それまでは天上界にいたので、あくまで地上で祀られていたのはご神体である八咫鏡である。しかし、伊勢に降臨したことでここが天照大神の終の棲家となった。もしかすると、大和での神武王朝の終焉を表しているのかもしれない。
 
 さて、「崇神天皇(その3)」や「卑弥呼と台与」で卑弥呼や台与を誰に比定するかを考えてみた。倭迹々日百襲姫、豊耜入姫命、倭姫命のいずれかが卑弥呼で、いずれかが台与である、というところまで考えてみたものの特定には至っていない。しかし、前述のように倭姫命が天照大神を伊勢に鎮座させたことが神武王朝の終焉を意味しているとすれば、それは台与が立って国中が治まったことと符合するのではないだろうか。つまり、倭姫命を台与と考えることができるのではないだろうか。魏志倭人伝によると、卑弥呼が3世紀半ばに死去し、その後に少し男王(崇神天皇)の時期があったので台与は3世紀後半の女王である。3世紀後半と言えばまさに垂仁天皇の治世であり、倭姫命の活躍の時期と一致する。倭姫命が台与であるとすれば、素直に考えると卑弥呼は豊耜入姫命ということになろうか。
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垂仁天皇(その4 埴輪の起源)

2017年06月24日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 當麻蹶速に勝利した野見宿禰は蹶速の土地を貰い受け、そのまま大和に住んでいた。垂仁28年に天皇の同母弟である倭彦命が亡くなったときに近習の者を殉葬したが、その状況に心を痛め、今後は殉葬をやめるように指示をした。そして垂仁32年、皇后の日葉酢媛が亡くなった。殉葬をやめることにしたが后の葬(もがり)をどうするかを臣下に問うたところ、野見宿禰が自分に考えさせてくれと申し出た。野見宿禰は出雲から百人の土部(はじべ)を呼び寄せて、埴土(粘土)で人や馬など、いろいろな物の形を造って、これからは生きた人間に替えてこれらを墓に立てることにしてはどうかと天皇に奏上した。埴輪の起源である。天皇はおおいに喜んで、これらの埴輪を日葉酢媛の墓に立てることにした。そして、今後は陵墓には人ではなく埴輪を立てるように言った。それで野見宿禰を土師職(はじのつかさ)に任じ、土部臣(はじのおみ)の姓を与えた。

 まず、古代に殉葬が本当に行われたのかどうかについては、魏志倭人伝に卑弥呼が死去した際に「百余人の奴婢を殉葬した」との記載があること、書紀における大化2年の薄葬令の記事においても「人が死んだ時に殉死したり、殉死させたりしてはいけない」とあることから、殉葬はあったと考えることができるだろう。
 しかし、過去の発掘において殉死あるいは殉葬が確認された例はないとされている。それは同じ墓に複数の埋葬跡が検出されたとしてもそれが殉死や殉葬であるかどうかわからないだけのことである。弥生時代の集団墓、あるいは墳丘墓に複数の埋葬主体があるような場合は殉葬の可能性は十分にありそうだ。古墳においても複数の埋葬主体がでたり、玄室に複数の棺が見つかる場合があるが、それが殉死あるいは殉葬か否か判別できないだけだ。陪塚に葬られている場合も同様だ。倭彦命の殉葬の記述は「悉生而埋立於陵域」となっており古墳の周囲に埋められたと考えられるので、その場合は古墳の周囲で人骨が出土すれば殉葬の可能性がかなり高いと言えるだろうが、残念ながら今までのところその例は見られない。

 倭彦命の墓、身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)は宮内庁により奈良県橿原市鳥屋町にある桝山古墳(ますやまこふん)に比定されている。5世紀前半の古墳で墳丘に埴輪が確認されている。築造が5世紀前半というのは垂仁天皇の時代を1世紀以上くだると思われることと、墳丘に埴輪が出たことは殉葬の記事と矛盾することから、この墓の被葬者は倭彦命かどうか疑わしい。
 ちなみに私は第11代垂仁天皇の治世を3世紀後半と考えている。第10代の崇神天皇が卑弥呼の後の男王であるとして、古事記にある崇神の没年である戊寅を258年と考えると、垂仁は3世紀後半の天皇となる。
 日葉酢媛命の墓、狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)は同様に宮内庁により奈良県奈良市山陵町にあるに全長207メートルの前方後円墳である佐紀陵山古墳に比定されており、この古墳の築造は4世紀末頃とされている。書紀によるとこの日葉酢媛の墓が初めて殉葬に代えて埴輪を並べたことになる。竪穴式石室の上から複数の衣笠形埴輪と盾形埴輪が出ているのであるが、この古墳の築造も垂仁の治世を大きく外れていると考えられる。

 いずれにしても、野見宿禰はこの時に土部職に任じられ、土部臣すなわち土師氏の祖になったとある。世界大百科事典第二版によると、土師氏は「埴輪の製作や陵墓の造営に従事し、また、大王の喪葬儀礼に関与した古代の豪族」とある。埴輪は材料となる埴土(はにつち)を用いて製作するので、ハニを使う人→ハニ師→土師氏、となったのはわかりやすいが、陵墓の造営や喪葬儀礼にまで関わっていたという。しかし、喪葬儀礼への関与は埴輪の製作や埋納作業の延長と考えると理解できるとしても、陵墓の造営とは少し驚きだ。埴輪製作で土を扱うから土師氏と呼ばれたのではなく、陵墓造営のために大量の土を取り扱うことが由来となっているのではないだろうか。古代における最大の構造物は古墳であり、土師氏はその最大構造物を建造する現代で言うゼネコンであったわけだ。とすると土師氏は古代屈指の技術者集団であり、土木者集団であったとも言える。造営地の選定、労働力の確保、土の採取と運搬、古墳の設計と造営などを担うわけだから、天皇家のみならず古墳を設けた各地の豪族とのつながりも強力であっただろう。
 土師氏は最初は古墳が造営されるところを転々としていたのだろうが、古墳が大規模化し、あるいは同じところにいくつもの古墳が造営されて古墳群が形成されるようになると、その土地に定住するようになった。そのため大和、河内、吉備などが土師氏の本貫地とされている。とくに河内には「土師の里」と呼ばれる地域があり、土師氏の氏寺である道明寺がある。土師氏一族はこの土師の里に居を構えて、応神天皇陵のある古市古墳群、仁徳天皇陵のある百舌古墳群の造営を担ったのだ。
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垂仁天皇(その3 當麻蹶速)

2017年06月22日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 當麻邑に住む當麻蹶速という力持ちがいた。垂仁7年、當麻蹶速が、自分に並ぶほどの強い者に出会って生死を気にせずに力比べをしたい、と言ったのを天皇が耳にした。天皇は臣下たちに當麻蹶速に勝てるほどの力持ちがいるかと問うたところ、出雲に野見宿禰という勇士がいると答えた者がいた。天皇は出雲から野見宿禰を呼び寄せて當麻蹶速と埆力(相撲)を取らせた。結果は野見宿禰の圧勝におわり、當麻蹶速は残念ながらこの一戦で命を落とすこととなった。これが日本の相撲の発祥と言われると同時に當麻蹶速は相撲の開祖と言われている。また、この一戦が初の天覧相撲であるとも言われる。
 當麻蹶速がいた當麻邑は現在の奈良県葛城市にあり、2004年までは北葛城郡當麻町として町の名に「當麻」が残っていた。その當麻邑のある葛城は神武王朝の拠点であった。片や、野見宿禰がいた出雲は邪馬台国である崇神王朝が制圧した国である。この「當麻蹶速vs野見宿禰」の勝負は「葛城vs出雲(邪馬台国)」であり「神武王朝vs崇神王朝」と言い換えることができるのではないか。そして葛城(神武王朝)が敗れた。これは当時の勢力状況を反映しているのかもしれない。

 葛城市には相撲館「けはや座」がある。相撲に関する資料が約12,000点もあり、本場所で使われるのと同じ土俵がつくられているらしい。すぐ近くには當麻蹶速の墓と伝えられる五輪塔がある。また、桜井市には相撲神社があり、先の勝負が行われた場所とされる。第12代景行天皇の纒向日代宮跡のすぐ近くである。
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垂仁天皇(その2 狭穂彦王の反乱)

2017年06月20日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 垂仁4年、后の狭穂姫の兄である狭穂彦王が謀反を企てた。書紀には記されていないが古事記によると狭穂彦・狭穂姫の兄妹は第9代開化天皇の子であり崇神天皇の異母兄弟である日子坐王(彦坐王)の子となっている。要するに開化天皇の孫ということだ。

 第9代開化天皇は神武王朝最後の天皇である。第10代崇神天皇はその子として記紀の系図上は皇統を継いでいるようになっているが、これまで何度も述べてきた通り、神武王朝と崇神王朝は別王朝として同じ時期に並立していたと考える私は、この開化と崇神の系図上のつながりは創作であると考える。そう考えたときにこの狭穂彦の謀反の意味がよく理解されるはずだ。前述の通り狭穂彦は開化天皇の孫であり、すなわち神武王朝側の人物である。以下に書紀をもとにした系図で確認してみる(赤線は古事記による)。
 


 狭穂彦は妹の狭穂姫が垂仁天皇の后になっていることを利用して敵対する崇神王朝に対して天皇殺害という大胆な挑戦を試みたのだ。明らかに神武王朝と崇神王朝の対立の構図を反映した話である。狭穂彦は狭穂姫に対して「夫と兄のどちらが大事か」と尋ねた上で「自分が皇位につけば共に天下を治めることができる」と言って天皇を殺害するようにそそのかして匕首(あいくち)を渡した。しかし、狭穂姫は事を成し遂げることができず、夫に対して企ての心を明かしてしまった。天皇は八綱田(やつなた)に狭穂彦の討伐を命じたが、狭穂彦は稲を積んだ城塞を築いて抵抗を続けた。狭穂姫は兄と運命を共にすることを決め、誉津別命を抱いて稲城に入った。天皇は后と子を助けようとする一方で軍勢を増やし、稲城に火をつけて執拗に攻撃を続ける。狭穂姫は子の誉津別命を差し出した後に自ら命を絶った。その直前に天皇に対して、自分の代わりに丹波道主命の娘である5人の女を後宮に入れるように要請し、天皇は受け入れた。そのうちの一人が第12代景行天皇を生んだ日葉酢媛(ひばすひめ)である。
 狭穂彦・狭穂姫による反乱は神武王朝が崇神王朝に対して起こした反撃の一戦であったが神武側が敗れる結果となった。

 さて、狭穂彦・狭穂姫という名前を聞いて思い出すのが、宮崎県の西都原古墳群にある「男狭穂塚」「女狭穂塚」である。日向の地は中国江南からやってきた天孫族である熊襲・隼人が開発した国であり、西都原古墳群は彼ら一族の墓域である。神武はその日向から大和に東征してきて王朝を開いたのだ。その末裔である狭穂彦・狭穂姫は敵対する崇神王朝に反攻を試みて失敗し、最期の運命を共にした。その二人が寄り添うように並んでいる「男狭穂塚」「女狭穂塚」に葬られている。そんな物語は成り立たないものだろうか。

 
 男狭穂塚は全長176メートルで日本最大の帆立貝型古墳である。瓊々杵尊の陵墓(可愛山陵)と考えられ、築造方法などから5世紀前半中頃の築造と推定されている。女狭穂塚は全長176メートルで九州最大の前方後円墳。男狭穂塚同様に5世紀前半中頃の築造とされ、木花開耶姫の陵墓と考えられている。2つの古墳の築造がともに5世紀前半中頃で同時期とされていることが興味深い。5世紀と言えば古墳時代中期であり、中国史書をもとに倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代と言われている。倭の五王を誰に比定するかについては諸説あるが、いずれにしても応神天皇以降である。そうであるなら瓊々杵尊や木花開耶姫の墓であるはずがない。とはいえ、狭穂彦・狭穂姫の墓とするのも無理があるだろうか。天皇の命によってこの反乱を鎮圧したのは八綱田であるが、天皇はその功を褒めて「倭日向武火向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)の名を授けたという。ここに「日向」の文字が入っているのは偶然であろうか。

  
上が男狭穂塚、下が女狭穂塚(宮崎県立西都原考古博物館の公式サイトより)
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垂仁天皇(その1 誉津別命)

2017年06月18日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 第二部の前回更新から少し時間が経ってしまったが、今回より再開したい。崇神天皇の次は第11代垂仁天皇の事蹟を追ってみたい。垂仁天皇は崇神天皇の第三子で母親は御間城姫といって四道将軍の一人である大彦命の娘である。宮は邪馬台国である纒向の珠城宮である。

 后の狭穂姫との間に誉津別命(ほむつわけのみこと)を設けたが、この子は大人になっても口がきけなかったという。書紀では垂仁23年、誉津別命が30歳のときに大空を飛ぶ鵠(くぐい)をみて「あれは何物か」と初めて言葉を発したので、天皇はその鳥を捕えさせようとした。天湯河板挙(あめのゆかわたな)が出雲まで追いかけて捕まえて献上し、誉津別命はこの鳥と遊ぶようになって口がきけるようになった。
 古事記はさらに詳しく記されている。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛び回った末に捕えられ献上されたが、相変わらず子は口をきけなかった。天皇が占ったところ、子が物を言わないのは出雲大神の祟りによるものであることがわかったので曙立王(あけたつのみこ)と兎上王(うなかみのみこ)を付き添わせて出雲へ行かせた。出雲で大神を参拝し、帰りに出雲国造の祖先である岐比佐都美(きひさつみ)が食事を差し上げようとしたときに初めて言葉を発した。
 少し内容が違っているが、いずれも出雲が関係している。国譲りのところで見た通り、邪馬台国は先代の崇神天皇のときに出雲を制圧し、出雲の支配者であった大国主神の霊をなだめるために出雲大社を建てるとともに、大国主神を三輪山に祀った。しかし、垂仁天皇の時代になっても大国主神の祟りを畏れていたのだろう。

 垂仁天皇紀には他にも出雲や丹波がたびたび登場する。大加羅国の王子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は穴門(長門国)から出雲を経て越に着いたという話、新羅の王子である天日槍(あめのひぼこ)が持ってきた神宝は但馬国に収められているとう話、その天日槍は但馬国を居所と定めて出石の女を娶ったという話、狭穂彦の反乱によって后を失った垂仁天皇は丹波国の5人の女を後宮に入れたという話、出雲から野見宿禰を連れてきて當麻蹶速(たぎまのけはや)と相撲を取らせたという話、その野見宿禰は殉葬の習慣をやめて代わりに埴輪を並べるよう提案したところ採用され、出雲から土部(はじべ)百人を呼び寄せた話、物部十千根(とおちね)に出雲の神宝を検分させた話、石上神宮にある八尺瓊勾玉は丹波国の犬が食い殺した獣の腹にあったという話、などである。丹波は崇神王朝と並立する神武王朝側の国であり、四道将軍を派遣するなどして争った国である。垂仁紀が出雲と丹波に関連する話で溢れているのは、崇神王朝がこれらの国々との関係ができて往来が盛んになったからであろうか。あるいは、都怒我阿羅斯等や天日槍の話、野見宿禰の相撲の話などは両国の抵抗が続いていたことが反映されているのであろうか。話の内容から推察するに、出雲は支配下に収めた結果としてヒトやモノの交流が進んだことが反映され、逆に丹波・但馬は抵抗を続けていることが反映されているのだろうと思う。このあとに見ていくことにする。

 余談であるが、垂仁天皇は即位後の垂仁2年に狭穂姫を后として誉津別命が生まれたとなっている。しかし上記の口がきけるようになった話では、垂仁23年に誉津別命が30歳になったと書かれている。后として迎えた時点で誉津別命すでに9歳になっていたということになる。
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志段味古墳群

2017年06月10日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2017年5月、愛知県名古屋市守山区にある志段味(しだみ)古墳群を訪ねた。現在は名古屋市教育委員会によって「歴史の里」として整備中であり、古墳の復元が進められている。以下は公式サイトからの転載です。

名古屋市内には、おおよそ200基の古墳が確認されていますが、市内で最も古墳が集中して残っているのが、名古屋市の北東端にある守山区上志段味です。上志段味は、岐阜県から愛知県へと流れる一級河川・庄内川が山地を抜けて濃尾平野へと流れ出る部分にあたります。上志段味にある多くの古墳はまとめて志段味古墳群と呼ばれ、国の史跡に指定されています。
志段味古墳群は尾張戸神社が鎮座する市内最高峰の東谷山の山頂から山裾、庄内川に沿って広がる河岸段丘上に分布します。古墳群の範囲は東西1.7km・南北1kmです。
現在確認されている古墳の数は66基で、33基が現存しています。古墳の形(墳形)で分類すると前方後円墳が2基(現存は2基)、帆立貝式古墳が5基(現存は5基)、円墳が50基(現存は21基)、方墳が1基(現存は1基)、墳形不明のものが8基(現存は4基)です。大きさは長さが100mを超す前方後円墳から直径10m前後の円墳まで大小あります。
志段味古墳群では4世紀前半から7世紀にかけて、古墳が築かれない空白期間をはさみながらも長期にわたって古墳が造営されており、空白期間を境として、4世紀前半から中頃、5世紀中頃から6世紀前半、6世紀後半から7世紀の3つの時期に分けることができます。
志段味古墳群は、古墳時代の全時期を通して、規模・形の異なる様々な特色をもつ古墳が、狭い範囲の起伏の富んだ地形のうえに築かれており、「日本の古墳時代の縮図」と表現することができます。


公式サイトに掲載されたマップ。


今回はこの古墳群の西側を徒歩でめぐったので順に紹介します。

古墳群の西端から北側を眺めると河岸段丘上に築かれたことがよくわかる。



勝手塚古墳。6世紀初めの築造とされる全長55メートルの帆立貝式古墳。

墳丘上に「勝手社」という神社がある。この古墳に限らず、古墳の上に神社が建っている場合が結構あるが、普通に考えると古墳の被葬者、あるいは被葬者と関係する人物を祀るために建てられた、ということになるだろう。代表的なものが出雲の神原神社である。今回は時間の関係で行けなかった古墳群東側の東谷山の山頂にある尾張戸(おわりべ)神社は尾張戸神社古墳の墳丘上にあり、祭神はいずれも尾張氏の系譜につながるとされる天火明命、天香語山命(別名を高倉下命)、建稲種命の三柱である。尾張戸神社古墳にはおそらく尾張氏の有力者が葬られているのだろう。



周濠および周堤がよくわかる。


大久手4号墳。形は不明となっている。

調査の結果、古墳時代の須恵器や埴輪が出たものの、盛り土の大部分が江戸時代以降に盛られたことが判明しており、江戸時代の塚の可能性もあるとされている。


大久手3号墳。5世紀後半の築造とされる一辺14メートルの方墳。




西大久手古墳。5世紀中頃の築造とされる全長37メートルの帆立貝式古墳。


墳丘は大きく削られていて現在の高さは50cmほどである。南側のくびれ部付近から巫女形埴輪・鶏形埴輪・須恵器が、前方部の前面からは馬形埴輪が出土した。巫女形埴輪は東日本で最も古い人物埴輪とされている。


東大久手古墳。5世紀末の築造。全長39メートルの帆立貝式古墳。


ここも削平が著しい。

大久手5号墳。5世紀後半の築造。全長38メートルの帆立貝式古墳。



戦後の大久手池の拡張工事により後円部の南側が削られて古墳の半分が失われた。(1枚目の写真の左側、3枚目の写真の右側)


志段味大塚古墳。5世紀後半の築造。全長51メートルの帆立貝式古墳。


発掘の結果、粘土槨と木棺直葬の2基の埋葬施設が見つかり、五鈴鏡・馬具・甲冑・帯金具・大刀・鉄鏃・革盾などが副葬品として出土した。墳丘からは円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形埴輪・鶏形埴輪・水鳥形埴輪・須恵器・須恵器形土製品が見つかっている。歴史の里としての整備に伴い、葺石、埴輪列、埋葬施設などが復元されている。
しかし個人的にはこの復元方式は好きではない。神戸市垂水区にある五色塚古墳も同様の復元がなされているが、あまりにリアリティがなさすぎる。埴輪はこのように置いて並べられていたのだろうか。日本書紀では垂仁天皇の時に殉葬をやめて代わりに埴輪を立てたとあるが、殉葬の代わりであるなら置くのではなく埋めたのではないだろうか。立てて並べただけなら、風で倒れたり、割れたり、盗まれたり、ということが避けられないではないか。

墳丘頂上の埋葬施設。


造り出し部の埴輪列。



白鳥塚古墳。4世紀前半の築造。全長115メートルの前方後円墳。


後円部から前方部を臨む。

後円部頂上に石英が敷かれ、斜面の葺石の上には多量の石英がまかれ墳丘が飾られていたという。石英で白く輝いていた外観が白鳥塚の名称の由来となったと言われている。

くびれ部に復元された葺石。ところどころに石英がまかれている。

後円部頂上に復元された石英。



東谷山白鳥古墳。6世紀末~7世紀初めの築造。直径が17メートルの円墳。

古墳群の中で唯一、横穴式石室が完全な状態で残っていた。




今回は古墳群の西側半分の踏査であったが、それだけでもこの古墳群が尾張の有力者一族の墓域であることが確認できた。次は尾張戸神社古墳のある東側半分、東谷山一帯をぜひとも訪ねてみたい。
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見晴台遺跡

2017年06月08日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
4月下旬のゴールデンウィーク直前に名古屋出張の機会を得たので翌日に、名古屋市南区見晴町の笠寺公園内にある見晴台遺跡を訪ねた。

東西約120メートル、南北約200メートル、幅・深さとも約4メートルの環濠に囲まれた弥生時代後期の環濠集落遺跡である。旧石器時代の石器や縄文時代の土器片も出土しており、長期にわたって人々が暮らした様子が伺える。それもそのはずで、この遺跡は笠寺台地の上に立地しており、見晴台という名称がピッタリの場所で、水害や敵の襲来から守るには絶好の場所である。誰が考えてもここに居を構えたいと思うだろう。

現在までに200軒以上の竪穴住居跡が重なりあった形で検出されている。この遺跡を有名にしたのは、1940年に発掘された銅鐸を模した「銅鐸形土製品」と呼ばれる土器片である。1937年に名古屋市西区の西志賀貝塚に次ぐ日本で2例目の発見という。


台地上の遺跡の中に名古屋市見晴台考古資料館が建てられていて、遺跡を肌で感じながら学ぶことができる。





資料館に展示されている「銅鐸形土製品」。レプリカです。



資料館の裏に「住居跡観察舎」というのが建てられて、発掘時の状況の一部がそのまま保存されている。



竪穴住居も復元されている。最初の復元がまずかったのか数年前に倒壊したらしい。何というお粗末さ。今は再び復元されている。



周囲よりも標高が高くて見晴らしが効くことから、太平洋戦争時に高射砲6基が設置された。名古屋市内を空襲する為に伊勢湾方面から飛んできたB-29を撃墜する為のものだ。その内、2基分の土台が今も残されている。高射砲ごときで打ち落とせるのかと思うのだが、実際に打ち落としたB-29の垂直尾翼と見られる金属塊が見つかり、資料館に展示されていた。




この遺跡のすばらしいところは、毎年夏に公募による市民発掘が行われていることだ。身近なところに遺跡があって、子供でも自分で掘ることができるなんて、羨ましい限りだ。掘ってみたい。


その日の夜は贅沢して櫃まぶし。
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