古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

前方後方墳の考察⑦(前方部の意味)

2024年06月30日 | 前方後方墳
白石太一郎氏、赤塚次郎氏はともに、方形周溝墓の通路が発達して前方後方墳の前方部になったとします。ただし白石氏は「主丘部への通路を、死者の世界と生者の世界をつなぐ通路と解して、この部分が次第に祭祀・儀礼の場として重視されるようになった」と付け加え、通路が発達した前方部は祭祀・儀礼の場であったと説きます。植田文雄氏も『前方後方墳の謎』において「前方部は当初、棺のある後方部にのぼる通路だったものが、のちに祭祀場としてひろくなった」とします。あらためて前方後方墳あるいは前方後円墳の前方部の成り立ちについて諸説を確認してみます。

前方後円墳の形式の起源について濱田耕作氏は、昭和14年(1939年)発刊の著『考古学研究』の中の一節『前方後円墳の諸問題』において、「古くは清野謙次博士が学生時代に提出せられた主墳陪塚連接説、喜田貞吉博士や梅原末治君の前方部祭壇付加説、故高橋健自氏の前方部玄関説、故森本六爾君の志那古墳模倣説、更に亦梅原末治君の新説方墳円墳結合説をはじめ、西洋人ではガウランド氏の円墳三角墳結合説(大和民族の好む円形と三角形とを装飾的意匠とする墳形)などがあり、又私自身の提出した丘尾切断説とも呼ぶ可きものがある」と整理されています。すでに100年前にこれだけ様々な説が主張されていたのは驚きです。

前方部について高橋健自氏は「古墳を奥深く森厳に見せるための施設で、いわば玄関のような役割をするもの」とし、喜田貞吉氏は、中国や朝鮮半島では霊柩の安置場所が常に低位置にあるのに対して日本では墳丘の頂上にあることから「高い参道または拝所が墳丘に接続して設けられた」とします。また、小林行雄氏は「前部は後円部よりも一段低い位置に儀式場とよんでも、祭壇とよんでもよいような広場を設置しようとする計画によって生まれたもの」と説きました。先の濱田氏はその後、発達期の前方後円墳に盾の形が移入されたとして、器物模倣説の立場を取ります。また、原田淑人氏は弥生時代の家屋(竪穴住居)の形状にその起源を求めます。また、前方後円墳が壺形古墳であるとする説も器物模倣説のひとつになります。

これらの諸説に対して近藤義郎氏は、1968年の考古学研究会第14回総会で発表した『前方後円墳の成立と変遷』において、これら諸説の中から有力説として生き残ったのが前方部祭壇説であるとする一方で、前方部という祭壇を設ける必要性や祭壇が方形であることの理由が説かれていないことなどを指摘して前方部が祭壇でない可能性に言及するものの、考古学的に実証できないことをもって「祭壇説は無敵」とし、さらに最古または最古に近い古墳で前方部に埋葬された例がないことから、結局は祭壇または何らかの象徴あるいは形象であったとします。そして、弥生時代の方形墓が首長に対する共同体的な祭祀儀礼の場であったとの推定から、飛躍的に権力を高めた首長が葬られる壮大な円丘または方丘に対して、かつての共同体的祭祀場の象徴である方形墓が形象化した一種の象徴的な祭壇として付設されたのが前方部であると説きました。

氏はその後、四隅突出型墳丘墓など弥生時代の墳丘墓と最古式の前方後円墳との比較をもとに弥生墳丘墓の突出部に注目します。とりわけ楯築遺跡の検討においては、その突出部は「主丘にいたる一種の“道”=通路」と考え、主丘上で行われた埋葬祭祀に参加する葬列が通る「墓道」であるとして、その上で、前方後円墳の前方部はこの機能を引き継いで形骸化したものと考えました。氏はこの考えを自ら「墓道起源説」と呼びます。

また、都出比呂志氏は「日本古代の国家形成論序説 ―前方後円墳体制の提唱―」において、2世紀後半から3世紀初めにかけて出現した楯築遺跡や四隅突出型墳丘墓に見られる突起部は中心の埋葬施設に付設された祭祀場であり、3世紀中葉になると各地に円墳の一方向に祭祀用の突起部を付設した前方後円墳の墳形に近いものが登場し、この墓制を基礎として定型化した前方後円墳が成立したと説きます。

前方後円墳研究の第一人者である近藤氏や都出氏の論に対し、前方後方墳研究に注力した大塚初重氏は『前方後方墳序説』において、前方部は主丘への一種の階段的な存在であり被葬者に一段と接近しえた神聖な場所で、祭祀や祈念を催すことのできる地点であったとし、その前方部を必要とした条件に、墳丘の比較的高所に遺骸が埋葬される日本独特の葬法を挙げています。さらに前方後方墳の源流を大陸で盛行した方墳に求め、それが日本に取り入れられた当初から前述の理由により前方部が設けられた、ともします。

前方部が「祭祀の場」であったとの考えが概ね支持を得ているようですが、そんな中で近藤氏は、当初は祭祀場であることを否定する材料がないことから、やむを得ず同調していたきらいがありますが、楯築遺跡の考察を経て墓道起源説を主張するようになります。楯築を始めとする弥生墳丘墓の墓道である突出部は前方後円墳の前方部につながり、その前方部2カ所にある隅角のうち、勾配の緩いいずれか一方の傾斜が聖域に至る墓道として企画された、とします。たしかに各地の前方後円墳を巡った際、例えば岡山の作山古墳、宮崎の生目古墳群にある3号墳など、墳丘に登れる大きな古墳では前方部の隅角の斜面から登りました。ただし、棺を担いでこの傾斜を登る場合、かなりの危険を伴います。万が一、棺を落とすようなことがあれば取り返しのつかないことになります。果たして、そんな危険を冒すでしょうか。

前方部に関する論点は以下の3つに集約できそうです。①については前稿「前方後方墳の考察⑥(造墓思想の転換)」で触れましたが、それを含めて3つの論点について考えていきます。

①周溝墓の通路が発達して前方部になったのか。
②前方部は祭祀場であったのか。(①の通路が祭祀場に変化したのか)
③前方部隅角の斜面は墓道なのか。

(つづく)

<主な参考文献>
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎
「東海系のトレース」 赤塚次郎
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「前方後円墳の起源」 原田淑人
「前方後円墳の諸問題」 濱田耕作
「古代日本と神仙思想 三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
「考古学研究 第15巻 第1号 『前方後円墳の成立と変遷』」 近藤義郎
「前方後円墳の起源を考える」 近藤義郎
「古代史の海 第16号 講演録『前方部とは何か』」 近藤義郎
「国家形成過程における前方後円墳秩序の役割 ~考古学的成果から国家形成を考える~」 澤田秀実
「日本古代の国家形成論序説 ―前方後円墳体制の提唱―」 都出比呂志











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前方後方墳の考察⑥(造墓思想の転換)

2024年06月25日 | 前方後方墳
墓を方形に区画するために周溝を掘り、その周溝を広く深く掘った場合は四辺ある周溝の一辺の中央部に遺体あるいは遺体を納めた木棺を埋葬施設に運び込むための通路を設けました。これが方形周溝墓です。墓の形が方形になっている理由は、どのように考えるべきでしょうか。

日本最古の方形周溝墓とされる兵庫県の東武庫遺跡で松菊里式朝鮮系無文土器が出土していること、朝鮮半島でも前3世紀に遡りうる方形周溝墓が見つかっていることなどから、方形周溝墓の起源を朝鮮半島に求める考えがあります。しかし、朝鮮半島の方形周溝墓は必ずしも正方形とは限らず、長方形や円形に近いものがあることから単純に半島の墓制が伝えられたのではないともされます。加えて、遺構の検出状況やその年代観、他の墓制との関係などを考えると、北部九州から瀬戸内を経由して畿内へと至るルートにおいて、あるいは日本海側から畿内に至るルートにおいても、その伝播を積極的に肯定しうる状況にないそうです。

それでも大陸や朝鮮半島に起源を求めたい専門家は、墓制そのものが伝わったわけではないないが「方形に区画する」という思想に外来的要素があることは否定できないので、その思想は大陸あるいは朝鮮半島から伝わったとします。また、水稲耕作情報とともに伝わったために墓を方形にする思想に至った、とする主張も見れらます。これは水田が方形であることに着想を得たということだと思いますが、いずれの場合も少し無理のある解釈ではないでしょうか。

世界中の墓の形を知っているわけではないですが、どこの国でも方形の墓はたくさん見られるのではないでしょうか。私が知らないだけかもしれませんが、逆に三角形や五角形の墓は聞いたことがありません(日本には八角形の古墳にありますが)。人間の感覚や経験値として、ある一定の場所に墓を効率的に並べるためには方形にするのが最も合理的だと考えるでしょう。方形ならば計画的に広げていくこともできます。それは隣接する墓が周溝の一辺を共有するケースがあることからもわかります。弥生時代前期に始まったこの墓制が古墳時代に入るまでの数百年間も続いたのは、誰もが抵抗なく受け入れやすい墓制であったからだと思います。日本と同じ形の墓が中国や朝鮮半島にあるからと言って、必ずしもどちらか一方が他方に伝えたと考える必要はないでしょう。もちろん、人が移動していって違う場所で同じ墓を造ることはあるので、日本列島第一号の方形周溝墓は渡来した人が列島での居住地において母国と同じ墓を造ったのかもわかりませんが、逆にもとから列島に住んでいた人が自らの考えで創り出したのかもわかりません。どちらとも言えないので、渡来人の影響を前提にする必要がないというだけのことです。いずれの場合でも方形周溝墓は、土地利用や造墓時の効率性を考えて方形に区画した、ということが言えるでしょう。

それでは円形周溝墓はどのように考えるか。方形と違って円形の場合は逆に土地の利用という点では非効率であるにもかかわらず、播磨を始めとする瀬戸内東部では方形周溝墓よりも円形周溝墓が優勢な地域があります。なぜ墓の形が円形なのでしょうか。土地利用という点で制約がなく、方形にする必要がなかったので自然と円形になった、というのは芸がなさすぎるでしょうか。遺体を直葬するケースを考えると、墓壙を掘る際には体の大きさの違いはあるものの形としては楕円形になるのが自然だと思うのです。さらにそれを区画するために掘る周溝はあえて墓壙に合わせて楕円形にする必要はないので自然と円形になります。あるいは縄文時代以来の円形思想が墓の形に表出したというのはどうでしょうか。

縄文時代の円形を意識した遺構に東北地方で特徴的にみられる環状列石があります。また、縄文時代には環状集落と呼ばれる特徴的な集落の形態が見られ、広場を中心にしてその周囲を環状に住居が配置されています。そしてその住居も竪穴が円形に掘られます。貝塚や広場に設けられた盛土なども円形あるいは半円形に造られているものが多く見受けられ、とにかく様々なものが円形を意識して造られています。その理由は解明されていませんが、縄文人は命や霊が大きく円環状に回帰・循環する円環的死生観を持っていた、とする説があります。播磨や讃岐など瀬戸内東部ではこういった縄文人の円形へのこだわりが色濃く残っていた結果、円形周溝墓という墓制が生まれたのかもわかりません。

こういった思想をもって方形周溝墓や円形周溝墓を造ってきた人々が、3世紀に入るや否や突如として前方後方形あるいは前方後円形の墳墓を生み出したのです。台状部に渡る通路はいわゆる墓全体から見れば付属設備であり、本来はなくてもよいものであるにもかかわらず、それが切り離されて通路としての機能を放棄し、台状部と一体化して墳墓の一部いわゆる前方部を形成するに至った経緯を、単に「発達」や「変化」という言葉で片づけるのではなく、そこに思想の大転換を見出したいと思います。次にこの前方部が形成された経緯や意味づけについて考えてみます。

(つづく)


<主な参考文献>
「韓半島の方形周溝墓について ―日本列島との比較を中心に―」 山岸良二
「方形周溝墓の成立」 藤井整
「方形周溝墓からみた弥生時代前期社会の様相 ―近畿・東海地域を中心として―」 浅井良英


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前方後方墳の考察⑤(前方後方形周溝墓の登場)

2024年06月22日 | 前方後方墳
実は、前方後方形周溝墓という形態の存在、私は今回の方形周溝墓の勉強をしている中で初めて知ることになりました。前方後方形周溝墓と呼ばずに前方後方墳の範疇に含める専門家もいますが、規模が20m程度とそれほど大きくなく(方形周溝墓にもそれくらいの大きさのものがある)、台状部の高さもせいぜい1m程度とあまり高くない低塚の場合や高さが不明の場合、あるいは方形周溝墓群の中に位置する場合などは古墳としてではなく周溝墓とする方がイメージしやすいので、ここでは前方後方形周溝墓として考えていきます。

前方後方形周溝墓を前方後方墳と捉える植田文雄氏はその著「前方後方墳の謎」において、前方後方形墳墓の出現時期として最初期にあたる3世紀初め(200年~220年)に出現した前方後方墳として愛知県廻間遺跡のSZ01、滋賀県法勝寺遺跡のSDX23、神郷亀塚古墳、大阪府久宝寺遺跡の南1号墓の4つを挙げます。但しここでは冒頭の考えに従って、全長37.9m、高さ3.8mの規模の独立した墳丘墓である神郷亀塚古墳を除く3基を前方後方形周溝墓として扱います。つまりこれらを日本で初めて出現した前方後方形周溝墓とします。

■廻間遺跡SZ01(全長25m)


■法勝寺遺跡SDX23(全長20m)


■久宝寺遺跡南地区南群1号墓(全長16.5m)


■土田遺跡


4つの図はそれぞれの遺跡の調査報告書から一部を切り取って拝借いたしました。廻間遺跡、久宝寺遺跡は遺構全体が検出されたわけではありませんが、いずれも前方後方形が想定されます。3つの前方後方形周溝墓はどれも方形周溝墓群の中に1基だけこの形で存在しています。ただし、廻間遺跡についてはすぐ隣の土田遺跡から9基の方形周溝墓が出ていて、そのうち5基は一辺の中央部に通路のあるA1bタイプなので関連がありそうですが、他の2つは突然この形が出現したことになります。

ちなみに、土田遺跡は「欠山式期(≒廻間I式0段階から同3段階)の遺跡で、出土した遺物の時期も大部分が廻間Ⅰ式の範囲内である」と調査報告書に書かれています。このことから、ほぼ同時期にA1bタイプの周溝墓と前方後方形周溝墓が併存したということが言えます。この二つの遺跡は白石太一郎氏が、A類(A1bタイプ)・B類・C類(前方後方形周溝墓)の3つの類型がほぼ同じ時期、つまり庄内式併行期前半(3世紀前半)に同時に存在していた、と指摘したことがわかりやすく実証された遺跡と言えます。

前方後方形周溝墓が前方後方墳か否かという議論はさておき、東海、近江、河内において3世紀初め(200年~220年)に突如として前方後方形の墳墓が登場したことによって、弥生時代前期中葉から数百年にわたって各地で造営されてきた方形周溝墓という墓制が大きな転換点を迎えたということが言えると思います。つまり、方形の周溝墓を造り続けてきた集団が3世紀に入って突然に方形ではない前方後方形の周溝墓を造り始めたということです。

白石氏は、通路を持った方形周溝墓であるA類やB類が前方後方形周溝墓であるC類に発達し、それらがほぼ同じ時期に存在したと説き、赤塚氏も同様にB1型やB2型がB3型に急速に発達したと説きますが、いずれも「発達」という言葉を使う以上、同時期であろうが、急速であろうが、そこに連続性を認めていることになります。私は同時期であるからこそ、急速であるからこそ、連続性を認めることができません。通路をもった方形周溝墓群の中に、通路を持たない前方後方形周溝墓があたかも突然変異の如く登場するのです。意図をもって設けていた通路が突然になくなるのです。これは造墓思想の大転換であり、このときを画期としてそれまでと全く違う思想で墓が造営されるようになったと言えるのではないでしょうか。

3世紀初頭に続いて3世紀半ばの250年までに愛知県で全長40mの西上免遺跡SZ01、滋賀県で全長28mの熊野本6号墳、さらに富山県では全長25mの向野塚墳墓が造られます。東海、近江、河内に北陸が加わり、さらに3世紀半ばを過ぎると千葉県、長野県、石川県、京都府、奈良県など畿内から関東までの各地に続々と前方後方形の墳墓が登場します。

この画期は円形墓を造ってきた集団においても同様に見られます。例えば、大阪府豊中市の服部遺跡では弥生時代終末期の4基の周溝墓が見つかり、うち2号墓から4号墓までの3基が1カ所に通路を持つ円形周溝墓で、残る1号墓が周溝が全周する全長18mほどの前方後円形周溝墓という構成になっています。服部遺跡では円形周溝墓を造っていた集団が突然に前方後円形周溝墓を造営したということです。植田文雄氏はこの1号墓の時期を200~220年としています。また同じ頃、大和では最初期の前方後円墳とされる全長96mの纒向石塚古墳が築かれます。そして3世紀中頃までに千葉県で全長42.5mの神門5号墳、愛媛県で全長24mの大久保1号墳など、周溝が全周する前方後円形の墳墓が各地に出現し始めます。この大久保1号墳は半円形の周溝墓の隣りに造られています。

■服部遺跡


廻間遺跡と土田遺跡の例からは方形周溝墓の通路と前方後方形周溝墓の前方部との関係が、服部遺跡からは円形周溝墓の通路と前方後円形周溝墓の前方部の関係が見い出せそう、つまり通路が前方部に発達したとする白石説や赤塚説の根拠となりそうですが、私は通路が前方部に発達したとするよりも、造墓思想の転換が起こったと考えるべきだと思います。

(つづく)

<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第10集 廻間遺跡」 愛知県埋蔵文化財センター
「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第2集 土田遺跡」 愛知県埋蔵文化財センター
「近江町文化財調査報告書 第6集 法勝寺遺跡」 近江町教育委員会
「近畿自動車道天理~吹田線建設に伴う埋蔵文化財発掘調査概要報告書 久宝寺南(その2)」 大阪府文化財センター
「豊中市立第四中学校校舎建替工事に伴う発掘調査報告書 服部遺跡」 大阪府文化財センター
「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」 福永伸哉





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前方後方墳の考察④(周溝墓の通路の意味)

2024年06月19日 | 前方後方墳
前稿で周溝墓の通路について考えてみましたが、浅井分類をもとに次のように整理したいと思います。遺体あるいは遺体を納めた木棺を台状部に掘られた埋葬施設に運び込む際に周溝を渡る必要がありますが、溝に通路がなくても木橋などを使って危険なく台状部に渡ることができる場合はA0タイプとなります。逆に造墓段階において周溝が広い、あるいは深いために木橋を用いても渡るのが危険と判断された場合には、一辺あるいは対向する二辺の中央部(円形墓の場合はどこか一カ所)に通路を設けて安全を確保します。これがA1b・A2cタイプです。また、四隅のいずれか、あるいは全てに通路が認められるA1a・A2a・A2b・A3・A4の各タイプは基本的に隅部分の掘り方が浅くて後世の削平によって通路状の遺構として検出されるケースです。これは、周溝を掘る目的が方形に区画することであるため、四隅をしっかり掘る必要がないことによるものです。ただし、意図的に隅部分を掘り残したケースも想定され、その場合は通路としての可能性が残るものの、方形に区画するという目的のためには掘る必要がなかったと考えておきます。

以上のように整理した上で、ここからは明らかに通路と考えられるA1b・A2cタイプについて考えていきたいと思います。なお、円形周溝墓についても、通路が1カ所あるいはほぼ対向する場所に2カ所ある場合は同様に考えたいと思います。


(浅井良英「近江における方形周溝墓の研究」より)

A1bおよびA2cは意図をもって台状部への通路を設けたパターンですが、これらはたとえばA1aと何が違うのでしょうか。どこに通路を設けても遺体を運ぶという目的からすれば大した差はないと思う一方で、人間の心理で考えてみると、方形の台状部やその中心部に掘られた土坑を目の前にしたとき、それを視野の中心に置き、そこに向かってまっすぐ進む、つまり溝を渡る通路は一辺の中央部に設けるという発想になるのではないでしょうか。ここで遺体を運んで埋葬するシーンを想像してみます。

亡くなった人の住居から何人かの人が遺体を担いで出発し、造墓が終わったばかりの墓の手前まで運びます。遺体は住居を出る際にすでに木棺に納めれられているのか、それとも墓地の前で納められるのか、あるいは木棺は先に埋葬施設内に置かれているのかは不明ですが、いずれにしても住居から墓地の手前まで遺体が運ばれます。そのルートは造墓時点でわかっているので通路を設ける一辺はおのずと決まります。辺がない円形周溝墓の場合も同様に遺体が運ばれてくるルートをもとに通路を設けておきます。また、墓がたくさんある墓地の場合は、他の墓との位置関係や墓地内におけるある種のルールに基づいて決められる場合があるかもわかりません。

では、方形であれ円形であれ、通路が1カ所ではなく2カ所の場合はどうでしょうか。これは2つの考え方があると思います。ひとつは、埋葬する遺体が二体ある場合に2つの通路を使って運び込むということ。もうひとつは、入口と出口という考え方です。これは埋葬時ではなく、墓上で何らかの葬送儀礼が行われた場合を想定しました。通路が2カ所に設けられた例としては滋賀県の西浦遺跡、柿堂遺跡、川ノ口遺跡などで見つかっていますが全国的にはそれほど多い事例ではありません。というのも、伊藤敏行氏や山岸良二氏、赤塚次郎氏が論文などで提示された方形周溝墓の形態分類には浅井良英氏の分類にあるA2cタイプがありません。伊藤分類、山岸分類はいずれも関東の方形周溝墓を対象とした分類なので、全国の様相を表しているわけではありませんが、この形態は少なくとも関東には存在しないくらいに珍しいと言えるので、例外的な形態と考えて差し支えなさそうです。


(いずれも、浅井良英「近江における方形周溝墓の研究」より)

ただし次のとおり、山岸分類によれば円形周溝墓で対向する2カ所に通路を設けたパターンがG3として示されているので、こちらは比較的多くの事例があるのかもわかりません。


(方形周溝墓シンポジウム実行委員会「方形周溝墓研究の今Ⅱ」より)

以上のように、周溝はあくまで台状部を方形あるいは円形に区画することが目的であるので、区画が判別できる程度に掘れば事足りる、という前提をおいた上で、周溝に残された通路状遺構について、葬送儀礼や埋葬のシーンを想像しながら造墓者の意図を探ってみると、明らかに通路として認識すべきものがある一方で、削平によって通路状遺構として検出されるけれども通路ではないものがある、と考えるのが妥当だという結論に至りました。

さて、方形周溝墓の周溝や通路部分について私なりに解釈してみましたが、次に赤塚分類のB3、浅井分類の形態C、山岸分類のF2などに見られる前方後方形周溝墓を考えてみます。

(つづく)

<主な参考文献>
「近江における方形周溝墓の研究」 浅井良英
「東京湾西岸流域における方形周溝墓の研究」 伊藤敏行
「宇津木向原遺跡発掘40周年記念『方形周溝墓研究の今』Ⅱ」 方形周溝墓シンポジウム実行委員会
「東海系のトレース」 赤塚次郎


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前方後方墳の考察③(周溝墓の通路状遺構)

2024年06月13日 | 前方後方墳
方形周溝墓の周溝の掘り残された通路部分の意味あるいは目的を考える前に、方形周溝墓との比較において円形周溝墓について少し考えてみます。円形周溝墓とは円形の台状部を囲むように溝が掘られた墓で、墳丘の造り方や埋葬施設などは方形周溝墓に類似する円形プランの墳丘墓です。

弥生時代前期中葉に瀬戸内に出現し、岡山県や香川県などが分布の中心となります。その後、兵庫や大阪など畿内各地、さらには関東、東北、あるいは九州へと広がりますが、方形周溝墓と比べるとその数は圧倒的に少ない状況です。また、方形周溝墓は一人を埋葬する単数埋葬に加えて、2~3人あるいは5人以上の複数埋葬が一般的ですが、円形周溝墓の場合は単数埋葬が基本とされます。このように方形周溝墓との違いは或るものの、いずれも同じ弥生時代の墓制です。

香川県善通寺市の龍川五条遺跡では、弥生時代前期中葉から後葉にかけての方形周溝墓1基と円形周溝墓2基が見つかり、うち1基の円形周溝墓からは木棺墓と思われる主体部が1つ検出されていますが、通路部は確認されていません。また、佐古川・窪田遺跡でも前期後半から中期初頭にかけての40基の周溝墓が報告されており、円形周溝墓は最大で8基、うち3基に各々1つの主体部が、また6基で通路部と思われる遺構が確認されています。

隅をもたない円形周溝墓の場合、方形周溝墓のように掘り残しの場所の違いによって、それが通路なのか、それとも単なる掘り残しなのかを判断することができません。しかし、それが周溝の1カ所にしか見られない場合は通路と判断することが可能ではないかと考えます。逆に2カ所、3カ所というように複数カ所の通路状遺構がある場合は掘り残しの可能性が高い。というのも、円形の場合であっても場所によって掘り方にムラが生じて深い部分と浅い部分ができ、浅く掘った所が後世の削平によって通路状になってしまう可能性があります。この想定をもって、通路が複数あれば掘る際のムラによるもので、1カ所の場合は意図をもって掘り残した、と考えたいと思います。ただし、通路部が周溝の半分程度を占めるもの、つまり周溝が半円状にしか残らない場合は削平によって半分の周溝が失われたと考えることにします。

さて、方形周溝墓は一辺または対向する二辺のそれぞれ中央部に通路がある場合、円形周溝墓の場合は1カ所に通路がある場合に、何らかの意図をもって通路を敷設したと考えました。次にその意図を考えてみます。

石黒立人氏は「方形周溝墓の時期決定をめぐる二、三の問題 — 伊勢湾岸域を中心として —」の中で朝日遺跡の長辺30mを超える超大形方形周溝墓に言及して、周囲をめぐる溝が幅広く(7m以上)深い(1.5m内外)、故に墓葬にかかる祭儀の執行に際しての障害となり、よって人々が支障無く移動可能な経路を確保しようとすれば、溝に木橋をかけるのではなく「掘り残し」(「陸橋部」あるいは「土橋」)が最適であった、と述べています。単純に考えれば、溝をまたいで渡れない、あるいは橋を架けたとしても危険な場合に通路を掘り残したということだと思います。

台状部には盛土があり、その盛土に竪穴を掘って木棺墓あるいは土壙墓として遺体を埋葬したとの前提で、造墓から埋葬の手順を想定してみると、①周溝を掘る、②盛土をする、③主体部を掘る、④遺体または遺体を納めた木棺を運び込む、⑤埋葬する、という順番が想定されます。つまり、遺体または遺体を納めた木棺を台状部に運び込む際、運び手が溝に落ちないよう、安全に溝を渡るために通路を設けた(通路として掘り残した)と考えられます。逆に言うと、通路がない周溝墓は危険ではない程度の広さ、深さの溝であったということです。

ただし、周溝墓が発掘される時点では基本的に台状部も周溝部も削平されているため、造墓時点での周溝の広さや深さを特定することはできません。したがって、発掘時点での溝の状態をもって造墓時点における溝の危険度(広さ・深さ)を判断することはできません。発掘時点での溝が浅かったとしてもそこに通路部があれば、造墓時には深く掘られていた可能性があるということです。たとえば、愛知県一宮市の山中遺跡で見つかった遺構SZ11はA1aタイプに分類できる方16.5mの方形周溝墓で、発掘調査報告書によれば溝の幅が2.6~3.8mで深さが0.4m、台状部から深さ25cmの2基の主体部が検出されています。50cmほどが削平されたと考えると造墓時の溝の深さは0.9m、幅は4m程度となります。造墓者はこれを危険と判断して通路を設けたのでしょう。

このように考えると、浅く掘った部分が削平されて通路状になった、とした四隅についても安全性を考慮するという意図をもって通路を設けた可能性もありますが、そもそもなぜ四隅の溝を渡る必要があったのか、ということを考えると、通路の利用目的が今ひとつ明確にできません。石黒氏は四隅の通路について、大規模な周溝墓を造墓する際の効率性、つまり溝の掘削にかかる作業の軽減(移動の短縮)の可能性を指摘しますが、弥生時代前期に現れた山中遺跡の四隅切れ、つまりA4タイプの方形周溝墓はその大きさがせいぜい数m~10m四方なので、掘削作業の効率性という視点は少し違う気がします。いずれにしても通路を設けた意図とは、埋葬時に遺体を運び込む際の安全を確保すること、と考えたいと思います。

(つづく)

<主な参考文献>
「四国横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 第二十三冊 龍川五条遺跡Ⅰ」 香川県教育委員会ほか
「一般国道32号綾歌バイパス建設に伴う理蔵文化財発掘調査報告 第1冊 佐古川・窪田遺跡」 同上
「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第40集 山中遺跡」 財団法人愛知県埋蔵文化財センター1992
「方形周溝墓の時期決定をめぐる二、三の問題 — 伊勢湾岸域を中心として —」 石黒立人


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前方後方墳の考察②(方形周溝墓について)

2024年06月09日 | 前方後方墳
前稿で見たとおり、前方後円墳は円形周溝墓から、前方後方墳は方形周溝墓から変化したという説が半ば定説になっている状況にあることから、前方後方墳を考える前提として、まず方形周溝墓について考えてみます。

方形周溝墓とは幅が1mほどの溝で方形に区画された一辺が5~15mの墓のことを言い、兵庫県尼崎市の東武庫遺跡で見つかった弥生時代前期中葉(BC4~5世紀)のものが日本最古とされています。弥生時代前期に近畿地方で発生し、その後すぐ、前期のうちに伊勢湾岸まで分布を広げ、近畿および伊勢湾岸地域において弥生時代の主要な墓制となります。弥生時代中期になると伊勢湾岸地域から急速に東方へ伝播して、古墳時代前期には東北地方から南九州地方まで全国に分布するようになり、これまでに1万基以上が全国で見つかっています。

下図は浅井良英氏による周溝墓の形態分類です。方形周溝墓は周溝部と台状部から構成され、この図にあるように周溝の形態は台状部を全周するパターン、四隅が全て切れるパターン、四隅のうちの何カ所かが切れるパターン、一辺の真ん中が切れるパターン、二辺の真ん中が切れるパターンなどがあります。白石氏や赤塚氏はこれらのパターンのうち、一辺の真ん中が切れるもの(形態A1b)が前方後方墳の原型になったとします。溝が切れている個所は言い換えれば周溝を掘り残した個所であり台状部へ渡るための「通路」や「陸橋」などとも呼ばれます。通路を持たない一辺を2つの周溝墓が共有する場合もあります。


(浅井良英「近江における方形周溝墓の研究」より)

また、近畿では弥生時代前期においては溝が全周するA0タイプが優勢で、逆に東海地域では四隅が切れるA4タイプが優勢とされますが、東海地域では弥生時代中期後葉になるとA4タイプが激減し、溝が台状部を囲むようになります。そもそも何故このように溝が切れる個所(=通路)が存在するのか、様々なパターンがあるのはどうしてか、その形態が時期によって変遷するのはどうしてか、など、通路のあり方も方形周溝墓を考える上でのポイントだと思います。

溝を掘って得た土を台状部に数10センチから1メートル程度の高さに盛ることによって低墳丘を形成します。しかし多くの場合、後世の削平を受けて台状部の盛土や埋葬施設が検出されることはありません。たとえば、愛知県の朝日遺跡では410基以上の方形周溝墓が見つかっていますが、埋葬施設と思われる土坑が検出された例がわずか47例、人骨の出土例はさらに少なく、4例となっています。また、盛土に竪穴を掘って埋葬するため、通常は地表面よりも高い位置に埋葬施設が設けられることも方形周溝墓の特徴とされます。周溝の土を台状部に盛って墳丘を造るということは、周溝は盛土を確保するために掘った跡で周溝そのものには大した意味はないということなのか、それとも溝を掘って方形に区画することが目的で盛土は副産物にすぎないのか。

現代においてもこれと似た例を見ることができます。私の母の田舎では私が子供の頃、つまり50年ほど前まで土葬が行われていました。長方形の穴を地面に掘り、その穴に遺体を納めた棺桶を置いて埋め戻します。埋め戻したあとは残った土を上に盛り、塔婆を立てて周囲を垣で囲ったり、屋形のようなものを設置してそこが墓であることを示します。墓地には今でもたくさんの土葬墓が残っていて、遺族あるいは親族の方がお参りをして維持されていますが、盛土は失われて垣なども朽ちてなくなっています。そうなると瓦を立て並べて囲ったり、改めて小さな盛土をしてその周囲を深さ数センチ程度の溝で囲ったりして、そこに墓があることがわかるようにしています。しかし、その面積は当初からすると半分以下になっています。

現代の方形周溝墓ともいえる土葬墓は垣や瓦列や溝で囲って区画を設けるのです。そうしておかないとそこに墓があることが分からず、埋葬場所を踏み歩いたり、別の埋葬のために掘り返してしまったり、と様々な不都合が生じることになるのです。これは古代の方形周溝墓にも言えることで、おそらく周溝は墓を区画することが一番の目的だったと思うのです。だから、平地では周溝を掘って区画しますが、周溝を掘ることが難しい丘陵の尾根上などでは地山を方形に削り出して台状墓にする、ということではないでしょうか。そして区画するために掘リ出した土は墓に盛ることになります。それがもっとも合理的な処分方法だからです。山岸良二氏は、盛土の高さが周溝内の封土を積み上げた程度の量であることをもって、同墓制の第1義造成意図があくまでも平面区画意識だった、とします。

神奈川県横浜市にある大塚・歳勝土遺跡は弥生時代中期の環濠集落と同時期の方形周溝墓群が隣接して見つかった遺跡ですが、下図は現地の説明板に書かれた方形周溝墓の配置図です。左側の上からS-12・6・7・14・13の5基はコの字型またはL字型をしていますが、この5基が並ぶ少し湾曲したラインの左側は崖になっています。つまり、このラインに沿ったところは溝を掘らなくても区画を示すことができるのです。加えて、5基は左側に傾斜する斜面に造墓されており、もしも盛土の土を確保するために溝を掘削するのであれば、盛土の上面を水平にする必要性から、もっと溝を掘って土を確保するはずですが、実際は他の墓と比べるとむしろ溝が少ない。このことからも、周溝は盛土の土を確保するためではなく、墓を区画するためのものであることがわかります。そうすると、周溝にある掘り残し部分(通路)はどう考えるべきでしょうか。


(歳勝土遺跡の現地説明板より)


(歳勝土遺跡S-7の周溝。写真のすぐ左手が崖になっている。)

方形に区画することが目的であるなら掘り残すことなく周溝を全周させるはずですが、実際はそうなっていなくて四隅の全部あるいは一部に掘り残しがあるケースが多い。これには二つの可能性が考えられます。一つは、周溝部の一辺を掘削する場合を考えると、その中央部での掘り込みは深く両端では浅くなる傾向にあることから、後世での削平が著しい遺構では周溝部の四隅あるいはその一部が陸橋状に検出されることがあるということです。つまり隅の部分は掘り方が浅かったため、後世に溝の底面まで墳丘が削平されて陸橋のようにつながって検出されるというもの。二つ目は、墓を区画する上で周溝を全周させることは必要条件ではないということ、つまり溝の内側が墓であることが認識できる程度に4つの溝で囲まれていれば十分であり、あえて全周させる必要がないということ。

四隅の掘り残しはそういう理解ができるとして、一辺あるいは向かい合った二辺の中央部が掘り残されて通路(陸橋)状になっているA1bタイプやA2cタイプはどう考えるか。溝の真ん中を掘り残しているということはそこに何らかの意図があると思われ、その意図を想定するとなると、やはり通路と考えるのが妥当だと思います。このあと、この通路について考えてみます。

(つづく)

<主な参考文献>
「近江における方形周溝墓の研究」 浅井良英
「方形周溝墓からみた弥生時代前期社会の様相 -近畿・東海地域を中心として-」 浅井良英
「伊勢湾周辺地域における方形周溝墓の埋葬施設」 宮脇健司
「方形周溝墓の造墓計画 ~群構成の歴史的意義~」 前田清彦(福井県鯖江市教育委員会)
「東京湾西岸流域における方形周溝墓の研究Ⅱ」 伊藤敏行
「韓半島の方形周溝墓について ―日本列島との比較を中心に―」 山岸良二 


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前方後方墳の考察①(前方後方墳の疑問)

2024年06月07日 | 前方後方墳
以前に「前方後円墳は壺形の古墳である」とする壺形古墳説を考えたとき、前方後方墳も壺形古墳と言えるのか、という点が最後の疑問として継続課題になっていました。当時は、壺形古墳の亜流、あるいは胴部がぼてっとした壺の形ということでお茶を濁していたのですが、今回、自分なりに納得できる答を出そうと思い直して、前方後方墳そのものを少し詳しく調べていろいろと考えてみました。

まず、あらためて前方後円墳あるいは前方後方墳の形状の由来あるいは起源について考えてみます。白石太一郎氏の著書『古墳とヤマト政権』によると、前方後円墳あるいは前方後方墳の成立プロセスは下図のようになりますが、この考えは現在では定説化された感があります。


(白井太一郎「古墳とヤマト政権」より)

一見もっともらしく見えるので分かったような気になるのですが、実態としてはA類からB類を経てC類へと発達あるいは変化していったということではなく、3つの類型はほぼ同じ時期、つまり庄内式併行期前半(3世紀前半)に同時に存在していたというのです。にもかかわらず同書には「主たる墳丘に至る通路が発達して墳丘と一体化していった」とあり、変化の過程に時間の幅があるような説明がなされますが、同時期に存在したのであれば、A類が原形となってあるとき突如としてB類およびC類がほぼ同時期に出現した、と理解すべきなのです。

また、各地の遺跡で同様の事実が認められるのであれば、3世紀前半の最大でも50年の間に各地で同時多発的にB類やC類が出現した、ということにもなります。実際のところ、大阪府八尾市の久宝寺遺跡では方形周溝墓群の中に方形のA類とC類が見つかっており、寝屋川市の服部遺跡でも円形のA類、B類、C類が隣接した場所で見つかっています。いずれも庄内式期の遺跡です。愛知県では同一地域とみなすことができる廻間遺跡と土田遺跡において庄内式に併行する廻間Ⅰ式期に方形のA類、B類、C類が存在していました。このように少なくとも河内地域や東海地域で同じ3世紀前半において3つの類型が併存していたことがわかっています。

廻間遺跡や土田遺跡の墳丘墓を調査・分析した赤塚次郎氏はその報告書において「廻間Ⅰ式1段階をもってBⅡ類の開口部の発達に向かって志向する可能性が高い。廻間様式にいたると前方後方型墳丘墓は開口部(前方部)が一気に発達すると結論付けておきたい」「廻間Ⅰ式期をもって開口部(B型)が拡張し、急速に前方部が発達する前方後方型墳丘墓が登場し、周溝を巡らすものもⅠ式期前半代で完成する」とします。赤塚氏の言うBⅡ類やB型は白石氏の図にあるB類に相当します。赤塚氏は「一気に発達する」あるいは「急速に前方部が発達する」という表現をしていますが、「一気に」「急速に」という点が重要だと思います。

また、とくに検討が必要なポイントは白石氏の図にあるB類とC類の違いです。墳丘への通路が墳丘と一体化して周溝が全周する、つまり通路が途切れて通路としての機能を果たさなくなっています。単に形状が変わっただけでなく、機能面での断絶が見られます。白石氏は「主丘部への通路を、死者の世界と生者の世界をつなぐ通路と解して、この部分が次第に祭祀・儀礼の場として重視されるようになった」としています。形状が一気に変化し、機能の断絶が起こったにもかかわらず、「次第に」と時間の幅を前提にしていることに疑問を感じずにはおれません。この通路は誰が何のために使用する通路だったのか、前方部は果たして祭祀・儀礼の場であったのか。

なお、赤塚氏は『東海系のトレース』で、東海地方における方形周溝墓から前方後方墳への形状の変化を説いていますが、なぜ変化が起こったのかについての言及はありません。別の論文『古墳文化共鳴の風土』においても「突出部がいかなる原理で発展したかと言う問題をここでは棚上げすれば、カタチのイメージは明らかに弥生時代から踏襲されたモノ」とした上で「前方後円墳とは、弥生時代の地域型墳丘墓である円形周溝墓から出発して変化したものである点は動かない」とし、なぜ前方部が形成されたのか、前方部にどんな意味があるのか、などに触れることはありません。


(赤塚次郎「東海系のトレース」より)

ここから先、方形周溝墓や円形周溝墓を皮切りに、あらためて前方後円墳および前方後方墳について考えていくことにします。

(つづく)

<主な参考文献>
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎
「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」 福永伸哉
「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第10集 廻間遺跡」 愛知県埋蔵文化財センター
「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第2集 土田遺跡」 愛知県埋蔵文化財センター
「東海系のトレース」 赤塚次郎
「古墳文化共鳴の風土」 赤塚次郎




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