古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆荒神谷遺跡

2016年09月30日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 2011年3月、まだ少し雪の残る時期であったが取引先の工場を訪問するために出雲に出張の機会を得た。午後からの用件であったので午前中の時間を利用して、出雲空港からタクシーで荒神谷(こうじんだに)遺跡、加茂岩倉遺跡、神原(かんばら)神社古墳の3箇所を訪れた。ここでは荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡について、そのときの印象をまじえて確認しておきたい。

 まず荒神谷遺跡であるが、荒神谷博物館出雲観光協会などのサイトをもとに整理すると、この遺跡は島根県出雲市斐川町神庭西谷にあり、1983年に広域農道(出雲ロマン街道)の建設に伴う遺跡分布調査が行われた際に須恵器の破片が見つかったことから発掘が開始され、1984年に山あいの斜面から358本もの銅剣が出土した。さらに翌年にはその地点からわずか7m離れた同じ斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土した。
 銅剣はいずれも長さが50cm前後、重さが500g余りの中細形c類で、製作時期は弥生時代中期後半と考えられている。鋳型が見つかっていないため製作地は不明であるが、形式がすべて同じなので同一地域で製作された可能性が高く、出雲製の可能性も否定できない。銅鐸は6個とも高さが20cm前後、国内最古の型式のものが1個あるほか、それよりもやや新しい型式のものが1個あり、製作時期は弥生前期末から中期中頃と考えられている。製作地は近くの加茂岩倉遺跡出土の銅鐸との関連性などから北部九州製の可能性が高いといわれている。銅矛は中広形14本と中細形2本に分けられる。製作時期は銅剣とほぼ同じか若干後の時期と考えられている。その形態や北部九州で出土する銅矛にみられる綾杉状の文様があることなどから、16本とも北部九州で製作されたものとみられる。
 銅剣358本は丘陵の南向き斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に刃を起こした状態で4列に整然と並べて埋められていた。銅鐸は鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で交互に2列に並べられていた。銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の向かって右側に16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。銅剣、銅鐸、銅矛のいずれもが祭祀の道具として利用されていたが、ある時期に何らかの理由でここに埋納されたと考えられている。
 

(筆者撮影)

 それまでの通説であった北九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏、近畿を中心とする銅鐸文化圏という考え方を覆す世紀の大発見ということであるが、そもそも考古学とはそんなもので、これまでもこれからも新しい発見の積み重ねで解き明かされていくものである。それはさておき、現地ではレプリカによって発掘時の状態がかなりリアルに再現されていた。第一印象は、なぜこんな辺鄙な山あいに重要な祭器がこれほど大量に埋められていたのか、ここで何が起こったのか、という疑問だった。そしてこの場で盛大な儀式が行われた映像が頭に浮かばず、ひとりのリーダーと数人の側近者がひっそりと、そして粛々と祭器を並べて埋めていく様子が浮かんだ。とくに銅剣358本が4列に隙間なくびっしりと並べられている状態を目の当たりにしたとき、銅剣がよほど重要なものであり、1本1本を手に取りながら慎重に丁寧に並べていく姿が思い浮かんだ。
 あらためてそれぞれの製作時期を見ると次のようになる。

  銅剣・・・弥生時代 中期後半
  銅鐸・・・弥生時代 前期末~中期中頃
  銅矛・・・弥生時代 中期後半(銅剣とほぼ同じか若干後)

 銅鐸については、その内面の突帯の磨耗状態から長期に使用されたことがわかるという見解があり、これをもとにその使用時期を中期後半頃までと想定すると、銅剣、銅鐸、銅矛ともに製作時期あるいは使用時期として弥生中期後半という一致が見出せる。とすると、これらが埋納された時期として弥生時代後期前半という考えが成り立つのではないか。
 出雲では弥生前期から中期末あるいは後期前半にかけて銅剣、銅鐸、銅矛といった青銅器を祭祀に用いる集団がいた。銅鐸および銅矛の製作地から考えて、この集団は北部九州とのつながりを持っていた。しかしその集団は、弥生後期に何らかの理由でそれらの祭器をまとめて埋納してその祭祀を止めてしまった、と考えられる。

 ここでもうひとつ確認しておくことがある。彼らが祭器として用いた青銅器、とくに銅剣や銅矛はいずれも初期段階においては実用的なもの、すなわち実戦で用いる武器であったはずだ。それがなぜ武器としての用途を捨てて祭器専用となったのか。
 これについてはいずれ専門家の考えを調べようと思うが、今のところ私は次のように考えている。これらの青銅武器は他者を制圧するためのものであり、すなわち力の象徴であった。当初は武器として用いながら、一方でその力を持ち続けることを神に祈るための用具、すなわち祭器として用いた。初期の祈り方としては戦いの場で剣や矛をかざして「頼むぞ!」という感じだろうか。それが徐々に戦勝祈願の儀式になり、そのための祭器として用いられるようになったのだろう。
 しかし製鉄技術が一般的になり、より殺傷力のある鉄製の武器が普及するようになると銅製の武器は実戦用途を失い、祭器としての用途のみで使われることとなった。結果として銅矛などはまったく実戦で使えないような大型で幅広なものになっていった。荒神谷において青銅器を埋納した集団は製鉄技術に長け、鉄製武器を保有していたはずだ。そうであるからこそ、大量の銅剣や銅矛に武器としての価値を認めず、埋めることに躊躇はなかった。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆対馬海流

2016年09月29日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、素戔嗚尊よりも先に出雲を支配していた集団はどこからやってきたのか。また、出雲と越との関係はどうなのか。朝鮮半島や大陸と日本海沿岸地域のつながりについて改めて確認しておきたい。
 「朝鮮半島と日本海沿岸とのつながり」のところで書いたように、日本海沿岸部、とりわけ出雲には縄文時代以来の朝鮮半島との交流の痕跡が多く残っている。松江市鹿島町の古浦砂丘遺跡からは朝鮮半島で見られる松菊里系土器とともに約60体の朝鮮半島系渡来人の人骨が見つかった。また、出雲市の山持遺跡からは縄文時代から弥生時代後期の遺物を含む砂礫層から朝鮮半島北部で製作された楽浪土器が出土した。同じく出雲市大社町の原山遺跡では朝鮮系無紋土器が、出雲市の矢野遺跡、松江市の西川津遺跡などからは朝鮮半島の粘土帯土器が出土している。
 朝鮮半島から日本海沿岸には対馬海流を利用してやってくることになる。しかし、この対馬海流に乗ってやってくるのは朝鮮半島からばかりではなく、大陸の沿岸部から出た場合もこの流れに乗れば九州の西を通って対馬海峡を越え、日本海に入ってくることが考えられる。日本海沿岸部には朝鮮半島から渡来した人々が圧倒的に多かったであろうが、江南地方などから渡来した人々もいたことはすでに「中国華北とつながる倭国」の中で触れておいた。

 日本海学推進機構のWebサイトによると「対馬海流は黒潮の一部が対馬海峡から日本海に入り、日本列島の沿岸を北に向かって流れ、その一部は間宮海峡をこえてさらに北に向かい、シベリア大陸の沿岸を流れる」とあり、私が小学校で習ったのと違いはない。また、公益財団法人である日本海事協会のサイトには「対馬海流は沖縄の近くで黒潮からわかれ、対馬海峡をとおって日本海へ入り、山陰沖、能登沖で大きくうねりながら、一部は津軽海峡をぬけて太平洋へ出ていく」とある。

 (日本海学推進機構のサイトより)


 さらに、海上保安庁のサイトを見ると、その対馬海流の流路については三分枝説と蛇行説があるという。蛇行説は日本海事協会の説明に近いものだと思うが、これに拠った場合、出雲および丹後から越にかけての一帯で海流が日本列島に大きく近づくことになり、このあたりで日本列島に漂着する可能性が非常に高いことになる。私は出雲と越は朝鮮半島から渡来した集団が形成した国、丹後は江南方面から渡来した集団が形成した国、と考えている。日本列島、とりわけ日本海沿岸地域の古代史は対馬海流によって作られたと言っても過言ではない。

 (海上保安庁のサイトより)
  

 素戔嗚尊よりも先に出雲を支配していた集団や素戔嗚尊をリーダーとする集団とはどんな集団で、出雲と越はどんな関係にあったのか、その頃の山陰地方では何が起こっていたのか、といった問題を考えるにあたって、このあたりの重要な遺跡を確認しておきたい。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆素戔嗚尊と出雲

2016年09月28日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 天の岩屋事件の後に高天原から追放された素戔嗚尊は根の国に行く途中、出雲の簸の川に降りた。素戔嗚尊は高天原から出雲に降臨したのだ。これは天照大神の孫である瓊々杵尊が高天原から日向の高千穂の峯に降臨したことと対比でみるべきである。天孫降臨のところでも書くが、高天原は日本列島の外、すなわち中国大陸や朝鮮半島を暗示している。天孫族は大陸の江南の地から日向の地にやってきた。一方の素戔嗚尊は朝鮮半島から出雲へやってきた。なぜ朝鮮半島かというと、書紀の一書(第4)に高天原を追放されて新羅の国に降りたことが記されているからである。しかし素戔嗚尊は新羅の地が気に入らず自ら舟を作って脱出し、その後に出雲の簸の川の上流にある鳥上の山についた、となっている。さらに一緒に降臨した子の五十猛神(いたけるのかみ)は持っていた多くの木の種を韓の地には植えずに全てを持ち帰って大八洲国に蒔いたので日本に青々としていない山は無い、ともある。 また、一書(第5)では素戔嗚尊が「韓鄕の島には金銀がある。わが子が治める国に船がなければ困るだろう。」と言っていることから朝鮮半島の事情に詳しいことがわかる。
 さらに出雲国風土記によれば、最初にできた出雲国が小さく作られたので、出雲の神である八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が遠くの「志羅紀(新羅)」「北門佐岐(隠岐道前)」「北門裏波(隠岐道後)」「高志(越)」の余った土地を裂き、引き寄せて縫い合わせてできた土地が現在の島根半島である、と記されている。この逸話からも出雲と朝鮮半島(新羅)の関係を想定せざるを得ない。素戔嗚尊は朝鮮半島(おそらく新羅)からやってきて出雲に定着した集団のリーダーと言えるだろう。

 素戔嗚尊は出雲に降りたあと、脚摩乳(あしなづち)、手摩乳(てなづち)という土着の夫婦とその娘の奇稲田姫(くしいなだひめ)と出会い、八岐大蛇(やまたのおろち)に立ち向かうことになる。八岐大蛇が何物を表しているかについてはいろいろな説がある。島根・鳥取県境の船通山(素戔嗚尊がたどり着いた鳥上の山)系を源とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川などの川、およびその支流を頭が八つある大蛇に見立てたとする説、中国山地の幾重にも重なる山並みや分岐する尾根を八つの頭や尾に例えたとする説、古事記では高志之八俣遠呂知と記されていることや、出雲国風土記で大穴持命(おおあなもちのみこと)が越の八口を平らげたという記載があり、この八口が八岐を想起させることから高志(越)の豪族であるという説などである。
 私は、この大蛇の背には松や柏が生え、八つの山、八つの谷の間にいっぱいに広がったという書紀の記述は出雲の土地そのものを表していて、脚摩乳・手摩乳の八人の娘が毎年一人ずつこの大蛇に呑まれてしまったとあるのは、娘をこの土地の支配者に差し出していたことを表しているのではないかと考える。ただ、実際の子供を差し出していたわけではなく、奇稲田姫の名にあるとおり「稲」、すなわち毎年の収穫を供出していたという意味であろう。
 つまり、素戔嗚尊よりも先に出雲を支配する一族がいて、その一族は出雲の民に毎年の収穫を納めさせていた、ということだ。そして朝鮮半島から出雲にやって来た素戔嗚尊はその支配者を退け、これが八岐大蛇の話になったと考える。素戔嗚尊が大蛇の尾を斬ったときに剣(草薙剣)が出てきたという話から、この支配者は剣を象徴とする一族であったと考えられる。剣を祀り、稲作を定着させていたこの先住支配族もまた朝鮮半島から渡ってきた一族であったのだろうか。
 大蛇を退治した(先住支配族を退けた)素戔嗚尊は夫婦の娘である奇稲田姫と結婚する。この名前にある「奇」は奇御魂(くしみたま)の「奇」と同じ使い方であり古神道でいう一霊四魂の「奇」、すなわち「不思議な力をもって物事を成就させる」という意味がある。また「稲田」は読んで字の如く「稲の実る田」を表している。奇稲田姫は「水田一面に稲穂を実らせる力をもった姫」という意味になろうか、この姫は豊穣の神であった。素戔嗚尊と奇稲田姫の結婚は、素戔嗚尊が豊かな出雲の地を手に入れたことを表している。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆天照大神と素戔嗚尊

2016年09月27日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 天照大神、月読尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の三柱の神を古事記では三貴子(みはしらのうずのみこ)という。書紀の本編では伊弉諾尊と伊弉冉尊が大八洲国と山川草木を生んだあと、天下を治める者として生んだ神々である。古事記では、伊弉冉尊の死後に黄泉の国を訪れて彼女の遺体を見てしまった伊弉諾尊が命からがら帰還、その穢れを拭って身体を清めるために禊ぎをしたときにその身体から生まれた神々となっている。書紀の一書(第6)にも同じ話が記されており、左目から日の神、右目から月の神、鼻から素戔嗚尊がそれぞれ生まれた。日の神が天照大神であり、月の神が月読尊である。
 天照大神は体が光輝いて天地を照らす霊力の強い子だったので、伊弉諾尊・伊弉冉尊は天照大神をこの国に長く置いておくわけにはいかないと考え、天に挙げて天上のことを教え込むことにした。また、月読尊が放つ光は日の神の次に明るく、日に添えて天を治めることが出来ると考えて、同じように天に送った。素戔嗚尊は勇敢だったが我慢ができず、いつも泣き喚いていた。そのため国の人々は死んでしまい、青い山々は枯れ果てた。伊弉諾尊・伊弉冉尊は、素戔嗚尊は道に外れており天下に君たることは出来ない、と言って遠い根の国へ追放した。

 天照大神と素戔嗚尊は記紀ともに様々なシーンで登場するが、月読尊はほとんど登場しない。役割のない月読尊がここに登場するのは、日(太陽)と月の対比という意味がありそうだが、それなら逆に素戔嗚尊の存在が不要となる。記紀では中国で聖数とされる奇数の「三」を用いて、神様が三人セットで登場することが多い。国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊の三人、天御中主尊・高皇産霊尊・神皇産霊尊の三人、火闌降命(ほすそりのみこと=海幸彦)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)・火明命(ほあかりのみこと)の三人、などである。本来であれば天照大神と素戔嗚尊だけでよかったのだろうが、三人にする必要から月読尊を登場させた。また古事記においては、月読尊の存在がないとすれば素戔嗚尊が右目から生まれることになり天照大神と対等になってしまう。月読尊を右目にすることで素戔嗚尊は鼻から生まれたことにできるので、それによって一段下に位置づけようとした。月読尊を登場させた意味はそれくらいの理解でいいと思う。

 天照大神は生まれてすぐに天上界に送られ、そのあとは常に高天原に居てその役割を担っている。一方の素戔嗚尊は根の国に行く前に高天原に行こうとしたり、天照大神に誓約を仕掛けたり、出雲に降り立ったり、乱暴狼藉を働いたり。大胆で行動的ではあるが、少し大げさに言うと運命に動かされている感がある。
 また、天照大神と素戔嗚尊の話はどう考えても対立の図式になっている。素戔嗚尊が根の国に行く前に高天原の天照大神に会いに行く場面では、天照大神は自分の国を奪いに来たと思い込み、武装して臨戦態勢を敷き、来訪の理由を問い詰める。一方の素戔嗚尊は邪心はないといって誓約での勝負を挑む。誓約で勝った素戔嗚尊は春になると天照大神が持つ田に対して種を蒔いた上に重ねて種を蒔いたり、畦を壊したりした。秋には田に馬を放して邪魔をしたり、新嘗祭を見て神殿で大便をしたり、天照大神のいる機殿(はたどの)に馬の皮を剥いで投げ入れたり、と狼藉の限りを尽くす。ついに天照大神は怒ってしまい、天岩屋に入って岩戸を閉じて隠れてしまった。八十万神の努力によって天照大神は岩屋を出ることができたが、その後、神々は素戔嗚尊の罪を責め、罰を与えた。沢山の奉げものを供えさせ、髪を抜いて手足の爪まで抜いてその罪をあがなわせた。 そしてついに素戔嗚尊は高天原から追放されてしまう。
 このあたりの記述は古事記も似たり寄ったりであり、二人の神は常に対立し、互いに争っている状態にあることが読み取れる。どう考えても同じ親を持つ血のつながった関係には思えない。天照大神は高天原の神、素戔嗚尊は根の国の神であり、この二人、あるいはこの二人を代表とする2つの集団が対立関係にあった、という考えのもとで先に進みたい。

 二人の誓約の結果はこうだ。天照大神が素戔嗚尊の十拳剣を受け取り、これを三段に折って天眞名井の水ですすいで清めて、噛んで砕いて生まれたのが、田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)の三姉妹、すなわち宗像三女神。次に素戔嗚尊が天照大神が身に着けていた八坂瓊の500個の御統(みすまる=玉飾り)を受け取って、天眞名井の水ですすいで噛んで噴き出した息が霧となって生まれた神が、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)、天穗日命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、ほか二柱を加えた計五柱の男神。そして天照大神は「三女神は素戔嗚尊の剣から生まれたから素戔嗚尊の子、五柱の男神は自分の御統から生まれたから自分の子である」と言った。このことは、三女神は素戔嗚尊グループに属し、天孫降臨につながる正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊ら五人は天照グループに属する、ということだ。宗像三女神が素戔嗚尊から生まれたということから、筑紫と出雲のつながりが考えられよう。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡(実地踏査ツアー)

2016年09月26日 | 実地踏査・古代史旅
2013年6月16日、仲間と三人で纏向遺跡をレンタサイクルで回る。大神神社を参拝して三輪山に登り、下山後に三輪そうめん。その後、桜井市立埋蔵文化物センターで纏向遺跡からの出土物を見て山辺の道へもどり、ホケノ山古墳、箸墓古墳から纏向へ。自転車で走っていると地面の傾斜がよくわかる。奈良盆地東側の山裾ぞいに山辺の道、西側に結構な傾斜を下ったあたりに纏向遺跡の中心部。邪馬台国を感じながらペダルを漕いだ。

大神神社を参拝して三輪山へ
 
三輪山は撮影禁止。見てきたことを口外することもNGとのこと。

日本各地から運び込まれた土器
 

祭祀に用いられたと思われる連弧文板や鳥型木製品など


鏡のほか銅鐸片や鋳型片も出土
 

茅原大墓古墳の墳丘上から三輪山を臨む


ホケノ山古墳の前方部から後円部を見上げる


ホケノ山古墳の後円部頂上から箸墓古墳を眺める


箸墓古墳の前方部左手前から後円部を眺める


纏向勝山古墳の後円部


纏向矢塚古墳の墳丘頂上


この実地踏査は纏向遺跡が邪馬台国だと直感した意義あるツアーになった。東西に走る近鉄電車を境にして北側が纏向の地、つまり邪馬台国の領域で、南側が磐余の地、すなわち神日本磐余彦尊(神武天皇)の狗奴国の領域だった。



↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。

古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三内丸山遺跡

2016年09月25日 | 遺跡・古墳
2012年8月25日、青森出張の機会に立ち寄った三内丸山遺跡。青森に行く機会なんて99%これで最後になると思い、団体での視察コースの最後に無理やり追加してもらって訪問。

<三内丸山遺跡の公式サイトより>
 三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
平成12年11月には国特別史跡に指定されました。


六本柱建物

復元された建物を見ても何のために建てられたものかよくわからない。少し無理のある復元だ。

大型竪穴式住居

大型竪穴式住居跡の中でも最大規模。長さ32m、幅10mにもおよぶ。共同生活の場、土器などの工房、それとも集会所?

掘立柱建物(高床式倉庫) 

たくさんの高床式倉庫があるということは保管する食料がたくさんあったということ。栗などが計画的に栽培されていたとも言われている。

竪穴式住居


発掘時トレンチの復元

リアルに再現されていた。

日本列島(本州)最北端に想像以上に進んだ縄文人の生活が見出された意義は大きい。シベリア大陸と陸続きだった頃にやってきた大陸人が定着して縄文人になった。日本人の起源を考える上において鹿児島の上野原遺跡と並んで重要な遺跡である。



↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。

古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆国生み(大八洲各国の比定)

2016年09月24日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 伊弉諾尊と伊弉冉尊が生んだ国々について、書紀では本編と一書を含めて6通りの組み合わせが記されており、古事記と合わせると全部で7通りの組み合わせがある。表にまとめると下のようになる。古事記の吉備児嶋以降の6つの嶋は大八嶋国を生んだ後に追加で生んだ国である。



 淡路の重要性については先述したが、淡路以外の国についても重要な国であったからこそ、あるいは当時の天皇家に意味があったからこそ、ここに登場させたのだと思う。一書を含めた書紀においては、淡路洲=淡路、大日本豊秋津洲=大和(または畿内)、伊予二名洲=四国、筑紫洲=九州、億岐洲(億岐三子洲)=隠岐、佐度洲=佐渡、越洲=越、吉備子洲(子洲)=吉備児島、壹岐洲=壱岐、對馬洲=対馬、と大半が無理なくその国を特定できるが、大洲だけがどうも不明である。周防の大島(屋代島)とするのが通説であるが、周防大島を登場させる意味があるとするとただひとつ、瀬戸内海の西端にある島であるということ。東端に淡路島、それとの対比で西端の周防大島。付近の潮が速いのは淡路と同じだから、瀬戸内海の西の要衝であることには違いない。しかし、淡路島はそれ以上に天皇家にとって大きな意味があった。すなわち、領有地を持ち、海人族を住まわせ、兵器生産を行っていた、ということだ。周防大島にはそういうものがない。だから私は周防大島ではないと思う。

 あらためて列挙された国を眺めてみると、重要な国がひとつ抜けていることに気がつく。それは「出雲」だ。先に書いたとおり、私の考えでは出雲は第10代崇神天皇の故郷である。また魏志倭人伝に5万余戸の規模を誇る「投馬国」と記された国である。記紀神話においても素戔嗚尊が高天原から追放されて向かった国であり、葦原中国平定の最終局面である国譲りの場面で登場する重要な国である。それが国生みに出てこないのはおかしい。いや、国生みに登場しているからこそ、素戔嗚尊の向かう国としても、国譲りの対象としても登場させることができるのだ。そう考えると「大洲」は「出雲」であると考えるのが最も合理的だと思う。「洲=国」と考えると「大洲=大国」となり、大国主命の名もここに由来しているのかも知れない。中国山地を挟んで山陽側に吉備の小島(児島)、山陰側に出雲の大島、という対比で描いたとも言えるだろう。

 島根半島は今でこそ出雲平野で本州とつながる半島になっているが、その昔は出雲平野はなく沖合に浮かぶ島であった。中国山地から流れる斐伊川や神門川が運ぶ土砂が出雲平野を形成した。とくに斐伊川流域では古代より鉄穴(かんな)流しによる砂鉄採取とたたら製鉄が盛んに行われ、それに伴う排土が平野を急速に拡大させた。その結果、本州と沖合の島がつながって現在の島根半島になった。島根県出雲市の出雲大社にほど近いところに大島町というところがある。島根半島が島であった頃の名残りなのかもしれない。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

室秋津島宮と宮山古墳

2016年09月23日 | 遺跡・古墳
2016年6月18日(土)、快晴のこの日、奈良県の葛城地方一帯を車で巡った。鴨都波神社、葛木御歳神社、高鴨神社、一言主神社、そしてこの室秋津島宮址と宮山古墳。
 室秋津嶋宮は奈良県御所市にあり、第6代考安天皇の宮である。宮山古墳の後円部に接するところにあり、現在は八幡神社となっている。宮を感じさせる痕跡はまったく残っていなく、それよりも八幡さん拝殿左手の鳥居をくぐって古墳の頂上へ上ることができるので、そちらに興味がいった。

  

宮山古墳は別称「室大墓」と言われている。全長が238m、全国第18位の規模の前方後円墳で、5世紀初頭の築造と推定されている。被葬者としては記紀に伝わる葛城襲津彦に比定する説が有力視されている。
 

埋葬施設は、後円部に2ヶ所、前方部に2ヶ所、張出部に各1ヶ所の計6ヶ所と推定される。後円部の2ヶ所は、それぞれ竪穴式石室に竜山石製の長持形石棺を納めたものである。長持形石棺は「王者の石棺」とも称される王墓に特有の棺であるが、本古墳の棺はその中でも大規模な部類になる。石棺は現在も石室に納めた状態のまま保存されている。この石室周囲には2重の埴輪列が長方形に巡らされていた。埴輪列のうち、外側列は甲冑形埴輪(冑は革製)・靭形埴輪・盾形埴輪など高さ約1.5メートルを測る埴輪40体前後から成る大規模な武器形埴輪列、内側列は円筒埴輪・朝顔形埴輪列とする。武器形埴輪は正面を外側に向けて被葬者を守る意味合いを示す。そのうち冑形埴輪が当時一般的な鉄製冑形でなく革製冑形であることから、被葬者自身の武具の象徴というよりも被葬者を守護する親衛隊の象徴と見られる。また2重埴輪列のさらに南側には、大型の家形埴輪5体以上が置かれていた。
  

鴨都波神社、葛木御歳神社、高鴨神社、一言主神社はまた別の機会にアップします。



↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。

古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆国生み(「洲」の意味)

2016年09月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 国生みの話でもうひとつ考えておきたい点がある。それは書紀で表記される「洲」の意味である。一般的に「シマ」と読んで「島」と同意であると考えられている。古事記では「嶋」と表記されているから「シマ」で問題ないようにも思うが、通説で言われるように「大日本豊秋津洲」を本州島と捉えるのは少し範囲が広すぎないだろうか。また、「越洲」は越前・越中・越後の「越」であるとされているが、ここは島ではない。その一方で、淡路洲は明らかに淡路島であり、吉備子洲は吉備の児島であろう。
 私は「洲」は「州」の意味で使われていると思う。「州」はまとまった地域や行政の単位を意味する言葉である。たとえば律令時代の「国」、江戸時代の「藩」、現代の「都道府県」などがこれにあたる。「越洲」は「越の国」であり、淡路洲は「淡路の国」である(たまたま島と国の範囲が一致している)。さらに、これらの地域をいくつかまとめて一括りにする場合も「州」を使う。東北地方を奥州と呼んだり、九つの国が集まっているから九州と呼ぶのがそれにあたる。したがって、伊予二名洲や筑紫洲はまさに後者の用例にあたり、そのことは古事記の以下の記述をみればわかる。

伊予之二名嶋は体一つに顔が四つあります。
顔にはそれぞれに名前があります。
伊予国は愛比売(えひめ)といいます。  
讃岐国は飯依比古(いひよりひこ)といいます。
阿波国は大宜都比売(おおげつひめ)といいます。
土佐国は建依別(たけよりわけ)といいます。

筑紫嶋も体が一つで顔が四つあります。
それぞれの顔に名前があります。
筑紫国を白日別(しらひわけ)といいます。
豊国を豊日別(とよひわけ)といいます。
肥国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といいます。
熊曾国を建日別(たけひわけ)といいます。

 そう考えると大日本豊秋津洲は本州島という大きな島を指すのではなく、その中のあるまとまった地域を指すと考えるのが妥当ではないか。そしてそれは当時の日本の中心であり首都とも言える「大和の国」、あるいは首都圏のようにもう少し広く捉えて「畿内」を指すのではないだろうか。神武王朝第6代の孝安天皇が宮を置いたのが室秋津嶋宮であり、奈良盆地南西部の葛城地方を秋津嶋と呼んでいたことがわかる。奈良盆地南西部の神武王朝と東部の崇神王朝を統一した応神王朝以降、「秋津洲」は大和あるいは畿内を指すようになったと考えたい。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆国生み(淡路洲の誕生)

2016年09月21日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 伊弉諾尊と伊弉冉尊は夫婦となって国生みを始める。淡路洲、大日本豊秋津洲、伊予の二名洲、筑紫洲、億岐洲と佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の順に生み、あわせて大八洲国という。一書の第1・第6・第7・第8・第9においても同様の話が記されるが、これらの記述において気が付いたことがある。
 書紀の記述では一書(第1)を除くすべてで淡路洲が一番目の誕生となっている。古事記においても「淡道之穂之狭別嶋」として淡路が一番目だ。一番になっていない書紀の一書(第1)においても大日本豊秋津洲に次ぐ二番目である。これは天皇家にとって淡路島が余程重要な位置づけであったということではないか。
 瀬戸内海を西から東に向かったときに、淡路島は畿内に入る手前で瀬戸内海を塞ぐように横たわる島である。潮の流れの速い明石海峡か鳴門海峡を越えなければ畿内へ入れない。その意味で淡路島は瀬戸内海航路の要衝と言える。九州を出て瀬戸内海を通って東征してきた神武天皇は自らの経験からそのことを十二分に理解していたので、神武自らが、あるいはその後裔が早い段階でこの島を押さえたのではないだろうか。それ以来、神武後裔の天皇家の実質的な領有地になったと推測する。書紀の応神天皇から允恭天皇までの記述を見ると、天皇家が淡路に海人族を擁していたことや淡路に狩場を持っていたことがわかる。

 淡路島の北部、西側の海岸線から3キロほど入った丘陵地に五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡がある。弥生時代後期の鉄器製造施設跡23棟から成っており、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。遺物として鉄鏃、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。また石槌や鉄床石、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物跡も発見され、これまでに発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては最大規模で、住居は少なく、鉄器の製造に特化した特異な遺跡である。神武王朝は淡路を支配下に置き、この五斗長垣内に鉄器製造工場を設けたのだ。九州での倭国との戦闘において証明された高い鉄器製造能力はここでも活かされたということだ。

 この遺跡から南西に10キロほどのところに淡路国一之宮の伊弉諾神宮がある。祭神はもちろん伊弉諾尊と伊弉冉尊である。天皇家の祖先神とも言える伊弉諾尊は淡路に幽宮を設けて人生の終盤を過ごした。おそらくその終焉の地と考えられるところに神宮が設けられたのだろう。伊弉諾尊は神武王朝において淡路を統治し、兵器の製造と供給を司る人物を投影した神ではないだろうか。晩年を過ごし、かつ終焉を迎えた地が兵器製造基地の目と鼻の先であったということに加えて、国生みの後の一書(第6)によると、火の神である軻遇突智(かぐつち)を生んだ伊弉冉尊がその火で死んでしまったため、伊弉諾尊が剣で軻遇突智を斬ったところ、経津主神(ふつぬしのかみ)や武甕槌神(たけみかづちのかみ)の祖先が生まれたとある。この二人の神は出雲の国譲りの場面で十握剣を使って大己貴神に国譲りを迫る役割を担う。伊弉諾尊自身と伊弉諾尊から生まれた二人の神がいずれも剣の使い手として描かれていることもそのことを暗示しているように思える。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆天地開闢と神々の誕生

2016年09月20日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀におけるいわゆる天地開闢の段において、まず三柱の神が生まれた。国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟淳尊(とよくむぬのみこと)の三神である。次に、泥土煮尊(ういじにのみこと)と沙土煮尊(すいじにのみこと)、その次に、大戸之道尊(おおとのじのみこと)と大苫邊尊(おおとまべのみこと)、さらに、面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)、そして、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の八柱の神が誕生した。国常立尊から伊弉諾尊・伊弉冉尊までを神世七代と呼ぶ。

 書紀には本編とは別に一書(あるふみ)が別伝として併記されているが、その記載も含めて気になる点がある。書紀本編に登場する最初の神である国常立尊、国狭槌尊、豊斟淳尊の三神はこの天地開闢以降はどこにも登場していない。登場しない神、いわば役割のない神をなぜ冒頭で登場させたのか。そして、一書(第4)で高天原にいる神として天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、神皇産霊尊(かむむすびのみこと)が登場するが、この三柱の神は古事記においては真っ先に登場する神、すなわちすべての根源となる神として描かれている。なぜ書紀は本編でそうしなかったのか、なぜ本編ではなく別伝としたのか。さらに、それにも関わらず書紀では、特に高皇産霊尊は国譲りや天孫降臨、神武東征など重要な場面で登場するという不整合が見られるが、これはどういうことだろうか。
 天御中主尊、高皇産霊尊、神皇産霊尊の三神は高天原の神、つまり天照大神(あまてらすおおみかみ)や瓊々杵尊(ににぎのみこと)、神武天皇の祖先である。古事記ではこの三柱の神がこの世の最初の神であることを明確に示すことができたが、正史である書紀ではそれができない事情があった。それは高天原の天孫族系ではない氏族への配慮からではないか。この世はどの一族の系譜にもつながらない中立の神から始まった、そうしておくことで非天孫族の反発を押さえる必要があったのではないだろうか。国常立尊、国狭槌尊、豊斟淳尊の三神はそのためだけに登場した神であり、その後に登場させる必要はなかったのだ。そして実際のところは高天原の神を活躍させることが必要だった。ただし、活躍した神は高皇産霊尊のみであり、天御中主尊と神皇産霊尊は天地開闢以降に登場シーンはない。中国で聖数とされる奇数の「三」に合わせるためにこの二柱の神を加えたのではないだろうか。天御中主尊や神皇産霊尊はいかにも中立的な呼称である。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆日本書紀に記された神話

2016年09月19日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さてここからは日本書紀をもとに歴史を紐解いていくことにする。あらためて書紀の神代巻について順を追って見ていきたい。神武東征までの大まかな流れを確認しておくと次のようになる。

① 天地開闢と神々の誕生
② 国生み
③ 天照大神と素戔男尊
④ 葦原中国の平定と国譲り
⑤ 天孫降臨
⑥ 山幸彦と海幸彦
⑦ 神武東征

 なお、私は書紀や古事記などに記された神話は何らかの史実、事実に基づいて書かれていると考える立場である。もちろん全てが事実であり真実であるとは考えていないが、何らかの事実をモチーフに作られており、書かれている内容には何らかの意味が込められていると考え、それを自分なりに解釈していこうと思う。


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さきたま古墳群(実地踏査ツアー)

2016年09月18日 | 実地踏査・古代史旅
2016年9月4日(日)、埼玉県の県名の由来である「さきたま古墳群」を訪ねる。JR高崎線の熊谷駅で秩父鉄道に乗り換え、行田市駅で下車。

まずは映画「のぼうの城」で一躍有名になった忍城を見学することに。行田市郷土博物館として本丸が再建されているが、外観とは違って中はお城の雰囲気はまったくなく、展示内容もチープでがっかり。石田三成の水攻めに耐えた浮城として名を馳せているのに肝心のそのあたりの説明が詳しくなく、中世や江戸時代以降の近世の説明がほとんどなので、残念ながら興味が失せてしまった。


ランチは行田市名物のゼリーフライ。忍城近くの「つりがね堂」というお店でゼリーフライとふらい焼きそばを注文。ゼリーを揚げているのかと思ってこわごわ食べてみると、単なるコロッケ。形が銭に似ているから銭フライ、それが訛ってゼリーフライとか。ふらい焼きそばは、小麦粉を溶いてクレープ状に焼いた少し厚めの生地で焼きそばを包んだもの。半分くらい食べると飽きてくる。粉もん好きの大阪人にとっては何とも中途半端な食べ物でした。

そしていよいよ、さきたま古墳群へ。

まずは日本最大の円墳である丸墓山古墳。直径105m、高さ18.9m。かなり高い。石田三成が水攻めの状況を観察するために頂上に陣を敷いたと言うのも頷ける。墳丘へ向かう小道は当時の堤(石田堤)の名残り。
 

次は金象嵌の銘文が入った「金錯銘鉄剣」が出土した全長120mの稲荷山古墳。


整備工事のために残念ながら墳丘に登ることはできなかった。隣接する博物館に鉄剣の実物が展示されている。
  

このほか、古墳群最大の前方後円墳である全長138mの二子山古墳、全長90mの将軍塚古墳など9基の大型古墳が群集する。
 


世界遺産登録を目指しているらしいが、生目古墳群と同じく日頃のメンテナンスが行き届いておらずに草ぼうぼう、博物館のビデオ説明も20年前のものを垂れ流し、ファミリーが楽しめる場所でもなく、考古学や古代史に興味ある人がワクワクするような場所にもなっていない。帰りに乗ったタクシーの運転手曰く「街の人は誰も世界遺産に登録されるなんて思っていない」って。



↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。

古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆邪馬台国=崇神王朝

2016年09月17日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏志倭人伝に記された邪馬台国は大和の纒向にあった。そして日本の史書である記紀によれば、古代にこの纒向付近に宮を置いた天皇がいることがわかる。崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の3人である。書紀では、崇神天皇は「磯城の瑞籬宮」に、垂仁天皇は「纒向の珠城宮」に、景行天皇は「纒向の日代宮」にそれぞれ宮を設けたとなっている。古事記ではそれぞれ「師木水垣宮」「師木珠垣宮」「纒向之日代宮」とされている。崇神天皇は第10代天皇とされているが、その崩御年をみると書紀では「辛卯」となっており該当しそうな西暦年に置き換えると211年、271年、331年のいずれかになる。古事記では「戊寅」となっており同様に西暦にあてはめると198年、258年、318年のいずれかとなり、一般的には318年であると考えられている。いずれの場合をとっても崇神天皇は弥生時代後期あるいは末期の天皇ということになり、纒向遺跡の繁栄した時代と見事に重なる。すなわち、崇神天皇は邪馬台国の王であったと考えられる。そして倭人伝において邪馬台国は投馬国(出雲)の次の国となっていることからも、崇神天皇は出雲から大和にやってきた王であったと考えたい。
 しかし、魏志倭人伝では邪馬台国の王は女王であった。とすると、崇神天皇は倭人伝では何者とされているのか。卑弥呼が共立された場面で「年已長大無夫婿有男弟佐治國(年すでに長大なるも夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む)」と記述されているが、崇神はここに登場する「男弟」ではないかと考える。鬼道を用いた卑弥呼はいわゆるシャーマンとして神託を司り、それを受けて実際に政治を行なったのが男弟の崇神だったのではないか。そして女王卑弥呼の死後、この男弟である崇神が王(天皇)になったが残念ながら倭国をまとめることができずに混乱をきたした。

(このあと、神武王朝、崇神王朝という呼び方をするが、神武王朝は初代神武天皇から第9代開化天皇まで、崇神王朝は第10代崇神天皇から第15代仲哀天皇までを指すこととする。同様に、応神王朝を第16代応神天皇から第25代武烈天皇までとする。)

 崇神王朝と神武王朝は奈良盆地で睨み合う状態、すなわち両王朝が並立する状態に陥ったことは先に書いたが、記紀によると崇神天皇は第10代天皇であり、初代が神武天皇である。これはどういうことだろうか。私はこのように考えている。記紀の編纂を指示した天武天皇は大陸江南の流れを汲む一族の系列、すなわち神武一族の後裔であったので、天武は自らの祖先である神武を天皇家の開祖として初代天皇に仕立てた。同時に崇神天皇およびその後の天皇(垂仁、景行、成務、仲哀)も倭国の王として存在し、その存在を消すことができなかったため、実際は並立していた神武王朝と崇神王朝を万世一系の考えに従って神武王朝→崇神王朝と順番に成立したことにした。これが、神武、崇神ともに「ハツクニシラススメラノミコト」と呼ばれる所以である。さらに言えば、この神武王朝と崇神王朝を統合したのが応神天皇であった。
 卑弥呼の死後、神の宣託を告げる巫女を失った崇神はいったん自らがその役割をも担おうとして「王」となったが、やはり各国がそれを許さなかったため、あらためて台与に巫女役を担わせることにし、自分は政治に専念するようにしたところ、うまく回りだした。結果として大和に入ってからの神武はなかなか崇神を倒すことができず、しばらく両王朝が並立する形になった。書紀では崇神王朝のときに四道将軍の派遣、熊襲征伐、日本武尊の活躍などが記されている。四道将軍の派遣先である吉備や丹波は神武と同盟関係にあった国(これについては後に触れる)であり、熊襲にいたっては神武の故郷である。九州での戦いで敗れ、大和では女王卑弥呼を死に追いやられた邪馬台国崇神王朝は狗奴国神武王朝に対して反撃に出たのだ。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆連立方程式と仮説

2016年09月16日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここまで主に魏志倭人伝の記述内容と考古学の視点から弥生時代の日本列島西半分の状況を見てきた。簡単に振り返ってみる。

 弥生時代中期、日本列島は魏と朝貢関係にある朝鮮半島系の国々と、むしろ呉とのつながりが想定される大陸江南系の国々が各地に盤踞していた。2世紀後半、これらの国々が互いに争う内乱が勃発した。前者の国々は邪馬台国の卑弥呼を女王として共立することで同盟関係を構築して連合国家である倭国を形成し、中国魏との朝貢関係を背景に大和から山陰、北九州に及ぶ大きな勢力を誇った。一方で後者の国々は狗奴国を盟主とする同盟関係を構築し、製鉄や稲作など当時の先端技術をもって勢力拡大をはかった。弥生時代後期、この状況下において、狗奴国連合と邪馬台国連合は九州を舞台に一戦を交えることになった。この九州での戦いは兵器生産能力に勝る狗奴国がほぼ勝利を収めることとなり、この結果は卑弥呼を死に至らしめた。

 この話はいわば中国史書による文献史学と考古学の二元連立方程式を私なりに解いた結果である。つまり両者の整合をとりながらできるだけ合理的な説明を考えた結果である。

 さて、弥生時代後期のこの状況を日本側の史書である日本書紀と照らし合わせるとどうなるか。二元連立方程式に日本書紀など日本の文献という変数を加えた三元連立方程式を解かねばならない。古代日本における大和政権はどのようにして誕生したのか、さらに考えを進めていくことにするが、この段階においてなお物語の結末は見えていない。したがって変数が増えたことでこれまで出した解が変わる可能性があり、そのことはご容赦願いたい。このあと、日本書紀を順に見ていくのであるが、その前提として現時点で考えている仮説を記しておきたい。

 倭国大乱の中、狗奴国は男王卑弥弓呼が自ら指揮を執って南九州を出発、海路にて瀬戸内海を東進し、各地の国々と同盟を結びながら倭国の本丸に攻め入った。同盟関係になった国は「宇佐」「安芸」「吉備」「紀伊」などである。そして瀬戸内海の東端にある淡路島を抜けて大阪湾から畿内へ進出、紀伊の力を借りながら大和へ侵入した。奈良盆地の中央部には邪馬台国が建国される以前から栄えていた国があった。丹後から進出してきた一族の国である。狗奴国東征軍はこの国を制圧したのち、奈良盆地の南部に拠点をおき、女王卑弥呼がいる奈良盆地東南部の邪馬台国と対峙することとなった。九州の狗奴国本体は北九州倭国に勝利し、その勢いで東征軍は大和において卑弥呼を死に追いやった。卑弥呼の死後、男王が立ったが倭国の国々は承服せず国中が混乱に陥る。そして卑弥呼の宗女である台与を王として反撃に出るも形勢逆転には至らず、大和には九州から来た狗奴国と邪馬台国が睨み合う時代がしばらく続いた。
 九州から大和に遷った狗奴国の王である卑弥弓呼こそが日本書紀にある神日本磐余彦尊、つまり神武天皇であった。神武は倭人伝に登場していたのだ。さらに卑弥呼の死後に立った邪馬台国の男王は崇神天皇であった。邪馬台国は崇神天皇が出雲から進出して築いた国であり、崇神もまた倭人伝に登場していた。さらに、神武天皇が先に制圧した大和の国は丹後から来た饒速日命の国であった。神武は饒速日命を制圧した後に大和(=日本)の王を名乗った。一方で崇神も倭国の王であった。

 「天皇」という称号や「神武」「崇神」という天皇の諡号はこの時代には使われていなかったが、ここからは話をわかりやすくするためにこれらの用語を用いたい。また、ここから先は日本書紀をベースに物語を展開するが、記述を簡略化するために「書紀」と記すことにする。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする