瓊々杵尊の后である鹿葦津姫は別名を木花開耶姫、さらには神吾田津姫(かむあたつひめ)という別名も持つ。つまり、大陸江南から日本列島にやってきた瓊々杵尊は地元「吾田」の娘と結ばれた。そして、この娘は自らを「天神が大山祇神を娶って生んだ子である」と言った。
大山祇神は別名を和多志大神(わたしのおおかみ)といい、海神(わたつみ)につながることから山の神のみならず海の神でもある。瀬戸内海の大三島にある全国の山祇神社の総本山である大山祇神社に訪れたことがある。まず大三島そのものは東西軸では関門海峡から明石海峡にいたる瀬戸内海の真ん中に位置し、南北軸は四国の愛媛県今治市から大島、伯方島を経由して大三島、そして生口島、因島、向島を経て本州の広島県尾道市につながるいわゆる「しまなみ海道」のちょうど中間地点にあたり、まさに瀬戸内海の中心に居座る島である。大山祇神社はその大三島の西側の湾になったところの真ん中あたり、海岸から程近いところにあり、実際に行ってみると山の神というよりもまさに海の神という印象が強烈である。大山祇神は瀬戸内海航路を押さえていた海洋系一族の首長ではないだろうか。天孫降臨の段で瀬戸内海を押さえる大山祇を登場させておいて、その後の神武東征とその時の宇佐や安芸、吉備との関係を語りやすくしているような気がする。
鹿葦津姫が産んだ三人は、第一子が隼人の祖とされる火闌降命、第二子が彦火火出見尊、第三子が尾張連の祖である火明命である。天孫の瓊々杵尊と吾田の娘である鹿葦津姫の子が隼人の祖になっている。まさに阿多隼人である。これは隼人族に天孫の血が入っていることを伝えている。隼人は5世紀以降に畿内に移住して近習隼人として履中天皇や雄略天皇の傍に仕えたり、「隼人司」として6年交代で宮中の警護に当たったりしただけでなく、彼らの犬の吠え声を真似た儀礼が魔除けの力をもつと信じられた。また、隼人の首長には新しい姓も授与された。685年に畿内在住の豪族11氏に忌寸姓が賜与されているが、その中に「大隅直」が入っていることから推察できる。大隅直は大隅半島の隼人族と考えられ、その一部がこの時期までに畿内に移住して隼人集団を率いて朝廷に従っていたとみられるからである。このように大和政権における隼人は決して辺境の蛮族として冷遇されたわけではなく、むしろ天皇家を支える役割を担い、天皇家にとって近しい存在であったと考えられる。天武天皇崩御のときに大隅および阿多の隼人が諸氏とともに誄(しのびごと)をした(弔辞を述べた)ことが何よりの証左となろう。当時、天皇家が隼人の地から来たことが周知であったため、その隼人に天孫の血が入っていることを誰も否定することはできなかった。火明命の尾張氏も同様である。尾張氏は壬申の乱で吉野を脱出した天武天皇(当時は大海人皇子)に援助の手を差し伸べるなど書紀編纂を命じた天武天皇にとって最も重要な氏族であったので、この神話の段階で天孫の血統であることを伝えた記述を他の氏族は否定することができなかった。
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大山祇神は別名を和多志大神(わたしのおおかみ)といい、海神(わたつみ)につながることから山の神のみならず海の神でもある。瀬戸内海の大三島にある全国の山祇神社の総本山である大山祇神社に訪れたことがある。まず大三島そのものは東西軸では関門海峡から明石海峡にいたる瀬戸内海の真ん中に位置し、南北軸は四国の愛媛県今治市から大島、伯方島を経由して大三島、そして生口島、因島、向島を経て本州の広島県尾道市につながるいわゆる「しまなみ海道」のちょうど中間地点にあたり、まさに瀬戸内海の中心に居座る島である。大山祇神社はその大三島の西側の湾になったところの真ん中あたり、海岸から程近いところにあり、実際に行ってみると山の神というよりもまさに海の神という印象が強烈である。大山祇神は瀬戸内海航路を押さえていた海洋系一族の首長ではないだろうか。天孫降臨の段で瀬戸内海を押さえる大山祇を登場させておいて、その後の神武東征とその時の宇佐や安芸、吉備との関係を語りやすくしているような気がする。
鹿葦津姫が産んだ三人は、第一子が隼人の祖とされる火闌降命、第二子が彦火火出見尊、第三子が尾張連の祖である火明命である。天孫の瓊々杵尊と吾田の娘である鹿葦津姫の子が隼人の祖になっている。まさに阿多隼人である。これは隼人族に天孫の血が入っていることを伝えている。隼人は5世紀以降に畿内に移住して近習隼人として履中天皇や雄略天皇の傍に仕えたり、「隼人司」として6年交代で宮中の警護に当たったりしただけでなく、彼らの犬の吠え声を真似た儀礼が魔除けの力をもつと信じられた。また、隼人の首長には新しい姓も授与された。685年に畿内在住の豪族11氏に忌寸姓が賜与されているが、その中に「大隅直」が入っていることから推察できる。大隅直は大隅半島の隼人族と考えられ、その一部がこの時期までに畿内に移住して隼人集団を率いて朝廷に従っていたとみられるからである。このように大和政権における隼人は決して辺境の蛮族として冷遇されたわけではなく、むしろ天皇家を支える役割を担い、天皇家にとって近しい存在であったと考えられる。天武天皇崩御のときに大隅および阿多の隼人が諸氏とともに誄(しのびごと)をした(弔辞を述べた)ことが何よりの証左となろう。当時、天皇家が隼人の地から来たことが周知であったため、その隼人に天孫の血が入っていることを誰も否定することはできなかった。火明命の尾張氏も同様である。尾張氏は壬申の乱で吉野を脱出した天武天皇(当時は大海人皇子)に援助の手を差し伸べるなど書紀編纂を命じた天武天皇にとって最も重要な氏族であったので、この神話の段階で天孫の血統であることを伝えた記述を他の氏族は否定することができなかった。
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