古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅④

2024年03月16日 | 実地踏査・古代史旅
2024年3月10日、いよいよ最終日。まずはホテルから車で10分ほどの小迫辻原遺跡へ。ここも2回目ですが、以前に来た時は広い台地のど真ん中に車を停めて、遺跡全体を眺めて帰ったのですが、あとで調べると端っこの方に説明板があることが分かって少し後悔したので、今回はその説明板を目指しました。




一面に見える黄色の花は朝霜が凍てついた菜の花です。弥生時代から古墳時代にかけての住居跡や墳墓などが発掘され、なかでも3基の環壕居館は日本最古の豪族居館跡と考えられています。安徳台遺跡もそうだったけど、防御などのために台地上に集落を形成するのはわかるとしても、水の調達が大変だったろうな、と思って調べてみると「史跡小迫辻原遺跡保存管理計画書」に「辻原台地上には湧水がないため灌漑用の水路がひかれている」と書いてありました。環濠集落や環濠建物が出ているので、どこかから水を引いてくる必要あるよな。

日田インターから高速に乗って一気に宇佐を目指します。途中、由布岳PAから由布岳を眺めてちょっとだけ観光気分。



ほぼ予定通りに宇佐神宮に到着。ここは3回目になります。当初の計画では宇佐神宮に来る前に御許山の上にある大元神社を訪ねることにしていたのですが、どうやら車で近づくのが難しそうなのであきらめました。




宇佐神宮は謎の多い神社。邪馬台国宇佐説では上宮本殿のある亀山が卑弥呼の墓ということになっていますが、果たしてどうでしょうか。一之御殿に八幡大神(応神天皇)、二之御殿に比売大神、三之御殿に神功皇后がそれぞれ祀られます。只今は鎮座1300年を迎える令和7年の勅使奉幣祭に備えて改修中でした。




この上宮のすぐ下に下宮があり、祭神は上宮と同じ三神です。こんなすぐ近くに同じ祭神を祀るのはどうしてでしょうか。下の説明から考えるに、下宮にはもともと大和の大神神社の社家の生まれとされる大神比義(おおがひぎ)が祀られていたのではないでしょうか。欽明天皇のときに大和から宇佐に派遣され、宇佐の菱形池に現れた八幡大神を初めて見たとされる人物です。




神宮寺跡や一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)跡、勅使が渡る呉橋など、広い境内をひと通り見て回ったあとは、参道の商店街でお土産を購入して次に向かいました。





次の目的地は宇佐風土記の丘。大分県立歴史博物館を見学して、すぐ横の赤塚古墳を見て、というコースですが急きょ、凶首塚古墳や百体神社に立ち寄ることにしました。大和朝廷は養老4年(720年)に九州の隼人を一斉に討伐。凶首塚古墳はその隼人の首が埋められていると伝えられます。そして隼人の霊を慰めるために宇佐神宮では放生会が行われ、その霊が百体神社に祀られることになりました。





勅使道がまっすぐに伸びた先に呉橋があります。まるで北海道でみるような真っすぐな道はちょっと感動でした。



寄り道のあとは風土記の丘へ。寄り道したことと博物館で少し時間を要してしまったので、風土記の丘に並ぶ古墳群(川部・高森古墳群)の見学をあきらめて赤塚古墳だけで我慢しました。




赤塚古墳は3世紀後半、九州最古の前方後円墳とされています。全長が57.5mほどでそれほど大きくないものの、畿内の椿井大塚山古墳やこのあと行くことにしている石塚山古墳と同笵の三角縁神獣鏡が出ており、大和と北部九州のつながりを考える上で重要な古墳です。また、3世紀後半は邪馬台国の時代でもあるので卑弥呼の墓と言われたことも。





後ろ髪を引かれる思いで次を目指します。次は京都郡みやこ町にある綾塚古墳と橘塚古墳です。ここも当初の予定になかったものの、北部九州の遺跡に詳しいメンバーのオススメがあったので行くことにしました。いやあ、行った甲斐がありました。






綾塚古墳は7世紀前半、直径40mの円墳。7世紀前半と言えば畿内では巨大古墳の築造がすでに終わっています。それなのにこの地ではこんなにデカい石を使った複室構造の巨大横穴式石室。東国でも古墳時代後期に巨大な前方後円墳が造られるなど、やはり大和から離れた地域では中央の動きが遅れて伝わるのか、それとも中央への従属意識が薄れて自立するようになっていったのか。



この説明板に登場するウイリアム・ガウランドは古墳研究の先駆者で「日本考古学の父」と呼ばれ、前方後円墳は円墳と方墳が合体したものであるとの説を唱えました。前方後円墳を勉強したときに知った名前にこんなところでお目にかかることになろうとは。

次は橘塚古墳。ここは小学校の敷地内にあるので入れないかもしれないと言いながら到着してみると、なんと校門が開いているではないですか。職員の方に了解を得ようとしてくれたものの誰もいない様子だったので、勝手ながら入らせていただきました。綾塚古墳よりも少し古い6世紀末、一辺が37〜39mの方墳で、こちらも巨石を使った複室構造の石室を持っています。飛鳥の石舞台を彷彿とさせます。綾塚古墳と橘塚古墳、来た甲斐がありました。






次はいよいよ3日間の最終目的地、出現期の前方後円墳とも言われる石塚山古墳。15分ほどで到着し、先に隣接する苅田町歴史資料館を見学します。舶載の三角縁神獣鏡7面や素環頭大刀などが出土していますが、この地を神域としていた宇原神社が社宝として所蔵しているため、残念ながら資料館には展示されていませんでした。現存する鏡は京都府の椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵とされています。



説明板に築造時期が書かれていませんが、もともと4世紀初めごろとされてきたのが、最近では年代を遡らせて3世紀中頃から後半を想定する考えが広がりつつあるそうです。





墳丘に登って周囲を歩いて全長130m、高さ10mを実感してきました。後円部の墳頂には竪穴式石室が出たと思われる場所が石で囲われ、墳丘は斜面を含めて一面に葺石が見られました。墳丘には浮殿神社が鎮座します。








これで予定した行程を完遂。小倉まで走ってレンタカーを返却、お茶してから小倉駅で解散です。とにかく事故なく無事に終われてホッとしたとともに、充実した旅の満足感に浸りながら新幹線で帰路につきました。次は丹後や吉備という案が出ているので、またまた企画に腕を振るいたいと思います。(おわり)


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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅③

2024年03月15日 | 実地踏査・古代史旅
2024年8月10日、2日目の午後は私がこの旅でもっとも楽しみにしていた場所のひとつ、王塚古墳から。

王塚古墳は6世紀前半の築造で、遠賀川流域では最大となる全長86mの前方後円墳。ここの見どころは何と言っても石室内の装飾壁画です。靫・盾・騎馬・珠文・双脚輪状文・わらび手文・三角文などが赤・黄・緑・黒・白の5つの色でびっしりと描かれています。



壁画の実物は見れませんが、隣接する装飾古墳館の中に見事に復元されています。この中に入ると時間が経つのを忘れていつまでも立っていられます。というか、横になって被葬者の目線で石室内を眺めたくなりました。いつか装飾古墳を勉強してみよう。


この古墳は遠賀川水系の大分川と穂波川が合流する地点、穂波川右岸に立地します。遠賀川も穂波川もこんなに内陸まで遡っても流れが穏やかでそこそこの水量があります。古代の遠賀川は直方市あたりまで潟が広がっていたともされ、この流域は水運によって栄えたことでしょう。飯塚市歴史資料館に展示されていた解説には立岩遺跡が不弥国であると書かれていました。

さて次はここから近いということで急きょ加えた大分八幡宮。ここも2回目の参拝。筥崎宮の元宮とされ、祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫の三神。


境内の裏手にある小山の上には仲哀天皇の陵があるとされ、急な階段を登ってきました。仲哀天皇陵は大阪の藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳に治定されていますが、『記紀』それぞれで崩御の描かれ方が違うものの、いずれも九州で亡くなっています。いったいどこがホントの陵墓なんだろうか。


さあ、ここから山越えで福岡平野に戻ります。渋滞する大宰府をなんとか通りぬけて安徳台遺跡のふもと、裂田溝わきのカワセミ公園の駐車場に到着。裂田溝は神功皇后が武内宿禰とともに開削したと『日本書紀』に記される用水路。流れる水のなんと澄んでいることか。


安徳台遺跡は駐車場のすぐうしろに見える台地の上に広がる弥生時代中期の集落遺跡で、130棟もの住居跡や甕棺墓などが見つかっています。比高差30mほどの台地上からは奴国が一望できます。


時刻は16時近く。山越えのショートカットで次の安永田遺跡を目指します。細いクネクネ道を難なく通り抜けて予定より少し早い到着。


1980年に九州で初めて銅鐸の鋳型が出土した場所です。さらに銅矛の鋳型片、溶解炉跡、フイゴなども出たことから、弥生時代中期の青銅器工房跡と考えられています。


説明板にある通り、銅鐸も銅矛も鋳型片が散らばった場所から出土しているのだけど、これはどう考えればいいのでしょうか。工房としての役目を終えたあと、鋳型を破壊してまき散らしたのか、それとももともと一カ所にあったものを後世の人が移動させたのか。いずれにしても九州で銅鐸が生産されていたことを示すエポックメイキングな場所と言えます。またこの発見のあとの1998年、吉野ヶ里で銅鐸そのものが出土しています。

そろそろ夕暮れが近づいてきたので次の高良大社へは高速を走って急ぎます。高良大社も2回目。今回は境内への階段を使わずに車で社殿裏手の駐車場まで登りました。その結果、神籠石を間近に見ることができてラッキーでした。


Wikipediaによると、高良大社の神籠石は城郭説と神社を取り囲む聖域であるとする霊域説があり、明治時代に論争が展開されましたが、昭和になって佐賀県の神籠石の調査から山城であることが確定的になったとあります。しかし、どうみても山城や城郭には見えません。うーん、どうなんでしょう。


境内から筑後川下流域が一望できます。遠くには吉野ヶ里遺跡、邪馬台国があったとされる朝倉なども望めます。眼下の平野では磐井の乱が展開されたそうです。この地を物部の故地とする専門家もいます。とにかく古代史好きなら必見の場所ですね。

高良大社の祭神は高良玉垂命。左殿に八幡大神、右殿に住吉大神を従えます。高良玉垂命とは誰なのか、Wikiによると、武内宿禰、中臣鳥賊津臣命、物部胆咋連、饒速日命、彦火々出見尊、景行天皇などなど諸説があって定まっていません。個人的には武内宿禰もしくは物部氏に関係する人物だと思います。


時刻は17時半。いよいよ日が暮れようとしています。おそらく夕陽待ちをしているのでしょう、たくさんのカップルがいました。


さて、いよいよこの日のラスト、高良大社のふもとにある祇園山古墳へ向かいます。卑弥呼の墓という説があるのにこれまで知らなかった古墳です。


一辺が約23mの方墳で3世紀中頃の築造です。墳丘上には箱式石棺が残されていて、墳丘の裾には葺石が、周囲には殉葬墓とも言われている石棺墓や甕棺墓などがたくさんありました。


太陽がまもなく地平線にタッチする時刻、なんとも幻想的な風景を見ることができました。以上で2日目が終了です。朝一番から精力的に動いて計画を完遂、何とも言えない充実感に浸りました。

この日の宿泊は3日目に備えて日田駅前のホテルを取っていたので、最後に高速を走って日田を目指します。チェックイン後にホテルのダイニングで晩ご飯。疲れもあって早々に解散しました。(つづく)


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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅②

2024年03月14日 | 実地踏査・古代史旅
2024年3月9日、旅の2日目。空気が冷たくてかなり冷え込んだ朝、朝食を済ませて7時半に出発です。この日の行程は「那珂八幡古墳→光正寺古墳→飯塚市歴史資料館→立岩遺跡→王塚古墳→大分八幡宮→安徳台遺跡→安永田遺跡→高良大社→祇園山古墳」と盛りだくさんなので時間を無駄にせずに効率的に周る必要があります。

那珂八幡古墳は何度も福岡に来ていて行こうと思えばすぐに行けるのに、これまで行ったことがなかったので、少し感慨深いものがありました。寺澤薫氏が纒向型前方後円墳としていましたが、最近になって少し長さが変わったために纒向型ではないと発表されていました。





全長85mの前方後円墳で築造時期は説明板には4世紀初めとか4世紀前半と書かれていますが、出現期の前方後円墳という考えが定着している感があるので、さすがに4世紀はないだろう、遅くとも3世紀後半としてくれた方が納得がいきます。ここでメンバーの一人が、九州では古墳の築造時期をできるだけ遅い時期にする意識が働いていると言いました。3世紀に前方後円墳があったとすれば始まりの地である大和の箸墓はそれよりも早い時期になり、邪馬台国大和説に有利に働くから、ということです。さもありなん。






次は光正寺古墳。3世紀後半、全長54mの前方後円墳。糟屋郡最大で、ヒスイ製勾玉や鉄刀、鉄剣、絹織物でまかれた刀子などの副葬品が出ていることなどから、この地の首長墓と考えられ、不弥国の盟主墳との説もあるようです。那珂八幡古墳よりも古いとするわりには出現期古墳としての知名度はどうだろうか。墳丘は綺麗復元整備されていて、墳丘からの眺望は王墓を実感できます。














次は飯塚市歴史資料館。ここは2回目。何と言っても立岩遺跡群から出た多数の甕棺や10面の前漢鏡など、展示資料の迫力が見ものの資料館です。残念ながら写真投稿は禁止となっていました。



資料館で情報収集した後はそのまま立岩遺跡へ。丘陵上のわずかな空間が保存されているだけですが、資料館で見たでっかい甕棺を想像しながらの見学です。






このあと、すぐ近くにあるという立岩神社に行こうとして車でグルグル回ったのですが、参道を発見できずにあきらめました。あとで調べると、熊野神社の境内に車を停めて、神社の裏手から歩いていくことができたようです。

さて、次は私にとってはこの旅でもっとも楽しみにしていた場所のひとつ、王塚古墳ですが、向かう途中のとんかつ屋さんで少し早いランチを取ることにしました。2日目の午前の部は以上です。(つづく)


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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅①

2024年03月13日 | 実地踏査・古代史旅
久しぶりの投稿です。今回は5人の古代史仲間とともに北部九州を巡ったときのレポートとなります。昨年2023年11月頃に仲間で集まった際に誰ともなく発案され、その後に私が行き先の希望を聞くなどして3日間の行程を企画した旅で、日程は2024年3月8日〜10日の3日間で、博多、飯塚、久留米、日田、宇佐、京都などを巡りました。いつもなら行程マップを掲載するのですが、今回はいきなりの大きなハプニングがあって、いろいろと変更を余儀なくされたので、行ったところを順番に紹介することとします。

2024年3月8日(金)、朝9時半に博多駅近くのレンタカー屋さんに集合すべく、私は自宅の最寄り駅から始発の電車に乗り、新大阪を6時25分に出発する「さくら541号」に乗り込みました。予定では9時4分に博多駅に到着です。ところが、、、

福山駅を通過してすぐ、突然に列車が停止しました。「広島・新岩国間で停電が発生したため、一時運転を見合わせます」との車内アナウンス。ところが、その後に停車の原因が「人と列車が接触する事故」に変わり、運転再開見込みが10時と告げられました。集合時間に間に合わないだけでなく、博多着が正午頃になりそうなのですぐに仲間に連絡して、残念だけど本日は不参加の旨を伝えました。その後、再開見込みが10時半に変更され、三原駅まで進み、最終的に広島駅まで走って運転中止が決定されました。



広島駅からは後続のこだまに乗り換えです。その肝心のこだまが到着する前に続々と運転中止を決定したのぞみが入ってきて、ホーム上は人であふれてきました。幸いにもこだまが30分遅れくらいで到着し、座席を確保することができました。結局、博多駅に到着したのが13時を過ぎていたので、トータルで4時間の遅れとなりました。ひとりでどこかへ行こうかとも考えていたのですが、気持ちが少し萎えていたのでランチを取ってそのまま博多駅近くに取っていたホテルに向かうことにしました。

予定通りに出発したメンバーから、16時頃に香椎宮で合流しましょうと連絡が入ったので、もともとこの日の夕方に入る予定だった一人とホテルで落ち合った後、電車で香椎宮に向かいました。少し遅れたものの、無事に香椎宮の境内で合流ができ、本殿を参拝後に仲哀天皇大本営旧跡、沙庭跡、不老水など周辺を散策して本日の踏査が終了となりました。













聞くと、本日の行程を大幅に変更して、もともと翌日に行く予定だった金隈遺跡、板付遺跡、須玖岡本遺跡など、すでに私が行ったことのあるところをこの日に行ってきたとのこと。ありがたや。これで明日は王塚古墳に行けるぞ。

いったんホテルに入ったあと、博多駅すぐ近くの居酒屋で晩ご飯。わたしは新幹線での人身事故という滅多にないアクシデントに見舞われたものの、ほかの皆さんが楽しい1日を過ごしてくれたようで、この旅を企画してよかったと思いました。古代史談議に花が咲き、食後はホテル近くのファミレスで23時過ぎまでワイワイやってました。(つづく)


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象鼻山古墳群から長浜・息長古墳群へ

2023年10月28日 | 実地踏査・古代史旅
2023年10月27日、休みを取って「古代史日和」で知り合った仲間5人と一緒に古墳巡りをしてきました。行き先は岐阜県の象鼻山古墳群、滋賀県の長浜古墳群、そして息長古墳群です。

朝9時に新幹線の岐阜羽島駅で集合です。私以外は皆さん関東の方ばかりで、前泊で岐阜入りしたり、早朝に新幹線でやってきたり、運転手役をかって出た私は自宅から車で向かいました。さわやかな秋晴れの中、岐阜羽島駅をスタート。

最初に目指した象鼻山古墳群には30分足らずで到着、標高142mの象鼻山の山頂を目指します。




車が1台通れるほどの山道を20分ほど歩くと山頂です。山頂付近に70基の古墳が築造されていますが、最大のお目当ては1号墳。全長40mの3世紀中頃か後半に造られた前方後方墳で、畿内と東海の両方の特徴を併せ持つ古墳です。一般的には畿内の影響を受けた東海の一族が築いたとされていますが、実際に墳丘に登って広い濃尾平野を見渡してみると、西からやってきた勢力がここを拠点にして濃尾平野に進出したという全く逆のイメージが湧いてきました。






3号墳は上円下方墳とされていますが、墓ではなく祭祀用の舞台との想定で上円下方壇とする説もあるようです。小さな祠が建っていました。



墳丘に登ってあれやこれやと妄想話に花を咲かせて30分ほどの滞在で下山し、次は美濃国二之宮の伊富岐神社へ。



伊富岐神社境内は綺麗に整備されていて思っていた以上に大きな神社でした。祭神には諸説あるようですが、神社庁サイトでは多多美彦命(たたみひことのみこと)とあり「天火明命の子孫伊福氏の本貫なれば同氏等が氏神として創祀せるなるべし」とあります。伊福=伊吹で、伊福氏は製鉄氏族とする考えがあります。






ここで時刻は11時半。少し早い目のランチは近くの蕎麦屋さん「関ヶ原そば処幸山」へ。新しいお店のようで、店内は蕎麦屋さんらしくない雰囲気。天ぷらが売りのようですが、私は揚げ餅そばをいただきました。




お餅のせいか、歳のせいか、この量でお腹がいっぱいになりました。美味しかったです。さあ、次は関が原を通過して長浜古墳群へ向かいます。まずは横山丘陵の先端に造られた長浜茶臼山古墳。




全長92m、葺石のある二段築成の前方後円墳。築造時期は4世紀後半とも5世紀前葉とも言われています。長浜平野から湖北一帯を一望できる後円部からの眺望は一見の価値ありです。







墳丘上では後円部が丘陵先端だというのは明らかにわかるのですが、前方部、とくに先端部がどのあたりなのかがよくわからず、ここかな、こっちかな、いやいやこのラインでしょう、なんて話で盛り上がりました。





次はすぐ近くの垣籠古墳。全長が50数mで築造時期は5世紀後半とされますが、墳形はどの資料をみても前方後円墳とあり、現地の案内板もそうなっていたのですが、何かの資料(ネット情報?)で、最近になって前方後方墳であることが確認された、とあったのでそれを信じていました。でも、正しくは前方後円墳かも知れません。正確な情報をお持ちの方がいらっしゃればご教授いただければありがたいです。




応神天皇の皇子である稚野毛二派皇子の墓とされていることからか「両岐王宮」という神社になっていて墳丘上に祠が建っています。



後円部の半分が開墾で削られていて前方部の先端のように見えたこと、墳丘上に神社がある場合はたいがいの場合、社殿のあるところが後円部になっていることから、ここも同じだとだれも疑わずに前方部の端はどこだ、角はここかな、なんて言い合ってました。念のために資料を確認すると何とビックリ、前と後ろをまったく逆に見ていたことに気がつきました。





次は丸岡塚古墳。前方部がすでに失われていますが全長が130mに復元しうる湖北最大の前方後円墳で5世紀中頃の築造と推定されています。




田んぼの中の一本道を進んでいったものの、思っていた以上に道が細い。墳丘を巡る道はあるけど、これ以上進むとUターンできそうな場所もなく、直角に曲がる細い道でバックも厳しい。ということでギリギリまで近づいて戻ってきました。

空模様が怪しくなってきました。この日の天気予報は夕方から雷雨の可能性あり、ということだったので先を急ぎます。次は横山丘陵の南側にある息長古墳群の山津照神社古墳。





私はこの古墳は二度目で前回は墳丘に登って周囲をまわって細かく観察した古墳です。同じく二度目という仲間は前回は登っていないというので皆で登りました。削られて崩れてかなり変形していますが、前方後円墳を実感してもらえたようです。




山津照神社も拝んでおきました。




さあ、このあとです。来た道を戻ればよかったのに反対側に出たためにえらい目に遭いました。無理すれば何とか曲がれそうな直角に曲がる細い路地。安易に行ってしまってガリガリ(涙)。後悔しても始まらないので気を取り直して塚の越古墳へ向かいます。私はここも二回目です。




ほとんど削平されてしまっていますが、なんとか前方後円形を確認することができます。また、裏へまわると葺石を見ることもできました。




時刻は15時半。もうひとつくらい古墳を見ようかと思っていましたが、降り出した雨が強まりそうなのですぐ近くの近江はにわ館へ一時退避。息長古墳群で出土した埴輪が見れるものと思っていたのですが行ってみてビックリ。大きな第一展示室はもぬけの殻で真っ暗。第二展示室も前日までの展示品を撤収したばかりと言います。その展示品とは米原市の鎌刃城の出土品。

職員の方がおられたので聞いてみたところ、埴輪などの常設展示品は予算の都合など色々あってホールに展示した4体の埴輪以外はすべて収蔵庫にしまってあるとのことでした。学芸員さんも他の施設に勤務するようになったとのこと。図書館を併設した立派な展示施設で展示室2つもあるにもかかわらず、そして展示する資料も豊富にあるにもかかわらず、なんともったいないことか。陳腐化したPCなどの入れ替えに膨大な予算が必要ならPCがなくてもいい展示にすればよいのに。こんな文化財行政でいいのか、米原市。とても残念な気持ちになりました。






以上でこの日の予定が終了。雨が激しさを増して来たので館内で小降りになるのを待って解散場所の米原駅へ。時刻は予定よりも少し早い16時半。皆さん、お疲れさまでした。東京から来られて1日だけ、というのはもったいなかったと思いますが、次回は皆で1泊しましょう。

私は米原ICから北陸道に乗ったのですが、草津あたりで前方が見えなくなるくらいの土砂降りになりました。金曜日の夕方、仕事帰りの時間に重なったこともあって草津から自宅近くの松原までずっとノロノロ運転の渋滞に見舞われたものの、そんなこと何とも思わないくらいに楽しい時間を過ごせて満足の1日となりました。ありがとうございました!





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飛鳥を巡ってきました(後編)

2023年10月16日 | 実地踏査・古代史旅
飛鳥駅前のレンタサイクル屋さんで自転車を借りてキトラ古墳を目指します。高松塚古墳とともに石室内の壁画で有名な古墳です。ダラダラと続く長い上り坂、帰りは下りなので楽チンだぞと自分に言い聞かせて頑張ってペダルを踏みます。

キトラ古墳では先に壁画体験館「四神の館」へ入ります。先に情報収集した上で現地に立つ。実地踏査の鉄則ですね。ちなみにキトラ古墳は7世紀末~8世紀初頭に築造された小さな円墳です。




石室、正確には横口式石槨のレプリカ。正面(北面)に玄武、右(東面)に青龍、左(西面)に白虎、そして手前(南面)に朱雀が描かれ、それぞれの絵の下に十二支像が描かれます。そして天井には天文図。






壁面の劣化が激しくて壁画を十分に確認することができません。これが発見された当時の姿なのか、それとも保存が適切に行われなかった結果の姿なのか。館内の展示説明は保存や修復の苦労話が並んでいましたが、上手くいかなかったことがあったはずで、そういうことも説明されるべきだと思いました。館内の天井は天文図を模した照明が輝いてなかなか幻想的です。



館内での学習を済ませて外へ出て古墳を見学します。想像していたよりも小さい。この小さな墳丘の中にあんなものが埋まっていたのか。



次は第42代文武天皇陵に治定される檜隈安古岡上陵。ちょうど清掃が行われていて、清掃員の方が門扉を開けて墳丘に入っていくところでした。「手伝いますよ」と言ってついて入りたかった。





そして次は高松塚古墳。ここも先に展示施設の「壁画館」に入ります。高松塚古墳は1972年に色彩鮮やかな壁画が発見された古墳です。キトラ古墳と同様に石室の四面に四神が、天井には星宿図が描かれていて、築造はキトラ古墳とほぼ同じ時期の円墳です。



展示室の両側に実物大の壁画が展示されています。右側に展示されるのが「現状模写」(写真上)、左側の展示が「一部復元模写」(写真下)です。ほとんど違いがないのですが、さて、どう違うのでしょうか。





そんなことをブツブツ言いながら見学しているとタイミングよく職員の方が出てきて教えてくれました。右側は現状のままに模写したもので、左側は泥などの付着物を除去できる範囲で除去した状態を模写したもので、付着物を完全に除去できないのでそんなに違いが出ない、ということでした。

もう一つ、キトラ古墳では天文図と言ってたのに、こちらでは星宿図と言います。これもどう違うのかと思っていたのですが、説明を読んで理解しました。天文図は実際の星(星座)の配置を示していて、星宿図とは実際の配置とは関係なく星座を並べたものです。



見学を終えてすぐ近くの古墳へ。キトラよりも大きいけど直径はわずか23mです。ここも近くから見るだけです。




次は中尾山古墳。ここは発掘調査の結果、8世紀初頭の築造であること、八角形墳であること、立派な横口式石槨をもつこと、石槨中央部に火葬骨の蔵骨器があったと思われること、などから文武天皇の真陵だと考えられています。



天皇陵かも知れないにもかかわらず、発掘調査後の墳丘は残念な姿になっていました。



手前の五角形の石、何か意味ありそうですが、なんだかわかりますか。ヒントはこの古墳が八角形墳であること。この古墳は墳丘裾部(墳丘の周り)に石敷きが設けられていて、それが墳丘と同じ八角形をしていたことがわかっています。この五角形の石はその八角形の石敷きのひとつの角を表しているのです。



このあと、近道をするために自転車で階段を降りて、次の梅山古墳を目指したのですが、古墳の横を通過してまずは猿石を見ようと、吉備姫王墓に寄りました。






今はこの場所に置かれていますが、もともとは梅山古墳の南側の田んぼ(下の写真の場所かな)で見つかったと言います。また、ここには4体ありますが、もう1体が高取城跡への登山道に置かれているらしいのです。ということは田んぼから掘り出されたのが5体あったということになります。



いよいよ最後の見学です。さっき横を通ってきた梅山古墳、第29代欽明天皇陵(檜隈坂合陵)に治定される全長140mの前方後円墳です。築造時期6世紀後半で、天皇陵として築造された最後の前方後円墳になります。ただし、本当に欽明陵だとすればです。



『日本書紀』には妃の堅塩媛を合葬したと記されていることから、この古墳が欽明陵だとすれば主体部には二つの石棺があるはずです。ただ、残念ながら宮内庁管理下にあるために主体部の発掘が叶わず確認することができません。天武・持統合葬陵が野口王墓に治定された今、奈良県下最大の前方後円墳である丸山古墳がどの天皇陵にも治定されない中途半端な状態に置かれています。石棺が二つあることが確実であることから、丸山古墳が欽明陵である可能性は大きいと思います。

以上でこの日の飛鳥巡りは終了です。飛鳥駅で自転車を返却し、帰りの電車を待つまでの間、駅前の喫茶店で休憩です。秋晴れで汗ばむ1日、午前中は山登り、午後からは自転車で坂道上り、結構な疲労感の中で飲んだストロベリーの氷カフェの美味しかったこと。






(おわり)







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飛鳥を巡ってきました(前編)

2023年10月15日 | 実地踏査・古代史旅
2023年10月、そろそろ秋の様相を呈してきた飛鳥を友人と二人で巡ってきました。朝9時に近鉄岡寺駅で待ち合わせをして、丸山古墳→牟佐坐神社→益田岩船→牽牛子塚古墳→岩屋山古墳→近鉄飛鳥駅→キトラ古墳→第42代文武天皇陵→高松塚古墳→中尾山古墳→第29代欽明天皇陵→吉備姫王墓(猿石)という行程で巡って、最後は近鉄飛鳥駅にて予定終了となりました。



丸山古墳(私は中学生のとき以来、つい先日まで見瀬丸山古墳と呼んでいました)は奈良県最大の前方後円墳で、後円部の墳頂部が陵墓参考地になっています。墳丘には自由に登れるものの、墳頂部だけは柵が巡っていて入ることができませんでした。感覚的には纒向にある箸墓古墳や崇神天皇陵などの方が大きい感じがしました。






江戸時代以降、天武・持統天皇の合葬陵に治定されていましたが、明治時代に入って同じ飛鳥にある野口王墓がそうであることを示す資料が見つかったことから、野口王墓が天武・持統天皇合葬陵に治定されることになりました。とはいえ、こちらは奈良県下最大の前方後円墳ということからか、墳頂部だけでも陵墓参考地として残しておこうということになったのでしょう。



牟佐坐神社は第8代孝元天皇の軽境原宮跡とされています。神社はこんもりした小山の上に建っていて、もしかしたら古墳ではないかなと思わせるような小山でした。






益田岩船に行く途中に第4代懿徳天皇の軽曲峡宮(軽之境岡宮)跡の伝承地を経由しましたが、ここは碑が立っているだけでした。



住宅地を抜けて岩船山の麓に到着し、休む間もなく急な山道を登ります。5分ほど登ると見えてきました。益田岩船です。高校のときに松本清張の『火の路』を読んで以来、いちど見てみたかった益田岩船です。でかい。想像以上にでかい。







こんな山の上にポツンと残された巨大な石造物が何のために造られたのか。松本清張はゾロアスター教の拝火台とする新説を提唱されたが、①弘法大師による灌漑用貯水池「益田池」の築造記念石碑の台石、②天体観測や占星術のための台座、③穴の中に遺骨を入れて石の蓋をする火葬墳墓、④横口式石槨の建造途中で石に亀裂が入ったために放棄された、など諸説があって最近では④が有力とされ、わたしもそのように思っていましたが、その巨大さから、石槨とは考えにくいと思いました。横口式石槨ならこの巨石を90度横倒しにしなければならず、この場所で倒すと山を転げ落ちそうとも思いました。

ほぼ半世紀来の念願が叶ったからか、後ろ髪を引かれる思いで次の牽牛古塚古墳を目指して山道に分け入ります。前々日の雨の影響か足元がぬかるみます。まだまだ夏の名残りがあって草木が茂っています。厄介なのがちょうど顔の高さ辺りに張られている蜘蛛の巣。油断すると顔面に絡んでくるのです。さらに、倒木で道がふさがれたところも数カ所。それでも前進あるのみ。20分ほどで牽牛古塚古墳が見えてきました。









ここは2回目です。2022年に復元整備されて史跡公園として開放されていますが、石室の見学は予約が必要です。この復元が物議を呼んだことは記憶に新しいですね。なかなか古墳だと実感できず、私にはUFOにしか見えません。

7世紀中葉〜8世紀初頭の八角形墳で、墳丘裾部に凝灰岩切石が敷き詰められ、さらにこの石敷の上からも大量の凝灰岩切石が出土したことから、墳丘全体が凝灰岩切石で装飾されていたと考えられてこのような復元になりました。埋葬施設は凝灰岩の巨石を使用した刳り抜き式の横口式石槨で、石槨内には二つの墓室があります。『 日本書紀』天智紀に斉明天皇・間人皇女合葬の記載があることなどから第37 代斉明天皇(第35 代皇極天皇)の真陵である可能性が指摘されています。

先に見た益田岩船はもともとこの古墳の石槨として加工されたものの、途中で亀裂が入ったために放棄されたと言われるのですが、果たして真実はいかに。

次は飛鳥駅に向かう途中にある岩屋山古墳。ここも2回目です。巨大な横穴式石室を構成する巨石の切石加工が見事。一辺45m前後の方墳あるいは八角形墳とされます。築造時期は7世紀前半、あるいは7世紀中葉~第3四半期との説もあるようです。八角形墳なら天皇もしくはそれに準ずる皇族の墓の可能性があります。







時刻は11時過ぎ。山道を歩いたこともあって軽い疲労感。飛鳥駅すぐ近くの「Matsuyama Cafe」でランチをとりました。





たまたま1席だけ空いていてラッキーでした。飛鳥駅周辺でゆっくりランチできるお店はここくらいで皆さんにオススメしたいのですが、行かれる場合は予約必須ですね。後半戦は予定を少し変更してキトラ古墳まで足を伸ばすことにしたので、急きょレンタサイクルを借りることにしました。

(つづく)






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亀の瀬から龍田大社へ

2023年07月02日 | 実地踏査・古代史旅
2023年7月2日、亀の瀬地すべり資料館とトンネル内プロジェクションマッピングを観てきました。大和川に並行する国道25号線をこれまでに何十回と走ってきたのに、ここに立ち寄るのは初めてです。



奈良盆地を流れる150以上の川は最後はすべて大和川に集まって、JR関西本線の三郷駅あたりから大阪側の近鉄線安堂駅あたりまで、標高差20m近くをわずか8キロほどで下ることになるので、途中は白波が立つほどの瀬になります。これが亀の瀬。どうして亀の瀬と呼ぶのかというと、川の中に亀のよう見える石があるから。



古代、大和川は河内から大和への交通路として利用されましたが、この亀の瀬を遡ることができなかったので、手前で船を降りて川沿いを徒歩で行き、平坦なところで今度は小さな船に乗り換えて纒向あたりまでゆらゆらと進んだそうです。そして、亀の瀬は大和川の北側の山沿いを行く古代の官道、龍田道の通過点でもありました。

この古代ロマンあふれる亀の瀬は世界でも有数の地すべり発生地で、明治以来に限っても3度の大きな地すべりが発生しています。地すべり事故の惨状やそのメカニズム、国の事業として進められてきた地滑り対策などを学ぶのが「亀の瀬地すべり資料館」です。ビデオによる解説を視聴したあと、ボランティアガイドさんが説明してくれます。決して上手ではなかったものの、理解を深めるには大いに役に立ちました。

















1932年(昭和7年)の地すべりでは関西本線のトンネルが崩壊したため、当時の国鉄はこのトンネルを放棄し、線路は対岸へと迂回するルートに切り替えられました。その後、地すべり対策工事が進められていた2008年、放棄されて忘れ去られていたトンネルが発見されました。地元の柏原市はこのトンネルを利用して「日本遺産『龍田古道・亀の瀬』光の旅路」と題したプロジェクションマッピングを公開していて、今回はそれを観に来たわけです。






煉瓦造りの壁面が黒いすすで覆われた廃棄トンネルが現代と古代をつなぐタイムトンネルに早変わり。なかなか良い映像でした。

地すべり対策で造られた排水トンネルにも入れてもらえました。山にしみ込んだ地下水を集水ボーリングで集めて大和川に逃がすための排水トンネルで、ちょうど前日に降った雨水が集められて天上からボタボタと落ちてきていました。このトンネルが総延長で7キロも掘られ、地すべりをせき止めるための深礎工と呼ばれる巨大な杭が150本以上も打ち込まれるなど、驚くほど大規模な工事による対策が行われていることを初めて知りました。






すぐ近くにある「龍王社」は修験道の開祖である役行者が和歌山県の友ヶ島から順に設けた葛城二十八宿経塚の28番目、最後の経塚とされます。






たっぷり2時間の見学を終えたあとは龍田大社に向かいました。龍田大社はちょうど風鎮大祭の日に当たっていて、拝殿で拝んだ後に神楽を見せてもらうことができました。






秋になったら龍田古道を歩いてみようかな。


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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑦

2023年05月08日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月23日、3日目のレポートです。

いよいよ最終日。前夜、佐々木さんと私は栗林公園横のホテルに宿泊、岡田さんは自宅に戻って英気を養っていただきました。朝8時にホテル横のコンビニに集合して出発です。3日連続の快晴に恵まれて、いい締めくくりができそうな予感。

最初の目的地は快天山古墳。4世紀中頃築造の前方後円墳で全長98.8mは四国第3位。ただし、前期古墳に限れば四国最大規模になります。後円部に2基の竪穴式石室と1基の粘土槨の存在が確認され、いずれも刳抜式の割竹形石棺が見つかっています。この石棺を用いた古墳としては日本最古だそうです。





なんと長い前方部、こんな古墳があるのか、と思ったのも束の間、この部分は前方部ではありませんでした。実際はこの長い長い前方部っぽい途中に下の写真のような立札が立っていて、ここから先が前方部ということです。これの手前側は後世の盛土かと思って調べてみると、どうやら当時からの地山らしい。一見して境い目がなくて一体化しているので、どうやら前方部の先端を明確に切り出さなかったようです。

2002年に綾歌町から出された報告書によると、「墳丘裾縁を平坦にするという彊域設定に対する地形上の変更を施さないために、外観だけでは、墳丘の形を決定することは困難である。」「前方部の先端については、平地に築かれた前方後円墳に見るような、直に切られた斜平面をなさないので、これもはっきりしないが(中略)わずかに低い鞍部をなしているので、そこを一応前方部の先端 と見なすことができる。」とあります。

なんとも曖昧なことで。これで四国第3位が決まったということか。




後円部には何やら石塔が建っています。あとで調べてみると、かつて古墳の東側にあった円福寺というお寺の歴代住職3人(快山・快天・宥雅)のお墓でした。快天というお坊さんの名が古墳の名前の由来になったそうです。この3基の石塔を囲むように3つの石棺が見つかっています。その石棺の出たそれぞれのところに小さな説明板が置かれていました。








後円部上や前方部の裾部分にブルーシートが敷かれていて、何やら調査中の様でした。




初日の富田茶臼山古墳、2日目の渋野丸山古墳、そしてこの日の快天山古墳、これで四国三大古墳を制覇したことになります。

次は国分寺六ツ目古墳。高速道路建設で見つかった古墳で、石室が移築保存されています。なぜここに行こうと思ったのかというと、今回のツアーでどこを周ろうかと考えながらいろんなサイトや資料を見ていたときに、丘の上に築かれたこの古墳の発掘調査時の写真が気に入って、この眺めを見てみたかった、というのが理由です。


(「四国横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 第28冊 国分寺六ツ目古墳」より)

全長21.4m、香川県内最小規模の前方後円墳で、古墳時代前期初頭、4世紀前半頃の築造とされます。竪穴式石室、粘土槨、箱式石棺の3基が確認されました。この写真のまま丘陵の少し上に移築され保存されています。六ツ目霊園に車を停めさせていただいて見学しました。






石室だけが移築されているのかと思っていたら、ちゃんと墳丘部分もありました。埋葬施設を保護する建屋はフェンスだけでもいいような気がしました。



丘陵上からの眺望を楽しみにしていたのですが、新緑の季節で木々が生い茂っていて少し残念でした。

さて、次は石清尾山古墳群へ向かいます。積石塚で有名な古墳群ですが、何年か前の纒向ツアーで訪ねた双方中円墳の櫛山古墳を調べたときに、積石塚の双方中円墳があるこの古墳群の存在を知り、いつかは行きたいと思っていました。4世紀から7世紀にかけての200基余りの古墳群で、墳丘を土で築いた盛土墳と石で築いた積石塚が混在しています。積石塚は4~5世紀にかけてつくられたものだそうです。

山の上は広い公園になっていて大きな駐車場もあります。この日は快晴の日曜日ということもあって家族連れで大賑わい。私たちは車で行けるところまで行こうと駐車場に入りませんでした。

まず最初は坂道の途中にある石清尾山2号墳。径10mの盛土墳で横穴式石室が露出しています。築造は6世紀末〜7世紀初めとされ、新しい古墳です。






次は猫塚古墳。上述の双方中円墳です。4世紀前半の築造で全長が96m。標高200mの山の上にこんなでっかい積石塚を築くとは恐れ入ります。中円部の積石の高さを見ただけでそう感じました。




本当に石を積んでいるだけなので注意して登らないと危ない。サンダルやブーツでは無理です。事前に高松市の公式ホームページを見て、大盗掘により破壊されているとわかっていたものの、墳丘上に立ってみてびっくり。埋葬施設のあった中円部の積石がごっそり運び出されて、大きなクレーターのようになっています。

そのクレーターの縁を歩いて中円部から北側に伸びる長い方形部を確認したあと、クレーターの中心におりました。





もう一度登って西側を見ると高松市街が見渡せます。こちら側にも奥の方に大量の石が積まれていますが、これが盗掘の際に中円部からごっそり運び出された石の山なのでしょう。



クレーターの縁を進むと南側に伸びる方形部を確認できました。結構長く伸びています。



この大盗掘は明治43年という極めて最近に起こったことで、鉱山試掘を偽った計画的な犯行だったようです。現在ほどに文化財に対する理解や保護・保存の意識はなかったと思うものの、これは行政の失態だな。

急勾配の積石を慎重に降りて次に向かいました。次は姫塚古墳。全長43mの積石塚の前方後円墳で築造は4世紀前半。ここは立入禁止になっていました。ロープの外側から後円部と前方部から後円部を見た様子をとりました。





次は小塚古墳。全長17mの積石塚の前方後円墳。古墳群で最も小型の前方後円墳で4世紀の築造。ここは崩れた積石が散乱していて墳形を確認できませんでした。





次が石船塚古墳。全長57mの積石塚の柄鏡式前方後円墳で4世紀後半の築造。後円部から登ってみると真ん中に割竹式石棺が残されていました。







墳丘上から高松市街が見渡せますが、逆に下からこれらの古墳を見ることができたのでしょうか。現在は木々が生い茂っているのでまったく古墳の存在がわかりませんが、もし禿山なら見えるのかもわかりません。そんなことを検証された研究者の方はいないのかな。



最後が鏡塚古墳。全長70mの積石塚の双方中円墳で4世紀前半の築造。猫塚古墳に次ぐ規模で、尾根の最も高い所に立地しています。中円部に登ると平らに石がならされています。猫塚古墳の中円部もこんな感じだったのでしょうか。ここは両側に伸びた方形部がよくわかります。







石清尾山古墳群での古墳見学は以上ですが、この山塊はすべて急峻な岩山で、ここに大きな古墳を造ろうと思っても必要とする土を得ることができなかったと思います。だから仕方なく石を使ったのでしょう。




積石塚をいくつも見ていると、おそらく土を盛るよりも石を砕いて積み上げていく方が大変だと思いました。そうまでしてこの山の上にたくさんの古墳を造った理由は何でしょう。この3日間で多くの古墳が丘陵や山の上に造られているのを見てきましたが、石清尾山はそれらと同列に考えることができません。

4世紀に大規模かつ双方中円墳など多様な積石塚の古墳が築造され、5世紀中頃になると積石塚が小さい円墳になり、5世紀後半には積石塚が造られなくなって、その後100 年間は古墳の築造が途絶えます。そして6世紀後半になって横穴式石室の盛土墳が造られるようになる。石清尾山古墳群はこのような経過をたどったようです。

山を下りる前に見た展望台からの眺めが素晴らしかったなあ。



車で下山する途中、峰山ハチミツというお店がありました。いったん通り過ぎたものの、岡田さんと私の阿吽の呼吸で引き返し、休憩することにしました。おじさん3人で蜂蜜ヨーグルトアイスを注文、爽やかでまろやか、美味しかったです。




これで計画していた3日間の行程はすべて終了です。でも時刻はまだ12時前。ここで大失敗をしていたことに気がついたのです。快天山古墳から六ツ目古墳までは車で20分ほどなのに行程表では2時間もかかることになっていました。行程を変更したときにタイムスケジュールを変更するのを忘れてしまったようです。あと2時間分、どこかに行くこともできたのですが、アイスを食べたこともあって気持ちが終了モード。「以上、終了」としました。

山を下りて、岡田さんおススメの「さぬき一番」というお店でランチです。カレーうどん定食560円はコスパ最高でした。



このあと、栗林公園内の土産物屋さんでお土産を買って岡田さん宅にお邪魔しました。帰りのバスの時間までたっぷり3時間ほどの反省会。私にとって今回の実地踏査ツアーは、讃岐・阿波が思っていた以上に重要な地であることを実感できたこと、前方後円墳の成り立ちに関する様々な気づきが得られたことなど、これまででいちばん満足度の高いものとなりました。

岡田さん、3日間の運転、お疲れさまでした。また、お宅にお邪魔させていただき、ありがとうございました。

日曜日ということもあってか、帰りのバスは満席でした。高速道路から見えた屋島、その名の由来になった屋根のような特徴的な形はこれまでに何度も見ているけども、香川に来た記念に1枚撮っておきました。



佐々木さんはOCATで下車、私は最終の南海難波で下車、ともに無事に帰宅してすべての予定が終了。皆さん、お疲れさまでした。

(おわり)







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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑥

2023年05月07日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月22日、2日目夕方の部のレポートです。

阿波での踏査を終えたあと、新しくできた新猪ノ鼻トンネルを通って阿讃山脈を縦断する快適なドライブで再び讃岐へ入り、讃岐平野の西にある有岡古墳群を目指します。まずは情報収集のため善通寺市役所のとなりにあるZENキューブ(善通寺市総合会館)内にある善通寺市立郷土館に行きました。

郷土館は2階の一画にある小さな施設ですが、迫力ある展示と丁寧な解説で郷土の歴史を学ぶことができる素晴らしい資料館です。





勉強中の縄文時代や展示資料の豊富な弥生時代も興味があったのですが、古墳時代の充実した展示は特筆ものでした。













3人が入室すると職員のおばさんが迎えてくれました。お願いしていないにもかかわらず一所懸命に展示の説明をしてくれます。でも、それがなかなか要領を得ない。私と佐々木さんがスルーする中で岡田さんはきちんと受け答えしていました。すると途中で職員さんから館長さんを紹介され、話が余計にややこしくなります。館長さん、讃岐弁で早口にしゃべるのでなかなか理解が追いつかないのです。

それでもわかったこと。
・王墓山古墳から出土した銀象嵌のある鉄剣は橿原考古学研究所に分析してもらった
・銀象嵌を施すと圧がかかって刀が反るので両面から微妙な力加減でたたきながら調整している
・善通寺の道路がすべて30度傾いているのは南海道が善通寺に突き当たるように設けられたことに由来する
・これによって昔からの善通寺市民の方向感覚は30度ずれている
・弘法大師(空海)は讃岐の豪族、佐伯氏の子で、父の名「善通(よしみち)」に因んで善通寺と名付けた

時間が十分にあればもう少し有効な会話ができたかもしれず、結局どっちつかずの少しもったいない時間になってしまいました。でも、お二人の熱意は十分に伝わりました。ありがとうございました。最後に職員さんが、1階に磨臼山古墳から出た割竹形石棺が展示されているので是非見て行ってください、と教えてくれました。



ZENキューブを後にしてまず王墓山古墳へ向かいました。王墓山古墳は全長46mの前方後円墳で6世紀前半の築造とされています。見事に整備された美しい古墳です。





両袖式の横穴式石室の中に「石屋形」があります。石屋形は九州ではよく見られるものの瀬戸内・四国地方では類例が少なく、 九州地方との交流が認められるとされます。石屋形とは石室内に設置された板石の組み合わせによる遺体安置施設(屍床)のことです。



また、石室内で見つかった金銅製冠帽と銀象嵌入鉄刀はヤマト王権が配下に入った豪族に下賜したものとされ、被葬者はヤマト王権と強いつながりを持った有力豪族と想定されます。



なお、古墳の周辺には陪塚と見られる小円墳7基があったらしいのですが現在では失われています。





佐々木さん、少しお腹が、、、

後円部を囲むように弥生時代終わり頃の箱式石棺や竪穴石室が10数基も見つかっています。この古墳の被葬者につながる一族の墓なのでしょうか。




次はすぐ近くにある宮が尾古墳。6世紀後半あるいは7世紀初頭に築かれた径20mの円墳で、石室内で、人物、船、騎馬人物、船団や殯の様子などを表したとされる四国では珍しい線刻壁画が確認されています。





古墳の向こうにそびえる山が我拝師山。郷土館で銅鐸が出た山として紹介されていました。古墳のすぐ横には横穴式石室と線刻壁画が復元されていました。





また、この古墳の調査中、すぐ隣りで破壊された石室が偶然に見つかりました。





この石室の左手下部にも線刻画が見つかったそうですが、復元された石室で見つけることができませんでした。





ここも史跡公園として整備されており、我拝師山を背にして2基の古墳を眺める光景は一見の価値ありです。

次はこの日のフィナーレとなる野田院古墳。Googleナビが示した宮が尾古墳からの最短経路に従って大麻山を登ることになったのですが、これが大失敗。車一台がやっと通れる細い道、両脇の木々がパタパタと車体にあたる。ちょっと遠回りしても通常ルートで登ればよかったと後悔。岡田さんには申し訳ないことをしましたが、なんとか大麻山頂上近くの野田院古墳に到着。

野田院古墳は3世紀後半に築造された全長44.5mの前方後円墳。後円部が径21m、高さ約2mの積石塚になっています。後円部だけが積石塚という不思議な前方後円墳です。






3世紀後半に西讃岐にも前方後円墳。東讃岐には津田古墳群のうのべ山古墳、阿波には宮谷古墳、吉野川中流域の東原遺跡に前方後円形積石墓と、讃岐と阿波には3世紀後半時点で前方後円墳あるいは前方後円形墳墓が存在したことがわかりました。感覚的には、これら前方後円墳が大和、もしくはそれに類する大きな権力の影響を受けたもの、という印象がなく、それぞれが自らの意志で築造したように感じました。

そして全国には、3世紀後半よりも早い3世紀前半あるいは中頃のものと考えられる前方後円墳(あるいは前方後円形墳墓)がたくさんあります。このことは前方後円墳の由来や意味を考えるにあたって極めて重要な事実であると思うのです。讃岐・阿波の3世紀後半の前方後円墳と同様、これら全てが大和の影響であるとは考え難い。このことは別の機会に考えてみることにします。

展望台に上ると伊予から吉備まで見渡すことができます。







古墳に近づくと後円部の積石の精巧な状況がよくわかります。もちろん現代の技術で復元されたものですが、どうやら築造当時すでにこの状態だったようです。





さて、以上でこの日の踏査は終了です。今から思うと磨臼山古墳にも行っておけばよかったかなと少しだけ後悔。それにしても岡田さん、朝からの長距離運転、最後の大麻山林道の走破、お疲れさまでした。おかげでもこの日も予定の行程を完了させることができました。

晩ご飯は岡田さんが予約してくれていた高松市内にある「弁慶」というお店。




ボリューム満点、味も良し。いいお店でした。


(3日目につづく)







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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑤

2023年05月03日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月22日、ツアー2日目のつづき。

2日目は朝から、渋野丸山古墳、大代古墳、宝幢寺古墳、天河別神社古墳群と見てきて、次はこの旅で一番楽しみにしていた萩原墳墓群です。前方後円墳をはじめとする様々な思考において何度も登場する遺跡なので一度は見ておきたいと、と思っていたところです。

天河別神社古墳群のとなりの尾根、距離にして200mほどのところです。


(さぬき市古墳勉強会のサイトよりお借りしました)

1号墓はこの場所でしたが、残念ながら手前の道路を建設する際に破壊されました。また、そのときに尾根の先端も削られたものと思われます。2号墓はこの丘の上です。



前日、レキシルとくしま(徳島県立埋蔵文化財総合センター)で1号墓の出土品や写真を見たのと、宝幢寺の境内に移築された石室を見ておいたので、想像の世界で復元しました。






2号墓が尾根の上に残っており、南側の尾根先端部に前方部を向けています。1号墓・2号墓ともに弥生時代終末期の3世紀前葉の築造とされます。



急な登り坂を上がっていくと頂上付近で礫が崩れ落ちるように散乱していました。積石に使われていたものかな。




埋葬施設があったと思われる部分に東西方向に礫が積まれていて、いかにもという感じです。上は南側(前方部側)から、下は北東側から撮った写真。




おそらく前方部と思われるところ。上の礫が積まれた部分以外は何が何だかよくわからない状態です。



後円部先端の一段下がった位置から。1mほどの高低差があるので、これが墳丘の高まりなのでしょうか。



写真をいっぱい撮ったものの、あとで見てみると真ん中の埋葬施設部分以外はどこを撮ったのやらよくわからない。南側の木々の間から徳島平野が見えたのが印象的でした。



2号墓の重要な特徴は、積石塚であることはもちろんですが、前方後円形の墳墓であること、石囲いの埋葬施設をもっていたこと、3世紀前葉の築造であること、石材から採取された朱が中国産であると判明したこと、などです。

ここの石囲いの埋葬施設が隣の天河別神社1号墳に、前方後円形が4号墳に受け継がれました。さらに3世紀中頃の纒向のホケノ山古墳がそれらの特徴を備えていることから、阿波とヤマトの強い関係が想定されています。

ただ、現地を見た印象としてそれらを実感することができませんでした。墳丘の範囲や形などが現在の状況と比較できる形で説明したものがここにあれば、あるいは、せめて前方後円形がわかるように少し復元しておいてくれれば、と思いました。さらに、調査時の資料などを検索しても見つけることができませんでした。とはいえ、阿波や讃岐とヤマトの関係をしっかり考えてみたい衝動にかられているので、近いうちに時間をかけて調べてみようと思います。

かなりの消化不良、後ろ髪を引かれる思いでここを離れ、少し早い目のランチを取ることにしました。岡田さんおすすめの徳島ラーメンを食べようということになって、Googleでヒットした「やまふく」というお店に入りました。




少し味の濃いラーメンでしたがしつこくなく、美味かったです。さて、ここから吉野川に沿って西に1時間と少し走って到着したのが徳島県三好郡、吉野川北岸の足代東原遺跡。1基の前方後円形積石墓と36基以上の小型円形積石墓からなっている弥生時代後期から終末期の積石墓群です。




前方後円形積石墓は全長16.5m、主体部は未発掘であるものの組合せ石棺と推定されています。現地に立っていたふたつの説明板はいずれも東みよし町教育委員会によるものですが、一方は弥生時代終末期の築造とし、もう一方は古墳時代初頭となっていて見解が揺れているようです。東みよし町のサイトでは後者の見解をもとに最古の積石塚古墳としています。同じ場所に立つ同じ機関による説明板としては混乱を招くだけなので改善を望むところです。



前方後円形の積石塚はたしかに形はその通りなんだけど、とくに前方部にあたる部分は積石というよりも石を敷き詰めただけという感じ。これを古墳というのは少し無理があるなあ。

円形墓群は直径1.2m程度のものと2.5m前後のものに大別され、出土した土器から前方後円形積石墓よりも少し早い弥生時代後期末の築造とされます。





前方後円墳の原形が3世紀初頭の萩原2号墓とされ、それが3世紀前半あるいは中頃に東方面の大和において同じような墳墓が形成され、反対側の西方面ではこの東原遺跡が形成された、と考えればいいのだろうか。それにしてもこのあたりに3世紀の前方後円形の墳墓はほかに見当たらないようです。4世紀に入ると吉野川の対岸に全長35mの丹田古墳が出現するのですが。

吉野川中流の辺鄙なこの場所に弥生時代の前方後円形の墳墓があることに少し違和感を抱きながら次の目的地に向かいました。次は阿讃山脈を越えて再び讃岐の地に入ります。

(つづく)








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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)④

2023年05月02日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月22日、讃岐・阿波への古代史旅の2日目です。

ホテルでの朝食を済ませて7時半にスタート。この日の最初はホテルから車で20分ほど走った渋野丸山古墳です。徳島平野の南部、勝浦川左岸の尾根を利用した全長105mは徳島県下最大、四国でも前日の富田茶臼山古墳に次ぐ第2位の規模となる前方後円墳。築造時期は5世紀前半頃となっています。




徳島県では古墳時代前期は、このあと行くことになっている吉野川北岸の鳴門・板野地域や、前日に行った宮谷古墳のある吉野川南岸の気延山地域で古墳が築造されていましたが、前期後半からは徳島平野南部の勝浦川下流域にも古墳が築造されるようになりました。



また、中期前半(5世紀前半)になって大規模古墳であるこの渋野丸山古墳が築造され、これを最後に前方後円墳の築造が停止するという状況は、東讃岐の富田茶臼山古墳築造後の状況と同じです。これら大規模前方後円墳の築造はヤマト王権の権力をバックにした豪族首長によるものか、それともヤマト王権から派遣された中央の有力者によるものなのか。讃岐では前者を想定したものの、地元の豪族首長によるのなら、その後継者も前方後円墳を築くのではないだろうか。





前方部の斜面から墳丘に登ってみました。後円部頂上で何気なしに足元を見たときに目に入ったのがこれ。少し湾曲したような感じがするので、たぶん埴輪片だと思う。違うかな。



次は徳島平野を北上し、吉野川を渡って阿讃山脈のふもと、高速道路建設の際に発見された大代古墳。前日の「レキシルとくしま」で石棺を見学しておいたので、それが出た場所を確認したく、同時に墳丘からの徳島平野の眺望も見ておきたくてやってきました。高速道路によって破壊されるところだったのが、貴重な遺跡ということでトンネル工法によって守られた古墳です。




このトンネルの上に、4世紀末頃の築造とされる全長54mの柄鏡形の前方後円墳があるのです。駐車場からトンネルの上に通じる階段があるので登っていくと、、、



がーん😨



なんと階段の途中で鍵の閉まった扉に遮られてしまいました。おまけに、この古墳を見学するには許可が必要だと書いています。知らなかった。事前調査が足りていなかった。残念だったけど、あきらめて次へ向かいました。

ここからは西に向かいます。まずは宝幢寺古墳。宝幢寺という真言宗のお寺の裏にある古墳です。




境内には萩原1号墓の石室が移築されています。




墓地を通り抜けたところに突然に現れます。尾根を切り出したような感じの柄鏡式の前方後円墳で、全長が47m。築造時期は古墳時代前期後半と考えられています。後円部の頂上部には宝幢寺の江戸時代の住職の3基の墓が建てられています。一番下の後円部から前方部を見た写真で柄鏡形というのがよくわかります。







お寺の縁起が古墳との関係で語られるのは珍しいと思います。



このあたりは阿讃山脈から南に突き出す小さな尾根が連続していて、その尾根ごとに古墳が築かれています。次はすぐ西側の尾根上にある天河別神社古墳群です。





社殿の裏側に1号墳、左手に2号墳、隣の尾根の先端に3号墳、その尾根が分かれる付け根の部分に4号墳が並んでいて、この4基が国の史跡になっています。そして3号墳と4号墳の間に7号墳、さらに尾根の根元の方に5号墳以下、数基の古墳があるようです。3号墳のみが前方後円墳で残りは円墳です(4号墳は前方後円墳の可能性も指摘されています)。古墳時代前期前半に4号・5号・1号・2号墳の順で築造され、3号墳が古墳時代前期後半に築造されました。

1号墳は、3世紀末の築造で径25mの円墳。社殿によって一部が削られています。資料によると、墳頂部の竪穴式石室の外縁に二重の石囲い施設があり、萩原1号・2号墓の構造を引き継いでいるらしい。




2号墳は、4世紀前半の築造で径26mの円墳。墳丘上に小さな祠が建っています。




3号墳は、4世紀中頃の築造で全長約41mの前方後円墳。埋葬施設は未調査。尾根の先端部にある前方部を削るようにお墓が建っていました。




4号墳は、3世紀後半の築造で径20~25mの円墳、もしくは前方後円墳の可能性もあるそうです。埋葬施設の礫敷きが確認されています。4号墳のすぐ近くに円錐状に積まれた礫の山が気になったのだけど関係ないかな。




7号墳は4号墳と3号墳の間にあるはずなので、たぶんこの盛り上がりかな。なぜか表示がありませんでした。



5号墳やその他の古墳は竹藪を割って尾根をさらに奥に進まないとだめなようだったのであきらめました。

この古墳群では、3世紀末築造の1号墳が萩原1号墓・2号墓の構造(石囲い)を引き継いでいることが興味深いと思いました。萩原1・2号墓はこのあとに行くのですが、弥生時代終末期の3世紀初頭の築造とされています。そして、もしも3世紀後半築造の4号墳が前方後円墳であるなら、この古墳群の重要性がさらに高まります。萩原墳墓群の隣の尾根にあって、石囲いの埋葬施設、前方後円形という萩原1・2号墓の最大の特徴を3世紀の時点で引き継いだ古墳群になるからです。

古いのから新しいのまで、いたるところに説明板や案内板がありました。





次はいよいよ私にとってのこの旅のメインイベントと考えていた萩原墳墓群です。

(つづく)







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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)③

2023年05月01日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月21日、ツアー初日の夕方の部です。

津田古墳群の次は津田湾にそそぐ津田川を遡った内陸部、高松平野につながる長尾平野の東端にある富田茶臼山古墳。5世紀前半に築造された四国最大の前方後円墳で全長が139m。後円部に近づくと三段築成だというのがよくわかります。




ふもとからの急な階段を登って墳頂に立つと、きれいに整備された墳丘が見渡せます。








5世紀前半にこの富田茶臼山古墳が出現すると先に見た津田古墳群では古墳の築造が停止したといいます。たしかに、1世紀にわたって築造が続いた津田古墳群は4世紀末の岩崎山1号墳が最後の古墳です。このことをどう考えればいいのか。

津田川河口にある津田港は中・近世の商業港として知られているように、津田古墳群の築造を続けた勢力は津田湾を拠点として播磨灘海域の水運を握るとともに海上交易で富を得た海人族だと考えられます。5世紀に入ってさらに勢力を拡大したその後裔が内陸部に進出し、長尾平野一帯を勢力域に加えて統治した。その海人族リーダーがこの古墳の被葬者と考えれば、津田湾臨海部での古墳築造が停止したことの説明ができます。以降、この集団の古墳は内陸部で築造されることになるということです。



そうすると、この集団が臨海部から内陸部に進出する以前、この地は別の集団が押さえていて、海人族は彼らを制して支配下に置いたということなのでしょうか。

午前中に行った森広遺跡群は弥生時代後期に森広の有力者が統治した拠点集落で、その後裔が雨滝山奥古墳群を造営したと考えました。森広遺跡群から富田茶臼山古墳のあるところまでは3キロほどで、さらに雨滝山奥古墳群からも同じく3キロほどです。富田茶臼山古墳を築造した勢力はこの森広集落や雨滝山を拠点とした集団を従えて長尾平野を治めた、と考えることができそうです。

この妄想は、森広遺跡群+雨滝山奥古墳群をひとつの勢力、津田古墳群+富田茶臼山古墳をもう一方の勢力、とする2つの勢力集団を想定した妄想になりますが、全部が同じ勢力であったと考えることもできます。あるいは3つとも違う、さらには津田古墳群と富田茶臼山古墳を別勢力とすれば4つの違う勢力が長尾平野を舞台に覇権を争った、との妄想も湧いてきます。

しかし、雨滝山奥古墳群最大、全長37mの前方後円墳である奥3号墳が4世紀前半の築造で、同じく37mの前方後円墳であるうのべ山古墳はそれよりも半世紀も前の3世紀後半の築造であることから、やはりこれらは別々の勢力だと考えます。

富田茶臼山古墳が四国最大の前方後円墳であることと、津田古墳群はヤマト王権とのつながりが想定されることから、これらのヤマトを背景とした勢力が古くから栄えていた森広勢力を従えたと考えるのが妥当、ということにしておきます。


さて、ここでいったん讃岐に別れを告げて阿波に向かうことにします。時間の関係もあって高速を使って阿讃山脈を越え、翌日からの鳴門板野古墳群の見学に備えた情報収集のために徳島県立埋蔵文化財総合センター(通称レキシルとくしま)を目指します。



ここで見ておきたかったのは、萩原1号墓の出土品、矢野銅鐸、大代古墳の石棺、西山谷2号墳の移設された石室などです。








矢野銅鐸が木製容器に収められていたというのは初めて知った。銅鐸といえば人目につかない山の斜面などにひっそりと埋められた、とよく言われる。専門家でさえ、すべての銅鐸がそのような場所に埋められたかのごとく主張する人がいるけど、それは全くの間違いです。現にこの矢野銅鐸や、すぐ近くから出た名東銅鐸は集落あるいは墓地に埋められている。浜辺や川岸に埋められたものもたくさんある。島根の加茂岩倉や神戸の桜ケ丘、滋賀の大岩山などのイメージが強いんだろうなあ。

この日は平日ということもあって、展示室をほぼ独占して見学することができ、翌日に備えていい勉強になりました。

さて、次はその矢野銅鐸が出た場所を確認に行きます。GoogleMapによると銅鐸出土地は個人の私有地にあって説明板も何もなく、ただこのあたりというのを見るだけ、とわかっていたものの、一度この眼で見ておきたく、岡田さん、佐々木さんにお付き合いいただきました。ところが、です。



帰宅後にこの本を読んでいると、矢野銅鐸出土地を示す地図が掲載されていました。事前にGoogleMapに表示されていた場所が左の黄色の丸、本に掲載されていた場所が赤い丸で、少しずれていることがわかりました。ただ、本来の場所も道路の下なので、どうすることもできませんでした。



この本でもうひとつわかったことがありました。レキシルとくしまで見た銅鐸埋納状況の展示(下に再掲)。これ、なんと実際の出土地を剥ぎ取ったものなんです。貝塚などの剥ぎ取り標本というのはよく見ますが、こんな立体的な剥ぎ取り標本は初めて見ました。さらにこの本によれば、この銅鐸が埋納されたのが弥生時代終末期の可能性が高い、ということです。



そしていよいよこの日の最後、宮谷古墳。銅鐸出土地からはすぐのところです。宮谷古墳は徳島県最古級、3世紀後半の前方後円墳で全長が37.5m。気延山南東端の標高約50mの尾根上に築かれています。阿波で初めて造られた畿内型の前方後円墳で、纒向型前方後円墳に近い平面形をしているとされ、三角縁神獣鏡が出ています。



3世紀後半と言えば卑弥呼の時代。大和の纒向では最初の定型化した前方後円墳とされる箸墓古墳が築かれました。そして、その定型化前方後円墳のひとつ前の形として登場した後円部と前方部の長さが2:1となる前方後円形の墳丘墓が纒向型前方後円墳です。それが3世紀後半の阿波の地に出現しているということは、この時期すでに阿波と大和は強くつながっていた、と考えることができそうです。

さらにもうひとつの妄想。矢野銅鐸が埋納されたのが弥生時代終末期とすると、その後すぐの3世紀後半に宮谷古墳が築造されたことになります。宮谷古墳に葬られたリーダーが率いた矢野集落の集団は、銅鐸を祭器とする農耕祭祀をやめて銅鐸を埋納し、リーダーやその祖先を崇拝する首長霊祭祀を採用した。その新しい祭祀で使われた祭器が三角縁神獣鏡です。

弥生時代後期、各地で銅鐸が埋納されたあとに古墳時代に突入します。つまり、各地で古墳を舞台とした新しい祭祀が始まるわけです。午前中に行った弥生時代後期の森広遺跡群でも銅鐸が出土し、それに続いて奥3号墳で三角縁神獣鏡が出ています。



上が後円部から前方部、下が前方部から後円部を撮影。




三角縁神獣鏡が出た後円部の斜面を真正面から。







標高50mとは思えない眺望。そういえばこの日、ここまで見てきた前期の古墳はほぼ全てが山や丘陵の上に築造されていました。さらに、前期の前方後円墳であるこの宮谷古墳、うのべ山古墳(津田古墳群)、奥3号墳(雨滝山奥古墳群)はともに全長は37m(宮谷古墳は37.5mですが)と、どれも小ぶりな古墳でした。

東讃岐と阿波の古墳時代前期前半の古墳は、①全長40m未満の小さな古墳が圧倒的に多い、➁前方部と後円部の比率がほぼ同じ(後円部:前方部=1:1)、③埋葬施設が東西方向に設けられる、④前方部が尾根の上側に位置する、⑤積石塚である(阿波地方と合わせて阿讃積石塚分布圏 と呼ばれる)、など、在地色の強い古墳が多いとされています。これらは全て資料で確認することができますが、やはり実際に現地に立ってみると、より実感できるし納得がいく。

最後に阿波史跡公園に行ってみると、ちょうど17時を過ぎたところで、職員さんが復元住居の扉を順に閉めているところでした。あえて中を見るまでもないので写真だけ撮って終わりにしました。



以上、初日の予定が終了です。車で徳島市内へ戻ってホテルにチェックイン。すぐに食事に繰り出しました。




なかなか充実した1日でした。岡田さん、運転お疲れさまでした。

(2日目につづく)







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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)②

2023年04月30日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月21日、ツアー初日の午後からの部です。

ランチをとったあとに向かったのが、さぬき市の津田湾臨海部にある津田古墳群。3世紀後半から4世紀末まで継続的に築造された9基からなる古墳群。4世紀前半頃までは墳丘が積石で築かれたり、埋葬施設が東西軸に設けられるなど、讃岐・阿波の他の地域の古墳と同様の特徴が認められますが、4世紀中頃になると円筒埴輪が立てられたり、埋葬施設が南北軸に変化するなど、畿内の影響を受けることになります。今回、9基ある古墳のうち古い順に言うと、うのべ山古墳、岩崎山4号墳、けぼ山古墳の3基を訪ねました。

まず最初に岩崎山4号墳。4世紀中頃の前方後円墳で全長が62mは古墳群最大。津田川左岸、河口付近に伸びた丘陵の尾根上に地山を整形して造られています。民家の横の急な坂道を上がっていくと前方部が見えてきます。




後円部には石製の小さな祠が立っていて、どうやら蛇の住処になっているようです。





柄鏡形の前方後円墳との考えもあり、たしかに後円部から見るとそのようにも見える。また、尾根に沿って整形されている様子もよくわかります。



大阪府高槻市の津堂城山古墳から出土した斜縁神獣鏡の同型鏡のほか、埋葬施設は南北軸で設けられ、円筒埴輪や家形埴輪なども出土していて、明らかに畿内の影響が見られるようです。

次は津田の松原を抜けて10分ほど走ったところ、津田湾の東端(南端?)に突き出た岬の上にあるけぼ山古墳。標高が57mほどのこの岬は古墳が築造された古代には海に浮かぶ島で、千数百年の間に砂州がのびて陸続きになったそうです。




4世紀後半の築造で全長62mは岩崎山4号墳と同じ。駐車場から少し歩いて下ったところに古墳があります。



手前に後円部があり、登っていくといきなり石棺の蓋が。これには驚いた。さらに、墳丘の頂上部が大きくくぼんでいて平らな石が埋もれているのも見えます。どう考えてもくぼみの下が埋葬施設で、この平らな石は石室の天井石、かな。




事前の調べでは「後円部墳頂に割竹形石棺の蓋の破片が確認されており、人骨や青銅鏡、鉄刀や玉類が出土した記録があるが埋葬施設の詳細は不明」とあった。蓋の破片どころか、蓋そのものやん。埋葬施設は不明って、この状態で掘ってないの? いや〜、これは興奮したわ。(この縄掛突起のついた石が石室の蓋という情報もあるのだけど、どうみても石棺やと思います。)

この古墳の墳丘上や周囲にはたくさんの石仏があり、後円部のふもとにあったのがこれ。この土台になっている石の破片もおそらく石室に使われていたものだと思う。



上が後円部から前方部を、下が前方部から後円部を見た様子。きれいな前方後円墳だというのがよくわかります。




周囲は木々が茂っているので眺望はよくないのですが、古代にはおそらく墳丘上から播磨灘に浮かぶ小豆島、さらに東方には淡路島も見えたことと思います。駐車場からは向こうに小豆島が見えました。



次は山を下りたところ、うのべ山古墳。



香川県最古級の3世紀後半の築造で全長が37mの積石塚の前方後円墳。後円部の頂上に小さな石製の祠。これがあるからなのかどうかわかりませんが、埋葬施設は未調査らしい。





墳丘の全体像は掴みつくいものの、後円部から見ると前方部が確認できました。




この場所も古代には島。古墳を築くための十分な土がなく、仕方なく岩を崩して築いたのだろうと思う。3世紀後半においてそうまでしてここに古墳、しかも前方後円墳を築いた事実は東讃岐の勢力を考えるうえで極めて重要な気がする。

3世紀後半からの1世紀にわたって連綿と津田古墳群を形成した一族はどう考えても播磨灘から瀬戸内海を舞台に活動した海人族でしょう。さらに、古墳出現期において前方後円墳を築造していたことから、ヤマト王権との強いつながりを想定することもできます。前方後円墳はヤマトが先か、讃岐が先か、という妄想すら湧いてきました。

臨海部の津田古墳群の見学を終えて、また内陸部へ戻ります。次は四国最大の前方後円墳、富田茶臼山古墳です。

(つづく)






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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)①

2023年04月29日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月21日から23日まで、いつもの古代史仲間の岡田さん、佐々木さんと一緒に讃岐から阿波をぐるっと巡ってきたのでレポートします。今回は岡田さんの地元、高松を起点にしたので私と佐々木さんは大阪から高速バスで高松に入り、そこからは岡田さんの運転のお世話になりました。



4月21日朝6:45に南海難波の高速バス乗り場からバスに乗り込み、一路高松を目指します。乗車時間は3時間50分、えらい時間がかかるなあと思っていたら、それもそのはず、大阪市内の各所や三宮と途中、あちこちで停車する路線でした。ちなみに料金は片道3800円です。



何はともあれ無事に高松の栗林公園前に到着し、岡田さんの車に乗り替えました。まず最初に目指したのが森広遺跡群で、石田神社遺跡、森広天神遺跡、森広遺跡、加藤遺跡などからなる弥生時代後期を中心とする遺跡群です。40分ほど走って、栴檀川(せんだんがわ)左岸の段丘上に建つ石田神社に到着。ここは平形銅剣3本が出土したところですが、境内にはそれを示す痕跡はなく説明板すら立っていません。






あえて言えば、この祓戸社の碑。「往古よりこの地を禊祓の斎庭と定め、折にふれ祓戸の神々の降神を仰ぎ祭祀が行われてきた」とある。




祓戸の神々とは、大祓祝詞に登場する罪穢れを祓い清める、瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の祓戸四神のこと。あるいは、祝詞に「伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓給ひし時に生り坐せる祓戸大神等」として登場する神々のこと。大祓祝詞については、「蛇神について(前編)」で少し考えたことがあります。

平形銅剣は弥生中期から後期にかけて瀬戸内沿岸で隆盛した祭器です。弥生時代、この場所は平形銅剣を祭器とした祭祀が行われた場所でした。その後、祭祀形態が古墳を舞台とする祭祀に変化していく過程でこの旧い祭器はひっそりと埋められたのでしょう。実は、この神社の境内裏に石田神社古墳群があったのをすっかり忘れていました。

ところで、この石田神社の祭神は弥生時代の祭祀とは関係のない八幡大神、つまり応神天皇でした。

車を石田神社に置いたまま、栴檀川を挟んだ向かいの段丘上にある森広天神遺跡まで歩きます。



鎮守の杜、あるいはもしや古墳か、という眺め。遺跡は川の反対側の少し小高い所にあるようです。小さな木製鳥居をくぐると天満宮の境内が広がり、振り返ると右手にお椀をかぶせたような小山の上に小さな祠が見えます。本当に古墳ではないかと思えてきます。




境内を抜けると、おそらくこちらが正面の参道。その入り口に森広遺跡群の説明板が立っていました。




この森広天神遺跡はなんと8個もの巴形銅器がまとまって出土したところ。そして、8個のうちの3個は福岡県春日市の九州大筑紫地区遺跡群(須玖岡本遺跡近く)で1998年に出土した弥生時代後期の石製鋳型で鋳造されたものと判明しているという。これは驚きだ。今回のツアーに備えて事前に調べてみたところ、巴形銅器は全国18カ所の遺跡から47個が出ていることがわかった。そのうちの8個がこの場所から出て、しかもそのうちの3個が奴国で作られたものだとは。この場所と奴国はどういうつながりがあったのだろう。

車に戻って次の森広遺跡へ向かいます。遺跡の場所にはスーパーが建っていて、ここも遺跡があったことを示すものは何もありません。この場所からは2基の円形周溝墓が見つかり、そのうちのひとつは香川県下最大級だそうです。



その場所は今ではこのような姿に。県下最大の円形周溝墓はまさにこの建物の下。



次はここからすぐの加藤遺跡。扁平紐式の袈裟襷文銅鐸の破片7点が出土したところ。同じ場所ではないものの、極めて近いところから銅剣と銅鐸が出たという意味で、たいへん興味深い場所になります。松帆銅鐸あるいは中の御堂銅鐸と古津路銅剣が出た淡路の松帆と似たような状況と言えます。



県道10号線の建設で見つかった遺跡ですが、今はこの通り。銅鐸片は信号の向こう、対向車線の下から見つかりました。



さて、平形銅剣3本、巴型銅器8個、県下最大の円形周溝墓、扁平紐式の袈裟襷文銅鐸が、わずか半径500mほどの地域から見つかったことがわかりました。この森広天神遺跡群ではほかに100 軒以上の竪穴住居も出土していることから、このあたりは弥生時代後期において東讃岐随一の有力者が治めた一大集落が存在したことが想定されます。現代の景色からは想像もできない古代の姿が復元されることに小さな興奮を覚えながら次に向かいます。

そして、もともと考えていた目的地に向かう途中に出くわしたのが大井七つ塚古墳群。5世紀後半から6世紀初頭の10〜20mほどの円墳7基からなる古墳群で、4号墳と5号墳を見ることができました。私有地にあって、土地の所有者が個人で復元整備して保存しているという珍しい古墳です。





もともとの目的地であった雨滝山奥古墳群は、弥生時代後期後半から古墳出現期の墳丘墓あるいは古墳が雨滝山の頂上エリアに点在する墳墓群。ゴルフ場開発に伴って破壊されたのだけど、特に重要とされる奥3号墳の石室が雨滝山の西麓に復元されています。その場所は大井七つ塚古墳群から歩いてわずか1分ほどのところでした。





この奥3号墳は、ゴルフ場のある丘陵の頂上部(クラブハウスあたり)に築かれた墳墓群最大、全長37mの前方後円墳。4世紀前半頃の築造で三角縁神獣鏡が出ています。ゴルフ場へ向かう道の途中に、こんな慰霊碑のようなものと古墳群の説明板がありました。せっかくなので、奥3号墳があったとされる頂上のクラブハウスまで行ってみました。





説明板には、奥3号墳は香川県で最も早い時期の古墳のひとつで、このあたりを統一した最初の首長の墓と書かれています。もしかすると弥生時代後期に香川県最大の円形周溝墓を設けた森広集落有力者の後継なのかもわかりません。森広遺跡からここまでの距離はわずか2キロほどです。

さて、時刻は12時半を回っていたので、次の目的地に向かう前にランチを取ることにしました。香川のランチと言えばやはりうどんです。途中で見つけた「麺処まはろ」というお店に入りました。カリカリ鶏唐卵黄のせぶっかけうどん(だったと思う)880円。つるとんたんで食べたら2000円以上はするでしょう。香川のうどんは本当に安くて美味い。




(つづく)







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