古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

物部氏を妄想する

2023年09月24日 | 古代史構想学
現在の学習テーマは「物部氏」です。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したり、、、、

開始から1年近くが経った今でも悪戦苦闘が続いていますが、少しづつ整理ができてきて、現時点では以下のような目次でレポートとしてまとめているところです。

1.「物部」の読み方
2.「物部」の由来 
3.物部の分布 
4.物部氏の東遷
5.物部氏と神仙思想
6.徐福の渡来
7.弥生時代における神仙思想の痕跡
8.壺形古墳の登場
9.古墳出現前後の祭祀
10.古墳を舞台にした儀礼
11.古墳祭祀と物部氏
12.物部氏の台頭
13.物部氏の職掌の変遷
14.中臣氏の台頭
15.物部本宗家の敗北
16.石上神宮と物部氏
17.石上神宮の祭祀
18.物部氏と鎮魂祭

まだまだ執筆の途中段階ですが、書いたところから順に発信していこうと思い、このブログではなく「note」で有料記事(安いです)としての発信を始めました。私のような素人の妄想をわざわざ金を払って読んでくれる人なんていないと思う一方で、これだけ時間をかけて脳ミソを使ってそれなりのレポートが書けたのだからわずかでも対価がもらえれば、とも思っています。そもそもタダでも読んでくれる人がいるとは限らないし。まあ、このブログですらそれほど読まれていないようだし。でも、ありがたいことに発信を始めてみると少しづつ読者が増えてきたのです。

この記事を読んで興味が湧いた方がいらっしゃれば、ぜひ「note」の方にも立ち寄ってみいただけると嬉しいです。よろしくお願いします。




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男50歳からの古代史構想学(15)

2020年09月08日 | 古代史構想学
■古代史でセカンドライフを充実

これまで14回にわたって素人の私が自分なりに古代史を学ぶ様子をお伝えしてきました。最終回の今回は、古代史に取り組み始めたころのことと、古代史を通じてセカンドライフをどう充実させようとしているのか、をご紹介して終わりにしたいと思います。

ビジネスマンとしてのキャリアを店じまいするにあたってセカンドライフをどう過ごそうか、と考えて出した答が「子供の頃からやりたかった古代史をやろう」ということでした。ただ、古代史をやるといっても何をするのか、何をしたら古代史をやったことになるのか、自分は本当に何をしたいのか、、、まずは、とにかく何か形を残していこうと漠然と考えて、本を読んだあとに記憶に留めておきたいことをノートに書き残していくことを始めました。本を読んで線を引き、ノートに書いていく。これはまさに「勉強」でした。勉強が進むにつれて興味の範囲も広がり、読書の量も増え、様々な事象につながりが見えてくるようになりました。それを図や表にしたり、文章にまとめたり。そういうことを続けていた昨年の正月、「年内に本を出そう」という目標が突然浮かんだのです。
 
そう決めたあとは、本を出すといっても何をどうすればいいのか全くわからないままに原稿作成に取り掛かりました。一冊分の目安として12万文字を目標に。しかし、「邪馬台国はここだ」のようにテーマを決めて深掘りしようとしても12万文字も書けるはずがありません。そんなことしてたらいつまでたっても結果にたどりつかない。そう思った私は、「点」としての様々な事実や事象を時間軸や空間軸でつないで「線」や「面」にして、古代を広く浅くでいいから俯瞰してみようと考えました。
 
原稿を書き始めて半年くらい、目標の12万文字にはまだ少し時間が必要だと感じ始める一方で、自分の考えを早く発信したいという思いが日増しに強くなっていきました。そして、書き溜めてきた原稿をブログにして発信していくことにしたのです。それが「古代日本国成立の物語」(当ブログ)です。昨年(2016年)の夏から始めて、当初は書き溜めた原稿もあったので毎日新しい記事をアップすることを目標に続けてきたのですが、最近は滞りがちになっています。それでも毎日数十人(4年経った現在は数百人まで増えました!)の方が読んでいただいているようで、本当に嬉しく、励みになっており、これからも発信し続けようと思っています。

一方で書籍化を諦めたわけではなく、佐々木さんの会社のご協力を得ながら着々と準備をすすめているところで、こちらも大変楽しみにしています。最近は仕事そっちのけで古代史に没頭する日々ですが、これからどんなセカンドライフを過ごそうか。オリジナルの仮説を考えてブログで発信していくこと、それを本にして勉強の成果を形として残すこと、これが柱になるでしょう。そして講演会や大学の公開講座などで専門家の話を聴くことも積極的にやっていきたい。

また、昔からやりたいという思いは強かったものの、その機会を持てなかった遺跡の発掘。大阪や奈良では遺跡発掘のアルバイト募集がたくさんあるので是非やってみたい。
もしかしたら世紀の大発見に携われるかもしれない。さらに、実地踏査で全国各地の遺跡や神社を訪ねること、実はこれが一番の楽しみなのです。
 
私には奥さんがいて、もともと二人で車で旅行することが多く、とくに温泉ツアーにはよく出かけます。時間に余裕のできるセカンドライフでは、車で全国各地の遺跡を訪ね、おいしい料理を食し、温泉に浸かり、二人でゆったりと充実した時間を過ごしたい。奥さんは古代史に興味があるわけではないのですが、私が行くところはいやな顔せずに付き合ってくれます。そうそう、奥さんのほかに小さなワンコも一緒です。次に車を買い替えるときはワンボックスカーにして、そこに布団や着替えを積み込んで、二人と一匹、気の赴くままに遺跡と神社と温泉を目指して日本を一周する。これが今考えている小さな目標なのです。古代史に取り組んだからこそ描くことができた小さな目標ですが、古代史をやっていなかったらこれすら描けていないでしょう。だから、古代史をやって良かったと思っています。

それから、古代史に取り組むことがわずかでもいいので収入につながれば言うことなし、とも思っているですが、それこそ「夢」にしておいて次の段階で考えることにします。

以上で終わります。最後まで読んでいただいた皆さん、ありがとうございました。   <完>

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今回の再掲にあたっての追記です。
「男50歳からの古代史構想学」を寄稿してから現在までの活動はすべて当ブログで書いている通りですが、自費出版ながらも目標としていた書籍化を実現しました。そして岡田さん、佐々木さんと3人で各地の遺跡をめぐる実地踏査ツアーを続けています。また、3年前に車をワンボックスカーに買い替えて、奥さんとワンコと一緒に車中泊で各地を巡って、温泉、グルメ、絶景、そして遺跡や神社の訪問を楽しんでいます。歴史博物館好きが高じて学芸員の資格も取りました。また、その過程で学生に戻った気分で勉強に励み、学生の頃は苦痛だった課題やレポートが初めて楽しく感じられました。古代史の勉強も楽しいです。だから私は「古代史勉強家」と称して、これからも古代史の学びを通じてセカンドライフを楽しもうと思っています。また、同じような考えや取り組みをしておられる方とつながってみたいと思うようになりました。そういう方々のお手伝いもしてみたいと思うようになりました。そして、古代史を通じた人とのつながりやコミュニティへの参加が楽しくなってきました。15回にわたる投稿の再掲でしたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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男50歳からの古代史構想学(14)

2020年09月07日 | 古代史構想学
■ 古代史研究とはパズル合わせとストーリー化

今回は私が考えている日本建国史における仮説の一部を超ダイジェストで紹介したいと思います。
 
私が古代史を考えるにあたっては、正史である日本書紀をもとに、古事記や魏志倭人伝などの他の文献や考古学の知見を掛け合わせ、自分なりに最も納得性の高いシナリオを仮説としてまとめていく、というプロセスをとっています。その前提として、古事記や日本書紀の記述はたいそうな装飾や編集、嘘っぽい創作じみた話、神話など明らかに現実的でない話などが並べられているものの、基本的に何らかの事実や史実、あるいは伝承などに基づくものであると考えています。

さて、日本書紀はまず神代巻で国生み、国譲り、天孫降臨など神様の話が語られます。イザナギとイザナミの夫婦神が日本の国土である大八洲国を作り、続いてたくさんの神々を誕生させました。そのたくさんの神々の中で最も重要な神様はアマテラスとスサノオの二人です。アマテラスは天上の高天原にいて、その孫にあたるニニギノミコトを地上に降臨させ、その子孫たちが天孫族として日本国の建設を始め、のちの天皇家につながっていきます。一方のスサノオは気性が荒くて天下を治めるにふさわしくないとされ、天上界から根の国に追放され、天孫族と対立する一族になっていきます。いずれも天上界からやってきたという点では同じです。
 
縄文時代の終わり頃から弥生時代にかけて、大陸や朝鮮半島から稲作や製鉄など当時の最先端技術を携えて日本列島各地に渡来した様々な集団が土着の縄文人と融合して弥生人になっていった、ということが様々な研究の結果、わかってきました。

中国大陸の江南地方あたりから九州の南部に渡来した集団がアマテラス一族、記紀においては熊襲あるいは隼人と呼ばれる一族になり、魏志倭人伝では狗奴国と記されました。この狗奴国の王(倭人伝では卑弥弓呼)がカムヤマトイワレヒコ、のちの神武天皇です。
 
そして朝鮮半島から山陰地方へ渡来した集団がスサノオ一族で、子孫のオオクニヌシが出雲の国土開発(国造り)を行う一方、一族から分かれたスクナヒコナの集団が大和の纒向へ移り、邪馬台国を建国します。この邪馬台国を建国したのが崇神天皇です。(そうです、私は邪馬台国畿内説です。)
 
大和纒向の邪馬台国はやがてオオクニヌシの出雲(倭人伝では投馬国)や九州北部の各国を従えて倭国という連合国家を形成します。一方の狗奴国は南九州から北上しながら国土開発を続け、ついには北九州の倭国と一戦を交える事態になりました。この戦いを優勢に進めた狗奴国の王イワレヒコは倭国の本丸である邪馬台国への進攻を決意し、九州の日向から瀬戸内海を通過、熊野を経由して大和へ向かいました。これがいわゆる神武東征です。
 
しかし、日本書紀には神武天皇が大和にあった邪馬台国、すなわち崇神天皇と戦った、なんてことは一言も書いていません。同じ天皇家であり、しかも神武は初代天皇で崇人天皇は第10代天皇。この二人が戦うなんて考えられません。そもそも神武が大和で戦ったのはニギハヤヒだったはず。
 
大和をめぐる動きについては、私はこんなことを考えています。弥生時代の早い時期に丹後からやってきたニギハヤヒが大和の地を押さえていた。弥生後期後半、出雲からスクナヒコナがやってきて奈良盆地の東の端っこに邪馬台国を開き、のちに崇神天皇と呼ばれるようになった。さらに九州の日向から狗奴国の神武がやってきて、ニギハヤヒを取り込んで奈良盆地の南西部の隅っこに拠点を設けた。3世紀中頃にあたるこの時点で大和には邪馬台国である崇神天皇の政権と神武天皇の政権が並立する状況になった。こうして二人のハツクニシラススメラノミコト(初めて国を治めた天皇)が誕生することになった。
 
この考えをもとに日本書紀をつぶさに読むと、神武王朝(神武から第9代開化天皇まで)と崇神王朝(崇神から第14代仲哀天皇まで)の間での様々な「せめぎ合い」が見えてくるのです。
 
記紀の神代から続く歴史の初期段階はそれを裏づける証拠がないために、いろんな人がいろんなことを言っています。邪馬台国も同じです。中国の魏志倭人伝に明確に書いてあるにもかかわらず、その所在について確たる物的証拠がないために何とでも言えてしまうのです。でも、だからこそ古代史は面白い。できるだけたくさんの状況証拠を集めてパズルあわせをしていくと思わぬ考えに行き着き、それを上手く組み立てると意外にも筋の通ったストーリーになる。言い方は適切でないかもわかりませんが、このパズルあわせとストーリーの組み立てがこの上なく楽しい。ほかの人が考えついていないストーリーができたときほど満足感が大きい。そのときはたいがい前述のようなトンデモ説になってるんですが(笑)。
 
そんな考えで綴ってきたのが私のブログ「古代日本国成立の物語」です。昨年(2016年)の夏から始めて今日(2017年07月26日)現在までで、第11代垂仁天皇までのストーリーを書いてきました。
 
 さて、これまで14回にわたって私なりの古代史の楽しみ方をお伝えしてきましたが、次回をもっていったん最終回にしたいと思います。最終回は、古代史の勉強を単なる自分の趣味に終わらせず、セカンドライフを充実させるために何かできないか、もやもやと妄想していることを書いて終わりにしようと思います。(最終回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(13)

2020年09月06日 | 古代史構想学
■神武も徐福も熊野へ来た?

今回は神武東征と徐福伝説を訪ねる実地踏査ツアーの最終回。熊野三山をあとにして向かった先が、産田神社、花の窟神社、波田須の徐福の宮、阿古師神社です。
 
まず産田神社から。

  
この神社には主祭神として伊奘冉尊と火の神である軻遇突智が祀られています。日本書紀には「伊奘冉尊は火の神である軻遇突智を産んだ際に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に葬られた」と記されていて、この産田神社は伊奘冉尊が出産して亡くなった場所といわれています。社殿の両側には日本でわずか二ヶ所しか残っていないと言われている古代の神籬の跡がありました。神籬というのは神社という形ができる前に神様を祀る神聖な場所として設けられた区画のことです。これを見ると石を並べて磐座を作ったという印象で、神様が降りてくる場所として相応しいように感じました。



次は、産田神社から車で5分ほどのところにある花の窟神社。


 
ここは亡くなった伊奘冉尊を葬った場所とされ、産田神社と同じく、伊奘冉尊と軻遇突智が主祭神として祀られています。社殿がなく、熊野灘に面した高さ459メートルの大きな岩がご神体となっており、先に見た神倉神社と同様にここでも磐座信仰が見られます。日本書紀には「この土地の人々は神の魂を、花が咲くときに花を捧げて祀り、太鼓を鳴らし、笛を拭き、旗を振って歌い、踊ります」と記されいて、今でも御縄掛け神事というお祭りが行なわれています。



この2つの神社はまさに神話のテーマパークという印象があるのですが、神武東征が史実であったからこそ熊野の地が地元の伝承とともに日本書紀に記され、そしてその後は日本書紀の記述をもとにテーマパーク化していった、と考えられます。
 
次は波田須という小さな村にある徐福の宮を訪ねました。国道をはずれて細い道に入り、不安な気持ちで村の中を進んでいくとやがて行き止まりになり、車を停めた目の前がまさに目的地でした。


 
徐福伝説は日本各地にあって、今回訪れた新宮や熊野はその中でも本場であるといっても過言ではないのですが、ここ波田須の徐福の宮に立つと、本当に徐福がここに来たと思わせる空気がありました。この地にやって来たのが徐福本人であったかどうかは定かではありませんが、その昔、この小さな村に流れ着き、言葉が通じない中でも村の人々に様々な技術を伝え、村の発展に貢献した人がいた、としても不思議ではないと思いました。



徐福というのは、秦の始皇帝の命令で3000人の童男童女と多くの技術者を従えて不老不死の妙薬を捜し求めて大陸から東へ船出した集団のリーダーです。おそらく秦の時代には3000人もの大人数が乗れるような大きな船はなかったでしょう。100人ずつ分けても30隻、50人とすれば60隻、いずれにしても大船団になります。大陸から漕ぎ出した大船団が東シナ海を渡るとき、一隻もはぐれずにまとまって航行できたとは到底思えません。むしろ、風や波の影響、それぞれの船の大きさや構造、荷物の重量の差などもあって、出航後まもなくして船団はバラバラになったことでしょう。バラバラになった船はそれぞれ自力で目的地を目指して航海を続け、結果、日本列島の各地に流れ着くことになったはずです。私はこれが徐福伝説が各地に残る理由だと考えています。
 
さて、子供の頃によく聞いた浦島太郎のお話、これまた日本各地に伝えられています。海の向こうからやってきた見知らぬ男、浦島太郎のモデルは徐福だったのかも知れません。

さあ、いよいよ最後の訪問地である阿古師神社。もともとはこの神社の先にある神武船団が遭難したと言われる楯ケ崎へ行きたかったのですが、時間と体力の関係で手前の阿古師神社で断念しました。国道わきの駐車場から海岸へ降りる遊歩道があるのですが、帰りが大変だと不安になるほどの結構な下り道を2~30分ほど行ったところで到着。


 
三重県神社庁によると阿古師神社の祭神は三毛入野命、天照皇大神、大山祗命、蛭子命、倉稲魂命となっているのですが、日本書紀によると神武の船団はこの海域で暴風雨に見舞われ、神武天皇の二番目の兄の稲飯命と三番目の兄である三毛入野命が入水して嵐を収めようとしました。二人の兄が犠牲になったにもかかわらず、神武の船団は結局ここで難破してしまい、上陸を余儀なくされたのです。二木島湾を挟んだ向こう側には室古神社というのがあって、そこには稲飯命が祀られています。地元の人々が命を落とした二人の亡骸を引き上げて2つの神社に祀ったということです。難破して上陸せざるをえなかった楯ケ崎はこの阿古師神社からさらに30分ほど行く必要があったので断念したのです。



以上で熊野ツアーは終了になるのですが、神武天皇が本当に紀伊半島をぐるりと回って熊野へやってきたのか、中国からの徐福は本当に熊野へやってきたのか、を感じて考えることができました。前者の結論は、神武天皇は熊野へやってきた、後者は、徐福本人かどうかはわからないが大陸からやってきた集団がいた、ということになりました。ただ、この結論は思考の終点ではなくて、あくまで始まりなのです。古代史を解き明かす無数のパーツのいくつかが見つかったにすぎないのです。
 
ここまで、日向、纏向、葛城、熊野と実地踏査のレポートを掲載してきましたが、このほかにも丹後・出雲の遺跡や神社、魏志倭人伝に登場する伊都国や奴国と言われる北九州の遺跡など、少しづつ訪問地が増えてきたので、機会があればこの場で紹介していきたいと思うのですが、ひとまず実地踏査レポートはこのあたりにして、次回は私が古代の日本に対してどんな仮説を考えているかを簡単に紹介させていただこうと思います。(第14回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(12)

2020年09月05日 | 古代史構想学
■ 神武は那智山に来なかった

神武東征と徐福伝説を訪ねる実地踏査ツアーの3回目になります。

勝浦温泉で旅の疲れを癒した3人の2日目は補陀落山寺からスタート。ここは今回のツアー行程に入っていなかったのだけど、極楽浄土を目指して小船で漕ぎ出すという思想に興味があったので立ち寄りました。しかし残念ながら、ここから旅立った人々の名が刻まれた碑を見ても、保存されている実物の渡海船を見ても、本尊の観音さまを拝んでも、その思想は理解も共感もできませんでした。

次はいよいよツアーのメインイベント、熊野那智大社の参詣です。熊野まで来て熊野古道を歩かない訳にはいかないという佐々木さんの強い意向で、大門坂の駐車場に車を停め、歩いて登ることにしました。何度も熊野へ来たことのある私にとっても初体験で、いい思い出になりました。


(大門坂)


(熊野古道)

熊野那智大社は神仏習合が現在もそのまま残されているが如く、境内には西国三十三箇所一番札所の青岸渡寺が隣接して建っています。以前に来た時はお寺で二礼二拍一礼という失態をやらかしてしまったので今回は気をつけました。(由緒ある神社とお寺が並んでいて、しかも先に神社をお参りしたら間違っても仕方ないと思いませんか(笑))
那智大社の主祭神は速玉大社にも祀られていた熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ=イザナミノミコト)です。


(熊野那智大社)


(青岸渡寺)

この那智大社は他の二山と違って、どうも神武東征や古代史とは関係がなさそうです。那智の滝に対する自然崇拝と修験道の拠点としての山岳信仰が融合し、その後に熊野信仰の対象になったという印象です。そういう意味でここは記紀神話をもとにしたテーマパークとも言えます。青岸渡寺には修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)の像が安置されていました。

ここからは再び徒歩で那智の滝に向かいます。那智の大滝をご神体とする飛瀧神社は主祭神として大己貴神を祀っていて、ここも記紀神話テーマパークの一部になっているようです。ちょうど先日9日の日曜日、7月14日に行われる扇祭りのために大滝にかかるしめ縄の張り替えが行われ、ニュースで放映されていました。

さすが日本一の落差。日光の華厳の滝なんかとは比べものにならない迫力と威厳を感じます。別料金を払ってより滝に近づける拝所に上って滝の飛沫を浴びていると心が洗われる気がしました。


(拝所から)

私たちが神社にお参りするとき、お賽銭箱が置かれた拝殿の前で拝みます。そして通常はその拝殿の奥にはご神体が納められている本殿があります。
でも、この飛瀧神社の場合、滝そのものがご神体なので本殿がありません。しかも、ここには拝殿もありませんでした。滝の正面に小さな鳥居があって、その前にお賽銭箱が置かれているだけでした。その意味で、自然崇拝の原始信仰がそのまま残されているように感じました。


ところで、私は「ご神体」というのは神様のことだと思っていたのですが、神社のことを少し勉強してそれが間違いだとわかりました。ご神体というのは神様が天から降りてきたときに宿る依り代なんですね。そんなにわか仕込みのマメ知識を2人に披露しながら那智山を後にしました。

JR那智勝浦駅の近くで美味しいマグロ丼を食べた後はいよいよツアーのフィナーレへ。(第13回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(11)

2020年09月04日 | 古代史構想学
■原始信仰と記紀神話の融合

前回の熊野本宮大社から今回は熊野速玉大社、神倉神社、阿須賀神社を紹介します。
 
熊野速玉大社は新宮川の河口近くにあって、祭神は熊野速玉大神と熊野夫須美大神となっており、これまた聞いたことのない神様ですが、伊邪那岐神と伊邪那美神のことだそうです。神社公式サイトを見ると「熊野の神々はまず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇58年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり「新宮」と称した」となっており、このことが新宮市の名の由来にもなっています。社殿はすべて朱塗りになっているので本宮大社のような趣や歴史を感じることができませんでした。
 

 (熊野速玉大社本殿)
 
この速玉大社を出て少し南に歩いていくと前述の神倉山があり、その中腹に神倉神社があります。油断すると転げ落ちそうな急な石段を五百数十段も登ったところに御神体のゴトビキ岩があり、その前に小さな祠が立っています。この石段は本当に危険で、神社の公式サイトにも「急勾配なので、御年配の方は下の鳥居でご参拝下さい。また、飲酒者や踵の高い靴での登拝は、危険防止上、お止め下さい。」と書かれています。実際に行ってみると、上りよりも下りのほうが怖くて、情けないかな、へっぴり腰にならざるを得ませんでした。
 

 (へっぴり腰の佐々木さんと岡田さん)
 
このゴトビキ岩は神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて)と言われており、日本書紀には「遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進」と記されています。
 

 (ご神体のゴトビキ岩)
 
2月には御燈祭というのがあって、松明を持った男衆がゴトビキ岩から麓まで急峻な石段を一気に駆け下りるというのです。この石段を経験してみると「駆け下りるなんてとんでもない。死人が出てもおかしくない」と思うのですが、地元出身の友人に聞くと「大丈夫ですよ」とサラリと言われました。

 御燈祭の情報→http://travel.nankikumano.jp/omatsuri/otoumatsuri/
 

神倉神社の次に向かったのが新宮川のさらに河口寄りにある阿須賀神社。主祭神は、事解男命(コトサカノオノミコト)、熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神。事解男命以外はすでに見てきた速玉大社と本宮大社の神様だけど、事解男命はまた初耳の神様です。でも、調べてみると次のような話で日本書紀に登場していることがわかりました。
 
イザナギは亡くなった妻のイザナミに会いたいと思って黄泉の国に行ったとき、その穢れた体を見て引き返そうとした。イザナミは黙って帰らせず 「別れましょう」と言うと、 イザナギは 「負けない!」と言い返した。その時に吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)、次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が生まれた。

速玉之男は熊野速玉大社の祭神である熊野速玉大神と言われています。そして泉津事解之男がこの阿須賀神社に祀られる事解男命のことです。
 

 (阿須賀神社)
 
神社の背後には神奈備山の典型と言ってもいいお椀を伏せたような形の蓬莱山があり、境内からは弥生時代の遺跡が出ています。ここでも記紀以前の原始信仰があったことがわかります。
 
また、神社境内には徐福の宮と呼ばれる小さな祠があり、徐福が探し求めた不老不死の妙薬と言われている天台烏薬(てんだいうやく)の木が育っていました。ここ新宮は徐福伝説にあふれる街で、JR新宮駅前は「徐福」という地名で、そこには徐福公園があり、その中には徐福の墓までありました。
 

 (徐福公園。まさにテーマパークだ)
 
熊野の神社を訪ねて感じたことは、それぞれの祭神が記紀に登場する神々に少々強引にこじつけられているな、ということです。熊野のそれぞれの神社にはもともと地元の神様が祀られていたと思うのです。神倉神社なんかはその典型で、原始的な磐座信仰に始まっているのは明らかです。そして3世紀中頃(と私は考えている)に神武東征があって、4世紀から5世紀にかけて大和政権が確立され、8世紀初めにその経緯が古事記、日本書紀に記されました。つまり、古事記や日本書紀は時の政権が編纂した歴史書であり、ここに登場する神様は政府公認の神様と言えるのです。

しかし、出雲や大和の葛城と違って熊野が記紀に登場するのは神武東征の一場面のみで、神様として祀るべき人物もほとんどいません。それでも記紀ゆかりの土地として、有難い記紀の神様にあやかろうとスサノオノミコトやイザナギ・イザナミなどを無理やり持ってきたのではないでしょうか。
 
ちなみに、熊野詣が盛んになるのは記紀編纂からずっとあと、10世紀以降のことと考えられています。記紀が編纂された頃の熊野は住む人もほとんどなく、大和から見ると遥か彼方の僻地でした。だからこそ私は、神武天皇が大和に入るためにわざわざ遠回りしてこの熊野にやって来たのは史実であったと考えるのです。
 
日の皇子である神武天皇は太陽を背にして戦おうと紀伊半島を迂回し、東から大和に入ろうとしました。紀伊半島を迂回して大和の東から、となれば伊勢あたりに上陸することを目指したはずです。ところが、熊野で嵐にあって遭難し、上陸を余儀なくされたのです。神話として創作するのであれば無事に伊勢まで行かせればよくて、わざわざ熊野で遭難させる理由がないと思うのです。だから私は、神武天皇が紀伊半島を迂回して熊野までやってきたこと、ここで遭難して上陸したことを史実と考えるのです。
 
 
次回は、熊野古道を歩いて熊野那智大社を参った様子を紹介します。 (第12回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(10)

2020年09月03日 | 古代史構想学
■熊野はややこしい

今回より実地踏査の舞台を奈良の葛城から和歌山の熊野に移したいと思いますが、ここで奈良の纒向を一緒に回った岡田さんと佐々木さんに再び登場していただきます。
 
昨年2016年の2月、記紀の神武東征説話と徐福伝説を訪ねて、私たち三人は私の自宅がある大阪の富田林を出発地として一泊二日の熊野ツアーに出かけました。熊野へは国道168号線で奈良県十津川村を縦断するルートです。余談になりますが、途中、岡田さんがどうしてもと主張されたので、古代史とは関係ないのだけど、日本一高い吊橋である「谷瀬の吊橋」に立ち寄りました。ここで意外な事実が発覚。佐々木さんが吊橋を渡らないとおっしゃるのです。理由をたずねると、なんと高所恐怖症とのこと。
長いお付き合いなのに初めて知る事実。やむなく二人で渡ることにしました。とは言うものの、私はここには毎年キャンプで来ていて何度も渡った経験があったので、実は岡田さん一人の為であったと言っても過言ではありません。来年には田舎の高松に戻られる岡田さんにとってはいい思い出になったことでしょう。


 (谷瀬の吊橋)
 
車は山の中をひたすら走り続け、熊野本宮大社へ到着。ここでまず、熊野あるいは熊野三山についておさらいをしておきましょう。熊野の地名が日本の歴史に最初に登場するのは720年に完成した日本書紀です。その神代紀に「イザナミが死んだときに熊野の有馬村に葬られた」と記されています。平安時代に浄土教が盛んになると、熊野の地は浄土とみなされて歴代の上皇が御幸(ぎょこう)しました。その信仰は民間にも広がり「蟻の熊野詣」と称されるほどに各地からこぞって熊野へ参詣する人で賑わいました。その参詣のための道が現代によみがえり、熊野古道ともてはやされているのです。熊野にある「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社をあわせて熊野三山といいます。熊野は特に平安時代の神仏習合における仏教的な要素が強く残っているために「山」という表現が使われ、さらに熊野の神様も熊野権現と言ったほうが通りがいいようです。
 
ここは全国に三千社ある熊野神社の総本社で、祭神は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)であり、この神様はスサノオノミコトのことであるとされています。なぜ家津美御子大神がスサノオノミコトのことなのか、私はよくわかっておりません。実は出雲にも熊野大社があって、こちらもスサノオノミコトが祭神になっています。出雲にスサノオノミコトを祀る神社があるのは当たり前と思えるのですが、紀伊の熊野にあるのは理解が難しい。出雲の熊野大社の社伝によると、熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元である、となっているとのこと。熊野本宮大社は全国熊野神社の総本社であると主張し、もう一方の出雲側はその総本社は出雲の熊野大社から勧請されたと主張する。どちらも由緒ある大社だけに「本家はこっちだ」と主張しているように聞こえませんか。おそらく、出雲から熊野に勧請されたのでしょう。そう考えると紀伊の熊野にスサノオノミコトが祭られる理由が理解できます。
 

(熊野本宮大社 本殿)
   
しかし、この熊野本宮大社では主祭神よりも有名なのが日本サッカー協会のシンボルにもなっている三本足の八咫烏です。記紀の神武東征に登場し、熊野から大和まで神武一行を導いた「導きの神鳥」とされています。この八咫烏は賀茂氏(鴨氏)の祖先と言われていますが、これについてはまた機会があれば触れたいと思います。


 (本殿鳥居横に立つ八咫烏のノボリ)
  
本宮大社は現在の本殿から約500メートルのところ、もともと新宮川の中州だったところに元の本殿がありました。明治22年の大水害で何から何まで流された結果、現在のところに再建されました。流された跡地は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、摂社や末社が祀られています。


(大斎原への参道。神々しい)
 
現在の本殿も厳かな空気に包まれた素晴らしい雰囲気があるのですが、この大斎原も神々しくて有難く感じるところです。熊野を訪れた際にはぜひお参りしてください。 
 
この熊野本宮大社では、神武天皇の一行は東征の際に本当にこの熊野までやってきたのか、本当に険しい山中を大和までどのようにして辿りつくことができたのか、という疑問がわいてきました。紀伊半島の海岸沿いに難波から熊野へ回ってきたこと、八咫烏の導きで熊野から大和へ行軍したことを感じ取りたかったのが、逆の気持ちになってしまい頭が少し混乱しました。
 
次は新宮川を河口近くまで下ったところにある熊野速玉大社ですが、ここはさらによくわからないところでした。また次回。 (第11回へつづく)

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男50歳からの古代史構想学(9) 

2020年09月02日 | 古代史構想学
■神話は事実から生まれる

葛城の鴨三社を見た後に向かったのが、高天彦神社(たかまひこじんじゃ)です。高鴨神社を出て葛城山麓バイパスを少しだけ走ったあと、さらに急な坂を金剛山の中腹まで登ります。途中、徒歩による参道が車道から分岐していました。歩いて参拝する人もいるのでしょうか。
 

 
車で登りきったところに神社があります。駐車場から本殿までの参道は並木道になっていて何ともいえない有難い雰囲気に満ちています。上の写真にある参道を登ってくると、この並木道につながっています。
  

   
社務所がなく、今は高鴨神社によって管理されているらしいのですが、境内は綺麗に整備されていました。この神社の祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)であり、天地の初めに天上世界の高天原(たかまがはら)に現れた神様のひとりです。社名の高天彦は高皇産霊神の別名とも言われています。金剛山の中腹、奈良盆地を見下ろす場所に鎮座し、近くには高天原跡地と伝えられるところもあって、いかにもそれらしい雰囲気。記紀神話をもとに作り出されたテーマパークとも言えそうですが、単純にそうとも言い切れない。その昔、天孫族からつながる有力者がこの葛城一帯を支配した事実があるからこそ生まれた神話であり、この神社なのだろうと思うのです。
 

 
いま風に言えばパワースポットということになるのでしょうが、そんな安っぽい言葉では語れない雰囲気が漂ういいところです。ぜひ訪ねてみてください。
 
このあとは葛城一言主神社。祭神は一言主大神で、地元では「いちごんさん」と呼んで親しまれています。 
 
一言主大神は第21代雄略天皇が葛城山で狩をした時に天皇と同じ姿をして現れたといいます。前回に紹介した「事代主神(ことしろぬしのかみ)」は「言代主神」とも言われています。古代には「事」と「言」の区別がなかったためです「言代主神」と「一言主神」、よく似ていると思いませんか。そうなんです、この二人の神様は同一神と言われているのです。
 
事代主神は鴨族の祖先神で、その鴨族(鴨氏)の有力者が枝分かれして葛城氏になった。鴨氏は鴨都波神社に祖先神を祀り、葛城氏はこの一言主神社に祖先神を祀っている。私はそんなふうに考えています。
 

 
葛城氏の祖先神である一言主神が天皇と同じ姿で共に狩をするという話は、葛城氏が天皇と同じくらいの勢力を誇っていたという事実を反映していると言われています。 
  
第三回で紹介した宮崎ツアーの話で仲間のひとりである岡田さんが言った「高千穂は神話のテーマパーク」というのがずっと心に引っかかっていたのですが、全てを神話の後にできたテーマパークで片付けるのはやはり違うな、ということを改めて感じました。何らかの事実があるからこそ後世に伝えられて伝承となり、神話になる。とすれば、その事実があった場所もまた実際に存在する。
 
葛城では鴨三社、高天彦神社、葛城一言主神社の5つの神社以外に孝昭天皇陵、孝安天皇陵、葛城襲津彦の墓と言われる室宮山古墳を訪ねましたが、また別の機会に紹介することにします。(第10回へつづく)

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男50歳からの古代史構想学(8)

2020年09月01日 | 古代史構想学
■古代史と神社

今回は昨年(2016年)の6月に奈良県の葛城一帯を訪ねたときのことを書きます。ちなみに私の自宅は大阪の富田林市にあり、葛城地方とは金剛山地を挟んで向かい側になります。

訪ねたところは順に、孝昭天皇陵→鴨都波神社→葛木御歳神社→高鴨神社→高天彦神社→宮山古墳→葛城一言主神社→孝安天皇陵、です。葛城は古代の大豪族である葛城氏の本拠地であり、鴨氏(賀茂氏)の出身地とも言われています。しかし、ほぼ思いつきの踏査だったために事前の下調べをせず、スマホ片手に回ることになりました。

今回は鴨三社と呼ばれる鴨都波神社、葛木御歳神社、高鴨神社を紹介します。

最初に訪ねたのは下鴨社とも呼ばれる鴨都波神社です。神社由緒によると、創建は崇神天皇のときで、祭神は積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)と下照姫命(したてるひめのみこと)となっています。小さな神社ですが綺麗に整備されていました。氏子さんたちの敬虔な気持ちの賜物だろうと感じました。この神社の下には弥生時代の遺跡があり、裏手を走る国道24号線を挟んだ西側からは一辺が20メートルほどの方墳が発掘され、三角縁神獣鏡などの副葬品が出ました。この墳墓の主は祭神である事代主命と関係がありそうです。このことから、私は事代主命は鴨氏、葛城氏につながりる神様だと考えるようになりました。



次に中鴨社と呼ばれる葛木御歳神社。祭神は御歳神(みとしのかみ)といって、古事記ではスサノオ命の孫神とされ「お年玉」の語源になったとも言われている神様です。裏手の御歳山をご神体とする小さな神社で、女性の宮司さんが神社の横でサロンカフェを営んでいます。この日も地域の女性が集まって貸切で会合をしていました。
営利目的のカフェではなく、地域のコミュニティを守っていきたいという思いを感じました。お参りしている時に体長が15センチほどの小さなヘビを見つけました。神様が姿を見せてくれたのでしょうか、第五回で紹介した三輪山の大物主神の話を思い出しました。



最後に高鴨神社。御歳神社を出て国道24号線を少し南下したところを右折すると、道路は金剛山に向かって急な坂になります。アクセルをグッと踏み込んで一気に登りました。このあたりにも弥生時代の遺跡があり、神社由緒によると鴨族発祥の地となっています。高鴨神社は京都の上賀茂神社や下鴨神社を含む全国の賀茂社の総本宮で、祭神は阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)、別命を迦毛之大御神(かものおおみかみ)といいます。鴨族は弥生時代中期に山を降りて鴨都波神社や御歳神社あたりに住むようになったということです。しかし、山を降りたとされるあたりから弥生時代前期の水田跡が検出されています。時代が少しずれていることから私は、神社由緒とは違う考えを持つようになりました。さらに、通説では出雲の神とされる事代主や阿遅志貴高日子根についても「実は葛城の神ではないか」という考えも持っています。



記紀や風土記などを読んで、参考となる書籍を読んで、ネットでもいろいろ調べ、さらに現地を訪ねて地形や景色を確認し、肌で空気を感じることで自分なりの考えが形作られていきました。これが古代史に取り組む醍醐味ではないでしょうか。そしてこの葛城踏査で、古代史の探究に神社の考察が欠かせないことを認識することができました。
(第9回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(7)

2020年08月31日 | 古代史構想学
■古代史にリアリティを

7回目の今回はいよいよ纒向遺跡の中心を見て回った様子を書こうと思います。

実は纒向遺跡は九州の吉野ヶ里遺跡のような史跡公園になっているわけでもなく、358本もの銅剣が出土した出雲の荒神谷遺跡のように発掘時の状況が再現されているわけでもありません。発掘された場所は全て埋め戻されていて遺跡を遺跡として認識することはできません。案内板が立っているだけなのです。だから実地踏査と言ってもやることは、その場に立って何かを感じること、それをもとに考えること、くらいなんです。(※その後、後述する大型建物跡が発掘された辻地区は史跡公園として整備されました。)

でも、この「感じること」と「考えること」というのがものすごく意味があると思うのです。本を読んだり講演を聴いたりして得た知識をもとに机上で考えることはもちろん重要かつ必要不可欠なのですが、実地踏査はそこにリアリティを加えることができるのです。これによって自分の仮説の確からしさ、あるいは説得力が高まるのだと思います。

埋蔵文化財センターを出た私たちは来た道を戻り、日本最古の道といわれる「山辺の道」に入り、その後は「茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳→纒向石塚古墳→辻地区(大型建物跡発掘地)→纒向勝山古墳→纒向矢塚古墳」という順に回りました。いくつかを紹介します。
 
①茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)
古墳時代中期(5世紀前半代)の帆立貝式前方後円墳で全長は85メートル。「帆立貝式」とは前方後円墳の前方部の長さが短く、ホタテ貝のような形をしていることからこのように呼びます。しかし、この古墳に登ってまず「これは円墳だ」と思いました。というのも上から見ても前方部が確認できなかったのです。おそらく後世に盛土が削られたのでしょう、畑として利用されていたからわからなくなっていました。それでも帆立貝式前方後円墳というからには、発掘の結果としてそれが確認されたのだと思います。
このように古墳は後世に盛土が削られることがよくあるのです。
 
②ホケノ山古墳
3世紀中頃に造られた纒向型前方後円墳で全長が90メートルで後円部の直径が60メートル。1999年からの発掘で重厚で独特な埋葬施設が見つかり、一躍脚光を浴びました。
築造時期が卑弥呼が亡くなった時期に合っていること、この埋葬施設が女王の亡骸を納めるのに相応しい「しつらえ」であること、直径が60メートルということは60センチくらいの小さな歩幅であれば100歩となり、魏志倭人伝にある「径百余歩」という記述と合っていることなどから、この古墳が卑弥呼の墓ではないかと考えています。山すその少し標高の高いところにあって、墳丘に登ると纒向一帯を見渡すことができる、というのも理由のひとつです。これは実際に登ってみてわかったことです。


(桜井市のホームページより)
 
③辻地区(大型建物跡発掘地)
卑弥呼の神殿ではないかと騒がれた3世紀前半のものと推定される大型建物跡が発掘されたところです。建物跡は4棟分が発掘され、最大のものは床面積が238平米でかなりの広さになります。この最も大きい建物がいちばん東にあり、そこから西にむかって一直線に3つの建物が並んでいることから、この4棟は計画的に建設されたと考えられます。この建物群の主は、東の山々から昇る太陽を拝み、おもむろに振り向いて西の建物に控えた者にお告げを伝える、そんな状況が浮かんでくるのです。とはいえ、この現場は全て埋め戻され、いわゆる「原っぱ」状態になっていたので、これはもう想像の世界に入りこむしかないのです。(※その後、史跡公園として整備されました。)

こんな感じで纒向ツアーを終えた私たちは近鉄電車で難波へ出て、がんこ寿しで互いの労をねぎらいました。

私はもともと纒向に邪馬台国があったと考えているので、纒向を訪ねる目的はそれを補強するための材料探しということになるのですが、一方で、邪馬台国が別のところにあったと考える人にとっては全然違った見方になるのだろうと思います。たとえば、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だと考える人はこの纒向遺跡をどのように捉えるのだろうか、というのを聞いてみたい気持ちがあります。ただ、他の人の考えを否定したり反論するつもりは全くなく、むしろ部分的に使えるところはないかな、とすら考えています。

これからも自説を紹介していくと思うのですが、このコラムではそれをわかってもらいたいという思いよりも、私がいかに古代史を楽しんでいるか、というのをお伝えしたいと思っています。

次回からは、一年前の6月に一人で巡った奈良県の葛城地方について書いてみたいと思います。 (第8回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(6)

2020年08月30日 | 古代史構想学
■ 三輪の名物と言えば

纒向遺跡ツアーの続き、今回は三輪山登拝後の至福のひとときを紹介します。

三輪山登拝を終え、狭井神社のご神水でひと息ついて時計を見るとすでに12時を回っていました。炎天下での2時間の山登りで疲労困ぱいの上に体温の上昇も甚だしく、ランチ休憩をとることにしました。入ったお店が大神神社の二の鳥居近くの福神堂という御食事処。お昼どきでそこそこお客さんがいたように記憶しているが、たまたま空いていた奥の小上がり席に陣取ってメニューを開け、まずは当然のように生ビール。そして食事は何と「そうめん」。

関西人にとってそうめんというのはお中元でいただくもので、自分でお金を払って食べるものではないのです。それでもこの時ばかりはメニューにあった冷たいそうめんの写真が何と美味しそうに見えたことか。エアコンとビールとそうめんでようやく体温が下がって正気が戻るかと思いきや、疲れた身体に程よくアルコールが回って何ともいえない心地よさ。



さて、ここから脱線。
その昔、山頂の大物主神に拝礼するために毎朝太陽が昇るとともに三輪の山に入る神職がいた。春夏秋冬、暑いときも寒いときも往復2時間の道のりを黙々と歩いた。そして登拝を終えるとようやく朝餉(あさげ)だ。登拝を終えた神職の身体は、暑いときには身体を冷ます食べ物を、寒いときには身体を温める食べ物を欲した。長期間の保存ができて、良質のたんぱく質が摂取できて、冷たい食べ方でも温かい食べ方でも簡単に調理ができるもの、「そうめん」は古代の神職の知恵が生んだ食べ物ではないだろうか。三輪の地はそうめん発祥の地である。

そう思って「三輪素麺」で検索。
Wikipediaによると「6世紀から7世紀に仏教伝来と共に小麦栽培・製粉技術が伝えられたとされている。伝説によると大和三輪において紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である大田田根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神朝臣狭井久佐に次男穀主が初めて作ったという。」とある。当たらずとも遠からず。これも実地踏査のなせる業(わざ)か。

いつまでも休んでいるわけにも行かず、重い腰を上げて向かった先が桜井市立埋蔵文化財センター。ここには纒向遺跡から発掘された貴重な遺物が展示されています。展示物の数はそれほど多いわけではないのですが、とにかく貴重なものばかり、レプリカではなく本物が並んでいるのです。少なからず興奮状態に。しかし、このときはまだそれほど詳しく纒向遺跡を勉強していたわけではないので、ひとつひとつの遺物の意味がよくわかっていなかったのですが、その後に勉強を重ねていくと「もっとしっかり見ておけばよかった」という後悔の念がフツフツと沸いてきました。

それでもここでひと通りの情報をインプットして、いよいよ私たち3人は纒向の中心に向かってペダルを漕ぎだしました。

最後に、これから何度も登場してもらうことになるので、私とともに纒向を訪ねたメンバー(=宮崎ツアー企画メンバー)の名前を明かしておきます。ひとりは合同会社ウィン・アクション代表の佐々木偉彰さん。もうひとりは故郷へ戻って行政書士事務所を開業した岡田清之さんです。3人とも50代後半(2013年当時)、100年ライフを目指してそれぞれの生涯学習に取り組んでいる真っ最中です。 ※おふたりのお仕事は現在のものに変更しています。 (第7回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(5)

2020年08月29日 | 古代史構想学
■苦行!三輪山登拝

今回はまず纒向ツアーのメインイベントであった三輪山の登拝を紹介したいと思います。

三輪山は奈良盆地の南東部、奈良県桜井市にある標高467mの山で、三諸山(みもろやま)とも呼ばれ、御諸山とも記されます。古代より自然崇拝の対象とされ、山そのものがご神体であるため、神職以外は入山できなかったのですが、明治以降は入山心得を守れば誰でも登れるようになったそうです。ご神体に登ることから、登山ではなく登拝と言われています。

なお、登拝時の写真撮影は厳禁。そして後日には、登拝時に見たことを口外してはならない、ということを耳にした(目にした?)のですが、あらためて大神神社のサイトで確認してもそんなことは書いていないので、当たり障りのない範囲でお伝えします。これから三輪山へ行ってみようと考えられている方の参考になればと思います。

三輪山への登拝は大神神社の摂社である狭井神社での受付から始まります。300円の登拝料を支払うと三輪山参拝証と記されたタスキが渡されます。これは記念になるので持ち帰りたくなるのですが、登拝後に返却しなければなりません。安全に下山したことを確認するためとのこと。そうなんです。三輪山登拝は危険を伴う登山ということです。
なのに、何の下調べもしていなかった私はこの後、思い知らされることになるのです。



6月、初夏というにはあまりに厳しい日差しの中、帽子もタオルも持たず、さらにはあろうことか、給水の備えもせずに登拝に挑んでしまったのです。当然のことながら途中に自販機などなく、休憩個所もほとんどありません。いったん入山してしまうと頂上を目指してただひたすら歩を進めるのみ。

苦行でした。

帽子、タオル、水を持たなかったことを全身全霊で後悔しました。やっとの事で頂上にたどり着いたものの、日陰がなく、座るベンチもなく、山頂の高宮神社で手を合わせ、磐座を確認して早々に下山しました。下山後は狭井神社境内に湧き出るご神水でようやくノドの、いや全身の渇きを潤すことができました。

往復で約2時間。季節や天候にもよると思いますが、もしこれから行ってみようという方がおられたら、それなりの備えをお勧めします。狭井神社では杖を貸してもらえるのでそれもあった方がいいでしょう。ご神体に失礼になるからということか、靴を脱いで裸足で登拝する人を見かけましたが、危険だなと思いました。

時計はすでに12時を回っていました。実はこのような苦行のあとに私たちを待っていたのは至福のひと時だったのです。続きは次回。

<おまけ>
三輪山の説話は日本書紀や古事記の崇神天皇紀に出てくるのですが、ここで日本書紀のほうを紹介します。有名な話なのでご存知の方も多いかと思います。

卑弥呼ではないかとも言われている倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめ)という女性がいました。彼女は大物主神と結婚しました。しかし夫は夜にしか現われず、その容姿を知ることができませんでした。あるとき夫に「その姿を見たいので朝までいて欲しい」と懇願し、夫は「その気持ちはよくわかるので明朝にあなたの櫛笥(櫛を入れる箱)に入っていよう、ただし、私の本性に驚くなよ」と伝えました。彼女は夜が明けてからその櫛笥を見てみました。すると、とても麗しい小蛇がいました。それで驚いて叫んだところ、夫は恥ずかしく思ってすぐに人の形になりました。「お前、我慢が出来ずにわたしに恥をかかせたな。 わたしも山に還って、お前に恥をかかせよう」 それで大空を飛んで御諸山(三輪山)に登りました。彼女はそれを仰ぎ見て後悔して、ドスンと座りました。そのとき、箸で陰(ほと)をついて亡くなりました。それで大市に葬りました。世の人はその墓を箸墓と名付けました。

箸墓が卑弥呼の墓であるといわれるひとつの根拠になっている説話です。その箸墓は陵墓参考地「大市墓」として宮内庁が管理しているために柵がめぐっていて、周囲から眺めることしかできません。しかしそれにしても、箸墓の名の由来を伝えるのなら、もう少し上品な話にできなかったのでしょうかね。(第6回につづく)

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男50歳からの古代史構想学(4)

2020年08月28日 | 古代史構想学
■纒向でのヒラメキ

「古代史構想学」というタイトルに見合った内容になっているのか少し不安がありますが、思うままに書いていきますのでこれからもお付き合いください。今回は宮崎ツアーに先駆けて訪れた奈良の纒向遺跡について書きたいと思います。

纒向遺跡は奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期(3~4世紀)にかけて栄えたと考えられている集落遺跡です。3世紀といえば卑弥呼の時代にあたります。卑弥呼や邪馬台国が登場する中国の史書である「魏志倭人伝」には、西暦239年に魏の皇帝が卑弥呼に対して「親魏倭王」の称号とともに金印を授与したことが記されています。まさにその時代に繁栄していたのがこの纒向遺跡なのです。

神殿ではないかと言われている大型建物跡、祭祀に用いたと思われる2千個もの桃の種、同じく祭祀用と思われる導水施設、日本各地から搬入された土器、護岸工事が施された水路などが発掘される一方で、人が住んだ住居跡がほとんど出ていないため、政治や祭祀を執り行うことを目的に建設された政治都市であると言われています。また、初期の前方後円墳である箸墓(はしはか)や、その前方後円墳の原型と言われている纒向型前方後円墳やホタテ貝型古墳がいくつも存在することから、大きな政治勢力がこの地にあったことは間違いないのです。これらの状況に加えて魏志倭人伝や記紀の記述を私なりに読み解いた結果として、私はここが邪馬台国であったと考えるのが最も蓋然性が高いと思うに至りました。


(左側が北です)

さて、話はちょうど4年前の2013年6月16日にさかのぼります。朝9時、宮崎ツアーの企画メンバー3人は近鉄大阪線の桜井駅で落ち合い、レンタサイクルを借りて「桜井駅→三輪山登拝→桜井市立埋蔵文化物センター→茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳→纒向石塚古墳→辻地区(大型建物跡発掘地)→纒向勝山古墳→纒向矢塚古墳→桜井駅」という行程で巡りました。

この実地踏査においても私なりに得ることがたくさんあったのですが、何よりも桜井駅に降り立ったときに閃いたことが最大の収穫でした。

日本書紀によると、初代天皇である神武天皇から第9代の開化天皇までの神武王朝における皇居および陵墓のほとんどが、この桜井駅よりも南の磐余(いわれ)や葛城の地にある一方で、第10代の崇神天皇から3人の天皇の宮は北側の纒向近辺に営まれ、崇神天皇と第12代景行天皇はその陵墓も同じく纒向にあるのです。私は約半年ほどの思考の結果、第9代までの神武王朝と第10代以降の崇神王朝はつながっていない別々の王朝であると考えるようになっていました。そして閃いたのです。つい今しがた乗ってきた近鉄大阪線はこの二つの王朝を分断する国境線ではないか!

神武天皇は九州において倭国との戦いに勝利したあと、大和を目指して東征し、そして奈良盆地の南部の葛城・磐余に進出して勢力基盤を築いた。一方で崇神天皇は纒向を拠点に大きな勢力をもち、魏志倭人伝に記される邪馬台国として連合国家である倭国を統治していた。狗奴国王の神武は倭国の本丸である邪馬台国に乗り込んできたのだ。そして近鉄大阪線を挟んで両国が対峙することとなった。



私の頭の中でこの図式ができあがった瞬間でした。次回はこの纒向実地踏査でのエピソードを紹介しましょう。(第5回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(3)

2020年08月27日 | 古代史構想学
■古代史熱に火をつけた宮崎旅行

今回は古代史にはまる直接のきっかけとなった仲間との宮崎旅行を紹介したいと思います。このツアーのテーマは前回でも書いた通り「神話の里を訪ねる旅」でした。1泊2日のツアーは「熊本空港→阿蘇大観峰→天岩戸神社→高千穂峡→高千穂神社→ホテル高千穂(泊)→クルスの海→大御神社→西都原古墳群→宮崎空港」という行程だったと記憶しています。

このツアーは、自分の脚で現地へ赴き、自分の五感で感じ、自分の頭で考える、いわゆる実地踏査の重要性を認識した貴重な体験となりました。結果的にこのツアーで感じて考えた多くのことが自分の仮説を補強することになりました。例をあげてみます。

熊本から阿蘇を抜けて高千穂へ入るルートを辿ったことで、高千穂の地が阿蘇山と眼と鼻の先であることが確認できました。その後の勉強で、阿蘇の北側に弥生時代に大規模な戦闘があったことを想定させる数多くの遺跡が存在することを知り、魏志倭人伝に記される女王卑弥呼が統治する倭国と南九州の狗奴国による戦闘の痕跡ではないかとの考えを持つに至って、高千穂は狗奴国が大本営を置いた場所である、と考えるようになりました。また、地図で見ると山間の狭い土地だと思っていた高千穂は意外にも水田の広がる豊かな土地でした。南九州から北進してきた狗奴国が拠点を設けるには十分な場所です。



パワースポットでも有名な高千穂では、天岩戸神社の奥にある天安河原を流れる小川からパワーを受けて、ここに神々が集まったという話を創作した古代人の感性に感心しました。一方で、高千穂は神話のテーマパークだと言った同行メンバーの言にも頷かされたり。神話が先か、出来事が先か。これは古代史を解き明かすときの重要なポイントなのです。



高千穂神社では、神武天皇が馬に乗って東征に出発しようとする姿が眼に浮かび、狗奴国の王が神武天皇であり、狗奴国は倭国に勝利した結果として次に東を目指したのだ、と考えるようになりました。そして後日に地図を見て、高千穂から日向灘に流れる川の名(五ヶ瀬川)が神武の兄の名前(五瀬命)と同じであることに気がつきました。



ホテル高千穂で夕食をとった後に高千穂神社に戻って観た夜神楽は、この地で代々に渡って脈々と神様の話が受け継がれてきたことを強く感じました。今では、これは創り話としての神話を体現するためのものではなく、この地で起こった何らかの史実が神話に取り込まれたことを自慢する、あるいは祝うためのものではないかとすら考えるようになりました。それにしても、そこそこ広い会場が老若男女でいっぱいだったのには驚きました。



翌朝は4時に起きて前夜に予約しておいたタクシーで国見ヶ丘へ行き、祈る気持ちで待った甲斐あって、朝焼けに輝く雲海を眼下に拝むことができました。この時の感動は忘れられないなぁ。神様はいるんだ、とまでは思わなかったけど。


通常、雲海が見れるのは9月~11月。7月に見れたのは奇跡とタクシーの運転手の方も驚いていました。

最後に訪ねた日本最大級の古墳群である西都原古墳群、ここでは古墳の数に圧倒されました。弥生時代から古墳時代にかけて、この日向の地に当時の日本最大と言ってもいい一大勢力が存在した事実を認めない訳には行かず、南九州を支配した集団、すなわち狗奴国の王族の墓域であると確信を持ちました。西都原考古博物館の展示も見事でした。



こんな感じで現地で感じたことや考えたことを取り込みながら自分の仮説が形成されていったことで、古代の日本(いわゆる大和政権)が成立したプロセスを解き明かしたい、という思いが強くなっていきました。そういう意味でこの宮崎旅行は、準備段階で徐々に充填されていった古代史エネルギーに点火された瞬間だったと言えます。

実はこの宮崎旅行の直前、ツアー企画メンバー3人で大和の纒向遺跡を訪ねました。次回はそのお話を。(第4回につづく)


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男50歳からの古代史構想学(2)

2020年08月26日 | 古代史構想学
■邪馬台国の研究は推理小説から

前回の記事では私が古代史や考古学の道に進むことを諦めた経緯を書いたのですが、実は大学を経て社会人になってからもその方面への興味が失せることはなく、関連する本を読み続けてきました。謎解きが好きな私が若い頃によく読んだのが邪馬台国や卑弥呼を題材にした推理小説です。先日、大阪の実家に帰った時に本棚を探してみるとこんなにありました。

「邪馬台国殺人考」 長尾誠夫
「『邪馬台国の謎』殺人事件」 木谷恭介
「『邪馬台国の謎』殺人事件」 深谷忠記
「邪馬台国の殺人」 中津文彦
「『マ』の邪馬台国殺紀行」 荒巻義雄
「卑弥呼殺人事件」 阿井渉介
「卑弥呼塚殺人事件」 島田一男
「邪馬台国はどこですか?」 鯨統一郎
「卑弥呼伝説地に降りた神々」 井沢元彦
「邪馬台国殺人旅情」 斎藤栄
「卑弥呼の殺人」 篠田秀幸
「『古代四国王朝の謎』殺人事件」 吉岡道夫
「幻の騎馬王朝」 邦光史郎
「箸墓幻想」 内田康夫
「陸行水行」 松本清張
「邪馬台」 北森鴻・浅野里沙子

邪馬台国や卑弥呼は作家にとっても謎解きの興味をそそられるネタなのでしょう。井沢元彦氏、松本清張氏は専門家顔負けの古代史研究家と言って間違いないと思います。
読者の皆さん、もしも今から邪馬台国や卑弥呼を勉強してみようという方がおられたら、専門的なことはさておき、こういうところから入るのもアリではないでしょうか。

実家にはこれらの他にもたくさん(数十冊くらい?)の本がありました。ただ、これだけの数を読んだにもかかわらず、当時はまだ自分の仮説もなくただただ興味にまかせて読んでいただけなので、内容については一片の記憶も残っていません。だから時間がある時にもう一度読み直してみようと思っています。

私は2013年の年明け頃から少し真面目に古代史への取り組みを始めました。その年の夏、とあるコミュニティで旅行に行くことになり、その企画を二人の仲間と一緒に考え始めたのがきっかけです。二人とはいわゆる飲み仲間で、古代史を話題に飲むこともよくあって、そんなことから旅行の企画が始まりました。旅の行き先は宮崎、コンセプトは神話の里を訪ねる旅。企画を練り上げる中で、旅行までに魏志倭人伝を暗記しておくこと、邪馬台国について自分の考えをまとめておくこと、という課題が決まったのです。これが1月頃のことで、少なくとも二人よりも詳しいと自負する私は旅行までのおよそ半年、かなりの時間を魏志倭人伝や邪馬台国に費やすことになりました。このとき、30年以上に渡って封印してきた古代史への想いが心の底から溢れ出てくるのを感じました。

実はこれとほぼ同じタイミングで異動の内示を受けていたのですが、これが会社にとって最も重要と言っても過言でない組織への異動内示でした。本来であればその方面の勉強を始めるべきところでしたが、一度騒ぎ出した血は収まるはずもなく、仕事の勉強はついつい後回しに。

そしてこのときに自分の考えを「邪馬台国畿内説を論証する」と題するレポート(A4で11枚)にまとめました。そうです、私は邪馬台国畿内説を採っております(が、その邪馬台国がそのままその後の大和政権になったとは考えておりません)。このコラムを書く機会にあらためて読んでみたのですが、このときに書いたことが今でも自分の仮説の骨子になっていることが再確認できました。そのときに参考にした主な書籍を以下に紹介しておきます。

「天皇家のふるさと日向をゆく」 梅原猛
「出雲神話の誕生」 鳥越憲三郎
「古代史9つの謎を掘り起こす」 関裕二
「『日本神話』の謎と真実」 三浦竜
「日本古代史を科学する」 中田力
「『出雲』からたどる古代日本の謎」 瀧音能之
「古事記と日本の神々」 吉田敦彦
「出雲と大和 古代国家の原像をたずねて」 村井康彦
「蘇我氏の正体」 関裕二
「邪馬台国は甦る!」 木谷恭介
「吉備の古代史」 門脇禎二
「古代天皇はなぜ殺されたのか」 八木荘司
「『古代日本』誕生の謎」 武光誠
「王権誕生」 寺澤薫
「邪馬台国をとらえなおす」 大塚初重
「邪馬台国の候補地 纏向遺跡」 石野博信
「歴史群像 特別編集『最新 邪馬台国論』」 学研社
「歴史法廷 特集『邪馬台国はここにある』」 世界文化社

難しい専門書の類はひとつとしてなく、どれも文庫、新書、雑誌です。素人は素人らしく背伸びをしないこと。

今回は本の紹介のようになってしまいましたが、次回は宮崎旅行を紹介したいと思います。(第3回へつづく)


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