古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

象鼻山古墳群から長浜・息長古墳群へ

2023年10月28日 | 実地踏査・古代史旅
2023年10月27日、休みを取って「古代史日和」で知り合った仲間5人と一緒に古墳巡りをしてきました。行き先は岐阜県の象鼻山古墳群、滋賀県の長浜古墳群、そして息長古墳群です。

朝9時に新幹線の岐阜羽島駅で集合です。私以外は皆さん関東の方ばかりで、前泊で岐阜入りしたり、早朝に新幹線でやってきたり、運転手役をかって出た私は自宅から車で向かいました。さわやかな秋晴れの中、岐阜羽島駅をスタート。

最初に目指した象鼻山古墳群には30分足らずで到着、標高142mの象鼻山の山頂を目指します。




車が1台通れるほどの山道を20分ほど歩くと山頂です。山頂付近に70基の古墳が築造されていますが、最大のお目当ては1号墳。全長40mの3世紀中頃か後半に造られた前方後方墳で、畿内と東海の両方の特徴を併せ持つ古墳です。一般的には畿内の影響を受けた東海の一族が築いたとされていますが、実際に墳丘に登って広い濃尾平野を見渡してみると、西からやってきた勢力がここを拠点にして濃尾平野に進出したという全く逆のイメージが湧いてきました。






3号墳は上円下方墳とされていますが、墓ではなく祭祀用の舞台との想定で上円下方壇とする説もあるようです。小さな祠が建っていました。



墳丘に登ってあれやこれやと妄想話に花を咲かせて30分ほどの滞在で下山し、次は美濃国二之宮の伊富岐神社へ。



伊富岐神社境内は綺麗に整備されていて思っていた以上に大きな神社でした。祭神には諸説あるようですが、神社庁サイトでは多多美彦命(たたみひことのみこと)とあり「天火明命の子孫伊福氏の本貫なれば同氏等が氏神として創祀せるなるべし」とあります。伊福=伊吹で、伊福氏は製鉄氏族とする考えがあります。






ここで時刻は11時半。少し早い目のランチは近くの蕎麦屋さん「関ヶ原そば処幸山」へ。新しいお店のようで、店内は蕎麦屋さんらしくない雰囲気。天ぷらが売りのようですが、私は揚げ餅そばをいただきました。




お餅のせいか、歳のせいか、この量でお腹がいっぱいになりました。美味しかったです。さあ、次は関が原を通過して長浜古墳群へ向かいます。まずは横山丘陵の先端に造られた長浜茶臼山古墳。




全長92m、葺石のある二段築成の前方後円墳。築造時期は4世紀後半とも5世紀前葉とも言われています。長浜平野から湖北一帯を一望できる後円部からの眺望は一見の価値ありです。







墳丘上では後円部が丘陵先端だというのは明らかにわかるのですが、前方部、とくに先端部がどのあたりなのかがよくわからず、ここかな、こっちかな、いやいやこのラインでしょう、なんて話で盛り上がりました。





次はすぐ近くの垣籠古墳。全長が50数mで築造時期は5世紀後半とされますが、墳形はどの資料をみても前方後円墳とあり、現地の案内板もそうなっていたのですが、何かの資料(ネット情報?)で、最近になって前方後方墳であることが確認された、とあったのでそれを信じていました。でも、正しくは前方後円墳かも知れません。正確な情報をお持ちの方がいらっしゃればご教授いただければありがたいです。




応神天皇の皇子である稚野毛二派皇子の墓とされていることからか「両岐王宮」という神社になっていて墳丘上に祠が建っています。



後円部の半分が開墾で削られていて前方部の先端のように見えたこと、墳丘上に神社がある場合はたいがいの場合、社殿のあるところが後円部になっていることから、ここも同じだとだれも疑わずに前方部の端はどこだ、角はここかな、なんて言い合ってました。念のために資料を確認すると何とビックリ、前と後ろをまったく逆に見ていたことに気がつきました。





次は丸岡塚古墳。前方部がすでに失われていますが全長が130mに復元しうる湖北最大の前方後円墳で5世紀中頃の築造と推定されています。




田んぼの中の一本道を進んでいったものの、思っていた以上に道が細い。墳丘を巡る道はあるけど、これ以上進むとUターンできそうな場所もなく、直角に曲がる細い道でバックも厳しい。ということでギリギリまで近づいて戻ってきました。

空模様が怪しくなってきました。この日の天気予報は夕方から雷雨の可能性あり、ということだったので先を急ぎます。次は横山丘陵の南側にある息長古墳群の山津照神社古墳。





私はこの古墳は二度目で前回は墳丘に登って周囲をまわって細かく観察した古墳です。同じく二度目という仲間は前回は登っていないというので皆で登りました。削られて崩れてかなり変形していますが、前方後円墳を実感してもらえたようです。




山津照神社も拝んでおきました。




さあ、このあとです。来た道を戻ればよかったのに反対側に出たためにえらい目に遭いました。無理すれば何とか曲がれそうな直角に曲がる細い路地。安易に行ってしまってガリガリ(涙)。後悔しても始まらないので気を取り直して塚の越古墳へ向かいます。私はここも二回目です。




ほとんど削平されてしまっていますが、なんとか前方後円形を確認することができます。また、裏へまわると葺石を見ることもできました。




時刻は15時半。もうひとつくらい古墳を見ようかと思っていましたが、降り出した雨が強まりそうなのですぐ近くの近江はにわ館へ一時退避。息長古墳群で出土した埴輪が見れるものと思っていたのですが行ってみてビックリ。大きな第一展示室はもぬけの殻で真っ暗。第二展示室も前日までの展示品を撤収したばかりと言います。その展示品とは米原市の鎌刃城の出土品。

職員の方がおられたので聞いてみたところ、埴輪などの常設展示品は予算の都合など色々あってホールに展示した4体の埴輪以外はすべて収蔵庫にしまってあるとのことでした。学芸員さんも他の施設に勤務するようになったとのこと。図書館を併設した立派な展示施設で展示室2つもあるにもかかわらず、そして展示する資料も豊富にあるにもかかわらず、なんともったいないことか。陳腐化したPCなどの入れ替えに膨大な予算が必要ならPCがなくてもいい展示にすればよいのに。こんな文化財行政でいいのか、米原市。とても残念な気持ちになりました。






以上でこの日の予定が終了。雨が激しさを増して来たので館内で小降りになるのを待って解散場所の米原駅へ。時刻は予定よりも少し早い16時半。皆さん、お疲れさまでした。東京から来られて1日だけ、というのはもったいなかったと思いますが、次回は皆で1泊しましょう。

私は米原ICから北陸道に乗ったのですが、草津あたりで前方が見えなくなるくらいの土砂降りになりました。金曜日の夕方、仕事帰りの時間に重なったこともあって草津から自宅近くの松原までずっとノロノロ運転の渋滞に見舞われたものの、そんなこと何とも思わないくらいに楽しい時間を過ごせて満足の1日となりました。ありがとうございました!





↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。






飛鳥を巡ってきました(後編)

2023年10月16日 | 実地踏査・古代史旅
飛鳥駅前のレンタサイクル屋さんで自転車を借りてキトラ古墳を目指します。高松塚古墳とともに石室内の壁画で有名な古墳です。ダラダラと続く長い上り坂、帰りは下りなので楽チンだぞと自分に言い聞かせて頑張ってペダルを踏みます。

キトラ古墳では先に壁画体験館「四神の館」へ入ります。先に情報収集した上で現地に立つ。実地踏査の鉄則ですね。ちなみにキトラ古墳は7世紀末~8世紀初頭に築造された小さな円墳です。




石室、正確には横口式石槨のレプリカ。正面(北面)に玄武、右(東面)に青龍、左(西面)に白虎、そして手前(南面)に朱雀が描かれ、それぞれの絵の下に十二支像が描かれます。そして天井には天文図。






壁面の劣化が激しくて壁画を十分に確認することができません。これが発見された当時の姿なのか、それとも保存が適切に行われなかった結果の姿なのか。館内の展示説明は保存や修復の苦労話が並んでいましたが、上手くいかなかったことがあったはずで、そういうことも説明されるべきだと思いました。館内の天井は天文図を模した照明が輝いてなかなか幻想的です。



館内での学習を済ませて外へ出て古墳を見学します。想像していたよりも小さい。この小さな墳丘の中にあんなものが埋まっていたのか。



次は第42代文武天皇陵に治定される檜隈安古岡上陵。ちょうど清掃が行われていて、清掃員の方が門扉を開けて墳丘に入っていくところでした。「手伝いますよ」と言ってついて入りたかった。





そして次は高松塚古墳。ここも先に展示施設の「壁画館」に入ります。高松塚古墳は1972年に色彩鮮やかな壁画が発見された古墳です。キトラ古墳と同様に石室の四面に四神が、天井には星宿図が描かれていて、築造はキトラ古墳とほぼ同じ時期の円墳です。



展示室の両側に実物大の壁画が展示されています。右側に展示されるのが「現状模写」(写真上)、左側の展示が「一部復元模写」(写真下)です。ほとんど違いがないのですが、さて、どう違うのでしょうか。





そんなことをブツブツ言いながら見学しているとタイミングよく職員の方が出てきて教えてくれました。右側は現状のままに模写したもので、左側は泥などの付着物を除去できる範囲で除去した状態を模写したもので、付着物を完全に除去できないのでそんなに違いが出ない、ということでした。

もう一つ、キトラ古墳では天文図と言ってたのに、こちらでは星宿図と言います。これもどう違うのかと思っていたのですが、説明を読んで理解しました。天文図は実際の星(星座)の配置を示していて、星宿図とは実際の配置とは関係なく星座を並べたものです。



見学を終えてすぐ近くの古墳へ。キトラよりも大きいけど直径はわずか23mです。ここも近くから見るだけです。




次は中尾山古墳。ここは発掘調査の結果、8世紀初頭の築造であること、八角形墳であること、立派な横口式石槨をもつこと、石槨中央部に火葬骨の蔵骨器があったと思われること、などから文武天皇の真陵だと考えられています。



天皇陵かも知れないにもかかわらず、発掘調査後の墳丘は残念な姿になっていました。



手前の五角形の石、何か意味ありそうですが、なんだかわかりますか。ヒントはこの古墳が八角形墳であること。この古墳は墳丘裾部(墳丘の周り)に石敷きが設けられていて、それが墳丘と同じ八角形をしていたことがわかっています。この五角形の石はその八角形の石敷きのひとつの角を表しているのです。



このあと、近道をするために自転車で階段を降りて、次の梅山古墳を目指したのですが、古墳の横を通過してまずは猿石を見ようと、吉備姫王墓に寄りました。






今はこの場所に置かれていますが、もともとは梅山古墳の南側の田んぼ(下の写真の場所かな)で見つかったと言います。また、ここには4体ありますが、もう1体が高取城跡への登山道に置かれているらしいのです。ということは田んぼから掘り出されたのが5体あったということになります。



いよいよ最後の見学です。さっき横を通ってきた梅山古墳、第29代欽明天皇陵(檜隈坂合陵)に治定される全長140mの前方後円墳です。築造時期6世紀後半で、天皇陵として築造された最後の前方後円墳になります。ただし、本当に欽明陵だとすればです。



『日本書紀』には妃の堅塩媛を合葬したと記されていることから、この古墳が欽明陵だとすれば主体部には二つの石棺があるはずです。ただ、残念ながら宮内庁管理下にあるために主体部の発掘が叶わず確認することができません。天武・持統合葬陵が野口王墓に治定された今、奈良県下最大の前方後円墳である丸山古墳がどの天皇陵にも治定されない中途半端な状態に置かれています。石棺が二つあることが確実であることから、丸山古墳が欽明陵である可能性は大きいと思います。

以上でこの日の飛鳥巡りは終了です。飛鳥駅で自転車を返却し、帰りの電車を待つまでの間、駅前の喫茶店で休憩です。秋晴れで汗ばむ1日、午前中は山登り、午後からは自転車で坂道上り、結構な疲労感の中で飲んだストロベリーの氷カフェの美味しかったこと。






(おわり)








飛鳥を巡ってきました(前編)

2023年10月15日 | 実地踏査・古代史旅
2023年10月、そろそろ秋の様相を呈してきた飛鳥を友人と二人で巡ってきました。朝9時に近鉄岡寺駅で待ち合わせをして、丸山古墳→牟佐坐神社→益田岩船→牽牛子塚古墳→岩屋山古墳→近鉄飛鳥駅→キトラ古墳→第42代文武天皇陵→高松塚古墳→中尾山古墳→第29代欽明天皇陵→吉備姫王墓(猿石)という行程で巡って、最後は近鉄飛鳥駅にて予定終了となりました。



丸山古墳(私は中学生のとき以来、つい先日まで見瀬丸山古墳と呼んでいました)は奈良県最大の前方後円墳で、後円部の墳頂部が陵墓参考地になっています。墳丘には自由に登れるものの、墳頂部だけは柵が巡っていて入ることができませんでした。感覚的には纒向にある箸墓古墳や崇神天皇陵などの方が大きい感じがしました。






江戸時代以降、天武・持統天皇の合葬陵に治定されていましたが、明治時代に入って同じ飛鳥にある野口王墓がそうであることを示す資料が見つかったことから、野口王墓が天武・持統天皇合葬陵に治定されることになりました。とはいえ、こちらは奈良県下最大の前方後円墳ということからか、墳頂部だけでも陵墓参考地として残しておこうということになったのでしょう。



牟佐坐神社は第8代孝元天皇の軽境原宮跡とされています。神社はこんもりした小山の上に建っていて、もしかしたら古墳ではないかなと思わせるような小山でした。






益田岩船に行く途中に第4代懿徳天皇の軽曲峡宮(軽之境岡宮)跡の伝承地を経由しましたが、ここは碑が立っているだけでした。



住宅地を抜けて岩船山の麓に到着し、休む間もなく急な山道を登ります。5分ほど登ると見えてきました。益田岩船です。高校のときに松本清張の『火の路』を読んで以来、いちど見てみたかった益田岩船です。でかい。想像以上にでかい。







こんな山の上にポツンと残された巨大な石造物が何のために造られたのか。松本清張はゾロアスター教の拝火台とする新説を提唱されたが、①弘法大師による灌漑用貯水池「益田池」の築造記念石碑の台石、②天体観測や占星術のための台座、③穴の中に遺骨を入れて石の蓋をする火葬墳墓、④横口式石槨の建造途中で石に亀裂が入ったために放棄された、など諸説があって最近では④が有力とされ、わたしもそのように思っていましたが、その巨大さから、石槨とは考えにくいと思いました。横口式石槨ならこの巨石を90度横倒しにしなければならず、この場所で倒すと山を転げ落ちそうとも思いました。

ほぼ半世紀来の念願が叶ったからか、後ろ髪を引かれる思いで次の牽牛古塚古墳を目指して山道に分け入ります。前々日の雨の影響か足元がぬかるみます。まだまだ夏の名残りがあって草木が茂っています。厄介なのがちょうど顔の高さ辺りに張られている蜘蛛の巣。油断すると顔面に絡んでくるのです。さらに、倒木で道がふさがれたところも数カ所。それでも前進あるのみ。20分ほどで牽牛古塚古墳が見えてきました。









ここは2回目です。2022年に復元整備されて史跡公園として開放されていますが、石室の見学は予約が必要です。この復元が物議を呼んだことは記憶に新しいですね。なかなか古墳だと実感できず、私にはUFOにしか見えません。

7世紀中葉〜8世紀初頭の八角形墳で、墳丘裾部に凝灰岩切石が敷き詰められ、さらにこの石敷の上からも大量の凝灰岩切石が出土したことから、墳丘全体が凝灰岩切石で装飾されていたと考えられてこのような復元になりました。埋葬施設は凝灰岩の巨石を使用した刳り抜き式の横口式石槨で、石槨内には二つの墓室があります。『 日本書紀』天智紀に斉明天皇・間人皇女合葬の記載があることなどから第37 代斉明天皇(第35 代皇極天皇)の真陵である可能性が指摘されています。

先に見た益田岩船はもともとこの古墳の石槨として加工されたものの、途中で亀裂が入ったために放棄されたと言われるのですが、果たして真実はいかに。

次は飛鳥駅に向かう途中にある岩屋山古墳。ここも2回目です。巨大な横穴式石室を構成する巨石の切石加工が見事。一辺45m前後の方墳あるいは八角形墳とされます。築造時期は7世紀前半、あるいは7世紀中葉~第3四半期との説もあるようです。八角形墳なら天皇もしくはそれに準ずる皇族の墓の可能性があります。







時刻は11時過ぎ。山道を歩いたこともあって軽い疲労感。飛鳥駅すぐ近くの「Matsuyama Cafe」でランチをとりました。





たまたま1席だけ空いていてラッキーでした。飛鳥駅周辺でゆっくりランチできるお店はここくらいで皆さんにオススメしたいのですが、行かれる場合は予約必須ですね。後半戦は予定を少し変更してキトラ古墳まで足を伸ばすことにしたので、急きょレンタサイクルを借りることにしました。

(つづく)