ここからは、素戔嗚尊をリーダーとする集団が先住支配集団を退けて出雲に進出した様子を四隅突出型墳丘墓を手がかりに追ってみたい。まず四隅突出型墳丘墓について確認しておく。
四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期以降に安芸や備後、山陰、北陸などの各地方で行われた墓制で、全国で約100基が確認されている。方形墳丘墓の四隅を引っ張って伸ばしたような特異な形をしており、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。弥生時代中期後半に広島県三次市周辺で初めて出現する。最初は規模も小さく突出部もあまり目立たない形であったが、弥生時代後期になると、妻木晩田遺跡を皮切りにして伯耆地方を中心に一気に分布を広げ、規模も少しずつ大きなものが造られるようになり突出部も急速に発達していった。弥生時代後期後半になると分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布範囲を北陸地方にも広げていった。しかし、弥生時代の終わりとともに忽然とその姿を消してしまった。
四隅突出型墳丘墓の分布 (出雲市教育委員会)
四隅突出型墳丘墓の変遷 (鳥取県埋蔵文化財センター)
四隅突出方墳丘墓の始まりは島根県を流れる江の川の上流、広島県の三次盆地である。書紀の素戔嗚尊の段の一書(第2)には「素戔嗚尊は安芸国の可愛川の上流に降りた」とあり、この可愛川は現在の江の川であるといわれている。一書(第2)に具体的な地名が書かれているわけではないが、この素戔嗚尊降臨の場所と四隅突出方墳丘墓発祥の地がともに江の川上流ということで一致しているのは偶然だろうか。江の川をさらに遡って安芸高田市に入ると、主祭神として素戔嗚尊を、相殿神として脚摩乳命、手摩乳命、稲田姫命を祀っている「清(すが)神社」がある。
素戔嗚尊をリーダーとする渡来集団は四隅突出型墳丘墓という独自の墓制を持つ集団であった。朝鮮半島から渡来するとき、その先遣隊が石見に漂着、江の川を遡って三次盆地や江の川水系の周辺地に定着して四隅突出型墳丘墓を築いた。その後、集団本体が伯耆に渡来して妻木晩田に落ち着いて勢力基盤を整え、そこでも四隅突出型墳丘墓を築いた。そして東は因幡の青谷上寺地を制圧して支配域に加え、さらに越にも進出してこの墓制を広めた。また西においては、出雲の先住支配者集団であり、北部九州とつながりを持つ青銅祭祀集団を制圧して出雲の王となった。そして斐伊川の下流域左岸にある西谷地域に代々の王の墓として弥生時代最大級規模の四隅突出型墳丘墓を築くまでに勢力を拡大した。西谷地域には6基の四隅突出型墳丘墓を含む32基の墳墓が確認されている西谷墳墓群がある。
書紀ではこの過程を省略して最初から出雲に降りて出雲や越を支配したように書かれている。その後、四隅突出型墳丘墓は築かれなくなって古墳時代に突入するのであるが、この素戔嗚尊一族も新たな勢力に制圧されたことを意味するのだと思う。
以上のように、四隅突出型墳丘墓の分布や変遷と合わせて考えてみても矛盾なく説明ができていると思う。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。
四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期以降に安芸や備後、山陰、北陸などの各地方で行われた墓制で、全国で約100基が確認されている。方形墳丘墓の四隅を引っ張って伸ばしたような特異な形をしており、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。弥生時代中期後半に広島県三次市周辺で初めて出現する。最初は規模も小さく突出部もあまり目立たない形であったが、弥生時代後期になると、妻木晩田遺跡を皮切りにして伯耆地方を中心に一気に分布を広げ、規模も少しずつ大きなものが造られるようになり突出部も急速に発達していった。弥生時代後期後半になると分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布範囲を北陸地方にも広げていった。しかし、弥生時代の終わりとともに忽然とその姿を消してしまった。
四隅突出型墳丘墓の分布 (出雲市教育委員会)
四隅突出型墳丘墓の変遷 (鳥取県埋蔵文化財センター)
四隅突出方墳丘墓の始まりは島根県を流れる江の川の上流、広島県の三次盆地である。書紀の素戔嗚尊の段の一書(第2)には「素戔嗚尊は安芸国の可愛川の上流に降りた」とあり、この可愛川は現在の江の川であるといわれている。一書(第2)に具体的な地名が書かれているわけではないが、この素戔嗚尊降臨の場所と四隅突出方墳丘墓発祥の地がともに江の川上流ということで一致しているのは偶然だろうか。江の川をさらに遡って安芸高田市に入ると、主祭神として素戔嗚尊を、相殿神として脚摩乳命、手摩乳命、稲田姫命を祀っている「清(すが)神社」がある。
素戔嗚尊をリーダーとする渡来集団は四隅突出型墳丘墓という独自の墓制を持つ集団であった。朝鮮半島から渡来するとき、その先遣隊が石見に漂着、江の川を遡って三次盆地や江の川水系の周辺地に定着して四隅突出型墳丘墓を築いた。その後、集団本体が伯耆に渡来して妻木晩田に落ち着いて勢力基盤を整え、そこでも四隅突出型墳丘墓を築いた。そして東は因幡の青谷上寺地を制圧して支配域に加え、さらに越にも進出してこの墓制を広めた。また西においては、出雲の先住支配者集団であり、北部九州とつながりを持つ青銅祭祀集団を制圧して出雲の王となった。そして斐伊川の下流域左岸にある西谷地域に代々の王の墓として弥生時代最大級規模の四隅突出型墳丘墓を築くまでに勢力を拡大した。西谷地域には6基の四隅突出型墳丘墓を含む32基の墳墓が確認されている西谷墳墓群がある。
書紀ではこの過程を省略して最初から出雲に降りて出雲や越を支配したように書かれている。その後、四隅突出型墳丘墓は築かれなくなって古墳時代に突入するのであるが、この素戔嗚尊一族も新たな勢力に制圧されたことを意味するのだと思う。
以上のように、四隅突出型墳丘墓の分布や変遷と合わせて考えてみても矛盾なく説明ができていると思う。
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