古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

近江・越前への実地踏査ツアー②

2024年08月04日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月26日、午後の部は「近江富士」の別名をもつ三上山の山麓に鎮座する御上神社からスタート。御上神社の主祭神、天之御影命は天津彦根命の子で天照大神の孫にあたります。天之御影命が三上山の山頂に降臨したので、神主の御上祝(はふり)が三上山をご神体として祀ったのに始まると伝えられます。











写真左の本殿が国宝に指定されています。拝殿から見てほぼ真東にある三上山をご神体として祀っているはずなのに、本殿を拝む方向はほぼ真北。つまり90度ずれているのですが、その理由は定かではありません。

この記事を書くにあたって復習していてわかったことが、境内の前に昭和天皇即位時の大嘗祭に供える献上米の栽培地として指定された悠紀斎田があったということ。それ以来、毎年5月に御田植祭が行われているそうです。

次は通称、銅鐸博物館と呼ばれる野洲市歴史民俗博物館へ。近くの大岩山から24個もの銅鐸が出たことは良く知られています。24個のなかのひとつは高さが134センチもあり、日本最大の銅鐸であり、実物は東京国立博物館に展示されています。







この展示によると中国の馬鈴が原型となって朝鮮半島の朝鮮式小銅鐸に発展し、それが日本に伝わって小銅鐸となった、と解釈できます。わたしが数年前に勉強したときには、原型は中国の銅鈴で、それが朝鮮半島に伝わって朝鮮式小銅鐸となり、さらに日本に伝わって小銅鐸となり、その後、小銅鐸のまま利用されるケースと、大型化に向かうケースの2つの系統に分かれた、と整理しました。



上の写真、いずれもレプリカですが、日本最大銅鐸と日本最小銅鐸のいずれもが滋賀県で出土している事実はなかなか興味深かった。大岩山出土銅鐸や滋賀県の他のところから出た銅鐸の展示はどれもレプリカながら、なかなか見応えがありました。

わたしはこの本で銅鐸を勉強しました。
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次の踏査地は冨波古墳。墳丘が削平されてしまった埋没古墳ですが、3世紀後半の全長42mの前方後方墳です。大岩山古墳群の中で最も早くに造られた古墳で、この地域を治めた最初の首長の墓と考えられます。すぐ隣に円形周溝墓と考えられる遺構が見つかっています。









今回のツアーの行程を組んだのがちょうど前方後方墳の勉強をしている時だったので、行程に入れました。近江は前方後方墳発祥の地との説があり、わたしもそのように考えています。詳しくは「前方後方墳の考察①~⑭」をご覧ください。

次の踏査地も以前から行ってみたいと思っていた鏡神社です。『日本書紀』には、垂仁天皇3年に新羅から来日した天日槍が、播磨国から菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらく滞在し、その後、若狭国から但馬国に至って居住地を定めた、近江国鏡村の陶人は天日槍の従者である、と記されます。その鏡村にある鏡神社の祭神はもちろん天日槍です。









思っていた以上に整備されていました。でも、このあたりは天日槍よりも源義経の元服の地として有名のようです。知らなかった。

次は結果的にこの日の最後となった乎加神社と神郷亀塚古墳です。乎加神社の前に車を停めて、まずは神社を参拝します。この神社はちょっとイメージと違った。実際に来るまではもっと小さな神社かと思っていたけど、境内は綺麗に整備され、拝殿、本殿とも立派なものでした。本殿は明治22年の伊勢神宮遷宮時に譲り受けたもので、伊勢神宮の譲り受けはこの時が最後だそうです。









祭神は豊遠迦比売命となっていますが、これは社歴略掲にあるとおり、五穀の神なので豊受大神あるいは豊宇気毘売神のことを指します。

神郷亀塚古墳はこの本殿の裏側にあるので、そのまま歩いて向かいます。途中、地元のおばあさんが田んぼの草刈りか何かをしていたので挨拶をして通り過ぎました。このあたりと思って歩いていると説明板が目にとまりました。



立っている場所はこの図の左下あたりです。墳丘がこんな感じで見えます。と言ってもよくわからんか。



前方部正面へ周ってみます。発掘調査のあと、完全に埋め戻されて一面が家庭菜園になっています。ハートの上半分のように見える奥の木の手前、少し薄い緑のこんもりしたところが後方部です。わずかに左側だけ残された前方部が手前に少し延びているのがわかるでしょうか。



反対側から近づいてみました。残された墳丘の形が少しわかるようになりました。



家庭菜園で作業をしている人がいたので、これ以上近づくことができませんでした。帰りに後方部に向かう小径があるのに気がついて進んでみると、後方部の後ろ側すぐのところまで接近できました。



神郷亀塚古墳に興味のある方には是非読んでもらいたい一冊
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帰り道、さっきのおばあさんが「亀山さんを見てきたんか」と声をかけてくれました。この古墳、地元の方は亀山さんと呼んでいる、と上の本に書いてあったのを思い出しました。これぞ実地踏査の醍醐味と妙に興奮。

この古墳は乎加神社の本殿の裏にあるので、神社はもともと古墳の被葬者を祀っていて、拝殿は古墳を向いて建っていると思って確認したのですが、少しずれていました。車に戻ると、すぐ近くに両者の位置関係がわかる説明板が立っていました。





さて、時刻は17時を少し回ったところ。最後に米原市の朝妻湊跡に行く予定にしていましたが、この日の夜は宿泊地の越前市で佐々木さんの同郷のご友人と会食の予定にしていたので、約束の時間に遅れないよう、朝妻湊をパスすることにしました。これにて一日目が終了です。

(つづく)


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近江・越前への実地踏査ツアー①

2024年08月03日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月26日~28日、いつもの古代史仲間の岡田さん、佐々木さんとともに2泊3日の古代史実地踏査ツアーに行ってきました。12回目となる今回は近江・越前を巡って主に継体天皇ゆかりの地を訪れました。順に紹介したいと思います。

2024年7月26日午前8時、大阪のOCATに集合してレンタカーで出発、最初の踏査地である滋賀県守山市の伊勢遺跡を目指します。伊勢遺跡は最近になって史跡公園として整備されたばかりです。



伊勢遺跡は、東西約700m、南北約450m、面積約30haにおよぶ大規模な遺跡で、弥生時代後期の集落遺跡としては、国内最大級の遺跡です。伊勢遺跡で発見された大型建物群は、琵琶湖南部地域で形成されたクニの政治や祭祀を執り行う重要な施設だったと推定されており、我が国の形成過程を考えるうえで重要な位置を占める遺跡です。(伊勢遺跡史跡公園パフレットより抜粋)

祭殿と考えられる大型建物跡を覆うように建てられた展示施設はスマートなフォルムでなかなかいい感じですが、内部の空間は少しもったいない使い方。もう少し展示物があってもいいのに。この遺跡の発掘に携わったとおっしゃる職員の方が遺跡の概要を解説してくれました。











伊勢遺跡の次は同じく守山市にある下之郷遺跡です。こちらも10年ほど前に史跡公園として整備されました。弥生時代中期の大規模な多重環濠集落で、東西330m、南北260mにわたって幅の広い3重の環濠が巡らされています。







建物から手前にかけて地面の色が濃くなった部分が環濠跡です。これが建物の中に延びて下の写真のように発掘時の状態が復元されています。



しがらみ状遺構と言われる木製の杭は環濠に水を溜めたり水位を調整するための水利施設と考えられています。建物の裏に出ると水を湛えた3重の環濠が復元されています。







次はこれまた守山市内の服部遺跡。と言っても、服部遺跡は野洲川放水路の完成とともに消滅して今は何も見るものがないので、すぐ近くの守山市埋蔵文化財センターへ。方形周溝墓のことを勉強した際に出てきた遺跡で、当初はこの旅の行程に入れてなかったものの、伊勢遺跡、下之郷遺跡と順に見学してみると、どうしても行きたくなったので急きょ追加しました。



わたし達が入館すると職員の方が出てきて冷房のスイッチを入れてくれました。もっと服部遺跡にフォーカスした展示を期待していたのですが、ちょっと期待外れ。伊勢遺跡や下之郷遺跡など、守山市の遺跡や出土遺物を網羅的に紹介する解説と展示でした。







時刻は12時半。次の御上神社に向かう途中のラーメン屋さんでランチをとりました。


(つづく)


邪馬台国近江説が気になる方にはこの本がおススメ。
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