2024年7月26日、午後の部は「近江富士」の別名をもつ三上山の山麓に鎮座する御上神社からスタート。御上神社の主祭神、天之御影命は天津彦根命の子で天照大神の孫にあたります。天之御影命が三上山の山頂に降臨したので、神主の御上祝(はふり)が三上山をご神体として祀ったのに始まると伝えられます。
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写真左の本殿が国宝に指定されています。拝殿から見てほぼ真東にある三上山をご神体として祀っているはずなのに、本殿を拝む方向はほぼ真北。つまり90度ずれているのですが、その理由は定かではありません。
この記事を書くにあたって復習していてわかったことが、境内の前に昭和天皇即位時の大嘗祭に供える献上米の栽培地として指定された悠紀斎田があったということ。それ以来、毎年5月に御田植祭が行われているそうです。
次は通称、銅鐸博物館と呼ばれる野洲市歴史民俗博物館へ。近くの大岩山から24個もの銅鐸が出たことは良く知られています。24個のなかのひとつは高さが134センチもあり、日本最大の銅鐸であり、実物は東京国立博物館に展示されています。
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この展示によると中国の馬鈴が原型となって朝鮮半島の朝鮮式小銅鐸に発展し、それが日本に伝わって小銅鐸となった、と解釈できます。わたしが数年前に勉強したときには、原型は中国の銅鈴で、それが朝鮮半島に伝わって朝鮮式小銅鐸となり、さらに日本に伝わって小銅鐸となり、その後、小銅鐸のまま利用されるケースと、大型化に向かうケースの2つの系統に分かれた、と整理しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/d7/de97243b10f54b0493c78f09038feb1a.jpg)
上の写真、いずれもレプリカですが、日本最大銅鐸と日本最小銅鐸のいずれもが滋賀県で出土している事実はなかなか興味深かった。大岩山出土銅鐸や滋賀県の他のところから出た銅鐸の展示はどれもレプリカながら、なかなか見応えがありました。
わたしはこの本で銅鐸を勉強しました。
↓↓↓↓↓
次の踏査地は冨波古墳。墳丘が削平されてしまった埋没古墳ですが、3世紀後半の全長42mの前方後方墳です。大岩山古墳群の中で最も早くに造られた古墳で、この地域を治めた最初の首長の墓と考えられます。すぐ隣に円形周溝墓と考えられる遺構が見つかっています。
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今回のツアーの行程を組んだのがちょうど前方後方墳の勉強をしている時だったので、行程に入れました。近江は前方後方墳発祥の地との説があり、わたしもそのように考えています。詳しくは「前方後方墳の考察①~⑭」をご覧ください。
次の踏査地も以前から行ってみたいと思っていた鏡神社です。『日本書紀』には、垂仁天皇3年に新羅から来日した天日槍が、播磨国から菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらく滞在し、その後、若狭国から但馬国に至って居住地を定めた、近江国鏡村の陶人は天日槍の従者である、と記されます。その鏡村にある鏡神社の祭神はもちろん天日槍です。
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思っていた以上に整備されていました。でも、このあたりは天日槍よりも源義経の元服の地として有名のようです。知らなかった。
次は結果的にこの日の最後となった乎加神社と神郷亀塚古墳です。乎加神社の前に車を停めて、まずは神社を参拝します。この神社はちょっとイメージと違った。実際に来るまではもっと小さな神社かと思っていたけど、境内は綺麗に整備され、拝殿、本殿とも立派なものでした。本殿は明治22年の伊勢神宮遷宮時に譲り受けたもので、伊勢神宮の譲り受けはこの時が最後だそうです。
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祭神は豊遠迦比売命となっていますが、これは社歴略掲にあるとおり、五穀の神なので豊受大神あるいは豊宇気毘売神のことを指します。
神郷亀塚古墳はこの本殿の裏側にあるので、そのまま歩いて向かいます。途中、地元のおばあさんが田んぼの草刈りか何かをしていたので挨拶をして通り過ぎました。このあたりと思って歩いていると説明板が目にとまりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/d6/4d1ff5eb29da65ee0b27fa7ccc911e50.jpg)
立っている場所はこの図の左下あたりです。墳丘がこんな感じで見えます。と言ってもよくわからんか。
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前方部正面へ周ってみます。発掘調査のあと、完全に埋め戻されて一面が家庭菜園になっています。ハートの上半分のように見える奥の木の手前、少し薄い緑のこんもりしたところが後方部です。わずかに左側だけ残された前方部が手前に少し延びているのがわかるでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/be/b0141ed27835e4fa7b4094afe60d759c.jpg)
反対側から近づいてみました。残された墳丘の形が少しわかるようになりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/db/e3acdae84f5a71311b0a2c88eee58b2c.jpg)
家庭菜園で作業をしている人がいたので、これ以上近づくことができませんでした。帰りに後方部に向かう小径があるのに気がついて進んでみると、後方部の後ろ側すぐのところまで接近できました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/5a/1af1a627d68ff80f1c7de9b400907544.jpg)
神郷亀塚古墳に興味のある方には是非読んでもらいたい一冊
↓↓↓↓↓
帰り道、さっきのおばあさんが「亀山さんを見てきたんか」と声をかけてくれました。この古墳、地元の方は亀山さんと呼んでいる、と上の本に書いてあったのを思い出しました。これぞ実地踏査の醍醐味と妙に興奮。
この古墳は乎加神社の本殿の裏にあるので、神社はもともと古墳の被葬者を祀っていて、拝殿は古墳を向いて建っていると思って確認したのですが、少しずれていました。車に戻ると、すぐ近くに両者の位置関係がわかる説明板が立っていました。
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さて、時刻は17時を少し回ったところ。最後に米原市の朝妻湊跡に行く予定にしていましたが、この日の夜は宿泊地の越前市で佐々木さんの同郷のご友人と会食の予定にしていたので、約束の時間に遅れないよう、朝妻湊をパスすることにしました。これにて一日目が終了です。
(つづく)
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
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写真左の本殿が国宝に指定されています。拝殿から見てほぼ真東にある三上山をご神体として祀っているはずなのに、本殿を拝む方向はほぼ真北。つまり90度ずれているのですが、その理由は定かではありません。
この記事を書くにあたって復習していてわかったことが、境内の前に昭和天皇即位時の大嘗祭に供える献上米の栽培地として指定された悠紀斎田があったということ。それ以来、毎年5月に御田植祭が行われているそうです。
次は通称、銅鐸博物館と呼ばれる野洲市歴史民俗博物館へ。近くの大岩山から24個もの銅鐸が出たことは良く知られています。24個のなかのひとつは高さが134センチもあり、日本最大の銅鐸であり、実物は東京国立博物館に展示されています。
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この展示によると中国の馬鈴が原型となって朝鮮半島の朝鮮式小銅鐸に発展し、それが日本に伝わって小銅鐸となった、と解釈できます。わたしが数年前に勉強したときには、原型は中国の銅鈴で、それが朝鮮半島に伝わって朝鮮式小銅鐸となり、さらに日本に伝わって小銅鐸となり、その後、小銅鐸のまま利用されるケースと、大型化に向かうケースの2つの系統に分かれた、と整理しました。
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上の写真、いずれもレプリカですが、日本最大銅鐸と日本最小銅鐸のいずれもが滋賀県で出土している事実はなかなか興味深かった。大岩山出土銅鐸や滋賀県の他のところから出た銅鐸の展示はどれもレプリカながら、なかなか見応えがありました。
わたしはこの本で銅鐸を勉強しました。
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次の踏査地は冨波古墳。墳丘が削平されてしまった埋没古墳ですが、3世紀後半の全長42mの前方後方墳です。大岩山古墳群の中で最も早くに造られた古墳で、この地域を治めた最初の首長の墓と考えられます。すぐ隣に円形周溝墓と考えられる遺構が見つかっています。
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今回のツアーの行程を組んだのがちょうど前方後方墳の勉強をしている時だったので、行程に入れました。近江は前方後方墳発祥の地との説があり、わたしもそのように考えています。詳しくは「前方後方墳の考察①~⑭」をご覧ください。
次の踏査地も以前から行ってみたいと思っていた鏡神社です。『日本書紀』には、垂仁天皇3年に新羅から来日した天日槍が、播磨国から菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらく滞在し、その後、若狭国から但馬国に至って居住地を定めた、近江国鏡村の陶人は天日槍の従者である、と記されます。その鏡村にある鏡神社の祭神はもちろん天日槍です。
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思っていた以上に整備されていました。でも、このあたりは天日槍よりも源義経の元服の地として有名のようです。知らなかった。
次は結果的にこの日の最後となった乎加神社と神郷亀塚古墳です。乎加神社の前に車を停めて、まずは神社を参拝します。この神社はちょっとイメージと違った。実際に来るまではもっと小さな神社かと思っていたけど、境内は綺麗に整備され、拝殿、本殿とも立派なものでした。本殿は明治22年の伊勢神宮遷宮時に譲り受けたもので、伊勢神宮の譲り受けはこの時が最後だそうです。
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祭神は豊遠迦比売命となっていますが、これは社歴略掲にあるとおり、五穀の神なので豊受大神あるいは豊宇気毘売神のことを指します。
神郷亀塚古墳はこの本殿の裏側にあるので、そのまま歩いて向かいます。途中、地元のおばあさんが田んぼの草刈りか何かをしていたので挨拶をして通り過ぎました。このあたりと思って歩いていると説明板が目にとまりました。
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立っている場所はこの図の左下あたりです。墳丘がこんな感じで見えます。と言ってもよくわからんか。
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前方部正面へ周ってみます。発掘調査のあと、完全に埋め戻されて一面が家庭菜園になっています。ハートの上半分のように見える奥の木の手前、少し薄い緑のこんもりしたところが後方部です。わずかに左側だけ残された前方部が手前に少し延びているのがわかるでしょうか。
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反対側から近づいてみました。残された墳丘の形が少しわかるようになりました。
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家庭菜園で作業をしている人がいたので、これ以上近づくことができませんでした。帰りに後方部に向かう小径があるのに気がついて進んでみると、後方部の後ろ側すぐのところまで接近できました。
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神郷亀塚古墳に興味のある方には是非読んでもらいたい一冊
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帰り道、さっきのおばあさんが「亀山さんを見てきたんか」と声をかけてくれました。この古墳、地元の方は亀山さんと呼んでいる、と上の本に書いてあったのを思い出しました。これぞ実地踏査の醍醐味と妙に興奮。
この古墳は乎加神社の本殿の裏にあるので、神社はもともと古墳の被葬者を祀っていて、拝殿は古墳を向いて建っていると思って確認したのですが、少しずれていました。車に戻ると、すぐ近くに両者の位置関係がわかる説明板が立っていました。
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さて、時刻は17時を少し回ったところ。最後に米原市の朝妻湊跡に行く予定にしていましたが、この日の夜は宿泊地の越前市で佐々木さんの同郷のご友人と会食の予定にしていたので、約束の時間に遅れないよう、朝妻湊をパスすることにしました。これにて一日目が終了です。
(つづく)
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