2019年8月、愛知県一宮市にある西上免遺跡を訪ねました。名古屋駅から名鉄に乗って石刀(いわと)駅で下車、太陽が容赦なく照りつける中を真西に向かって歩きます。東海北陸自動車道に突き当たったところで左に折れて少し歩くと高速の高架下に目的地がありました。石刀駅からは10分ほどで到着です。
高架下に設けられた休憩所が遺跡の場所になります。
高速道路の高架下ということで、この遺跡が東海北陸自動車道の建設に伴う調査で発見された遺跡であることがわかります。1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけて発掘調査が行われた結果、弥生時代中期、古墳時代初頭、奈良時代、鎌倉時代、戦国時代の5つの時代にわたる複合遺跡であることがわかりました。なかでも墳丘長40.5mの前方後方墳である西上免古墳が発見されたことによって、この遺跡が有名になったようです。
西上免古墳は発掘時はすでに墳丘が完全に破壊されていたものの、発掘によって約10mの周溝に囲まれた前方後方墳が存在したことがわかりました。東海地方を特徴づけるパレススタイル壺やS字甕など約100点の土器が出土し、これらの遺物から古墳の造営時期が3世紀中葉を下らない、つまり3世紀前半の造営であることが判明しました。愛知県内では最古、全国的にも最古級の前方後方墳ということになります。
3世紀前半は弥生時代の後期後半あるいは終末期とされ、まだ古墳時代に入っていない時期になります。したがって厳密に言うとこの古墳は墳丘墓と呼ぶのが適切なのだろうと思いますが、研究者の間でも様々な考えがあるようで、個人的には古墳と呼ぶことでまったく問題ないと考えます。
現在はこんな状況になっています。
もともと完全に削平されてその痕跡を失っていた古墳が発掘によって姿を現しました。しかし見ての通り、高速道路建設のために再び埋められて跡形もなく消え去ることとなりました。最古級の前方後方墳という貴重な遺構が二度と見ることができなくなったのは誠に残念です。
高架下の日陰と風通しが心地よく、ほとんど見るべきものがないこの場所に40分ほど滞在しました。その後、駅の方へ戻り、名鉄の踏切を渡って県道190号線を越え、事前に調べておいた4ヵ所の古墳を巡ったので順に紹介します。
今伊勢の集落の中に残された上町屋古墳。
1939年(昭和14年)に発掘調査が行われて7世紀の築造と推定されています。おそらく円墳です。その時に見つかった石室の石材が墳丘上に露出していたそうなのですが、人目を憚って墳丘に立ち入れなかったので確認できませんでした。
さらに東に行ったところにある西口社古墳。
道路に囲まれて元の形が想像できないほどに変形しています。1908年(明治41年)の調査で須恵器が出土したそうです。
次はさらに北東へ10分ほど歩いたところにある石刀神社の境内にある石刀古墳。境内にあるというよりも古墳の上に社殿が建てられているというのが適切です。
まずは石刀神社。
石刀神社の由緒。
ほとんど読めませんが、主祭神は手力雄命となっています。創建は崇神天皇の頃だそうです。この神社は毎年4月に行われる例祭である「石刀祭」とその祭りで曳かれる山車が有名みたいです。
さて、こんな由緒ある石刀神社の建つ石刀古墳はどうなっているのでしょうか。社殿をぐるりと一周してみました。
社殿の左手。
地面が少し盛り上がっているように見えます。
左手を奥へ進むと50センチほど高くなっているのがよくわかります。
社殿の裏手。
ぐるりと廻ります。
上の状況から削平された円墳の上に社殿が建てられたことが確認できますが、発掘調査は行われていないようなので確かなことはわかりません。
神社の裏手は森になっており、やかましいくらいに鳥の鳴き声が響いていました。気になって足を踏み入れたのですが、なんだか生臭い匂いがして足元には白い羽根や糞がいっぱい。気持ち悪くなってすぐに出てきました。
さて、次は最後の訪問地である今伊勢車塚古墳です。一宮市教育委員会の説明板によると、築造は5世紀前半、推定全長70mの前方後円墳です。ただし、径35mの円墳という説もあるようです。
この古墳は大きさに加えて、鏡や勾玉、鉄製品などの豊富な副葬品が出ていることから、この地域の首長墓と考えられます。この日の後半に巡った古墳群は今伊勢古墳群と呼ばれており、車塚古墳はこの今伊勢古墳群の盟主墳と言えるでしょう。
この日は約3時間かけて強い日差しが照りつける中、ほとんど陰のないところを歩いていたので熱中症寸前だったかもわかりません。帰りは名鉄の今伊勢駅を目指すのですが、とにかく身体を冷やしたいと思って目の前に現れた和食麺処サガミに飛び込みました。疲労困憊でしたが、心地よいランチタイムとなりました。
高架下に設けられた休憩所が遺跡の場所になります。
高速道路の高架下ということで、この遺跡が東海北陸自動車道の建設に伴う調査で発見された遺跡であることがわかります。1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけて発掘調査が行われた結果、弥生時代中期、古墳時代初頭、奈良時代、鎌倉時代、戦国時代の5つの時代にわたる複合遺跡であることがわかりました。なかでも墳丘長40.5mの前方後方墳である西上免古墳が発見されたことによって、この遺跡が有名になったようです。
西上免古墳は発掘時はすでに墳丘が完全に破壊されていたものの、発掘によって約10mの周溝に囲まれた前方後方墳が存在したことがわかりました。東海地方を特徴づけるパレススタイル壺やS字甕など約100点の土器が出土し、これらの遺物から古墳の造営時期が3世紀中葉を下らない、つまり3世紀前半の造営であることが判明しました。愛知県内では最古、全国的にも最古級の前方後方墳ということになります。
3世紀前半は弥生時代の後期後半あるいは終末期とされ、まだ古墳時代に入っていない時期になります。したがって厳密に言うとこの古墳は墳丘墓と呼ぶのが適切なのだろうと思いますが、研究者の間でも様々な考えがあるようで、個人的には古墳と呼ぶことでまったく問題ないと考えます。
現在はこんな状況になっています。
もともと完全に削平されてその痕跡を失っていた古墳が発掘によって姿を現しました。しかし見ての通り、高速道路建設のために再び埋められて跡形もなく消え去ることとなりました。最古級の前方後方墳という貴重な遺構が二度と見ることができなくなったのは誠に残念です。
高架下の日陰と風通しが心地よく、ほとんど見るべきものがないこの場所に40分ほど滞在しました。その後、駅の方へ戻り、名鉄の踏切を渡って県道190号線を越え、事前に調べておいた4ヵ所の古墳を巡ったので順に紹介します。
今伊勢の集落の中に残された上町屋古墳。
1939年(昭和14年)に発掘調査が行われて7世紀の築造と推定されています。おそらく円墳です。その時に見つかった石室の石材が墳丘上に露出していたそうなのですが、人目を憚って墳丘に立ち入れなかったので確認できませんでした。
さらに東に行ったところにある西口社古墳。
道路に囲まれて元の形が想像できないほどに変形しています。1908年(明治41年)の調査で須恵器が出土したそうです。
次はさらに北東へ10分ほど歩いたところにある石刀神社の境内にある石刀古墳。境内にあるというよりも古墳の上に社殿が建てられているというのが適切です。
まずは石刀神社。
石刀神社の由緒。
ほとんど読めませんが、主祭神は手力雄命となっています。創建は崇神天皇の頃だそうです。この神社は毎年4月に行われる例祭である「石刀祭」とその祭りで曳かれる山車が有名みたいです。
さて、こんな由緒ある石刀神社の建つ石刀古墳はどうなっているのでしょうか。社殿をぐるりと一周してみました。
社殿の左手。
地面が少し盛り上がっているように見えます。
左手を奥へ進むと50センチほど高くなっているのがよくわかります。
社殿の裏手。
ぐるりと廻ります。
上の状況から削平された円墳の上に社殿が建てられたことが確認できますが、発掘調査は行われていないようなので確かなことはわかりません。
神社の裏手は森になっており、やかましいくらいに鳥の鳴き声が響いていました。気になって足を踏み入れたのですが、なんだか生臭い匂いがして足元には白い羽根や糞がいっぱい。気持ち悪くなってすぐに出てきました。
さて、次は最後の訪問地である今伊勢車塚古墳です。一宮市教育委員会の説明板によると、築造は5世紀前半、推定全長70mの前方後円墳です。ただし、径35mの円墳という説もあるようです。
この古墳は大きさに加えて、鏡や勾玉、鉄製品などの豊富な副葬品が出ていることから、この地域の首長墓と考えられます。この日の後半に巡った古墳群は今伊勢古墳群と呼ばれており、車塚古墳はこの今伊勢古墳群の盟主墳と言えるでしょう。
この日は約3時間かけて強い日差しが照りつける中、ほとんど陰のないところを歩いていたので熱中症寸前だったかもわかりません。帰りは名鉄の今伊勢駅を目指すのですが、とにかく身体を冷やしたいと思って目の前に現れた和食麺処サガミに飛び込みました。疲労困憊でしたが、心地よいランチタイムとなりました。