古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

栫ノ原遺跡

2018年05月31日 | 遺跡・古墳
2018年5月26日、南九州踏査ツアーの2日目、レポート第六弾です。
2日目は土曜日。帰りの飛行機が18時半なので時間は十分にある。しかし、この日は朝から雨です。結構強い雨です。天気予報でわかっていたものの残念です。この日のメインイベントは縄文の大遺跡、上野原遺跡。雨のなか行くのは残念です。上野原は鹿児島空港に近いので、午後に回します。この雨のなか、午前中はどこへ行こうか考えた結果、次のルートに決定。

 ①前日に行き忘れていた栫ノ原遺跡(かこいのはらいせき)・・・ホテルからすぐ
 ②歴史交流館金峰・・・南さつま市直営の小さな歴史博物館で前日見てきた遺跡を確認したい
 ③鹿児島県立歴史資料センター黎明館・・・古代の考古資料がどれだけあるのか不明
 ④上野原遺跡および併設の博物館・・・時間は3時間を確保したい

②の歴史交流館が面白くなければすぐに切り上げて③の県立黎明館へ行こう、②が面白ければ③はパスしてもよし、とにかく④では最低3時間は確保したい。そう決めて8時過ぎに出発。まず、近くのマクドで朝食をとって8時半頃に①の栫ノ原遺跡に到着。

栫ノ原遺跡は100メートル四方の独立台地の上に設けられた旧石器時代から近世に渡る複合遺跡で、とくに、縄文時代早期の段階で定住生活への移行を思わせる形跡が認められる重要な遺跡です。

遺跡に建つ説明板。


遺構が出たところにそれぞれの説明板が立っています。










ここまでよく頑張ったC-HRもお披露目しておこう。


現地に来ると独立台地という意味がよくわかる。遺跡の報告書によると周囲との高低差が20メートルとなっており、100メートル四方の正方形の区画に高さ20メートルの台地がすっぽりおさまるという感じ。国の史跡に指定されたためにこの状態で保存されている。緑が豊富で景色もよく、雨は降っていたものの、気持ちのいい場所でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋貝塚・阿多貝塚

2018年05月30日 | 遺跡・古墳
2018年5月25日、南九州実地踏査の第五弾。この日の最後の目的地は高橋貝塚。(高橋貝塚については当ブログ「南九州の遺跡」で少し触れています)

薩摩半島の西には日本三大砂丘のひとつとされる吹上浜があります。その吹上浜の砂丘の南端に玉手神社があり、その境内にあるのが高橋貝塚です。縄文時代晩期から弥生時代中期にかけての遺跡で、籾痕(もみこん)のある土器や石包丁が見つかったことから南九州でもっとも早く米作りが行われた場所と言われています。また、琉球産のゴホウラ貝を加工した腕輪の未製品も出土。ゴホウラ貝の腕輪は北九州の立岩遺跡からも出ているため、この高橋貝塚は琉球から貝を仕入れて貝輪に加工し北九州へ販売していたと考えられ、南九州の海洋交易の拠点あるいは加工貿易の拠点であったと言えます。もちろん、古代には貨幣がないので物々交換でした。そういえば、一方の立岩遺跡は石包丁の産地でした。

南さつま市の市街地を抜けて「阿多」の交差点を曲がって高橋貝塚に向かう途中の風景。

少し小高くなった砂丘が連なっているのがよくわかります。目的地はこの砂丘の南端(写真では左端あたり)です。

実はここでまた悩ましい場面に遭遇。少し走ると川があって橋を渡ります。ナビではこの橋からすぐを左折して少し行ったところが目的地になっています。ところが、橋を渡ってすぐの交差点に「←高橋貝塚 約300m先右折」という小さな案内板が見えたのでナビを無視して左折しました。左折すると川の堤防を走ることになりますが道は広いので問題ありません。300メートルといえばすぐそこです。ところが、です。300メートル走ると「→高橋貝塚」の案内板が見えたのですが、そこには道路はありません。なんと幅1メートルほどの坂道があって、その先が高橋貝塚だというのです。おいおい、誰のための案内板やねん。

今回もストリートビューでお見せします。これが左折の案内。

どう見たって曲がるでしょ。

そして右折の案内。

畑の向こうのこんもりしたところが目的地。

ナビは神社の裏手に出るルートを示していたのであきらめて、とにかく堤防の下に見えている細い道に入ろうと来た道を戻った。車一台がやっとの細い道なので対向車が来ないことを祈りながらゆっくり走って神社の正面に到着。しかし、到着したのはよかったのだけど、またしてもUターンができない場所だった。

車の目の前が神社の入口。

この階段の分だけ周囲よりも高くなった場所に遺跡があるということです。

階段の左手に由緒がありそうな石碑。近づいて目を凝らして読んでみると「日露戦役記念碑」とあった。


境内に土俵があります。なぜここに土俵があるのかはあとで知ることに。


社殿の奥に説明板があります。


近くへ寄ります。

遺物は持ち帰らないように、とあるけど社殿裏の遺跡は金網で囲われていて入れないぞ。でも、少し前までは囲いはなくて誰でも入れたそうです。

帰りは結局バックで戻ることに。今日一日でまた車の運転が上手くなった気がします。

そして堤防へ戻って遺跡のある場所を撮影。この遺跡はてっきり砂丘上にあるのかと思っていた。境内に登る階段が砂丘南端にあることを示しているとも思っていた。でも、あとで遺跡の報告書を読むと、この遺跡は砂丘上ではなくて眼の前の川(堀川という)の河岸段丘の上ということになっていました。

これで本日の踏査は終了の予定でしたが、この高橋貝塚に来る途中に道路脇に建つ「阿多貝塚」の説明板を見つけたので、帰りにそこに寄ることしました。

この阿多貝塚は堀川を挟んで高橋貝塚と反対側の河岸段丘上に位置します。


段丘上というのがよくわかります。右側に堀川があります。


阿多貝塚は縄文時代前期から弥生時代にかけての遺跡で、このあたりは明治の頃から貝殻がよく見つかったので貝殻崎と呼ばれていました。近くには貝殻崎城跡の立派な石碑が建っています。


貝殻崎城は鮫島城とも呼ばれます。源頼朝が征夷大将軍になった年、平家追討の戦いで功を挙げた駿河国の鮫島氏は阿多郡の地頭としてこの地に派遣され、貝殻崎城を築いて本拠としました。その鮫島氏の末裔が小泉家につながったことから、小泉元首相の筆による碑が建てられたということらしい。

さあ、これで本日の踏査は完了(実はあと1ケ所あったのですが、すっかり忘れていました)。この日の踏査は結果的に1年半前に書いた記事「天孫降臨(薩摩の野間岬)」を確認する踏査となりました。

市内へ戻って予約しておいたビジネスホテルにチェックイン。近くにレストランなどはなく、疲労困憊で出かけるのが億劫だったので近くのコンビニで食料を調達して部屋で晩ご飯。心地よい充実感に浸りました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠沙宮跡

2018年05月29日 | 遺跡・古墳
2018年5月25日の南九州実地踏査の第四弾。もうひとつの笠沙宮跡。

笠沙岬に上陸した瓊瓊杵尊はこの地にしばらく留まって木花之開耶姫を娶ります。木花之開耶姫は別名を神吾田津姫といい、吾田にいる姫を指します。今回、ここ南さつま市までやってきたことで「笠沙」という地名も「阿多(吾田ではないですが)」という地名も存在することがこの眼で確認できました。

以下は日本書紀の該当箇所です。

于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、覆於皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座、天磐座、此云阿麻能以簸矩羅。且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。既而皇孫遊行之狀也者、則自槵日二上天浮橋立於浮渚在平處、立於浮渚在平處、此云羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志。而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、頓丘、此云毗陀烏。覓國、此云矩貳磨儀。行去、此云騰褒屢。到於吾田長屋笠狹之碕矣。其地有一人、自號事勝國勝長狹。皇孫問曰「國在耶以不。」對曰「此焉有國、請任意遊之。」故皇孫就而留住。時彼國有美人、名曰鹿葦津姬。亦名神吾田津姬。亦名木花之開耶姬

皇孫瓊瓊杵尊が留まり住んだところが笠沙宮です。


「日本発祥の地」とはまた大きく出たなあ。


ここが入口。


入口の階段を登ったところ。奥に碑が見えます。ひなびた神社の雰囲気。


碑の手前にある教育委員会の説明。


登りきったところには立派な碑が建っています。


階段の脇に見えた聖蹟顕彰記念の碑。

昭和15年に当時の鹿児島県知事が建てた碑。昭和15年といえば神武天皇即位から2600年にあたる記念すべき年とされ、日本は日中戦争から太平洋戦争へとまっしぐら。ときの政府は国威発揚のため、苦難の末に日本を統一した神武天皇を称える「神武東征聖蹟顕彰碑」を各地の神武東征ゆかりの地に建立した。そしてここの聖蹟顕彰記念の碑も同じ昭和15年の建立です。神武天皇の曾祖父にあたる瓊瓊杵尊を称えて県民の士気を発揚しようとしたのでしょう。

裏の林には苔や草木に覆われた石垣が見えます。


近くには「磐境」の説明板が朽ち落ちていました。

どうみても磐境とは思えず、あたりを歩き回るとほかのところにも同じ石垣が見られる。隣地の住宅を見に行くと同じような石垣の上に建っている。この林にはもともと大きな屋敷が建っていたのでしょう。屋敷を壊したあと、何十年も放置された結果だと思います。

さらに、林の横には道路があり、その先に階段が見える。


まだ何かあるぞ、とワクワクしながら階段を登ってみると、、、


とにかく、これでふたつの笠沙宮跡を訪ねたことになるのですが、仮に瓊瓊杵尊がこの薩摩の地に宮を構えたのが史実だとしたら、宮ノ山遺跡ではなく、こちらが本家だと思います。ちなみに、ここは南さつま市加世田川畑というところで、野間岬からは少し離れているものの、近くには御座屋敷というところもあって所縁を感じる所でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮ノ山遺跡(瓊瓊杵尊駐蹕之地)

2018年05月28日 | 遺跡・古墳
2018年5月25日の南九州実地踏査の第三弾。
野間岬、野間神社と立て続けに精神的に疲れる踏査となり、鹿児島からここまでの走行距離は100キロほどなのに結構くたくた。野間岳を下りてきて海岸沿いの国道を走りながらホッとした気分で次の目的地に到着。しかし、その気分もほんの束の間でした。

「神代聖蹟 瓊瓊杵尊駐蹕之地」は宮ノ山遺跡にあるという。瓊瓊杵尊が降臨してこの地で木花咲耶姫を娶ってここに宮を設けて一時的に滞在したことから瓊瓊杵尊駐蹕之地、または笠沙宮跡とも呼ばれている。実は笠沙宮跡は別のところにもあって、そこにも行ってきたので別稿で紹介します。宮ノ山遺跡は有史以前の日本最古の遺跡。土器も出ていないので縄文時代よりも前の先土器時代。石器が出たとも書かれていない。

道路わきの空き地に車を停めると道路を挟んだ向かい側に「神話のふる里」の石碑。




背後にはさっき登った野間岳が見えてます。


ここが宮ノ山遺跡の入口で右手の階段をあがっていく。ここまでは神話のふる里のイメージでのどかな雰囲気。






しかし、この先はもう登山そのもの。それもそのはず、ここは野間岳の登山道の入口を兼ねていた。登山道の脇に次々と遺構が現れる。








そして全身が汗にまみれる頃にようやく。


ここが瓊瓊杵尊駐蹕之地。

たしかに古代人がこの山の斜面に住居を構え、墓を設けて集落を形成していたようすは遺構から理解できる。しかし、神話の世界とほど遠いイメージ。平地のほとんどない海岸沿いの急な山の斜面だから、ここの住人はおそらく漁撈を生業とする海洋民だろうな。その点においては大陸から東シナ海を渡って来た天皇家の祖先とおんなじなんだけど。

さらに上へいくと3つめのドルメン。ドルメンとは支石墓のことです。

これを見ると、古墳の石室の原型ということになるかな。

宮ノ山遺跡の範囲はここまでで、これ以上は純粋に登山道。

ここまでで汗だくに。ズボンもドロドロに。山を降りると海からの風が心地いい。

この島は野間岬の展望所から見えていた島です。天気が良ければここからの夕陽の眺めは最高だろうな。


あとで調べるとすぐ近くの黒瀬漁港には「瓊瓊杵尊上陸地の碑」というのがあったらしい。行っておけばよかった。それでも、たいへんな踏査となりましたが、かなりの充実感でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野間神社

2018年05月27日 | 神社・仏閣
2018年5月25日の南九州実地踏査の続編。向こうに見える島の対岸を目指して進みます。


野間半島から戻って平地に出たところで車を停めて野間神社の場所をGoogleマップで調べてみると、すこし距離がありそうだったのであきらめて当初から考えていた場所「瓊瓊杵尊駐蹕之地」へ向かうことにした。しばらく走ると左手の山に登っていく道の入口に「野間神社2km」の案内板が見えた。なんだ2キロか、近いやん。寄り道しても問題ないと思ってハンドルを左に切って山道に入った。ほとんど車が走っていないのだろう、道路は小枝や葉っぱに埋もれている。それでも2キロだから大丈夫だ。

ところが、走れど走れど神社は見えない。すでに2キロ以上走っている。ずっと登っていた道がいつの間にか下りになっている。これは絶対に間違っているぞ。でも、途中で道が分かれているところはなかったし。2キロと思ってナビをセットしなかったのが間違いだった。あらためてナビをセットすると、やはり間違っていた。ほぼ180度の角度で枝分かれした道があり、それを曲がらなければいけなかった。曲がると言うよりもほぼUターンだけど。そこまで戻らなければいけないのだけど、これまたUターンする場所がない。しかたなく狭い道で何度も切り返しをしてようやく逆戻り。ここでもC-HRを用意したレンタカー屋さんを恨んだ。野間半島に続いて不安増大。でも野間岬と同じで、ここまで来たら引き返せない。行くところまで行こう。


※この記事を書きながら枝分かれした道のところをGoogleストリートビューで確認すると、大変なことがわかりました。

これがストリートビューの画像で2013年11月撮影となっている。

左から走ってきて、ここを鋭角に曲がって上の道へ入らないといけなかったのです。

拡大すると、、、

なんと、野間神社の矢印があるではないですか。実際に行ったときにはこの標示はなくなっていて、左の白いのが倒れていました。そもそも、この道には気づいていたものの、まさか車が通れる道だとは思わずに真っ直ぐに進んだのです。それでも、この正しいと思われる道は少し細くない? C-HRで大丈夫? ますます不安が増大して束の間の躊躇。それでも行くしかない。

とにかく、ようやく正しいルートに戻って山を登っていく。しかし、だ。ナビを見ると目的地まで4.7kmと出ている。おかしい。野間神社までは2キロのはずだ。ここまでですでに何キロも走っている。ルートをみると野間神社までは野間岳をぐるりと周りながら登っていくようだ。そうか、2キロというのは歩いて、つまり登山道で2キロということなんだろう。どっちにしても野間神社って野間岳の上にあるんだ。そこで初めてわかった。

※ここでもGoogleストリートビューで確認すると、またまた大変なことがわかりました。

これが上と同じく2013年11月に撮影されたストリートビューの画像で実際に見たのと同じ案内板です。ここを左に曲がって山道に入ったのです。野間神社まで2kmとなっています。


これはクリック一回分だけストリートビューを進めてみたときの画像。なんと、12kmとなっています。この撮影は2012年1月となっています。


2012年1月以降のどこかで「1」が剥落したのです。たぶん、12kmだったら行かなかったと思う。でも、苦労はしたけど行って良かったので結果オーライです。

それでようやく到着した野間神社。立派な由緒ある神社の予感。


創建がわからないんだ。軽四のおじさんは伊勢神宮より古いって言ってたけど何を根拠に。

瓊瓊杵尊・木花開耶姫の夫婦と、火蘭降尊・彦火々出見尊・火照尊の三人の子どもたち、つまり天孫一家を祀っているのです。もともと野間岳の頂上にあったものをこの八合目に遷したとのこと。

石標も苔むしてよく読めない。


拝殿を正面から。


裏に本殿が見えます。


境内から野間岳山頂を目指す登山ルートがあります。

往復で1時間なので時間があれば登ってみたかった。

車で登れるのはここまで。わずか2キロと思って来てみたらとんでもない高いところまで来てしまった。


帰りは途中から東へ降りる違うルートがあることがわかったので、そちらで下山。向かう先は上の写真にある「宮ノ山」で、ここは「神代聖蹟 瓊瓊杵尊駐蹕之地」とされる遺跡があるところだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠沙岬(野間岬)

2018年05月26日 | 遺跡・古墳
2018年5月25日、出張の機会を得て鹿児島へ。午前中に用件が終わったので午後から休みを取ってレンタカーで踏査ツアーを敢行。今回の踏査地は、瓊瓊杵尊が降臨したあとに向かった吾田長屋笠狹之碕(あたのながやのかささのみさき)。現在の薩摩半島の西端、野間半島の先にある野間岬だ。野間半島は鹿児島市内から車で2時間ほど。薩摩半島を横断して国道270号線を南下したところ。ついにここまで来てしまった。もう病気かもしれない。


北側から見た野間半島。風力発電の風車が立ち並ぶ。


野間半島はその昔は島だったらしい。それが砂州でつながって半島になったという。Googleマップを見ると半島は坊野間県立自然公園になっていて道路もついているし野間岬展望所というのがある。さすがに半島の先の灯台までは行けそうになかったけど、展望所までは余裕で行けると思っていた。それがこんなことになろうとは。

道路は確かにあった。しかし車一台が通るのがやっとの幅で、しかも新緑の季節に入ったからか、両側から草木が道路に覆いかぶさる。ほとんど勘で運転する状況で、不安は増すばかり。そんな道なのに、なぜか後ろから2シーターオープンのベンツがぴったりついてきた。Uターンする場所もなくバックで戻ることもできず、前進するしかない。

これは帰りに撮った写真。ここは直線だからいいものの、断崖のカーブもあって涙が出そう。だからコンパクトカーが良かったのに。レンタカー屋さんが同じ料金でC-HRを用意しましたって、やっぱり余計なお世話だった。


途中、やっと見つけたUターンできそうな少しのスペース。しかしトラックが停まっていて工事中のお兄さんが二人。ここでのUターンをあきらめて車を停め「この先、Uターンできる場所はありますか」と聞いてみた。「ぼくもここまでしか来たことないからわからないけど、さっきランクルのおばさんが行って戻って来たから大丈夫でしょう」と教えてくれた。とにかく行くしかない。少し走るとかろうじてUターン出来そうな場所があったので頭を突っ込んだ。追ってきたベンツも横で停まった。同い歳くらいの夫婦。「えらいとこに来てしまったけど、まだ先に行くんですか」と聞くと「行きます」との答え。そうだよな、ここまで来て引き返す手はないよな。幸いにも順番が逆転してベンツが先を走ってくれることになったし一緒に行こう。気がつくとベンツのうしろにさらに軽四がついている。三台もいれば何とかなるだろう。そしてついに展望所へ到着。

半島の先端が野間岬。ベンツ夫婦のおかげだ。来てよかった。笠沙岬だ。感動! ベンツのおじさん曰く「草をかき分けて来た甲斐があった。これくらいしないと絶景は観れないよ」と余裕の笑顔。

でも見ての通り、これだけ苦労してきたのに、まだ半島の中ほど。でもこれ以上は無理。

のどかなモニュメント。こんなの建てるのなら、もう少し道を整備してください。奇跡的に対向車がこなかったから良かったけど、もしも来ていたらと思うとゾッとする。

軽四のおじさんは地元の人らしい。この地が天皇家のふるさとと言われる所以を語ってくれた。この笠沙岬とあとふたつ。ひとつがこのあと行くことにしていた瓊瓊杵尊が宮を構えたと言われる場所。もうひとつが伊勢神宮よりも古いと言われる野間神社。野間神社のことは知らなかった。

瓊瓊杵尊の宮跡は向こうに見える島の対岸あたり。


さて、野間半島の手前に野間岳という尖がった山があります。古代にはこの山が航海の目印になったことは間違いない。大陸の江南あたりを出て東シナ海を渡った人々は間違いなくこの山を目指してやってきたと思う。その事実が神話に反映されたのだ。天照大神の孫、すなわち天孫である瓊瓊杵尊は高天原から高千穂の峯に降臨したあと、この岬にやってきた。天孫降臨の話は天皇家の祖先が大陸から南九州のこの地にやって来たことを投影しているのだ。野間岳をこの目で見てそう確信した。

展望所からの帰りに見えた野間岳。標高の高いところからなのであまり尖った感じはないけども平地から見るとかなり目立った尖りよう。

このとき、再び大きな不安に襲われるドライブになるとは露知らず、帰路についた安心感から余裕の撮影となった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋市博物館

2018年05月20日 | 博物館
名古屋出張の機会を利用して名古屋市瑞穂区にある名古屋市博物館を訪問。「尾張の歴史」をテーマに名古屋市内の古代から近代までの考古資料および歴史資料を展示する市立の大きくて立派な博物館です。

地下鉄桜通線の桜山駅から5分ほどで到着。


正面から見ると大きさがわかる。


見学途中で「ボランティアガイドによる展示説明を希望する人は受付に集合してください」という館内アナウンスがあったので、参加することにした。集合したのは私ひとりだけ。ガイドはおばさんが二名。明らかに一人が新人で、後ろからもう一人のベテランガイドがサポートするという体制で始まったが、このベテランガイド、やたら詳しくて私の質問に的確に答えてくれた。このベテランを頼りにしようと思っていると、すぐにおじさんの見学者が加わってきて、このベテランを独り占めしてしまった。結果、私が新人ガイドをガイドする形になってしまった。

旧石器時代の展示を見ながらベテランが教えてくれた。この一帯から出る黒い色の打製石器は他の地域で見られるサヌカイトや黒曜石ではなく「下呂石」というらしい。下呂温泉の下呂。下呂石とは初めて聞いた。勉強になった。

黒いのが下呂石。


縄文人骨の本物もあった。複製ではありません。


全国でも珍しい舟形木棺。弥生中期の方形周溝墓から出たもの。わずかに人骨が残っていました。


S字状口縁台付甕は東海地方に多い土器で、外来土器が多く出た纒向遺跡にも持ち込まれている。口の縁がS字状になっていて上に土器を乗せると蒸気が逃げないように工夫されている。実物を初めて見た。近くに寄ってみるとたしかに縁がSの形をしているのがわかる。真ん中の黒い大きい土器です。


中段奥の丸窓付土器もこの地方特有の土器。この穴は何のためにあるのだろうか。新人ガイドのおばさん曰く、「花瓶として使われて、この穴からも花を活けたのではないでしょうか」。解明されていない以上、「そうかもしれない」としか答えられなかった。


パレススタイル土器。弥生時代後期の尾張地方を代表する赤い土器。ギリシャのクレタ島から出土した「宮廷式土器」にも匹敵する美しさからパレススタイルと呼ばれる。赤い色はベンガラで着色されている。


名古屋市守山区にある志段味(しだみ)古墳群にある白鳥塚古墳は4世紀前半(古墳時代前期前半)に築造された尾張で最初の前方後円墳。纒向にある行燈山古墳(崇神天皇陵に治定される)と相似形をしていて同じ設計図で造られたという。


古墳時代の展示はこんな感じ。


旧石器時代から古墳時代までの展示は全体の3割もなかったように思うが、時間と興味の関係で中世以降の展示はパスしました。新人ガイドさんに「ここまででいいです。ありがとう。」とお礼を伝えて、最後に「もう一人の方は学芸員さんですか」と聞いてみたところ、「あの方もボランティアガイドです。もう何年もやっていて大変詳しいです」とのことだった。

博物館の運営にボランティアガイドは欠かせない存在になっているが、わずかでもいいので報酬を支払うことはできないのだろうか。学芸員の資格を取ってその後もさらに勉強を重ね、70歳くらいになったらガイドをしてみたいという気持ちがあるものの、無給はいやだな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

港区立港郷土資料館

2018年05月12日 | 博物館
都内23区の区立博物館を観て回ろうと思って手近なところから順に見学しています。これまで品川区立品川歴史館、大田区立郷土博物館千代田区立図書文化館を訪問しました。今回は東京都港区芝の三田図書館4階にある港区立港郷土資料館です。JR田町駅と都営三田線三田駅からすぐのところで、つい先日まで毎週のように3人で遊んでいたあたりです。





1階から3階までが図書館で4階が資料館になっています。ここの展示のメインは伊皿子貝塚の貝層の剥ぎ取り断面標本で、長さは16メートルもあるらしい。


この標本を展示した当時は日本最大の剥ぎ取り標本だったらしいのですが、大阪の自宅近くにある大阪府立狭山池博物館には日本最古のため池である狭山池の堤の断面標本があり、これは長さが60メートルもあります。それを見ているので16メートルはそれほど大きいと感じませんでした。伊皿子貝塚は縄文時代後期の貝塚で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構も見つかっており、出土した土器などの遺物も展示されています。

それともうひとつ。展示室の真ん中にドカンと展示される体長9メートルのミンククジラの全身骨格標本。東京慈恵会医科大学から港区に寄贈されたとのこと。寄贈されたものの適切な保管場所がなく、歴史資料館には相応しくないのだけどやむなくここに展示した、ということかな。



考古資料としては伊皿子貝塚のほか、西久保八幡貝塚の貝層断面標本や出土品、都内最大の前方後円墳である丸山古墳からの出土品が展示されています。そして、ここの展示の特徴の一つは本物の土器を触ることができるということです。




こういった考古資料のほか、歴史資料としては近世から近代にかけての港区を中心にした江戸、東京の発展に関する資料が展示され、その中には品川台場の資料もありました。品川台場は品川区立品川歴史館にも展示されていました。





まだ4つの博物館しか見ていませんが、縄文時代や弥生時代の人はそれぞれの時代の地理や環境の中で暮していたのであって、それを今の行政区域で割って博物館を設けるとなると良く似たものになるんだろうな、というのが正直な感想です。古代の遺跡から出た石器や土器はどこの博物館も似たようなものだし、おそらくこのあと、江戸城や江戸の街に関する展示をあちこちの区立博物館で見ることになるのだろうと予想できます。

リーフレットをもらってくるのを忘れたので、また行くことになりそうです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開講から一か月

2018年05月08日 | 学芸員
 学芸員の資格取得のために履修登録した各科目の講座がスタートして約一カ月が経ちました。4月から9月(実質的に8月上旬)までに8科目16単位の取得を目論んでいるのですが、うち7科目がテキスト受講(テキストをもとに自学自習)で残り1科目がスクーリング受講(授業を受ける)となっています。そして、そのスクーリング受講が本日より始まりました。スクーリングといってもネットを通じたライブ配信授業を自宅で受けるというものなので、学校へ行く必要はありません。人生初めてのインターネット授業なので、少しばかりの緊張がありましたが、自宅で一人でパソコンに向かうのは慣れているので、緊張はしたものの集中ができ、ネットで授業を受けるのもなかなかええやん、と思った次第です。週に2回、全部で15回の授業を受けた後に試験があります。これもネット配信で行われるので、どういう試験になるのか想像がつきません。だから余計に毎回の授業を集中して聴くことになりそうです。



 テキスト受講の7科目については、まもなく第一回目のレポート提出期間がやってきます。着々と準備は進めているものの、こんなレポートでいいのだろうかと不安になって何度も何度も見直して推敲に推敲を重ねています。そしてさらにひと月後には第二回目のレポートです。さらにそのひと月後には試験と同様の扱いになる科目修得レポートの提出です。そう、レポートの嵐です。7科目×3=21のレポートを書くのです。文章を書くのは仕事で慣れているのでなんとでも体裁を繕うことはできるのですが、当然ですがそれ以上に内容が重要です。内容を充実させるためには否が応でもテキストを読まなければなりません。さらには学芸員視点でいろんな博物館を見学することも必要です。いやあ、思っていた以上に大変だ。でも、思っていた以上に楽しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする