古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古墳時代の始まりはいつ?(前方後円墳の考察⑯)

2021年09月25日 | 前方後円墳
これまで15回にわたって投稿してきた「前方後円墳の考察」シリーズですが、最後に「古墳時代の始まりをいつとするのが妥当なのか」について考えて終わりたいと思います。

弥生時代、壺形土器の供献や棺に朱を敷き詰めるなど、各地域において共通にみられる葬送儀礼が行われてきました。これは神仙思想の観念が共有されていたことによるものですが、墳墓については各地で独自のものが造られていました。しかし、弥生時代の終わり頃になると、その墳墓の形も神仙思想に基づいて壺形に収斂していくことになります。

造営時期が3世紀前半にまで遡ることが確実とみられる壺形の墳墓はどれも全長がせいぜい数十m程度で、100mを超えるものはありません。ところが、卑弥呼が亡くなったと考えられる3世紀中頃になると、纒向石塚古墳や纒向矢塚古墳がともに96mと巨大化し、さらに3世紀後半から3世紀末になると纒向勝山古墳、箸墓古墳、椿井大塚古墳、浦間茶臼山古墳など、100mを超えるものが続々と造られるようになります。(造営時期の判断が専門家によって異なる場合は保守的に見るようにしています。)

古墳時代がいつから始まるのか、については専門家の間でも議論があります。近藤義郎氏は、古墳とは「前方後円墳を代表かつ典型とし、その成立及び変遷の過程で、それとの関係において出現した墳墓をすべて包括する概念である」と規定します。近藤氏の表現は回りくどくてわかりにくいことが多いのですが、ひと言でいえば「前方後円墳が成立して以降の墳墓はすべて古墳である」ということです。つまり「前方後円墳の成立をもって古墳時代の始まりとする」ということになります。そうすると、前方後円墳の成立はいつか、そもそも前方後円墳とは何か、ということが問題になります。

近藤氏は弥生時代の墳丘墓と前方後円墳を厳格に区別して、次の4つの条件を満たすものが前方後円古墳であるとします。(筆者にて表現を簡略化しています。)

①前方後円形という型式が定まっていること。
②内部主体は長大な割竹形木棺と、それを囲う竪穴式石槨があること。
③三角縁神獣鏡の多量副葬の指向性があり、若干の武器や生産用具が副葬されること。
④底部穿孔の壺や壺形埴輪など、埴輪や土器類に象徴的な性格があること。

この条件を満たす前方後円墳の成立をもって古墳時代の始まりとして、氏はその最古級の前方後円墳を箸墓古墳としました。しかし、氏が示す4つの条件はそもそも箸墓古墳を最初の前方後円墳とするために考え出されたように感じて、邪馬台国畿内説が見え隠れします。奈良県立橿原考古学研究所では箸墓古墳の造営を西暦280~300年としていますが、最近では3世紀中頃とする専門家が増えてきており、ここでも箸墓を卑弥呼の墓にしたい意図がちらつきます。

私は、弥生時代の墳丘墓と古墳を区別する(=弥生時代と古墳時代を区別する)という意味で、前方後円墳(壺形古墳)の始まりをもって古墳時代の始まりとする考えに違和感がありません。しかし、それを区別する基準が恣意的に決められている(と思われる)ことに大きな違和感を覚えます。前方後円形の墳墓(壺形墳墓)の出現が3世紀前半であることが確実なので、これをもって古墳時代の始まりとする、すなわち3世紀から古墳時代が始まる、とするのが最もわかりやすいと思うのですが、いかがでしょうか。


以上、これで前方後円墳についての考察を終わりにします。

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主な参考文献と論文

「壺型の宇宙」 小南一郎(著)
「中国の理想郷」 井波律子(著)
「前方後円墳の出現と日本国家の起源」
  古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」編集委員会(編)
「前方後円墳の世界」 広瀬和雄(著)
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎(著)
「古代日本と神仙思想」 藤田友治(編)
「道教と古代日本」 福永光司(著)
「古墳の思想」 辰巳和弘(著)
「道教の本 不老不死をめざす仙道呪術の世界」 学研プラス(発行)
「弥生土器の知識 考古学シリーズ16」 関俊彦(著)
「唐古・鍵遺跡考古資料目録Ⅱ 土器編2(弥生・搬入・特殊) 田原本町教育委員会(編)

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壺形古墳説で疑問は解消(前方後円墳の考察⑮)

2021年09月23日 | 前方後円墳
方形や双方中円形、四隅突出形などの各地の首長墓は3世紀以降、壺形に収斂していくことになるのですが、古墳時代に見られる古墳は前方後円墳だけではなく、ホタテ貝形前方後円墳、柄鏡形前方後円墳、前方後方墳、双方中円墳など、様々な形があります。また、出現期の前方後円墳は纒向型前方後円墳とも言われます。

様々な古墳の形も壺形説を採ればある程度の説明ができそうです。ホタテ貝形は頸の部分が短い壺、柄鏡形は頸が外側に向かって湾曲せずに真っすぐに立ち上がっている壺、双方中円墳は少し大きめの台付き壺。ただし、前方後方墳はなかなか難しい。胴部が四角い立方体をしている壺があれば問題なく説明できるのですが、残念ながらそのような壺はないようです。あえて言えば、胴部が四角く見える壺ということでどうでしょうか。

弥生時代の環濠集落遺跡である奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡からは大量の土器が出土しました。田原本町教育委員会が発行する「唐古・鍵遺跡考古資料Ⅱ 土器編2(弥生・搬入・特殊)」には、それらの土器の中でも特に重要と思われるものが収録、報告されています。ここに掲載されている壺形土器の写真を様々な古墳の形状に比定してみます。(各土器の写真を転載させていただきます。)



双方中円形は少しわかりにくいですが、たとえば、岐阜県大垣市の荒尾南遺跡から出た弥生中期の台付き壺形土器を見るとよくわかります。(写真転載がNGなのでリンクを貼ります)

前方後方形はさらにわかりにくい、というよりも無理がありますが、前方後方墳は四角い壺を墳形にしたというよりも、もともと方形の墳丘墓が造られていた地域で、それを発展させる形で壺のように見せるために前方後方形に形成された、と考えることができないでしょうか。壺形古墳説を支持する方で、前方後方墳に対する見解をお持ちの方のご意見を伺ってみたいと思います。

また、唐古・鍵遺跡の遺物には双円墳の形をした壺は見当たらなかったのですが、たとえば山形県最上郡の上竹野遺跡では弥生前期のこんな形の壺形土器が出ています。(こちらも写真転載がNGなのでリンクを貼ります。)

ここまで神仙思想や卑弥呼の鬼道まで視野を広げつつ壺形古墳説を深掘りしてきましたが、このあたりで前方後円墳に対して当初より抱いていた4つの疑問点(詳しくは「前方後円墳って。(前方後円墳の考察①)」に記載)を改めて確認しながら、壺形古墳の考えに基づいて順にみていきます。

疑問点①
出現期あるいは古墳時代前期前半の築造とされる前方後円墳が全国各地に存在するのはどうしてか。各地で同時多発的に発生したのか、それとも急速に全国に広まったのか。

2世紀後半に起こった倭国大乱を収めるために神仙方術の使い手である卑弥呼が女王となりました。それまで各地域では独自の墓制を展開していましたが、ひとたび神仙思想の象徴である壺形の墳墓が生み出されると、徐福以来、各地に神仙思想が広まっていたことが素地となって急速に広まっていくこととなりました。

疑問点②
前方後方墳はどのように位置づけることができるのか。前方後円墳とはまったく別物なのか、それとも同じ由来を持つのか。

この疑問についてはまだ十分な検討ができておらず、現時点では次のいずれかの考えを持っています。ひとつは、横から見ると胴部がぼてっとした形の広口壺を原形として生み出されたのが前方後方墳で、壺形古墳の異形タイプとする考えです。もうひとつは、もともと方形の墳丘墓が盛んに造られていた地域では単純に壺形古墳を取り入れるのではなく、伝統的な方墳をベースにして壺形に発展させた形、つまり前方後方形というユニークな墳形を生み出しました。方形の墳丘墓や方墳が多くみられる出雲ではその傾向が顕著に見られます。

疑問点③
後円部のみならず前方部に埋葬施設をもつ大型古墳(たとえば仁徳陵とされる大山古墳)がいくつも存在することをどう考えるべきか。

そもそも壺形古墳は墳丘全体が壺を表していることから、埋葬施設が墳丘のどこにあってもそれは壺の中、つまりは神仙世界にあると言えます。埋葬施設が設けられるのは主に円丘部であったと言えますが、それが前方部にあったとしても、また両方に設けられたとしても何らおかしくないことだと思います。

疑問点④
大型の前方後円墳は見せるための墳墓だと言われるが、本当にそうなのか。横からの姿を見せるのであれば前方後円という形に意味がない。

そもそも壺形古墳が造られ始めた当初は、壺形であることと、それが神仙世界を表していることに意味があるのであって、誰かに見せるためのものではなかったと考えます。その後、天皇家やその周囲にいる中央の豪族、さらには地方豪族が、一定の秩序のもとで古墳を巨大化させ、葺石などで装飾を施すようになっていく段階においては、それぞれに勢力を誇示しようとしました。すなわち「見せる」という要素が加わったと考えられます。

以上、疑問点②については確たる答に至っていませんが、それを除いて「前方後円墳は壺形古墳だった。さらには、古墳時代の様々な形状の古墳はすべて壺を原形としていた」という考えで納得が得られました。







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壺形古墳の成立(前方後円墳の考察⑭)

2021年09月21日 | 前方後円墳
倭国大乱を収めるために190年頃に共立された卑弥呼は、狗奴国との戦闘を続けていた250年頃に死去しました。つまり卑弥呼は60年の長きに渡って倭国を統治したことになります。卑弥呼が倭国を統治した弥生時代後期、各地で大型の墳丘墓が築かれました。

吉備では円丘部を挟んだ両側に方形の突出部を持つ全長が70mを超える双方中円形の楯築墳丘墓が造られました。墳丘各所から壺形土器や特殊壺の破片が見つかり、突出部分には朱塗りの壺形土器が配列されていたそうです。さらに出土した木棺の底には30㎏もの朱が厚く敷かれていました。2世紀後半~3世紀前半の築造とされます。
 
丹後では、底辺が南北39m・東西36mの方形をした赤坂今井墳丘墓が築かれました。墳頂部に6基、墳丘裾に19基の埋葬施設が確認されています。碧玉製管玉・ガラス製勾玉などで構成された頭飾りが出土したことで有名で、河内や讃岐・東海のものと思われる壺が見つかっています。ここでも棺の底部に朱が敷きつめられていました。弥生後期末、2世紀末から3世紀初頭の築造とされます。

出雲には9基の四隅突出型墳丘墓をもつ西谷墳墓群があります。3号墓は方形部が東西40m・南北30m、突出部を含めた全長は50m以上になります。朱塗りの土器や山陰の壺形土器などが大量に見つかり、吉備の特殊壺も出ています。ここでも木棺内に朱が敷きつめられていました。4号墓は方形部が東西32m・南北26mで、地元産の壺のほか、吉備の特殊壺も出土しています。いずれも弥生後期後葉の築造と推定されます。

2世紀末から3世紀にかけての時期、神仙思想でまとまった倭国の各クニの王はそれぞれ独自の墓制の中で神仙思想の要素を取り入れた葬送儀礼を展開しました。さらに、各地で他の地域の壺が見つかっていることから、王たちが他のクニの葬儀に参列するという交流があった形跡が認められます。互いに争った大乱を経て、卑弥呼の統治のもとで葬儀に参列しあう関係になっていたと考えられます。

前方後円形の墳丘墓が各地で見られるようになる古墳時代がすぐそこです。「前方後円墳は壺形古墳か?(前方後円墳の考察②)」において築造時期が4世紀に下らないことがほぼ確実な前方後円墳を挙げました。以下に再掲します。(これはあくまで3世紀築造とされる前方後円墳の一部であって全部ではありません。)

千葉県市原市の神門5号墳★(3世紀前半または中葉)
神奈川県海老名市の秋葉山3号墳(3世紀後半)
静岡県沼津市の高尾山古墳★(3世紀前半から半ば)
京都府木津川市の椿井大塚山古墳(3世紀末)
奈良県桜井市にある纒向石塚古墳★(3世紀前半または中頃)・纒向矢塚古墳(3世紀中頃より以前)・纒向勝山古墳★(3世紀前半から後半)・箸墓古墳(3世紀中頃から後期)
兵庫県姫路市の山戸4号墳★★(3世紀前半)
岡山県岡山市の矢藤治山古墳(3世紀半ば)・浦間茶臼山古墳(3世紀末)
徳島県鳴門市の萩原2号墓★★(3世紀前葉)
愛媛県西条市の大久保1号墳★★(3世紀前半)
福岡県福岡市の那珂八幡古墳(3世紀中葉)
大分県宇佐市の赤塚古墳(3世紀末)

★印は3世紀前半の築造の可能性があるもの、★★印が3世紀前半あるいは3世紀前葉とされるものです。全国にはこのほかにも3世紀前半の築造とされる前方後円墳がたくさんあります。卑弥呼の死去が250年頃なので、各地にある3世紀前半の前方後円墳は卑弥呼の存命中に誕生したことになります。

方形、四隅突出形、双方中円形など、各地で独自の形であった墳墓を卑弥呼の意思のもとに壺形に統一しようとしたのか、それとも自然発生的に各地に誕生したのか。3世紀前半において少なくとも各地の首長墓が壺形に統一されていたのであれば卑弥呼の号令があったと考えることができるでしょうが、残念ながらそういうことでもなさそうです。

墳墓の形を神仙思想の象徴である壺形にした首長はどこの首長だったのかはわかりませんが、各地の首長が神仙思想の観念に基づいて行った壺の供献や棺に朱を敷き詰める儀礼も同様で、おそらくどこかの首長が始めたことが口コミで次第に、いや、むしろ急速に全国に広まっていったと考えるのが自然ではないかと思います。先に見たように、首長どうしは互いの葬儀に参列しあう関係にありました。そのような機会を通じて半世紀ほどの間に全国に広まって定着したのではないでしょうか。

壺形古墳は、亡き首長の魂を安全に祖霊界に送り出し、神仙となって安らかに永遠に生き続けて現世の人々を守り、新しい首長のもとでのますますの繁栄を支えてもらうことを祈る舞台として、これ以上のものはないでしょう。亡骸を壺形古墳に埋葬するということは、最初から神仙世界そのものである壺の中に入るということ、そして朱が敷き詰められた棺に横たえられることは不老不死の仙薬を全身にまとって眠るのと同じ。そして亡骸のそばには神仙界が刻み込まれた鏡が置かれました。鏡は辟邪のために副葬されると言われていますが、一方で、神仙と会うための呪具であったともされます。(鏡については別の機会に詳しく考えようと思います。)

また、壺形古墳には周濠が巡らされていることがよくありますが、これも神仙思想の現れで、神仙界を浮かべる東海を表出しようという意図があったのではないかとされます。ただ、この周濠については壺形古墳を造る際の副産物のようなものだったのではないでしょうか。つまり、壺形に土を盛るために周囲を掘り下げた結果、「周壕」ができます。そこに水を張れば「周濠」になりますが、壺形古墳が築かれたのは必ずしも水が容易に引ける場所ばかりではないので、あくまで水が引けた場合に限ってのことだと思います。

このようにして神仙思想の観念が反映された壺形古墳が全国に広まった3世紀中頃に卑弥呼が亡くなります。神仙方術の力で倭国をまとめ、魏との外交を推進して「親魏倭王」の称号を得た女王卑弥呼の死です。各地の首長たちが集まって立派な壺形古墳を造営し、盛大な葬送儀礼が行われたことでしょう。








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神仙思想の反映(前方後円墳の考察⑬)

2021年09月19日 | 前方後円墳
卑弥呼の鬼道は神仙思想に基づく様々な方術(神仙方術)であり、卑弥呼はその方術を駆使して人々に福を招き入れる方士であったと考えます。弥生時代から古墳出現期にかけて倭国に神仙思想が広まっていたこと、その神仙思想にもとづく儀礼が行われていたことなどを想定しうる痕跡を見てみたいと思います。

①葬送儀礼における土器供献祭祀
 弥生時代の方形周溝墓に見られる葬送儀礼における供献土器は壺が圧倒的に多いということを「祖霊と穀霊」で書きました。また、小南一郎氏の「壺型の宇宙」を通じて壺と神仙思想の強いつながりを見てきました。弥生の葬送儀礼で用いられた土器はまさに神仙思想の象徴である壺でした。そして、壺の供献はとくに弥生中期以降に顕著にみられるようになります。このことは弥生時代の中期以降、神仙思想が各地に広がっていたことの現れと言えます。

②鳥装したシャーマンの絵画土器
 奈良県の唐古・鍵遺跡や隣接する清水風遺跡、坪井・大福遺跡、鳥取県の稲吉角田遺跡、長野県の長野遺跡群東町遺跡などから鳥装したシャーマンと思われる人物を描いた土器片が出土しています。いずれも弥生時代中期以降のものです。「なぜ壺なのか」でも書いた通り、祖霊が鳥の形を取るとする伝承は世界の各地に見られるもので、神仙が鳥に姿を変えたという伝説があり、神仙思想を奉じる方士は不老長寿や羽化を成し遂げようとしたとされます。中国の後漢時代以降の地下に石で造った墓の壁面にさまざまな絵を彫った画像石には身体に毛が生え、背中に翼をもった神仙が描かれます。鳥装したシャーマンは鳥になった神仙そのもの、あるいは神仙になった首長を表していると考えられ、ここでも弥生時代中期には神仙思想が各地に定着していたことが窺えます。さらに言えば、神仙になった首長に対する畏敬の念が土器に絵を描かせたのではないでしょうか。

③葬送儀礼に用いられた朱
 丹後の大風呂南墳墓群や赤坂今井墳丘墓、出雲の西谷墳墓群、吉備の楯築遺跡など弥生時代後期の首長墓から、棺に朱が敷かれるなど葬送儀礼に朱が用いられた跡が見つかっています。朱は辰砂や丹などとも呼ばれますが、いわゆる硫化水銀のことです。墓に水銀朱が使われる風習は中国から伝わったとされますが、これも神仙思想によるもので、辰砂は不老不死の神仙になるための霊薬(仙丹)をつくる原料とされました。葬送儀礼に朱が使われたのは、魔除けや死者の再生を願ったとされていますが、死者の魂が神仙となって無事に神仙世界に辿り着いてもらいたいという意味があったのではないでしょうか。

④特殊器台・特殊壺
 弥生時代後期に吉備で生まれた特殊器台、特殊壺は首長クラスの墳丘墓で葬送儀礼に使われました。いずれも弧帯文などの文様が描かれ、朱が塗られるなど、装飾性に富んだ土器です。特殊壺は底部が穿孔されているので、弥生時代中期以降に見られる土器供献と同様の意味合いがあると考えられます。円筒埴輪の原形となった特殊器台に注目が行きがちですが、葬送儀礼においては壺の役割の方が重要で、器台はあくまで壺をのせるためのものでした。弥生時代後期になって首長の葬送儀礼に朱を塗ったり文様で装飾するなど特別な壺を用いるようになったことは、壺の重要性が高まってきたことの現れではないでしょうか。

⑤神獣鏡(画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡)
 大阪府にある古墳時代前期の前方後円墳である黄金塚古墳からは景初3年(239年)銘のある画文帯神獣鏡が出土しています。中国の後漢時代に作られた画文帯神獣鏡は神仙や霊獣の像を主文様とし、外側に飛仙などの群像を描いた画文帯をめぐらした鏡です。日本では畿内を中心に約60面が出土しています。画文帯神獣鏡と同様に出現期あるいは前期古墳から出土する鏡が三角縁神獣鏡で、その数は500面を上回ります。こちらも神仙や聖獣が刻まれ、特に伝説の神仙とされる崑崙山の西王母や蓬莱山の東王父が描かれたものがあります。景初3年(239年)、正始元年(240年)など魏の年号銘のあるもの、不老長寿・富貴栄達・子孫繁栄を願う銘文が記されたものも見つかっています。


弥生時代中期以降、徐福とともにやって来た方士たちは各地で暮らしながら、祈祷、卜占、呪術、占星術、煉丹術、医術などの神仙方術を人々に伝えたことでしょう。祈祷や呪術で禍を取り払い、福を招き入れ、医術によって病気を治し、辰砂から朱を取り出して不老不死の仙薬を作る。人々はそんな神仙方術を驚きをもって受け入れたと思います。とくに各地の首長たちは神仙の不老不死、不老長寿に大きな関心を持ったことでしょう。そして方士の説く神仙思想を受け入れた結果、神仙とみなされる鳥の姿を装い、神仙世界に通じる壺を用いた葬送儀礼を行い、棺には不老不死の仙薬の原料となる朱を敷きつめ、さらには特別な壺を生み出し、大陸からは神仙を刻んだ鏡を取り入れました。

倭国の社会、とくに首長層に神仙思想が定着する状況にあって、神仙方術の使い手であった卑弥呼は女性だったことから、神仙世界の女王的存在であった崑崙山の西王母に重ねられたことでしょう。その結果、大乱を収める女王に推挙されたのではないでしょうか。





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卑弥呼の鬼道が道教でなければ何?(前方後円墳の考察⑫)

2021年09月17日 | 遺跡・古墳
卑弥呼の鬼道は道教ではない、という結論になったのですが、それでは卑弥呼の鬼道は何だったのでしょうか。今さらですが、卑弥呼の鬼道についてWikipediaを見ると、幾つかの説があることがわかりました。

①卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を霊媒者として助ける形態とする説
②道教あるいは初期道教と関係があるとする説
③道教ではなく「邪術」であるとする説
④神道であるとする説
⑤単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという説

いずれの説もそれを主張されている専門家の論文や書籍を詳しく調べたわけではないので、以下、いい加減な話になってしまうことをご了承ください。

卑弥呼には各クニの首長が持ち得ない何らかの力が備わっていたはずで、だからこそ王となることができたのです。その何らかの力とは何だったのか。②の道教は違う、という結論になりました。

①については、霊媒者としての力、すなわち、超自然的存在と人間とを直接に媒介することができる力で、神や祖霊と対話する能力とでも言えばいいのでしょうか。井上光貞著「日本の歴史1神話から歴史へ」には「もともと呪術宗教的な権威が幅をきかす社会であったから、このような大きな変革の時代には、女子の霊媒的機能が大きくものをいった」「その結果として卑弥呼のような族長一族のシャーマンが統合の要と仰がれたのであろう」と書かれていますが、わかったようなわからない話です。

③については、超自然的な存在に訴えることによって、病気治療、降雨、豊作、豊漁などの望ましいことの実現を目ざした行為を呪術というのに対して、人を苦しめたり呪い殺したり、相手に災厄を与えるものを邪術というのですが、卑弥呼が相手に災厄を与える邪術を使って女王に共立されたとは思えません。この説を唱える謝銘仁氏の論文や書籍を読んでいないのですが、邪術ではなく呪術と解すれば納得がいきます。

④についてWikipediaによれば「神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている」となっており、神道を日本固有の宗教的な概念として捉えているようです。

⑤をWikipediaで見ると「当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味する」となっています。これだと「事鬼道、能惑衆」の意味がよくわからなくなります。


魏志倭人伝には「事鬼道、能惑衆」と記されますが、この部分が後漢書では「事鬼神道、能以妖惑衆」となっています。「鬼道」ではなく「鬼神道」です。これは後漢書の作者である范曄が先に書かれていた倭人伝を参照した際にわかりやすい表現に変更したことによるとされます。中国では「鬼」は「死者の霊魂」のことを言い、孔子は「論語」において「鬼神」を祖先の霊、あるいは祖先以外も含む死者の霊という意味で使っています。春秋時代の「国語」魯語では「鬼道」が「人道」と並列的に使われ、前漢時代の「説苑」では「鬼道を以て聞こゆ」とされた客人が耦土人(どぐう=泥人形)と木梗人(もっこうじん=桃木の木偶)の会話を聞き取ることがき、それが神の啓示の役割を果たしたという内容が記され、ここでは「人事」に対して「鬼道」が使われています。

司馬遷の「史記」封禅書にも「鬼道」が登場します。方士の謬忌(びゅうき)が言った言葉に「天神の貴き者は太一なり、太一の佐を五帝と曰う。古は天子、春秋を以て太一を東海の郊に祭り、太牢を用う、七日、壇を為り、八通の鬼道を開く」というのがあります。太一は天の中心にある北極星を神格化した天神で、ここで使われている「鬼道」は、天神である太一をも含めた鬼神たちのやってくる道(道路)という意味です。「東海の郊に祭り」からは神仙界が想定されます。

ここまでの「鬼道」という言葉には、死者の霊と通じる、霊魂と対話する、死者の霊を迎える、というようなニュアンスが読み取れ、さらには神仙思想の要素が含まれているように感じます。

道教とは(前方後円墳の考察⑨)」で書いた通り、五斗米道を興した張陵の孫に張魯がいます。「後漢書」劉焉伝には、この張魯の母親が息子の張魯の出世のために上司である劉焉をたぶらかす目的で「鬼道」を操る様子が記されます。さらに「三国志」魏書公孫陶四張伝には、張魯は出世させてもらった劉焉に抗い、子である劉璋にも従わず、その結果、母親が殺されたとあります。張魯はさらにその後に師君と名乗って「鬼道」を民衆に教えたとも記されます。

「鬼道」を利己的な目的で使うとか、一般民衆に教えるとか、それ以前のものと何かイメージが違ってきているように感じます。やはり卑弥呼の「鬼道」は道教ではないと考えます。

「鬼」「鬼道」について、「前方後円墳の出現と日本国家の起源」に収録される大形徹氏の論を参照して整理しましたが、私の考えを結論的に言うと、卑弥呼は、人々から禍を取り除き、福を招き入れる能力や、人々を不老長生に導く力を持った「方士」ではなかったか、ということになります。方士とは道教が成立する以前の修行者で、祈祷、卜占、呪術、占星術、煉丹術、医術などの神仙方術の使い手です。私は、この神仙方術が卑弥呼の「鬼道」であったと考えます。

倭国に神仙思想が伝わったのが秦の時代で、徐福および徐福が連れてきたであろう多くの方士が各地に留まって神仙思想や神仙方術を伝えました。卑弥呼は彼らの末裔ではないでしょうか。









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卑弥呼の鬼道は道教か?(前方後円墳の考察⑪)

2021年09月15日 | 前方後円墳
卑弥呼の鬼道が道教であった可能性はあるのでしょうか。卑弥呼が女王として共立されるに足る力、すなわち、道教の教えを会得し、修行を積み、様々な術を実践できる力を持っていた人物であったかどうか、ということです。

道教ではこのような力をもった人に様々な呼称をつけています。「道士」とは出家を原則として道教の教えを極めようとする修行者で、仏教でいう僧にあたります。これに対して「巫祝(ふしゅく)」はもともと雨乞いの祈祷師であったり、神憑りをして神意を伝えたりする特殊能力をもった呪術者です。また、「童乩(タンキー)」は信者の悩みや願いを聞き、解決に導く役割を果たす人で、神の霊を自らの体に降ろして異言を吐いて問題の処理を行います。女性の童乩は「紅姨(アンイイ)」と呼ばれます。卑弥呼の鬼道は巫祝または紅姨のイメージになるでしょうか。

後漢書によると倭国大乱の時期が桓帝・霊帝の間、すなわち148年から189年となっていますが、先に見た通り、この時期はまさに道教の勃興期にあたっており、道教の二大教団である五斗米道や太平道が興って隆盛を極めた時代に重なります。徐福以来、すでに倭国には神仙思想が広まっていたとは思いますが、この時期に早くも道教が倭国に伝わっていたとは考えにくいです。そんな時代にあって倭国大乱を収めるために女王として共立された卑弥呼が「道士」「童乩」「紅姨」といった立場で道教と関わりを持っていたのでしょうか。

卑弥呼が中国人だとすれば、中国で道教をマスターして倭国にやってきた、たとえば、184年に起こった黄巾の乱を逃れてやって来た、あるいは道教を布教するために倭国に送り込まれた、といった可能性はあるでしょう。しかし倭人の言葉を話せない卑弥呼が自らの持つ道教の力を倭国の首長たちに知らしめて190年頃に女王として共立されるにはあまりに時間がなさすぎます。逆に卑弥呼が倭人だったとすると、そもそも中国で道教を学ぶ動機がないし、仮に中国に渡ったとしても言葉や文字の壁があるため、それほど短時間で会得することは不可能と思われます。

つまり、中国において道教が成立して隆盛した時期(太平道や五斗米道が成立した時期)と倭国大乱から卑弥呼共立に至る時期がリアルタイムに重なっていることが、卑弥呼が道教の力をもって女王に共立されたと考えることを困難にしているのです。百歩譲ってその可能性があったとしても、黄巾の乱の鎮圧にあたった曹操が道教を認めるとは考えにくい。つまり、道教を奉じる卑弥呼を親魏倭王に任じることはあり得ないと思います。

曹操は184年に起こった黄巾の乱において、潁川(えいせん)の黄巾賊を討伐した功によって済南国の相(行政長官)に任じられていますが、宗教が民衆の心をつかんで狂信的になることの怖さを知っていた曹操は、済南付近に600余りあった前漢の城陽景王劉章の祠や桓帝が老子を祀った濯竜宮などを破壊しています。道教についても、五斗米道の信者は四川の根拠地を追われて中国の南北に散らばることになり、また、道士を集めて厳しく監督したそうです。

以上のことから、卑弥呼の鬼道が道教であったと認めることはできないと考えます。また、道教が神仙思想を取り込んだのが葛洪の抱朴子以降、つまり4世紀以降のことなので、仮に卑弥呼が道教を会得していたとしてもそこに神仙思想の概念は包含されていなかったことになります。






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祖霊と穀霊(前方後円墳の考察⑩)

2021年09月13日 | 前方後円墳
日本においても、弥生時代の墓制である方形周溝墓から葬送儀礼に使われたとされる土器が出ます。供献土器と呼ばれるものです。弥生土器には壺、甕、鉢、高坏など様々な種類がありますが、この供献土器に使われた土器は壺が圧倒的に多いとされます。供献土器は「稲魂」を入れる器として墳墓に供献されたという解釈や、穿孔や欠損が認められる土器が多いことから、葬送儀礼の際に飲食物を入れたり、煮炊きするために使用され、葬儀が終了した後に廃棄されたとする解釈がなされています。

ここまで詳細に参照させていただいた小南氏の論文は「穀物倉と祖霊」という章で締められています。中国南方では食物を主要な媒体とした死者祭祀があり、たとえば近年の蘇州では、出棺が終わった後、テーブルの傍らにぶらさげた小さな壺に米粒を入れる「萬年糧」と呼ばれる儀式があるそうです。これは古くより今に至るまで、壺に入った穀物が依り代として用いられてきたことの現れとされますが、壺は穀物の貯蔵容器であり、その中に貯蔵されている穀物と一体になって依り代としての機能を果たしていると考えられます。

また、古代中国の墓葬の中から多くの陶製の倉庫の模型が発見されています。たとえば、河南省南部の南陽地区を中心とした後漢墓から出土する陶製の壺の蓋の部分には神仙世界など、彼岸の世界を表した文様が施されています。さらに、先に見た三国時代から西晋時代にかけての神亭壺が穀倉と呼ばれることもあり、その伝統を受けた唐代の陶罎(罎は酒を入れる容器)には骨灰とともに穀物を入れたものがあります。宋代の多嘴壺には明らかに穀物倉庫を模したものがあり、元の時代には倉庫の模型に死者の墓誌が描かれた例もあり、倉庫と死者の魂を一つに結び付ける宗教的観念の存在が推定されます。

以上のように、中国における葬送儀礼の中で倉庫の模型が重い意味を持ったことが窺われ、穀物倉庫が単に穀物の貯蔵場所であるだけでなく、それが穀霊の留まる場所であり、同時に祖霊もまたそこで安らいでいるとの観念があったことが推定され、さらにその根源を遡って考えれば、祖霊をめぐる信仰習俗的な観念と穀霊をめぐる観念との間に共通性や重複性があったと想定できます。

小南氏はまたミャンマー国境に近い山地に居住する少数民族の阿昌(アチャン)族の例も挙げます。阿昌族の原始宗教の観念では、稲も魂を持っており、それは稲から離れることができます。穀霊が離れてしまうと苗はうまく育たず、籾の入りが悪く、倉に取り入れた後も食べるに堪えないものとなります。彼らは種子を撒くとき、田植えをするとき、秋の収穫のときにはそれぞれに穀霊を祭ります。たとえば収穫祭では穀霊を持ち帰って翌年の田植えの時期まで倉庫で休ませます。倉庫はそこに穀霊が留まっていることが重要でした。この儀礼は種籾とそれを納める壺の関係に起源があると推定されます。壺の中の種籾は聖別され神格化されて鄭重に保存されていました。

壺の中に宿る穀霊は祖霊たちとその性格が近いものがあったのです。死者の霊は時間の経過とともにその個性を失って祖霊一般の中に溶解していくのですが、そのようにして人間的個性を失った遠い祖霊は穀霊と重複する性格を濃厚に備えていました。農耕儀礼と祖先祭祀が不可分に結合しているのは日本の場合だけではないということです

一年の農耕の始めに農耕神と祖霊を祭り、収穫祭も祖霊祭と重なり合っているというのは、祖霊と穀霊の基本的な性格に共通する所があったからです。現代の我々も祖先の祭りを一年を単位として定まった月日に行っていますが、よく考えればその月日に祖霊の祭祀を行う必然性は何もないのです。毎年同じ季節に祖霊祭祀が行われてきたことの背後にも祖霊と農耕神とを同一視する観念が働いているのです。


ここまで、小南氏の論文をほぼ転載する形で紹介しながら神仙思想と壺の関係を見てきました。私は氏の論をほぼそのまま受け入れることができそうです。私なりに次のように整理しました。

壺は人々の生死を左右すると言っても過言ではない穀霊が安らぐ場所であり、同時にまたこの世に生きる人々を守ってくれる祖先の霊が集う場所でもあった。古代の中国では穀霊も祖霊も人々が生きていくための拠り所として同一視された。そして、古代中国の葬送儀礼では祖霊の集う世界に死者の霊を送るために壺を墓中に埋めた。穀霊が安らぐ場所でもある壺は、現世と来世をつなぐ役割を果たし、神仙思想において死を経ずして祖霊となった神仙が住む世界と考えられるようになった。


冒頭の弥生時代の供献土器についても祖霊を穀霊と同一視する考えに立てば容易に理解できます。さらにこの供献土器による祭祀が行われた弥生時代、すでに徐福によって神仙思想が日本にもたらされていたと考えられるので、供献土器に用いられる土器として主に壺が用いられたのです。

さて、いよいよ卑弥呼の鬼道や前方後円墳について具体的に考えていきたいと思います。







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道教とは(前方後円墳の考察⑨)

2021年09月11日 | 前方後円墳
卑弥呼の鬼道は道教だった、とする考えがあります。ここではまず道教について整理をしておきます。

道教の源流は、春秋戦国時代の諸子百家の一つである老子・荘子の思想(老荘思想)に求められます。老荘思想は道家の思想とも呼ばれ、「道(タオ)」は天地よりも先にあって、すべてのものを生み出す根源であり、人間の知恵を超えた、世界を支配する根本原理であると説きます。この老荘思想を中核として神仙思想、易、陰陽、五行、讖緯、占星、医学などを加え、仏教の組織や体裁にならってまとめられた不老長生を主な目的とする宗教が道教で、後漢末期に相次いで現われた「太平道」と「五斗米道」の2つの教団がその始まりとされます。

太平道は、山東省の干吉(かんきつ)が神人より授けられたと伝えられる「太平清領書」を教典とする教団組織で、後漢の霊帝(168~189)のときに河北省南部出身の張角が創始しました。張角は病人に対して自分の罪を悔い改めさせ、符水を飲ませ、呪術を行って治癒を行うという医術を用いて教説を流布し、わずか10余年で数十万人の信者を集めました。

大衆の心を掌握し、政治色を濃くしていった太平道は数十万の信者を軍事組織化していきます。そして甲子の年にあたる184年、教団による武装蜂起を図り、中国で初めての大規模な宗教反乱である黄巾の乱を起こしました。この乱は黄河中下流域を中心に急速に広がりましたが、組織力の弱い寄せ集め部隊であったこと、密告者が出たこと、張角が病死したことなどにより、その年のうちに主力部隊を失い、教団は急激に衰退することとなります。

のちに魏の王となる曹操は、主力部隊のひとつである潁川(えいせん)の黄巾賊を討伐した功によって済南国の相(行政長官)に任じられます。また、192年には最強の残党であった青州・徐州黄巾軍30万人を鎮圧しました。しかし結局のところ、この反乱は後漢の衰退を招き、魏・呉・蜀が鼎立する三国時代に移る一つの契機となりました。

ちなみに、この黄巾の乱と同じころ、倭国では大乱を終息させるために卑弥呼が女王に共立されています。

さて、もう一方の道教教団である五斗米道ですが、こちらは太平道に少し遅れて、江蘇省の張陵(張道陵)が「老子道徳経」を基本にして起こした道教教団で、教団名は信者に五斗の米を納めさせたことに由来します。張陵、張衡、張魯の3代にわたってこれを伝えたので後に「三張の法」と称されます。その教説は太平道と同様に病気治癒を重視して、自己の罪を告白、懺悔させるというものでした。

3代目の張魯が張陵を「天師」として崇めたことから、後に「天師道」と呼ばれることになりますが、この張魯のときに魏の曹操によって四川の根拠地を追われ、信者は中国の南北に散らばることになります。その後、張氏の統制を失くしてからは徐々に分散し、呪術化、迷信化の傾向に拍車をかけ、神仙説をも吸収していきます。そしてのちに「正一教」と名を変えて現在に至っています。

以上、道教の成立について確認しましたが、ふたつの教団のいずれもが病気治癒を布教活動の中心に据えていましたが、ほとんど医学の進んでいないこの時代にどれだけの病気治癒ができたのでしょうか。おそらく風邪や腹痛など、安静にしていれば自然に治癒する病気が大半だったのでしょう。数日間の呪術を施し、治癒すれば呪術のおかげで、治癒しなければ本人の行いが良くないからとして、呪術者には責任が及ばないようにして、実は自然治癒するケースがほとんどであったと思われます。それでも何もわからない民衆は呪術のおかげと考えて信者になっていったのでしょう。

さて、老荘思想を源流として始まった道教が神仙思想を取り込んだのはいつ頃のことでしょうか。島根県立大学「総合政策論叢第1号」に収録される陳仲奇氏の論文には、東晋の葛洪が著した「抱朴子・内篇」に至って道教理論として神仙説が確立された、とあります。葛洪が抱朴子を著したのは317年頃とされており、厳密にいえばそれまでは道教と神仙思想は全くの別物であったということになります。








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なぜ壺なのか(前方後円墳の考察⑧)

2021年09月09日 | 前方後円墳
小南氏は「祖霊が鳥の形を取るとする伝承は世界の各地に見られるものであって、人類共通の祖霊についての基礎的な観念」とします。中国では神仙が鳥に姿を変えたという伝説があり、これを宗教的観点から、仙人という存在は「死を経過せずして祖霊になった人々であり、しかも祖霊になりながらもその個性を失うことのない霊魂」と推定します。そして、現実世界と隔絶して存在する神仙世界は、元来は死後の霊魂が集う祖霊たちの世界に起源があるとしています。つまり、死者の魂は壺を経過して祖霊たちの世界に行くという概念(信仰)が存在したことが想定されるということです。このことを示唆する遺物を中国における古代の墓葬にたくさん見つけることができます。

祖霊が鳥の形を取るという話については日本においても、奈良県の纒向遺跡や大阪府の池上曽根遺跡では鶏形木製品が、奈良県の唐古・鍵遺跡や清水風遺跡、鳥取県の稲吉角田遺跡では鳥装したシャーマンとみられる人物が描かれた絵画土器が見つかっています。また、唐古・鍵遺跡では楼閣の屋根にとまる鳥が描かれた土器が出ており、佐賀県の吉野ヶ里遺跡ではこれを模したように環濠入口にあたる門の上や復元された建物の上に鳥形の木器が設置されています。通常、これらは穀霊信仰と結び付けて考えられています。

話を戻します。古代中国の墓葬における壺の役割を示唆する例を以下に4つ挙げてみます。特に②以降は実際の壺が葬送儀礼の中で重要な働きをもったことを示唆する例となります。

①馬王堆前漢墓から出土した帛画(前漢時代、湖南省長沙市)
帛画とは絹布に描かれた絵画のことで、馬王堆墓の帛画には死者が壺の口を通って地上界から天上世界に上ることを思わせる様子が描かれています。

②戦国時代から前漢時代にかけて、広東を中心とする地域の墓
墓壙の真ん中あたりの底にさらに深く掘り込んで穴を作り、その中に大きな陶瓮を埋め込んだ墓がいくつも見られます。殷の大墓などに見られる「腰壙」の伝統を留めたものと考えられます。腰壙にはしばしば犬が入れられますが、中国において犬は死者の魂を彼岸の世界に案内すると考えられました。

③三国時代から西晋時代にかけて、長江下流域の墓
神亭壺(しんていこ)や魂瓶(こんべい)と呼ばれる特殊な壺を納めている墓があります。壺の上部には死後の世界を表したものと考えられる複雑な建物、鳥や動物、人間などが付加されています。音楽を演奏する人や雑技をする人などが見られることから、死後の世界が楽園と考えられたようです。一方の下部の胴体部分はいくつもの穴が開いていて蛇などがもぐり込んでいる様子から大地を表していると考えられます。つまり、この壺は現世である大地と死後の世界を併せ持っていることから、この世とあの世を疎通させる機能があり、死者の魂はこの壺を通って祖霊たちの世界に行くと考えられます。

④後漢時代、陝西省から河南省西部一帯の地域の墓
朱書あるいは墨書のある壺が納められた墓が見られます。朱書や墨書の内容は様々ですが、いずれも、死者の魂がしかるべき所に落ち着き、子孫たちの生活が安寧であるよう祈るものになっています。また、「瓶を過ぎて到る後は」という表現が見られるものがあり、死者の魂がこの瓶を通過して死後の世界に行くと考えられていたことが窺われます。西域に近い地域ではもう少し後の時代までこの風習が続いたようです。

以上のように、中国では戦国時代以降の葬送儀礼において、墓中に納められる壺や瓶などが大きな役割を果たしてきました。それは死者の魂を祖霊たちの世界に渡すための仲介物であり、この世とあの世を結びつける橋の役目を果たすものであったと考えられます。


神仙思想と壺の関係について小南氏の論文に沿って整理してきましたが、神仙思想がなぜ壺と密接な関係があったのか、なぜ壺が神仙思想を象徴するものであったのかということについて、今回の記事の冒頭で見たように「神仙が祖霊としての性格を持っていたこと」と「葬送儀礼における壺の役割」を併せて考えると、なぜ壺だったのか、という問いに対する答えが出たように思います。







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壺は神仙思想を象徴するものだった(前方後円墳の考察⑦)

2021年09月07日 | 前方後円墳
神仙世界の山が壺形をしているとされた2つの例を見てみます。ひとつは前回取り上げた「列子」湯問篇の終北の国の壺領の記事です。領とは「嶺」つまり山のことです。

四方が平坦で外側を高い山々が取り巻いている終北の国には、中央に壺領という名の山があり、その形は甔甀(※1)のようで、頂上に円い環の形をした口があります。その口からは水が湧き出して4つの谷川に分かれて流れ下り、国中を巡っています。人々はこの川の流れに沿って住んでいます。温和な気候で、横死したり病気にかかる人もなく、人々の性格は素直で従順、競ったり争ったりする者はいませんでした。喜びや楽しみはあっても、老いや悲しみ、苦しみはなく、皆が音楽を好んで手を取り合って歌います。お腹が減り、疲れたときに神瀵(※2)を飲むと力も気力ももとに戻ります。

列子は終北の国をユートピアとして描きました。老いることがなく、病気をすることもなく、まさに神仙世界をイメージできます。そのユートピアの中央には壺領と呼ばれる山がそびえ、甔甀の形、つまり壺の形だと形容され、その壺形の山から流れ出る神瀵がそのユートピアの根源になっています。ここに現実を越えた理想の世界と壺形の器との密接な結びつきを見ることができます。

※1
甔(たん)は「詹+瓦」で大きな瓶を、甀(つい)は「垂+瓦」で口が小さい壺を意味します。

※2
瀵(ふん)は「シ+糞」で、水が地下から噴き出すことを意味します。



ふたつ目、最古の地理書とされる「山海経」の海外北経に登場する「鍾山(しょうざん)」も同様の例と考えられます。前漢時代に書かれた「淮南子」に「鍾山は毘侖なり」という文があります。毘侖は崑崙山のことで、先に見た壺領と同様に4つの川が流れ出ているとされます。小南氏によると、大地の中央にある高山から四方に向かって4つの川が流れ出ているとする地理観は世界各地の神話に見られることで、大地と天を結ぶ宇宙山の特徴的な形態だといいます。崑崙山は中国における宇宙山の代表格で、「淮南子」では鍾山はその崑崙山と同じであると言っているのです。そして、六朝期に成立した「海内十洲記」において鍾山は次のように記されています。

山には玉芝や神芝が40余種自生しています。上部は天地根源の気が宿り、天帝が統治を行う金臺(きんだい)や玉闕(ぎょけつ)があります。四方には天帝の直轄になる4つの山があり、どれも鍾山より高く、それぞれに宮殿や城が5つあります。仙人や真人が山に出入りする際に通る道があり、鍾山の北の峰の門外に通じていて、天帝がここで宇宙を統治しているので、これ以上に高貴なところはありません。

この山の名である鍾山の「鍾」は胴がふくらんだ青銅製の壺のことで、酒や水をいれる容器として使われました。「海内十洲記」に描かれる世界は容易に神仙世界をイメージできるので、壺と神仙世界を関連づける観念から、この山を鍾山と呼ぶようになったと考えられます。


さて、ここまで小南氏による「壺型の宇宙」に沿って、山に見立てられていた神仙世界が壺に見立てられるようになったこと、その壺の中には神仙世界が広がっていること、また、神仙世界を想定しうる理想郷には山に見立てた壺があること、などを見てきました。神仙思想にとって壺が必要不可欠な存在であること、壺が神仙思想を象徴する存在であること、などが確認できました。

では、なぜ壺だったのでしょうか。なぜ壺という容器が神仙思想の象徴となったのでしょうか。引き続き「壺型の宇宙」を見ていきたいと思います。

※なかなか壺型古墳に行きつかない(汗)







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神仙思想と壺の関係は?(前方後円墳の考察⑥)

2021年09月05日 | 前方後円墳
前回は神仙思想のごくごく基本的なことに加えて、日本における徐福伝説について確認しました。今回は神仙思想と壺の関係について調べてみました。ここでは京都大学学術情報リポジトリに収録されている小南一郎氏の「壺型の宇宙」という論文が大いに参考になりました。氏は中国の数ある文献や遺物などを丁寧に取り上げて神仙思想や道教と壺の関係を論理的かつ明快に論じています。今回は氏の論文をもとに整理しようと思います。

神仙思想と壺が密接な関係にあることを端的に表している例として、晋の時代に葛洪が著した「神仙伝」巻5の壺公の話があります。

汝南の市場の役人に費長房という者がいました。費長房は、市場で得た利益を貧しい人々に分け与える薬売りが夜になると壺の中に跳び込むのを見ました。その薬売りはただ者ではないと思い、それ以降、ひたすら奉仕に勤め、壺の中へ連れて行ってもらいたいと願い続けたところ、ある日、壺の中へ行くことを許されました。薬売りに続いて壺の中に跳び込むと、そこは神仙たちの宮殿の世界が広がり、高殿や幾重もの門、渡り廊下や宮殿が立ち並び、左右に数十人の侍者が待っていました。その薬売りは実は仙人だったのです。費長房はその後、この仙人について修行を重ねて様々な神術を会得しました。

また、時代が下って北宋のときに書かれた「雲笈七籤(うんきゅうしちせん)」巻28の「雲臺治中録」にも次のように同様の話が書かれています。

施存という道士が五升ほどの大きさの壺をぶらさげておいて、夜はそこに入って寝ていたが、その壺の中は一つの天地をなし、この世界と同様に日月が備わっていました。

これらの説話から神仙世界や別世界を意味する「壺中之天」や「壺中日月」という語が生まれました。また、もともとはつながりのなかった神仙思想と壺が時代を経るにつれて深い関係になっていった状況を以下に確認します。

①「史記」封禅書(前漢時代)
 斉の威王・宣王や燕の昭王など、多くの主君たちが人を遣わして不老不死の薬を求めた東海の三神山は「蓬莱」「方丈」「瀛洲」と記されていて、ここではまだ壺との関係は見いだせません。

②「史記」孝武本紀(前漢時代) 褚(ちょ)少孫による補記。
 方士の助言で建てられた「建章宮」の池の中に浮かぶ海中の神山として「蓬莱」「方丈」「瀛洲」のほか4つ目として「壺梁」という山があると記されます。この記事は、中国の庭園造営のひとつの起源が神仙世界を模することにあったことを示唆する記事です。ここで初めて壺が登場しました。

③「列子」湯問篇(魏晋時代)
 渤海の東方にある神山は本来「岱輿(たいよ)」「員嶠(いんきょう)」「方壺」「瀛洲」「蓬莱」の5つでしたが、その後「岱輿」と「員嶠」は北極に流れていって大海に沈んでしまった、と記されます。ここでは「史記」で「方丈」と記された神山が「方壺」となり、ひとつの山が壺に入れ替わっています。
 3つだったはずの神山が5つになっているのは、後漢時代以降の五聯壺に見えるような配置の五神山の観念と古くからの三神山の観念が重ね合わせてできあがった話だろうとされます。
 ちなみに「列子」は中国戦国時代の道家的思想家である列子が著したとされる書物ですが、実際のところは、その後数百年にわたって折々の人が「列子」的だと考えた言葉や説話をそのなかに取り込んで魏晋時代にできあがったものだろうとされています。

④「王子年拾遺記」(東晋時代)
 三壺とは海中の三山のことで、第1を「方壺」といい「方丈」のこと、第2を「蓬壺」といい「蓬莱」のこと、第3を「瀛壺」といい「瀛洲」のこと、と記して、ここで三神山のすべてが壺の字を付けて呼ばれるようになります。

このように東海の三神山は時代を経るにつれて壺との関係が深くなります。小南氏は、壺形であることが神仙世界に属する存在であることを端的に象徴すると考える観念が次第に顕著に現れてきた、とされます







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徐福が実在したとすれば(前方後円墳の考察⑤)

2021年09月03日 | 前方後円墳
徐福に関する伝承は、私が書籍やWebサイト(できるだけ公的な機関によるもの)で伝承の内容まで確認できたものだけでも、以下の通り、北は青森県から南は鹿児島県まで、日本海側、太平洋側を問わず日本全国で30か所以上になります。★印は徐福一行が上陸したという言い伝えが残るところです。(これを調べるだけで結構な時間がかかりました。)

・青森県 北津軽郡中泊町★
・秋田県 男鹿市
・東京都 八丈島★
・山梨県 富士吉田市、南都留郡山中湖村、南都留郡富士河口湖町
・神奈川県 藤沢市、秦野市
・愛知県 名古屋市熱田区、豊川市
・三重県 熊野市★
・和歌山県 新宮市★
・京都府 与謝郡伊根町★
・広島県 佐伯郡宮島町
・高知県 高岡郡佐川町、土佐市、須崎市★
・山口県 豊浦郡豊北町★、熊毛郡上関市
・福岡県 筑紫野市、八女市★
・佐賀県 佐賀市、佐賀郡諸富町★、武雄市、伊万里市★
・長崎県 松浦市
・宮崎県 宮崎市、延岡市★
・鹿児島県 いちき串木野市★、南さつま市

徐福は秦の時代の方士で、本名は徐市(じょふつ)といいます。中国にあっても伝説の人物とされていましたが、1982年に江蘇省で徐福生誕の地とされる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、現在では実在した人物とされています。また、徐福村の発見がきっかけとなって中国各地から徐福の末裔が名乗りを上げ、いくつもの徐氏一族の系図の存在が明らかになりました。

司馬遷の「史記」には徐福が4カ所に登場しますが、それによるとどうやら徐福は日本に2回やってきています。一度目は神薬を得ることができずに帰国して始皇帝の怒りを買います。それでも懲りずに二度目の派遣を認めさせて日本を再訪し、そのまま日本に住むことになったということです。日本各地の伝承はおそらくこの2回目の来訪が下地になっていると思われます。(そもそも1回目は費用だけせしめて出航しなかったという説もあります。)

また、徐福の時代から約500年後に書かれた「三国志」呉書の呉王伝・黄龍2年(230年)には、秦の時代に徐福が渡海した話とともに、このときに徐福と一緒に海を渡った人々の子孫のことが記されています。

以上のことから、日本における徐福伝説もまったくの作り話ではなく、何らかの史実や根拠に基づいて生まれたものと考えることができそうです。つまり、徐福は日本へ来たということです。ただし、すべての伝承地に徐福が来たわけではなく、船団からはぐれた船が漂着したとか、別動隊として派遣されたというケースもあったと思われます。なかには徐福と関係のない中国船が漂着したこともあったかも知れません。徐福一行の渡航ルートを上記伝承地の上陸地点(★印)から想定してみると、メインつまり本隊のルートは「佐賀→鹿児島→宮崎→高知→和歌山→三重→愛知→神奈川」という九州を西から回り込んで太平洋を進むルートが浮かび上がり、別動隊は「山口→京都→秋田→青森」という日本海ルートが見えてきます。

数千人の童男童女を上陸した各地で下船させて、その地で住まわせたことでしょう。前述の呉書には「代々続いて数万家になっていた」と書いてあります。つまり、西暦230年の時点で彼らの子孫が数万家の世帯を構成するまでに増えていたということです。彼らが様々な知識や技術を伝えたことが各地の伝承からわかっていますが、何よりも徐福は方士です。始皇帝の命を受けて不老不死の仙薬を求めてやってきたのです。当然のことながら、一行の中に多くの方士がいたことでしょう。そうです。徐福がやって来たことによって、日本の各地に神仙思想が知れ渡ることになったのです。秦の時代である前3世紀後半、つまり弥生時代前期終わり頃あるいは中期の初め頃、すでに神仙思想が日本に伝わっていたということ。そして約450年後の西暦230年、まさに卑弥呼の時代になると、徐福とともにやってきた方士たちの多数の子孫が各地で暮らしていたことになります。







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まずは神仙思想から(前方後円墳の考察④)

2021年09月01日 | 前方後円墳
卑弥呼の鬼道とは何かを考えるにあたって神仙思想についてほんの少しだけ知識を得たので、整理の意味で書き留めておきます。

司馬遷による「史記」の封禅書に神仙思想のもとになった神仙説についての最古の記述があります。戦国時代の斉の国の威王とその子の宣王の時代(紀元前4世紀)に、渤海湾に臨む山々を祀る八神の信仰が興り、この八神の山を祀る巫祝(ふしゅく)によって三神山伝説が生み出されました。三神山とは蓬莱、方丈、瀛州で、渤海湾には人間の住む世界とは異なった仙境が想像されたようです。三神山には多くの仙人(神仙)がいて不死の薬があるといいます。しかし、人間が来るのを嫌がって船が近づくと風を吹かせて船を追いやります。三神山にある宮殿はすべて金銀でつくられ、鳥や動物はみな白い色をしています。遠くから見ると雲のように見えるけれども、近くへ行くと水の下にあるように見えるといいます。この神仙説を広めた人々は方士と呼ばれました。

神仙説は人間の永遠の願望である不死を説くところから戦国時代以降の諸侯をひきつけました。とくに燕の昭王、斉の威王や宣王、秦の始皇帝、漢の武帝は心をひかれたようです。秦の始皇帝は徐福(本名は徐市)に童男童女数千人を伴わせて蓬莱山へ不死の薬を求めに行かせました。漢の武帝は李少君(りしょうくん)の言に従って竈を祀り、鬼神を信じ、丹砂(硫化水銀)やその他の薬剤によって黄金の飲食器をつくって長生を図り、蓬莱の仙人に会って不死の薬を得ようとしました。

神仙思想はこの神仙説をもとにした思想です。人の命が永遠であることを不老不死の仙人(=神仙)に託し、多くの神仙たちを信仰し、海上の異界や山中の異境に神仙が住む楽園があると考えました。そして、自らも不老不死を手に入れて神仙になることを求めたのです。この神仙思想はやがて道教の要素として取り入れられていきます。

さて、道教や神仙思想のことはよくわかっていなくても、徐福伝説はよく知られた話です。上述の通り、秦の始皇帝が蓬莱山にあるという不老不死の薬を手に入れるために徐福とともに数千人の童男童女を派遣したという話ですが、この話が日本でよく知られているのは、その徐福が上陸した、あるいは住んでいたという伝承が日本各地に残っているからです。この機会に日本各地の徐福伝説を確認しておこうと思います。







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